ウォルター・スコット

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ウォルター・スコット

初代准男爵サー・ウォルター・スコットSir Walter Scott, 1st Baronet, 1771年8月15日 - 1832年9月21日)は、スコットランド詩人作家歴史小説作家として名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた、初めての人気作家といえる。

生涯と作品[編集]

1771年、エディンバラに生まれる。幼3歳の時に小児麻痺で左足を不自由にし、療養のためロクスバーグ州のスメイルホルムという農村にある祖父の家で過ごし、このスコティッシュ・ボーダーズ地域で古い史譚やバラッドを楽しみとした。1778年にエディンバラのハイスクールに入学、語学を得意とし、文学と歴史に関心を持った。20歳の時にエディンバラ大学に入学、法学を学び、学生時代はイタリアの詩人の作を耽読した。健康のために大学を中退して、父の法律事務所で働き、1792年に弁護士資格を得る一方で、地方の伝説やバラッドなどの蒐集に励んだ。

ゲーテブュルゲルシラーなどドイツロマン派文学に惹かれ、1796年にブュルゲルの翻訳を出版。次いで『ミンストレルジー・オブ・スコティッシュ・ボーダー』を出版する。1797年にカンバーランドフランスからの亡命者ミス・シャーロット・シャーパンティアに出会って結婚して、この地に住み、翌年にはエディンバラ南のラスウェイドに移った。また1804年にスコットランド旅行中のウィリアム・ワーズワースに知り合い、以後終生の友人となる。弁護士を続けながら、1804年から1812年までシェルカーク州ツイード河畔エトリック・フォレストアシェスティールの農家に住み、出版事業を営むジェームズ・バランタインに協力し、この地方の民謡を出版する。1811年にアボッツフォドの邸宅を購入。この頃は、スコットランド最高民事裁判所の高級書記官、セルカーク州の司法行政長官も務める。1805年に発表した物語詩『ザ・レイ・オブ・ザ・ラスト・ミンストレル』が大成功となり、続いて『マーミオン』『湖上の美人』などを発表。

1813年にヘンリー・ジェイムズ・パイの後を受けて桂冠詩人に擬せられたが、これを辞退して後輩のロバート・サウジーを推薦した。散文として書いた『ウェイヴァリー』を1814年に無署名で発表すると、一層の評価を得て、以後次々と歴史小説を発表。これらの作品は「ウェイヴァリー叢書」とも呼ばれる。1820年にジョージ4世からサーの称号を与えられる。

代表作として叙事詩『湖上の美人』(1810年)、歴史小説ウェイヴァリー英語版』(1814年)、『ロブ・ロイ英語版』(1817年)、『ランメルモールのルチア』の原作となった歴史小説『ランマームーアの花嫁英語版』(1819年)、『アイヴァンホー』(1820年)など。

バランタインの出版社の負債の返済に苦心し、大作『ナポレオン伝』(1827年)などを執筆。1830年に卒中を起こし、保養のためにナポリに滞在したが、数ヶ月後に孫の死を知ってアボッツフォドに帰郷し、その数週間後に死去。ドライバラ寺院のスコット家墓地に葬られた。

ウォルター・スコットの肖像はスコットランド銀行発行のすべての紙幣に使用されている。

ペンネームで執筆することを好み、"The Great Unknown"と呼ばれた。スコットを「現代のシェークスピア」と慕っていたワシントン・アーヴィングも、スコットに倣ってペンネームを多用した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]