ワシントン・アーヴィング

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ワシントン・アーヴィング
Irving-Washington-LOC.jpg
誕生 1783年4月3日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン
死没 1859年11月28日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州タリータウンサニーサイド
職業 短編小説作家、随筆家伝記作家ほか
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
文学活動 ロマン主義
代表作 スケッチ・ブック』、『アルハンブラ物語
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アーヴィングの家(ニューヨーク、タリータウンのサニーサイド)

ワシントン・アーヴィングWashington Irving, 1783年4月3日 - 1859年11月28日)は、19世紀前半のアメリカ合衆国作家

目次

[編集] 生涯

アーヴィングはマンハッタンに生まれた。法律家でもあった彼は、アメリカの対イギリススペイン外交官のメンバーであった。彼は流暢なスペイン語を話し、そのことでスペインに関する彼の著書は素晴らしいものとなった。また、ドイツ語オランダ語など、ほかにもいくつかの言語を読むことができた。アーヴィングは多作で、多くの場で尊重されているジョージ・ワシントンムハンマドといった人物の伝記や、コロンブスムーア人アルハンブラ宮殿など15世紀スペインに関する多くの本を書いた。

アーヴィングは1830年代に西部のフロンティアを旅し、西部の民族に関して一瞥したところを『プレーリーの旅 A Tour on the Prairies』(1835年)に記した。彼は、ヨーロッパ人やアメリカ人とネイティブアメリカン民族との関係を悪化させることに反対する以下のような発言をしたことで知られている:

植民時代の初期には、白人達のために二重に中傷された数多くの不幸な先住民がいた。彼らは金目当てで頻繁に起こされた理不尽な戦いによって先祖代々の領土を追い出され、さらには彼らの人柄も、頑迷で不純な作家達によって中傷されたのである。

彼の有名な自宅はサニーサイド(Sunnyside)にあり、現在もニューヨークタッパン・ジー・ブリッジのすぐ南に建っている。この家と周囲の土地はもともと18世紀の入植者ウォルファート・アッカー(Worlfert Acker)が所有しており、アーヴィングは彼についての短編『ウォルファートのねぐら Wolfert's Roost』を書いている。

テキサス州の都市アーヴィングや、アラバマ州バーミングハムのワシントン通り(Washington Street)とアーヴィング通り(Irving Street)は、彼の名にちなんで名付けられたと信じられている。また彼の著書『ブレイスブリッジ・ホール Bracebridge Hall』は、オンタリオ州ブレイスブリッジの名の着想となった。

[編集] 作品

アーヴィングの最初の著書は、『世界の始まりからオランダ王朝の終焉までのニューヨークの歴史、ディートリヒ・ニッカーボッカー著 A History of New-York from the Beginning of the World to the End of the Dutch Dynasty, by Dietrich Knickerbocker』(1809年)である。これは自惚れにまみれた地方史を対象にした陰険な諷刺文で、この作品によってニッカーボッカーという言葉が辞書に載るようになり、英語でより広く使われるようになった。

アーヴィングは1815年にヨーロッパへの旅に出た。1819年~1820年、彼は最も有名な作品『スリーピー・ホローの伝説』と『リップ・ヴァン・ウィンクル』を含む文集『スケッチ・ブック』を刊行した。ヨーロッパ滞在中、彼はアメリカのイギリス使節団のメンバーであったが、ひまな時に彼は大陸部へ旅行に出かけ、オランダドイツの民間伝承を幅広く読んだ。『スケッチ・ブック』に収録されている物語はヨーロッパでアーヴィングが書き、ニューヨークにある出版社へ送られて、アメリカの雑誌に掲載された。一方イギリスでは、彼の短編が彼に無断でイギリスの出版社によって製本されてしまった。そのため彼は、ヨーロッパとアメリカで同時に出版することで著作権を保護することにした。

『リップ・ヴァン・ウィンクル』は、彼が妹のサラとその夫ヘンリー・ヴァン・ウォルト(Henry van Wart)と共にイングランドバーミンガムに滞在していた時に、一晩で書き上げられた。この場所は彼に他にもいくつかの作品の着想を与えた。『ブレイスブリッジ・ホール Bracebridge Hall』または『ユーモリスト:寄せ集め The Humorists, A Medley』は、この地にあるアストン・ホールAston Hall)という建物が基になっている。

アーヴィングは4年間のスペイン滞在中、1828年に『クリストファー・コロンブスの生涯と航海 The Life and Voyages of Christopher Columbus』、翌年に『グラナダの占領 Conquest of Granada』、1831年に『コロンブスの仲間達の航海 Voyages of the Companions of Columbus』を執筆している。アメリカへ帰国する直前、彼はイギリスとアメリカで同時に刊行される作品『アルハンブラ物語 Tales of the Alhambra』(1832年)を執筆した。この作品の本来の題名は、収録された短編の名を全て合わせた冗長なものであったが、1851年にアーヴィングは「作者改訂版」を執筆し、この時に『アルハンブラ物語』と題した。

アーヴィングは1832年にアメリカに帰国し、1835年に『スペインの征服者達の伝説 Legends of the Conquest of Spain』を出版している。しかしこの時期の彼の主要な作品は3作の「西部」の本で、これらはアーヴィングがイギリスやスペインで過ごした時間が、彼をアメリカ人よりもヨーロッパ人に近づけてしまったことを忘れさせるために作られた。彼の最初の西部作品は1835年の『プレーリーの旅』である。この本の第10章の始まりは以下のような文章を含み、一部の文芸評論家から、彼の外面的様相に関する懸念の言葉であると解釈されている:

私たちは自国の若者を外国に送り出し、ヨーロッパで贅沢に柔弱に育てている;私にはこう思える。以前のプレーリーの旅こそが寧ろ、人間らしさ、素朴さ、自力本願、など我が国の政治慣習と調和する多くの物を生み出してくれた、と。

彼の二番目の西部の本は『アストリア Astoria』である。彼はこの作品を、当時すでに引退していた大商人ジョン・ジェイコブ・アスターのもとに滞在していた6ヶ月の間に執筆した。この作品はアスターの、毛皮貿易植民地(現在のオレゴン州アストリア)を作ろうとした試みに対する尊敬に満ちた物語である。

アーヴィングがアスターのもとに滞在している間に、軍人で探検家のベンジャミン・ボンヌヴィルが訪れた。彼が3年間にわたってオレゴン・カントリーで過ごしたという物語はアーヴィングを魅了した。1-2ヶ月後、アーヴィングがワシントンD.C.でボンヌヴィルと再会したとき、自分の旅について書こうと苦労していたボンヌヴィルは、その代わりに自分の地図とノートをアーヴィングに1000ドルで売ることを決意した。アーヴィングはこの資料をもとにして、3つの西部の本の中でしばしば最高傑作と見なされる『キャプテン・ボンヌヴィルの冒険 The Adventures of Captain Bonneville』(1837年)を執筆した。

アーヴィングはニューヨーク市に対する愛称「ゴッサム」(この愛称は後にバットマンの漫画や映画で用いられている)を普及させ、また「万能のドル」(Almighty dollar)という表現を生み出したのも彼だとされる。アーヴィングはまた、ジョーゼフ・ヘラーの小説『キャッチ=22』の作中で、偽造屋の用いる偽名としてジョン・ミルトンと共に登場する。

[編集] 使用したペンネームと関係する書籍

  • ジョフリー・クレヨン(Geoffrey Crayon)
    • 『スケッチ・ブック』、
    • 『旅人物語 Tales of a Traveller』、
    • 『ブレイスブリッジ・ホール』
  • ディートリヒ・ニッカーボッカー(Diedrich Knickerbocker)
    • 『ニューヨークの歴史』、
    • 「リップ・ヴァン・ウィンクル」、
    • 「スリーピー・ホローの伝説」
  • ジョナサン・オールドスタイル(Jonathan Oldstyle)
    • 『ジョナサン・オールドスタイルの手紙 Letters of Jonathan Oldstyle

[編集] 伝記

  • 『ワシントン・アーヴィングの生涯』 スタンリー・T・ウィリアムズ著、1935年(英語)

[編集] 外部リンク

外交職
先代:
アーロン・ヴェイル
在スペインアメリカ合衆国特命全権公使
1842年8月1日 - 1846年7月29日
次代:
ロミュラス・ミッチェル・サウンダース

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