ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

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ゲーテ。70歳の時の肖像。(1828年)
ゲーテ。70歳の時の肖像。(1828年)
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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe, 1749年8月28日 - 1832年3月22日)はドイツ詩人劇作家小説家科学者哲学者政治家。特に文学において優れた作品を多く残し、シュトゥルム・ウント・ドラングとヴァイマル古典主義を代表する作家の一人となった。ドイツ語では[gøːtə](oeはöと同義文字である)と発音する。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

フランクフルトにあるゲーテの生家
フランクフルトにあるゲーテの生家

ヨハン・カスパー・ゲーテと母エリーザベト・ゲーテの長男としてドイツ中部フランクフルト・アム・マインに生まれた。父方は、葡萄酒の取引と旅館経営で大きな成功を収めた裕福な商人の家柄であった。母方は、代々法律家でフランクフルトの市長を務めたこともあるなど地元では声望のある家柄であった。また、ゲーテの生誕した翌年に妹のコルネーリア・ゲーテが生まれた(さらに、この下に4人弟妹がいたが、彼らは夭折した)。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送っていた。

父は地位のある人で、息子の教育に関心を持ち、幼児のときから細心に育てた。現在のように教育制度が整っていなかったので、専ら自宅に家庭教師を呼び学んでいた。ゲーテは特に語学に長けており少年時代には、すでに英語フランス語イタリア語ラテン語ギリシア語ヘブライ語を習得していた。また詩作が非常に評判であったのも、幼少の頃からである。現存する最古の詩はゲーテが8歳の時のものである。

[編集] 少年時代

1760年頃のゲーテ一家の様子
1760年頃のゲーテ一家の様子

14歳の時、ゲーテは初恋をする。近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという名の娘である。結局、失恋に終わってしまったが、このグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部の女主人公の名前であり、ゲーテが初恋の人の名前を使っていることも有名である。また、ゲーテは16歳にして、ライプツィヒ大学の法学部に入学することになる。これは、法学を学ばせ、弁護士にして、将来はフランクフルト市の要職につかせて出世させたいという、教育家でもあった父親の願いでもあった(本人は、ゲッティンゲンに行って、文学研究をしたかったと回顧している)。こうして、ゲーテは生まれて初めて、故郷フランクフルトを後にする事になる。1765年の事であった。

[編集] ライプツィッヒ大学時代

1765年にライプツィッヒに到着した16歳のゲーテだったが、法律学の学究には身が入らなかった。また、自身のフランクフルトにおける扱いとの差に愕然とする。フランクフルトでは良家の出でそこそこ知られていたが、異郷の地ライプチヒでは全く知られていない存在であったことを、彼は否応なく痛感しなくてはならなかった。その反動からか、十代の青春真っ盛りのゲーテは最新のロココ調の服を着て、解放的でかなり気どった生活を送っていた、と後に自身も回顧している。この頃に、ゲーテは新たな恋をする。ライプツィッヒ時代ゲーテが食事をしていたレストランの娘アンナ・カトリーナ・シェーンコプフ嬢(通称ケートヒェン)である。しかし、都会的で洗練された彼女の雰囲気へのゲーテの嫉妬が、彼女を苦しめてしまった。結局、彼女を不幸にしてしまい、失恋に終わる。若きゲーテには、これは苦い経験であった。さらに、ゲーテに不幸が続く。自身が病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされたことであった(カルテがなく、病名は不明であるが、症状から結核と見られている)。学士になって雄雄しく帰ってくるどころか、敗走してきた兵士のように、身も心もボロボロになって、故郷フランクフルトへ帰ってきた。1768年、ゲーテ19歳の時であった。

この頃のゲーテは療養の傍ら、自身の宗教観を形成した。フランクフルトで母親の女友達・クレッテンベルク嬢を知る。彼女は、ヘルンフート派の信者であり、この派は生きた魂の救済こそが真なる信仰であるという主張している派で、ゲーテの宗教観に大きな影響を与え、後の『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている。また、この頃読んだゴットフリート・アルノルトの『教会と異端の歴史』を読み、様々な異端と呼ばれてきた説を学び、今までの偏見していた多くの説を見直す機会となり、深く肝銘した。自分自身の宗教を持つことこそが、真の信仰であるという汎神論的な考え方に至った(これは、後のスピノザ・ルネッサンスというべき、ゲーテのスピノザ研究にもつながる)。これらの宗教観の形成は、ゲーテ作品のバックボーンにもなっている。またこの時期、興味のあった自然科学の研究にも精を出していた。ゲーテは地質学から植物学気象学まで、自然科学にも幅広く成果を残しているが、既にこの頃にはその基礎を作り上げていた。

療養後、改めて勉学へ励むため、父親が選んだシュトラスブルク大学へ行く事となった。当地は、フランスとの国境付近にあり、当時先進的だったフランス文化に浸るのにもよく、今度こそ法律学を成就して、市の要職につかせたいと考えていたからである。1770年、ゲーテ21歳の時であった。

[編集] シュトラスブルク大学時代、ヘルダーとフリーデリケとの出会い

ヘルダー
ヘルダー

フランクフルトを再び発ったゲーテは、シュトラスブルクへ行った。当地で学んだ期間は一年少しと短かったが、この地で理性と形式ばかりを重んじていたロココ調の文学から生命と自然とに根ざし、自由感情の元に立つシュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)という新たな文学に目覚めるという、ドイツ文学史上特筆すべき変節点が起こったのもこの時期である。この変節点の立役者は当地で療養中であった文学者・ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーに他ならない。ヘルダーは、ゲーテより5歳年上であったが、既に一流の文芸評論家として著名であった、当時無名の学生であったゲーテは、このヘルダーの所へ足繁く通い、ヘルダーから古典ギリシア文学から聖書に至るまでの様々な新しい文学上の視点を学んだ。

また、この頃ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性と恋をする。ゲーテは、友人と共に、シュトラスブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村に遊びにきていたのだが、そこの牧師の娘のフリーデリケと恋に落ちた。ゲーテは、彼女に夢中になり『野ばら』や『五月の歌』といったとりわけゲーテの抒情詩の中でも、有名かつ傑作と呼ばれている作品がこの頃いくつも登場しており、また、ドイツ詩の歴史の中でも屈指の抒情詩である。これらの美しい詩は、現代に生きる人々をも虜にしているほどである。これらは、『ゼーゼンハイムの歌』というタイトルで出版されている。しかし、ゲーテは無情にも、彼との結婚を望むフリーデリケとの恋愛を断ち切ってしまった。理由は勉学に励むためでもあり、また結婚による束縛を嫌ったためでもあると言われている。しかし、ゲーテも彼女の姿を忘れられず、フリーデリケは代表作『ファウスト』の中のグレートヒェンのモデルになっているともいわれている。1771年に無事、学業を勤め、シュトラスブルクを後に、フランクフルトへ帰ってきた。ゲーテ22歳の時である。

[編集] 疾風怒濤期 『ゲッツ』と『ウェルテル』の誕生

シュトラスブルク大学を無事卒業し、故郷のフランクフルトへ戻ったゲーテだが、父親の願い通り市政に携わる仕事に就けなかった。そこで、弁護士の資格を経て、弁護士事務所を開設した。弁護士の仕事も、そこそこ順調でもあったが、実質この頃のゲーテは、文学活動に専念していた。この頃、ゲーテは『フランクフルト学報』で様々な文芸評論を行った。この学報の主宰者が作家ヨハン・ハインリヒ・メルクである。後述するが、彼は、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の出版の際に大きな援助してくれた、よき理解者であった。この時期にゲーテは、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿『戯曲化された鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を執筆。しかし、本業そっちのけで文学活動に没頭している息子に、父親は業を煮やし、法学を再修得させるため、フランクフルトの北方にあるヴェツラールの最高裁判所へと送られる。1772年4月のことであった。

[編集] ロッテとの出会い

しかし、この地でもゲーテは、法律学ではなく文学に関心を持ち続けていた。現在でもゲーテの当地での法学修得を伝える資料はないに等しい。自分と考えの違う、父親から離れたこの地はゲーテにとって、恰好の文学に専念できる環境であった。当地では、ゲーテにとって大きな出来事に何度も遭遇する。一つは、シャルロッテ・ブッフ(通称ロッテ。シャルロッテ・フォン・シュタインとは別人)という女性との恋、そしてヨハン・クリスティアン・ケストナーカール・イェルーザレムなどとの交友である。後述するが、シャルロッテも、イェルーザレムも、『若きウェルテル(ヴェルター)の悩み』の成立の直接的な影響を与えた人物として有名である。

まず、シャルロッテとの馴れ初めは、ゲーテがこの地で友人たちの誘いで参加した舞踏会によるものである。ゲーテは、まだ15歳の彼女の雰囲気に一目惚れし、毎晩彼女の家を訪問するほど、熱狂的に恋をした。しかし、ほどなく彼女はケストナーの許婚であることを知った。しかし、ゲーテは、彼女の魅力を忘れられず思いが募るばかりで、非常に苦しい思いをしていた。ロッテは、誰もが一目惚れしてしまうほどの美しさ、それでいて快濶で、嫌らしいところなどまるでない魅力的な女性であった。ゲーテは、彼女に何度も手紙や詩を送り、ロッテもゲーテが他の誰よりも自分のことを愛している事を痛いほどよく知っていた。ケストナーもこのような事態に極めて寛大に振舞った。友人のメルクからは、ケストナーからロッテを奪い取るべきだという強硬論さえ飛び出したほどだが、ゲーテにはそのようなことは出来ず、9月11日にロッテに別れを告げず、突然ヴェツラールを去る。ゲーテにしてみれば、わずか5ヵ月あまりであったが至福なひとときであった。

ヴェツラールを去ったゲーテは、フランクフルトへ戻り再び弁護士稼業(表向きだが)となったが、ロッテのことは忘れられるばかりが、日を追うごとに想いが募ってくる。無事ロッテが婚約者のケストナーとゴールインできたという報に接したとき、その苦しさは頂点に達した。あまりの苦しさに、ベッドの下に短剣をしのばせ、何度か自分の胸に刺してみようと試みた事さえあった。そんな折、ヴェツラールで知り合ったイェルーザレムがピストル自殺したという報が届く。原因は、彼は人妻を猛烈に恋したが、彼女に拒絶されたためそれを悲観しての自殺であった。これは、ゲーテにとっては他人事ではなかった。しかし、この友人の自殺とロッテとの恋は、ゲーテにかの『ウェルテルの悩み』を構想させることになるのである。

[編集] 『ゲッツ』と『ウェルテル』

一方で、ヘルダーにも送っていた『戯曲化された鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』に対して、ヘルダーから嘲笑めいた返事が返ってきた。ゲーテも、改変を余儀なくされ完成したのが『鋼鉄の腕 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』である。しかし、無名の青年の作品など、どこの出版社も相手にしてくれない。そこで、友人・メルクの財政的援助の元、1773年に自費出版した。出版されるや全ドイツ中の注目を集めた。そして翌1774年、イェルザレムの自殺と自身のロッテとの恋愛を元に、『若きウェルテルの悩み』が世に出されると、ドイツを飛び出し、全ヨーロッパ中にゲーテの名を轟かすことになった。

この両作の発表によって、ゲーテはシラー(『群盗』)とともに「シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」とよばれる文学運動を引き起こすことになる(作品の詳細・影響など詳しくは当該項目を参照)。

  • 鋼鉄の腕 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』は実在の騎士ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲンを主人公とする戯曲であり、宮廷時代において中世騎士道精神をつらぬく主人公が、自由を唱えながら死んでゆくというストーリーである。
  • ウェルテル(ヴェルター)』は当時流行していた書簡体で書かれた小説であり、婚約者のいる女性シャルロッテに恋した主人公ヴェルターが失恋のためピストル自殺を図るというストーリーであり、当時ヨーロッパで爆発的にヒットした。ヴェルターに陶酔し、ヴェルターのマネをして自殺する青年が続出し、社会的な混乱を巻き起こしたほどである。若きナポレオンも本書を愛読して、ヴェルターまがいの小説を書こうと試みたこともある(後年、ゲーテを訪問している)。余談だが、菓子メーカー「ロッテ」は同書のヒロイン、シャルロッテから取ったものだという。

こうして一躍ヨーロッパ中にその名を知られるようになったゲーテは、この時期に様々な人物との交流も盛んになる。一例をあげると、ヘルダーのほか、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ、兄で詩人のヨハン・ゲオルク・ヤコービヨハン・カスパー・ラファーターレッシングクロップシュトックなど当代一流の文人たちであった。『ヴェルター』作者に一目会いたいと文学者・神学者・教育学者・詩人など、中には現在でも知られている有名な人物が、フランクフルトを訪問してゲーテに会う、あるいは目上の人にはゲーテから彼らの方を訪問するなどの、盛況ぶりであった。知名度があがっても、奢ることなく気軽に振舞う青年ゲーテは、周囲からも好意的に思われていた。1774年12月には、フランス・パリへ旅行へ行く、ヴァイマールの公子カール・アウグスト公が途中フランクフルトを訪問した。ゲーテは、公をとても親切にもてなし、文学や詩などとても多彩な話題で盛り上がったという。ただ、この人物がその後のゲーテの一生を大きくかえる人物になるとは、当時のゲーテも思ってもみなかったと思われる。

この頃から、知見を広げるため、ヨーロッパ各地へと旅行をも活発にした。1774年7月からはラーヴァーターと教育学者バーゼドといった友人たちと、ライン地方へ旅行へ行った。

[編集] リリー

またこの時期一つの恋が生まれた。相手は当地フランクフルトで一番財力がある銀行家シェーネマン家の娘リリー・シェーネマンである。

二人の出会いは、1775年1月ゲーテが招待されたシェーネマン家で開かれた音楽会でのことだった。リリーも、ロッテやフリーデリーケ並に上品で、気品がある女性で、しばらく忘れていたゲーテの恋愛感情に再び火がついた。

しかし、この恋の成就は前途多難であった。ゲーテはロッテやフリーデリーケの頃と違い、今や一世を風靡した文人の身である。リリーは好きであるが、シェーネマン家の人は、ひとりの人間・詩人としての自分ではなく、名声と将来性のある有用な人間として見られているように思えて仕方なかった。それに金のない青年ゲーテに、リリーのほかの兄弟はあくまで結婚に反対で、また、互いの家の宗派も異なっている上、ゲーテの妹コルネリーアとリリーとの馬が合わず、両者は互いに著しく嫌悪感を抱くようになっていった。それでも、リリーの友人でハイデルベルクの実業家デルフ嬢の仲介により、ゲーテは彼女と婚約をした。同年4月の事で、出会ってから3ヶ月という速さであった。

当時のゲーテにしてみれば、自身の作品で名声は上がったものの『ゲッツ』の時に自費出版した際、メルクや弁護士のヴァーグナーらごく親しい友人に莫大な借金をしており、その借金もまだ返済しきれていない。それに、人気に左右される文学稼業ではとても安定した収入は望めないので、それが財力のある家の娘とのスピード婚約に至った一因でもある。それでもゲーテとリリーが相思相愛の仲であったのは、疑い得ない事実であった。

しかし、財力に物をいわせて振舞うシェーネマン家の水がやはり合わず、婚約後ゲーテはスイスへ旅へ出た。リリーが心底好きなだけに、ゲーテにとっては複雑な旅立ちであった。いざ異境の地へ行くと、リリーに会えない寂しさだけが募ってくる。ゲーテはその気持ちを詩に託した。この頃のゲーテのリリーに対する抒情詩もはれた作品として知られているものである。結局、同年秋にはリリーとの婚約は解消された。リリーは他に良縁を見つけたが、シェーネマン家はその後まもなく破産した。

ゲーテには、落ち込む暇などなかった。同年11月にかつて『ウェルテル』が縁で出会うことが出来たヴァイマールのカール・アウグスト公からの招きがあったからだ。ゲーテは、故郷を離れヴァイマールへと向かうことになる。

[編集] ヴァイマールへ

[編集] ヴァイマールの宮廷

カール・アウグスト公
カール・アウグスト公

カール・アウグスト公からゲーテを招請したいという招きがあったが、なかなか迎えの馬車が来ず、あと少し遅かったらヴァイマール行きを断ってイタリアへ行くつもりであったとゲーテ自身が語っている。

ゲーテがヴァイマールへ着いたのは、1775年11月7日の早朝の事であった。当時のヴァイマール公国は人口6000人程度の小国で、貧しい農民と職人に支えられた国であった。本来アウグスト公らが住むはずの城でさえ、ゲーテが着く数年前に起きた火災で焼けたのがそのまま廃墟となっている有様であった。「早朝のまだ暗いころについたこともあってかなり暗い街に見えた」とゲーテは述べているが、客観的に見てもゲーテのそれまで居たフランクフルトと比べれば大変寂れた土地であった。それでも、『ウェルテル』執筆以後、フランクフルトの近くを通った際はゲーテを慕って何度も会いに来てくれたカール・アウグスト公の願いを断るわけにもいかなかったのである。当初はゲーテも、このヴァイマール訪問は数ヶ月程度の短期間だろうと思っていたが、実際にはこの地に永住することになる。

カール・アウグスト公は当時18歳で、結婚したばかりであった。父公コンスタンティンはゲーテが訪れる17年前に20歳の若さで死亡しており、代りに皇太后アンナ・アマリーア(アウグスト公の母親)が政務を担当していた。彼女は人間的にも優れた王妃で着実に政務をこなし、この貧しい国の復興に力を注いでいた。彼女は国を興す一環として、ドイツ文学・文化を大いに奨励し、息子のアウグストの教育係に詩人・ヴィーラントをこの国に招いた。息子も母親にならい、文化復興の担い手として、『ウェルテル』の作者でかつてフランクフルトで会った際にユストゥス・メーザーの『愛国的空想』で国家観などを語り合い、大いに共鳴したゲーテを選んでこの地に招いたのであった。

当時26歳の詩人・ゲーテに政治的実績はなく、これは大抜擢といえたが、若く初心なカール・アウグスト公には、芸術・自然・文学を愛する人間・ゲーテが殊のほか輝いて見えたのであろう。彼はゲーテを兄のように慕い、宮廷を飛び出してゲーテと共に自然を満喫したり、演劇を楽しんだり、狩りに出かけたり、時には宮廷の女性を悪戯半分に辱しめるような行為をしたりと、おおよそ公子とは思えぬ行動を楽しんだ。ゲーテも彼に惹かれ、次第にこの地での暮らしは一時的ではないと感じるようになった。当代きっての大詩人・ヴィーラントもいるし、他にも多様な人々がこのヴァイマールの宮廷を彩っていた。

ゲーテの目から見て筆頭に上がるのは、アウグスト公の戦闘好きにも関連するカール・ルートヴィヒ・フォン・クネーベル少尉である。彼は軍人でありながら文学にも長けており、フランクフルトで最初にゲーテとアウグスト公があったときにその仲を取り持った重要な人物でもあった。

他に、能力に優れていて大の文学愛好家であったが、古参であるのをいいことに、都合の悪い後輩にはその芽を摘み媚びへつらうというあまりよくない評判のあるゲルツ伯爵。優しく、人望も教養も高く、ヴァイマールの宮廷では欠かせない人物であったが、性格が非常に頑固かつ保守的でゲーテとは馬が合わず、後にゲーテが大臣になることを阻もうとしたフォン・フリッチュ大臣。宮廷のムードメーカー的存在のヒルデブランド・フォン・アイジンテールはあらゆる遊戯、娯楽に長けていて音楽や戯曲を殊のほか好み、さらに多彩な文学活動も行なっていた。この他にも多くの文学愛好家などがいて、ゲーテはよき理解者に囲まれていると実感し、この地に出来るだけ留まりたいと思うようになった。その気持ちを決定的にしたといえるのがシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との出会いと言えるだろう(後節参照)。

[編集] シュタイン夫人

シャルロッテ・フォン・シュタイン(シュタイン夫人)
シャルロッテ・フォン・シュタイン(シュタイン夫人)

ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着して数日後であった。シュタイン夫人の夫は、ヴァイマールの主馬頭で宮廷でも重要な人物であった。ゲーテと出会ったとき、既婚者である事はもちろんの事、既にゲーテよりも7つ年上の33歳で、七人もの子どもがいた。感じはいいがそれでも、決して男を虜にするほどの美人ともいえない。それでも、この夫人はゲーテの人格・文学作品に多大な影響を与えた。ゲーテの生涯で最大の影響を与えた女性ともいえる。ゲーテとの心の交流は、ゲーテがイタリアへ旅立つまでの実に12年近くにも及んだ。この夫人は清らかで優雅で繊細でそれでいてゲーテの全人格をすべて包み込んでしまう人物であった。このようなすべてを包み込んでしまうほどの人物は、ゲーテが過去に出会った女性たちにはなかった性質のものである。ゲーテもこの夫人と出会うことで、人格的には自身の内なる魂が清められ、激しく野性的で情熱的な人格から純粋かつ節度のある人間性を獲得することができたといわれている。ゲーテにとって、ギリシア的であらゆるものが調和した人物に映っていた。シュタイン夫人との出会いはゲーテの文学を疾風怒濤から古典主義へと変えていく契機となった(この頃は公務で文学活動に専念できず、本格的にはイタリアから帰ってきた後となる)。

ゲーテはシュタイン夫人に向けて無数の詩を作り、さらには後の『イフィゲーニエ』(シュタイン夫人がモデルとも言われている)や『タッソー』など文学作品にも影響を与えた。ゲーテは足繁くシュタイン夫人のもとへ通い、彼女を大いに満足させた。ゲーテは夫人宛に送った詩の一節で「ああ、前世では君は私の妹か妻であった」とまで言っている。このように人妻のところへ通うという、現代の感覚で言えば「不倫」に近いものであるが、一線を越えない限りこの時代のヴァイマールではその点は比較的寛大であった。しかし、そのような寛大な考えのところでもゲーテの熱中ぶりはあまりに突出していた。これは宮廷でも話題となり、ゲーテは反感を買ってしまった。

しかし、シュタイン夫人の夫はゲーテが自分の妻のところへ熱心に通っていることに全く無関心で、宮廷での出来事や馬車のことなど自身の仕事のほうのがよほど重要に映っていたという。つまり、シュタイン家の夫婦生活は結婚して10数年来、全く冷淡で夫は妻へ充分に愛情を向けず、彼女自身夫との生活に憂鬱を覚えていた。そこへゲーテがあらわれ、彼女を陽気にし、ゲーテが自分の宮廷の友達の輪へと誘ってくれたのである。夫は、この事態を咎めるどころか、ゲーテを妻の生活の良き支援者と捉えており、大いに感謝し二人の間柄を支援さえした。

ゲーテは着実にヴァイマール公国の政務を果たし、公爵の信頼を得て1783年には事実上の宰相となった。

[編集] イタリア紀行 古典主義への傾斜

ゲーテは1786年、突如公務をすべて投げ出して、誰にも断りなく(主君カール・アウグストにも相談なく)イタリアに旅立つが、これは事実上の「家出」である。

イタリアで2年ほどブラブラと過ごしながら、現地の芸術家とおしゃべりしたり、石ころを集めたり、(あまり上手とは言えない)絵画の練習に励んだり、ナポリポンペイまで物見遊山に出かけたりした。この(お気楽な)家出の最大の文学的収穫は紀行文学『イタリア紀行』を残したこと、当地で読んだ『チェッリーニ自伝』を帰国後、自らドイツ語に翻訳したことである。

ゲーテはイタリアからの帰国後(1788年)、公務の任から外されるが、このころ女工クリスティアーネ・ヴルピウスと出会い、愛人にする。後にヴァイマール劇場の監督となる(1791年)が、このころからゲーテの作風は古典主義へと向かうようになり、詩劇『ファウスト』の構想が固まる。

フランス革命1789年)から続くナポレオン戦争に際しては、ゲーテは当初反フランスの立場を取る。1792年ヴァルミーの戦いに参加。8月8日ヴァイマルを出発。8月27日、ヴァイマール公の連隊に従軍。 12月16日ヴァイマールに帰着。「ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる。(“Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus, und ihr könnt sagen, ihr seid dabei gewesen.”) 」との言葉を残す。後にナポレオンがヨーロッパを制覇すると反フランスの立場を引っ込め、皇帝ナポレオンと面会して感激する。

[編集] 盟友シラー

ワイマールに立つゲーテとシラーの像
ワイマールに立つゲーテとシラーの像

1787年7月、ゲーテのイタリア滞在時にフリードリヒ・フォン・シラーがヴァイマルを訪れている。ゲーテは2年後の1788年、シラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘した。シラーとは1794年のイェーナにおける植物学会を機に本格的な親交を結び、同年6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を要請される。二人の間には千通を越える膨大な数の書簡が交わされている。また、1796年には強烈な文壇風刺詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。シラーとの交際が深まるにつれ、ヘルダーヴィーラントといったかつての知人達との仲は疎遠になっていった。

この当時、色彩論や植物のメタモルフォーゼ(変態論)などの自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのはシラーであった。シラーとの美学に関する議論をとおして、1796年にはドイツ教養小説の最高峰『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(Wilhelm Meisters Lehrjahre)を完成させた。1799年にはシラーはヴァイマールへ移住し、二人の交流はますます深まる。そして、その『断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーである。ゲーテはのちに「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。

1805年5月9日、シラーは肺病のため死去する。シラーの死の直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送付している。それほどまでにゲーテはシラーを必要とし、信頼し、敬愛していた。周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。事実、シラーの死を知ってからしばらくの間、ゲーテは非常な喪失感に悩まされ、病に伏せっている。このシラーの死をもって、ゲーテのいわゆる「古典主義時代」が終わる。

[編集] 結婚

ゲーテは恋愛遍歴で知られるが、長く結婚しなかった。しかし1806年に愛人であり子供もいたクリスティアーネ・ヴルピウスと結婚した。そのきっかけとなったのが、ナポレオン軍の侵攻だった。イェーナでの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマールにまで迫ってきた時、兵士達がゲーテの家へ踏み込むという事態になった。その際、兵士の前に立ちはだかり、身を挺してゲーテをかばったのが、このクリスティアーネであった。ゲーテはこの献身的な愛に心打たれ、ついに彼女と結婚したというわけである。この結婚の際の保証人はカール・アウグスト公であった。

しかし、「既婚」という身の上がゲーテの恋心に歯止めをかけることはなかった。1807年にはクリスティアーネ・ヘルツリープ(Christiane Friederike Wilhelmine Herzlieb,1789-1865)という18歳の娘に恋をしている。このときの体験をもとに、二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力』(1809年)が書かれた。

1820年頃にはカスパー・マリア・フォン・シュタインベルクと交友関係を結んでいた。

[編集] 晩年

1806年からはコッタ版のゲーテ全集が刊行され、『ファウスト』(悲劇第一部)も所収される。また、1809年からゲーテは自伝の執筆を開始する。その翌年には「色彩論」の研究にひとたび区切りをつけるべく、独自の観点である”生理的色彩”の研究を深めた著作『色彩論』を刊行する。そして、1811年には『わが生涯より・詩と真実』(Aus meinem Leben: Dichtung und Wahrheit)というタイトルで自伝を発表する。また、イタリア旅行から30年経った後に回想しつつ書いた『イタリア紀行』を1817年に刊行する。

この頃からゲーテは隣国フランスをはじめとした世界の文学に興味を持ち始め、精力的に研究を深める。とりわけ、東方オリエントの文学に感銘を受けたゲーテは、コーランハーフィスの詩を愛読するようになった。このハーフィスに憧れてみずから読んだ詩が、『西東詩集』(1819年)である。1816年には伴侶のクリスティアーネが長い闘病の末、先立つ。

ゲーテはその多産な生涯をヴァイマルで終えた。1832年3月22日(82歳没)のことであった。彼の遺した最期の言葉とされる「もっと光を(“Mehr Licht!”)」はあまりにも有名であるが、これは主治医の診断書にあった記録から広まったものであるとされ、信憑性を疑う説もある。無言のまま死んでいったとする記録もあり、真偽のほどは定かでない。また、この言葉をフランクフルト訛りでいうと、『全ては嘘』という意味にもなる。

[編集] 文豪ゲーテ

ゲーテの主要な文学作品には戯曲『鋼鉄の腕 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』『トルクヮート・タッソー』『タウリス島のイフィゲーニエ』、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『親和力』(散文)、詩劇『ファウスト』(韻文)、詩集『西東詩集』 随筆『イタリア紀行』『エッカーマンとの対話』がある。理論家としては雑誌『プロピュレーエン』を主催し、古典主義理論の振興および新人の発掘に努めた。ゲーテは多言語を解し、『チェッリーニ自伝』やカルデロンの翻訳なども手がけている。

[編集] 文学活動

ヴァイマルにあるゲーテハウス
ヴァイマルにあるゲーテハウス

文学者としてのゲーテの活動は大きく二期に分けられる。初期のゲーテはシラーとともにシュトルム・ウント・ドラング運動を代表する詩人であり、シュトラスブルクゴシック建築の大聖堂に感銘し『ドイツ建築について』を書きドイツ的なもの・中世的なものへの回帰を広く呼び起こした。

その後ゲーテはヴィンケルマンを読み古典的なものへと回帰し、『ファウスト』に結実するドイツ古典主義の代表的作家かつ理論家となる。『ファウスト』はファウスト博士伝説に題材を取った二部からなる戯曲で、完成に多年を要し、ゲーテが文学者として最も円熟した時期にかかれたものである。ゲーテはスピノザには同意していたものの多神教的なものには同意できなかったため残念な結末になっている。

[編集] 科学者・思想家

科学者としては人体解剖学・化学・地質学・植物学・光学(『色彩論』)についての著作および研究がある。ゲーテの植物学や色彩論は形而上学的思弁と密接に関わり、これを自然哲学とみなす論者もある。

科学史的に注目される研究としては次のものが挙げられる。

動物解剖学
動物ですでに知られていた間顎骨(前顎骨、切歯骨)がヒトにもあることを発見した(1784年)。また頭蓋骨脊椎の変形に由来すると考えた。
植物変態論(1790年)
植物の形態には大きな違いがあるが基本デザインは共通であるとし「原植物」の概念を提出した。特にの各器官はの変形であると考えた。
形態学(Morphologie)という用語を最初に用いたのもゲーテとされる。このようにゲーテは相同性概念による生物形態学の最初期の研究者であり、また進化論的思想を抱いていたといえる。
色彩論(1810年)
ニュートン光学的色彩論に対する批判は的外れであるが(あくまで現代科学の常識と照らし合わせた場合において)、色彩論においては光学のみでなく感覚に関する研究も重要であることを強調した点は評価される。詳細は『ゲーテの色彩論』の項を参照。

政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の宰相として産業の振興を図るとともに、イェーナ大学にシラー、フィヒテシェリングら当時の知識人を多数招聘し、またヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピア・カルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。

[編集] ゲーテと音楽

ゲーテの詩や戯曲などには、多くの作曲家が曲を付けたが、ゲーテ自身の音楽観は保守的なものであった。たとえば歌曲については、ゲーテは民謡を理想としており、カール・ツェルターヨハン・ライヒャルトらの曲を好んだ。

  • シューベルト - 歌曲「魔王」「野ばら」など。シューベルトが最も多く作曲したのがゲーテの詩であった。
    シューベルトの友人ヨーゼフ・シュパウン1816年に『魔王』ほか数曲の楽譜をゲーテに送ったが、ゲーテは「まったく感動」せず、ろくに見ずに送り返してしまった(そもそも、楽譜だけでは曲がよくわからなかったらしい)。もっとも、シューベルトの死後の1830年4月24日に『魔王』を実際に耳で聴いた時にはこれまでの評価を改め、「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と評価した。
  • モーツァルト - 歌曲「すみれ」。モーツァルトのゲーテ歌曲はこれ一曲のみで、モーツァルトはこの曲を作曲したとき、作詞者がゲーテとは知らなかったという。
    ゲーテはモーツァルトを非常に高く評価していた。ゲーテが敬愛した芸術家三人の一人がモーツァルトである。モーツァルトへの言及は多く文章に残っている。中でも、モーツァルトの音楽について「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」と評したのは有名。ファウストに曲をつける権利があるのは唯一モーツァルトのみとも言っている(ゲーテとの対話)。
  • ベートーヴェン - 劇音楽「エグモント」、カンタータ「静かな海と楽しい航海」。
    ベートーヴェンについては、「才能あふれる人物」と高く評価してはいたが、ベートーヴェンの無礼さを嫌った。しかし初めて第五交響曲を聴いたときのゲーテの動揺はたいへん激しかったと言われる。初めて聴いたその日は一日動揺していて、夕食の席でも一人ぶつぶつなにかしゃべっていて、「みんなが一斉にあんな音を同時に演奏したらどうなってしまうのだ、建物が壊れてしまうではないか」と言ったとのこと(同上)。
  • ベルリオーズ - 劇的物語「ファウストの劫罰」。
  • メンデルスゾーン - 序曲「静かな海と楽しい航海」。
  • シューマン - 「ファウストからの情景」、「ミニョンのためのレクイエム」。
  • リスト - 「ファウスト交響曲」、「メフィスト・ワルツ第1番」など。
  • グノー - 歌劇「ファウスト」。
  • トマ - 歌劇「ミニョン」(「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」による)。
  • ブラームス - 「ゲーテの『冬のハルツの旅』からの断章」(アルト・ラプソディ)。
  • マスネ - 歌劇「ウェルテル」。
  • マーラー - 交響曲第8番の歌詞に『ファウスト』を用いた。
  • ボーイト - 歌劇「メフィストーフェレ」。

[編集] 著作

[編集] 日本におけるゲーテ

日本においては、明治以来医学や科学、法学、軍事など様々な面でドイツを範としたこともあって、ドイツの文化が熱心に学ばれ、ゲーテの受容は大きかった。明治時代から森鴎外らによるゲーテの著作の翻訳が行われ、とくに『ファウスト』『若きウェルテルの悩み』などは多数の翻訳者が翻訳に取り組んでいる(アジアにおけるゲーテ受容参照)。1931年(昭和6年)には日本ゲーテ協会が創設され、ドイツ文学の研究・紹介を行っている。また関西ゲーテ協会の主催で、毎年ゲーテの誕生日の夜に『ゲーテ生誕の夕べ』が開催される。そこではゲーテにちなんだ歌謡のコンサートや講演が開かれている。

粉川忠は若い頃からゲーテにのめり込み、商売の傍らゲーテの著作や関連する文物を収集して、ついには東京都北区にゲーテの著作や関連資料を所蔵した東京ゲーテ記念館を建てた。この記念館では、ゲーテの全集や研究書から、果ては作品の漫画版やゲーテについて触れた雑誌・学習参考書など、少しでもゲーテに関わる文献を徹底的に収集している。コレクションの中には、『ファウスト』上演時に用いられた衣装までも含まれる。

なお、ゲーテ (Goethe) の日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在し、そのことを諷して斎藤緑雨は「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳を詠んだ(参考:矢崎源九郎『日本の外来語』岩波新書)。

[編集] 関連項目

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