オシアン

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オシアンOssian)は、同名の叙事詩集『オシアン』の著者とされるスコットランドの伝説上の王、詩人。
叙事詩集『オシアン』は18世紀スコットランド詩人ジェイムズ・マクファーソンスコットランド・ゲール語で書かれた古資料から英語に翻訳したと主張した叙事詩サイクルである。これは世界的に好評を博したが、本物のスコットランドの伝承の翻訳か、あるいはマクファーソンの創作かという真贋論争は20世紀まで続いた。オシアンは、ケルト神話の一つであるアイルランド神話Irish mythology)に登場するフィン・マックールの子オーシン(またはオシーン、Oisín)が元になっている、もしくは共通のモデルを持つとされる。

目次

[編集] 写本の「発見」と英訳の出版、反響

ドミニク・アングル画『オシアンの夢』(1813年

マクファーソンは1760年英語によるテキスト『Fragments of ancient poetry, collected in the Highlands of Scotland, and translated from the Gaelic or Erse language(スコットランド・ハイランド地方で収集し、ゲール語ないしアース語から翻訳された古詩断片集)』を出版し、その年にさらなる写本を入手した。

1761年、マクファーソンはオシアンによって書かれた英雄フィンガルの叙事詩を発見したと主張した。フィンガル(Fingal, Fionnghall)という名前は「白い異邦人」を意味する[1]。マクファーソンはそれらの翻訳を発表し(『フィンガル』1762年、『テモラ(Temora)』1763年)、1765年に集成版『オシアン詩集(The Works of Ossian)』を出版した。オシアンは当時世界的な成功を収め(ナポレオンも熱烈なファンだったほどである)、ホメロスなどの古典に匹敵するケルトの作品と褒めたたえられた。多くの作家たちがオシアンに多大な影響を受け、その中には若きウォルター・スコットドイツゲーテがいた。ゲーテは小説『若きウェルテルの悩み』のクライマックス・シーンの中に、オシアンの一部を自身の手で翻訳して挿入したほどである[2]
ゲーテの友人ヘルダーシュトゥルム・ウント・ドラング運動初期に『オシアン論(またはオシアン書簡、Auszug aus einem Briefwechsel über Ossian und die Lieder alter Völker)』という題の小論を書いた。フランスやドイツ同様に、ハンガリーでも絶賛された。アラニ・ヤーノシュArany János)はオシアンへの返答として『ホメーロスとオシアン』を書いた他、Baróti Szabó Dávid、チョコナイ・ヴィテーズ・ミハーイ(Csokonai Vitéz Mihály)、キシュファルディ・シャーンドル(Kisfaludy Sándor)、カジンツィ・フェレンツ(Kazinczy Ferenc)、キョルチェイ・フェレンツ(Kölcsey Ferenc)、トルディ・フェレンツ(Toldy Ferenc)、Greguss Ágostらがその影響を受けた[3]
イタリアではメルキオーレ・チェザロッティ(Melchiore Cesarotti)による翻訳が非常に好評を博し、パドヴァ大学で彼の教え子だったウゴー・フォスコロ(Ugo Foscolo)をはじめ多くの人がこれに影響を受けた。
ロシア語で最も流布した版はエミル・コストラフの1792年の翻訳で、彼はピエール・ル・トゥルヌールの1777年の仏訳を元にした。

さらにオシアンはロマン派音楽の萌芽にも影響を与え、とくにシューベルトは多くのオシアンを題材に多くのリートを作曲した(『吟遊詩人の歌 D.147』『ナトス滅亡の後のオシアンの歌 D.278』など)。

[編集] 信憑性の議論

ローラの岸のオシアン。フランソワ・ジェラールFrançois Gérard)画

マクファーソンの主張に対し、文学的・政治的理由からただちに論争が起こった。マクファーソンは素材はスコットランド起源のものだと主張したが、アイルランド歴史家たちは自分たちの伝承(アイルランド神話)が剽窃されていると感じ、反論した。もっともスコットランドもアイルランドも、その詩の舞台となった時代にはゲール文化を共有していて、両国に共通するフェニアン物語群(Fenian Cycle)のいくつかはスコットランドで作られていた。

イングランドの作家、評論家、伝記作家のサミュエル・ジョンソンはマクファーソンを「イカサマ師で、嘘つきで、詐欺師で、彼の作品は贋作だ[4]」と確信したうえ、オシアンを駄作と断言した。「では、ジョンソン博士、あなたは今日、このような詩をどんな人でも書くことができたと本当に思っておられるんですか?」と尋ねられた時、ジョンソンが「そうだとも。多くの男性、多くの女性、多くの子供たちだって書けるさ」と答えたのは有名であるが、当の彼自身はゲール語もできず、ハイランドの文化に関する知識も持っていなかった。

このような論争に直面したハイランド協会(Highland Society)はマクファーソンの主張の真偽を調査した。これにより、「Oided mac n-Uisnig」の物語を記したいわゆるグレンマサン手稿(Glenmasan manuscript,Adv. 72.2.23)が発見された。

このテキストはアイルランドの「Longes mac n-Uislenn」という物語の変種の一つであり、多くの面で著しい差異があるもののマクファーソンの『ダルスーラ』(Darthula)と比較できる物語を提供している。ドナルド・スミスは委員会へのレポートでこれを引用した。

オシアンの資料がアイルランドのものか、イングランドのものか、あるいはジョンソンが結論づけたように、マクファーソンが自分の作品にゲール語の断片を織り込ませたものか[5]、それともマクファーソンが言う通りスコットランド・ゲール語の口承と写本に基づいているのかについて、論争は19世紀に最高潮に達した。スコットランドの著作家ヒュー・ブレア(Hugh Blair)の『オシアン詩の批評的論述(A Critical Dissertation on the Poems of Ossian)』はジョンソンの痛烈な批判に対して作品の信憑性を支持するもので、1765年以降、作品に信憑性を付する目的で「オシアン」の全版に含まれるようになった。

1952年、デリック・トムソン(Derick Thomson)は、マクファーソンがスコットランド・ゲール語のバラッドを収集していたことを突き止め、マクファーソンは口承で残っていたものを、数々の写本と照合させて書いたのかも知れないが、オリジナルの登場人物とアイディアによって脚色し、相当量自分で作ったものを入れ込んだのではないかと述べた[6]

[編集] 日本語訳

[編集] 脚注

  1. ^ Behind the Name: View Name: Fingal
  2. ^ Beresford Ellis, Peter: "A Dictionary of Irish Mythology", page 159. Constable, London, 1987. ISBN 0-09-467540-6
  3. ^ Elek Oszkár. "Ossian-kultusz Magyarországon," Egyetemes Philologiai Közlöny, LVII (1933), 66-76.
  4. ^ Magnusson 2006, p. 340
  5. ^ Lord Auchinleck's Fingal
  6. ^ Derick Thomson, The Gaelic Sources of Macpherson's "Ossian" (1952).

[編集] 参考文献

  • George F. Black, Macpherson's Ossian and the Ossianic Controversy, New York, (1926).
  • Patrick MacGregor, M.A., The Genuine Remains of Ossian, Literally Translated, Highland Society of London, (1841)

[編集] 外部リンク

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