グスタフ・マーラー

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グスタフ・マーラー
Gustav Mahler
1909年のマーラー
1909年のマーラー
基本情報
出生 1860年7月7日
出身地 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、イーグラウ
死没 1911年5月18日(満50歳没)
Flag of Austria-Hungary 1869-1918.svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
ジャンル ロマン派音楽
職業 作曲家指揮者
活動期間 1883 - 1911

グスタフ・マーラーGustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)はウィーンで活躍した作曲家指揮者交響曲歌曲の大家として知られる。

目次

生涯[編集]

1865年のマーラー
1892年のマーラー
1902年のマーラー
1909年のマーラー
マーラーの眠る墓
夫妻の間には14人の子供が産まれているが、半数の7名は幼少時に死亡している(当時は乳幼児の死亡率が極めて高かった)。長男イージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられる。
父親ベルンハルトは独力で酒造業を創業し経営しており、地元ユダヤ人社会の実業家(成功者)であった。私生活においては読書家であった。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。ベルンハルトも、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持つと共に、グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施した。幼いグスタフは、ドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ(当初は自分の酒造業を継がせるつもりだった)、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。

人物・作品[編集]

出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーが生まれ育った時期は、オーストリアが長らく盟主として君臨したドイツの統一から除外され、ハンガリーやチェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃でもあった。彼は生涯の大部分をウィーンで送り、指揮者としては高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはこの地で評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲がドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに国籍を問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです」と答えている。

酒造業者の息子として育ったマーラーは、黒ビールを好んで飲んだが自体には弱かった。

交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うものが多いのが特徴である。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく、『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲であるが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。

歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境が余りはっきりしないのも特徴の一つである。ちなみに現代作曲家のルチアーノ・ベリオはピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。

多くの作品においては調性的統一よりも、曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは、「新ロマン主義」が流行した1970年代からであり、幸か不幸か前衛の停滞が彼の名声に大きく貢献した。

アマチュアリズムが大好きであり、アイヴズの交響曲第三番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。

指揮者としては、自身と同じユダヤ系のブルーノ・ワルターオットー・クレンペラーらに大きな影響を与えた。特に徹底した音楽性以上の完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法はカリカチュア化されるほどの衝撃を当時の人々に与えた。オーケストラ演奏の録音は時代の制約もあり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信頼性に問題がある)が残されている。

ニューヨーク・フィルハーモニック在任中、演奏する曲に対しては譜面にかなり手をいれたようで、後にこのオーケストラの指揮者となったトスカニーニは、マーラーの手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ」と罵ったという逸話が残されている。もっとも、シューマンの『交響曲第2番』、『交響曲第3番「ライン」』の演奏では、マーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。

シェーンベルクツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。興奮した二人が「もうこんな家に来るものか」と叫んで出て行けば、マーラーも「二度と来るな!」とやり返すほど険悪な雰囲気となった。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は何してるんだ」と気にし出し、二人のほうも何食わぬ顔をして家に来て、再び交流が始まった。

ブルックナーとの関係[編集]

同時代に活躍した交響曲作家としてアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。

17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーはブルックナーの交響曲第3番(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は大失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている。

ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが、その友情は生涯消えていない。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニフェルザル出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している。

シェーンベルクとの関係[編集]

マーラーはアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価していた。

彼の弦楽四重奏曲第1番室内交響曲第1番ホ長調の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では大声で野次を飛ばす聴衆の一人を怒鳴りつけた。この際は相手から「お前の汚い交響曲にも叫んでるんだよ」と返されると「君だって汚い顔だ」とやり返し、とっくみあいの喧嘩を起こしそうになった。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆に対し「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対し「私には彼(シェーンベルク)の音楽は分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのかもしれない。私は老いぼれで、彼の音楽にはついていけないのだろう」と語ったという。また、臨終の際は「私が死んだあと、だれがシェーンベルクの面倒を見てくれるんだ」と涙したという。

シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している。

主要作品[編集]

指揮をするマーラー

交響曲・管弦楽曲[編集]

声楽曲[編集]

室内楽曲[編集]

  • ピアノ四重奏曲断章 イ短調
  • ヴァイオリン・ソナタ(散逸)
  • ピアノ五重奏曲第1番(散逸)
  • ピアノ四重奏曲(第2番)(散逸)
  • 夜想曲(散逸)

その他の作品[編集]

  • 交響詩 葬礼(本来、交響曲第2番の第1楽章の草稿)
  • スケルツォ(未完成)
  • 花の章(本来、交響曲第1番の第2楽章の原型)
  • 葬送行進曲の序奏付きのポルカ(最初の作品で、6歳の時に作曲。しかし散逸)
  • ピアノ小品集(散逸)
  • 劇付随音楽 ゼッキンゲンのラッパ吹き(散逸)
  • ヘーラーの歌曲への前奏曲(作曲者により破棄)

歌劇[編集]

  • いずれも完成されてはいない。
    • 歌劇 シュヴァーベン公エルンスト(破棄)
    • 歌劇 アルゴー号の勇士たち(未完成、散逸)
    • 歌劇 リーベツァール(未完成、散逸)

編曲作品[編集]

  • ウェーバー:歌劇「3人のピント」補筆
  • ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」(第一楽章にもトロンボーンが入っている)
  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番「セリオーゾ」弦楽合奏版
  • シューベルト:交響曲ハ長調D.944
  • シューベルト:弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」弦楽合奏版
  • シューマン:交響曲全曲
  • J. S. バッハ:管弦楽組曲

グスタフ・マーラーを扱った作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ オーストリア方言。語尾に「erl」を付けることにより、愛称形になる(モーツァルトゥル)。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

先代:
アルトゥル・ニキシュ
ライプツィヒ歌劇場
総監督
1886年 - 1888年
次代:
オットー・ローゼ
先代:
初代
プラハ・ドイツ歌劇場
指揮者
1888年 - 1891年
次代:
カール・ムック
先代:
ハンス・フォン・ビューロー
ハンブルク市立歌劇場
音楽監督
1891年 - 1897年
次代:
オットー・クレンペラー