グスタフ・マーラー
| グスタフ・マーラー Gustav Mahler |
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|---|---|
1909年のマーラー
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| 基本情報 | |
| 出生 | 1860年7月7日 |
| 出身地 | |
| 死没 | 1911年5月18日(満50歳没) |
| ジャンル | ロマン派音楽 |
| 職業 | 作曲家、指揮者 |
| 活動期間 | 1883 - 1911 |
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)はウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。
目次 |
生涯[編集]
- 1860年(0歳) 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827-1889)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837-1889)の間の第2子として、オーストリア帝国ボヘミア・イーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に出生。
- 夫妻の間には14人の子供が産まれているが、半数の7名は幼少時に死亡している(当時は乳幼児の死亡率が極めて高かった)。長男イージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられる。
- 父親ベルンハルトは独力で酒造業を創業し経営しており、地元ユダヤ人社会の実業家(成功者)であった。私生活においては読書家であった。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。ベルンハルトも、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持つと共に、グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施した。幼いグスタフは、ドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ(当初は自分の酒造業を継がせるつもりだった)、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。
- 1864年(4歳) 本人の回想によれば、この頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる。
- 1870年(10歳) 10月13日、イーグラウ市での最初のピアノ独奏会を行う。曲目は不明。
- 1875年(15歳) ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)にてローベルト・フックスに師事。弟エルンストが13歳で没。
- 1876年(16歳) 及び1877年(17歳)演奏解釈賞と作曲賞を受ける。
- 1877年(17歳) ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。
- 1878年(18歳) 作曲賞を受け、7月11日、卒業。
- 1883年(23歳) 9月、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。
- 1884年(24歳) ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。6月、音楽祭でベートーヴェンの《第9交響曲》とフェリックス・メンデルスゾーンの《聖パウロ》を指揮して、指揮者として成功。
- 1885年(25歳) 1月《さすらう若者の歌》を完成。プラハのドイツ劇場の楽長。この年は窮乏を極める。
- 1886年(26歳) 8月、ライプツィヒ歌劇場で楽長。この年《子供の不思議な角笛》作曲。
- 1888年(28歳) この年《交響曲第1番ニ長調「巨人」》生まれる。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。
- 1889年(29歳) 1月、リヒャルト・ワーグナーの《ラインの黄金》と《ワルキューレ》のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得る。2月に父を、10月に母を失う。
- 1891年(31歳) 4月、ハンブルク市立劇場の第一楽長となる。
- 1895年(35歳) 2月6日、弟・オットーが21歳で自殺。
- 1896年(36歳) シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて《交響曲第2番ハ短調「復活」》、《交響曲第3番ニ短調》を書く。
- 1897年(37歳) 春、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場第一楽長に任命され、10月に芸術監督となる。
- 1898年(38歳) ウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。
- 1899年(39歳) 南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニヒ(Maiernigg)に山荘を建て《交響曲第4番ト長調》に着手(翌年に完成)。
- 1901年(41歳) 4月、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場=現・ウィーン国立歌劇場の職は継続)。12月、「私の音楽を貴女自身の音楽と考えることはできませんか?」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出る。彼女はその後作曲の筆を折る。なお、アルマはツェムリンスキーに作曲を習い、14曲の歌曲を残している(出版:ウニフェルザル出版社)。
- 1902年(42歳) 3月、アルマ・シントラー(23歳)と結婚。2人とも初婚であった。夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第5番嬰ハ短調》を完成。10月、長女マリア・アンナ誕生。
- 1903年(43歳) フランツ・ヨーゼフ1世皇帝から第三等鉄十字勲章を授与される。次女アンナ・ユスティーネ誕生。
- 1904年(44歳) 4月シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに創造的音楽家協会を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第6番イ短調》を書き上げ、第7番の2つの「夜曲」を作曲。
- 1905年(45歳) 夏、マイアーニヒの作曲小屋で《交響曲第7番ホ短調》第1楽章、第3楽章、第5楽章を作曲して完成に至る。
- 1907年(47歳) 長女マリア・アンナ死亡。マーラー自身は心臓病と診断される。12月メトロポリタン・オペラから招かれ渡米。《交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」》完成。
- 1908年(48歳) 5月ウィーンへ戻る。トプラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて《大地の歌》を仕上げる。秋に再度渡米。
- 1909年(49歳) ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトプラッハで《交響曲第9番ニ長調》に着手し、約2カ月で完成させる。10月、渡米。
- 1910年(50歳) 4月ヨーロッパに帰る。クロード・ドビュッシーやポール・デュカスに会う。8月、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分の傍に居る事を、夜中じゅう確認せざるを得ない強迫症状と、もっとも崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かんできて、かき乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへ来てようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にミュンヘンで交響曲第8番《千人の交響曲》を自らの指揮で初演。自作自演では初の大成功を収める。
- 1911年(50歳) 2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症のため息を引き取った。臨終の言葉は「モーツァルト・・・(Mozarterl)[1]」である。ウィーンのグリンツィング墓地に葬られた。「私の墓を訪ねる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない人に訪ねてもらう必要は無い」というマーラー生前の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない。
人物・作品[編集]
出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーが生まれ育った時期は、オーストリアが長らく盟主として君臨したドイツの統一から除外され、ハンガリーやチェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃でもあった。彼は生涯の大部分をウィーンで送り、指揮者としては高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはこの地で評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲がドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに国籍を問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです」と答えている。
酒造業者の息子として育ったマーラーは、黒ビールを好んで飲んだが酒自体には弱かった。
交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うものが多いのが特徴である。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく、『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲であるが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。
歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境が余りはっきりしないのも特徴の一つである。ちなみに現代作曲家のルチアーノ・ベリオはピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。
多くの作品においては調性的統一よりも、曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは、「新ロマン主義」が流行した1970年代からであり、幸か不幸か前衛の停滞が彼の名声に大きく貢献した。
アマチュアリズムが大好きであり、アイヴズの交響曲第三番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。
指揮者としては、自身と同じユダヤ系のブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えた。特に徹底した音楽性以上の完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法はカリカチュア化されるほどの衝撃を当時の人々に与えた。オーケストラ演奏の録音は時代の制約もあり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信頼性に問題がある)が残されている。
ニューヨーク・フィルハーモニック在任中、演奏する曲に対しては譜面にかなり手をいれたようで、後にこのオーケストラの指揮者となったトスカニーニは、マーラーの手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ」と罵ったという逸話が残されている。もっとも、シューマンの『交響曲第2番』、『交響曲第3番「ライン」』の演奏では、マーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。
シェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。興奮した二人が「もうこんな家に来るものか」と叫んで出て行けば、マーラーも「二度と来るな!」とやり返すほど険悪な雰囲気となった。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は何してるんだ」と気にし出し、二人のほうも何食わぬ顔をして家に来て、再び交流が始まった。
ブルックナーとの関係[編集]
同時代に活躍した交響曲作家としてアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。
17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーはブルックナーの交響曲第3番(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は大失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている。
ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが、その友情は生涯消えていない。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニフェルザル出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している。
シェーンベルクとの関係[編集]
マーラーはアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価していた。
彼の弦楽四重奏曲第1番と室内交響曲第1番ホ長調の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では大声で野次を飛ばす聴衆の一人を怒鳴りつけた。この際は相手から「お前の汚い交響曲にも叫んでるんだよ」と返されると「君だって汚い顔だ」とやり返し、とっくみあいの喧嘩を起こしそうになった。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆に対し「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対し「私には彼(シェーンベルク)の音楽は分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのかもしれない。私は老いぼれで、彼の音楽にはついていけないのだろう」と語ったという。また、臨終の際は「私が死んだあと、だれがシェーンベルクの面倒を見てくれるんだ」と涙したという。
シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している。
主要作品[編集]
詳細は「グスタフ・マーラーの作品一覧」を参照
交響曲・管弦楽曲[編集]
- 北欧交響曲(初期の作品だが散逸)
- 交響曲 イ短調(散逸)
- コンクールのための課題の交響曲(散逸)
- 交響的前奏曲ハ短調(偽作とみなされることが多い。 ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲も参照)
- 交響曲第1番ニ長調「巨人」
- 交響曲第2番ハ短調「復活」- 独唱(ソプラノ、コントラルト)、合唱付
- 交響曲第3番ニ短調 - 独唱(コントラルト)、合唱、少年合唱付
- 交響曲第4番ト長調 - 独唱(ソプラノ)付
- 交響曲第5番嬰ハ短調
- 交響曲第6番イ短調「悲劇的」
- 交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
- 交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」 - 独唱(八声部)、2群の合唱、少年合唱付
- 交響曲第9番ニ長調
- 交響曲第10番嬰ヘ長調(未完成。デリック・クックらによる補作あり)
- 交響曲「大地の歌」イ短調 - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)付、最後の歌曲としての分類もある
声楽曲[編集]
- カンタータ「嘆きの歌」
- 歌曲集「若き日の歌」
- 歌曲集「さすらう若者の歌」
- 歌曲集「少年の魔法の角笛」
- リュッケルト歌曲集
- 歌曲集「亡き子をしのぶ歌」
- 3つの歌曲
- 2つの歌曲(散逸)
- トルコ人たちには美しい娘がいる(散逸)
- 「歌、合唱、活人付きの詩」のための民謡(散逸)
室内楽曲[編集]
- ピアノ四重奏曲断章 イ短調
- ヴァイオリン・ソナタ(散逸)
- ピアノ五重奏曲第1番(散逸)
- ピアノ四重奏曲(第2番)(散逸)
- 夜想曲(散逸)
その他の作品[編集]
- 交響詩 葬礼(本来、交響曲第2番の第1楽章の草稿)
- スケルツォ(未完成)
- 花の章(本来、交響曲第1番の第2楽章の原型)
- 葬送行進曲の序奏付きのポルカ(最初の作品で、6歳の時に作曲。しかし散逸)
- ピアノ小品集(散逸)
- 劇付随音楽 ゼッキンゲンのラッパ吹き(散逸)
- ヘーラーの歌曲への前奏曲(作曲者により破棄)
歌劇[編集]
- いずれも完成されてはいない。
- 歌劇 シュヴァーベン公エルンスト(破棄)
- 歌劇 アルゴー号の勇士たち(未完成、散逸)
- 歌劇 リーベツァール(未完成、散逸)
編曲作品[編集]
- ウェーバー:歌劇「3人のピント」補筆
- ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」(第一楽章にもトロンボーンが入っている)
- ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番「セリオーゾ」弦楽合奏版
- シューベルト:交響曲ハ長調D.944
- シューベルト:弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」弦楽合奏版
- シューマン:交響曲全曲
- J. S. バッハ:管弦楽組曲
グスタフ・マーラーを扱った作品[編集]
- 『マーラー』1974年、ケン・ラッセル監督の映画
- クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』の中に、マーラーをモデルとした人物が描かれているとされる[1]。
- トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』の主人公は、マーラーにインスピレーションを得て創作された人物といわれる。同書をヴィスコンティが映画化した際、原作での小説家という設定は作曲家に変更されてさらにマーラーを思わせるものになっただけではなく、マーラーの交響曲第5番の第4楽章(および交響曲第3番の第4楽章)が映画音楽として使われた。さらに劇中に、原作には無い「アルフレッド」という名のシェーンベルクを思わせる人物を登場させ、主人公と音楽論を戦わせるシーンを用意している。
- 同じくマンの作品である『ファウスト博士』では、主人公が作曲家に設定されており、こちらもマーラーを想定しているとされている。
- サントリーローヤルCM(1986年)
- 『Bride of the Wind』2001年、ブルース・ベレスフォード監督の映画(2008年7月現在、日本未公開)。『Bride of the Wind』(風の花嫁)は、アルマ未亡人の恋人になった画家、オスカー・ココシュカの代表作(1914年)のタイトルでもある。
- 『グスタフ・マーラー 時を越える旅』1987年、ウォルフガング・レソウスキー監督のオーストリア・西ドイツ合作映画
- 『マーラー 君に捧げるアダージョ』2010年、パーシー・アドロン、フェリックス・アドロン監督のドイツ・オーストリア合作映画
脚注[編集]
- ^ オーストリア方言。語尾に「erl」を付けることにより、愛称形になる(モーツァルトゥル)。
参考文献[編集]
- 『マーラー カラー版作曲家の生涯』 新潮社 : ISBN 4-10-103811-2
- 『ブルックナー カラー版作曲家の生涯』 新潮社 : ISBN 4-10-106611-6
外部リンク[編集]
- IMSLP - 国際楽譜ライブラリープロジェクト内のグスタフ・マーラーのページ。無料で楽譜PDFが入手可能。
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