フランツ・リスト

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フランツ・リスト(リスト・フェレンツ)
Liszt Ferenc
フランツ・リスト(1839年)}
フランツ・リスト(1839年)
基本情報
別名 ピアノの魔術師
出生 1811年10月22日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ブルゲンラント州 ライディング
死没 1886年7月31日(満74歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国 バイロイト
学歴 ウィーン音楽院
職業 ピアニスト
作曲家

フランツ・リストドイツ語Franz Liszt, ハンガリー語Liszt Ferenc, 1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト作曲家。両親の血統、母語、もっとも長い活躍地のいずれもドイツに属し、当時中東欧に多数存在したドイツ植民の一人だが、自身生地のハンガリー(当時はオーストリア支配下の形式的独立国としてのハンガリー王国の版図内、現在はオーストリアに帰属している)を祖国と呼び、死後もドイツ人オーストリア人)よりはハンガリー人と記載されることが多い。ただし、こうした出自や、生涯ハンガリー語を習得することがなかったこともあり、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけられる。

ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。

生涯[編集]

リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期)

オーストリア帝国領内ハンガリー王国ライディング(ドボルヤーン、当時はショプロンに、現在はオーストリア共和国ブルゲンラント州に帰属)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父アーダム・リストと、オーストリア人(ドイツ人)の母アンナの間に生まれた。

ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。

家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であった。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていた。数ヶ国語に通じながら結局、生涯ハンガリー語だけは覚えなかったことを疑問視する声もあるが、血統的にも生地的にもハンガリー人でありながらドイツ語しか話せない人が少なくなかった時代であり、必ずしも非難にはあたらない。歌曲は大部分がドイツ語(一部はフランス語)で書かれている。

家名の本来の綴りは List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では sz の綴りで /s/ を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがある。リストのハンガリーのパスポートではファーストネームの綴りがFerenczとなっていたのにも拘らず今日ではFerencと綴られるが、これは1922年ハンガリー語正書法改革で苗字を除く全ての語中のczがcに変更されたためである。1859年から1867年までの公式の氏名はフランツ・リッター・フォン・リスト (Franz Ritter von Liszt) だったが、これは1859年皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりリッター(騎士)の位を授けられたためであり、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もなかった。この称号はカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要だったが、カロリーネとの結婚が婚姻無効に至った後、1867年にリストはこの称号をおじのエードゥアルトに譲った。エードゥアルトの息子が法学者のフランツ・フォン・リストである。

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年ウィーンに移住し、ウィーン音楽院カール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールアントン・ライヒャに師事した。ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年には歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。

1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。その時の石版画1873年、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている(ただし無署名である)。

1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。

1831年ニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズフレデリック・ショパンロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。1838年ドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年スイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。

3児を儲けたものの、1844年にはマリーと別れた[1]。再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。
彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念した。

1859年にヴァイマルの宮廷楽長を辞任。1861年にはローマに移住し、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』は20世紀の印象主義音楽に影響を与え、ドビュッシーの『水の反映』に色濃く残っている。同時にラヴェルの『水の戯れ』も刺激を受けて書かれたものであると言われている。『エステ荘の噴水』の作曲時、エステ荘にたくさんある糸杉をみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いている。「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何もー教会についてすらー考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの12音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアン移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。

ナダールによる晩年のフランツ・リスト

リストは晩年、虚血性心疾患慢性気管支炎鬱病白内障に苦しめられた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。

1886年バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。 第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。

人物[編集]

ピアニストとしてのリスト[編集]

リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、彼の死後100年以上経っている現在においても、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。

「6本指」は誇張であるが、幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたとされる。彼の曲には両手を広げての4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。

そんな彼でも、ショパンの「12の練習曲 作品10」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。

当時無名であったエドヴァルド・グリーグが、書き上げた「ピアノ協奏曲イ短調」の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の「ピアノとオーケストラのためのバラード」を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。またワーグナーオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。

リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。

リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常に情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったという。そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともあった。1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形である。またピアノ製造会社であるベーゼンドルファーはリストの演奏に耐えた事で有名になった。

リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた話は有名だが、リスト自身も演奏中に気絶することがあったという。ほかにも、当時天才少女として名を馳せていたクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したり、自分の演奏を聴かないニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と言い放ったというエピソードも見られる。

リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われている(演奏中のリストの写真や肖像画で鍵盤を見て弾いているものは1枚もない)。

また、リストの弟子達には非常に演奏技術が高いと評されるピアニストが多いが、その弟子達の誰もがこぞってリストの演奏を賞賛しており、誰一人貶していない。この事はリストが演奏家としての絶頂期には、今日超難曲と言われている曲々を(おそらくは即興により楽譜以上に音を足して)見事に弾きこなしていたことの間接的な証であると言える。

指導者としてのリスト[編集]

リストは芸術家が演奏以外で巨額の収入を得ることを好まないとして、無料で指導を行った。一方でリストの指導者のツェルニーは、優秀な生徒であっても高額な謝礼の支払いが出来なければ指導を打ち切ったこともあった(ただし、リストには無料で指導した)。リストは、そんなツェルニーに超絶技巧練習曲を献呈している。 リストは生徒にリストの真似を強要することなく、むしろ真似ることを嫌い、各生徒の個性重視を好み、探求させた。技術面での指導は最小限にとどめ、馴染みやすい言葉や、ウィットに富んだ表現を使うことがしばしばあった。(一例としては、小人の踊りであやふやなリズムになったときに「ほら!またサラダを混ぜてしまったよ」) マスタークラスを考案したリストであるが、いくつかの楽曲をそれで教えることを避けた。

1884年フランツ・リストと生徒達

作曲家としてのリスト[編集]

音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。

自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群は殆ど全てのジャンルの音楽に精通していると言っていいほど多岐にわたる。彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。 ピアニスト時代はオペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。

一方ヴァイマル時代はピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としては最も活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。

晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。

またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリーザベトの伝説』『キリスト』を始め『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や『十字架の道行き』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動英語版」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。

評論家としてのリスト[編集]

同時代に評論活動を活発に行ったシューマンほどではないが、リストも他人の評論を行っている。たとえばシューマンに「非芸術的」と酷評されたアルカンの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。このほか、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。評論と平行して、スメタナを評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行ってもいた。

ブラームスワーグナーの2派に別れていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についたハンスリックと対立している。

帰属にまつわる逸話[編集]

父アーダムが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。ハンガリー語がほとんど話せないことを後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごしたハンガリーを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「ハンガリー狂詩曲」は、ロマによって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけた。ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人 (Magyarmania) には耐え難い混同であり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。後にバルトークはこれを厳しく批判している。

今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。リストの名を冠した音楽院はブダペストとワイマールの両方に存在する。生地が現在帰属するオーストリアでは、両国に比べると自国の音楽家という意識はやや薄いようである。

主要作品[編集]

リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在はリストの作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードの『リスト・ピアノ曲全集』(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺1巻、2巻を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。

彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号 (S.) と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号 (R.) の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。

歌劇[編集]

管弦楽曲[編集]

交響曲[編集]

交響詩[編集]

リストは標題音楽交響詩というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日『前奏曲』以外が演奏されることはまれである。

  1. 人、山の上で聞きしこと』(Ce qu'on entend sur la montagne) S.95/R.412, 1848-56年 [約30分]
    『山岳交響曲』(Berg-Symphonie) とも。
  2. タッソー、悲劇と勝利』(Tasso, lamento e trionfo) S.96/R.413, 1848-54年 [約21分]
  3. 前奏曲』(Les préludes) S.97/R.414, 1848-53年 [約15分]
  4. オルフェウス』(Orpheus) S.98/R.415, 1853-54年 [約11分]
  5. プロメテウス』(Prometheus) S.99/R.416, 1850-55年 [約13分]
  6. マゼッパ』(Mazeppa) S.100/R.417, 1851-54年 [約16分]
  7. 祭典の響き』(Festklänge) S.101/R.418, 1853年 [約20分]
  8. 英雄の嘆き』(Héroïde funèbre) S.102/R.419, 1849-54年 [約27分]
  9. ハンガリー』(Hungaria) S.103/R.420, 1854年 [約23分]
  10. ハムレット』(Hamlet) S.104/R.421, 1858年 [約14分]
  11. フン族の戦い』(Hunnenschlacht) S.105/R.422, 1856–57年 [約15分]
  12. 理想』(Die Ideale) S.106/R.423, 1857年 [約27分]
  13. ゆりかごから墓場まで』(Von der Wiege bis zum Grabe) S.107/R.424, 1881-82年 [約14分]

管弦楽曲[編集]

ピアノと管弦楽のための作品[編集]

ピアノ曲[編集]

オリジナル作品[編集]

編曲[編集]

「ラ・カンパネッラ」で有名な『パガニーニ大練習曲』はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品とされ、サール番号での分類をはじめ、通常は編曲とは看做されずオリジナル作品に分類される。ただしその前身である『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』 (S.420) は編曲作品とみなされる。

宗教音楽[編集]

  • オラトリオ「聖スタニスラウス」 (S.1) - 未完成
  • オラトリオ「聖エリーザベトの伝説」 (S.2/R.477) 1862年 [約1時間40分]
  • オラトリオ「キリスト」 (S.3/R.478) 1867年 [約2時間50分]
  • 荘厳ミサ曲 (S.9) 1855年[約55分]
  • 戴冠式のミサ曲 (S.11) 1867年[約45分]
  • レクイエム (S.12) 1868年
  • 詩篇第13篇 (S.13) 1855年 [約25分]

歌曲[編集]

  • おお、愛して下さい、愛しうる限り長く (ピアノ曲『愛の夢』の原曲)(S.298)
  • ペトラルカの3つのソネット (S.270)
  • ローレライ (S.273)
  • 三人のジプシー(三人のツィゴイナー/Die Drei Zigeuner)

未完成作品[編集]

偽作作品[編集]

  • ベネディクトゥス (S.706) - 偽作?
  • リナルド (S.708)

消失作品[編集]

  • 交響的大幻想曲 (S.716)
  • 葬送行進曲 (S.745)
  • アンダンテ・マエストーソ (S.746)
  • ポコ・アダージョ (S.747)
  • ロッシーニ 歌劇「ノネットとモーゼ」の主題による幻想曲 (S.751) - 紛失したが、恐らく未完のまま放棄?
  • オルガン交響詩 (S.758)

主な弟子一覧[編集]

リストと同門には名教師テオドル・レシェティツキがいる。リストとレシェティツキとでは弟子の取り方に違いがあり、レシェティツキは「来る者は拒まず」然で弟子をどんどん採った(多く採りすぎて、大半は助手が教えていた)のとは対照的に、リストは才能を感じる者だけを弟子として採っている。

著作[編集]

  • 『F・ショパン』 (F. Chopin) - ショパン亡き後の1851年にパリで出版。彼の作品や生涯について、彼の故郷であるポーランドの風俗や国民性を参照しながら綴ったもの。
    日本語版として『ショパンの芸術と生涯』(蕗沢忠枝訳、モダン日本社、1942年)と『ショパン その生涯と芸術』(亀山健吉・速水冽訳、宇野書店、1949年)の2種類がある。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 原因は「リストマニア」と呼ばれる熱狂的女性ファンと多数の情事にふけったことと言われているが、それ以上に身分と人種の問題が大きい。『The Classic Collection』第18号より。

参考文献[編集]

  • Demko, Miroslav (2003). Franz Liszt: Compositeur Slovaque, Lausanne: L’Age d’Homme.
  • Walker, Alan (1984). Franz Liszt, The Virtuoso Years 1811-1847, New York: Alfred A.Knopf.
  • Walker, Alan (1989). Franz Liszt, The Weimar Years 1848-1861, London: Faber and Faber Limited.
  • 福田弥『リスト』音楽之友社〈作曲家・人と作品〉、2005年
  • ロベール・ポリー『ベートーヴェン 目で見るドキュメント』武川寛海訳、音楽之友社、1970年

外部リンク[編集]