カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ

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初期の自画像
『海辺の僧侶』(1808-1810)ベルリン美術館所蔵の画布、油彩。寸法は、110 × 171.5cm。
『氷の海』(1823-1824年)画布、油彩

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒドイツ語:Caspar David Friedrich1774年9月5日 - 1840年5月7日)はドイツ画家グライフスヴァルト出身、ドレスデンで没する。フィリップ・オットー・ルンゲとともに、ドイツのロマン主義絵画を代表する。宗教的含意をふくむ風景画によって知られる。カスパル・ダーヴィト・フリードリヒとも。

概要[編集]

ナポレオン戦争とそれに続く時代には、あえて禁止されていた伝統的な民族衣装に身をつつんだ人物を描くなど、ドイツにおけるナショナリズムの形成にも寄与したが、ややもすれば過剰ともなりかねない愛国主義的姿勢や作品にうかがわれる神秘主義的傾向に対しては政治的な理由で批判を浴びる事もあり、ゲーテのように冷静に距離を置いた同時代人もいる。

作品は、自然の風景、それも高みや遥か彼方を見据えるもの、廃墟になった僧院、墓地、古代の巨石墓、の木などがよくモチーフとして取り上げられる。無人の荒涼とした風景を題材とした、宗教的崇高さと静寂感に満ちた作品が多い。人が描かれるときは、その人も作品に描かれた風景を鑑賞者と共に見つめるため、背後からしか描かれないのが常である。例外的に幼児のみがこちらを向いて描かれる。また、『氷の海』のように、自然の冷酷さと死のイメージを重ね合わせた作品も多い。主要な作品は、ドレスデン美術館ベルリンのナショナル・ギャラリー(ムゼウムスインゼル)で見ることができる。

元々は、セピアインクによるペン画(線画)を描いていた。脳卒中で倒れた後は、油彩からは一歩引いて再びペン画を中心に画業を行っていた。

なお、フリードリヒの作品は、昭和初期から主にドイツ文学者たちによって日本に紹介されている。また、ドイツ留学の経験のある日本画の東山魁夷の作品には、フリードリヒからの影響が見られる。

生い立ち[編集]

カスパー・ダヴィット・フリードリヒは石鹸蝋燭業を営む父の4男として、当時スウェーデン領のドイツの最北端・フォアポルメンのグライフスヴァルトにて生まれた。幼少の頃、妹を亡くす。13歳の時、河でスケート遊びをしていたところ、が割れて溺れ、彼を助けようとした一歳年下の弟・クリストファーが溺死してしまう。フリードリヒはこの事で長年自分を責め続け、うつ病を患い自殺未遂を起こした事もあった。その後、姉や母も亡くし、これらの事が彼の画風や人格に大きく影響を与えていると言われている。

1794年コペンハーゲンの美術アカデミーに入学し学ぶ。その後、ドレスデンに転居し美術アカデミーに在籍する。

1799年、ドレスデン美術アカデミー展に出品。

1805年、ゲーテ主催のヴァイマル美術展に課題外の作品を出品し、受賞する。

1807年油彩での本格的な制作を始める。ボヘミアへ旅行。

1810年、『海辺の修道士』『樫の森の中の修道院』がプロイセン王室に買い上げられる。ベルリン美術アカデミーの在外会員になる。

1813年ナポレオン軍と連合軍の戦いのため疎開。

1814年、ナポレオンが退位。愛国的作品をドレスデン美術展に出品。

1816年ドレスデン美術アカデミーの会員になる。

1818年、19歳年下のカロリーネと結婚。妻と帰郷。シュトラールズント市から依頼された聖母教会の内装デザインを送る。

1833年、政治的なことも絡んでか、批判的な批評が増える。

1835年脳卒中で倒れ、一命は取り留めるも後遺症として麻痺が残る。以降はセピアインクによる線画を中心に描くようになる。

1836年、デュッセルドルフ派の展覧会に出品

1840年に死去。

文献[編集]

  • フォン・アイネム、神林恒道・武藤三千夫訳 『ドイツ近代絵画史』 岩崎美術社(絶版)
  • ゲルトルート・フィーゲ、松下ゆう子訳  『カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ 』 Parco出版、1994年 
  • 小笠原洋子 『フリードリヒへの旅』 (角川叢書)角川学芸出版、2009年

主な作品[編集]

  • エルベ渓谷の眺め(1807年)
  • 港の眺望(1815-1816年)
  • 雲海の上の旅人(1818年)
  • リューゲン島の白亜岩(1818年)
  • 月を眺める2人の男(1819-1820年)
  • 氷の海(1823-1824年)
  • 月を想う男と女(1830-35年)

関連項目[編集]