カール・アレクサンダー (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)

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カール・アレクサンダーと妻のソフィー
少年時代のカール・アレクサンダー、1825年

カール・アレクサンダー・アウグスト・ヨハン(ドイツ語:Carl (Karl) Alexander August Johann, 1818年6月24日 - 1901年1月5日)は、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公(在位1853年 - 1901年)。

生涯[編集]

ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・フリードリヒとその妻でロシア皇帝パーヴェル1世の娘であるマリヤ・パヴロヴナとの間の次男として、ヴァイマルで生まれた。兄パウル・アレクサンダーはカール・アレクサンダーが生まれる12年前に死んでいたため、生まれたときから大公家の世継ぎであった。母マリヤはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの友人であったフレデリック・ソレを息子の家庭教師に選んだ。

大公世子だった頃、文学者のファニー・レヴァルト (enハンス・クリスチャン・アンデルセンと親しい友人関係を築いたが、ドイツ連邦デンマークの間で1849年にシュレースヴィヒホルシュタイン公国の帰属をめぐる第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が起きると、アンデルセンとの友情は決裂した。1853年7月8日に父が死ぬと大公位を継承することになったが、ゲーテの誕生日である1853年8月23日になるまで即位するのを待っている。

ヴァルトブルク城を修復し、アイゼナハの様々な場所に自分の名前を残した。大公はリヒャルト・ヴァーグナーフランツ・リストの後援者であり、ヴァイマル古典主義の時代の伝統を保持し、古いヴァイマルの町を新装し、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーやゲーテ、フリードリヒ・フォン・シラーといったヴァイマルゆかりの偉人たちのモニュメントを築いて美化に努めた。1860年、アルノルト・ベックリン、フランツ・フォン・レンバッハ、ラインホルト・ベーガス (enの協力を得てヴァイマル美術学校を創立している。大公として、カール・アレクサンダーはイェーナ大学の総長を務めていたが、彼は大学の数ある収集品の中でも、特にイェーナ大学東洋貨幣コレクション (enの収集事業を熱心に支援した。1900年11月にはヴァイマルにゲーテ連盟が成立した。カール・アレクサンダーの治世は、再び文芸復興の気運が見られたことから「ヴァイマルの銀の時代」と呼ばれている。

普仏戦争にも友邦プロイセンとの誼で参加している。スペインの金羊毛騎士団の1045番目の騎士であり、またポルトガルの塔および剣勲章の最高勲章をも受章している。1901年にヴァイマルで亡くなった。一人息子のカール・アウグストは既に亡くなっていたため、孫息子のヴィルヘルム・エルンストが大公位を継承した。

結婚と子女[編集]

1842年10月8日、カール・アレクサンダーはオランダ王ウィレム2世の娘ソフィーと結婚した。カール・アレクサンダーの母マリヤ・パヴロヴナとソフィーの母アンナ・パヴロヴナは姉妹であり、したがって夫妻は従兄妹同士だった。カール・アレクサンダーとソフィーは4人の子供をもうけた。

先代:
カール・フリードリヒ
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公
1853年 - 1901年
次代:
ヴィルヘルム・エルンスト