ヨーゼフ・ヨアヒム

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ヨーゼフ・ヨアヒムドイツ語: Joseph Joachim)、ヨアヒム・ヨージェフハンガリー語: Joachim József, 1831年6月28日-1907年8月15日)は、ヴァイオリニスト指揮者作曲家。ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演ヴァイオリニストとして後世に名を残している。

目次

[編集] 略歴

ヨアヒムは、1831年6月28日、ポジョニアイゼンシュタットにほど近いハンガリー西部のキットゼー(マジャル語名ケプチェーニ)で生まれた。キットゼーはバッチャーニ=シュトラットマン家(Batthyány-Strattmann)の館のある地として知られ、現在はオーストリアブルゲンラント州に属している。1833年、ヨアヒムの一家はブダペストに移った。そして、彼は5歳になると、ブダペストでヴァイオリンのレッスンを受け、続いてウィーンに渡りウィーン音楽院で修行した。

1843年、12歳になると、ライプツィヒに出向き、メンデルスゾーンに師事した。尚、ライプツィヒ音楽院の入学試験で、ヨアヒムが演奏した際の試験官は学院長のメンデルスゾーンであった。同年8月、ゲヴァントハウスで、メンデルスゾーン、クララ・シューマンらと共演し、12歳のヨアヒムは、ライプツィヒの聴衆の知るところとなった。3年後、ヨアヒム15歳の時、メンデルスゾーンに伴われて初めてロンドンで演奏し成功を収めたが、翌年1847年11月4日、メンデルスゾーンは亡くなった。

翌1848年、17歳になったヨアヒムは、2年間、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に在籍した。その間、オーケストラのみならず、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第二バイオリンも担当した。その後、1850年ヴァイマルに移りコンサートマスターに就任。

ここで、フランツ・リストリヒャルト・ワーグナーと知り合ったが、1852年ハノーファーに移って以降、彼らの観念主義的音楽とは、歯車が合わず疎遠となり、代わりに、ロベルト・シューマンクララ・シューマンヨハネス・ブラームス(何度かヨアヒムとのリサイタルでピアノを演奏した)らと親しくなり、ヨアヒムとブラームスは、共同で、リストやワーグナー及び彼らの仲間達の音楽に反対する宣言文を執筆している。また。ハノーファーで、ヨアヒムは歌手のアマーリエ・ヴァイスと結婚した。

1866年には、王立音楽アカデミーの創設と指導のためにベルリンに招かれた。ヨアヒムは自分のオーケストラを創設し、また1869年には「ヨアヒム弦楽四重奏団」を創設した。この楽団は世界屈指の四重奏団という名声を勝ち得た。1884年に、ヨアヒムは妻がブラームスの楽譜出版者であるフリッツ・ジムロックと関係があったと確信するようになり、離婚した。ブラームスはヨアヒムの疑いには根拠がないと考え、アマーリエを擁護する長い手紙を書いた。この手紙が法廷に証拠として提出されたことからブラームスとヨアヒムの友情は壊れ、回復するのは数年後のことであった。ヨアヒムは1907年に死去するまでベルリンに住んでいた。

[編集] 業績

[編集] 演奏家として

ソロバイオリニストとして知られるヨアヒムであるが、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に1848年~1850年の2年間在籍し、オーケストラ奏者に加えて、同楽団の首席奏者で構成されるゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第二バイオリンも担当するなど幅広く演奏活動を行った。

ソロバイオリニストとしては、ヨハン・ゼバスチャン・バッハからルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンヴァイオリン協奏曲(この曲がスタンダード曲になるにはヨアヒムの大きな貢献があった)を経て、年下の同時代人たち(その多くは彼の個人的な知人であった)の作品に至る幅広いレパートリーを演奏した。

これらの演奏に加え、アントニン・ドヴォルザーク、ロベルト・シューマン、マックス・ブルッフからヴァイオリン協奏曲の「献呈」も受けている。ただし、ドヴォルザークとシューマンの曲を演奏することはなかった。(ブルッフの協奏曲1番も献呈を受けたが初演は別人が担当)

尚、ヨアヒムはブラームスと特別に密接な協力関係にあり、ブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲した時は、器楽演奏についての技術的な助言を行なっている。この協奏曲は、1879年1月1日、ヨアヒムの独奏バイオリンで初演され、彼に献呈された(ただし公式に演奏したのは6回だけであった)。ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲の初演では、独奏ヴァイオリンを演奏し(この曲は離婚問題による仲違いの後、友情修復の為に作曲された)、交響曲第1番イギリスでの初演を指揮した。

[編集] 作曲家として

ヨアヒムの作曲家としての業績は、演奏者としてのそれよりは著名ではない。作曲家としての評価は、「優秀ではあるが、個性に欠ける」といったものであり、現在は彼の作品はほとんど演奏されない。彼の作品には、多数のヴァイオリン曲(三つの協奏曲を含む)とシェイクスピアの「ハムレット」、「ヘンリー4世」のための序曲などがある。また、多くの他の作曲家のヴァイオリン協奏曲のカデンツァを作っており、その中にはベートーヴェンとブラームスの協奏曲がある。

[編集] 教育者として

教育者としてベルリン高等音楽学校の校長を務めるなど、教師としても人望と名声に恵まれ、レオポルト・アウアーイェネー・フバイを輩出した。これらの門人もまた演奏家ならびに教師として傑出しており、アウアー門下のエフレム・ジンバリストヤッシャ・ハイフェッツナタン・ミルシテイン小野アンナ、フバイ門下のヨゼフ・シゲティもヨアヒムの孫弟子になる。邦人ヴァイオリニストの中でも、小野アンナ門下の諏訪根自子、ジンバリスト門下の江藤俊哉、シゲティならびにミルシテイン門下の海野義雄前橋汀子、ハイフェッツ門下の清水高師など、ヨアヒム直系の演奏家は数多い。

[編集] エピソード

ヘンレイのヴァイオリン製作者名鑑によると、ヨアヒムはフランス滞在中にはフランスの弦楽器製作者シャルル・ジャン・バチスト・コラ=メゾン制作のヴァイオリンで演奏したとのことである。

1905年10月19日にドイツで行われたシベリウス作曲のヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47 の改訂版の初演は周囲の人が絶賛したにもかかわらずヨーゼフ・ヨアヒムは『とてもつまらなかった』と評している。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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