カンボジア内戦

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カンボジア内戦は東南アジアのカンボジアにおいて、カンボジア王国が倒れたのち、四派合同政権が統一するまでの間、20世紀後半に続いた内戦状態をいう。

目次

[編集] 暴動および戦争

カンボジアは1949年フランス領インドシナからの独立を認められ、ノロドム・シハヌーク国王によって統治されていたが、王制に対抗する国内派閥の抗争があり、国内には不安定要素を抱えていた。1960年代中頃までに始まっていた王の微妙な調整策は失敗に終る。カンボジア領域内の北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線の大規模補給基地の存在、カンポン・チャムの共産軍に対する補給揚陸港としての使用と同様に、隠密の情報収集、サボタージュ使命および南ベトナム軍とアメリカ軍による領空飛行は、カンボジアの偽りの中立を作った。しかし、1965年2月に米国が北ベトナムの空爆に踏み切ると、シアヌークは対米断交に踏み切り、南ベトナム解放民族戦線の拠点となった(シアヌーク・ルート)。米国はインドシナ安定と戦争の遂行のために、カンボジアに親米的な政権を樹立する必要があった。

[編集] 1970年3月のクーデター

シアヌーク国王がモスクワ北京への訪問途中であった1970年3月18日の朝、下院は急遽召集され、国家元首としてのシアヌークを退けることを満場一致で可決した。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となり、10月にクメール共和国の樹立を宣言した。一方、シアヌークの従兄弟シリク・マタクは、代理の首相としての彼の地位を保持した。ロン・ノルの首相就任式の際、米軍は空からシアヌークを批判するビラを撒き、ロン・ノルを援助した。新政府は米国に守られる形で権力の譲渡の有効性を強調し、それは多くの外国政府に認められた。

クーデターの数日後、シアヌークは北京でロン・ノルへの抵抗を訴えると、それに答えるデモと暴動が国の至る所で生じた。3月29日には約40,000人の農民がシアヌークの復権を要求するデモ行進を行ったが、軍隊と衝突し、多くの死傷者が出た。ロン・ノルは翌1970年4月、アメリカ軍に自国への侵攻を許可し、農村地域への空爆が強化された。これはベトナム戦争のホーチミン・ルートを粉砕するためだったが、数十万人の農民が犠牲となり、共産主義勢力クメール・ルージュの伸張を招いた。またロン・ノルは激しい反ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われたカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。プラソト・ネアクルン・タケオでは強制収容所などでベトナム系住民が集団虐殺された。このため、シハヌーク時代に50万人いた在カンボジアベトナム人のうち20万人もが1970年にベトナムに集団帰還するという事態となった。

一方、シアヌークは中国にとどまったが、彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポトらの指揮するクメール・ルージュだった。10月、ポル・ポトはシアヌークを擁立し、ロン・ノル政権との間で内戦が勃発した。

[編集] クメール・ルージュの支配

1972年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させ、この内戦に直接介入した。これによってベトナム戦争はインドシナ戦争に拡大した。ロン・ノルは10月に軍事独裁体制を宣言し、翌1972年3月に大統領に独裁的権力をもたせた新憲法を公布した。しかし、中国からの密接な支援を受けたクメール・ルージュはこれと戦闘を続け、さらに1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退するとロン・ノルは追い詰められた。1975年4月、遂にロン・ノルは国外へ亡命、隣国ベトナムではサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結した。この後、クメール・ルージュが首都プノンペンに入城し、1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布し、国名を民主カンプチアに改称した。

プノンペン陥落後、クメール・ルージュは、「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させる」という視点から、都市居住者、資本家、技術者、学者・知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。彼らは農民として農業に従事させられ、多くが反乱を起こす可能性があるという理由で処刑された。反乱の首謀者になる可能性があるクメール・ルージュ内部の人間も殺された。革命の成功を知り、国の発展のためにと帰国した留学生や資本家も、殺害された。また、子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。 ポル・ポト時代の飢餓と虐殺による死者は70万~300万人とも言われているが、カンボジアでは1968年を最後に国勢調査は行われておらず、そのうえポル・ポト以前の内戦・空爆による犠牲や人口の難民化により、元となる人口統計が不備の為、こうした諸推計にも大きく開きが出ている。

クメール・ルージュ下の残虐行為に関する最も初期の記述のうちの1つは、イス・サリンによって1973年に書かれた。彼はクメール・ルージュの幹部メンバーであったがポル・ポトおよび民主カンプチアに幻滅を感じて党を去り、9か月後に密かにプノンペンに戻った。彼の著書『クメールの魂に対する後悔』(Sranaoh Pralung Khmer)は、クメール・ルージュが存在を秘密にした上部機構、中央委員会(Angkar Loeuあるいは単にAngkar)を明らかにした。中央委員会はKena Mocchhim(Committee Machine)と呼ばれた。

[編集] ベトナム軍介入

1978年1月から、ポル・ポトはベトナム領内の農村に攻撃をしかけ、ベトナムと断交した。この頃、ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソ対立の構図から、中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権と対立することとなった。1978年5月、ポル・ポトへの反乱が疑われたベトナムと接する東部軍管区のクメール・ルージュ幹部・兵士らが、南西軍管区のポル・ポト派から攻撃を受け、内紛に陥った(五月決起)。その結果東部軍管区の将兵が大量処刑され、ベトナム領内には東部地区軍民の難民が大量に流れ込んだ。ベトナムは、カンボジアからの難民をカンプチア救国民族統一戦線(KNUFNS)として組織し、ヘン・サムリンを首相に擁立して打倒ポル・ポトを掲げ、KNUFNSを先頭に立て民主カンプチア領内へ侵攻した。 中越戦争で中国軍との戦いに投入されたのは北部出身の将兵であった一方、カンボジアに侵攻したベトナム軍は、旧ベトコンと旧政府軍からなる南部の兵士が主力となった。

1979年1月、ベトナム軍はプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊、ベトナム軍はポル・ポト一派をタイ国境近くの山林まで駆逐した。そして親ベトナムのヘン・サムリン政権が樹立されたが、ベトナム軍は山深くに潜んだポル・ポトを捉えられず、ゲリラ化したポル・ポト派との内戦の泥沼におちいった。翌2月には中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかし、戦争に慣れ士気、錬度が高く、ソ連から軍事援助を供与され、米軍の残した大量の兵器を有するベトナム軍に中国軍は惨敗し、3月には撤収した。その後、クメール・ルージュとシアヌーク国王派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の三派は連合し、ベトナム軍およびヘン・サムリン軍との内戦が続いた。プノンペンを支配するヘン・サムリンはベトナムの傀儡と化しており、長期にわたるベトナム軍の駐留は国内外から非難された。

1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム三派は北京で会談を開き、7月には反ベトナム三派の連合政府・民主カンボジアが成立、カンボジアは完全に二分された。一方、1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談では、ベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、ベトナムはこれに従わず、3月にポル・ポト派の拠点を攻撃した。1984年7月の東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に大攻勢をかけ、反ベトナム三派の民主カンボジアの拠点であるマライ山を攻略、3月にはシアヌーク国王派の拠点を制圧し、民主カンボジア政府の軍事力はほぼ壊滅した。

[編集] 和平への道

1986年7月、社会主義ベトナムを率いてきたレ・ドゥアン書記長が死去した。新たに政権の座についた後継者チュオン・チン書記長は、ソ連のペレストロイカに倣い、それまでの硬直した社会主義体制からの脱皮を図り、12月に「ドイモイ」路線を採択し、経済開放と国際協調路線へと舵を切った。また、チュオン・チンは次々に政府首脳の入れ替えを行い、新体制の基盤を固めた。1988年6月、ベトナムは東南アジア長年の懸念であったカンボジア駐留軍の撤収をはじめ、翌1989年9月に撤退を終えた。その結果、ベトナムの軍事的な支えを失ったフン・セン政権は弱体化し、完全な強者のいなくなったカンボジアは、国際社会によって和平へ導かれることとなる。

1990年6月、日本東京で「カンボジア和平東京会議」を開催した。続く1991年10月、フランスパリで「カンボジア和平パリ国際会議」を開催し、国内四派による最終合意文章の調印に達し、ここに20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。

1992年3月、国際連合による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が平和維持活動を始め、1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、ポル・ポト派をのぞく三派が参加した。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノドロム・シアヌークが国王に再即位した。1994年クーデター未遂事件が発生したが、これを最後に国内はおおむね平定された。1998年4月には辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが明らかとなり、この地も平定された。

[編集] 関連項目