文明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

文明(ぶんめい、: civilization, civilisationラテン語: civilizatioキーウィーリザティオー)は、人間が創り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

目次

文明の概念 [編集]

定義 [編集]

西欧語の "civilization"(英語)などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味する "civitas" に由来する。ローマ時代の文明とは、字義通りに都市化や都市生活のことであった。

マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のように挙げている[1]

大貫良夫はこうしたチャイルドの指標について、アンデス文明やインダス文明では文字があまり重要ではなかった[2]し、冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかったと指摘したうえで[1]、大きな人口を維持するには効果的な食料生産と食料分配の制度や分業・階層化を可能にする中心機構を持った政治システムが必要であるとしたうえで「文明とは国家という政治システムを持つ社会のこと」と定義している[3]

伊東俊太郎は文明を「既存の多くの文化のサブ・システムを包含し、文化に対していっそう広域的なネットワークを形成し、より広い範囲に普遍的に広がっているものであり、大規模で高度な組織化、制度化、統合化、精緻化が行われているもの」と定義している[4]

文明と野蛮・未開 [編集]

伝統的に、文明は野蛮未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。都市生活の素晴らしさや、野蛮・未開の劣等性を知識人たちが疑わなかった時代には、文明とは何かという理論的問題は発生しなかった。しかしそこが疑われるようになると、自民族・自文化中心主義をとりはらった文明の定義が求められるようになった。20世紀前半まで圧倒的に主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という見方で文明を定義するものである。歴史や社会の発展段階論に結びつくと、野蛮は未開とも呼ばれる。この見方は、ギリシャローマ西欧(ローマ人対蛮族)に共通のものであり、また、中国中華思想朝鮮小中華思想、また日本も同様の思考様式を持っており、華夷の別は王化に浴するかどうかで本国(いわゆる中国)と周辺服属国(夷)、独立地域を分けた。

これらの思想は自文明中心主義と結びついて周辺支配のためのイデオロギーとなった。文明概念は、文明人は野蛮人より、文明国は未開社会より、優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践を行なうと想定する。文明は、人道的、寛容で、合理的なもので、逆に野蛮は、非人道的で、残酷で、不合理なものとされた。文明側の自己讃美は、それが文明人の間の行動を規制するために主張されたときには、道徳性を強める働きをしたが、野蛮人や未開人に対して主張されたときには、文明人による非人道的で残酷な行為を正当化することがしばしばあった。

しかし、同じ分類方法をとりながら、野蛮や未開の方が逞しさ、自由、道徳性の点で優れていると考える人々もいた。高貴な野蛮人という言葉で要約できるこの考えは、ローマのタキトゥスにその片鱗を見ることができ、後に西洋近代にロマン主義として一大流行になった。とはいえ、この考えが主流派に対する異議申し立ての地位を越えた時代はない。

近代西欧における「歴史の進歩」という考えは、未開から段階を踏んで高度な文明に達するという時間的区別と、文明的西欧、半未開あるいは半文明のアジア諸国、未開のその他地域という地理的区別とを重ね合わせた。啓蒙主義の時代には、文明は野蛮を征服し教化するものであり、またそうすべきであると考え、また対外的な侵略と支配を正当化した(帝国主義)。19世紀には進化論が大きな役割を果たし、社会進化論を生み出して、文明と野蛮について説明するようになった。本来「進化」には下等から高等へ一直線に段階を経るといった意味はなく、また進化しなかったものが即劣っているというわけではなくそれぞれの環境においてどのように適応出来たかというのを考察するものであった。

日本や中国など非西洋の「半文明」諸国は[要出典]近代化にあたって文明と未開の二分法はそのままに文明の内容を西洋文明に置き換えた。明治日本では「文明開化」とよばれた。

近代以後におけるドイツになどにおいては、内面的・精神的な「文化」に対して、外在的・物質的なものを指して「文明」と捉える考え方も広がった。

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

文明理論 [編集]

歴史学考古学は、歴史の始まりを画すものとして文明を眺めた。もう一つは、直接文明を対象にするのではなく、未開に関心を寄せた文化人類学であった。両分野は手法と対象は異なるものの、文明の始まりという同じものを見ようとする。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー『ヨーロッパ文明史』、パックル『イギリス文明史』などがある。

近代ヨーロッパの考古学では人類の初期の古代文明のうち、特にエジプト文明の研究などから、「肥沃な三日月地帯」や「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)という概念で研究した。

日本・中華民国における文明理論 [編集]

福沢諭吉の文明論 [編集]

福沢諭吉は1875年、『文明論之概略』を発表し、西洋文明と日本文明を比較した。civilizationを「文明」と訳したのは福沢であるため、「文明」は和製漢語である[5]文明開化期に欧米的価値観を意味することが強かった「文明」の用法は、やがて明治期後半に「西洋文明」との対比のなかで「東洋文明」が認識されるようになり、非西洋の精神的・物質的文化の総体も「文明」と呼ばれるようになり、変化していった[6][5]

福沢は「通論」の紹介として、ヨーロッパとアメリカの文明を最上の文明国、トルコ、シナ、日本などアジア諸国を半開の国、アフリカとオーストラリアを野蛮の国としている[7]

福沢は野蛮について

居に常処なく食に常品なし。便利を遂うて群を成せども,便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め,衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず,文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ,人為の恩威に依頼し,偶然の禍福を待つのみにて,身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。

半開について

農業の道大に開けて衣食具わらざるに非ず。家を建て都邑を設け,その外形は現に一国なれども,その内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く,人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども,事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく,旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども,習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。

文明について

天地間の事物を規則の内に籠絡すれども,その内に在て自から活動を逞うし,人の気風快発にして旧憤に惑溺せず,身躬からその身を支配して他の恩威に依頼せず,躬から徳を脩め躬から智を研き,古を慕わず今を足れりとせず,小安に安んぜずして未来の大成を謀り,進て退かず達して止まらず,学問の道は虚ならずして発明の基を開き,工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし,人智は既に今日に用いてその幾分を余し,以て後日の謀を為すものゝ如し。是れを今の文明と云う。

と述べている[7]

また中国文明と日本文明との異同については、日本も古代においては「神政府」による支配で人民の心単一であったが、武家社会になると、「至尊」(王室=天皇の権威)と「至強」(武家権力)とが分離し、そのような神政尊祟の考と武力圧制の考の間に自由の気風が生まれたとして、これはシナ(中国)のような純然たる独裁の一君を仰ぐような社会とは異なるとした[7][8]

或人の説に,支那は独裁政府と雖ども尚政府の変革あり,日本は一系万代の風なればその人民の心も自から固陋ならざるべからずと云う者あれども,この説は唯外形の名義に拘泥して事実を察せざるものなり。よく事実の在る所を詳にすれば果して反対を見るべし。その次第は,我日本にても古は神政府の旨を以て一世を支配し,人民の心単一にして,至尊の位は至強の力に合するものとして之を信じて疑わざる者なれば,その心事の一方に偏すること固より支那人に異なるべからず。然るに中古武家の代に至り漸く交際の仕組を破て,至尊必ずしも至強ならず,至強必ずしも至尊ならざるの勢と為り,民心に感ずる所にて至尊の考と至強の考とは自から別にして,恰も胸中に二物を容れてその運動を許したるが如し。既に二物を容れてその運動を許すときは,その間に又一片の道理を雑えざるべからず。故に神政尊祟の考と武力圧制の考と之に雑るに道理の考とを以てして,三者各強弱ありと雖ども一としてその権力を専にするを得ず。之を専にするを得ざればその際に自から自由の気風を生ぜざるべからず。之を彼の支那人が純然たる独裁の一君を仰ぎ,至尊至強の考を一にして一向の信心に惑溺する者に比すれば同日の論に非ず。この一事に就ては支那人は思想に貧なる者にして日本人は之に富める者なり。支那人は無事にして日本人は多事なり。心事繁多にして思想に富める者は惑溺の心も自から淡泊ならざるを得ず。

梁啓超の文明論 [編集]

1898年9月21日に戊戌の変法が起きたため日本に亡命した梁啓超は、日本語文献を研究し、「新民説」には福沢の「文明論之概略」からの影響が強い[9][5]。梁は福沢を「日本の西学の第一先鋒であり、いまなお生存する一時の泰斗である」と賞賛している[5]。また、梁啓超によって日本での翻訳語(和製漢語)である「文明」が中国語圏に紹介された[5]梁啓超は古漢語ではない「文明」という言葉を1897年の「変法通議」で使用しており、次のように述べている[5]

「はじめは野蛮の人と野蛮の人とが争い、ついで文明の人と野蛮の人とが争い、おわりは文明の人と文明の人とが争い、茫茫として後ろを振り返ってみると、極まりがない」
「今日の中国から泰西を見れば、中国はもとより野蛮である。今の中国から苗、黎、獞、猺及びアフリカの黒奴、メキシコの紅人、マレーの褐色人を見れば、すなわち中国はもとより文明である。苗、黎諸種の人から禽獣を見れば、すなわちその諸種の人ももとより文明である。つまり、文明・野蛮の境界は定まっているものではなく、比較によってなすものである。今の泰西諸国のなかで文明と自称するものも、数百年後、最も野蛮なものと見なされるかもしれない。」

日本亡命以降、梁啓超はますます福沢から影響を受けて、福沢の文明論を翻案するようになり、1899年9月15日に発表した「自由書・文野三界之別」においては、野蛮・半開・文明の「順序・階級に沿って上昇する」ことが「進化の公理であり、世界人民の公認するところである」「我が国民が翻ってこれを見るならば、我が中国はこの三者のなかでいずれの段階にあるのであろうか。愕然として奮起せざるを得ない」とし、「国をよく治めるには、まずその民を進化させなければならない」と中国に文明化の必要があると主張した[5]

また1899年12月23日の『清議報』に発表した「国民十大元気論」では、

文明には、形質があり、精神がある。形質の文明を求めるのは易しいが、精神の文明を求めるのは難しい。(中略)真の文明は、ただ精神のみである。精神とは何か。すなわち国民の元気である。(中略)国が立つゆえんは何か。民である。民が立つゆえんは何か。気である。

と述べ、精神の文明を強調した[5]

1902年には「地理与文明之関係」において、

アジアの地理はヨーロッパに似ているとはいえ、アジアの東西南北はそれぞれ一つの小天地をなしているため、文明の競争が起こらない。(中略)アジアは文明を創生する力を持つものの、文明を発揚する力を持たない。各地が孤立しているため、反対・保守の悪風が生じ、唯我独尊の妄信を抱えてしまうようになる。地理が不便であるため交通はない。交通がないため競争はない。競争がないため進歩はない。アジアがヨーロッパより弱い、その大きな原因はここにある。

と述べたうえで、ヨーロッパは地勢からみると文明を創生できないがゆえに他の文明を受け入れることができることが長所であり、古代エジプトや古代イスラエルは自然の恵みによって文明が発生したが進歩はできなかった、さらにアジアの文明なしにヨーロッパ文明はなかったと主張し、今後アジアは文明競争の舞台になると論じた[5]

1911年の辛亥革命によってアジアでの最初の共和国である中華民国が成立してから梁啓超は段祺瑞内閣で財務総長を務めたあと1918年からヨーロッパを視察し、帰国後1920年に発表した『欧游心影録』で「西洋文明をもって中国文明を拡充し、また中国文明をもって西洋文明を補強し、双方を化合して新しい文明をつくる」と東西文明の調和を論じた[5]

これに対して北京大学教授の梁漱溟が1924年の『東西文化及其哲学』で梁啓超を批判し、東西の相違は段階の相違ではなく本質の相違であるとし、中国文化が近い未来において世界文化の指導的地位に立つべきで、世界は西洋モデルから中国モデルへと変わっていくと主張した[5]

和辻哲郎の風土論 [編集]

哲学者の和辻哲郎は1935年に『風土 人間学的考察』を発表し、モンスーン(日本も含む)、砂漠牧場の三類型の風土においてそれぞれ独自の文明圏が形成されたと論じ、後述する梅棹忠夫らの生態史観の先駆となった[10][11]

四大文明 [編集]

四大文明史観ではメソポタミア文明エジプト文明インダス文明黄河文明が四大文明とする。これらのグループは、新石器時代エリコチャタル・ヒュユクのような初期の定住とは区別されたうえで、以下の特徴を持つとされる。

  • 文明をはぐくんだ大河が存在することによる氾濫農耕灌漑農耕による余剰農産物の蓄積。
  • 都市への定住:人々が特定の職業に就く
  • 組織民族:単一の定住に比べてより広域な地域にまたがる
  • 小麦の文明:黄河文明以外の文明は小麦の栽培が盛ん
  • 広範囲な貿易
  • 文字で筆記すること:そのすべての痕跡を保存するために開発された[要出典]

江上波夫による造語 [編集]

金沢大学教授の村井淳志は、この「四大文明」は考古学者江上波夫による造語で、1952年(昭和27年)発行の教科書『再訂世界史』(山川出版社)が初出であると2009年に発表した[12][13]青柳正規は江上のこの造語について、かつてアジアには高い文明があったことを強調することで敗戦に打ちひしがれた日本人を鼓吹しようとする意図があったと推定している[13]

また京都大学教授の杉山正明江上波夫が杉山に「四大文明」を広めたのは自分であると伝えたと回想している[14]。杉山によれば「ふと江上さんが「四大文明」という考えを日本に広めたのは自分だよと、愉快そうに笑われた。私は率直に、長江・ガンジス・マヤ・アンデスなども「文明」で、ざっと挙げても八~十個くらいはありますよとお答えした。ところが江上さんは、「四大文明」といったのは口調がいいからで、本当はいろいろあるさと大笑いされた。」と江上が述べたと記している[14]

このように「四大文明」を提唱した江上波夫も文明の数については四つに限定されるものではないとしており、また考古学的研究が世界の全地域をカバーするようになると、四大文明以外にも文明の定義を満たすような社会が次々に発見され、四大文明説は定説の座を降り、近年の研究書や教科書では「四大文明」について記述するものは少なくなってきている。現在でも池田誠など四大文明図式にもとづいた研究もあるが、このなかでもスキタイを加え5つの文明文化圏を分析している[15]

中国文明については黄河文明のほか長江文明遼河文明についても最近は研究されている。後述するように現在でも文明の数の定説は論者によって様々であり、不確定である。

トインビー [編集]

20世紀には、西洋文明の優越を疑うところから、文明概念から優劣や進歩を剥ぎ取って、それぞれの文化圏を文明とする理論が出現した。この理論では、ある文明に対置されるものは野蛮や未開ではなく、他の文明である。文明とは文化的同一性であり、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広く、個人が強く識別するところの最も広範囲なアイデンティティーに相当するという。文明はふつう、宗教や他の信仰体系に結びつけられる。 この系列の文明史論の巨人が、歴史家のアーノルド・J・トインビーである。トインビーは1934年から『歴史の研究』を書き、26の文明を識別し、歴史をそれらの文明の興隆と衰退の過程として描いた。

トインビーによれば、シュメールアッカド文明、エジプト文明、ミノス文明シリア文明、中央アジア文明、インド・パキスタン文明、中国文明、ギリシア文明、ヘレニズム文明 (ヨーロッパ文明)、日本文明、ギリシア正教文明、中央アメリカ文明、アンデス文明、イスラム文明にわける。

近年の文明論 [編集]

20世紀半ばに西洋諸国が支配した植民地が次々と独立し、自立性を取り戻すと、西洋文明の継続的拡大という見方は覆され、政治的支持を得にくくなった。多くの学問分野で、文明と野蛮(未開)という区分は時代遅れで誤ったものと考えられている。それでも、欧米の保守的知識人の(学問的性格が薄い)評論の中では、優れた西洋文明という考えは一定の支持を得ている。

4大文明にメソアメリカ文明アンデス文明などのアメリカ大陸の文明を含めて6大文明ということもある。また、フィリプ・バグビー[16]9大文明と判断し、中国と日本、東方正教会西欧を分類するなら11大文明になるとしている。マシュー・メルコ[17]は、中国日本インドイスラム西欧の5つに分類している。

日本の学者では伊東俊太郎比較文明学会を立ち上げたり、梅棹忠夫の『文明の生態史観』などがある[18]。ほかに川勝平太の文明海洋史観、安田喜憲の文明環境史観、村上泰亮の多系史観、森谷正規の文明技術史観などもある。名古屋大学嶋田義仁アフロ・ユーラシア大陸砂漠地域が先発文明の地域であり、ヨーロッパや日本の湿潤多雨森林文明は後発文明とするアフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論を展開している[19]

エドワード・サイードは文明/未開の二分的範疇を越えていない文明観を、西洋側での幻想の産物と『オリエンタリズム』で批判した。

20世紀末には、政治学者のサミュエル・P・ハンティントンが、『文明の衝突』で文明間の対立や摩擦が21世紀の国際政治の特徴になると主張した。

また、「帝国」の概念と「文明」がオーバーラップするとしてノーム・チョムスキーは、500年にわたる西洋の帝国を経験的に記述した。アントニオ・ネグリマイケル・ハートは、共著『帝国』で、より理論的な分析を展開し、諸文明の同時代的な分析を構成している。

文明の発生 [編集]

文明の起源に関する心理学的考察として二分心がある。

また、地球寒冷化によってそれまでの分散していた生活環境が苛酷になった為、河川周辺への人口集中が促されるなど、文明の発生に大きな役割を果たすとされている。逆に温暖化が進んでいた時期に重なった事で、文明構成住民の霧散化が起こり自然消滅したと言われるのがインダス文明とされる説もある。

文明の種類 [編集]

これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。

脚注 [編集]

  1. ^ a b c 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p127-9
  2. ^ 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p140
  3. ^ 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p131
  4. ^ 伊東俊太郎、「比較文明学とは何か」、7頁、伊東俊太郎編、『比較文明学を学ぶ人のために』、世界思想社、1997年
  5. ^ a b c d e f g h i j k 朱琳「梁啓超の「文明」認識およびその変遷」東アジア文化交渉研究第4号、関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS),2011年
  6. ^ 石川禎浩「東西文明論と日中の論壇」古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』京都大学人文科学研究所、1994年
  7. ^ a b c 文明論之概略第二章「西洋の文明を目的とする事」
  8. ^ [1]松沢弘陽「文明論における「始造」と「独立」 - 『文明論之概略』とその前後(2・完)」北大法学論集, 33(3): 195-255,1982年
  9. ^ 馮寶華『梁啓超と日本:福沢諭吉の啓蒙思想との関連を中心に』東京大学比較文学・文化論集. 14号, 1997, pp. 49-62
  10. ^ [2]藤井聡「実践的風土論にむけた和辻風土論の超克-近代保守思想に基づく和辻「風土:人間学的考察」の土木工学的批評-」土木学会論文集D,62(3),pp.334-350,2006
  11. ^ [3]オーギュスタン・ベルク「空間の問題 ハイデッガーから和辻へ」関西学院大学社会学部講演1996年10月16日
  12. ^ 村井淳志「この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「四大文明」は江上波夫氏が発案した造語だった!」『社会科教育』2009年4月号 ,明治図書出版
  13. ^ a b 青柳正規『興亡の世界史 人類文明の黎明と暮れ方』講談社,2009年
  14. ^ a b 杉山正明「書評『マヤ文明』 青山和夫著」2012年6月25日 読売新聞
  15. ^ a b 四大文明のシミュレーションモデルの研究 池田誠、JSD学会誌 システムダイナミックス No.8 2009。
  16. ^ Bagby, Philip (1963) Culture and History: Prolegomena to The Comparative Study of Civilizations
  17. ^ Melko, Matthew (1969) The Nature of Civilizations
  18. ^ 梅棹忠夫監修、比較文明学会関西支部・編 『地球時代の文明学--シリーズ 文明学の挑戦 (1)』 京都通信社、2008年
  19. ^ 嶋田義仁『砂漠と文明 - アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論』岩波書店2012。また[4]夢ナビ講義も。

関連項目 [編集]

参考文献 [編集]

外部リンク [編集]