ノロドム・シハヌーク

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ノロドム・シハヌーク
នរោត្ដម សីហនុ
カンボジア国王
ノロドム・シハヌーク

先代 シソワット・モニヴォン
次代 ノロドム・スラマリット
次代 ノロドム・シハモニ

出生 1922年10月31日(89歳)
カンボジアプノンペン
実名 Sihanouk4.png
ノロドム・シハヌーク
父親 ノロドム・スラマリット
母親 シソワット・コサマック
配偶者
子女
居所 プノンペン王宮
信仰 上座部仏教

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ノロドム・シハヌーククメール語: នរោត្ដម សីហនុ, ラテン文字転写: Norodom Sihanouk1922年10月31日 - )は、カンボジア国王(在位:1941年4月25日 - 1955年3月2日1993年9月24日 - 2004年10月7日)、同国の政治家

シアヌークとつづられることもあるが、これは "h" の音を発音しないフランス語式の読み方である。ちなみに原音に一番近い読み方はノロードム・シーハヌである。

目次

[編集] 経歴

[編集] 即位

カンボジア王族ノロドム・スラマリットとシソワット・コサマック妃の息子としてプノンペンで生まれ、ベトナム・サイゴン(現ホーチミン市)に留学中の1941年、祖父のシソワット・モニヴォン国王(コサマック妃の父)の崩御に伴い、請われて帰国し、18歳で即位した。

カンボジアの王家はノロドム王(在位1840年 - 1904年)を祖とするノロドム家とシソワット王(在位1904年 - 1927年、ノロドム王の弟)を祖とするシソワット家に分かれ、王位継承に当たって両家の間で争われたが、当時カンボジアの最高実力者であったフランス総督ドゥクーの裁定により、シハヌークの即位が決定した。この背景には、シハヌークがノロドム、シソワット両家の血筋を引いている(シハヌークは両国王の曾孫にあたる)ことと、まだ若年のため宗主国フランスの意向に沿うだろうという思惑があったためと見られている。

[編集] 独立宣言

1945年3月に、インドシナ半島に進駐していた日本軍によってフランス軍が駆逐され、フランスの植民地政府が解体されると、国王シハヌークは、隣国ベトナムバオ・ダイ)、ラオスシーサワーンウォン)と相前後してカンボジアの独立を宣言した。

シハヌークは当初ベトナムと同時に「独立宣言」を発するよう調整するつもりであったが、その連絡がうまくいかず、結局はベトナムの独立から2日遅れの13日の独立となる。カンボジアは、フランスの支配に入る前はベトナムの圧迫を受けていたため、ベトナムへ強い対抗意識を持っていた。6月にベトナムがコーチシナ等の旧フランス直轄地の回収を宣言すると、カンボジア側もコーチシナの約半分の領有を主張し、日本へ仲介を依頼している。

1945年8月15日日本が敗戦すると、シハヌークは3月13日をカンボジアの独立の日としながらも、ベトミンの侵略を恐れて、一旦フランスの帰還を制限つきで認めた。そして、アメリカを始めとする諸外国を歴訪してカンボジアの現状と独立を国際世論に訴える戦法に出た。その結果、1949年にフランス連合内での独立が認められたが、警察権・軍事権は依然としてフランスの手に握られていた。

これに満足しないシハヌークは離宮に籠もり、「完全に独立が達成されるまで首都プノンペンには戻らない」と宣言、国内でも都市部を中心に独立を求める反仏デモが大きく盛り上がった。国王の強硬な姿勢に驚いたフランスは遂にカンボジアの完全独立を認め、1953年11月9日、新生「カンボジア王国」が発足したのである。歓呼の声の中、プノンペンの王宮に凱旋したシハヌーク国王は以後、「独立の父」として国民の尊敬を集めることとなった。

[編集] 退位・政治家へ

北京で会合するシハヌーク。左から毛沢東彭真、シハヌーク、劉少奇

独立運動を通じて自信を強めたシハヌーク国王は1955年3月3日に退位し、後継国王には父のノロドム・スラマリットが即位した。退位後のシハヌークは「殿下」の称号で呼ばれた。立憲君主国であるがゆえに権限に法的制限のある王位を離れたことで、活動範囲に制約のなくなったシハヌークは同年4月7日、政治団体「社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)」を結成し、その総裁として更に政治へ取り組みを表明した。

サンクムは同年の総選挙で圧勝して国会の全議席を制し、いわば「シハヌーク翼賛体制」ともいえる政治環境の中でシハヌークは首相外務大臣に就任した。また、1960年3月にスラマリット元国王が死去した後は王位を空位とし、シハヌークは新設の「国家元首」に就任して政治指導にあたった。

シハヌークの政策は「王制社会主義」と称されたもので、仏教の保護と王制による指導のもと、社会主義的な政策を打ち出していった。また、外交面では厳正な中立政策を守り、冷戦の続く中、東西両陣営から援助を引き出すことに成功するなど、隣国ベトナムラオスが戦火に巻き込まれる中、国内は平和を維持していたが、政界では左派・右派の対立が絶えず、シハヌークが必要に応じて左派の重用と弾圧を繰り返したため、ポル・ポトイエン・サリキュー・サムファンといった左派の指導者はジャングルに逃れ、武力闘争に走ることとなった。

[編集] 国外追放

ベトナム戦争中の1970年3月、首相兼国防相ロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク殿下(シハヌークの従兄弟)などが率いる反乱軍がクーデターを決行、議会は外遊中のシハヌーク国家元首の解任、王制廃止と共和制施行を議決し、国名は「クメール共和国」と改められ、ロン・ノルが大統領に就任した。

クーデターは、アメリカがシハヌークを北ベトナム南ベトナム解放民族戦線と近い「容共主義者」として疎ましく思い、親米派のロン・ノルを支援して追放させたと言われている。シハヌークはカンボジア領内に南ベトナム解放民族戦線の補給基地や北ベトナムから南ベトナムへの人員物資補給路であるホーチミンルートの存在を許し、一方で1969年を通してアメリカのカンボジア爆撃を公に非難し、1970年1月にはアメリカ軍南ベトナムの攻撃で多数の民間人死者が出た何千件もの報告を含む政府公式白書を公表していた。また南ベトナムのフルロも軍基地などで反乱を起こした後、しばしカンボジア領に逃げ込んだ。

クーデター後、ロン・ノル政権は、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、カンボジア領のベトナム系住民を迫害・虐殺・追放した。また、ロン・ノルはアメリカ軍南ベトナム軍に南ベトナム解放民族戦線を追撃するためのカンボジア領内侵攻をゆるし、さらにこれまで局部的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大された。これにより数十万人の農民が犠牲となり、わずか一年半のうちに200万人が国内難民と化した[1]。農村インフラは破壊され、食糧輸出国だったカンボジアは食糧輸入国に転落した。こうした状況はカンボジアのいっそうの不安定化を招き、クメール・ルージュの勢力拡大に有利となった。

[編集] ポル・ポトへの協力

追放されたシハヌークは北京に留まり、そこで亡命政権「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、ロン・ノル政権打倒を訴えた。1970年3月末にはコンポンチャムでシアヌークを支持する暴動が起きたが武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2~3万人の農民が共産主義の影響を受けていた[2]。その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州で同様の蜂起が起こった。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国毛沢東周恩来、かねてより懇意だった朝鮮民主主義人民共和国金日成らの説得により彼らと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。

シハヌークは名目上、統一戦線のトップではあったが、王制を始めとする封建体制の徹底破壊を目指すポル・ポトとその一派にとって、シハヌークは彼らの信念とは相容れない存在であり、両者の関係には最初から緊張をはらんでいたといえる。

1975年クメール・ルージュは遂にカンボジア全土を制圧し、ロン・ノル政権は崩壊し、ポル・ポト派はシハヌークを国家元首とする共産主義国家「民主カンプチア」の成立を宣言した。シハヌークは平壌から帰国した。1979年までに深刻な飢餓とマラリア、虐殺により100万人以上のカンボジア人が死んだとも言われる。この間、表向きは元の地位に返り咲いたかに見えたシハヌークだったが、実態は何ら権限を与えられず、クメール・ルージュがお膳立てした地方視察(そこでシハヌークは変わり果てた祖国の姿を目の当たりにする)以外はプノンペンの王宮に幽閉同然の身となった。同居を許されたのは第6夫人のモニク妃と2人の間に生まれた2人の王子(シハモニ、ナリンドラポン)及び僅かな側近、従者だけであった。他の家族のうち、国内に残っていた者は地方に追放され、その結果、5人の子供と14人の孫が虐殺された。当初は、シハヌーク自身も殺されそうになったものの中国政府が政治的理由からポル・ポトらに圧力をかけたために殺されずに済んだ。しかし、王宮内でもポル・ポト信奉者と化したナリンドラポンが両親を非難し続け、シハヌークは「いつ殺されるか」という強迫感も相まって、精神的に追い詰められていった。

シハヌークは病気療養を理由に海外出国を望んだがクメール・ルージュに拒絶された。それでも彼は懇請を続けた結果、1976年4月に国家元首の辞任が認められ(後任の国家元首〔国家大幹部会議長〕はキュー・サムファン)、以後王宮内に幽閉されたシハヌークは外の様子を知る事ができなくなり、国際社会には消息が伝えられなくなった。

1979年カンボジアに侵攻したベトナム軍がプノンペンに迫ると、ポル・ポト首相はシハヌークを呼び出し、国際連合安全保障理事会においてベトナム軍の不当性を訴えるよう要請した。シハヌークはようやく、家族や側近と共にカンボジアを出国したのである(イエン・サリ、キュー・サムファンはシハヌーク単独での出国を主張したが、ポル・ポト自身が家族同行を許可したという)。

[編集] 王制復活

肖像が掲げられるシェムリアップ国際空港

1992年3月国際連合による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が平和維持活動を始め、1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、シハヌークの二男ラナリット王子の率いるフンシンペック党が第一党となった。9月には制憲議会が新憲法を発布、新憲法では立憲君主制を採択し、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。

1994年クーデター未遂事件が発生したが、これを最後に国内はおおむね平定された。1998年4月には辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが明らかとなり、この地も平定された。

[編集] 退位

2004年10月29日にカンボジア国王を退位し、息子のシハモニ王子(母は第6夫人モニニヤット王妃)が国王となった。現在は自身の癌治療のため、数ヶ月毎に北京を訪れる生活を送っている[3]

[編集] 評価

カンボジアの混乱した歴史全体にわたって、シハヌーク前国王は非常に多くの地位を占めたので、ギネスブックはシハヌーク前国王を「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家である」と認定している。たとえば2回に渡り王になり、1種類の大統領、2種類の首相、カンボジアの職名のない国家元首、多数の地位と同様に様々な追放された政府のリーダーになった。

[編集] 家族

  • パット・カニョル妃(1920年 - 1969年、後に離婚)
    • ボパ・デヴィ王女(1943年 - )元文化芸術相
    • ラナリット王子(1944年 - )元下院議長
  • シソワット・ポンサンモニ妃(1929年 - 1974年、1951年離婚)
    • ユワニヤット王子(1943年 - )
    • ラクウィウォン王子(1944年 - 1973年)
    • チャクラポン王子(1945年 - )ヘン・サムリン政権で副首相を努めた。
    • ソリヤ・ルアンシー王女(1947年 - 1976年)
    • カンタ・ボパ王女(1948年 - 1952年)
    • ケマヌラク王子(1949年 - 1975年)
    • ボトゥム・ボパ王女(1951年 - 1976年)
  • シソワット・モニケッサン妃(1929年 - 1946年)
    • ナラディポー王子(1946年 - 1976年)
  • ノロドム・ノルレアク妃(1927年 - )
  • マニヴァン・ファニウォン妃(1934年 - 1975年)
    • ソチェアタ・スジャータ王女(1953年 - 1975年)
    • アルンラズメイ王女(1955年 - )
  • ノロドム・モニニヤット・シハヌーク妃(旧名:パウル・モニク・イッジ妃、1936年 - )
    • シハモニ王子(1953年 - )現国王
    • ナリンドラポン王子(1954年 - 2003年)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房
  2. ^ Los Angeles Times 30.March.1970
  3. ^ Sihanouk Delays Return From China

[編集] 外部リンク

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