真臘

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真臘
ចេនឡា
扶南国 550年 - 802年 クメール王朝
チャンラの位置
真臘の位置
公用語 古クメール語
首都 シュレシュトハプラ
バーヴァプラ英語版
イシャーナプラ英語版
国王
? - 681 ジャヤーヴァルマン1世フランス語版
変遷
扶南国の属国 550年
独立 610年
扶南国吸収 628年
南北分裂 713年
クメール王国成立 802年
カンボジアの歴史
Angkor Wat W-Seite.jpg
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扶南国 (68–550D)
真臘 (550–802)
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真臘クメール語: ចេនឡា、チャンラ /日本語読み: しんろう)は、初期のクメール人王国中国では真臘ベトナムではChân Lạpとして知られている。

歴史[編集]

扶南国の属民と考えられているクメール人は北のチャオプラヤ川からムン川渓谷を伝ってメコン川に到達した。真臘は扶南人の影響を吸収して扶南の外に作られた彼らの最初の独立国家であった。

古い中国の記録は現在のラオス南部に位置した真臘(王都はシュレシュトハプラ - Shreshthapura)を統治した初代Shrutavarman王(550-555)と二代Shreshthavarman王(555-560)の2人の王に言及している。550年頃は扶南国従属国であり、その60年ほど後に独立を成し遂げ、最終的には扶南国を占領、人々と文化を吸収していった。このときの扶南国の弱体化はローマ帝国とその後の地中海と中国の間の通商路の崩壊から説明できる。

カンボジアの文化に大きな影響を与えたものは、扶南国の王都バーヴァプラ英語版コンポーントム英語版)で形作られた。遺産は、最も重要な支配者イシャーナヴァルマン1世フランス語版による612年から628年にかけての扶南国の占領完了である。613年、彼はこの新しい国の最初の首都をイシャーナプラ英語版サンボー・プレイ・クック英語版遺跡)にした。

681年ジャヤーヴァルマン1世フランス語版の死後、王国には混乱が起こり、8世紀の初め頃、王国は多くの小王国に崩壊していった。真臘(Shambhupura)の統治者であったPushkarakshaフランス語版は彼自身がカンボジャスの王であることを宣言した。

706年頃に真臘は、「陸の真臘」(陸真臘)として知られる北部と、「水の真臘」(水真臘)として知られる南部に分離した。現在ラオスチャンパーサック県とされる場所が北部の中心となり、メコン・デルタと海岸地域は南部の一部になった。中国の年代書には8世紀に真臘が陸真臘と水真臘に分離した(706年 - 802年)としている。この時期Pushkarakshaの息子Shambhuvarmanは8世紀の間、マレーシア人とジャワ人が支配した多くのクメール小王国である水真臘の大部分を支配し、陸真臘はShambhuvarmanの兄弟Rajendravarman1世フランス語版が支配した。

774年頃からジャワ王国のシャイレーンドラ朝の侵略が始まり[1]802年頃までその支配下に入っていた。この事件は10世紀の、アッバース朝とインド・中国・東南アジアとの交易の実体を記したアラビア語文献『中国とインドの諸情報-第二の書』にザーバジュのマハーラージュの王国がクマール国を襲撃した事件として記載されている[2]。ザーバジュはシャイレーンドラ、マハーラージュはインド古来の大王の称号マハーラージャ、クマールはクメール国であり、シャイレーンドラがクメール王を殺害してしばらくの間クメール国を属国とした事件を記したものと考えられている。

歴代君主[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ チャンパーのポ・ナガル(Po-Nagar)碑文によれば784年、ヤン・ティクー(Pang TiKuh)碑文によれば787年にジャワの黒い肌の賊軍が来襲したとの記載がある。更に大越史記全書外紀巻五には767年の事件として安南都護府(現ハノイ)を崑崙闍婆の襲撃事件が記されている(崑崙はマレー系の人々、ジャワはジャワ、即ちシャイレーンドラ、若しくは占城(チャンパー(当時の南ベトナム)だと考えられている。チャンパー、ジャワのいずれであってもマレー系の人々だと考えられる))
  2. ^ 家島彦一訳『中国とインドの諸情報-第二の書』pp48-54

外部リンク[編集]