扶南国

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カンボジアの歴史
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扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジアベトナム南部)に栄えたヒンドゥー教仏教(5世紀以降)の古代国家。首都はコンポントム英語版

歴史[編集]

扶南の起源[編集]

3世紀頃の南京にあったの官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家の存在が出ている。しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。629年に完成した梁書によれば、扶南をたてた人物は「徼」(マレー半島かインドネシアの島と言われている)から来た外国人「混塡」(Kaundinya I)である。混塡は土地の女王「柳葉」(Queen Soma)と結婚し、その子供に王権を与えると、その子供は七つの町[1]を作ったと伝えられている。同様の話は晉書にも伝えられている。4世紀頃からチャンパ王国ミーソン聖域の建設が開始され、扶南滅亡後の658年の日付で同様の話が記録されている。

インドシナ半島では1世紀ころからインド文化が伝わり、扶南もその文化的影響を強く受けていた。ヒンドゥー教が伝わると官僚として多くのインド人が採用され、サンスクリット語が法律用語として使われた。

扶南国の地図
驃国(Sri Ksetra)
ドヴァーラヴァティー
扶南(Fou-Nan)
チャンパ

脚注[編集]

  1. ^ 柳葉と混塡をナーガの伝説をなぞらえた話。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]