南ベトナム解放民族戦線

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南ベトナム解放民族戦線
ベトナム戦争に参加
FNL Flag.svg
南ベトナム解放民族戦線の旗
活動期間 1960年-1975年
活動目的 サイゴン政権からの南ベトナムの「解放」とベトナム民族の統一
指導者 グエン・フー・ト
活動地域 南ベトナム
関連勢力 北ベトナム軍(ベトナム人民軍)
敵対勢力 サイゴン政権
アメリカ軍
韓国軍
オーストラリア軍

南ベトナム解放民族戦線(みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん、Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam𩈘陣民族解放沔南越南, : Viet Cong)は、南ベトナム1960年12月に結成された反サイゴン政権アメリカ・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。

略して解放戦線と呼ばれたが、越南共産(ベトナムコンサン)を略したベトコン(越共)と通称されることも多い。

呼称(蔑称)[編集]

ゴ・ディン・ジエム大統領(右)

ベトコン」という名は、元来アメリカ・南ベトナム側による蔑称だったもので、南ベトナムの大統領であったゴ・ディン・ジエムがその名付け親といわれる。日本にも報道などを通じて入ってきたものが一般化した。

中国共産党が正式な略称として「中共/チョンコン(Zhong-gong)」を自称するのに対し、ベトナム労働党及びベトナム共産党が正式な略称として「越共/ベトコン(Việt cộng)」を自称したことは無い。政治団体―統一戦線組織としての略称は「解放戦線(Mặt trận Giải phóng)」、その軍事部門の通称は「解放軍(Giải phóng quân)」である。「解放勢力」の訳語は、軍を意味する英語の「フォース」を勢力と誤訳したものである(ただし、越語においても、フォースを「軍」と越訳せず、「勢力」を意味する Lực lượng(力量)と越訳する場合はある)。

またベトナム戦争期を中心に「南ベトナム民族解放戦線」という表記も使われていたが、これは誤訳である。民族戦線は、コミンテルンが創始した人民戦線という抵抗方針のベトナム版であり、共産主義者だけでなく民族主義者、愛国者も含めた統一戦線でベトナムの独立/統一を目指そうという意図があった。

アメリカ兵は「Vietnamese Communist」(ベトナムの共産主義者)の頭文字をとった「V.C.(ヴィー・シー)」[1]、もしくはVとCのNATOフォネティックコードであるヴィクター・チャーリーの後半をとったチャーリーと呼んだが、このチャーリーもジャップのような蔑称の意味も持つ。

英語での正式な名称は「Liberation Army of South Vietnam」か「National Liberation Front for South Vietnam」であり、その略称はNLFNational Liberation Front)である。

概要[編集]

1950年代後半のベトナム共和国は政情が不安定であり、貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などが生じていた。ゴ・ディン・ジエム大統領に反発する勢力も増加していた。また、北ベトナムはジュネーヴ協定に基づく統一選挙が実施されなかったため、武力闘争によるベトナム統一を検討し始めた。

これらにより、1960年12月20日、タイニン省チョウタン県タンラップ村[2]において、元ベトミン等を中心に南ベトナム政府に対する反政府組織として、南ベトナム解放民族戦線が結成された。議長の席は空席のまま、副議長兼書記長をフイン・タン・ファトが務めた。1962年2月16日-3月3日、戦線の第1回大会が開催される。この大会で中央委員会が設置され、31人が選出された[3]。また、グエン・フー・ト弁護士が中央委員会幹部会議長に選出された。解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、ジエム政権などに反発する仏教徒や自由主義者、華僑なども多数参加していた。これにより、ベトナム共和国国内に内戦状態が発生し、ベトナム戦争が始まった。南ベトナム軍のほか、アメリカ軍韓国軍などと戦ったが、圧倒的かつ近代的な戦力を有する敵に対してゲリラ戦で臨み、一定の損害を与えた。弾薬や燃料以外の補給体制が極めて貧弱であったが、農村を遊撃根拠地とすることで、物資の現地調達(略奪含む)や現地徴兵により長期戦を戦った。

しかし、捕虜となった米兵や南ベトナム兵を過酷に虐待し、サイゴン政権の情報員や密告者とみなした市民や動揺分子とみなした兵士を人民裁判で即刻処刑するなども行い、テト攻勢フエを一時占領した際にもサイゴン政権の官吏・関係者・関係の無い民間人(学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般市民)などを大量処刑し、無差別テロを行ったとされる(フエ事件)。また、南ベトナム政権に揺さぶりをかけるため、各地で一般市民を巻き込む無差別爆弾テロ事件も数多く起こした。

1968年2月12日フォンニィ・フォンニャットの虐殺‎はベトコンによる謀略であるとする主張が韓国軍からなされているが、韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック大佐による調査が行われ、1970年1月10日に韓国海兵隊による虐殺事件であったことを明らかにした報告書が提出された。

ベトナム統一後、隣国のカンボジアで親中のポル・ポト政権が誕生し、中国が南部ベトナムへの干渉を図った事で、北ベトナム政府が、中国の影響力が強い南部独自の軍事力が干渉を受ける危険性を危惧して、軍事部門は北ベトナム軍に吸収し、組織は「ベトナム祖国戦線英語版」に合流する形で解体した。解放戦線兵士は北の指導部から疎んじられるようになり、解放戦線議長のグエン・フー・トが僅かに名誉職である国会議長に就任した程度で、中には反発する元兵士も出た。

南ベトナムの民衆はおろかサイゴン政権の要人にも秘密メンバーを獲得していたことでも知られており、今尚メンバーだった事を公表していない人々が多数存在している。

構成[編集]

1960年12月の結成大会時は、暫定執行委員会が指導部の役割を果たし、委員長と総書記が置かれたが[4]、議長は空席とされた。

1962年2-3月、第1回全国大会が開催され、52人で構成する中央委員会と、最高機関としての幹部会が設立され、幹部会議長、幹部会副議長の職が置かれた。また、書記局が設立され、書記長職が置かれた[5][6]

中央委員会の付属機関として、軍事委員会、公共保健衛生委員会、情報・文化・教育委員会、対外関係委員会、経済問題委員会、通信・電機委員会が設けられた[7]

参加組織[編集]

戦線は、諸抵抗組織の緩やかな連合体であり、以下の政党・団体等が参加した[8]

  • 政党
  • 大衆団体
    • 解放労働者協会
    • 解放農民協会
    • 解放婦人連合会
    • 解放学生・生徒連盟
    • 解放青年同盟
    • 人民革命青年団
    • 解放作家芸術家協会
    • 愛国民主ジャーナリスト協会
    • 旧抵抗戦士協会
    • 愛国軍人家族会
    • 解放赤十字社
  • 宗教団体
    • 南ベトナム仏教会
    • 愛国キリスト教徒協会
    • ホア・ハオ教
  • 諸派
    • アジア・アフリカ連帯ベトナム委員会
    • 民主法律家協会
    • タイグエン少数民族自治運動
  • その他

脚注[編集]

  1. ^ 映画『フルメタル・ジャケット』において、ヘリからベトナム人を見つけ次第機関銃を乱射するアメリカ兵が"Anyone who runs is a V.C.! Anyone who stands still is a well-disciplined V.C.!"(字幕訳では「逃げる奴はベトコンだ! 逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ!」となっている)と話すシーンがある。
  2. ^ 福田(2006年)、216ページ
  3. ^ 小倉(1992年)、95ページ
  4. ^ タン(1987年)、91ページ
  5. ^ 小沼(1988年)、234-235ページ
  6. ^ タン(1987年)、98ページ
  7. ^ 小沼(1988年)、234ページ
  8. ^ 小沼(1988年)、231・234-235ページ
  9. ^ 1962年1月1日に結成されたマルクス・レーニン主義政党。北のベトナム労働党のカモフラージュとされる。議長、ヴォー・チ・コン
  10. ^ 1961年に結成された愛国的知識人の政党。
  11. ^ 1944年に結成された民族ブルジョワジープチ・ブルの政党。議長、フイン・タン・ファト

参考文献[編集]

関連項目[編集]