エレフテリオス・ヴェニゼロス

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エレフテリオス・ヴェニゼロス

エレフテリオス・ヴェニゼロスΕλευθέριος Βενιζέλος, 1864年8月23日1936年3月18日)は、ギリシャの政治家。20世紀前半のギリシャを代表する政治家のひとりで、9期、12年に渡って断続的に長期間首相を務めた。ヴェニゼロスはヨーロッパの政治の舞台で活躍した数少ないギリシャ人政治家であり、イギリスの外交官ハロルド・ニコルソンは「ヴェニゼロスとレーニンだけがヨーロッパにおける偉大な政治家である」と評した[1]。また、ギリシャがバルカン半島の政治における主導的勢力となったのもヴェニゼロスの手腕に依るところが大きい[2]

クレタ島時代[編集]

父キリアコス・ヴェニゼロス

1864年、当時、オスマン帝国クレタ島ハニアで雑貨商の父キリアコス、母スティリアニの五番目の子として生まれた[# 1]。1866年から1872年にかけてギリシャ領のシロス島で暮らしたが、この時期にギリシャ国籍を取得したと言われる[4]

ヴェニゼロスはアテネとシロス島のギムナジウムで学んだ後、父の意向にしたがってクレタ島に戻り商売の修行を積んだが[# 2]、父キリアコスの友人でギリシャの在クレタ総領事でありゲオルギオス・ジコマラス(el)はヴェニゼロスの聡明さに気づいており、父キリアコスを説得、アテネ大学法学部で学ぶことになった[6]

ヴェニゼロスの生家

1883年父キリアコスが死去するとアテネとクレタを往復して商売を続けながら家庭の面倒を見ていたが、1885年に経済状況が安定するとアテネに戻り、学業に専念した。1886年にイギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンがアテネに立ち寄った際、イスタンブルのある著名なギリシャ人によるとクレタ島の人々がオスマン帝国からの離脱こそ望んでいるがギリシャへの統合は望んでいないと語っていたという話をアテネの新聞気述べた。これを聞いたクレタ島出身のアテネ大学学生ら5人がチェンバレンに意見するために面会を申し出たが、その中の代表がヴェニゼロスであったという。ヴェニゼロスはチェンバレンにクレタ島の人々がギリシャへの統合を望んでいることを雄弁に語り、チェンバレンはこれに感心したと言われている[# 3]。1887年には大学を卒業、クレタ島で弁護士を開業するとともに新聞「レフカ・オリ(el)」の編集、発行も行った[8]

クレタ島に帰った後、1897年に起こったオスマン帝国に対する反乱運動に参加した。この結果クレタ島への自治付与に帰結すると、クレタ島にはギリシャ王国ゲオルギオス王子が総督に任命され、ヴェニゼロスはその下でクレタ島高等弁務官の参事官として働いた[9]

クレタ島アクロティリにおけるヴェニゼロス(1897年)

しかし、ゲオルギオス王子の統治は小心翼翼に見えたことからヴェニゼロスは「エノシス」を呼びかけ、臨時国民議会を招集、その結果、ゲオルギオスは総督を辞任し、元首相のアレクサンドロス・ザイミス(el)が後任となった。ヴェニゼロスはこのとき、クレタ島統合のための政府首班に任命され、1908年10月、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア=ヘルツェゴビナを併合するとクレタ島議会は「エノシス」を宣言、5人からなる統治委員会が結成され、ギリシャ国王ゲオルギオス1世の名のもとに統治を開始した[10]

1909年にギリシャ王国で軍の将校によるクーデターが起こると、クレタ島における政治手腕を買ったギリシャ政府により招かれアテネにむかった[10]。総選挙の実施を主張した彼の提案は受け入れられ、1910年8月8日と11月28日の二度に渡って総選挙が実施された。これらの選挙でヴェニゼロス支持者が多数を占め、8月の選挙にヴェニゼロスは立候補しなかったが、11月の選挙には立候補し、362議席中、300議席を占めたヴェニゼロス派はヴェニゼロスを首相に任命した[# 4][12]

首相[編集]

軍議の席でのヴェニゼロス(手前後ろ向きの人物)
相対しているのはコンスタンティノス1世
前線の兵士を閲兵するヴェニゼロス

彼は1911年に憲法を改正し、人権保護、初等教育の義務化などを規定した。これ以外にも行政、司法、社会保障、労働問題など広範囲の改革を行い、これまでギリシャでは不可能だった政治・経済の安定を実現した。対外的には1912年に始まった二度のバルカン戦争を勝利に導き、クレタ島やテッサリアイピロスなど広範囲の領土を獲得した。1914年第一次世界大戦が起こると協商国側での参戦を主張し、中立を望む国王コンスタンティノス1世メタクサスを中心とする参謀本部と対立した。1915年3月に首相を辞任して総選挙を実施し再度政権を握った後、セルビアへの派兵を決めたが、国王はあくまでこれを拒否したため、首相を辞任し下野した。協商国はイオニア諸島ケルキラ島、テッサロニキ周辺などを占領し、ギリシャ領マケドニアにはブルガリアが侵入するなど混迷が深まる中、1916年10月にヴェニゼロスは協商国の支援を受けテッサロニキに臨時政府を樹立、アテネの王党側と対立した。1917年にコンスタンティノスは亡命し、ヴェニゼロスはアテネに帰還して新政府を組織し、協商国に立ち参戦した。数ヶ月後に第一次世界大戦は終結し、パリ講和会議には戦勝国として参加した。大戦終結後は正教徒の保護を名目にアナトリア南西部のスミルナ(現在のイズミル)に出兵したが、1920年の総選挙で自身の率いる自由党が大敗北し、退陣した。

ヴェニゼロスが政治力を失いギリシャ国外にいたこの間にコンスタンティノス国王が復位、ギリシャ軍はアナトリア戦役でトルコに敗北し(希土戦争)、ヴェニゼロス派将校によるクーデターによる王制廃止と情勢が変化した。1928年、ヴェニゼロスの自由党は総選挙で議席のほとんどを奪う大勝利を果たし、ヴェニゼロスは再び首相を務めたが、王党派との対立もあり、有効な政策を実行できなかった。

1932年、自由党は総選挙で王政派に敗れ、ヴェニゼロスは下野を余儀なくされ、1935年には国民投票により王政復古が行われた。ヴェニゼロスはギリシャを出国し、翌1936年、パリで亡くなった。

現在でも国民に広く慕われており、アテネ国際空港は、正式にはエレフテリオス・ヴェニゼロス・アテネ空港と呼ばれ、またギリシャのユーロ50セント硬貨にはヴェニゼロスの肖像がデザインされている。次男のソフォクリス(1894年11月3日1964年2月7日)も政治家で首相を歴任、同じく首相を務めたコンスタンディノス・ミツォタキスは甥にあたる。

参考文献[編集]

  • ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 『バルカン歴史と現在』 サイマル出版会、1994年ISBN 4-377-11015-2
  • ニコス・スボロノス著、西村六郎訳 『近代ギリシア史』 白水社、1988年ISBN 4-560-05691-9
  • 村田奈々子著 『物語 近現代ギリシャの歴史独立戦争からユーロ危機まで』 中央公論新社、2012年ISBN 978-4-12-102152-6


脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 本来は九人兄弟であったが、三人は夭折した。生き残った六人の中で五番目であり、姉三人、兄一人、妹一人であった[3]
  2. ^ ヴェニゼロスには兄アガソクリスがいたが、彼は身体と精神に障害を持っていたため、父キリアコスはヴェニゼロスが後を次ぐことを望んでいた[5]
  3. ^ チェンバレンは後にギリシャ国立銀行総裁マルコス・レニエリスに「私を訪ねた学生らがいたらギリシャがトルコから解放されないままにあることを心配せずに済む」と語った[7]
  4. ^ この選挙は改憲を審議するための特別議会だったため、通常の2倍の定数となっていた[11]

参照[編集]

関連項目[編集]