日本レコード大賞
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| 輝く!日本レコード大賞 THE JAPAN RECORD AWARD |
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「日本レコード大賞」の発表会は2004年から 新国立劇場・中劇場で開かれている。 (写真は外観) |
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| ジャンル | 音楽番組 / 特別番組 |
| 放送時間 | 毎年12月30日18:30 - 23:10(2008年現在)(280分) |
| 放送期間 | 1959年12月17日 - (50回) |
| 放送国 | |
| 制作局 | KRテレビ→TBS (日本レコード大賞後援) |
| 監督 | 高岡滋紀(舞台監督) 服部隆之(音楽監督・指揮) |
| 演出 | 平賀歩(総合演出) |
| プロデューサー | 利根川展、服部英司ほか |
| 出演者 | 歴代授賞式司会者と視聴率を参照 |
| 音声 | ステレオ放送(1983年(第25回) - ) |
| 外部リンク | 第50回輝く!レコード大賞 |
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特記事項: |
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日本レコード大賞(にほんレコードたいしょう)とは1959年に始まった日本で最も有名な音楽に関する賞である。略称は「レコ大」(レコたい)。英語表記は「THE JAPAN RECORD AWARD」。
主催は社団法人日本作曲家協会と日本レコード大賞制定委員会、後援はTBS(旧:KRテレビ)である。賞の種類として最高の栄誉であるグランプリ・日本一である大賞の他、最優秀新人賞、最優秀歌唱賞、ベストアルバム賞など様々な各賞がある。日本に於ける商業音楽の音楽賞としては最高の権威がある。なお歌手が受賞を辞退した場合又は歌手がその年に死去した場合、その楽曲は大賞受賞曲とはならない。
放送上の番組名は『輝く!日本レコード大賞』[1]。民放では数少ないテレビ・ラジオの同時放送番組でもある。
[編集] 概要
- 日本の商業音楽作品の真の日本一を決定する。
- 企画にあたってはアメリカのグラミー賞をヒントにして、3人の作曲家(古賀政男、吉田正、服部良一)による話し合いから作られた。いわば、「グラミー賞」の日本版でもある。その後、韓国でも日本に刺激を受け『KBS歌謡大賞』が作られた。各受賞者にはメダルとブロンズ像が手渡される。
- 発表会は第46回(2004年)から東京都渋谷区本町の新国立劇場・中劇場で開かれている。
[編集] 各賞の種類と定義
[編集] 現在贈られている賞
- 「日本レコード大賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽シングルCDの中で「作曲、編曲、作詩を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な作品」、「優れた歌唱によって活かされた作品」、「大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映・代表したと認められた作品」、以上3点に該当する1作品に贈る。審査対象は、「優秀作品賞」に選ばれた作品とする。
- 「最優秀歌唱賞」
- 対象年度内の作品を最も的確に表現し、さらに高めた歌手に贈る。審査対象は「金賞」に選ばれた作品の歌手としていたが、(第50回(2008年)からは11月下旬から12月上旬にかけて行われる選考委員会で決定されることになった(第50回は中村美律子(なかむら みつこ))。
- 「優秀作品賞」
- 大衆の強い支持を得て作品としても芸術性・独創性に優れ、その年度を反映したと認められた作品に贈る。「金賞」や「ゴールド・ディスク賞」という名称が使われていた時期もあったが、第50回(2008年)からは「優秀作品賞」に変更された。
- 「最優秀新人賞」
- 「新人賞」の中から最も優秀と認められた歌手に贈る。
- 「新人賞」
- 対象年度内に於いてデビュー(初めて芸能活動として歌う)し大衆に支持され、将来性を認められた歌手に贈る。
- 「作曲賞」「編曲賞」「作詩賞」
- 特に作曲・編曲・作詩の分野で独創的であると認められた作品・作者に贈る。
- 「企画賞」
- 独創的な企画意図をもって製作され、それによって成果を上げ大衆音楽に大きな貢献をした作品(ミュージックビデオを含む)に贈る。
- 「功労賞」
- 長年に亘りレコードやCDを中心とする音楽活動を展開し、日本音楽界に大きな貢献をした者に贈る。
- 「特別賞」
- 対象年度に於いて社会的に最も世の中を賑わせ注目された人、楽曲、作品、現象などに贈る。その他にも年によって特別な賞が設けられる場合がある。
- 「特別功労賞」
- 長年に亘り音楽活動・評論活動を展開し、音楽界に大きな貢献をした故人に贈る。
- 「日本作曲家協会奨励賞」
- 第48回(2006年)から新設された賞。日本作曲家協会が日本の心を伝え未来のある実力ある歌手に期待を込めて贈る賞。1回目は竹川美子が、2回目はあさみちゆきが受賞した。
- 「優秀アルバム賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた作品に贈られる。
- 「最優秀アルバム賞」
- 優秀アルバム賞該当の中から最も優れた作品に贈られる。
[編集] 過去に存在した各賞
- 「童謡賞」
- 第1回(1959年)から第15回(1973年)まで子供向けの童謡やアニメソングに与えられた賞だった。本来はレコード大賞を童謡が受賞した際には「歌謡曲賞」を設けることも想定されていた[2]が、結局「歌謡曲賞」が設けられることはなかった。ザ・テンプターズの『おかあさん』がヒットした際には、同曲も「童謡賞」の対象にすべきかという議論があったという[2]。第16回(1974年)にヤングアイドル賞(フィンガー5の『恋のアメリカン・フットボール』が受賞)の導入により廃止された。そのヤングアイドル賞も1回限りで廃止された。
- 「歌唱賞」
- 優れた歌唱によって活かされた作品に贈られる賞として定義され、文字通り歌手の歌唱力を評価したものである。作詩賞、作曲賞、編曲賞と共に第1回(1959年)から設けられた賞である。第11回(1969年)からは最優秀歌唱賞が設けられその候補としての位置付けとなり、さらに第19回(1977年)までは大賞の最有力候補としての位置付けでもあった(第17回(1975年)から第19回(1977年)までの3年間は大賞候補10組作品の中から歌唱賞5組作品が選出され、さらにその中から大賞と最優秀歌唱賞が決定された)。第20回(1978年)からは金賞の導入により廃止された。
- 「大衆賞」
- 第11回(1969年)から第19回(1977年)まで大衆に支持された歌手や楽曲に与えられた賞だった。当初は歌唱賞と同様に大賞候補としての位置付けだったが、第17回(1975年)からは大賞候補の枠外の位置付けとなった。第47回(2005年)に1度だけ復活した。
- 「特別大衆賞」
- 1980年に引退した山口百恵のそれまでの実績を称え与えられた第22回特別賞。他に第26回(1984年)は引退表明した都はるみ(1990年に歌手復帰)、第29回 (1987年)には中森明菜(『難破船』など)や瀬川瑛子(『命くれない』など)が受賞している。
- 「ゴールデン・アイドル賞」
- 第23回(1981年)から第25回(1983年)までデビュー2年目に顕著な活躍をした歌手に与えられた(受賞者は田原俊彦、松田聖子、近藤真彦、中森明菜など)。
- 「ベストアルバム賞」「アルバム大賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で最も芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた作品に贈る。第50回(2008年)からは優秀アルバム賞・最優秀アルバム賞として復活。
- 「吉田正賞」
- 作曲家・吉田正の偉大な業績を記念し伝統的な日本の歌を充実させ、前進させた作曲家に贈る。
- 「美空ひばりメモリアル選奨」
- 歌手・美空ひばりが戦後日本の社会、歌謡史に残した偉大な業績を称え、それを記念するに相応しい豊かな魅力と力量を持った歌手に贈る。初めて制定された第35回(1989年)当初は「美空ひばり賞」だったが、第35回(1989年)に「美空ひばりメモリアル選奨」に変更、第42回(2000年)を以て最後となる。
[編集] 日本レコード大賞受賞曲一覧
※第32 - 34回(1990 - 1992年)は歌謡曲・演歌部門とポップス・ロック部門
[編集] 各部門賞受賞曲
- 「第1回日本レコード大賞」(1959年/昭和34年)参照
- 「第2回日本レコード大賞」(1960年/昭和35年)参照
- 「第3回日本レコード大賞」(1961年/昭和36年)参照
- 「第4回日本レコード大賞」(1962年/昭和37年)参照
- 「第5回日本レコード大賞」(1963年/昭和38年)参照
- 「第6回日本レコード大賞」(1964年/昭和39年)参照
- 「第7回日本レコード大賞」(1965年/昭和40年)参照
- 「第8回日本レコード大賞」(1966年/昭和41年)参照
- 「第9回日本レコード大賞」(1967年/昭和42年)参照
- 「第10回日本レコード大賞」(1968年/昭和43年)参照
- 「第11回日本レコード大賞」(1969年/昭和44年)参照
- 「第12回日本レコード大賞」(1970年/昭和45年)参照
- 「第13回日本レコード大賞」(1971年/昭和46年)参照
- 「第14回日本レコード大賞」(1972年/昭和47年)参照
- 「第15回日本レコード大賞」(1973年/昭和48年)参照
- 「第16回日本レコード大賞」(1974年/昭和49年)参照
- 「第17回日本レコード大賞」(1975年/昭和50年)参照
- 「第18回日本レコード大賞」(1976年/昭和51年)参照
- 「第19回日本レコード大賞」(1977年/昭和52年)参照
- 「第20回日本レコード大賞」(1978年/昭和53年)参照
- 「第21回日本レコード大賞」(1979年/昭和54年)参照
- 「第22回日本レコード大賞」(1980年/昭和55年)参照
- 「第23回日本レコード大賞」(1981年/昭和56年)参照
- 「第24回日本レコード大賞」(1982年/昭和57年)参照
- 「第25回日本レコード大賞」(1983年/昭和58年)参照
- 「第26回日本レコード大賞」(1984年/昭和59年)参照
- 「第27回日本レコード大賞」(1985年/昭和60年)参照
- 「第28回日本レコード大賞」(1986年/昭和61年)参照
- 「第29回日本レコード大賞」(1987年/昭和62年)参照
- 「第30回日本レコード大賞」(1988年/昭和63年)参照
- 「第31回日本レコード大賞」(1989年/平成元年)参照
- 「第32回日本レコード大賞」(1990年/平成2年)参照
- 「第33回日本レコード大賞」(1991年/平成3年)参照
- 「第34回日本レコード大賞」(1992年/平成4年)参照
- 「第35回日本レコード大賞」(1993年/平成5年)参照
- 「第36回日本レコード大賞」(1994年/平成6年)参照
- 「第37回日本レコード大賞」(1995年/平成7年)参照
- 「第38回日本レコード大賞」(1996年/平成8年)参照
- 「第39回日本レコード大賞」(1997年/平成9年)参照
- 「第40回日本レコード大賞」(1998年/平成10年)参照
- 「第41回日本レコード大賞」(1999年/平成11年)参照
- 「第42回日本レコード大賞」(2000年/平成12年)参照
- 「第43回日本レコード大賞」(2001年/平成13年)参照
- 「第44回日本レコード大賞」(2002年/平成14年)参照
- 「第45回日本レコード大賞」(2003年/平成15年)参照
- 「第46回日本レコード大賞」(2004年/平成16年)参照
- 「第47回日本レコード大賞」(2005年/平成17年)参照
- 「第48回日本レコード大賞」(2006年/平成18年)参照
- 「第49回日本レコード大賞」(2007年/平成19年)参照
- 「第50回日本レコード大賞」(2008年/平成20年)参照
[編集] 放送の歴史
発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(JRN全国17局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回限り(但し、1968年放送の10周年記念音楽会のみ2002年と2008年に2度放送されている)ではあるが毎年12月に再放送を行っている(TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、その部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある)。この放送は『NHK紅白歌合戦』(NHK)、『新春かくし芸大会』(フジテレビ系列)と双璧をなす年末年始恒例大型番組の一つであり「国民的番組」としての地位を築いてきた。
[編集] 草創期
番組の放送当初は本選と発表会とに分かれていた。第10回(1968年)まで開催日は固定されておらず、主に年末の昼間にモノクロで放送された。会場も神田共立講堂など小規模の会場で行われており、賞自体の知名度も極めて低かった。水原弘は第1回のレコード大賞を受賞した際に「レコード大賞って何だ?」と言ったという。また、美空ひばりが出演しても客席がガラガラだった事もあったという。
TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催は大晦日ではない。開催会場は渋谷公会堂)が最古である(この模様は2008年12月にCS放送・TBSチャンネルで第27回(1985年)・後述の「10周年記念音楽会」とともに再放送された)。同年には開始10周年を記念した特別番組「10周年記念音楽会」(1968年12月28日放送)が放映され、それまでの各賞受賞者達が勢揃いした。この特番は鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存している(この模様も2008年12月にCS放送・TBSチャンネルで再放送された。なお、2002年にも1度放送されている。)。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存している。
第11回(1969年)からは出場歌手の日程調整をつけ易くするため、大晦日の『NHK紅白歌合戦』(NHK)が始まる前の19~21時に本選を開催・生中継する様になった。会場も帝国劇場に移され、元NHKアナウンサーで人気司会者であった高橋圭三を司会進行役に起用した。また、カラーでの放送も開始された。レコード大賞授賞式が大晦日のTBSの定番プログラムとなる前は『オールスター大行進』という人気歌手・バラエティータレントが大量に出演するショー番組が恒例番組として放送されていた関係で第11回(1969年)の放送は「オールスター大行進」という副題が付されており、受賞歌手以外のタレント(美空ひばり・橋幸夫・ザ・ドリフターズ・コント55号など)も出演していた。
第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存しており保存状態も大変良く、今でもTBS(地上波)の番組で各年の模様が出演歌手の懐かしの映像などで紹介されている。
[編集] 黄金期
1969年から1988年にかけての20年間、テレビ歌番組の隆盛と共に番組の最盛期を迎えた。テレビ中継の最高視聴率は第19回(1977年)の50.8%で紅白と並ぶ大晦日の「国民的行事」となり、また放送時間も次第に拡大し18時台のスタートとなった。中でも第27回(1985年)には会場が日本武道館となり、授賞式の華やかさは最高潮を迎えた。
第25回(1983年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。
[編集] 衰退期
1989年以降、紅白がそれまでの21時から19時20分と大幅に開始時刻を早めた事でバッティングが生じる事も多くなり出演者の移動がままならなくなる。その余波はテレビ放送にも現れ、第30回(1988年)まで30% - 40%前後を維持してきた視聴率が一気に15%前後と大幅に下落した。そのため、紅白にも出場する歌手が慌しく移動する様子を生中継するのが風物詩の1つとなった(第47回(2005年)まではこのスタイルが続いていた)。
アイドル歌手が連続して大賞を受賞した事などからその打開策として第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割したが共に効果がなかったため、第35回(1993年)から再統一している。
第36回(1994年)から第45回(2003年)までは、会場を東京・赤坂のTBS放送センター(ビッグハット)で開催された。第46回(2004年)以降は渋谷のNHK放送センターから比較的近い距離にある新国立劇場に変更されたが、これは『NHK紅白歌合戦』(NHKホールが会場)や『年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京、新宿コマ劇場が会場)と掛け持ちするアーティストや演歌歌手の移動に配慮した事が理由である。
平成に入ると音楽に対する考えの変化から賞取りレースに左右されない音楽活動をしたい事などを理由に受賞そのものを辞退する一部有力J-POPアーティストが増えるようになり、権威は大きく低下した。大賞のMr.Childrenが授賞式に出席しないという異例の事態となった第36回(1994年)以降、授賞式に出席しないアーティストを受賞させない傾向が高まった。テレビ放送での生中継をメインにしている関係上、ミュージック・ビデオばかりを流す訳にもいかないというTBS側の意向が強く反映していると言われる。
スポンサー面では第47回(2005年)になると常連だったスポンサーの多くが降板。さらに他番組のスポンサー枠の確保でスポンサー枠が縮小された。それらの事情で第41回(1999年)以降、テレビ放送の視聴率は低落を続け第47回(2005年)まで低迷、先述のように受賞アーティストがエイベックスばかりに偏るようになったことや裏番組に2003 - 2005年には格闘技イベント「PRIDE男祭り」の中継に視聴率を奪われることが影響してその回では過去最低の10.0%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)を記録する事態にまでなってしまった(問題点も参照)。ちなみに「PRIDE男祭り」は2006年も実施したが制作局の諸事情で最低視聴率回の2005年を最後に地上波での放送は打ち切りになった。
[編集] 放送日変更
第48回(2006年)、放送日を大晦日から12月30日に変更した。放送時間は前年より30分拡大した18:30 - 21:54となった。この変更は視聴率の長期低落傾向の打破が主な理由だが大晦日の紅白歌合戦出場やライブを行うアーティストの出演辞退を食い止める事、紅白出場歌手とのダブルブッキングを避けること、2004年あたりから格闘技番組『Dynamite!!』の放送時間拡大を望む声などもあった。会場は前年同様に新国立劇場。また、歴代の受賞曲VTRも前年より長めに放送された。視聴率は17.0%と前年を7%上回り、長年続いた視聴率低迷に歯止めをかけた。17%越えしたのは第40回(1998年)以来実に8年振りだった。因みにその翌日の大晦日に拡大放送された『Dynamite!!』も高視聴率(最高視聴率は第2部の19.9%、第1部と第3部も2桁をキープ)を記録し『レコ大』30日放送、『Dynamite!!』大晦日長時間放送が成功を収めることになった。
第49回(2007年)は前回と比べほぼ横ばいの16.8%と安定。また、一方の関西地区 (MBS) は20.0%(19:00 - )と関東より高かった。視聴者に30日開催が定着したことをうかがわせ、放送日変更の成功を印象付けた。第50回(2008年)は記念回の為、放送時間を90分拡大し23時30分前後までの5時間放送となる。21:42 - 21:44に『JNNフラッシュニュース』を挿入。
2005年までの大晦日は渋谷区神南(原宿)のNHKホール(『NHK紅白歌合戦』)、渋谷区初台の新国立劇場(『日本レコード大賞』)、新宿区歌舞伎町の新宿コマ劇場(『年忘れにっぽんの歌』)相互の大移動を短時間でこなす出場者のスケジュールの余裕のなさがあったが、2006年以降はレコード大賞を1日ずらしたことでそれがある程度緩和された。
[編集] 歴代授賞式司会者と視聴率
司会者は第11回(1969年)から第25回(1983年)まで高橋圭三が長く務めていたがその後は幾度か司会者が変更され、第38回(1996年)からは堺正章が務めている。アシスタントにはその年に最も輝いているタレントや女優、キャスター、その当時のTBSの最も人気のあるアナウンサーなどが選ばれている。また、最近は番組の途中で司会者全員衣装を変えるのが恒例となっている。審査会場や他のライブ会場からのリポート担当、曲ナレーションのみのために声だけ出演をするアナウンサーなども回によっては存在する(第24 - 30回(1982 - 1988年)の生島ヒロシアナや第36 - 38回(1994 - 1996年)の鈴木史朗アナなどがこれにあたる)。
第11回(1969年)の浅丘と第12回(1970年)の佐良直美は厳密には「特別ゲスト」扱いとしての出演だが、実質的には高橋のアシスタント役的な役割を番組内では務めた。また第12回(1970年)の堺・加藤、第13・14回(1971・1972年)の沢田雅美、第24回(1982年)の松宮一彦アナ、第19回(1977年)の小島一慶アナについては観客へのインタビュー役を担当するための司会補佐として出演した。
第19回(1977年)より高橋圭三は授賞式の進行一切を統括する「総合司会」として別のMC席から式全般の進行統括、最優秀歌唱賞・大賞・最優秀新人賞等の受賞者発表等を行い、総合司会者の高橋の下に更に総合司会の下に「司会」としてもう1人の男性司会者と女性司会がコンビとなって歌手へのインタビュー、各部門賞受賞者発表等を行う形となっていた(第19・20回(1977・1978年):黒柳徹子・久米宏アナ、第22回(1980年):渡辺謙太郎アナ・中田喜子、第23回(1981年):渡辺アナ・竹下景子、第24回(1982年):児玉清・竹下)。なお、それ以外の年(第21・25回(1979・1983年))についてもMC席は高橋1人が常在し女性司会はインタビューなどのある際にその都度登場するパターンで授賞式が進行され、厳密には一般的な男女ペア形式での司会スタイルとは異なる形となっていた。
TBSラジオでは別に中継実況アナウンサーがいる。第40回(1998年)までは松宮一彦が、翌第41回(1999年)から第49回(2007年)までは小島一慶が務めた。第50回(2008年)は向井政生アナが担当。
| 回数 | 年 | 男性 | 女性 | 補助 | 視聴率 (関東地区) |
|---|---|---|---|---|---|
| 第1回 | 1959年 | 芥川隆行 | |||
| 第2回 | 1960年 | ||||
| 第3回 | 1961年 | ||||
| 第4回 | 1962年 | 10.8% | |||
| 第5回 | 1963年 | 20.7% | |||
| 第6回 | 1964年 | 14.6% | |||
| 第7回 | 1965年 | 三木鮎郎 | 14.2% | ||
| 第8回 | 1966年 | 13.5% | |||
| 第9回 | 1967年 | 12.5% | |||
| 第10回 | 1968年 | 10.3% | |||
| 第11回 | 1969年 | 高橋圭三 | (浅丘ルリ子) | 30.9% | |
| 第12回 | 1970年 | (佐良直美) | (堺正章) (加藤茶) |
36.7% | |
| 第13回 | 1971年 | 山本陽子 | (沢田雅美) | 36.3% | |
| 第14回 | 1972年 | 森光子 | 46.5% | ||
| 第15回 | 1973年 | 玉置宏 | 44.1% | ||
| 第16回 | 1974年 | 小川哲哉 | 45.7% | ||
| 第17回 | 1975年 | 43.0% | |||
| 第18回 | 1976年 | 41.9% | |||
| 第19回 | 1977年 | 高橋圭三 久米宏 |
黒柳徹子 | (小島一慶) | 50.8% |
| 第20回 | 1978年 | 42.9% | |||
| 第21回 | 1979年 | 高橋圭三 | 檀ふみ | 43.3% | |
| 第22回 | 1980年 | 高橋圭三 渡辺謙太郎 |
中田喜子 | 34.3% | |
| 第23回 | 1981年 | 竹下景子 | 35.3% | ||
| 第24回 | 1982年 | 高橋圭三 児玉清 |
(松宮一彦) | 31.3% | |
| 第25回 | 1983年 | 高橋圭三 | 松宮一彦 | 32.7% | |
| 第26回 | 1984年 | 森本毅郎 | 30.4% | ||
| 第27回 | 1985年 | 倍賞美津子 | 31.4% | ||
| 第28回 | 1986年 | 竹下景子 | 29.8% | ||
| 第29回 | 1987年 | 関口宏 | 三雲孝江 | 29.4% | |
| 第30回 | 1988年 | 27.7% | |||
| 第31回 | 1989年 | 板東英二 | 楠田枝里子 | 14.0% | |
| 第32回 | 1990年 | 和田アキ子 | 12.5% | ||
| 第33回 | 1991年 | 布施明 石田純一 |
黒柳徹子 | 山本文郎 | 14.7% |
| 第34回 | 1992年 | 神田正輝 | 15.1% | ||
| 第35回 | 1993年 | 宮本亜門 | 牧瀬里穂 | 13.3% | |
| 第36回 | 1994年 | 15.3% | |||
| 第37回 | 1995年 | 西田敏行 中山秀征 |
渡辺真理 | 17.2% | |
| 第38回 | 1996年 | 堺正章 | 飯島直子 | 雨宮塔子 | 16.6% |
| 第39回 | 1997年 | 草野満代 | 16.5% | ||
| 第40回 | 1998年 | 江角マキコ | 18.5% | ||
| 第41回 | 1999年 | 黒木瞳 | 進藤晶子 | 14.1% | |
| 第42回 | 2000年 | 14.0% | |||
| 第43回 | 2001年 | 米倉涼子 | 安住紳一郎 小倉弘子 |
14.0% | |
| 第44回 | 2002年 | 菊川怜 | 13.3% | ||
| 第45回 | 2003年 | なし | 12.7% | ||
| 第46回 | 2004年 | 伊東美咲 | 安住紳一郎 小林麻耶 |
10.4% | |
| 第47回 | 2005年 | 綾瀬はるか | 10.0% | ||
| 第48回 | 2006年 | 蛯原友里 押切もえ |
17.0% | ||
| 第49回 | 2007年 | 16.8% | |||
| 第50回 | 2008年 | 上戸彩 松下奈緒 |
16.9% |
- 視聴率はビデオリサーチ調べ。赤数字は最高視聴率で、青数字は最低視聴率。
- 通常アナウンサーは同授賞式では進行役となる事が一般だが第29・30回(1987・1988年)の三雲孝江アナについては進行役という扱いでなく男性司会と同等の位置付けがなされていたため、ここでは女性司会の欄に記載する事とする。
[編集] 放送スタッフ
- 第50回(2008年)
- 構成:樋口弘樹、あべ
- ナレーション:ケイ・グラント
- プロデューサー:落合芳行、利根川展、片山剛、服部英司、篠塚純
- 舞台監督:高岡滋紀
- 音楽監督・指揮:服部隆之
- 編成担当:三島圭太
- 総合演出:平賀渉
- 演出:石橋孝之、木田将也(新国立劇場外中継)、刀根哲洋(OAサブ)
- 制作:TBSテレビ
- 製作著作:TBS
- 主催:社団法人 日本作曲家協会、日本レコード大賞制定委員会、日本レコード大賞実行委員会
[編集] ネット局
[編集] テレビ
JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが以前はクロスネット局が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。
今分かっている事は放送日が金曜日だった第13回(1971年)に静岡放送が番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした事である。また南海放送が木曜日にJNNを同時ネットしていたので、その年だけは番組をネットしたりしていた。TVネットワーク腸捻転時代(1974年まで)はABCにてネット。
[編集] スポンサーについて
スポンサーセールスは1990年代初期まで大晦日が該当する曜日の19・20時台のレギュラースポンサー(例えば月曜日が大晦日に当たった場合19時台前半はライオン・YKK、19時台後半はブラザー→雪印乳業、20時台は松下電器・松下電工(現:パナソニック・パナソニック電工)が提供。水曜日が大晦日に当たった場合20時台は水曜夜8時枠連続刑事ドラマ→『わくわく動物ランド』に提供していたスポンサー各社(=江崎グリコ・牛乳石鹸共進社・大正製薬・メナード化粧品・積水ハウス他1社)の提供)だったが、1995年頃以降は特定の企業がスポンサーでCMを流すケースが増えている(主に外資系レコード会社やエイベックストラックスグループ・ソニーミュージックなど)一部電機メーカーや食品メーカーが年末年始の特別編成による休止振り替えでスポンサーにつくことが多い(1995年 - 1997年はスポンサーの中に牛乳石鹸共進社、2002年・04年は大正製薬、2003年 - 2005年はライオン、2005年はメナード化粧品も提供していた))。
2007年のスポンサーでは『さんまのSUPERからくりTV』から花王、伊藤園(以上60")、マツダ、生涯学習のユーキャン、クリナップ、小林製薬(以上30")、武田薬品(通常だと60"だがこのときは30")、『どうぶつ奇想天外!』から日産自動車(60")、サンスター、AEON、味の素、NTT東日本・NTT西日本、ロッテ(以上30")、「日曜劇場」から花王(90")といった通常番組の筆頭スポンサーがほぼ丸々入った。そのうちスポンサーでは昨年のスポンサーだった(例・ヤマザキナビスコ、日本グッドイヤー、KDDI(主にau中心)キリンビール、キリンビバレッジなど)のが数社あった。
2008年のスポンサーでは2007年と同様に該当曜日のスポンサーが殆どが提供し、ユニリーバ・ジャパンを筆頭に返り咲き・連続のスポンサーがあるが、新たにイー・モバイルなどのスポンサーが数社提供していた。
[編集] ラジオ
JNN(TV)とJRN(ラジオ)との兼営局(一部のNRNとのクロスネット局除く)では、一部の放送局でTVとラジオで同時放送している。なおRABラジオではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。
- RNCラジオでは1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。こちらもRAB同様JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。MBSでは1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。
[編集] 問題点
現在の日本レコード大賞は15人の審査委員の審査により賞が決定される。この審査基準の長所としては売り上げだけでなく楽曲の内容、詞の奥深さなどを加味し総合的にその年の最優秀楽曲を決定できるという点にある。しかし審査基準は明確ではなく特定の審査委員と特定の芸能事務所やレコード会社との癒着疑惑、世間が支持する「その年を代表する曲」との乖離など多くの問題点がある。また賞の対象は楽曲であるにも関わらずテレビ中継の演出が年々過剰になって来たため、楽曲よりも歌手のみが注目される傾向にある。近年では「レコード大賞は出来レース」等と揶揄する声も各方面から起こっている。
近年は音楽そのものに対する考えの変化から、賞取りレースに左右されない音楽活動をするアーティストが増えた事により出演やノミネートそのものを辞退するアーティストが増えている。1990年代後半以降になると低迷に追い討ちを掛ける様に大物アーティストの大晦日から元旦に掛けてのカウントダウンライブや各種格闘技イベントなどが隆盛し、賞の注目度そのものが低下している。とりわけ浜崎あゆみの受賞以降は総合的な音楽業界への貢献度(全体のセールス)やTBSでのタイアップの高さなどが評価された「歌手」に授与される傾向となっており、「楽曲」に授与するというレコード大賞の本来の目的から外れている状況である。国民的に支持される楽曲が生まれにくい現状も、こういう事態を招いていると考えられている。
「レコード」大賞というタイトル自体が時代遅れとする指摘もある。しかし時代の主力音盤の媒体が変わる毎に名前を変えると、これまでの伝統が失われるという理由で今後もこのタイトルで行われる(「レコード」のもう1つの意味合いとして「記録」にもかけているとされる)。また業界内では記録媒体の総称をレコードとするため、特に気にする向きも無いようである。
[編集] 癒着疑惑・事件・騒動・秘話など
[編集] 第6回(1964年)
この年は村田英雄の『王将』が同名の映画の主題歌として大ヒットし翌1965年に掛けて150万枚を越える大ヒットを記録したが、大賞受賞曲は売り上げでは『王将』に遥かに及ばない青山和子の『愛と死をみつめて』であった。これは、映画『愛と死をみつめて』の主演・吉永小百合がレコード大賞創設に大きく貢献した作曲家・吉田正の弟子であったためと言われている。
[編集] 第8回(1966年)
この年は加山雄三の『君といつまでも』が自身が主演した映画の挿入歌として300万枚を越える大ヒットを記録し、その中の歌詞「幸せだなあ」が流行語になるほどの大ヒットを記録した。当時のマスコミもこの年の大賞は「加山で決まり」と評していた。しかし、売り上げも少なくヒット曲とは言えない橋幸夫の『霧氷』が受賞した。橋も吉田正の弟子である。
[編集] 第14回(1972年)
この年は上半期の大ヒット曲である小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』が大賞の最有力候補だったが、9月に発売されヒットチャートを急上昇し始めたちあきなおみの『喝采』が大賞候補に急浮上し両曲が歌唱賞を受賞。2曲がデッドヒートを繰り広げる形となり、大逆転で『喝采』が大賞を受賞した。最優秀歌唱賞は『あの鐘を鳴らすのはあなた』で和田アキ子が受賞。ヒット曲ではなかったこともあり物議を醸す。また最優秀新人賞は激戦となり、日本歌謡大賞の放送音楽新人賞の森昌子、三善英史に加えて人気の高かった郷ひろみの争いになると予想されていたが決選投票の末にセールス面で一歩リードしていた麻丘めぐみが逆転受賞した。
[編集] 第21回・第24回(1979-82年)
ジュディ・オングの『魅せられて』、細川たかしの『北酒場』が各々初の受賞を果した第21回(1979年)と第24回(1982年)には共に日本歌謡大賞の大賞を受賞して有力であった西城秀樹の『YOUNG MAN』(1979年)、岩崎宏美の『聖母たちのララバイ』(1982年の日本テレビ『火曜サスペンス劇場』テーマ曲)が外国人の作曲であることを理由にノミネートを見送られたというエピソードがある。西城は『勇気があれば』という別の楽曲でのノミネートになり事実上大賞レースから外れ、さらに岩崎はこの年ノミネートさえされない事態になり様々な論議を呼んだ。
[編集] 第27回・第28回(1985・86年)
中森明菜が第27回(1985年)に『ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕』で、第28回(1986年)に『DESIRE -情熱-』で2年連続の大賞を受賞し史上初の女性歌手の2年連続大賞を受賞した。なお1986年のオリコン年間売り上げ第1位になった石井明美の『CHA-CHA-CHA』は外国人の作曲だったが、石井が新人賞にノミネート[5](最優秀新人賞は逃している)されると同時に特別賞として外国音楽賞が授与された。これまでとは異なり、外国人の作曲に一時的ではあるが門戸が開かれたケースである。なおこの楽曲は、TBSで放送された大ヒットドラマ『男女7人夏物語』の主題歌だった。
[編集] 第29回・第30回(1987・88年)
第29回は近藤真彦が『愚か者」で念願の大賞を受賞した。『命くれない』が1987年の年間レコードセールス1位になり2つの有線大賞を受賞した瀬川瑛子、『難破船』で史上初の3連覇を狙った中森明菜は急遽新設された特別大衆賞で配慮された。近藤の授賞式直前に近藤の母親の遺骨が盗難され、「レコード大賞を辞退しろ」などと書かれた脅迫状がレコード会社に送り付けられるという事件が起こった。翌年の第30回(1988年)も光GENJIが『パラダイス銀河』で大賞を受賞し、ジャニーズ事務所所属の歌手が2年連続の受賞となった。しかしながら、男性アイドルの大賞受賞は第30回を最後に現在まで生まれていない。
[編集] 第31回(1989年)
同年の日本有線大賞の大賞を受賞し、2曲がオリコンの年間1位と2位を占めて最有力候補とよばれていたプリンセス・プリンセス、工藤静香、長渕剛などの辞退で賞の形骸化が顕著となった。もっとも、その中で同年に死去した美空ひばりの『川の流れのように』、前年からの2連覇を狙った光GENJIの『太陽がいっぱい』、年間ベスト10に3曲を送り込むなど一世を風靡したWinkの『淋しい熱帯魚』が三つ巴になり混戦になった。そんな中、当初マスコミの間では美空ひばりが有力視されたが、土壇場になってレコード大賞をテレビ中継するJNN系列の各テレビ局が持つ票が俄然Winkに流れ、Winkが大賞を受賞した。第27回(1985年)の中森明菜以降、5年連続でのアイドル歌手の大賞受賞であり演歌界や演歌ファンの不満が増大することになった。そのため、翌第32回(1990年)から演歌界の枠として「歌謡曲・演歌部門」が創設されることになった。ちなみに、女性アイドルの大賞受賞は第31回を最後に現在まで生まれておらず、女性アイドルデュオが大賞を受賞したのは第20回(1978年)のピンク・レディー以来11年ぶりの大賞受賞である。
[編集] 第32回-第34回(1990-92年)
第32回(1990年)に設けられた「歌謡曲・演歌部門」大賞は堀内孝雄の『恋唄綴り』が受賞、第33回(1991年)に長らく無冠の帝王であった北島三郎が悲願の大賞を受賞した。また翌第34回(1992年)も「大物」大月みやこが受賞した。日本レコード大賞から離れてしまった演歌ファンの心を引き戻すために創設された「歌謡曲・演歌部門」ではあったが大物が容易に大賞を獲得できる弊害を早々に露呈してしまい、視聴者に明確な存在意義を示せないまま創設後3年で廃止されることになった。
[編集] 第35回(1993年)
前年まで続いた「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」を再統一し、その年の最優秀楽曲1曲に大賞を贈るスタイルに戻した。この年はヒット曲が多く、CHAGE and ASKAの『YAH YAH YAH』やTHE 虎舞竜の『ロード」や井上陽水の『Make-up Shadow』などの名曲が多く世に出た。しかし、これらの曲を歌っていたアーティストの辞退などがあって結局オリコン年間101位だった香西かおりの『無言坂』(市川睦月作詩・玉置浩二作曲)が大賞受賞曲となり、「歌謡曲・演歌部門」が3年で廃止された翌年に歌謡曲が受賞することになった。
[編集] 第36回(1994年)
この年は審査・授賞式共に空転したが、Mr.Childrenの代表曲でこの年の年間シングル売り上げ1位だった『innocent world』が受賞した。表面上は問題がないように思えるこの曲の受賞は、「審査委員が審査をストライキする」という異常事態によるものであった。これは前年の「香西受賞」で危機感を抱いたある大手芸能事務所がある歌手を受賞させるよう審査委員に圧力をかけ続けたため、これに嫌気が差した審査委員がこぞってMr.Childrenに投票したのである。さらにMr.Childrenがミュージック・ビデオ撮影を理由に授賞式を欠席したために生演奏が行われず、TBSの音楽番組『COUNT DOWN TV』の収録で同バンドが演奏した際の映像を流すのみという形となった。Mr.Childrenは、「自分達の楽曲が正当に評価された訳ではない」と受賞後も不信感を抱くことになる。その後、審査制度とノミネート方法は大きく変貌を遂げた。
[編集] 第37回-第45回(1995-03年)
大手レコード会社・エイベックスに所属する歌手が第41回(1999年)と第42回(2000年)を除いて大賞を受賞する状況になったため、「エイベックスの出来レース」という声も出た。その結果、業界、視聴者、双方から選考過程が不透明だという批判もあった。しかし、当時ブームだった小室ファミリーやエイベックス所属の歌手が積極的に参加したことで凋落の一途だったレコ大が息を吹き返したことは事実である。
第37回(1995年)の美山純子の最優秀新人賞受賞は、売上的にも知名度も圧倒的だった華原朋美を抑えてのことだった。美山は、1981年に加古川順子という名でレコードデビュー。その後、何度か改名を繰り返しつつ歌手活動を継続しており実質新人ではなかった上、オリコンに100位以内にも入ってなかったという。
そのような状況の中で美山が最優秀新人賞を受賞した背景には、もし華原が受賞すると大賞がTRFとなっていたので小室ファミリー独占となり、批判が出る状態が回避できないということと某審査員が美山受賞をごり押ししたことがあったと言われている。 その一方で、美山の楽曲『桃と林檎の物語』は日本作詩大賞で新人ながらも異例の大賞を受賞しており、受賞は順当という見方もある。
この疑惑の受賞にかかわらず美山はその後1曲しかオリコンで100位に入ることが出来ず、結局鳴かず飛ばずの傾向が続いたことから最終的に1997年ごろに引退した模様。
一方、華原は翌年にミリオン連発で一層飛躍したりその後善かれ悪しかれマスコミなどの話題になるというように、まるっきり皮肉な結果となった。
第40回(1998年)のglobeの受賞は売上枚数を見る限り最有力と見られたEvery Little ThingやL'Arc〜en〜Ciel、GLAY、SPEED(当時、レコード会社はトイズファクトリー。現在はエイベックス)を抑えての受賞だっただけに波紋を呼んだ。この年から、楽曲に授与という本来の目的より歌手に授与という傾向が強くなった。
第43回(2001年)から第45回(2003年)までは浜崎あゆみが史上初の3連覇を達成する一方で、浜崎以外の有力歌手が軒並み辞退するという事態に陥った。特に第45回(2003年)はSMAPの『世界に一つだけの花』が記録的な売り上げを残して大賞有力と囁かれていた。しかし、ノミネート段階で受賞を辞退した。「ナンバーワンよりオンリーワン。どの歌が優れているということはない」とのコメントはあったが、とりわけ平成に入ってから軒並み賞レースを辞退している彼らが所属しているジャニーズ事務所の方針に従ったとの見方が強い。
[編集] 第46回(2004年)
8月に発生したエイベックスのお家騒動に責任を感じていたという浜崎がノミネートを事前に辞退した。なお浜崎の辞退に関しては主催者側が辞退した話を全く聞いておらず、ノミネート曲があったものの落選したとしたため双方の「ノミネート」の認識に食い違いが起きる異例の事態となった。またTBSが制作に関わった映画『世界の中心で、愛をさけぶ』の主題歌『瞳をとじて』の平井堅も辞退した。シングル2曲が年間2位と5位に入り、アルバムも年間2位と総合的な売り上げで他を引き離したMr.Childrenが『Sign』(オリコン年間2位)で10年ぶりの大賞を受賞、今度は実際に出演した。出演の背景には、この曲がこの年TBSが放送した連続ドラマ『オレンジデイズ』の主題歌だったこと、主催者が10年前に起こった「内紛」をMr.Children側に謝罪したこと、主催者が桜井が所属する非営利組織「ap bank」を支持すること、さらに桜井が要求していた「受賞は今回限り」という条件を受け入れる約束をしたことなどが挙げられる。
[編集] 第47回(2005年)
TBSの昼ドラマ『愛の劇場・コスメの魔法2』の主題歌だった倖田來未の『Butterfly』(オリコン年間売上85位)が受賞した。なお、この曲の売り上げ枚数は少なかったもののアルバムの高セールスや年間を通しての音楽業界への貢献度が高かったこと、TBSでのタイアップが評価されたことなどが大賞受賞理由と思われる。
また、倖田の『Butterfly』受賞は『ベストヒット歌謡祭』演歌歌謡曲部門グランプリと『日本有線大賞』の2冠の演歌歌手・氷川きよしの『初恋列車』(オリコン年間40位)、コブクロの『桜』など、有力候補を抑えた受賞となった。しかしながら最優秀新人賞を倖田の後輩であるAAAが受賞し倖田の大賞受賞を含めると、エイベックス寡占状態をこの年も食い止めることができなかった。
ちなみに、プレゼンターとして小池百合子環境相(大賞を発表)やライブドアの堀江貴文社長(最優秀新人賞を発表)といった話題の人物が登場した。
さらに授賞式直前に審査委員長の阿子島たけしが審査委員長をやめろ等と怪文書を流されたあげくに謎の死を遂げる事件が起こったため、賞の透明性が改めて問われることになった。これが視聴率史上最低の10.0%となる一因になったと言われている。
- 阿子島たけし焼死事件
詳しくは阿子島たけしの項を参照
- 「業界関係者との金銭授受があった」「阿子島は委員長を辞めろ」などという阿子島への怪文書が出回っていた事で、大賞の審査過程と事件の関連性が注目された。審査委員長が死亡したため三木たかし実行委員長を審査委員長代行として審査が行われ、TBS以外のJNN系列基幹4局(MBS・CBC・HBC・RKB)の代表が審査委員として加わった。授賞式の放送の最後に追悼のメッセージが放映された。また、音声はモノラルに切り替えた。
[編集] 第48回(2006年)
長年大賞候補と言われていた氷川きよしが『一剣』で受賞した。金賞受賞曲の中で氷川(オリコン76位)よりも売り上げが多かった大塚愛(『恋愛写真』・75位)、倖田來未(『夢のうた』・26位)を押しのけての受賞。エイベックスによる寡占状態に一定の歯止めが掛かることになった。
第41回(1999年)から視聴率が10%台前半と低迷が続き1ケタへの転落は時間の問題、存続の危機とさえいわれていた。復活の起死回生策としてこの年から放送日を31日の大晦日から30日に移動させた。結果は17.0%で一応の成功を収め、レコード大賞の存続の危機もひとまず脱した。
[編集] 第49回(2007年)
コブクロが『蕾』で念願の初の大賞を受賞した。男性デュオとしては史上初。またTBS以外のドラマ主題歌が受賞したのは第39回(1997年)の安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE?』以来10年ぶり。最優秀歌唱賞にはEXILEが選ばれたが、グループ(ユニット)としての最優秀歌唱賞受賞においては史上初の快挙となった。
なお、最優秀新人賞には℃-uteが選ばれたもののテレビ局での18歳未満の21時以降出演自主規制、さらに児童福祉法や労働基準法の規定があるため[6]受賞シーンには出演できず[7]、代理として師匠でプロデューサーのつんく♂が賞を受け取るという異例の形を取った[8]。ちなみに、女性アイドルユニットおよび女性アイドルとしての最優秀新人賞受賞は第40回(1998年)のモーニング娘。以来9年ぶりの受賞となった。
この年のシングル売上第1位だった秋川雅史の『千の風になって』が大賞候補となる金賞ではなく、特別賞を受賞した。このようになった背景には発売がレコード大賞審査対象期間外の2006年5月で発売から1年半も経っており、審査対象年度の楽曲にならなかったことと第24回(1982年)の岩崎宏美『聖母たちのララバイ』などと同様に原詩が日本語でなかったことなどがあると言われている[9]。
放送が22時近くまであったことから、上記の℃-uteのような18歳未満の歌手・アーティストが受賞した場合の対応も今後の課題である。
視聴率は16.8%と前回より0.2ポイント下がったものの、前回並みを獲得したことで50回目という大きな節目を迎える2008年も12月30日開催となった。
[編集] 第50回(2008年)
大賞は、EXILEの楽曲『Ti Amo』。EXILEは初受賞。最優秀新人賞はジェロに決定。
視聴率は16.9%と前年と比べて0.1ポイント上がり、ほぼ前年並みを確保した。50回記念の特別企画として、歴代のレコード大賞を受賞した森進一、Wink、米米CLUB、八代亜紀がそれぞれ熱唱したり、大量の歴代の受賞者たちのVTR映像が流されたりした。また、生バンドによる演奏もあり、ジェロの「海雪」も生バンドで演奏された。
[編集] 脚注・出典
- ^ 時期は不明だが、当初は「!」がなかった
- ^ a b 長田暁二『昭和の童謡アラカルト―戦後編』ぎょうせい、1985年。ISBN 4324001243
- ^ 現在の音源元はUPFRONT WORKS/ライスミュージック。
- ^ 現在の音源元はBeing group。
- ^ 「日本レコード大賞」という賞は歌手ではなく楽曲に贈られる賞であるが、「最優秀新人賞」等は楽曲ではなく歌手に贈られる賞なので、外国曲でも問題なかったとも考えられる。
- ^ このようなケースはSPEED(1996年8月 - 2000年3月)が『NHK紅白歌合戦』に出演した時にも見られた。
- ^ 放送当時の彼女たちのメンバー全員の平均年齢は13.5歳。
- ^ しかし本人たちは仕事を終えて楽屋に待機していたところに小林麻耶アナが駆けつけ、驚嘆と感動の涙を見せる一幕もあった。また、つんく♂はシャ乱Qとして『ズルい女』を披露した。
- ^ 「CD売り上げ1位秋川雅史なぜレコ大を受賞できない?」 週刊朝日 2007年12月7日号。
[編集] 外部リンク
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