島倉千代子

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島倉千代子
基本情報
出生名 島倉千代子
出生 1938年3月30日(71歳)
血液型 A型
学歴 日本音楽高等学校卒業
出身地 日本東京都品川区
ジャンル 演歌
職業 歌手
活動期間 1954年 - 現在
レーベル コロムビアミュージックエンタテインメント
影響 美空ひばり
  

島倉 千代子しまくら ちよこ、本名同じ、1938年3月30日 - )は、東京・北品川生まれの演歌歌謡曲歌手日本音楽高等学校卒業。

昭和30年代は今で言うアイドル的存在(テレビ放送世代の元祖アイドルともいえる。)で一時代を築いた。非常に独特な高音のビブラート唱法や浮遊感あふれる発音など味わい深い歌唱法を持ち、デビュー50年を経た今も尚、第一線で芸能活動を続けている。戦後の歌謡界に多大な貢献をした代表的女性流行歌手の一人である。

目次

[編集] 概略

  • 1938年、東京市品川区に3月30日生まれで未熟児。警察官の父:壽雄(としお)、母:ナカの元二男四女の四女。長女:敏子、長男:征夫、二男:義孝(後不明)
  • 1945年、7歳、太平洋戦争の為長野へ疎開。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首から肘までを損傷。切断しかないと医師に言われたが母:ナカの「女の子だから残して欲しい」という懇願により現在も存在する。
    感覚も無く、動かす事も出来なくなる(現在は不自由ながらも動かす事ができる)。
    気持ちの沈んだ千代子の為に母:ナカは「リンゴの唄」を聞かせるようになる。後に「この世の花」で歌手デビューを遂げた千代子だが、「この世の花」の作曲は「リンゴの唄」の作曲と同じく万城目正によるもの。
  • 1947年、9歳、終戦。東京に戻る。姉:敏子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていた為に歌手にはなれなかった。大好きな姉の為に自分が歌手になると決意。姉:敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入学。左手に負担の無いアコーディオンを担当。歌唱力があった為ボーカルにも起用されていた。
  • 1950年、12歳、童謡『お山のお猿』がテイチクレコードから発売される。ただし誤植により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。
  • 1953年、15歳、日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。
  • 1954年、16歳、『第5回コロムビア全国歌謡コンクール』で優勝。日本コロムビアと専属契約。
  • 1955年、16歳、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲「この世の花」は半年後に200万枚達成。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。
  • 1957年、19歳、「東京だョおっ母さん」が150万枚の大ヒット。この年初めて紅白歌合戦に出場し、同じ年で憧れの美空ひばりと競演する。当時大卒サラリーマンの給料が「1万円」であったが、千代子は常に財布に「2千円」入っていた。母:ナカはステージママ化する。
  • 1958年、20歳、東京高輪に一戸建てを購入。
  • 1959年、21歳、突然声が出なくなり一週間程失踪。
  • 1960年、22歳、美空ひばりと一緒に「つばなの小径・白い小ゆびの歌」を発表。
  • 1961年、23歳、ファンの投げたテープが目に当たって失明寸前のダメージを受ける。このとき、東京五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。のち守屋は島倉の愛人となる。
  • 1963年、25歳、父:寿雄が他界。悲しみにくれる中支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と周りの反対を押し切り結婚。結婚前に3度の中絶をした。結婚後は子供が欲しかったが恵まれなかった。
  • 1968年、30歳、すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚した為に門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。
  • 1972年、34歳、母:ナカが他界。
  • 1975年、37歳、知人に頼まれ実印を貸してしまう。その知人だけではなく、マネージャーや知らない人までの沢山の保証人になってしまう。千代子を保証人に借金を重ねた人々は行方不明になる。そして16億円の借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受ける。(しかし実は美空ひばりも実印を押してしまった経験を持つ)。
  • 1977年、39歳、島倉に信頼され手形を裏書されていた守屋義人が事業に失敗して不渡り手形を出し蒸発。これにより島倉は2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。
  • 1984年、46歳、歌手生活30周年を迎える。
  • 1986年、48歳、紅白歌合戦へ30年連続30回出場を達成。当時の紅白最多記録だった。
  • 1987年、49歳、「30回という数字を汚したくない」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ(前年迄29回連続出場中で、当時白組歌手最多記録の三波春夫も辞退を宣言)。「人生いろいろ」を発表。
  • 1988年、50歳、「人生いろいろ」が前1987年からこの年にかけて130万枚のヒットを記録。紅白に2年ぶり31回目の復帰出場となる。借金返済の目処がたつ。姉:敏子が他界(目黒川に投身自殺)。
  • 1989年、51歳、昭和の歌姫、美空ひばりが他界。訃報を聞いた千代子は直ぐ駆けつけ、3日間美空ひばりのそばから離れなかった。
  • 1993年、55歳、左胸にシコリを感じ検査をすると乳癌が発覚。会見を開き自ら癌である事を発表する。手術は成功する。
  • 1999年、61歳、歌手生活45周年を迎える。45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。ベストジーニスト賞を受賞。
  • 2004年、66歳、歌手生活50周年を迎える。
  • 2007年、69歳、知人に資産を奪われ再び多額の借金を抱える。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じた千代子は誕生日に事務所を解散。しかし周りの協力により心機一転スタートする事になる。現在、経理も全部自分でやる為に簿記を勉強中。
  • 2008年、70歳、「人生いろいろ」が出身地品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の電車接近メロディに採用される。
  • 2009年、71歳、歌手生活55周年を迎える。

[編集] 略歴

主演映画『別れの茶摘唄』(1957年)
  • 1954年コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。
  • 1955年、デビュー曲「この世の花」(同名の映画の主題歌)がヒットし(売上200万枚)人気歌手になる。後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる。
  • 1957年、「東京だヨおッ母さん」が60万枚の大ヒット。映画化もされ、自ら主演する。NHK紅白歌合戦に初出場(曲目は「逢いたいなァあの人に」。その後、1976年、1979年にも歌唱)。
  • 1960年、NHK紅白の紅組トリを務める(1960~1962年、1973~1975年の計6回に渡りトリを務める)。
  • 1963年、元阪神タイガース藤本勝巳と結婚するが、6年後に離婚。
  • 1968年、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である「愛のさざなみ」が幅広い世代の間でヒット、この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎とともに受賞。
  • 1977年、ある人物の借金の連帯保証人になり、その人物が突然失踪、数億もの借金返済のため、写真集の発売、キャバレー回りなどをしながら、足掛け7年程で完済した。彼女の支持はこのような「アンダーグラウンド」的な活動をしている最中でも衰えを知らず、1987年に出場辞退するまで、史上初のNHK紅白30年連続出場の大記録を樹立した。
  • 1988年、「オレたちひょうきん族」での山田邦子の物まねやコロッケによる物まねをきっかけに「人生いろいろ」が若者にも受け、再び大ブレークする(売上130万枚)。同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。「100万枚記念パーティー」では、山田邦子とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による「人生いろいろ」を熱唱。これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です。」と二人を賞賛する。

その後、1993年には初期の乳癌の手術をするなど苦労も多かったが、ライブハウスなど演歌歌手の枠をはみ出して精力的に活動。

  • 1999年紫綬褒章を受章した。
  • 2003年、「クイズ$ミリオネア」に出場したものの、早押し並べ替えクイズでタイムオーバーになったり(同じ放送回に出場した布川敏和の証言による)選択肢を決定した時に言う台詞「ファイナルアンサー」が言えず(「横文字読めません…」とボヤくばかりだった)、司会のみのもんたやスタッフ、他のゲスト挑戦者に多大な迷惑をかけた。すぐさま視聴者からのクレームもあったため、2005年2月24日放送分でようやくリベンジ出来た。選択肢決定の台詞は、「おしまいアンサー」と言って進行し、13問目敗退100万円獲得した。
  • 2003年、27時間テレビ内のフジテレビ系アニメちびまる子ちゃんに「島倉千代子役」で声優にも挑戦。「変装をして清水にやってくる」という内容だった。エンディングテーマには「人生いろいろ」を歌った。
  • 2004年、NHK紅白歌合戦に35回目の出場を果たす。
  • 2005年、「エンタの神様」で、「スーパースターに会いに行こう」と言う名目ではなわの出す常識問題に回答者として出演するが、珍回答が多くその天然ぶりが発揮された。
  • 2007年 映画「ララ、歌は流れる 中山晋平物語」にナレーターとして出演し、日本歌謡界の始祖とも言える中山晋平の世界を、思いのこもった情熱的なナレーションで表現し、新たな顔をのぞかせた。

[編集] 美空ひばりとの秘話

1987年夏、美空ひばりが病気で福岡の病院に入院した際に島倉千代子が見舞いに訪れた。島倉本人は「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね~」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。晩年、闘病生活を送っていたひばりは親交の深い芸能人などが見舞いに訪れても、妹のように可愛がっていた島倉以外の面会は拒否していたといわれる。

[編集] 近況

現在は大分県を本拠地とし、九州各地で営業するリフォーム会社「野田建工」のテレビコマーシャルに着物姿で主演している。なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができる。また、2007年には藤商事からパチンコ機種「CR島倉千代子の千代姫七変化」が発表され、全国のパチンコ店に導入予定。

[編集] NHK紅白歌合戦出場歴

1957年(第8回)の初出場以来、1986年(第37回)まで紅白史上初の30回連続出場を達成。1987年は出場を辞退するが、「人生いろいろ」で久々のヒットを記録したことを背景に1988年(第39回)には出場。1994年(第45回)には「紅白歌合戦45回の歴史を象徴する歌手」として2度目のカムバックを果たし、1996年(第47回)まで3年連続して出場。しかし1996年(第47回)、「ときめきをさがしに」を歌唱した際、島倉自身が作詞を担当した作品であるにもかかわらず、歌詞の書かれたカンニングペーパーを見ながら歌唱し、さらに歌詞を間違えるという失態を犯し、以後は出場から遠ざかる。のちに「紅白歌合戦に出場してほしい歌手」アンケートで上位歌手15組の中に入ったことから、2004年(第55回)に通算35回目の出場を果たす。

通算出場回数では北島三郎森進一五木ひろしに次いで歴代第4位であり、紅組の中では最多を誇る。なお、北島三郎に追い抜かれるまでは歴代第1位の記録を保持していた。

通算
出場
回数
出場
紅白
出場年度 曲目 出演順 対戦相手 備考
第8回 1957年(昭和32年) 逢いたいなァ あの人に 22 / 25 春日八郎 (1)
2 第9回 1958年(昭和33年) からたち日記 23 / 25 春日八郎 (2)
3 第10回 1959年(昭和34年) おもいで日記 13 / 25 三橋美智也 (1) 前半トリ (1)
4 第11回 1960年(昭和35年) 他国の雨 27 / 27 三橋美智也 (2) トリ (1)
5 第12回 1961年(昭和36年) 襟裳岬 25 / 25 三波春夫 (1) トリ (2)
6 第13回 1962年(昭和37年) さよならとさよなら 25 / 25 三橋美智也 (3) トリ (3)
7 第14回 1963年(昭和38年) 武蔵野エレジー 13 / 25 三橋美智也 (4) 前半トリ (2)
8 第15回 1964年(昭和39年) ふたりだけの太陽 13 / 25 村田英雄 (1)
9 第16回 1965年(昭和40年) 新妻鏡 12 / 25 三橋美智也 (5)
10 第17回 1966年(昭和41年) ほんきかしら 12 / 25 春日八郎 (3)
11 第18回 1967年(昭和42年) ほれているのに 12 / 23 橋幸夫 前半トリ (3)
12 第19回 1968年(昭和43年) 愛のさざなみ 12 / 23 三波春夫 (2) 前半トリ (4)
13 第20回 1969年(昭和44年) すみだ川 12 / 23 三波春夫 (3) 前半トリ (5)
14 第21回 1970年(昭和45年) 美しきは女の旅路 12 / 24 三波春夫 (4) 前半トリ (6)
15 第22回 1971年(昭和46年) 竜飛岬 10 / 25 北島三郎 (1)
16 第23回 1972年(昭和47年) すみだ川 (2回目) 18 / 23 フランク永井 (1)
17 第24回 1973年(昭和48年) からたち日記 (2回目) 22 / 22 北島三郎 (2) トリ (4)
18 第25回 1974年(昭和49年) 襟裳岬 (2回目) 25 / 25 森進一 トリ (5)
19 第26回 1975年(昭和50年) 悲しみの宿 24 / 24 五木ひろし 大トリ (6)
20 第27回 1976年(昭和51年) 逢いたいなァ あの人に (2回目) 18 / 24 フランク永井 (2)
21 第28回 1977年(昭和52年) 京都・北嵯峨・別れ寺 20 / 24 三波春夫 (5)
22 第29回 1978年(昭和53年) りんどう峠 22 / 24 村田英雄 (2)
23 第30回 1979年(昭和54年) 逢いたいなァ あの人に (3回目) 17 / 23 フランク永井 (3)
24 第31回 1980年(昭和55年) 女がひとり 14 / 23 フランク永井 (4)
25 第32回 1981年(昭和56年) 鳳仙花 09 / 22 フランク永井 (5)
26 第33回 1982年(昭和57年) この世の花 11 / 22 千昌夫 前半トリ (7)
27 第34回 1983年(昭和58年) 積木くずし 07 / 21 三波春夫 (6)
28 第35回 1984年(昭和59年) からたち日記 (3回目) 17 / 20 三波春夫 (7)
29 第36回 1985年(昭和60年) 夢飾り 16 / 20 近藤真彦
30 第37回 1986年(昭和61年) くちべに挽歌 18 / 20 村田英雄 (3)
31 第39回 1988年(昭和63年) 人生いろいろ 14 / 21 チョー・ヨンピル
32 第45回 1994年(平成6年) 人生いろいろ (2回目) 10 / 25 小椋佳 前半トリ
33 第46回 1995年(平成7年) あの頃にとどけ 19 / 25 小林旭
34 第47回 1996年(平成8年) ときめきをさがしに 21 / 25 堀内孝雄
35 第55回 2004年(平成16年) 人生いろいろ (3回目) 12 / 28 布施明

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。
  • 1989年(第40回)に限り、二部制が導入されたが、それ以外の回は一部制で、その大多数は前半戦と後半戦とで構成される。攻守交替等により前半戦と後半戦の区別が明確となっている回については、前半戦の締めくくりとして登場した場合には「前半トリ」として備考欄に表記する。

[編集] 代表曲

『東京の人さようなら』は映画化され、島倉自ら主演した

島倉千代子は、あまりにたくさんの曲に声を吹き込んでおり(およそ2000曲)、また当時のアルバムにしか入っていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。

[編集] 出演

[編集] テレビ

[編集] CM

[編集] 島倉千代子と地方との結びつき

島倉千代子は、地方小唄や音頭といった、いわゆる新民謡を数多くレコードに吹き込んでいる。中には、「祇園まつり音頭」「七夕おどり」など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。地元では、大スターである島倉千代子がレコードに吹き込んだこともあって、大変親しまれている場合が多い。レコード発売から何十年も経過した今でも、当時の音源が祭りの際に使用されることもある。

多くの歌手が、地方小唄の類は吹き込んだらもう終わりで、それからあまり歌うことはない。ところが島倉千代子は、後年その土地に赴いて、夏祭りなどにゲスト出演して往年吹き込んだ小唄などをステージで披露することがよくあった。このようなこともあって、地元の人の心により残っているようである。

新民謡以外にも、仙台市の「ミス仙台」(松原操のカバー)や、大阪市の「小鳥が来る街」などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んだが、こちらも地元では大変親しまれている。また、民謡で「祖谷の粉ひき節」「島原の子守唄」「五木の子守唄」などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。

上記のような歌の数々が、島倉千代子と地方との結びつきを強めている。

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