第21回NHK紅白歌合戦

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第21回NHK紅白歌合戦
Tokyo Takarazuka Theater.JPG
会場の東京宝塚劇場(写真は1998年当時)
ジャンル 大型音楽番組
放送時間 21:00 - 23:45(165分)
放送期間 1970年12月31日(NHK紅白歌合戦第21回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 NHK
出演者 美空ひばり(紅組司会)
宮田輝アナウンサー(白組司会)
北出清五郎アナウンサー(総合司会)他
外部リンク NHK紅白歌合戦公式サイト
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第21回NHK紅白歌合戦
ジャンル 大型音楽番組
放送方式 生放送
放送期間 1970年12月31日
放送時間 1970年12月31日
放送局 NHKラジオ第1
公式サイト 公式サイト
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第21回NHK紅白歌合戦』は、1970年12月31日東京宝塚劇場で行われた、通算21回目のNHK紅白歌合戦。21時から23時45分にNHK生放送された。

概要[編集]

  • 美空ひばりが紅組司会を務め、これに合わせてここ2年間は従来の白組司会から総合司会に配置転換されていた宮田輝が白組司会に復帰した。ひばりは例年通り、出場歌手として紅組トリおよび大トリを務めた。同一回で司会者と大トリを兼任したケースは紅白史上唯一である(その後、1985年第36回森昌子1987年第38回和田アキ子が紅組司会と紅組トリを兼任したケースはある)。なお、ひばりが大トリで歌唱する際の代理の曲紹介は宮田が行った。
  • 当初、紅組司会はこの年『ステージ101』の司会に就任した黒柳徹子に内定と報道されたほか、この年の大河ドラマ樅ノ木は残った』の出演者である吉永小百合栗原小巻も候補に挙がっていたという。この年NHK理事に昇格し重役アナウンサーとなった宮田が総合司会から白組司会に復帰することが決まり、相手役に相応しいベテランの黒柳に内定したとのことだった。ところが蓋を空けると紅組司会はひばりということで発表された。なお、この回の司会発表は10月27日に行われた[1]
  • 歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈、白組トリは森進一と当時のヒットNo.1同士のトリ対決にするという構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは……と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばり・森の2年連続トリ対決が半ば強引に決定した。白組トリ候補には三波春夫も挙がっており、この年開催された日本万国博覧会にちなんで「世界の国からこんにちは」を歌唱させるという案もあったが、最終的に森に落ち着いた(三波については、歌唱曲も同曲から「織田信長」に差し替えられた)[2]
  • 今回もカラーでの放映だったが、現存する映像はカラーキネコ(カラーのフィルム映像)で記録されたものである。このフィルムは当時、海外在住の日本人・日系人向けに紅白歌合戦を見てもらうためのものであり、この回のフィルムが偶然にもアルゼンチン大使館で発見されたと、後年の紅白30回記念番組で紹介されている。そのためか、保存状態は良くなく、傷や劣化部分、ノイズが多い。また、現存しているフィルムは全165分中の約137分間であり、由紀さおりが出演する部分など、一部の映像が欠落している。しかし、(順不同)和田アキ子日吉ミミ森山加代子いしだあゆみ布施明にしきのあきら弘田三枝子奥村チヨザ・ピーナッツ青江三奈フォーリーブス藤圭子ヒデとロザンナ島倉千代子森進一フランク永井トワ・エ・モワ橋幸夫らの歌唱シーンや応援ゲストの小沢昭一のシーン、エンディングの結果発表&優勝旗授与(紅組)のシーンはNHKの番組でも紹介されている。また、ひばりが大トリで「人生将棋」を歌うシーンも紹介されているが、1番と2番の間奏部分の一部が欠落している。ちあきなおみのシーンも紹介されたが2番のみの紹介で、1番が現存するかどうかは不明である。
  • カラー映像の本放送は、放送用ビデオテープ(2インチVTR)に収録されたと言われているが、当時のビデオテープは非常に高価で大型であるため、放送終了後に消去されて他番組に使い回された。
  • 白黒の現存映像では和田アキ子、ヒデとロザンナ、奥村チヨ、トワ・エ・モワ、都はるみが紹介されている。
  • リハーサルの模様もカラーフィルム(ニュース取材用と同規格)で現存しているが、こちらは保存状態が良い。
  • 初出場した辺見マリは、大ヒット曲「経験」の歌詞がNHKの内部規則に抵触するため歌唱できず、続いてヒットした「私生活」を歌った。
  • 橋幸夫は当初「俺たちの花」を歌う予定だったが、宮田が本番中に曲目を「いつでも夢を」に変更し、歌うことを持ちかけた。橋は着物姿であったため、「いつでも夢を」のイメージに合わず戸惑っていたが、宮田は「着物だってなんだっていいって。中身がよけりゃ」といって橋を説得した。結局、「いつでも夢を」が歌われることになった。このように当時の紅白は、後の紅白ではありえない演出やアドリブが極当たり前のように行われていた。
  • 歌唱楽曲のテロップに作詞者・作曲者名が併記されるようになったのは今回から。この年著作権法が改正されたが、その影響によるものと思われる。
  • 今回の勝敗判定には舞台上手の特設得点表示板で審査員一人の票がそのまま反映される実数で集計された。紅白それぞれの点数の文字盤は、同じNHKの番組『連想ゲーム』で用いられたのと同じ仕様と見られている(翌1971年第22回も同じ方法で実施)。
  • 同じ日の21:00まではTBS系列『第12回日本レコード大賞』も行われているが、『レコード大賞』の方は鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存している。紹介されているこの年のレコード大賞の映像と記念本『紅白50回』の中の今回のオープニング写真と和田アキ子への紅組歌手達の応援写真(どちらもカラー)を見ると、レコード大賞から紅白移動組の紅組の佐良直美(『レコード大賞』では司会)、藤圭子、辺見マリ(緑色の衣裳)、由紀さおり(水色の衣裳で、首元と裾は白い羽飾り)、和田アキ子(オープニングでは膝までの長い青色の上着と白のズボン)がレコード大賞の衣装のままである。
  • また、この日にNHK総合テレビで放送された大河ドラマ樅ノ木は残った』の総集編第二部の映像も鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存しており、この映像はNHKアーカイブス番組公開ライブラリーで視聴することができる。
  • 今回の紅組出場歌手で最年長は、紅組司会兼任者である当時33歳のひばりだった(前回の紅組最年長は越路吹雪の45歳、翌1971年・第22回の紅組最年長は岸洋子朝丘雪路の36歳)。この33歳は紅白史上最も若い紅組最年長である。
  • 審査員の1人だった横綱玉の海は、翌年10月に急逝した。
  • 今回使用したステージメインマイクロホンは、ナショナル WM-780Hを使用。

司会者[編集]

演奏[編集]

審査員 [編集]

出場歌手[編集]

紅組 白組
歌手 歌手
水前寺清子(6) 大勝負 村田英雄(10) 闘魂
和田アキ子(初) 笑って許して 水原弘(7) へんな女
ザ・ピーナッツ(12) 東京の女 野村真樹(初) 一度だけなら
日吉ミミ(初) 男と女のお話 坂本九(10) マイ・マイ・マイ
森山加代子(4) 白い蝶のサンバ 佐川満男(4) いつでもどうぞ
黛ジュン(4) 土曜の夜何かが起きる 橋幸夫(11) いつでも夢を
佐良直美(4) どこへ行こうかこれから二人 鶴岡雅義と東京ロマンチカ(3) 別れの誓い
弘田三枝子(7) ロダンの肖像 美川憲一(3) みれん町
ピンキーとキラーズ(3) 土曜日はいちばん ダーク・ダックス(13) ドンパン節
小川知子(3) 思いがけない別れ 千昌夫(3) 心の旅路
トワ・エ・モワ(初) 空よ ヒデとロザンナ(初) 愛は傷つきやすく
島倉千代子(14) 美しきは女の旅路 三波春夫(13) 織田信長
藤圭子(初) 圭子の夢は夜ひらく 西郷輝彦(7) 真夏のあらし
森山良子(2) 明日に架ける橋 内山田洋とクール・ファイブ(2) 噂の女
辺見マリ(初) 私生活 フランク永井(14) 大阪流し
西田佐知子(10) 女の意地 にしきのあきら(初) もう恋なのか
ちあきなおみ(初) 四つのお願い デューク・エイセス(8) ドライ・ボーンズ
都はるみ(6) 男が惚れなきゃ女じゃないよ 布施明(4) 愛は不死鳥
いしだあゆみ(2) あなたならどうする 舟木一夫(8) 紫の人
奥村チヨ(2) 嘘でもいいから フォーリーブス(初) あしたが生まれる
由紀さおり(2) 手紙 アイ・ジョージ(11) リパブリック讃歌
伊東ゆかり(8) さすらい 菅原洋一(4) 今日でお別れ
青江三奈(4) 国際線待合室 北島三郎(8)
美空ひばり(15) 人生将棋 森進一(3) 銀座の女

選考を巡って[編集]

  • 当初、江利チエミの2年ぶり17回目の復帰出場が内定していたが、ヒット曲が無い事や諸々の理由で自ら辞退する(その後、江利は紅白に復帰すること無く1982年に急逝)。代わって、日吉ミミが初出場を決めた(同回が日吉の生涯唯一の紅白出演となる)[3]
  • 前回までに過去15回出演し、前年の紅白では最多出場歌手だった越路吹雪も、出場者発表前に出場辞退を表明しており、以後、1980年に逝去するまで一度も紅白に復帰することはなかった(辞退の理由は「ジーンズ姿の歌手(おそらく前年初出場したカルメン・マキを指しているものと思われる)と一緒に並んで出るのが嫌」だったから、とも伝えられている)。越路は取材に対して「『紅白』は全国の皆さんに見ていただけるお祭りだと思うのだが、近年は何かにつけて競う気持ちが強く出て、楽しさが年とともに消えてゆくような気がしてならない。舞台の衣装もみんな美しくなったが、いっそこのあたりで紅組も白組も、それぞれのユニフォームを作って、揃いの衣装で歌ってみてはどうだろう。」と語った[4]
  • ひばりが紅組司会を務めるため、製作側はそれに似合ったしっかりと歌を歌えるベテランを選考する意向だった。しかし、上記の通りチエミや越路が出場を辞退し、春日八郎も落選。そのため、「ひばりが司会なのだから、ベテラン重視のメンバー選出を」という製作側の意向も崩れ、若手アイドル歌手が多くの座を占めることになった[5]
  • 森山加代子は8年ぶりの紅白出場で話題になった。
  • 2012年以降、全紅白の歴史の中で紅組最多出場を誇っている和田アキ子が『笑って許して』で初出場を果たした。
  • ザ・ドリフターズが、同メンバーの加藤茶の交通事故により出場を辞退した[6]
  • 同年「希望」が大ヒットした岸洋子も、膠原病による入院加療中のため出場を辞退した(翌1971年第22回は復帰)。
  • 西田佐知子は翌1971年関口宏と結婚のため歌手活動を大幅に縮小、事実上の引退となる。これが西田の現役時代最後の紅白出場となった。

脚注[編集]

  1. ^ 合田道人『紅白歌合戦の真実』、『紅白歌合戦の舞台裏』
  2. ^ 合田『紅白歌合戦の舞台裏』
  3. ^ 読売新聞』1970年11月26日付夕刊、9頁。
  4. ^ 合田『紅白歌合戦の真実』、65~66頁。
  5. ^ 合田『紅白歌合戦の真実』、68頁。
  6. ^ ダカーポ』1999年10月6日号(No.430)、60頁。

参考文献・出典[編集]

  • NHK『テレビ50年 あの日あの時、そして未来へ』(NHKサービスセンター 2003年2月)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]