新庄剛志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
新庄 剛志
Pbpshinjo.jpg
サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市南区
生年月日 1972年1月28日(42歳)
身長
体重
182 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1989年 ドラフト5位
初出場 NPB / 1991年9月10日
MLB / 2001年4月3日
最終出場 MLB / 2003年6月27日
NPB / 2006年10月26日(日本シリーズ第5戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
しんじょう つよし
新庄 剛志
本名 同じ
別名義 SHINJO
生年月日 1972年1月28日(42歳)
出生地 日本の旗長崎県下県郡美津島町(現対馬市
活動期間 (野球関連)1990年 -
(芸能関連)2007年 -
活動内容 タレント、元プロ野球選手
公式サイト LHSF_COLONY
備考
プロ野球選手(阪神、MLB、日本ハム)

新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年(昭和47年)1月28日 - )は長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手外野手)。引退後は、タレント実業家クリエイター商品プロデューサー画家等)、地方競馬馬主(株)レハサフ所属。北海道日本ハムファイターズ時代の登録名は「SHINJO」。元妻はタレントの大河内志保紺綬褒章受章(2007年)。

アメリカメジャーリーグベースボール(以下、MLB)のワールドシリーズに初めて出場した日本人選手である(2002年)。

個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属した2001年より2009年アワーソングスクリエイティブケイダッシュグループ)と業務提携してタレント活動等を行う。2008年に株式会社レハサフを設立して取締役に就任し、2012年プラファーから、2013年よりエージェントオフィスタクトからマネジメント協力を得ている。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として、長崎県の母親の実家にて体重3680g[出 1]で誕生。生後10か月で歩きだしたという。幼少時から重い石碑等を持つ作業をしていたことから、細身の体型に似合わず怪力である[出 2]。小学時代に8回も交通事故に遭うが、幸い大怪我は負わずにすむ。しかし、中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負ったことがあり[出 3]、自身はこれがもし右手だったら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語る。小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属。後にソフトボールを経て野球へとのめりこんでいったきっかけは、どんなスポーツでもすぐに一番になってしまってつまらなかったが、野球だけは一番になれずその奥深さを感じたからである[要出典]
新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には将来何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。足の速さと肩の強さは幼い頃から身についており、6歳の時にはすでに大人よりも遠くまで石を投げられるほどだった。やがて父親から野球を教り始める。日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂の上まで走らせていた。彼は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。小学3年時から始めたソフトボールでは、6年時の町内対抗大会にてサヨナラ負けの際の判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見た事がないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから少年野球チーム(軟式)を創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も行い「長丘ファイターズ」というチームが誕生する[出 2]キャプテンエース4番打者の新庄はともズバ抜けていて、目立ちたがり屋でノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語るほどであった。猛練習の甲斐あり、ファイターズは結成わずか1か月余りで福岡県大会64チーム中3位入賞を成しとげる。
福岡市立長丘中学校時代には軟式野球部に所属。当時の監督も新庄の走力・肩力はケタ外れと小学時代から認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時の全国中学校軟式野球大会ベンチ入りメンバーから外した。大会から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている。
1987年、高校は父親からの薦めもあり、西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し寮生活を送る。硬式野球部には2学年先輩として後にプロ入りする石貫宏臣柴原浩が、2学年後輩として後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大が在籍。高校時代は中堅手であった。3年時の1989年1番・中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)でサヨナラ安打を記録。決勝の福岡大大濠戦(久留米)ではサイクル安打を達成するもチームは敗れ甲子園出場を逃す。高校時代に全国大会出場はかなわず。
同年秋のドラフト会議では阪神タイガースから5位指名を受ける。この際の能力評価は横溝桂スカウトによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であり、横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである[出 4]。担当の渡辺省三スカウトは、新庄の気持ちが前へ出る性格も評価していたという。球団としては当初、上位指名を投手中心と決めていたため、他球団から上位指名されると予想する新庄の指名をほぼ諦めていた。このため、11球団スカウトが新庄家を事前に訪問した中で、阪神は比較的簡略に挨拶を済ませていて、しかも本人と父親は留守であった。新庄は阪神から指名されるとは予想しておらず、指名順位の低さにも不服でしばらくプロ入りを迷っていたが、父親に「お前が行けなかった甲子園でプレーできるだろう」と助言を受けたことにより決意して入団。背番号は「63」に決まる。新庄はそれまで読売ジャイアンツ(以下、巨人)ファンだったという[出 5]

阪神時代[編集]

1990年 - 1991年
プロ1年目の1990年は二軍で過ごし、9月から11月にフロリダ秋季教育リーグへ参加。自身の希望で遊撃手へと転向していた1991年も秋口まで二軍で過ごし、一軍の中村勝広監督など首脳陣から見いだされ9月9日に初の一軍昇格を果たす。翌10日、東京ドームでの巨人戦で9回表の代打として初出場。香田勲男から初打席安打打点を記録する。16日、広島市民球場での広島東洋カープ戦で7番・遊撃手として初スタメン出場。

亀新フィーバー[編集]

1992年
3月に欧州で開催予定のバルセロナオリンピック出場国壮行試合でキューバ代表チームと対戦する遠征チームメンバー[注 1]に選出されるも、遠征前に相手方の都合で試合中止となる。シーズン開幕は二軍スタートとなり、40人枠(当時)から外れるも4月下旬に故障者と入れ替わる。5月に一軍の主砲で三塁手トーマス・オマリーが故障離脱したのを機に、急遽の三塁守備練習後に昇格し、26日の横浜大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)で7番・三塁手としてこの年の初出場。有働克也から第1打席の初球を左翼へプロ初本塁打。決勝打となり初のヒーローインタビューを受けることとなったこの本塁打の鮮烈な印象と、2日後に初代「ミスタータイガース」と称される藤村富美男が亡くなったことも重なり、新庄が次代のタイガースの担い手となることを期待するマスコミの記事が出始める。この後、守備は遊撃手を経て中堅手に定着して、打順は主に5 - 7番で起用される。7月のジュニアオールスターゲームへ出場。9月16日、優勝争いが山場を迎えていた広島戦(甲子園)の両チーム無得点8回表二死満塁の守備で山崎隆造の右中間へのライナーを中堅から走り込みダイビングキャッチしてピンチを防ぎ、そのまま両チーム無得点で迎えた9回裏の攻撃では大野豊からプロ初サヨナラ安打となる本塁打を放つ。試合後のヒーローインタビューでは「優勝です!」と宣言する。
この年、前年まで低迷していたチームは優勝争いをする(最終順位は2位)。この快進撃は、右中間守備コンビを組んだ亀山努らと共に活躍したことから亀山、新庄の頭文字をとり「亀新フィーバー」と称される。また、新庄の行く先々や入寮している球団寮・虎風荘へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道される。シーズン打率.278、本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に僅かに及ばず次点となる。11月の日米野球に初出場してロジャー・クレメンスなどと対戦するも無安打に終わる。翌1993年契約の年俸は推定2200万円となり、前年比323%増の昇給率は2007年2008年桜井広大に346%で抜かれるまで球団歴代最高であった。
1993年
この年より背番号を「5」に変更。打席時応援歌北村照文金森永時と背番号5の外野手に引き継がれている曲に変更され退団まで使用される。春季キャンプ当初に首脳陣から再び遊撃手コンバートの方針を告げられるも、2月下旬のオープン戦ヘッドスライディングをした際に左肩を故障してコンバート中止となる。シーズン初出場は5月中旬となり、中堅手として2番と7番以降を除く打順で起用される。10月1日、甲子園での中日ドラゴンズ戦でプロ初の4番スタメン出場。21歳8か月3日での4番スタメンは球団歴代最年少記録である(2012年終了時点)。この年初めて規定打席に到達して打率.257、本塁打23を記録しベストナイン初受賞。守備ではリーグ外野手最多13補殺(自己最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞初受賞。
1994年
1番中堅で開幕して、その後打順は6番、7番、3番で起用される。自身の後援会「新庄会」[注 2]発足記念の「新庄ナイター」となった5月13日のヤクルトスワローズ戦(甲子園)で高津臣吾からプロ初となるサヨナラ満塁本塁打を記録。7月のオールスターゲームにファン投票セントラル・リーグ最多得票で初選出され、第1戦(西武ライオンズ球場)で代走として初出場し、球宴初盗塁を記録。リーグ外野手最多289刺殺(自己最多)を記録しゴールデングラブ賞受賞。
1995年
中村勝広監督が途中休養となり藤田平代行となる中、主に6・7番中堅で起用される。6月20日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)にて、1点差を追う9回表の先頭打者として佐々木主浩から放った左翼フェンス最上部付近への大飛球が、観客により振られている応援旗(新庄の名前入り)に包まれるかたちで当たり、ボールは地面に落下。判定はエンタイトル二塁打とされる。妨害がなければスタンドインしていたかどうかは微妙であるが、阪神側の抗議後に審判からの場内説明がなされると、左翼席からグラウンドへ多量のメガホンやごみ、太鼓、ごみ箱などが投げ込まれ侵入者もでる事態となり、横浜ナインは一旦ベンチへ引きあげる。中断後、試合はそのまま敗れ、この件について自身は2年後のテレビ取材では「一生懸命応援してくれているので仕方ないですよ」と語る(尚、後の北海道日本ハムファイターズ時代2004年4月にも自身の大飛球を東京ドーム外野席最前列の観客により捕られた際にエンタイトル二塁打の判定がなされている(「幻のホームラン一覧」を参照))。この年は故障離脱の影響もあり規定打席に到達できず、この年から打率が4年連続して2割4分を切る。
引退騒動
オフの11月19日、契約更改交渉後会見にて「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の引退宣言。藤田平・新監督との確執が噂されたが、21日に発言を撤回してプロ入り以来初の年俸ダウンで契約更改する[出 6]。引退を希望した理由は、当時右肘や右足を痛めていて治療に専念しようとしていたが、藤田監督により四国黒潮リーグへ出場させられたことや、慕っている柏原純一打撃コーチの退団により球団への不信感を募らせ、横浜ベイスターズへのトレードを志願するも拒否されたことなどであると報じられる。自身は自著[出 7]にて、シーズン中に足首の故障で二軍落ちしていたある日、故障状態の悪さから判断して練習開始時間に合わせグラウンドへではなくトレーナー室へ行ったことで、当時二軍監督であった藤田から遅刻であると咎められた際に正座の罰を受けた件をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていったと告白。加えて、どうせ辞めるのなら人のせいにはしたくないとの考えから、発表する理由を「センスがない」にすれば打撃成績も悪かったのである程度は納得してもらえると思ったと記している。しかし、引退発言後に新庄の父親の病気が悪化(後述)し、「ユニフォームを着ている姿を見せるのがオヤジへの一番の薬だと思ったんです。自分の人生どうこうじゃなく、命にはかえられませんから。今日はサインするつもりでした」と語り、父を勇気づけるために現役続行を決断する[出 6]。この一件には異説もあり、ある書籍[出 8]では、退団騒動は一部スポーツ紙による誇張記事が発端で藤田監督との関係もそれほど悪くなかったと記述されているが、新庄の父親の著書[出 3]においても藤田監督との確執から一連の出来事が起こったと証言されている。父親は同書にて「妻が息子の引退を思いとどまらせるために、私の体調不良を実際より深刻に伝え一芝居打ったようだ」と告白している。新庄はこの騒動の頃からMLBへの挑戦志望を強く持ち出す。後年、引退を希望した他の理由として「1995年の騒動は、引退して野茂さんのように大リーグに挑戦したい気持ちもあったことから起きた」と取材にて告白したが、取材時にはすでにポスティングシステムが確立されていたこともあってか、新庄のジョークの一つと受け取られて大きく報道されることはなかった[注 3]
1996年
開幕より5月下旬まで1番中堅。その後打順は9月上旬までは主に6・7番、そして藤田監督が途中休養に入り、柴田猛代行から4番で起用される。4月の中旬に4試合連続本塁打、月末からの横浜3連戦1・3戦目の2試合で初回先頭打者本塁打を記録(1戦目が自身初の先頭打者弾)するなど好スタートを切り、シーズン19本塁打。打率は.238に終わるも、共に自己最高の四球55、出塁率.335を記録。10月9日のシーズン最終戦(対中日・甲子園)1回に金森隆浩から満塁本塁打を放った後の同イニング塩谷和彦も同投手から満塁弾を放ち、チーム1イニング2満塁本塁打という日本プロ野球(以下、NPB)史上初の珍記録を残す。ゴールデングラブ賞受賞。オフにハワイ・ウィンターリーグへ参加してヒロ・スターズでプレー。当時チームの監督は後に日本ハムで再び仕えるトレイ・ヒルマンであり、同僚として後にニューヨーク・メッツ2001年)で再び同僚となるベニー・アグバヤニも在籍していた。
1997年
吉田義男新監督のもと5月下旬まで3番中堅。その後打順は1番、7番、6番、5番と起用され、初のシーズン全試合出場を果たす。7月に打率2割1分台と低迷していたにもかかわらずオールスターゲームへファン投票2位で選出されたため出場するが、第1戦(大阪ドーム)で自身の打席ごとにセ・リーグ応援団による応援ボイコットと観客からの「新庄帰れ」コールが起こる。自主的に応援する者も見られるが、ペットボトル、メガホンをグラウンドへ投げ入れる者がいて試合中断する場面もあり、スタンドの横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれていた。この件について自身は後年の引退会見においても「あれはもう、耐えられなかった」と語る。この年は公式戦でも自身のみへの応援ボイコットを受け、クリーンナップを組んだ桧山進次郎と共に三振を量産する(自己最多120三振)。本塁打は20本記録して4年ぶりの20本台に乗せる。守備ではリーグ外野手最多13補殺(自己最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞受賞。
1998年
6番中堅で開幕して、その後打順は7・8番など主に下位で起用される。この年はオープン戦でセ・リーグ・スター大賞 (MVP) を受賞するもシーズンでは極度の打撃不振に陥り、通算100号本塁打まで残り3本としての開幕であったがシーズン1号及び記念本塁打達成は7月までずれこむ。シーズン打率はリーグ規定打席到達者最低の.222を記録し、本塁打6、打点27と合わせ打撃三部門においてそれぞれ規定打席到達シーズンでは自己最低の成績に終わる。10月8日に甲子園で横浜がリーグ優勝を決めた試合では、最終回二死から佐々木主浩の前に空振り三振に倒れ、最後の打者となる。守備ではリーグ外野手最多タイ12補殺を記録しゴールデングラブ賞受賞。秋季キャンプから野村克也新監督の発案により、外野手との兼務(二刀流)を目指して投手練習を開始する(#投手挑戦を参照)。契約更改ではプロ入り以来2度目の年俸ダウンでサイン。
1999年
3月5日のオープン戦(対巨人・藤崎台県営野球場)で投手として初登板し、1イニングを三者凡退に抑える。その後も数試合登板するが左膝を痛めたため、投手挑戦は断念。この故障によりシーズン初出場は4月中旬となり、左太股痛も抱えながらシーズンを送る。1990年代後半から現役引退まで、ほぼ常に腰や脚部のどこかに故障を抱えることとなる。3番中堅で多く起用されるが、打順は4番、6番、8番など特に変動が激しい年となる。5月27日、首位攻防の中日戦(富山市民球場アルペンスタジアム)1回の攻撃で無死一二塁から三塁ゴロを放ち三重殺となり、阪神劣勢での3回の守備では満塁から中前安打を後逸し追加3得点を与える失策を犯す[注 4]。7点を追う6回の攻撃でサムソン・リーからチーム初得点となる2点本塁打を放ち阪神の反撃が始まり、8回には内野安打で得点に絡む。6-7と1点差まで追い上げた最終回二死一塁の場面では宣銅烈から9球粘って中前安打してチャンスを広げるも結局チームは敗れる。「僕のせいで負けた」と語り、良くも悪くも目立ったこの試合は数週間後に敬遠球をサヨナラ安打した試合(後述)と合わせ「新庄デー」などと報道され、当時の新庄の代表的エピソードとして取り上げられる。
敬遠球をサヨナラ安打
6月12日、首位攻防の巨人戦(甲子園)12回裏同点一死一三塁の攻撃(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。1球目の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同じような投球を三遊間を抜いて左翼前へ転がした。「遊撃手が二塁ベース上に守っていたのを見て、三遊間に転がせば抜けると確信した。甘い球が来るように打席の後方に立ち、打つ際にいつもの足のところに踏み出した」という。巨人側から、打つ際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており反則打球ではないかと抗議があったが、球審の田中俊幸は「はみ出した足が打席ラインの一部分にでも掛かっていれば反則にはならない」とこれを退けた(実際、ラインに左足踵が掛かっているので問題はない)。自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、あらかじめ柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造打撃投手と大きく外された投球を打つ練習を行っていた。また、野村監督へも柏原を通し状況により実行許可のサインをもらえるよう打合せていて、実行直前にサインが出されていた[出 9]。尚、巨人側のこの敬遠策は走者三塁となったための満塁策であったが、前イニング・11回裏同点の阪神の攻撃においても先頭・新庄の三塁打が出たため満塁策がとられたが後続は三者凡退していた。この試合では、ほかにも8回裏の攻撃で木村龍治から9球目を同点ソロ本塁打するなど6打数4安打2打点を挙げる。12回表の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった関係でプロ初の二塁に就きゴロ打球を補殺。ヒーローインタビューでは、最後の質問に対して「明日も勝つ!」と宣言し、そのままお立ち台を離れ自らインタビューを締める。しかし翌13日の同対戦でチームは敗戦。自身も前夜から一転して上原浩治から3打席連続三振を喫するなど5打数無安打に終わる。自身は敬遠球を打つのは一度きりと決めていたと語ったにもかかわらず、この日の試合前打撃練習でも大きく外された投球を打つ練習を行っていた。以降しばらくの間、新庄を敬遠する際には相手捕手が投手に対して投球前ごとに大きく外すようジェスチャーを送る姿が見られる。
7月のオールスターゲーム第2戦(甲子園)にて黒木知宏から記録した自身球宴初安打が全セ・リーグ通算1000本目安打となる。第3戦・2リーグ制発足50周年記念試合(倉敷マスカットスタジアム)では岩本勉から球宴初本塁打を記録して、初のMVPを獲得。9月10日の巨人戦(甲子園)で決勝本塁打を放ち、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と宣言するも、今度は翌日から球団タイ記録の12連敗を喫する。この年はチームに復帰した恩師である柏原打撃コーチ指導のもとで打撃成績は前年の低迷からは持ち直し、5年ぶりの打率2割5分台に復帰して14本塁打、5月には月間MVPを初受賞。新人ながら投手4冠を達成したこの年の巨人・上原浩治との対戦では、低めへの速球を難しい体勢で本塁打したり前述の連続三振などマスコミも注目し、対戦打率.381(21打数)3本塁打を記録。併殺打を5月後半まで記録せずシーズン初は珍しい三重殺(前述)であったが、シーズン併殺打数は21と終わってみれば両リーグ最多で自己最多を記録。ゴールデングラブ賞受賞。翌2000年契約の年俸は阪神時代最高の推定7800万円となる。オフに左膝の遊離軟骨除去手術を受ける。
2000年
手術の影響で春季キャンプは別メニューからスタートとなるも自身初の開幕戦4番スタメン出場を果たす。序盤に故障離脱もあったがシーズンを通してほぼ4番中堅で起用される。6月17日に自身の公式ホームページ「CLUB SHINJO」を開設。7月20日、甲子園での巨人戦で通算1000試合出場を達成。9月30日、甲子園での広島戦で9回裏に紀藤真琴から右翼席へ阪神時代最後の本塁打となるサヨナラ本塁打を放ち、これがNPBにおける20世紀最後のサヨナラ本塁打となる(日本シリーズも含む)。この年は6月に4試合連続本塁打、9月には16試合連続安打を記録。シーズン猛打賞数は自己最多の10回、打撃三部門でもそれぞれ自己最高でチーム三冠となる打率.278、本塁打28、打点85を記録(猛打賞、打率の自己記録は2004年に再更新)。本塁打においては「先制、同点、勝ち越し、逆転」の殊勲本塁打が20本あった。ベストナイン、ゴールデングラブ賞受賞。11月の日米野球に出場して20打数以上で打率.409を記録。
MLBへの移籍表明
8月に初取得したフリーエージェント (FA) 権をオフに行使してFA宣言。ヤクルトスワローズ、横浜ベイスターズとの交渉が報道される。シーズン中から残留交渉を重ねてきた阪神が当年の好成績の評価と、人気選手を引き止めようとして提示した条件は5年12億円(推定)であった。しかし移籍先は周囲の予想とは大きく異なり、ヤクルトや横浜への移籍や阪神残留でもなく、MLBのニューヨーク・メッツへ年俸20万ドル(日本円換算約2200万円、メジャー選手最低保障額)での移籍となった。シーズン中にはメッツ・大慈彌功スカウトなど関係者が試合視察に訪れていたが、交渉事実及び過程はメッツ側の都合でマスコミへ隠されていた。オリックス・ブルーウェーブからシアトル・マリナーズへ移籍するイチロー外野手と共に翌年より日本人野手(投手以外)としては初めてMLBへ挑戦することとなった。12月19日の移籍発表記者会見では「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団とは、ニューヨーク・メッツです」と発言。背番号は阪神時代と同じ「5」に決まる。直後の12月27日、タレントの大河内志保と入籍。大河内との交際の事実は始まった1993年当時から認めていたが、このとき当時から結婚までの約8年間同棲していたことを公表。夫婦揃って渡米し、夫人は芸能活動を2005年まで休止する。

メッツ時代[編集]

2001年
この年の通訳をメッツ職員・岩本賢一[注 5]が担当。また、阪神時代のトレーナーと個人契約を結び、翌年以降も専属トレーナーをつける。さらに、この年より個人事務所・(株)剛ゴーエンタープライズ所属となり、以降2009年までのタレント活動等はアワーソングスクリエイティブと業務提携して行う。
オープン戦での好成績に対し球団よりジョン・J・マーフィー賞(新人賞)を受賞して、開幕メジャー入り。シーズン序盤はスタメン落ちも目立ったが、実績とともに次第にレギュラー扱いされていく。打順は7番、6番、1番、3番、4番など様々で、守備では外野3ポジションに万遍なく就く。4月3日の開幕アトランタ・ブレーブス戦(ターナー・フィールド)8回表の代走としてMLB初出場。一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁へ進塁し、後続の本塁打で初得点を記録。さらに直後の左翼守備でダイビングキャッチを見せ、同点に追いつかれて突入した10回表の初打席ではケリー・ライテンバーグから初安打を記録する。5日の同対戦で7番・右翼手として初スタメン出場。9日の本拠地開幕ブレーブス戦(シェイ・スタジアム)でジェイソン・マーキーから左中間へ初本塁打を放ち、ベンチ前でチームメイトが整列する日本式の出迎えを受ける。5月17日のサンディエゴ・パドレス戦(シェイ・スタジアム)で日本人選手初の3番スタメン出場[注 6]。20日のロサンゼルス・ドジャース戦(シェイ・スタジアム)でテリー・アダムスから日本人選手初のサヨナラ安打を記録。24日のフロリダ・マーリンズ戦の大差リード中(11-3)の打席でカウント3ボール-0ストライクから打ちに出た行為が不文律に反するとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受ける。MLB1年目には他にも、日本では日常的に行っていた行為が相手チームから挑発的と解釈されたり(本塁打直後にバットを高々と放り投げる行為、その後ホームインの際に手でベースへ触れる行為)、打席で投球前にバットを高く突き上げる(#打撃参照)際に捕手が出すサインを覗いているのではないかと疑惑をかけられたりもする。6月17日の出場を最後に左太股裏肉離れで15日間の故障者リスト入りし、A-ブルックリンでの調整出場を経て復帰。7月22日、フィラデルフィア・フィリーズ戦(ベテランズ・スタジアム)6回裏の守備にて、直射日光を受ける中、中堅後方への大飛球を追い続けた末にフェンス手前でポケットキャッチ。このプレーは「ザ・キャッチ」と称されるウィリー・メイズ型キャッチだったなどと報じられる[出 10]ボビー・バレンタイン監督からクラッチヒッターとの評価を受け打順3番で起用される事が多くなり、9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件ニューヨーク市に影を落とす中、チームのプレーオフ進出争いに終盤は4番打者としても貢献する。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録してシーズン補殺数は12(両リーグ外野手5位、両リーグ新人外野手最多で球団歴代新人外野手最多記録更新)。打撃では故障離脱の影響もあり規定打席に未到達(MLBでの3年間は未到達)ながら、特に満塁時に12打数7安打.583と勝負強さをみせ、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多。ルーキーオールスター[注 7]を受賞する。翌2002年契約の年俸は135万ドルとなり、日本円換算で約1億3500万円と自身初の1億円を越える。

ジャイアンツ時代[編集]

12月16日、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツショーン・エステス投手との2対1トレードが発表され移籍。背番号は引き続き「5」。プライベートではベストドレッサー賞日本メガネベストドレッサー賞を受賞。

2002年
球団が獲得に際し想定していた1番中堅で開幕。打順はシーズン序盤に打撃不振で降格してから中盤までは7番など主に下位に入る。5月11日、モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて本塁まで約90mをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリーを補殺。このプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入するというハプニングも起きる。試合はそのまま勝利し、相手監督もこのプレーを賞賛する。17日のマーリンズ戦(パシフィック・ベル・パーク)にてブレイデン・ルーパーから日本人選手初となる満塁本塁打を記録。オールスターゲームファン投票ではナショナルリーグ外野手4位となる。7月25日の試合で右太股を痛め15日間の故障者リスト入り。AAAフレズノでの調整出場を経て復帰するが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失う。復帰後の先発出場は激減するが、残り1試合の161試合目に決まったチームのワイルドカード獲得に貢献して、自身日米通じて初のポストシーズン出場を果たす。
日本人選手初のワールドシリーズ出場
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番・指名打者で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場。指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、当時は相手先発が左投手時限定のスタメン起用方針で、且つ第3戦 - 5戦は指名打者制ではなくなるので、シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩したくないから」と説明した。第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンから中前打を放ち、これが日本人選手ワールドシリーズ初安打となる。このとき使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されている。27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)の1-4で3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場するが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れる。チームはそのまま敗れ3勝4敗でシリーズ制覇を逃す。
この年は打撃・守備の殆んどの部門において前年より成績を下げる。オフにノンテンダーFAとなり、届いた契約オファーの中から過去に在籍した経験を活かせるよう古巣を選び、ニューヨーク・メッツへ年俸60万ドル(日本円換算約6000万円)で復帰。背番号は引き続き「5」。またこの年の新庄を担当したチームの小島克典通訳も引き続き担当するため共に移籍。プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。

メッツ復帰[編集]

2003年
オープン戦にてリーグ最高打率.426を残すも、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり、主に相手先発が左投手時の中堅手としての起用で出場試合は減少。打撃成績が低迷して、6月27日にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちする。その頃「あのような成績でメジャーにいるのは恥ずかしかった」、「球団の選択は正しい」と述べる。この年は春季キャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報じられる[出 11]。7月にロースター40人枠から外れDFAとなりマイナー契約を締結。AAA級ノーフォーク(背番号23)でシーズンを終え、打率3割を残す。マイナー生活では長距離バス移動をはじめ様々なメジャーとの条件格差を体験する事となるが、昇格を夢見て頑張る若い選手との交流など「今までの野球人生で一番に学べ、楽しかった時代」であったと後に語る。
オフにノンテンダーFAとなり、MLB数球団からも契約オファーを受けるがNPB復帰を決意。自身は渡米する2001年シーズン前に「3年経ってFA資格をとれたら日本(阪神)復帰も選択肢のひとつ」と自著[出 7]に記し、テレビ出演時にもMLB挑戦は3年間と示唆していた。移籍先は翌シーズンから北海道へ移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、推定年俸8000万円[注 8]の2年契約を結ぶ。契約締結の際、新庄の意向で交渉の席にて契約書へサインする様子が映像に収められ、異例のテレビ公開がされる。最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという。古巣の阪神は外野層が厚くなってしまったことから獲得を見送った。

日本ハム時代[編集]

2003年暮れの入団公式発表の前日、映画『バッドボーイズ2バッド』の特別試写会にて非公式に観客へ発表する。公式発表の会見の際には、北海道のファンが新庄の日本ハム入団を求めて集めた署名を持ち込み紹介する。札幌ドームで行われた入団会見の際には「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げる。

登録名は「SHINJO」、背番号は「1」と決まり、新庄の専属として荒井修光広報が就任。ファンサービスの一環として2004年より本塁打時の談話にて独特の打法命名を始めたほか、2004年から2005年にかけて試合前シートノックでかぶりもの(仮面)を着用するというパフォーマンスを5回行い、該当試合でチームは3勝1敗1引き分けの成績を残す(「新庄劇場#かぶりもの」を参照)。

2004年
開幕から7月まで主に2番中堅。8月に打順を坪井智哉と交代した後はプレーオフ終了までビッグバン打線の1番で起用される。3月28日、開幕2戦目となる大阪ドームでの大阪近鉄バファローズ戦で吉田豊彦から「北海道日本ハム」としての球団第1号本塁打を記録。5月30日、函館市千代台公園野球場での西武ライオンズ戦で張誌家からNPB通算1000本安打を達成。前半戦最終試合(札幌ドーム)で受けた入団後初のヒーローインタビューと後日の取材にてオールスターゲーム出場について触れ「MVPは僕のものです」と宣言する。
球宴でホームスチール
7月11日、オールスターゲーム第2戦(長野オリンピックスタジアム)にて3回裏二死三塁の場面(バッテリー:元同僚の福原忍矢野輝弘、打者:同僚の小笠原道大)で、三塁走者の新庄は捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り本塁にヘッドスライディング。投手からすぐさま送球されクロスプレーでセーフとなり、オールスター史上初となる単独本盗を記録。ヘルメットが脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びを表現する。このプレー直前に新庄は、三塁塁上から三塁ベースコーチを務めていた松中信彦へ本盗敢行についての相談を行い、その様子を見た相手ベンチの中には笑っている者もいた[出 12]。この試合では二塁打2本を記録してオールスター通算打率を.382とし、当年開催終了時点30打席以上の選手として歴代5位となる。また、本盗での決勝点と合わせチームの全2得点も記録して、先の宣言通りにMVPを獲得。ヒーローインタビューでは、この年起こったプロ野球再編問題を受け「これからはメジャーでもない。セ・リーグでもない。パ・リーグです!」と宣言する。
走者追い越しでサヨナラ「フェンス越え」安打
プロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となる9月20日の福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)試合前に「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、森本稀哲島田一輝石本努、坪井智哉との同僚外野手5名で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりものを被りシートノックを受けるというパフォーマンスを実施して満員の観客から大歓声を受ける。プレーオフ進出争いを繰り広げる中での試合では、4-8で迎えた4回裏に新垣渚からソロ本塁打を放ち、さらに9回裏にはチームが9-12から3連打で12-12と追いつき尚も二死満塁とした場面で打席がまわり、三瀬幸司から左翼席へ打球を運ぶ。この場面で一塁走者の田中幸雄は歓喜のあまりに新庄を二塁の手前で迎え、二人は抱き合ってその場で一回転[出 13]。だがこれによって新庄は前位の走者(田中)を追い越したことになり、新庄にアウトが宣告され本来記録されるはずの本塁打は取り消される[出 13]が、新庄は一塁まで到達していて、新庄のアウトより先に三塁走者が本塁へ到達しているので新庄の記録はサヨナラ適時打、サヨナラ勝ちは成立していた[出 13](今回のように二死からの場合、追い越し行為による第3アウトより先に本塁へ達している走者の得点のみが認めら、同点であったため、この得点をもってサヨナラとなり新庄はサヨナラ適時打でスコアは13x-12)。サヨナラ本塁打が取り消されるのは過去3例目であるが、記録がサヨナラ記録のままとなるのは初めてである(「幻のホームラン一覧」を参照)。また、結果がサヨナラ勝ちのままとなること自体が初めてである。また、仮に成立していたとすれば、個人通算サヨナラ満塁本塁打のNPBタイ記録(2本)となるところであった。劇的な幕切れに新庄はアウトとなっているがダイヤモンドを一周し、本塁付近でチームメイトから手荒い祝福を受ける。この後、田中から本塁打を単打にしてしまったことを謝罪され、新庄は「いいんです!何言ってんですか、勝ったんだから」と笑顔で返す[出 14][注 9]。ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」と発言。さらに「'明日も勝つ!」と宣言して、阪神時代にはお立ち台でその言葉を発すると翌日チームは負けるというジンクスが報道されていたが、翌日も勝利する。
この年は猛打賞を12回(チームは該当試合で11勝)、打率.298(リーグ16位)とそれぞれ自己最高を記録。7月から9月はいずれも月間打率3割以上を残し、7月は下旬に『スパイダーマン』のかぶりものパフォーマンスを行った試合から5試合連続マルチヒットを記録。8月は中旬より7試合連続マルチヒットとリーグ月間最多二・三塁打(11本)を記録。9月は無安打が1試合のみの15試合で安打、前述したサヨナラ安打の試合から3試合連続本塁打するなど、それぞれリーグ月間最多の7本塁打、20打点、15得点を記録して月間MVPを受賞。守備でもリーグ外野手最多272刺殺を記録するなど、球団移転初年度でのプレーオフ進出に貢献。第1ステージにて自身NPBポストシーズン初出場を果たす。11月の日米野球にファン投票選出されるも、シーズン終盤から悪化させた右太股裏痛で出場辞退。受賞は、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、JA全農Go・Go賞3回(歴代年間最多(2012年終了時点))、日本プロスポーツ大賞功労賞など。
2005年
1番中堅で開幕して、その後打順は5月中旬から5番に起用されるが、7月中旬に受けた死球で右手小指球部を挫傷して登録抹消後は出場がまばらとなる。4月15日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦でネクストバッターズサークル内にてファウルボールが局部に直撃したにもかかわらず、苦痛に顔を歪めたまま本塁打を打ち、打法名「右キンタマ打法!!大当たり〜♪♪♪」と命名したためニュースでは「放送禁止用語打法」と紹介される。23日、東京ドームでのオリックス・バファローズ戦で日米通算1500試合出場を達成。6月5日、ナゴヤドームでのセ・パ交流戦中日戦で山本昌から日米通算200号本塁打を達成。
11日、甲子園での古巣阪神戦で本塁打を打った際に阪神ファンからも拍手を受け、打法名「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と命名。翌12日の同対戦では甲子園左翼席中段まで本塁打を運ぶ。
この年は故障離脱の影響もあり規定打席に到達できず。ゴールデングラブ賞を外野手部門最多得票にて受賞するが、同賞授賞式を欠席。
シーズン守備成績は平凡な数字であり、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」と語る。
2年契約満了のため結んだ再契約は新庄側の希望で1年契約、年俸は自身最高の推定3億円となる。プライベートではベストフォーマリストを受賞。

新庄劇場[編集]

2006年
この年、阪神時代の監督であった中村勝広がオリックスへ、野村克也が楽天へと同リーグ球団監督に就任し、千葉ロッテマリーンズボビー・バレンタイン監督(2001年メッツ時代の監督)と合わせ、3人の恩師と対戦することとなる。1年間を6番中堅でほぼ固定起用される。新庄の発案で「札幌ドーム超満員大作戦」と銘打たれ、「何かやります」と予告していた3月25日の開幕戦(対楽天・札幌ドーム)試合開始にあたり守備へ就く際に、自身がハーレー・ダビッドソントライクを運転して入場し場内を周回して守備位置へ向かい、続いて他のスターティングメンバーもそれぞれサイドカーの助手席に乗車して守備位置へ向かうというパフォーマンスを披露して満員の観客から大歓声を受ける。これを皮切りとして、この年の試合前に本格的なパフォーマンスショーを行った3試合はいずれも日本ハムが勝利を収める(「新庄劇場#試合前パフォーマンスショーの例」を参照)。この年から外野の個人広告看板(#社会貢献活動を参照)の2枚中1枚を、自身のイラストが喋るふきだしにメッセージを書き込める仕様のもの(普段ふきだし部分は余白)に新調し、観客満員達成時には何かメッセージを入れると公約しており、開幕戦の翌26日に「札幌ドーム43,000ファン ヤバい 感動だぜっ!!」と入れてファンへ感謝の意を表す。
引退表明
4月18日、東京ドームでの恩師・中村監督率いるオリックス戦にて、1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と名付け突然の引退表明を行い、ヒーローインタビューで改めて観客へ宣言する(#現役引退についてを参照)。この引退を宣言する命名を最後に2004年より続けてきた本塁打への打法命名を封印する。
引退発表からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて連日のように報道される。
30日の福岡ソフトバンクホークス戦へ出場した際、ユニフォームの下に着用していた襟付き練習着についてマナーの問題で物議を醸す。自身は試合前に審判団へ同品を着用しての出場可否確認を求め、前川芳男パシフィック・リーグ審判部長の「現行規則では明記されていないため、今後の検討材料にする」との判断により着用許可を得ていた。試合中から試合後に渡り、相手球団の監督、フロントが苦言を呈し、審判団の協議の末「今後は着用しての試合出場不可」と通告を受ける(更なる物議、新庄の意図も含め「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照)。6月16日、札幌ドームでの広島戦で佐々岡真司からNPB通算200号本塁打を達成。阪神時代の1991年にプロ初スタメン出場した試合でプロ初三振を喫した相手でもあるプロ入り同期の佐々岡とは、互いの節目の記録において縁があり、1998年には佐々岡の通算1000奪三振目を喫している。7月、現役最後となるオールスターゲームの第1戦(明治神宮野球場)にて守備での好捕などでSANYO賞を2つ獲得して優秀選手賞を受賞。8月22日、岩手県営野球場での楽天戦で渡邉恒樹から日米通算1500本安打を達成。9月15日、2007年夏の参院選への出馬を自民党民主党が要請していたことが判明。しかし出馬せず。
引退セレモニー
27日、レギュラーシーズン最終戦となる札幌ドームでのソフトバンク戦にて、この日限定で背番号をプロで最初に背負った「63」に変更。これに伴い、元々「63」だった渡部龍一も1日限り「68」に変更する。チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合終了後に引退セレモニーが行われる。場内を消灯して大型ビジョンに流された野球人生を振り返るVTRを、中堅の守備位置から新庄の恒例となっている帽子の上にグラブを被る姿で見守った後、ユニフォーム、グラブ、リストバンド、タオルをその場に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後に。ユニフォームを脱いで現れたアンダーシャツの背中には「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」とファンへ向けるメッセージがプリントされていた。スピーチは行わなかったが、去り際には大型ビジョンに「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」と署名つきの直筆メッセージが表示された。先の引退表明が東京ドームでなされたこともあり、このセレモニーには地元札幌のファンへのけじめの意味合いも込められていた。予定通り、翌28日に渡部と共に背番号を戻す。
自身初の日本シリーズ出場
CM出演契約をしているダイドードリンコ商品・D-1 COFFEEの「SHINJO引退記念缶」が10月2日より12月まで限定発売され、同時に「SHINJO引退記念キャンペーン」も展開される。また、札幌パルコなどでは引退記念グッズショップが設置される。自身NPBでは初めてのリーグ優勝を決めたプレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク)の2試合で6打数2安打1打点を記録。
日本シリーズ後の11月に予定される日米野球にファン投票でトップ選出されるも出場辞退を表明し「日本シリーズで完全燃焼したい」と語る。
シリーズで対戦した中日のアレックス・オチョアは、新庄がジャイアンツ時代に2002年のワールドシリーズで対戦したエンゼルスの選手としても出場しており、この両者はワールドシリーズと日本シリーズ両方で選手として対戦した初めての例となる。このシリーズでチームは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝き、個人5試合通算17打数6安打1打点を記録。10月26日の最終第5戦(札幌ドーム)8回裏、涙を流して入った現役最後の打席では、中里篤史からの全3球ストレート勝負にて空振り三振に倒れる。最終回の守備、二死からアレックス・オチョアのレフトフライで日本一が決まると、捕球した森本稀哲マウンド方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱き合う。そして、両者はマウンド付近にできている歓喜の輪へ向かい歩き出すが、新庄は涙を流し、精も根も使い果たしてまともに歩くことが出来なかった。その後、選手、首脳陣、スタッフ達の方が外野へ向かい歩いていって左中間で抱擁し合い、胴上げが監督より先に新庄、小笠原道大田中幸雄大社義規前オーナーの遺影を掲げた現オーナーの順に行われる。
日本ハム入団会見で掲げた2つの目標である「札幌ドーム満員」と「チームの日本一」を共に達成してユニフォームを脱いだ。
翌27日に札幌ドームで引退会見を行い、引退後の活動方針については明言を避ける。11月のアジアシリーズについても、気力と体力の限界を理由に出場辞退を表明。11月8日、10度目のゴールデングラブ賞を受賞。18日、札幌で行われた優勝パレードに私服で参加。日本ハムの新庄としての最後の姿となる。シーズン中から引退撤回を求めるファンが署名活動を行い、球団からも撤回要請を受けていた。しかし本人の意思は固く、球団側は手続き上、自由契約扱いとすることを勧めるが、新庄側の希望で任意引退の形がとられる。

現役引退後[編集]

現役引退後はタレントへ転身。また、エアブラシアートエアブラシを使用した絵画)制作に没頭している(#エアブラシアート制作についてを参照)。

2007年
1月28日、2003年を最後に休止していた自身の公式ホームページの更新を再開して、今後の活動の方向性などを報告。3月1日、2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞を受賞。5月10日、COTTON USAアワードを受賞。6月21日、前年に行った寄付について紺綬褒章を受章(#社会貢献活動を参照)。8月18・19日、日本テレビ24時間テレビ 「愛は地球を救う」』にてチャリティーパーソナリティーを黒木瞳と共に担当。12月28日、自身の公式ホームページにて志保夫人との離婚を発表。
2008年
1月28日、(株)レハサフを設立して取締役に就任。業務内容はアスリート、アーティスト等のマネジメントやコスメティックアパレルグッズの企画、販売など。自身の公式ホームページを自社のものと共同として、名称「CLUB SHINJO」から「LHSF_COLONY」へ変更。レハサフ設立時以降に自身のタレントとしての所属事務所を(株)剛ゴーエンタープライズからレハサフへ移籍。レハサフはこの年の5月より新庄の元同僚・森本稀哲とマネジメント契約を結んでいた期間がある。5月18日、福岡Yahoo! JAPANドームでのソフトバンク対日本ハム戦の始球式投手として余興ながら森本と1打席の真剣勝負を行う(「新庄劇場#始球式」を参照)。11月23日、札幌ドームでの日本ハムのファンフェスティバルにて特設スペース「SHINJOコーナー with ひちょ」が設置され、自身及び森本がプロデュースした商品などが販売される。28日、ホテルオークラ東京にて「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌年の自身の活動予定(自社商品の開発俳優歌手地方競馬の馬主(後述)、画家)を発表。初の絵画個展を29日より年末にかけて開催(#個展を参照)。
2009年
絵画制作モデルとして購入する馬が競走馬となる予定であることから、地方競馬馬主資格を取得していた。同馬はタノシンジョイ号と命名され、9月25日の船橋競馬場での新馬戦へ初出走し勝利する(#馬主成績を参照)。また、この年には映画『僕たちのプレイボール』製作のエグゼクティブプロデューサーを務める。同作品主演・小原裕貴が11月1日の日本シリーズ・日本ハム対巨人第2戦(札幌ドーム)にて始球式投手を務めた際に付き添いとしてグラウンドへ姿を見せ、その後の同試合テレビ中継にて初のプロ野球解説を担当する(#メディア出演詳細を参照)。
2010年 - 2011年
2010年前半を最後にメディア出演はなくなり、以降インドネシアバリ島に住居を構え滞在する。現地へは以前CM撮影に訪れたことがきっかけといい、絵画制作に加え2011年よりモトクロス競技の練習を開始して、郊外に練習のためのモトクロス場(日本円にして1000万円規模)を開設し地元住民へも無料開放する。また、地元の子供達への簡単な野球指導も行っている[出 15]。2011年8月初旬、新庄の父親の通夜・告別式にてメディアに映る[出 16]。9月8日放送のTBS世界の強運実話!もってる人グランプリ』にて2年ぶりにテレビ番組へ出演し、以降は仕事の度に日本へ帰国している。10月、球団買収される予定の横浜ベイスターズ(現、横浜DeNAベイスターズ)の買収企業がDeNAとなる場合の次期監督の最有力候補に挙がっていると『サンケイスポーツ』が23日より複数回に渡り報じるも実現せず[出 17]。12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される(#評価を参照)。
2012年
自身が取締役を務めるレハサフと、プラファーとの間で、マネジメントの協力に関する契約を締結。4月には、日本国内のモトクロス場で、成田亮と共に走行練習を実施した[出 18]。11月18日の阪神対巨人OB戦(甲子園)には参加しなかったが、川藤幸三・阪神OB会長からの要望を受けて、バリ島の自宅およびモトクロス場でビデオメッセージを収録。OB戦のイニング間に大型ビジョンで流されたほか、12月29日のダイジェスト番組(読売テレビ制作・日本テレビ系列全国ネット)でも松村邦洋のリポートによる特別企画として放送された。

人物[編集]

現役引退について[編集]

開幕直後の引退表明

2006年4月18日、オリックス戦(東京ドーム)2回裏にダン・セラフィニからソロ本塁打しホームインすると、普段とは異なり外野応援席方向へ向かいヘルメットを脱いで深々と一礼した。攻撃が終わり守備位置に就くと再びファンに一礼(阪神時代途中からファンの新庄コールに対しては、一礼からガッツポーズに変えていた)。 恒例の本塁打の打法名は

28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法

と、異例の開幕直後での引退表明を行った。7回裏に金子千尋から満塁本塁打すると三たびファンに一礼し、今度は打法命名がなされなかった。 チームが勝利して受けたヒーローインタビューでは、冒頭からしばし沈黙した後に自らマイクを握り、

ええ…今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年…。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました

と観衆に改めて宣言した。引退を決意した決め手は開幕戦で観客満員を達成したことであり、早ければその翌日にでも表明するつもりで荒井修光専属広報など一部の球団関係者には事情説明がなされていた。またこの日の表明に踏みきった理由として、東京ドームが一軍初出場時の球場であることも明かした。翌19日の試合前には、この早い時期に引退発表を行い驚かせてしまったこと、また引退の決意を一部にしか伝えていなかったことをチームメイトに詫びており、トレイ・ヒルマン監督へは

1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから

と説明した。これに対しチームメイトも理解を示した。

引退理由

自身のホームページやテレビ出演にて概ね以下のような理由を挙げている。

  • 守備の衰えと体力の限界。
  • 動体視力の低下(遺伝性の眼病によるものとされる)。
  • 足(左内太股)の故障。
  • 開幕戦で観客満員を達成して夢が叶い「自分の仕事は終わった」という達成感。

動体視力の低下に関しては、2006年シーズン開幕後1週間ほど経った試合から急に投球がかすんで見えだし、特に右投手のカーブと左サイドスロー投手の投球が見えなかったと、引退後に自身のホームページにて告白。それまでチーム関係者へも明かさず、ひた隠しにしたままプレーを続けていた。

エアブラシアート制作について[編集]

現役引退後より没頭しているエアブラシアートエアブラシを使用した絵画)制作作品数は2009年2月時点で30作を越え、数作品を公式ブログで公開している。作品を売却しての収入も得ていて、居住する住宅にはアトリエを設置。2008年には初の個展を開催した(#個展を参照)。2008年11月23日放送の日本テレビ『行列のできる法律相談所 ~有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト~』の主旨に賛同して制作した作品をチャリティーオークションへ出品。賛同する理由として、前年に出演した日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の企画にてカンボジアへ行き、現地の人達の厳しい生活状況を目の当たりにしていた経験があった。出品作品は「青空・夕空・夜空」を描いたものでタイトル「Shinjo is Shinjo」と名付け、北海道在住の日本ハムファンの人物により300万円で落札された。2009年、自身の日本ハム時代のユニフォーム姿を描いた3作品をブログ公開し、これらを合わせた9作品が7月10日から12日まで札幌ドームでの日本ハム主催試合のイベントにて展示公開された。

人物像[編集]

一般的な野球選手のイメージとはかけ離れた高いタレント性とショーマンシップ、奇抜な言動で知られる。阪神で同僚時代のマーク・ジョンソンは新庄について「No.5にはカリスマがある。彼が打つと甲子園は世界一熱狂的なボールパークになる」と評した(No.5は当時の背番号)[出 19]。MLB時代頃から「野球を楽しむ」といった発言が目立ちはじめ、日本ハム移籍以降はチームメイトへも「楽しもう」とメッセージを投げかけ、試合中でさえ笑顔をみせることがあった。渡米した2001年以降は、その楽しそうにプレーする姿を指した愛称「SHINJOY(シンジョイ)」が浸透した。メディアに向けて発する独特の喋り口は2004年の活躍時に「新庄節」[注 10]と称され、同年の新語・流行語大賞にノミネート。また、現役引退宣言で沸いた2006年の同賞には「SHINJO」「新庄劇場」がそれぞれノミネートされた。

開幕早々に引退宣言して日本一を経験できたラストシーズンについて自身は、

「(強運を)もってるわ、俺。本当にこの漫画みたいなストーリー、出来すぎてません、これ? 今後俺、体に気をつけたいと思います」

と総括した。

ファンサービス

「魅せる野球」にこだわり、独自に考案したファンサービスも積極的に行った。ヒーローインタビューなどでの質問に対して「そうですね」などと前置きしてから返答することは話が間延びして面白くないという持論から、自身は即答することを心掛けており、日本ハム移籍後は一部のチームメイトにもこれを薦めた。また、試合で活躍してお立ち台の依頼を受けても、他に活躍をした後輩へ譲ることが幾度かあった。他にも、自身が「赤色」をトレードカラーとする(後述)ように後輩にも各自のカラーを持つことを薦めたり、かぶりものパフォーマンスにチームメイトも誘って実行した。チームメイトも巻き込んでファンサービスに力を注ぐ狙いは、自身以外へも興味を持ってもらい新たなファン層を開拓するきっかけづくりにあり、この考えについて後輩の森本稀哲は「自分を観に来たファンに他の選手を覚えてもらおうという感覚は凄い」と語り、新庄の引退後もその役割を引き継いでいる[出 20]

選手生活晩年には選手としてのファッションに関する例が多く報じられたが、それ以前からファッション的なことに限らず、球界に前例のない行動が目立った。引退を前にした現役最終年には

ファンのために選手個々がいろいろなことを最初にやる勇気を持ってほしい

と球界の選手全体に訴え、これからの球界では選手のファッション性も向上しないと球場に観客を呼べなくなってしまうと危惧した(「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照)。こういった派手で破天荒な言動は日本ハム移籍後には「新庄劇場」と称されて目立つ反面、試合前のパフォーマンスショーなどを行う際には各方面へ事前の了解を取りつけるなど、周囲に対する気遣いも厚かった。打撃成績が振るわない年でもオールスターゲームにファン投票選出され、2006年の日本シリーズでは監督より先に胴上げされた。漫画家の水島新司は「新庄ほど常にファンのことを考え、楽しんでもらおうと思っている選手はいない。日本プロ野球界において、たった一人で球場を満員にできる唯一の選手だ」と評している。

トレーニング

阪神時代途中までは「ジーンズがはけなくなるから」と下半身強化トレーニングをしていなかったと告白し、打撃練習も手に豆さえできない程度で片付けていると報じられてきた。しかし、幼少期から努力している姿は人には見せない子供であったと新庄の父親は語っており、プロ入り後も同僚からの「人に個人練習している姿を見つかると、練習をやめてしまう」といった証言がある。後に怪我防止のために考えを改め実際に下半身を鍛えてみると、下半身は太らない体質だという事がわかったという。公言する理想の体型は公衆トイレに多く表示されている男性用のマーク(男性の体が逆三角形にデザインされている)だが、トレーニングはあくまでも野球のためであって、魅せるためだけの体づくりとは方法が違うと語る。また、走塁のための瞬発的なスピードを維持できるよう、あえて長距離走の訓練を避けていた。MLBで太股に肉離れを起こして以降は、故障箇所をカバーする筋肉をつけるため、好きなジーンズの着用も止めてハードな筋力トレーニングを続けており、日本ハム時代の同僚である岩本勉は、新庄が鬼気迫る表情でバーベルを担いで片足屈伸を続ける姿を目撃した時には、圧倒されて声をかけられなかったと語る。

性格

幼い頃から、相撲大会で負けて泣きながら帰宅すると、翌日には再挑戦し10人抜きで優勝したり、ソフトボール大会で負けた審判の判定にひとり抗議するなどの負けん気の強さを持っていた。反面、得意のかけっこでは足の遅い友達を待ってゴールし、先生に「この子はタイムが計れない」と言わしめたり、裕福ではない家庭環境[出 7]の中でも、幼稚園時には誕生日の母親にお金がかからないプレゼントを差し出し「お金がないけん、ごめんね。おめでとう!」と告げるなどの優しい気持ちも持ち合わせていたことが、知己により証言されている。そういった性格は現役時代にも覗え、敗戦後のコメントは1999年頃から例え自身が活躍していても控えていた点や、幾度か自身の代わりに若手選手の抜擢を監督に進言したことがある点(2003年オープン戦にメッツ同僚を、2006年リーグ戦に森本稀哲を(「q:新庄剛志#日本ハム時代語録」参照)、2006年日本シリーズに紺田敏正[出 21])などである。

それまで親に物をねだった事は一度もなかったが、高校時代に冬場の練習での手のかじかみにたまりかねて革製手袋を買って欲しいと頼むと、父親は自分の手が荒れるのも構わず仕事用の軍手を買うための予算を使って購入してくれたという。新庄自身は幼い頃から「将来お金持ちになり親孝行しないといけないと考えていた」と語る。幼い頃から受けてきた父親の教育方針は「不言実行」の教えであるが、自身は目標ごとについては「有言実行」を目指す考えである。阪神時代から時々の目標を積極的に公言し、MLB初打席初安打や2004年のオールスターゲームMVP獲得も事前のインタビューで予告していた。その動機は、目標を公言することで実現できなければ恥ずかしいという感情をモチベーションにすると頑張れる性格であると自己分析するからである。現役引退後も目標を掲げる発言は目立つ。

トレードカラーと背番号・登録名

好きな色は「」。一軍定着と共にトレードカラーとして定着し、NPB在籍時はリストバンドなどで主に赤色のものを着用した。「赤=新庄剛志」で覚えてもらおうとプロ入り時から決めていて、一軍デビュー時には周囲からの「赤は派手すぎる」という声もあったが、活躍出来ないことには恥ずかしい派手な色を着用することで自身を追い込みたかったという。

好きな数字は「1」。シンプルだし格好いいからという。1992年オフに阪神球団より背番号63からの変更を打診された際には「1」もしくは憧れを抱くダリル・ストロベリーが着用した「44」を希望したが、両方とも空き番ではなかった。変更となった新背番号5について自身は「カクカクしているから自分に合っていると思う」と語り、以降三度の移籍の際も新背番号は同番となった。メッツからジャイアンツへのトレードが急遽決まった際には「背番号5を貰えるかどうかが一番気になった」と語った。その後、日本ハム移籍時に念願の「1」へ変更[注 11]

また同時に登録名はNPB初となるアルファベット表記「SHINJO」とした。スコアボードの選手名表記が縦書きの球場ではアルファベットが縦に綴られて表記された。すでに従来の漢字表記での知名度が高かったため、新聞などで漢字表記をする例が多かったほか、「SHINJO効果[注 12]」や「新庄劇場」などのフレーズではアルファベット、漢字の表記が混在した。引退した翌2007年に、名前の読みが同じ「ツヨシ」であり親交も深い西岡剛が登録名を「TSUYOSHI」に変更した際には事前に相談を受けた(西岡の項目を参照)。

社会貢献活動[編集]

復興支援

1995年に所属する阪神の地元で起きた阪神・淡路大震災の際に球団選手会副会長としてチームメイトと共にの支援募金活動などを行った。2001年に所属するメッツの地元をはじめとする地域で起きたアメリカ同時多発テロ事件の際にはチームメイトと共にの支援物資運搬などを行った。2004年に起きた新潟県中越地震の際には出演したラジオ番組イベントや札幌と池袋のPARCOで開催された自身の写真展にての支援募金活動などを行った。

SHINJOシート・個人広告看板

日本ハムに入団した2004年から2006年の引退まで自費で、札幌ドームでの日本ハム主催試合の外野左翼席に野球少年達を無料招待する「SHINJOシート」を毎試合126席ずつ用意していた。また、右中間席上部に個人広告看板を2枚掲示した。この看板はSHINJOシートから見えやすい位置にあり、デザインは2枚共に同じく赤色のベースに自身の個人マーク(#打撃を参照)などが描かれている(2006年のみ1枚のデザインを変更した(#新庄劇場を参照))。

寄付

2005年8月、母校・西日本短大付属高校野球部が前年の夏の甲子園に出場したことを称えマイクロバス(車種はトヨタ・コースター)を寄贈し、「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった[出 22]。2006年6月に達成したNPB通算200号本塁打を記念してメモリアルバットが製作され、その販売収益金1000万円を「北海道の青少年のスポーツ振興のため」として道へ寄付した。寄付金は道内スポーツ少年団の競技用具購入のために活用され、この件について道内の子供たちから感謝の手紙、高橋はるみ知事から感謝状を受け取り、翌年に紺綬褒章を受章した。

対人関係[編集]

首脳陣

プロ入り時の打撃コーチ(二軍)であり、長年に渡り指導を受けた柏原純一について「師匠だと思っている。二軍時代、夜遅くまで残って一緒に練習してもらった。「とにかく今年1年はお前を4番でいくから」と強く後押ししてくれた。一軍に上がってホームランを打った時やメジャー行きも真っ先に報告した」という。

阪神時代の最後に仕えた野村克也監督とは、1998年オフの秋季キャンプにて新監督となった同氏から面接を受けた際、40分ほど野村の話が続いたところで「あまりいっぺんに言われると、オレ頭が悪いので覚えきれません」と言って遮り面接を切り上げた。しかし本人に悪意はなく、野村も「可愛い奴や」と笑いながら振り返っている。これには新庄の思惑があり、話を一度に聞いてしまうよりも途中で切り上げたほうが先に監督と接触出来るチャンスがあるのではないかと思ったという[出 7]。新庄の守備と足に関して野村は敵将の時代から高評価していたが、打撃に関しては「打撃以外は一流」と評価した。しかし打撃においても潜在能力は認めていて、就任1年目からたびたびスタメン4番に据え、最初に抜擢した時には「地位が人を育てる」と理由を説明した。新庄は2000年に過去最高の打撃成績を残し、自著[出 7]に「野村監督の言葉で力を出すことができた」「ウマが合った」「選手個人の性格をうまく見抜いて、それを利用する」と記した。

阪神時代のプロ生活最初の監督であった中村勝広は、当時の新庄を褒めること主体で指導していたと振り返る。また中村は新庄のMLB1年目(2001年)の活躍の要因について、当時のメッツ・ボビー・バレンタイン監督の「褒めちぎって、乗せて、力を発揮させる」指導法が大きかったと想像すると語った。中村とバレンタインは2003年オフの新庄のNPB復帰の際、それぞれオリックス・ゼネラルマネージャー(中村)、ロッテ新監督(バレンタイン)として獲得に興味があったと語っている[出 23]。また移籍先となった日本ハム監督当時のトレイ・ヒルマンは、新庄と前所属メッツ時代(2003年)のアート・ハウ監督との確執が報道されていた件について独自に情報収集を行い、新庄の個性を尊重した上での指導法で接した[出 11]

チームメイト

阪神時代の同僚で同学年の広沢好輝とは親友でシーズンオフの自主トレーニングも共にした。広沢は引退後に『週刊ベースボール』よりMLB1年目の新庄付特派員として派遣された。後輩の坪井智哉とは阪神・日本ハム両球団で同僚となり、日本ハム入団を決断するにあたって先に入団していた坪井の存在が大きかったと語っている。阪神時代からマーク・ジョンソントニー・タラスコなど来日する外国人選手とすぐに打ち解けあい、自著[出 7]では来日後の早い段階で放出される外国人選手を擁護する記述をしている。

ジャイアンツ時代に中堅を守る新庄は、左翼手のバリー・ボンズから「オレはホームランを打つから、守備はおまえに任せるよ」と伝えられた。誰もが一歩距離をとってしまう存在であったボンズから「グレートなセンター」と評されるなど親交を深めた。

日本ハム時代の後輩の森本稀哲と師弟関係を築いている。2004年からの新庄の日本ハム入団が決まった頃、森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩んでいた。森本は同ポジションのスター選手が入団することに対し「なんで新庄来るんだよ」と思っていたが、新庄から打撃や守備を毎日根気強く教わり、「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたと語る。新庄は2006年シーズン限りでの引退を発表した後に「背番号1を森本に受け継いでもらいたい」と発言し、翌年より同番は森本へと引き継がれた。同じく後輩の木元邦之2004年のプレーオフでスタメンから外れたことに荒れていた際に励ましたことがある(木元の項目を参照)。同じく後輩の小笠原道大とは「ウマが合わない」「仲が悪い」と誤解して報じられがちであった。2006年のリーグ優勝決定後の合同記者会見にて、小笠原は「日本シリーズを制覇して監督はもちろん、ツーさんを胴上げしたい」と発言。これを聞いた新庄は「感無量」と語った。同学年の岩本勉とは「チームを北海道に定着させる」という方向性が一致したこともあり意気投合。タッグを組んでキャンペーンに精を出すなど友好を深めた。

球団関係者

ドラフトの際に新庄を担当した阪神・渡辺省三スカウトへは、指名後の初対面であった(#高校時代参照)が好印象を抱いたという。入団後も渡辺は、病気がちだった新庄の父親のことをいつも気に掛けてくれ、1995年の引退騒動の際にも「親父さんは元気か。心配掛けるなよ」とだけ電話をもらい感激したという。1998年8月31日に渡辺が神戸市内のビル屋上から謎の転落死を遂げた翌9月1日、ヤクルト戦(甲子園)7回裏の2点を追い掛ける攻撃で川崎憲次郎から1点差と迫るソロ本塁打を放った。善戦するも敗戦の試合後、「今の自分があるのは渡辺さんのおかげ。どうしても勝ちたかった」と話した。

他球団関係者

1992年に新庄から得意としていたパームボールを甲子園左翼席へサヨナラ本塁打された広島・大野豊は、その打たれ方のタイミングや飛距離を受けて、それを機にパームを投げるのを封印した。新庄は1997年のオールスターゲームにて応援ボイコットなどを受けた試合後にベンチで落ち込んでいた際、大野から「若いもんが、そんな暗い顔をしとったらいかん」と励まされたことに感激し、後に「他のチームの人から、あんな優しい言葉を掛けてもらったのは初めてでした」と振り返った。佐々木主浩とはお互いライバルチームに所属している時代から、シーズンオフに佐々木のラジオ番組にゲスト出演するなど親交があり、会うたびに1995年の対戦にて佐々木から放った本塁打性の打球が応援旗によって阻まれた件について、もし妨害がなければ、新庄は「本塁打だった」、佐々木は「(左翼手の)宮里さんは入っていないと言っていた」などと言い合うという。

2006年9月10日、現役最後の関西地方での試合となるオリックス戦(京セラドーム大阪)にて現役最後となる本塁打を放った。この試合では相手チームの清原和博から贈られたバッティンググローブを着用しており、それには直筆で「己を信じリラックスして(似顔絵の新庄)らしいプレーを楽しみにしています 清原和博」と記されていた[出 24]。新庄はこのお礼として2008年に引退試合を迎える清原に対して、自身が2006年の最後のオールスターゲームで着用した金色のバッティンググローブを贈った。2006年10月26日、日本シリーズ最終第5戦(札幌ドーム)での現役最後の打席は3球三振であった。涙を流しながら打席に立っている自身に対して、阪神時代から長年に渡り対戦してきた中日・谷繁元信捕手が1球目の見逃し後に「泣くな、真っ直ぐいくぞ」と言ってくれたように思ったと、翌日の引退会見で語った[出 25]

現役引退後

引退後はプロ野球界から距離を置いており、野球評論を行うことも極稀であるが、森本稀哲や川崎宗則らの一部選手とは連絡を取り合っている。

プライベート

阪神では在籍最終の2000年より始まったホームゲーム打席登場曲に福山雅治の『HEAVEN』、シーズン途中からは新曲『桜坂』を起用した。関係者を通してこの話を聞いた福山は自身のコンサートでステージのバックに阪神の球団旗を掲げて演奏し感謝の意を表した。そして新庄がこの年の大阪城ホールでのコンサート前の楽屋に福山を訪ねたことを機に親しい間柄となった。また、日本ハム時代の現役最終2006年にも福山の『美しき花』を登場曲として起用している。

2004年11月、映画『ナショナル・トレジャー』のロサンゼルスでのプレミア試写会にて、ジェリー・ブラッカイマープロデューサーや主演のニコラス・ケイジらと親交を深めた。その縁で同作品の日本公開(翌年5月)の「宣伝プロデューサー」を務め、テレビCM企画、新聞広告用のキャッチコピー製作、イベント参加など宣伝部門全般を担当した。2007年にはブラッカイマー制作3作品『デジャヴ』『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』『ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記』の日本公開応援プロジェクトの総合プロデューサーを務めた[出 26]

趣味・好物[編集]

ファッション

阪神時代初期にヴェルサーチを頻繁に着用した。幼い頃から西崎幸広選手が着用するスーツ姿をテレビで観て同ブランドに憧れていたという。MLBに移籍した2001年にはアメリカ男性ファッション誌『GQ』にモデルとしてアルマーニのスーツ姿などが掲載された。

愛車

自動車好きで、阪神時代の毎シーズンオフの契約更改に訪れる際に運転してくる車種を頻繁に替えるため、自動車専門誌記者までが取材するほど知られるところとなった。1993年:ランボルギーニ・カウンタック、1994年:ポルシェ、1995年:ランボルギーニ・チータ、1996年:メルセデス・ベンツなどである。MLB移籍が決定後には所有していたフェラーリをオークションにかけることを発表し「僕のフェラーリ売ります」というCMにも出演した。

食生活

甲殻類アレルギーのため、エビカニが食べられない。少年時代から少食である。一番の好物は母親手製の黄粉餅。大の甘党であり、市販のデザートにはヨーグルト等に付いている砂糖を入れて食べるという。フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした「新・食わず嫌い王決定戦」』に過去2回出演した際に告白した嫌いな料理は、缶詰(果物の缶詰が苦手で桃自体は好む)、おはぎ粒餡が大の苦手であり「見るとゴキブリの卵を想像する」と語る)。

メディア出演詳細[編集]

テレビ番組

2004年1月2日放送のフジテレビクイズ$ミリオネア』に解答者として出演。スタジオでの応援として坪井智哉ライフライン(テレフォン)の待機として山田勝彦岩本勉伊達昌司木元邦之らの同僚選手も出演した。ライフラインを使い果たし迷った際には鉛筆(各面に選択肢を記入した)を転がして上となった面の選択肢を選ぶという方法をとり、全15問正解し賞金1000万円を獲得。この賞金を2004年分の札幌ドーム・個人広告看板設置費用の一部に使用した。

2009年11月1日、フジテレビ『BASEBALL SPECIAL 2009〜野球道〜 日本シリーズ 北海道日本ハムVS巨人第2戦』(札幌ドーム)の中継にて、初のプロ野球解説を清原和博と共に担当。冒頭の挨拶にて、清原と一緒だから解説依頼を受けたこと、今回が自身最初で最後の解説であることを告白した。試合中は「(自身の引退後にプロ入りした)巨人・坂本勇人を全く知らない」「いくら言っても生で観ないと分からない」とのことで、解説よりも日本ハム選手との交流エピソードを主に話した。

CM

新庄という姓を文字ったキャッチコピーが使われたことがあり、“新庄式 = 新常識”(日本ハム「モーニングサーブ」)、現役引退した翌年明けに"イッシンジョーの都合でデューダしました”(一身上。インテリジェンスデューダ」)である。

大塚製薬オロナミンCドリンク」CMの2004年からの上戸彩主演バージョンの初代相手役として出演。キャッチコピーのセリフは、上戸「元気ハツラツぅ?」に対し、新庄「OF COURSE!」。新庄が2004年のオールスターゲームでのヒーローインタビューにて最後を締めたセリフはこの「元気ハツラツぅ?」であった(当時は既に上戸・新庄のバージョンは放送終了していた)。この上戸との共演に関連する翌年のエピソードとして「新庄劇場#始球式」を参照。

新庄語録[編集]

愛称[編集]

プリンス
冠がつくこともある。阪神時代:「虎の〜」「浪速の〜」「〜 オブ タイガース」。日本ハム時代:「北の〜」「球界の〜」。
SHINJOY(シンジョイ)
「SHINJO(新庄)」と「ENJOY(楽しむ)」の組み合わせ。メッツ時代の2001年、楽しそうにプレーする新庄を『ニューヨーク・タイムズ』がこう表現した。引退後、所有する競走馬名の一部に使用した(#現役引退後を参照)。また、阪神時代の登録名のアルファベット表記「SHINJYO」の下2文字を入れ替えた綴りでもある。
宇宙人
他人には予測できないパフォーマンスや性格から。名付けたのはヤクルト監督時代の野村克也。後に阪神の監督となり、新庄が敬遠球サヨナラ安打とした際にもこの様に評した。
ツー
名前の「つよし」という読みから。阪神時代に親友の広沢好輝らから呼ばれて、その継承。日本ハム時代は同学年である岩本勉らから「ツーやん」、後輩から「ツーさん」と呼ばれた。
シンちゃん
阪神時代にグラウンド整備担当者などのスタッフから呼ばれた。

パーソナルデータ[編集]

  • 身長 : 181cm(1993年) → 182cm(2005年)→ 181cm(2006年)→

182cm (現役引退後)

  • 体重 : 78kg(1993年) → 75kg(2001年) → 76kg(2006年)
  • 血液型 : A型
  • 体脂肪率 : 3%(最低時) → 7%(2005年)
  • スリーサイズ : 胸囲105cm・胴囲76cm・腰囲95cm(1993年) → 胸囲110cm・胴囲76cm・腰囲86cm(2001年)
  • 股下 : 88cm(2001年)
  • 視力 : 左右とも1.5(1993年)- 2006年に現役引退の理由のひとつとして、遺伝性の眼病による動体視力の低下を告白した。
  • 握力 : 右88・左79(1993年) - 力士並みとも言われる。
  • 背筋力 : 220kg(1993年) - 当時の阪神チーム内では一番強かった。
  • - 阪神時代に、打撃時に食いしばり欠けた歯が痛くて集中力が低下し、食事も満足に出来ない時もあったため、また、黒ずんだ歯が嫌であったため約500万円かけて真っ白い歯(歯冠補綴物)に総入れ替えした。オリコンのアンケート調査「歯がキレイだと思う有名人」男性部門で初回2006年から3年連続第1位に選ばれた。
  • 頭髪 - 染髪を好み、主には茶系色であるが、緑色や金色に染めたこともある。「帽子を被ったことにより乱れた髪型は見せたくない」との理由から、球場ではベンチにおいても常に帽子を着用している。引退後にアデランスのCMに出演する際には「アデランスをしているのは誰?」というクイズ形式のCM内容の正解役となるため丸坊主にした。

  • 1993年のデータ:書籍『新庄剛志 PART2 (ベ-スボ-ルアルバム)』より
  • 2001年のデータ:自著『ドリーミングベイビー』より
  • 2006年の体重データ:『日刊スポーツ』より
  • 最低時、2005年の体脂肪率データ:2006年4月13日放送・テレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』より

野球選手として[編集]

守備では屈指の強肩と打球判断、俊足を生かした外野守備力を誇り、NPBリーグ外野手の年間最多補殺を3回、最多刺殺を2回記録。MLBでも1年目に両リーグ新人外野手年間最多補殺を記録。生涯成績でも外野手として日米通算100補殺以上を記録している。打撃については調子の波があり、年間打率は2割台中盤の年がほとんど。NPB年間20本塁打以上は5回記録しているが、打率3割や本塁打30本に到達した年は一度もない。かつての指揮官・野村克也からは「打撃以外は一流」と評された。生涯成績ではNPB通算200本塁打、日米通算1500安打といった節目の記録に到達しているが、自身はこれらの記録達成時に「まさか達成できるとは思っていなかった」と発言した。反面、守備に対しては、日本ハムと異例の補殺数出来高契約を結んだこともあり自信が覗え、常々「打撃は得意ではないけど、守備は好き」と口にしていた。しかし阪神時代には緩慢とみられるプレーが時折見かけられ、そのうちの一つとして1997年に、飛球に対し故意にスタートを遅らせて刺殺しなかった事実があり、その動機は「早く負けて帰り遊びたかったから」であると引退後のテレビ出演[出 27]にて自ら告白した。

守備[編集]

高校、プロ入り時から外野手であったが、阪神時代初期には自身の希望で遊撃手へ転向したり、臨時で三塁手として先発出場していた時期もあり内野も守れる。1999年、2000年には二塁に、また三塁には1994年、1999年のオールスターゲームでも就いたことがある[注 13]。なお一軍においてのポジションコンバート歴は、1991年・遊撃手→翌1992年・三塁手→遊撃手→中堅手定着(翌年春季キャンプにて遊撃への再コンバート案が出るも故障で中止となる)。ただし、阪神時代のオールスターゲーム、日米野球にて人員不足時の左翼右翼守備に就いたことが数度あるほか、MLBでは毎シーズンで外野全3ポジションに就き、特に2001年は左翼46試合、中堅53試合、右翼39試合と万遍なく就いた。

外野守備[編集]

全般
主に就いた中堅手のポジションを「投手の動きがよく見え、投手にアドバイス出来るから」と好む。守備理論に独自の合理性のもと拘りを持ち、日本ハム時代の外野守備走塁コーチ・平野謙は大変驚く点があったという。
ポジショニング
補殺が狙える状況の中堅での基本的なポジショニング(位置どり)は、強肩への自信から走者がベースを回り次々塁を狙うよう深めに位置どる。阪神時代のポジショニングで勘に頼った時には8割くらいは当たっていたと語る。また、MLB時代も重要な局面での補殺成功の談話の中で、勘が当たっていたと語った[出 28]
中堅から両翼の外野手に指示を送るリーダー的存在である期間が長い。阪神時代に急遽二塁守備へまわった際にも、その場から先輩外野手へ合図を送っている姿が中継された。
1992年9月16日の広島戦(甲子園)終盤のピンチで山崎隆造が放った右中間を越えようかという打球を、中堅から走り込み地上すれすれでダイビングキャッチしたプレーは、後年に渡りメディアが取り上げるが、自身は「捕手のサイン・打者の特徴を考慮した右寄りのポジショニングが成功した」と振り返る。当時の右翼手で外野リーダー役の亀山努によると、さらに寄るよう指示を出していたので、「もっと寄っていれば楽に捕れました」と謝罪を受けたという。
構え
自身はテレビ番組にて、少年野球の子供達にも向けた提言として、「投手の投球モーション時に上半身を屈める構えは、外野への打球の大部分である飛球の場合に上体を起こす事で一瞬目線が浮き上がり、それだけでスタートが遅れてしまう。自分は、常に上体を起こして体の力を抜いた状態で、小刻みなステップを踏んでスタートのタイミングを計る」との勧めをユーモアも交えて実演した[出 29]
打球判断
投手の投球方向から打球方向を予測してから打球が放たれるまでの間に2歩ほどスタートを切っていると語る。阪神で同僚外野手となった本西厚博は新庄の守備の優れている点として「打球を予測する嗅覚」を挙げ[出 30]、また打球落下地点を予測すると、そこへ全速力で到達できるよう一旦打球から目線を切って走る、用語でいう「目が切れる」外野手であると解説する。
走者がベースを回り次々塁を狙った場合に余裕で補殺できると判断すると、狙わす為にあえて捕球のタイミングを遅らす。
捕球
平凡な外野フライもジャンピングキャッチするという捕球スタイルで、これは高校時代に先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身に付けたものである。少年野球の指導者から「野球少年に悪影響を及ぼす」と指摘されたことがある。阪神時代に打球を顔面に受けたことが原因で大熊忠義コーチから一時禁止されていたが、以降は引退までジャンピングキャッチを貫いた。自身はジャンピングキャッチの利点について、「走り込んできて、フライ性打球は上方向にライナー性は横方向に早めにジャンプして、その頂点で打球を見る事で目線が一瞬止まり(ぶれる事を防ぎ)、打球の急な変化に対応できる。そして、頂点から着地しながら捕球する事で、自然と打球の勢いを吸収することができる」[出 29]と解説し、自著[出 7]では「着地した直後にはその勢いですぐにスローイング(送球)できる」、「これを知人には「新庄式野球力学」と、からかわれる」と記述している。
MLBでトレーナー経験もあるフィジカルトレーニングスーパーバイザー広戸聡一は、新庄の追った飛球に正対する前の体勢での捕球について「新庄の肉体の一番の特長である、柔らかさ、しなやかさが日本人離れしている上半身を自在にコントロールして、顔は正面を向いて捕球できている」といい、MLB1年目に行った「真後ろ方向への打球を追い、全身がその方向に向いたままのポケットキャッチ」のように、顔も正面を向けることができづらい状態でも、顔の近辺で捕球できていると分析する[出 29]。また自身曰く、グラブの先が届くか届かないかのギリギリの打球は、肩の関節を外して捕球を試みていた。わずかでもボールへの距離を縮める工夫であったという。
ダイビングキャッチを頻繁に試み、人工芝上で、袖の無いアンダーシャツを着用して腕を晒した状態であっても敢行する。
送球
ゴロの打球に対してトップスピードで前進してきて、体が前に流れた時など体勢が悪くスローイングへの体重の溜めを作れない状態でも、体全体のバランスと腹筋背筋などの上半身を生かして良い送球ができていると栗山英樹は解説する[出 4]。送球の球筋が変化してしまっている場合には、ブルペンで投げ込み修正している[出 28]
プロでも内野手経験があるが、補殺を狙う際や内野手の中継への送球など、捕球してから投げるまでの動作時間が抜群に速い[出 30](内野手の中継に送球する前の飛球捕球や、跳ねたクッションボールを素手の右手で捕る際などには、スローイング体勢に入りながら捕球する)。走者なしの場面での刺殺後に捕球動作からの流れでサイドスローにて内野手への返球を頻繁に行うが、補殺を狙うため中継への素早い送球を要する場面においても時折、同様のサイドスロー送球を素早く行う。
球界屈指の強肩として知られ、MLB時代には新庄の遠距離補殺をテレビ実況が「ロケットアーム」と称した。阪神時代の送球は普通の外野手と比べると、塁上の受け手に走者が走る距離にして2 - 3mは早く到達しているであろうと、対戦経験から横浜・三塁ベースコーチ担当時の青山道雄は語る[出 31]1997年のオールスターゲーム試合前の投球スピードコンテストでは147km/hを記録し、同僚時代の定詰雅彦捕手は新庄からのバックホーム送球について1998年に「きれいなストレートの球質。ワンバウンド送球時、手元までグゥーと伸びてくるので、どこでバウンドするか判らない。彼の強肩なら、送球が内野手の頭上を通過するノーバウンドのバックホームをしたとしても、打者走者は送球間の二塁進塁を狙わないと思う」と語る[出 1]。プロ入り間もない二軍時代には、強肩が武器であるという自覚があったため、練習時の外野からホームへの送球ではバックネットに当たる暴投のような球をあえて投げていた。その意図は、コーチが「肩の強さは伸び幅に限界があるが、コントロールなら教えればいくらでも修正が効く。あの肩ならノーコンでも周りの選手よりも可能性がある」と判断するはずだと考えていたところにある。「ホームにきれいに送球できる選手はたくさんいてそこでは差がつきにくいが、肩の強い選手がコントロールを持てばそれを超えられる」と思っていたという。
遠距離、近距離問わない強肩の要因について前述の広戸聡一は、柔軟な上半身をフルに使えているといい、肩のユニットだけではなく(テニスやバレーボールのサーブ時にも必要とされる)全身をしならせて、最後に腕を強く振ることができていると分析する[出 29]
他の野手との連携
2000年5月25日の中日戦(甲子園)6回表同点無死一三塁の守備で、打者・レオ・ゴメスが打ち上げた左翼定位置付近への飛球に対し左翼・坪井智哉が一旦落下点に入るが、そこへ中堅・新庄が声で自身の到達を知らせながら走り込み(坪井から譲られて)捕球し、体勢を整えないまま体を捻りながら本塁へ送球し走者・李鍾範を補殺した。この守備について福本豊(前年の外野守備走塁コーチ担当)は、当時の外野手陣は「補殺を狙える場面の打球において肩の強い中堅・新庄が捕球出来る場合は優先して捕球を譲る」と取り決めていたと語る[出 4]。MLB時代の2002年には中堅の守備位置から走り込んで右翼守備をカバーして補殺したこともある(#MLB時代を参照)。
日本ハム時代、左翼・森本稀哲、右翼・稲葉篤紀との外野陣を2005年に10数試合、現役最終の2006年には1年を通して形成し、この3人で揃って2006年ゴールデングラブ賞を受賞した(同一チーム選手で同賞の外野手部門独占は1978年阪急ブレーブス以来、史上2回目)。この両翼の2人と「左(右)中間の深い当たりを捕球→体勢が悪い時は相手にトス→ボールを受け取った方が走者の次塁補殺を狙う」という連携を稀に行った。2005年の中日戦では右翼・稲葉とこの連携で失敗したこともあり、この時は右中間への安打を捕球した稲葉が後方へトスしたが、新庄は既にその地点を駆け抜けていてボールは更に後方へと転がった。この失敗についてテレビ番組『サンデーモーニング』内で張本勲大沢啓二は「今回の右中間でのプレーの場合、中堅から向かってきた右投げの新庄にトスしても新庄も体勢の立て直し(反転)が必要で、右翼の稲葉が体勢を立て直して自分で送球したほうが速かった(逆に、左中間で中堅から向かってきた新庄がトスを受ける場合は、そのままの体勢で送球出来る)」と解説した。
日本ハムでは投手交代時に外野3選手が中堅の位置に集まり、立て膝をついて膝を突き合わせ、グラブを帽子の上に被ってミーティングするシーンが恒例となった(新庄の発案)。2006年の日本シリーズ第4戦の投手交代時には、外野3選手の他に内野でも4選手が集まり同じポーズをとってミーティングする姿が見られた[出 32]。新庄引退後も日本ハム外野陣はこのミーティングを続けている。
MLB時代の2002年には中堅手としてランダウンプレイに加わり、走者へタッチしてアウトにした。
その他
日本ハム時代には、走者がいる場面で後方への飛球を追い、直接捕球の刺殺は無理でフェンスに直撃すると判断すると、とっさに振り返って打球に正対する捕球体勢を一度とり、塁間で打球を見極める走者に一瞬「捕られる」と思わせてタッグアップに備えリタッチさせるなど惑わせて、結果的にその走者の進塁を明らかにひとつ少なく抑えるというトリックプレーを稀に見せた。その後自身で素早くクッションボールを処理した時もある。

投手挑戦[編集]

1998年秋季キャンプより外野手との兼務(二刀流)を目指し練習を開始して、翌年3月5日のオープン戦(対巨人)においての初登板でリリーフの1イニングを三者凡退に抑え、球速143km/hを記録(藤崎台県営野球場)。福岡ドームでは最高の145km/hを記録した。この投手挑戦について、自身は「センターの守備位置からリリーフ登板してみたい」と発言するなど乗り気であり、発案者の野村克也監督は「(打撃時に活かせるよう相手である)投手の心理を理解させるため」「あれだけの強肩の持ち主。どんな球を放るか元捕手として純粋に興味がある」「下半身の使い方を覚えたら150km/hは出る」などと説明。しかし、慣れない傾斜のあるマウンドからの投球動作により左膝を痛めたため、挑戦は断念した。
高校時代は外野手であったが、1年秋・新人戦の準決勝、決勝ダブルヘッダーにおいて、エース投手の故障による代役として連続完投勝利を記録した。自身は「投手は好きではなかったし、コントロールもなくカーブなどの変化球が投げられなかった」と振り返る。当時の監督で新日本製鐵堺硬式野球部監督時代に野茂英雄を発掘した浜崎満重は、新庄を投手として育てなかった理由について「外野守備に天性のものがあった。加えて、性格的に常に一生懸命投げるから肘を壊しかねず、素直で相手打者に球種を読まれやすいかもしれない」と説明した[出 1]

打撃[編集]

全般
投球初球からでも積極的にスイングするため四球数は多くない。長年に渡り対戦したヤクルト・古田敦也捕手は新庄の打撃の特徴を「ヤマを張ってフルスイングするタイプ。腹をくくって打ってくる。そういう意味で嫌な打者」と評した[出 33]。特に阪神時代は成績不振と打撃コーチが頻繁に交代することも影響して、打撃フォームの試行錯誤を繰り返し、一枝修平ヘッドコーチからは「10人の新庄がいる」と評された。
比較的に直球を得意とし、変化球を苦手とする。高校時代に1番打者起用された理由は変化球への弱さにもある。日本ハム時代に右アンダースローのロッテ・渡辺俊介から安打できず、「フォームが崩れるから」と対戦を避ける傾向にあった。本人も変則投法に苦手意識を持っており、右サイドスローのロッテ・山崎健から本塁打した際には「ボク、下手投げ得意じゃないの打法!!」とコメントした。
2000年に年間自己最高28本塁打を打ち、そのうち「先制、同点、勝ち越し、逆転」の殊勲本塁打は20本。MLB通算の満塁時打率は.400(25打数10安打)で特に初年度は.583を残すなどクラッチヒッターであるとの声もあがった。日米通算満塁本塁打は9本、サヨナラ安打は9本(そのうち本塁打4本)である。
新庄の打撃に最も影響を与えたのは、プロ入り時の二軍打撃コーチで後に一軍でも指導を受けた柏原純一である。阪神時代のスランプに陥っていた時に[いつ?]は球団OB・川藤幸三から「来た球をカーンと打てばええんじゃ!」という単純な一言を受けて復調したことがある他、復調へのヒントを求めてコーチにではなく、グラウンド整備担当者などのスタッフや荒井修光専属広報(日本ハム時代)に対して自身の状態を尋ねることも多い[出 34]
構え
両手を伸ばしてバットを高く掲げ、呼吸をするように幾度か全身の背伸びを繰り返す。この待機の仕方は「ジャック打法」と呼ばれた(由来は童話ジャックと豆の木』)。この待機法は形を変え、時には行わず、MLB2年目頃まで続けた。MLB1年目には相手チームから「両手を上げた脇の下から捕手が出すサインを覗いているのではないか」という疑惑をかけられたこともあるが、以後も自己スタイルを貫くと自然と疑惑は消えていった。この待機法の全身が伸びきった状態を描いたイラストレーションを自身の個人マークとしてグッズなどに使用している。また、新庄をモノマネするタレントの神奈月は、演じる際に新庄の特徴としてジャック打法のポーズを強調する。
フォーム・スイング
基本的に一本足打法の時期が長い。阪神時代後期以降にすり足打法の時期もある。1998年秋季キャンプにて野村克也新監督から受けた質問「バッティングには右手(右打ちの新庄にとって送り側)と左手(引き側)のどちらが重要な意味を持つか?」に対して、左手だと考えると答えた(それに対して野村は両方とも大事であると指導)。
柏原コーチ指導のもとで年間本塁打・打点の自己最高を記録した2000年シーズン序盤、自身はそれまでバットスイングにおける最大の弱点とされたドアスイング(トップからインパクトにかけてバットヘッドが遠回りをして出てきてしまうスイング)について「昨年まではバットを棒のように使ってしまっていた」と表現した。他には「スイングスピード上昇を目指す」、「4月に負傷した左肩をかばってスイングしているうちに余分な力みが無くなった」、「バットヘッドの重みを使えて打てた」などと発言。スイング時にイメージするのは「バットをのように使って打つ」とのこと。本塁打時などの談話にてこういったセリフが出た際の打撃について、門田博光サンテレビの試合中継にて「スイング中ずっと同じ力で振るのではなく、インパクトの瞬間に最大の力を伝えている」と解説。同様に前述の広戸聡一は、新庄の打球に長飛距離が出る要因について「優れた上半身を生かしてのインパクトへの強い伝達能力」と分析する[出 29]
日本ハム時代、自身は右腕の筋力が左に比べ強くなりすぎたことを気にしていたが、白井一幸ヘッドコーチのアドバイスでアッパースイングでバットを振ることで打撃成績が向上している。
バント
セーフティーバントやセーフティー気味の犠牲バントを時折、4番打者の際にも記録した。2004年のオールスターゲーム第2戦では、1回表の先頭打者としてプレイボール前に左翼席を指差し予告ホームランのポーズをとったにもかかわらず、1球目でセーフティーバントを敢行した(全力疾走して結果はアウト)。スクイズプレイを試みた経験は日米通じて殆んどない。

走塁[編集]

ベースランニング
トップスピードが速く、1997年のある三塁打での、テレビ番組企画にて計測された打ってから三塁に到達するまでのタイムは11.03秒である。右打席でスイングが大きいため一塁までのタイムは4.4秒と平均を下回る[出 35]。高校時代の直線100m走タイムは11.7秒であった[出 36]
塁上の走者として外野へ飛球が上がった際、打球や相手外野手のポジショニングから安打になると判断すると、時にはギャンブルスタートとも解説されるような早いスタートを切る。
スライディング
1993年のオープン戦にて二塁盗塁時にヘッドスライディングを敢行し左肩を強打して重傷を負い、2000年4月にも同じく二盗時に敢行して左肩を強打負傷した苦い経験もあり、これを敢行する頻度は少ない。しかし、2004年のオールスターゲーム第2戦では球宴を盛り上げるためにと試みた本盗時に敢行している(#日本ハム時代参照)。
打者走者として一塁へ駆け込む際では珍しい、守備側選手との接触を回避するための足からのフットファーストスライディングを渡米時より稀に敢行。2001年6月17日、ニューヨーク・ヤンキース戦の決勝点へのチャンスを繋げる場面でこれを敢行した走塁は地元マスコミから「カミカゼ・スプリント」と報じられたが、この走塁中に故障を悪化させ当試合を最後に故障者リスト入りした。
盗塁
俊足ではあるが、盗塁数は阪神時代最終年である2000年の15盗塁が自己最多でキャリアを通して年間一桁台の年が殆んど。その理由には、首脳陣からの盗塁企図サインが少なかったこと、出塁率がそれほど高くなかったことなどが挙げられる。1998年秋期キャンプにて、野村新監督がそれまで敵将として感じていた走力に対しての盗塁数の少なさの理由を本人へ問うたところ、「盗塁には興味がない」と返答した。
その他
本塁打を打ったホームインの際に時折、手でベースへ触れるが、これはベースを土で汚さないためであり、球審から礼を言われたこともあるという。

評価[編集]

2011年12月9日、野球体育博物館「平成24年・第52回競技者表彰委員会・野球殿堂入り候補者名簿」のプレーヤー部門に掲載された。得票は5で翌年の名簿から外れた[出 37]
日本プロ野球選手会が2000年より毎シーズンオフに行っている「選手が選ぶ!ベストナイン・中堅手部門」アンケートで、2004年、2006年に選出された[出 38]
2010年のオールスターゲームに出場の「選手が選ぶ思い出のオールスター・ランキング」アンケートを中継局・テレビ朝日が行った結果、2004年に成功させたホームスチールが7票を集め1位に選出された。投票者は、井口資仁青木宣親前田健太、他4名。
北海道日本ハムファイターズ札幌ドーム内の球団事務所を2012年に大幅改修した際、1階会議室の3部屋それぞれの部屋名に「北海道に移転してからの球団の功労者」として、トレイ・ヒルマン、新庄、ダルビッシュ有(入団順。序列の有無は不明)の3人の姓の英語表記を使用した[出 39]

野球用具[編集]

※日本ハム時代の短期的に使用した用具(オールスターゲームで使用したもの、襟付きアンダーシャツなど)については「新庄劇場#野球用具関連」を参照。

アドバイザリースタッフ契約
※2002年、2003年のアシックス社はスパイクシューズのみの契約[出 40][注 14]。現役最終の2006年は特定の企業と契約しなかったが、ルイ・ヴィトン社から野球バッグ類の提供を受けた。
グラブ
  • メーカー不明:外野手用
プロ入りして初めての給料を使い7,500円で購入し、MLB時代にチームメイトに誤ってスパイクシューズで踏まれて大きく破損したことがあるなど4回の大補修を重ね、現役引退まで使用した。ひとつのものを長年使い続けるプロ外野手は稀であるが、これには父親からの「商売道具を大事にしろ」という教えが影響を及ぼしている。保管の際の湿気などにも気を配り、自身の「もうひとつの手」と称する拘りの代物で他人がはめることを許さなかった。引退会見では、前日の最後の試合でライナーを捕球した際に破けたりと、消耗度合いが限界まで達していると語った。2011年に父親が死去した際に、このグラブもに納めた。[出 16]
打球の手元での急変化に対応するため、ポケットが、土手、中央、ウェブ、ウェブ先端の4か所にあり、ウェブ先端部分からボールが半個分ほど外側に飛び出した状態でも捕球できるグラブであると語る[注 15]。使用時は手との固定のため、守備用手袋に松脂を塗布する。グラブ外側の親指部分に「 (TH) 63」(阪神球団マークと入団当初の背番号)と黒色で刺繍を入れたり、手首(甲側)の商標位置にオリジナルタグ(デザインは自身の個人マーク(#打撃を参照)と「Shinjo」の筆記体表記)を縫い付けていた時期もある。
高校時代は久保田スラッガー社製・外野手用を使用。特注品であり、同社へ送付した自筆の手紙に書かれている各パーツなどについての注文事項詳細がテレビ番組にて紹介された。受注した「日本屈指のグラブ作り・型付け名人」として知られる江頭重利は、あんなにも事細かな注文を受けたことは過去にないと語る。
バット
  • デサント社製:34.5インチ・930 - 940g(1993年) → 長さ不明・900g未満(1998年) → 33.5インチ・910g(1999年)
  • オールドヒッコリー社・ロックメープル[注 16]:34インチ・890g(2006年)
譲り受けたものも試合で時折使用し、2001年には全10本塁打中9本をジョー・マクユーイングプレストン・ウィルソンのもので打っている。打撃後に勢いよくバットを離すことがあるが、その理由はグリップに滑り止めの松脂を多量に塗っていて手が離れにくいからでもある。
バッティンググローブは主に両手にはめる。試合途中のテンションが上がった打席では、両手とも素手にする時がある。ダイレクトプロテクト[出 24]を使用し、同品が球界に普及する前の若手時は右手親指にスポンジを巻いていた。
エルボーガード
打撃時の投手側に向ける肘を死球から守るためのもので、1993年当時はまだ球界に普及しておらず、7月に死球を左肘に受け負傷したことをきっかけに、既存の爪先ガードを切り刻み改良し、即席で肘にフィットするものを球団トレーナーに作成してもらった。MLBで初めてエルボーガードが使用されはじめたのはこれより後年との報道(『日刊スポーツ』)もあり、現在では普及し重宝されるエルボーガードを早い時期から使用し始めている。また通常は打撃用であるが、外野守備時のダイビングキャッチに備え着用したことも幾度かある。
自打球対策のフットガード爪先からの中間位まで覆うもの)も時折着用する。
スパイクシューズ
阪神時代は主にアシックス社製のハイカットタイプを着用し、渡米以降は頻繁にモデルを変更した。
ユニフォーム
NPB時代はチームのユニフォームを製作しているデサント社と個人契約を結んでいるつながりもあり(日本ハム時代はビジター用が同社製(ホーム用はミズノ社製)であり、こちらは個人契約は結んでいない)、他の選手のものに比べて胸元部分が極端に深くV字型に開いていて、また袖部分は極端に短くタイトなものを特注していた。常に二の腕部分を曝け出すことで、肉付きが甘くなると鍛えなおすためと語る。
背中のアルファベット表記は、阪神時代は「SHINJYO」(この表記はローマ字表記ではヘボン式・訓令式いずれの表記法でも間違い)であったが、MLB移籍時に「Y」を抜いた「SHINJO」に変更し、日本ハムでは登録名にもして継続した。
阪神時代、1999年オールスターゲームホーム試合にて、ホーム用ユニフォームにビジター用帽子ヘルメットを組み合わせて出場した(当時のホーム用帽子・ヘルメットは縦縞柄で、ビジター用は黒一色。同試合で同僚の和田豊もヘルメットのみビジター用を着用)。翌2000年オフ、ビジター用ユニフォームが縦縞の無いタイプに変更された際には、球団より事前に新デザインへの意見を求められた。
アンダーシャツは基本的に、汗が首筋をたれ落ちるのを防ぐためのタートルネックで、夏場はノースリーブのものを着用。ノースリーブの製品が普及していない阪神時代初期には長袖製品の肩部分から袖を切り落としていて、タートルネックでノースリーブのものを着用した選手はNPBでは自身が最初であろうと語る[出 7]。日本ハム時代には首部分に自身の個人マークをプリントしたが、この類の個人マークを首部分にプリントしたのはNPB初である[出 41]
アンダーストッキングは阪神時代にズボンの穿きこなしとして裾とスパイク上部が数cmしか離れない穿き方が流行しはじめてからは、通常2枚穿く靴下類の代わりにサッカー用のものを着用。規則では禁止であるが、都合が良いと考えて初めて1枚のみの着用を始めたところ皆も始めだしたと語る。
リストバンド
  • デサント社製:赤色・20cm、15cm、10cm(1993年)
  • プーマ社製:チェッカーフラッグ柄(赤色×黒色、白色×黒色)・短いタイプ(2006年)
基本的に長いものを両手に着用し、短いものを二枚重ねにすることもある。NPB時代は基本的に自身のトレードカラーの赤色。MLBでも当初は赤色の着用を希望したが、MLBではチームカラー以外のものを身に付けることが認められないため、メッツのチームカラーの中からオレンジ色を着用(翌年の移籍先のジャイアンツもオレンジ色がチームカラーだったため3年間継続)。前述以外の色では阪神時代に、ツートンカラー(赤色×黒色)、紫色、黒色などを着用。

  • 1993年のデータ、エルボーガードについて:書籍『新庄剛志 PART2 (ベ-スボ-ルアルバム)』より
  • 1998年、1999年のバットデータ:『月刊タイガース』1999年3月号より

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1991 阪神 13 17 17 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 3 1 .118 .118 .118 .236
1992 95 378 353 39 98 16 3 11 153 46 5 2 3 0 18 0 4 73 11 .278 .320 .433 .753
1993 102 436 408 50 105 13 1 23 189 62 13 2 0 0 20 3 8 91 6 .257 .305 .463 .768
1994 122 506 466 54 117 23 7 17 205 68 7 5 2 2 30 0 6 93 9 .251 .304 .440 .744
1995 87 346 311 34 70 15 3 7 112 37 6 4 2 2 26 1 5 76 6 .225 .294 .360 .654
1996 113 473 408 55 97 16 4 19 178 66 2 2 1 3 55 6 6 106 10 .238 .335 .436 .771
1997 136 539 482 62 112 17 3 20 195 68 8 4 0 4 44 0 9 120 7 .232 .306 .405 .711
1998 132 451 414 39 92 21 3 6 137 27 1 2 4 2 25 4 6 65 4 .222 .275 .331 .606
1999 123 507 471 53 120 21 7 14 197 58 8 2 2 1 23 2 10 72 21 .255 .303 .418 .721
2000 131 549 511 71 142 23 1 28 251 85 15 6 3 2 32 7 1 93 10 .278 .321 .491 .812
2001 NYM 123 438 400 46 107 23 1 10 162 56 4 5 4 2 25 3 7 70 8 .268 .320 .405 .725
2002 SF 118 398 362 42 86 15 3 9 134 37 5 0 3 3 24 2 6 46 5 .238 .294 .370 .664
2003 NYM 62 124 114 10 22 3 0 1 28 7 0 1 2 1 6 1 1 12 0 .193 .238 .246 .483
2004 日本ハム 123 544 504 88 150 28 3 24 256 79 1 3 12 4 15 0 9 58 6 .298 .327 .508 .835
2005 108 406 380 54 91 20 1 20 173 57 5 1 5 2 14 1 5 64 6 .239 .274 .455 .729
2006 126 477 438 47 113 21 0 16 182 62 2 6 10 3 24 3 2 76 8 .258 .298 .416 .714
NPB:13年 1411 5629 5163 647 1309 234 36 205 2230 716 73 39 44 25 326 27 71 990 105 .254 .304 .432 .736
MLB:3年 303 960 876 98 215 41 4 20 324 100 9 6 9 6 55 6 14 128 13 .245 .299 .370 .668
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]

内野守備成績(ポジション別)




遊撃 三塁 二塁




































1991 阪神 8 6 10 3 2 .842 - -
1992 9 9 18 0 3 1.000 26 13 47 6 3 .909 -
1999 - - 1 0 1 0 0 1.000
2000 2 0 3 0 0 1.000 1 0 0 0 0 - 2 0 0 0 0 -
通算 19 15 31 3 5 .939 27 13 47 6 3 .909 3 0 1 0 0 1.000 
外野守備成績
















1992 阪神 65 127 8 1 1 .993
1993 102 236 13 6 1 .976
1994 120 289 4 1 0 .997
1995 87 206 5 3 3 .986
1996 111 248 6 4 1 .984
1997 135 276 13 6 1 .980
1998 124 268 12 4 5 .986
1999 121 247 8 3 2 .988
2000 129 251 8 3 3 .989
2001 NYM 119 256 12 3 3 .989
2002 SF 117 286 10 6 3 .980
2003 NYM 54 98 5 3 1 .972
2004 日本ハム 122 272 8 5 1 .982
2005 106 212 3 2 0 .991
2006 126 271 4 3 0 .989
NPB:12年 1348 2903 92 41 18 .986
MLB:3年 290 640 27 12 7 .982
  • 各年度の太字はリーグ外野手最高

表彰[編集]

NPB
  • ベストナイン:3回 (外野手部門:1993年、2000年、2004年)
  • ゴールデングラブ賞:10回 (外野手部門:1993年、1994年、1996年 - 2000年、2004年 - 2006年) ※受賞回数歴代3位タイ(2012年終了時点)
  • 月間MVP:2回 (野手部門:1999年5月、2004年9月)
  • JA全農Go・Go賞:6回 (好捕賞:1992年6月、1995年6月、2004年6月 最多二・三塁打賞:2004年8月 強肩賞:1997年9月、2004年9月) ※受賞回数歴代最多、2004年の3回は柴原洋と並び歴代年間最多(2012年終了時点)
  • 優秀JCB・MEP賞:3回 (1993年、1994年、2000年)
  • 札幌ドームMVP (野球部門:2004年)
  • オールスターゲームMVP:2回 (1999年第3戦、2004年第2戦)
  • オールスターゲーム優秀選手賞:3回 (1999年第2戦、2000年第3戦、2006年第1戦)
MLB
その他

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:1998年7月25日、対横浜ベイスターズ17回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に野村弘樹から左越ソロ ※史上196人目
  • 1000試合出場:2000年7月20日、対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、4番・中堅手として先発出場 ※史上362人目
  • 150本塁打:2004年4月21日、対西武ライオンズ8回戦(西武ドーム)、8回表に小野剛から左越ソロ ※史上134人目
  • 1000本安打:2004年5月30日、対西武ライオンズ11回戦(函館オーシャンスタジアム)、3回裏に張誌家から左前安打 ※史上219人目
  • 200本塁打:2006年6月16日、対広島東洋カープ4回戦(札幌ドーム)、2回裏に佐々岡真司から右越ソロ ※史上87人目
NPBその他記録
  • 外野手最多補殺:3回 (1993年:13、1997年:13、1998年:12) ※1993年、1998年は両リーグ外野手最多
  • 外野手最多刺殺:2回 (1994年:289、2004年:272) ※2004年は両リーグ外野手最多
  • 最多三塁打:2回 (1994年:7、1999年:7) ※1994年は両リーグ最多
  • 最多死球:2回 (1993年:8、1999年:10) ※1993年は両リーグ最多
  • 最多併殺打 (1999年:21) ※両リーグ最多
  • 16試合連続安打 (2000年9月7日・ヤクルト戦 - 9月30日・広島戦)
  • 7試合連続複数安打 (2004年8月15日・西武戦 - 8月24日・ロッテ戦)
  • 4試合連続本塁打:2回 (1996年4月13日・広島戦 - 4月17日・ヤクルト戦、2000年6月8日・巨人戦 - 6月13日・中日戦)
  • 1試合5安打 (2004年8月20日・近鉄戦)
  • ※チーム1イニング2満塁本塁打 (1996年10月9日・中日戦1回 1本目:新庄、2本目:塩谷和彦) ※史上初
  • 阪神球団歴代最年少先発4番打者 (1993年10月1日・中日戦:21歳8か月3日) ※2012年終了時点
  • オールスターゲーム出場:7回 (1994年、1997年、1999年、2000年、2004年 - 2006年) ※全てファン投票選出
    • ファン投票リーグ最多得票:2回 (1994年:434,906、1999年:915,773)
    • 単独本盗 (2004年第2戦) ※史上初(2012年終了時点唯一)、本盗(重盗でのものを含む)としては簑田浩二に次いで史上2人目
    • 2試合制シリーズ最多二塁打 (2004年:2) ※タイ記録(2012年終了時点)
    • 全セ・リーグ通算1000本目安打 (1999年第2戦)
  • 日米野球出場:2回 (1992年、2000年) ※2004年、2006年はファン投票選出されるも出場辞退
MLB
  • 新人外野手最多補殺 (2001年:12) ※両リーグ新人外野手最多、メッツ球団歴代新人外野手最多(達成時点)
  • 1試合5安打 (2002年7月2日・ロッキーズ戦)
  • オープン戦・リーグ最高打率 (2003年:.426) ※ナ・リーグ所属50打席以上[出 45]

日本人選手初記録

NPB・MLB通算節目の記録

背番号[編集]

  • 63 (1990年 - 1992年、2006年9月27日)
  • 5 (1993年 - 2003年)
  • 1 (2004年 - 2006年9月26日、2006年9月28日 - 2006年10月26日)

登録名[編集]

登場曲[編集]

阪神時代
日本ハム時代

関連情報[編集]

栄典・野球以外の表彰[編集]

栄典
ファッション関連

ファッション関連[編集]

ファッションショー出演
  • Tokyo Girls Collection 2006 Spring/Summer (2006年3月11日) - サプライズゲスト。
  • Tokyo Girls Collection 2007 Autumn/Winter (2007年9月2日) - ゲストMC。
ファッション誌出演
表彰

#栄典・野球以外の表彰を参照。

個展[編集]

絵画展(エアブラシアート)

馬主成績[編集]

タノシンジョイ号 30戦4勝 二着:3回 三着:5回 着外:18回 (2012年11月2日現在[出 47]

品種:サラブレッド 性別: 毛色:鹿毛
生誕:2007年4月2日 父:ダイタクバートラム 母:ウイルタイムオン 母の父:アスワン
生国:日本(北海道野付郡別海町) 生産者:野付ライディングファーム 調教師:岡林光浩船橋競馬場

音楽[編集]

CDシングル

映画[編集]

エグゼクティブプロデューサー担当

メディア出演[編集]

テレビ番組[編集]

他多数

CM[編集]

1994年
(阪神時代)
2001年
2003年
2004年
2005年
2006年
  • ダイドードリンコD-1 COFFEE」 ( - 2007年)
    • 「香料がいらない篇」
    • 「ドイツ語篇」
    • 「ダイナミック篇」
    • 「無香料時代篇」
    • 「本物の豆の香り篇」
    • 「じゃあ言わない篇」
    • 「豆だ篇」 (2007年3月 - )
    • 「バンバンバン篇」 (2007年3月 - )
    • 「もう1本篇」 (2007年3月 - )
    • 「動体視力篇」 (2007年3月 - )
    • 「たすきをチェック篇」 (2007年3月 - WEB限定)
    • 「カップテスト篇」 (2007年3月 - WEB限定)
    • 「タンクチェック篇」 (2007年3月 - WEB限定)
    • 「標語を掲示篇」 (2007年4月 - )
    • 「豆の品質をチェック篇」 (2007年4月 - ) 他
  • 日本特殊陶業「NGKイリジウムプラグ」 ( - 2007年)
  • ジレット
2007年
2010年
2011年

著書[編集]

単著
  • 『ドリーミングベイビー』 (光文社 2001年4月 ISBN-13: 978-4334972974) - エッセイ
  • 『shinjyo5.net』 (二見書房 2001年6月 ISBN-13: 978-4576010540)
共著
  • 『タイガース中毒読本―1992年ハラハラドキドキの舞台裏』 亀山努、新庄剛志、中込伸ワニブックス 1992年10月 ISBN-13: 978-4847011665)

関連書籍[編集]

  • 『タイガースの革命児―中込伸・亀山努・新庄剛志写真集』 (ソニー・マガジンズ 1992年12月)
  • 『新庄剛志 (ベースボールアルバムNO.115)』 (ベースボール・マガジン社 1992年12月)
  • 『振り抜け剛志!!―阪神タイガース新庄剛志選手物語』 はやし勝、春樹椋尾、福まさる (星雲社 1993年4月)
  • 『新庄剛志PART2 (ベースボールアルバムNO.116)』 (ベースボール・マガジン社 1993年8月)
  • 『新庄剛志 星を掴む男―新・猛虎伝説ミスタータイガースへの道』 立木義浩ビクター音楽産業第2 1993年9月)
  • 『新庄剛志写真集 (Gakken Mook)』 (学習研究社 1994年4月)
  • 『新庄くんは、アホじゃない!』 中田潤飛鳥新社 2001年4月)
  • 『大リーガー新庄剛志』 高部務 (ラインブックス 2001年5月)
  • 『新庄のお父さん、新庄のお母さん』 新庄剛志ウォッチャ-ズ (主婦と生活社 2001年7月)
  • 『新庄語録―メジャーリーグ“ニューヨーク・メッツ”新庄剛志』 目津幸太郎 (近代映画社 2002年1月)
  • 『新庄に学ぶ「楽観」の哲学』 三洲田泰雅 (廣済堂出版 2002年1月)
  • 『大リーガー「新庄剛志」の育て方―子育ては“木育て”』 新庄英敏 (ゴマブックス 2002年5月)
  • 『SHINJO』 ジョン・シェイ (朝日新聞社 2003年1月)
  • 『夢のとなりで―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記』 小島克典メディアート出版 2004年3月)
  • 『元・阪神―そして、ミスタータイガースは去った―』 中田潤、矢崎良一、橋本清、池田浩明、高橋安幸 (竹書房 2004年5月)
  • 『こんなぼくでも英語がしゃべれた』 小島克典 (三笠書房 2005年1月)
  • 『新庄の信条―バカカッコいい男の真実』 宮崎満教、新庄剛志特別取材班 (東邦出版 2006年7月)
  • 『新庄のコトバ』 中田潤 (講談社 2006年9月)
  • 『Thank you to all people 新庄剛志―すべての人に (日刊スポーツグラフ)』 (日刊スポーツ出版社 2006年10月)
  • 『新庄のやり方50―人生・仕事に役立つ「SHINJO流」哲学』 三洲田泰雅、覇夢付愛太 (廣済堂出版 2006年12月)
  • 『SHINJO 夢をありがとう―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記・北海道観戦記』 小島克典 (廣済堂出版 2007年3月)
  • 阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝 選手編(13) 世界のSHINJYO 新庄剛志』 (講談社 2009年11月) - 分冊百科

関連VHS・DVD[編集]

VHS
DVD

出典・脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 月刊タイガース
  2. ^ a b 『新庄剛志PART2 (ベ-スボ-ルアルバムNO.116)』 (ベ-スボ-ル・マガジン社 1993年8月)より
  3. ^ a b 『大リーガー「新庄剛志」の育て方―子育ては“木育て”』新庄英敏(ゴマブックス 2002年5月)
  4. ^ a b c TBS『ZONE「新庄剛志―その恐るべきポテンシャル」』より
  5. ^ 2009年5月17日放送『Music Lovers』にて発言。
  6. ^ a b 引退発言から一転、おわび会見 - ニッカンスポーツ、1995年12月6日、2010年2月18日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h 『ドリーミングベイビー』新庄剛志(光文社 2001年4月)
  8. ^ 『元・阪神―そして、ミスタータイガースは去った―』(竹書房 2004年5月)
  9. ^ 2004年12月19日放送・日本テレビ『いつみても波瀾万丈』より。
  10. ^ 全米を酔わせるスーパープレー 新庄は“サムシング”を持っている(後編) - sportsnavi.com
  11. ^ a b 日本ハム・ヒルマン監督「2人だけの誓い」 - nikkansports.com
  12. ^ メジャーでも記録なし!魅せた新庄のヘッドスライディング - スポニチ Sponichi Annex
  13. ^ a b c 【9月20日】2004年(平16) ビッグスターの証!?新庄もやった幻の本塁打”. スポーツニッポン (2007年9月20日). 2012年9月8日閲覧。
  14. ^ 幻の満塁弾 走者と抱き合って… - Doshin web
  15. ^ 新庄氏「打ったらヒーロー」/一問一答 - nikkansports.com、後述のテレビ番組『世界の強運実話!もってる人グランプリ』など。
  16. ^ a b 新庄氏、父の棺に“相棒”グラブ
  17. ^ 大混乱必至!?DeNA社なら横浜“新庄監督” - SANSPO.COM
  18. ^ 成田亮オフィシャルブログ NLOG
  19. ^ Sports Graphic Number』1999年7月15日号、32頁
  20. ^ 2011年5月28日放送・TBS『バース・デイ』にて。
  21. ^ 44年ぶりV!新庄泣きっぱなし nikkansports.com
  22. ^ 甲子園出場の母校にバス差し入れ - ニッカンスポーツ、2004年8月10日、2010年2月15日閲覧。
  23. ^ オリックス中村監督「幸せを祈ります」ロッテ・バレンタイン監督「球界の救世主に」 - nikkansports.com
  24. ^ a b nikkansports.com ダイレクトプロテクト(写真):送り側の手の親指にはめる用品。インパクト時の痺れ緩和などを目的とする。
  25. ^ グラブも言った「無理だ」nikkansports.com
  26. ^ SHINJO&ブラッカイマーがLAで共同会見。「デジャヴ」など3作品をPR
  27. ^ 2012年4月26日放送・TBS『ジョブチューン アノ職業のヒミツぶっちゃけます!3』
  28. ^ a b 初のサヨナラ補殺決める - ニッカンスポーツ、2003年5月25日、2010年2月17日閲覧。
  29. ^ a b c d e 2006年4月13日放送・テレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』でのトークより
  30. ^ a b 本西厚博が『週刊ベースボール』にてなど。
  31. ^ プロ野球ニュース19XX』補殺特集より
  32. ^ 日本ハム内野陣が「自然に」新庄ポーズ
  33. ^ ヤクルト古田兼任監督「新庄はすごい人」
  34. ^ 200号空砲も2カ月ぶりコメントで喜び表す
  35. ^ スカウティング・レポート 『月刊スラッガー』2001年11月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、36-41頁。
  36. ^ 新庄、初のサヨナラ打放つも冷静 nikkansports.com
  37. ^ 平成24年 野球殿堂入り発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
  38. ^ ファンページ - 日本プロ野球選手会公式ホームページ
  39. ^ 新庄、ヒルマンもある 改修の日本ハム球団事務所に“ダル部屋”完成! - スポニチ Sponichi Annex
  40. ^ 2004年プレスリリース
  41. ^ 週刊ベースボール』2008年5月26日号掲載「綱島理友のベースボール意匠学」より。
  42. ^ 協会より。※公式サイト・日本プロスポーツ大賞では功労賞の2006年以前分は閲覧不可のため。
  43. ^ スポーツナビ・アワード2006 - sportsnavi.com※ワイズ・スポーツ主催(スポーツナビ・アワード2006より)
  44. ^ アクアピースゴールデンハート賞※アクアピースネットワーク主催
  45. ^ [1] - nikkansports.com
  46. ^ 米男性ファッション誌「GQ」でモデルデビュー - ニッカンスポーツ、2001年03月23日付 紙面から。
  47. ^ タノシンジョイ 競走馬データ - netkeiba.com
  48. ^ 『僕たちのプレイボール』作品紹介-MOVIE Collection

脚注[編集]

  1. ^ 二軍選手の中から各球団2名ずつ。阪神からは嶋尾康史と共に選出。
  2. ^ 友好自治体協議会。国内の「新庄」と名のつく市町村(山形県新庄市、奈良県新庄町、岡山県新庄村)がタイガース新庄人気にあやかって村おこしの一環として創設。
  3. ^ 1995年当時は日本プロ野球を引退すればMLBへの挑戦が出来る制度。自由契約になる必要はなく任意引退でよかった。この年よりMLBへ移籍していた野茂英雄が前年にこれを明らかにし、その後には伊良部秀輝の事例が続き、MLB側からも球団間での選手獲得機会均等を実現する制度の要求があり、新制度であるポスティングシステムができることになる。
  4. ^ 1992年に一軍で初めて中堅守備に就いた当球場では翌2000年の広島戦でも同様のゴロ打球後逸の失策を犯しており、1999年、2000年の全6失策の内訳で送球失策もある中、1年に1試合のみの当球場で2年連続して後逸失策を記録した。
  5. ^ 2004年からの日本ハム時代の指揮官トレイ・ヒルマンの通訳も、2003年より担当した。
  6. ^ a b MLBでは、そのチームで最高の打者を、4番ではなく3番に置くことが多い。
  7. ^ a b 通称「新人ベストナイン」。各リーグごとからではなく両リーグを統一して、新人扱い選手を対象に各球団監督の投票で選出される。
  8. ^ 規定によりNPBでの最終年(2000年)の金額に準じて決定された。
  9. ^ 尚、シーズン終了後に球団の三沢今朝治統括本部長はこのサヨナラ安打の査定をサヨナラ満塁本塁打と同様に行うと発表。
  10. ^ 同音同字で山形県新庄市の民謡がある。
  11. ^ それまで同番をつけていた阿久根鋼吉へ自身で即座に電話を入れ譲渡の了承を得た。
  12. ^ 2004年からの新庄のパ・リーグ移籍が各界にもたらした効果
  13. ^ このためか、水島新司の漫画では本職の外野手よりも内野手として出場していることが多い。NPB復帰直後に発売された『パワプロクンポケット1・2』ではメイン守備は外野になっているがサブポジションで遊撃も守れる仕様になっていた。
  14. ^ デサント社はスパイクシューズを製造していないため。
  15. ^ 2006年4月13日放送・テレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』で本人談。現役時の同番組では、冗談交じりながら「もし盗まれたら引退する」と語った。ウェブ先端部分からボールが出た状態での捕球については、阪神時代に広島市民球場で本塁打性打球を捕球した時など、幾度かその映像が中継されている。
  16. ^ メーカー名からヒッコリー製であると思われがちだが、社名の由来は本社がテネシー州グッドレッツヴィルにあるオールドヒッコリー (Old Hickory) という湖のほとりに立つからである。
  17. ^ オープン戦MVP
  18. ^ ニューヨーク・メッツのオープン戦新人賞
  19. ^ これより過去に外国人選手の姓名のイニシャル表記の例がある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]