新庄剛志
サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | 福岡県福岡市南区 |
| 生年月日 | 1972年1月28日(40歳) |
| 身長 体重 |
182cm 76kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 中堅手 |
| プロ入り | 1989年 ドラフト5位 |
| 初出場 | NPB / 1991年9月10日 MLB / 2001年4月3日 |
| 最終出場 | MLB / 2003年6月27日 NPB / 2006年10月26日(日本シリーズ第5戦) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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| しんじょう つよし 新庄 剛志 |
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| 本名 | 同じ |
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| 別名 | SHINJO |
| 生年月日 | 1972年1月28日(40歳) |
| 出生地 | |
| 血液型 | A型 |
| 活動期間 | (野球関連)1990年 - (芸能関連)2007年 - |
| 活動内容 | タレント、元プロ野球選手 |
| 公式サイト | LHSF_COLONY |
| 備考 | |
| 元プロ野球選手(阪神、MLB、日本ハム) | |
新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年(昭和47年)1月28日 - )は長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手(外野手)。引退後は、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家等)、地方競馬馬主。愛称は「プリンス」他。北海道日本ハムファイターズ時代の登録名は「SHINJO」。元妻はタレントの大河内志保。紺綬褒章受章(2007年(平成19年))。
1990年(平成2年)より阪神タイガースでプレーした後、2001年よりアメリカ・メジャーリーグベースボールでプレー。サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した2002年にはリーグ優勝を経験して、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場した。2004年には北海道日本ハムファイターズに入団し、2006年(平成18年)にチームの25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一を経験した後、引退した。
個人事務所・(株)剛ゴーエンタープライズに所属した2001年から2009年はアワーソングスクリエイティブ(ケイダッシュグループ)と業務提携してタレント活動等を行っていた。2008年に(株)レハサフを設立して取締役に就任。新語・流行語大賞にノミネートされた「新庄節[注 1]」(2004年)、「SHINJO」「新庄劇場」(2006年)らの語は当人が由来である。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 幼少時代
- 福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として、長崎県の母親の実家で生誕。生後10か月で歩きだしたという。幼少のころから重い石碑等を持つ作業をしていたことから、体型に似合わず怪力であった[出 1]。小学生時代に8回も交通事故に遭っているが、幸い大きな怪我を負う事はなかった。しかし、中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負ったことがあり[出 2]、自身はこれがもし右手だったら間違いなくプロ野球選手にはなれなかったであろうと語っている。小学1・2年時にはサッカーを町内チームでやっていた。後に野球にのめりこんでいったきっかけは、どんなスポーツでもすぐに一番になってしまってつまらなかったが、野球だけは一番になれずその奥深さを感じたからである[要出典]。
- 新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、新庄には将来何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。足の速さと肩の強さは幼い頃から身についており、6歳の時にはすでに大人よりも遠くまで石を投げられるほどだった。父親が野球を教え始めたのもこの頃である。日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂の上まで走らせていた。彼は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。また、小学生の時から家に帰ってきてひとり黙々と何時間もかけて腕立てなどの基礎トレーニングをするなど、人前では決して努力しているところを見せない子供だった。
- 小学3年時から始めたソフトボールでは、6年時の町内対抗大会にてサヨナラ負けの際の判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見た事がないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから少年野球チーム(軟式)を創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も行い「長丘ファイターズ」というチームが誕生した[出 1]。キャプテンでエースで4番打者の新庄は走・攻・守ともズバ抜けていて、目立ちたがり屋でノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語るほどであった。猛練習の甲斐あり、ファイターズは結成わずか1か月余りで福岡県大会64チーム中3位入賞を成しとげた。
- 福岡市立長丘中学校時代には軟式野球部に所属した。当時の監督も新庄の走力・肩力はケタ外れと小学生時代から認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時の全国中学校軟式野球大会ベンチ入りメンバーから外した。大会から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている。
[編集] 高校時代
- 1987年、高校は父親からの薦めもあり、西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し寮生活を送った。硬式野球部には2学年先輩として、後にプロ野球選手となる石貫宏臣・柴原浩が在籍。2学年後輩としては、後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大が在籍していた。高校時代は中堅手であった。
- 3年時の1989年、1番中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)でサヨナラ安打を記録。決勝の福岡大大濠戦(久留米)ではサイクル安打を達成するもチームは敗れ甲子園出場を逃す。高校時代に全国大会出場はできなかった。
- 同年秋のドラフト会議では阪神タイガースから5位指名を受ける。この際の能力評価は横溝桂スカウトによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であった。横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである[出 3]。担当の渡辺省三スカウトは、新庄の気持ちが前へ出る性格も評価していたという。球団としては当初、上位指名を投手中心と決めていため、他球団から上位指名されるとふんだ新庄の指名をほぼ諦めていた。このため、11球団スカウトが新庄家を事前に訪問した中で、阪神は比較的簡略に挨拶を済ませていて、しかも本人と父親は留守であった。新庄は阪神から指名されるとは予想しておらず、指名順位の低さにも不服で、しばらくプロ入りを迷っていたが、父親に「お前が行けなかった甲子園でプレーできるだろう」と助言を受けたことにより決意して入団。背番号は「63」に決まった。新庄はそれまで巨人ファンだったという[出 4]。
[編集] 阪神時代
- 1991年も9月初旬まで二軍で過ごした後、一軍の低迷するチーム状況のもと中村勝広監督など首脳陣に見いだされ初の一軍昇格を果たす。9月10日、東京ドームでの読売ジャイアンツ戦にて代打として初出場。香田勲男投手から初打席初安打初打点を記録した。9月16日には7番遊撃として初スタメン出場。
[編集] 亀新フィーバー
※ 詳細は「亀新フィーバー」を参照。
- 1992年
- 3月に欧州にて開催が予定された、バルセロナオリンピック出場国壮行試合でキューバと対戦する遠征チームメンバー[注 2]に選抜されるも、事前に相手方の都合で遠征中止となる。シーズン開幕は二軍スタートとなり、40人枠(当時)から外れるも4月下旬に故障者と入れ替えで入った。5月に一軍の主砲で三塁手のトーマス・オマリーが故障離脱したのと入れ替えで、急遽の三塁守備練習後に昇格した。5月26日横浜大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)にて7番三塁でこの年の初出場。有働克也投手から第1打席の初球を左翼へプロ初本塁打。この本塁打の鮮烈な印象と、2日後に初代「ミスタータイガース」と称された藤村富美男が亡くなったことも重なり、新庄が次代のタイガースの担い手となることを期待するマスコミの記事が出始めた。この後、守備は遊撃手を経て中堅手に定着(#守備を参照)して、打順は主に5 - 7番で起用された。9月16日広島東洋カープ戦(甲子園)の両チーム無得点8回表二死満塁の守備で、山崎隆造の右中間への打球を中堅から走り込みダイビングキャッチしてピンチを防ぎ、そのまま両チーム無得点でむかえた9回裏には大野豊投手からプロ初サヨナラ安打となる本塁打を放つ。試合後のヒーローインタビューでは「優勝です!」と宣言した。
- この年、前年まで低迷していたチームは優勝争いをし、最終順位は2位となった。この際、亀山努らと共に活躍したことから「亀新フィーバー」と呼ばれ、新庄の行く先々や入寮していた球団寮・虎風荘に連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道された。規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に僅かに及ばず次点となる。11月の日米野球に初出場してロジャー・クレメンス投手などと対戦するも無安打に終わった。翌1993年契約の昇給率は前年比323%増であり、この昇給率は2007年→2008年桜井広大に346%で抜かれるまで球団過去最高であった。
- 1993年
- この年より背番号を「5」に変更。打席時応援歌も北村照文・金森永時と背番号5の外野手に引き継がれている曲に変更され退団まで使用された。2月下旬のオープン戦でヘッドスライディングをした際に左肩を故障。シーズン初出場は5月中旬となり、中堅手として2番と7番以降を除く打順で起用された。10月1日、甲子園での中日ドラゴンズ戦にて初の4番スタメン出場。4打数2安打を記録。21歳8か月3日での4番スタメン出場は阪神球団最年少記録である(2011年シーズン終了時点)。この年初めて規定打席に到達してベストナイン・ゴールデングラブ賞を初受賞。
- 1994年
- 1番中堅で開幕して6番・7番・3番で起用された。自身の後援会[注 3]発足記念の「新庄ナイター」となった5月13日ヤクルトスワローズ戦(甲子園)で高津臣吾投手から自身初となるサヨナラ満塁本塁打を記録する。7月のオールスターゲームにファン投票セントラル・リーグ最多得票で初選出され、第1戦(西武ライオンズ球場)にて代走で初出場し、球宴初盗塁を記録。ゴールデングラブ賞受賞。
- 1995年
- 中村勝広監督が途中休養となり藤田平代行となる中、主に6番・7番中堅で起用された。6月20日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)にて、1点差を追う9回表の先頭打者として佐々木主浩投手から放った左翼フェンス最上部付近への飛球が、観客により振られている応援旗(新庄の名前入り)に包まれるかたちで当たり、ボールは地面に落下。この時点でボールデッドとして二塁打と判定された。妨害がなければスタンドインしていたかどうかは微妙であるが、阪神側の抗議後に審判からの場内説明がなされると、左翼席からは多量のメガホンやごみ、太鼓、ごみ箱などが投げ込まれグランドへの侵入者もでる事態となり、横浜ナインは一旦ベンチへ引きあげた。中断後、試合は結局そのまま敗れた。この件について自身は2年後、松村邦洋からのテレビ取材にて「一生懸命応援してくれているので仕方ないですよ」と語った。この年は故障もあり規定打席に到達できず。
- 引退騒動
- シーズンオフの11月19日の契約更改交渉後会見にて「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の引退宣言。藤田平・新監督との確執が噂されたが、21日に発言を撤回した[出 5]。引退希望の理由は、当時右肘や右足を痛めていて自身は治療に専念しようとしていたが、藤田監督により四国黒潮リーグへ出場させられたことや、慕っている柏原純一打撃コーチの退団により球団への不信感を募らせ、横浜ベイスターズへのトレードを志願するも拒否されたことなどであると報じられた。自身は自著[出 6]にて、シーズン中に足首の故障で二軍落ちしていたある日、(新庄は故障状態の悪さから判断して、練習開始時間に合わせグラウンドへではなくトレーナー室へ行ったことで、当時二軍監督であった藤田から遅刻であると咎められた際に)正座の罰を受けた件をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていったことを告白。加えて、どうせ辞めるのなら人のせいにはしたくないとの考えから、発表する理由を「センスがない」にすれば、打撃成績も悪かったのである程度は納得してもらえると思ったと記している。しかし、引退発言後に新庄の父親の病気が悪化(後述)し、「ユニフォームを着ている姿を見せるのがオヤジへの一番の薬だと思ったんです。自分の人生どうこうじゃなく、命にはかえられませんから。今日はサインするつもりでした」と父を勇気づけるために現役続行を決断した[出 5]。この一件には異説もあり、ある書籍[出 7]では、退団騒動は一部スポーツ紙による誇張記事が発端で、藤田監督との関係もそれほど悪くなかったと記述されているが、新庄の父親の著書[出 2]においても藤田監督との確執から一連の出来事が起こったと証言されている。父親は同書にて「妻が息子の引退を思いとどまらせるために、自分(父親)の体調不良を実際より深刻に伝え、一芝居打ったようだ」と告白している。後年、引退を希望した他の理由として「1995年の騒動は、引退して野茂さんのように大リーグに挑戦したい気持ちもあったことから起きた」[注 4]と取材にて告白したが、取材時にはすでにポスティングシステムが確立されていたこともあってか、新庄のジョークの一つと受け取られて大きく報道されることはなかった。
- 1996年
- 開幕より5月下旬まで1番中堅、9月上旬までは主に6番・7番。その後、藤田監督が途中休養に入り、柴田猛代行から4番で起用された。10月9日、シーズン最終戦となった甲子園での中日戦の1回に金森隆浩投手から満塁本塁打を放つ。同イニングに塩谷和彦も同じく金森から満塁本塁打を放ち、1イニングに2満塁本塁打というNPB史上初の珍記録を残した。ゴールデングラブ賞受賞。シーズンオフにはハワイ・ウィンターリーグに参加してヒロ・スターズでプレーした。監督は後に北海道日本ハムファイターズで再び上司となるトレイ・ヒルマンであり、同僚には後にニューヨーク・メッツ(2001年)で再び同僚となるベニー・アグバヤニがいた。ヒルマンは日本ハムが新庄を獲得した際に、スターズ時代の新庄について記憶はないと語ったが、アグバヤニは再会時に新庄の当時の体格や髪の色も覚えていたと語っている。
- 1997年
- 吉田義男新監督のもと5月下旬まで3番中堅、その後は1番・7番・6番・5番と起用され、初のシーズン全試合出場を果たした。7月に打率2割1分台と低迷していたにもかかわらずオールスターゲームにファン投票2位選出され出場。第1戦(大阪ドーム)でセ・リーグ応援団による集団応援ボイコットとスタンドからの「新庄帰れ」コールが続発し、ペットボトルが新庄に投げ付けられた。横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」とのメッセージが書かれた。この件については後の引退会見にて「あれはもう、耐えられなかった」と語っている。この年は打撃不振により、シーズン中にも応援ボイコットが行われた。ゴールデングラブ賞受賞。
- 1998年
- 6番中堅で開幕して7番・8番など主に下位で起用された。10月8日に甲子園で横浜がリーグ優勝を決めた試合では、最終回二死から佐々木主浩投手の前に空振り三振に倒れ、最後の打者となる。この年は極度の打撃不振に陥り、シーズン打率、本塁打、打点と規定打席到達シーズンではキャリア最低の成績に終わった。ゴールデングラブ賞受賞。秋期キャンプから野村克也新監督の発案により、外野手との兼務(二刀流)を目指して投手練習を開始する(#投手挑戦を参照)。
- 1999年
- 3月5日オープン戦(対巨人・藤崎台県営野球場)で投手として初登板し、リリーフの1イニングを三者凡退に抑えた。その後も数試合登板するが、慣れない傾斜のあるマウンドからの投球動作により左膝を痛めたため、投手挑戦は断念した。この故障によりシーズン初出場は4月中旬となった。3番中堅で多く起用されたが、4番・6番・8番など打順の変動が激しかった。
- 5月27日、首位攻防の中日戦(富山市民球場アルペンスタジアム)1回の攻撃で無死一二塁から三塁ゴロを放ち三重殺となり、阪神劣勢での3回の守備では満塁から立浪和義の中前安打を後逸し走者一掃で追加3得点を与える失策[注 5]を犯した。7点を追う6回の攻撃でサムソン・リー投手からチーム初得点となる2点本塁打を放ち阪神の反撃が始まり、8回には内野安打で得点に絡んだ。6-7と1点差まで追い上げた最終回二死一塁の場面では宣銅烈投手から9球粘って中前安打してチャンスを広げるも結局チームは敗れた。「僕のせいで負けた」と語り、良くも悪くも目立ったこの試合は数週間後に敬遠球をサヨナラ安打した試合(後述)と合わせ「新庄デー」などと報道され、当時の新庄の代表的エピソードとして取り上げられた。
- 敬遠球をサヨナラ安打
- 6月12日巨人戦(甲子園)12回裏の攻撃で槙原寛己投手から敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。1球目の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同じような投球を三遊間を抜いて左翼前へ転がした。「遊撃手が二塁ベース上に守っていたのを見て、三遊間に転がせば抜けると確信した。甘い球が来るように打席の後方に立ち、打つ際にいつもの足のところに踏み出した」という。巨人側から、打つ際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており公認野球規則違反ではないかと抗議があったが、球審の田中俊幸は「はみ出した足が打席ラインの一部分にでも掛かっていれば規則違反にならない」とこれを退けた。幾つかのテレビ番組で自身は柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)と事前に敬遠球を打つ練習をしていたと語っている。この練習に関しては「実行3日前の広島戦で敬遠された際に、バットを出せば届くのではないかと感じ尻無浜啓造打撃投手に依頼して大きく外された投球を打つ練習を行っていた」と実行後に報道された。また、実行前の日付のスポーツ新聞でも彼が打撃練習で大きく外された投球を打っている写真が掲載されている。さらに自身はテレビ番組[出 8]で「予め柏原コーチを通して野村監督に敬遠球打ちの許可をとっていて、状況により実行許可の場合はGOサインを出してもらえる様に打合せていた。そして(延長12回裏同点一死二塁の前打者3番今岡誠の打席中にバッテリーミスが起こり、走者坪井智哉が三塁進塁したため今岡・新庄共に敬遠されることが予想された際に)柏原コーチが野村監督に許可をとり、新庄の1球目の見逃し後にGOサインが出された。その時の柏原が出したサインが打ち合わせていたものよりオーバーアクションだったため、相手チームにばれないかと焦った」と振り返っている。野村監督をして「アイツは宇宙人」と言わしめたプレーであるが、後年のテレビ番組で野村は、敬遠球打ちの許可を出す際にそれが対戦相手に対しての野球モラルに反さないか迷ったと語っている。この試合では、ほかにも8回裏の攻撃で木村龍治投手から9球目のシュートを左翼に同点ソロ本塁打するなど6打数4安打2打点を挙げた。12回表の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった関係で初の二塁守備に就き、清原和博のゴロ打球を補殺。この際グラブは同僚の平尾博司のものを借用した。試合後のヒーローインタビューでは、最後の質問に対して「明日も勝つ!」と宣言し、そのままお立ち台を離れ自らインタビューを締めた。しかし翌6月13日の同じく巨人戦でチームは敗戦。自身も前夜から一転して上原浩治投手から3打席連続三振を喫するなど5打数無安打に終わった。自身は敬遠球を打つのは一度きりと決めていたと語ったにもかかわらず、この日の試合前打撃練習でも大きく外された投球を打つ練習をしていたと報道されている。以降しばらくの間、彼を敬遠する際には相手捕手が投手に対して投球前ごとに大きく外すようジェスチャーを送る姿が見られた。また日本ハム移籍後に古巣の阪神と交流戦で対戦して敬遠される際、相手捕手の元同僚・矢野輝弘に「打ってもいいですか」と聞いて「いやいや」と遠慮を願われたエピソードが報道されている。
- 7月のオールスターゲーム第2戦(甲子園)にて黒木知宏投手から記録した自身球宴初安打が全セ・リーグ1000本目安打となった。第3戦・2リーグ制発足50周年記念試合(倉敷マスカットスタジアム)では岩本勉投手から球宴初本塁打を記録して、初のMVPを獲得。9月10日の巨人戦(甲子園)で決勝本塁打を放ち、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と宣言するも、今度は翌日から球団タイ記録の12連敗を喫した。この年はチームに復帰した恩師である柏原打撃コーチ指導のもとで、打撃成績は前年の低迷から持ち直した。併殺打を5月後半まで記録せず、シーズン初は珍しい三重殺(前述)であった。しかしシーズン併殺打数は21と終わってみれば両リーグ最多を記録した。ゴールデングラブ賞受賞。
- 2000年
- 自身初の開幕戦4番スタメン出場を果たし、序盤に故障離脱もあったがシーズンを通してほぼ4番中堅で起用された。5月に月間MVPを初受賞。7月20日、甲子園での巨人戦で通算1000試合出場を達成。9月30日、甲子園での広島戦で9回裏に紀藤真琴から右翼席へ阪神時代最後の本塁打となるサヨナラ本塁打を放った。この年はシーズン本塁打・打点とキャリア最高の成績を残す。本塁打においては「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲本塁打が20本(全28本中)と目立ち、シーズン前半には「殊勲本塁打は現在で両リーグ最多」と『日刊スポーツ』が特集記事を載せた。11月の日米野球に出場して20打数以上で打率.409を記録した。ベストナイン受賞、ゴールデングラブ賞を初の外野手部門最多得票にて受賞。
- 8月に初取得したフリーエージェント(FA)権をシーズンオフに行使してFA宣言。ヤクルトスワローズ、横浜ベイスターズとの交渉が報道された。阪神球団が当年の好成績の評価と、人気選手の放出を引き止めようとして提示した条件は5年12億円(推定)であったが、メジャーリーグベースボール(以下MLB)のニューヨーク・メッツへ推定年俸2200万円で移籍。交渉事実及び過程は球団側の都合でメディアへ隠されていた。シアトル・マリナーズへ移籍するイチロー外野手と共に、翌2001年より日本人野手(投手以外)としては初めてMLBへ挑戦することとなった。12月19日の移籍発表記者会見では「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団はニューヨーク・メッツです」と発言。背番号は阪神時代と同じ「5」に決まった。12月27日、タレントの大河内志保と入籍。このとき1992年から結婚までの8年間、大河内と同棲していたことを公表した。
[編集] MLB時代
※この節の日付は現地時間。
- 2001年
- この年の通訳をメッツ職員・岩本賢一[注 6]が担当。シーズン序盤はスタメン落ちも目立ったが、実績とともに次第にレギュラー扱いされていった。打順は7番・6番・1番・3番・4番など様々で、守備でもこの年はキャリア唯一で中堅に固定起用されず、左翼46試合・中堅53試合・右翼39試合と外野を万遍なく守った。
- 4月3日の開幕アトランタ・ブレーブス戦(ターナー・フィールド)8回表の代走でMLB初出場。一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁に進塁し、後続の本塁打で初得点を記録。さらに直後の左翼守備でダイビングキャッチを見せ、同点に追いつかれて突入した10回表の初打席では初安打を記録した。2日後4月5日の同対戦にて7番右翼で初スタメン出場。4月9日の本拠地開幕ブレーブス戦(シェイ・スタジアム)にてジェイソン・マーキー投手から左中間へ初本塁打を放ち、ベンチ前でチームメイトが整列する日本式の出迎えを受けた。5月20日ロサンゼルス・ドジャース戦(シェイ・スタジアム)にてテリー・アダムス投手から日本人選手初のサヨナラ安打を記録。5月24日フロリダ・マーリンズ戦の大差リード中(11-3)の打席でカウント3ボール-0ストライクから打ちに出た行為が不文律に反するとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受けた。MLB1年目には他にも、日本では日常的に行っていた行為が相手チームから挑発的と解釈されたり(本塁打直後にバットを高々と放り投げる行為、その後ホームインの際に手でベースへ触れる行為)、打席で投球前にバットを高く突き上げる(#打撃参照)際に捕手が出すサインを覗いているのではないかと疑惑をかけられたりもした。6月17日の出場を最後に左太股裏肉離れで15日間の故障者リスト(以下DL)入りし、傘下A-級ブルックリン・サイクロンズでの調整出場を経て復帰した。7月22日フィラデルフィア・フィリーズ戦(ベテランズ・スタジアム)6回裏の守備にて、直射日光を受ける中、中堅後方への大飛球を追い続けた末にフェンス手前でポケットキャッチ。このプレーは「ザ・キャッチ」と称されるウィリー・メイズ型キャッチだったなどと報じられた[出 9]。8月3日アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦(バンク・ワン・ボールパーク)にて日本人選手初のスタメン4番出場。ランディ・ジョンソン投手を相手に4打数無安打(第1打席は振り逃げ)であった。9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、結果敗れるが終盤まで続いたチームのプレーオフ進出争いに貢献した。
- この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録してシーズン補殺数は12(両リーグ外野手第5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手過去最多)。打撃では、特に満塁時に12打数7安打.583と勝負強さをみせ、勝利打点11はマイク・ピアッツァと並び球団最多であった。ルーキーオールスター[注 7]受賞。シーズンオフに結んだ翌2002年契約は自身初の1億円(日本円換算)を越えた。12月16日、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレードが発表され移籍。背番号は「5」。また、プライベートではベストドレッサー賞を受賞。
- 2002年
- 球団が獲得に際し想定していた1番中堅で開幕。シーズン序盤に打撃不振で降格してから中盤までは7番など主に下位打順に入った。
- 5月11日モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて本塁まで約90mをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリーを補殺。このプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入した。試合は3-2で勝利し、相手監督もこのプレーを賞賛した。5月17日マーリンズ戦(パシフィック・ベル・パーク)にてブレイデン・ルーパー投手から日本人選手初となる満塁本塁打を記録。オールスターゲームファン投票ではナショナルリーグ外野手4位となった。7月25日の試合で右太股を痛め15日間のDL入り。傘下AAA級フレズノ・グリズリーズでの調整出場を経て復帰したが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失った。チームのワイルドカード獲得に貢献して、自身日米通じて初のポストシーズン出場を果たす。
- 日本人選手初のワールドシリーズ出場
- 10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番指名打者で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場する。指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、当時は相手先発が左投手時限定のスタメン起用方針で、且つ第3戦 - 5戦は指名打者制ではなくなるので、シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩したくないから」と語った。第2打席にジャロッド・ウォッシュバーン投手から中前打を放ち、これが日本人選手ワールドシリーズ初安打となった。このとき使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されている。10月27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)のジャイアンツ1-4で3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場したが、トロイ・パーシバル投手の前に空振り三振に倒れた。ジャイアンツはそのまま1-4で敗れ、3勝4敗でワールドシリーズ制覇を逃した。
- この年は打撃・守備の殆んどの部門において前年より成績を下げた。シーズンオフにFA(自由契約)となりニューヨーク・メッツへ復帰。背番号は「5」。またこの年の新庄を担当したジャイアンツ・小島克典通訳も引き続き担当するために共に移籍した。プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。
- 2003年
- オープン戦にてリーグ最高打率を残すも、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり、主に相手先発が左投手時の起用で出場試合は減少し打撃成績も低迷した。6月にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちした。この年は春季キャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報道された[注 8]。7月にロースター40人枠から外れた。傘下AAA級ノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率3割を残した。マイナー生活では長距離バス移動をはじめ様々なメジャーとの条件格差を実際に体験する事となったが、メジャーを夢見て頑張る若い選手との交流など「今までの野球人生で一番に学べ、楽しかった時代」であったと後に語っている。シーズンオフにFA(自由契約)となり、MLB数球団から契約オファーがあったが日本プロ野球(以下NPB)復帰を決意。自身はMLB移籍した2001年シーズン前に「3年経ってFA資格をとれたら日本(阪神)復帰も選択肢のひとつ」と自著[出 6]に記し、テレビ出演時にもMLB挑戦は3年間と示唆していた。移籍先は2004年シーズンから北海道に移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、推定年俸8000万円の2年契約を結ぶ。最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという。古巣の阪神は金本知憲・赤星憲広ら外野手が充実していたため獲得を見送り、岡田彰布新監督は「来ても守るとこがないわ」と語った。
[編集] 日本ハム時代
2003年暮れの入団公式発表の前日、映画『バッドボーイズ2バッド』の特別試写会にて非公式に観客に発表した。公式発表の会見の際には、北海道のファンが新庄のファイターズ入団を求めて集めた署名を持ち込み紹介した。札幌ドームで行われた入団会見の際には「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」ことを目標に掲げた。登録名は「SHINJO」、背番号は「1」と決まり、新庄の専属として荒井修光広報が就任した。
入団から引退までの3年間に渡り自費で札幌ドーム外野の右中間席上部に個人広告看板を2枚掲示し、日本ハム主催試合の外野席に「SHINJOシート」を用意した(#人物像を参照)。ファンサービスの一環として2004年5月10日から自身の本塁打時の談話にて打法命名を始めたほか、2004年から2005年にかけて試合前シートノックなどにてかぶりものを被るというパフォーマンス(「新庄劇場#かぶりもの」を参照)を行った試合でチームは6戦4勝1敗1引き分けの成績を残した[注 9]。
- 2004年
- 開幕から7月まで主に2番中堅で起用され、8月に坪井智哉と打順を互いに入れ替わり1番に起用された後はプレーオフ終了まで定着した。5月30日、函館市千代台公園野球場での西武ライオンズ戦で張誌家投手からNPB通算1000本安打を達成。前半戦最終試合(札幌ドーム)で受けた入団後初のヒーローインタビューと後日の取材にて、オールスターゲーム出場について触れ「MVPは僕のものです」と宣言した。
- 球宴でホームスチール
- 7月11日オールスターゲーム第2戦(長野オリンピックスタジアム)にて3回裏二死三塁の場面(バッテリー:元同僚の福原忍・矢野輝弘、打者:同僚の小笠原道大)で、三塁走者の新庄は捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切りホームにヘッドスライディング。投手からすぐさま送球されクロスプレーとなりセーフが宣告され、オールスター史上初となる単独ホームスチールを決めた。ヘルメットが脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜んだ。このプレー直前に新庄は、三塁塁上から三塁ベースコーチへ本盗敢行についての相談を行い、その様子を見た相手ベンチの中には笑っている者もいた[出 10]。この試合では二塁打2本・チームの全2得点も記録して、先の宣言通りにMVPを獲得。ヒーローインタビューでは、この年起こったプロ野球再編問題を受けて「これからは、パ・リーグです」と宣言して、最後は自身が出演していたオロナミンCのCMの決めゼリフ「元気ハツラツぅ?」で締めた。
- 走者追い越しでサヨナラ「フェンス越え」安打
- プロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となった9月20日福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)にて、前々日・前日の試合中止のお詫びとして「おととい、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、5人の同僚外野手で秘密戦隊ゴレンジャーのかぶりものを被り試合前シートノックを受けるというパフォーマンスを実施してファンの喝采を浴びた(アカレンジャー:森本稀哲、アオレンジャー:島田一輝、キレンジャー:新庄、モモレンジャー:石本努、ミドレンジャー:坪井智哉)。プレーオフ進出争いを繰り広げる中での試合では、4-8で迎えた4回裏に新垣渚投手からソロ本塁打を放ち、さらに9回裏にはチームが9-12から3連打で12-12と追いつき尚も二死満塁とした場面で打席がまわり、三瀬幸司投手から左翼席に打球を叩き込んだ。この場面で一塁走者の田中幸雄は歓喜のあまり新庄を二塁の手前で迎え、新庄と抱き合ってその場で一回転した。だがこれによって新庄は前位の走者(田中)を追い越したことになり、新庄にアウトが宣告され本塁打は取り消された。新庄は一塁に到達していたため記録上は単打となり、新庄のアウトより先に三塁走者・奈良原浩が本塁へ到達していたのでサヨナラ勝ちは成立した(今回のように二死からの場合、追い越し行為による第3アウトより先に本塁へ達している走者の得点のみが認められる。同点であったため、この得点をもってサヨナラとなりスコアは13x-12)。サヨナラ本塁打が取り消されたのは過去3例目だが、結果がサヨナラ勝ちのままとなったのは初めてである(「幻のホームラン一覧」を参照)。また、仮に成立していたとすれば、個人通算サヨナラ満塁本塁打のNPBタイ記録(2本)となるところであった。劇的な幕切れに新庄はアウトとなったにもかかわらずダイヤモンドを一周し、本塁付近でチームメイトから手荒い祝福を受けた。この後、田中は本塁打をシングルヒットにしてしまったことを新庄に謝罪したが、新庄は「いいんです!何言ってんですか、勝ったんだから」と笑顔で返した。田中は勝利の条件が三塁走者の本塁生還(得点)のみであることは把握しており、それを目視確認した時点で頭の中が真っ白になってしまい、新庄と位置的に一番近い自分が喜び合わなければと思い待ってしまったと振り返る[出 11]。ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」と発言。さらに「明日も勝つ!」と宣言して、阪神時代にはお立ち台でその言葉を発すると翌日チームは負けるというジンクスが報道されていたが、翌日も勝利した。
- この年はシーズン打率においてキャリア最高の成績を残す。7月 - 9月はいずれも月間打率3割を記録し、9月には月間MVPも受賞して、球団移転初年度でのプレーオフ進出に貢献。第1ステージにて自身NPBポストシーズン初出場を果たす。11月のイオンオールスターシリーズ2004日米野球にファン投票選出されるも故障を理由に出場辞退。ベストナイン・ゴールデングラブ賞(外野手部門最多得票)・Go・Go賞年間3回・日本プロスポーツ大賞功労賞[出 12]受賞。
- 2005年
- 1番中堅で開幕して5月中旬からは5番に起用されたが、7月中旬に受けた死球で右手小指球部を挫傷して登録抹消後は出場がまばらとなった。4月15日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦ではネクストバッターズサークル内でファウルボールが局部に直撃したにもかかわらず、苦痛に顔を歪めたまま本塁打を打ち、打法名「右キンタマ打法」と命名したためニュースでは「放送禁止用語打法」と紹介された。4月23日、東京ドームでのオリックス・バファローズ戦で日米通算1500試合出場を達成。6月5日、ナゴヤドームでのセ・パ交流戦中日戦で山本昌投手から日米通算200号本塁打を達成。6月12日、甲子園での古巣阪神戦で本塁打を打った際には阪神ファンからも拍手を受け、打法名「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と名付けた。8月、母校・西日本短大付属高校野球部が前年の夏の甲子園に出場したことを称えマイクロバス(車種はトヨタ・コースター)を寄贈し、「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった[出 13]。
- この年は故障の影響で規定打席に到達できず。ゴールデングラブ賞を外野手部門最多得票にて受賞するが、同賞授賞式を欠席した。シーズン守備成績は平凡な数字であり、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」と話した。2年契約満了のため結んだ再契約は新庄側の希望で1年契約、年俸は自身最高の推定3億円となった。
[編集] 新庄劇場
※詳細は「新庄劇場」を参照。
- 2006年
- この年、阪神時代の監督であった中村勝広がオリックスへ、野村克也が楽天へと同リーグ球団監督に就任し、千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督(2001年メッツ時代の監督)と合わせ、3人の恩師と対戦することとなる。1年間を6番中堅でほぼ固定起用された。
- 新庄の発案で「札幌ドーム超満員大作戦」と銘打たれ、「(パフォーマンスを)何かやります」と予告していた3月25日札幌ドームでのパ・リーグ開幕戦(楽天戦)試合前に、ハーレー・ダビッドソンのトライクを運転しての入場ショーを敢行。新庄に続いて他のスターティングメンバーもサイドカーの助手席に乗り入場し、満員の観客から大歓声を受けた。これを皮切りとして、この年に試合前パフォーマンスショーを行った3試合は、いずれも日本ハムが勝利を収めた(「新庄劇場#パフォーマンスの例」を参照)。この年から外野の個人広告看板の2枚中1枚を、自身のイラストが喋るふきだしにメッセージを書き込める仕様のもの(普段ふきだし部分は余白)に新調し、観客満員達成時には何かメッセージを入れると公約しており、翌3月26日に「札幌ドーム43,000ファン ヤバい 感動だぜっ!!」と入れてファンへ感謝の意を表した。
- 引退表明
- 4月18日、東京ドームでの恩師・中村勝広監督率いるオリックス戦にて、1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と名付け突然の引退表明を行い、ヒーローインタビューで改めて観客に宣言した(#現役引退についてを参照)。この日の1本目の本塁打を最後に打法命名を封印する。引退発表からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて連日のように報道された。
- 4月30日福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)の試合でユニフォームの下に着用した襟付き練習着についてマナーの問題で物議を醸した。新庄本人は事前に審判団に出場可否確認を求めており、「とりあえず出場は可」と認められ出場した。その後相手チームの監督・フロントに苦言を呈され、審判団の話し合いの末「今後の試合出場は不可」となる経緯があった為、審判団の責任もないわけではなく、新庄本人はできる限りの事をやった結果であるため、新庄だけの責任ではないという声もある(更なる物議、新庄の意図も含め「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照)。6月16日、札幌ドームでの広島戦で第1打席に佐々岡真司投手からNPB通算200号本塁打を達成。8月22日、岩手県営野球場での楽天戦で渡邉恒樹投手から日米通算1500本安打を達成。9月15日、2007年夏の参院選への出馬を、自民党と民主党が要請していたことが判明。しかし出馬せず。
- 引退セレモニー
- 9月27日、レギュラーシーズン最終戦となった札幌ドームでのソフトバンク戦にてこの日限定で背番号をプロ野球選手生活で最初に背負った「63」に変更。これに伴い、元々「63」だった渡部龍一も1日限り「68」に変更したが、渡辺が当時所属していた二軍の試合はなかったため、渡部の背番号68のユニフォームは製造されなかった。渡部はこれについて「どうせなら背番号1に変更してもらいたかった」と冗談交じりに話している。チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合終了後に引退セレモニーが行われた。札幌ドーム場内を消灯して流されたこれまでの野球人生を振り返るVTRを中堅の守備位置から見守った後、ユニフォーム・グラブ・リストバンド・タオルをその場に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後にした。ユニフォームを脱いで現れたアンダーシャツには「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」とのメッセージがプリントされていた。引退スピーチは行わなかったが、去り際にはスコアボードに「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」とファンに向けた署名つきの直筆メッセージが表示された。先の引退表明が東京ドームでなされたこともあり、このセレモニーには地元札幌のファンへのけじめの意味合いも込められていた。予定通り、翌9月28日に再度背番号を「1」に戻す手続きが取られ、渡部も「63」に戻した。
- 10月2日、CM出演契約をしているダイドードリンコ商品・D-1 COFFEEの「SHINJO引退記念缶」が12月まで限定発売され、同時に「SHINJO引退記念キャンペーン」も展開された。11月のイオン日米野球2006にファン投票でトップ選出されるも出場辞退を表明し「日本シリーズで完全燃焼したい」とコメントした。
- 自身初の日本シリーズ出場
- この年の日本シリーズにて自身シリーズ初出場。対戦した中日のアレックス・オチョアは、新庄がジャイアンツ時代に2002年のワールドシリーズで対戦したエンゼルスの選手としても出場しており、この両者はワールドシリーズと日本シリーズ両方で選手として対戦した初めての例である。このシリーズで日本ハムは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝く。10月26日最終第5戦(札幌ドーム)8回裏、涙を流して入った現役最後の打席で、中里篤史投手から3球三振を喫する。4-1とリードした最終回の守備、二死からアレックス・オチョアのレフトフライで日本一が決まると、捕球した森本稀哲はそのまま新庄の方に向かって走り出し、両者は左中間で抱き合った。そして、両者はマウンドの歓喜の輪へ向かって歩き出したが、新庄は涙を流し、精も根も使い果たしてまともに歩くことが出来なかった。その後、選手・首脳陣・スタッフ達の方が外野へ向かって歩いていって左中間で抱擁し合い、監督より先に新庄・小笠原道大・田中幸雄・大社義規前オーナーの遺影を掲げた現オーナーの順で胴上げが行われた。日本ハム入団会見で掲げた2つの目標である「札幌ドーム満員」と「チーム日本一」を共に達成してユニフォームを脱いだ。
- 翌10月27日に札幌ドームで引退会見を行い、引退後の活動方針については明言を避けた。11月のKONAMI CUP アジアシリーズ 2006についても、気力と体力の限界を理由に出場辞退を表明。10月30日、日本通算200号本塁打を記念して作成したメモリアルバットの販売収益金1000万円を「北海道の青少年のスポーツ振興のため」として道へ寄付。道内スポーツ少年団の競技用具購入のために活用され、この件について道内の子供たちから感謝の手紙、高橋はるみ知事から感謝状を受け取った。11月8日、10度目のゴールデングラブ賞を森本稀哲・稲葉篤紀と共に受賞して、同賞の外野手部門を日本ハム勢で独占した。11月18日、札幌で行われた優勝パレードに私服で参加。ファイターズの新庄剛志としての最後の姿となる。シーズン中から引退撤回を求めるファンが署名活動を行い、球団からも撤回要請を受けていた。しかし本人の意思は固く、球団側は手続き上、自由契約扱いとすることを勧めたが、本人側の希望で任意引退の形がとられた。
[編集] 現役引退後
現役引退後はタレントへ転身する。また、エアブラシアート(エアブラシを使用した絵画)製作に没頭しており、自宅にアトリエを持つ。引退後の初仕事は2006年のフジテレビ『SMAP×SMAP』ゲスト出演。同番組へは2001年12月24日以来3回目の出演であり、これを機にSMAPメンバーと懇意にしている。
- 2007年
- 1月28日、休止されていた自身の公式ホームページ「CLUB SHINJO」の更新を再開[注 10]。HP上で今後の活動の方向性などを報告。3月1日、2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞受賞。6月21日、前年の寄付について紺綬褒章受章。8月18日・19日、日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』にてチャリティーパーソナリティーを黒木瞳と共に担当する。12月28日、自身の公式ホームページにて志保夫人との離婚を発表。
- 2008年
- 1月2日放送の日本テレビ特別特番『THE M』にてメインMCを上戸彩と共に担当する。1月28日、株式会社レハサフを設立して取締役に就任。自身の公式ホームページ名を「CLUB SHINJO」から「LHSF_COLONY」に変更。5月、レハサフ社が新庄の元同僚・森本稀哲とマネジメント契約を締結。
- 5月18日、福岡Yahoo! JAPANドームでのソフトバンク対日本ハム戦の始球式投手として、ソフトバンクのユニフォームと2006年ゴールデングラブ賞賞品の金色のグラブを着用して登場。始球式ながら森本稀哲と1打席の真剣勝負を行い、140km/h超の速球で内野ゴロに打ち取った。その後、使用球をマウンド付近からライトスタンドへ投げ入れて、更にはゴールデングラブも一塁側スタンドへ投げ入れた。この件について張本勲はTBS『サンデーモーニング』内で「(引退してから始球式に)出てくるのが早過ぎる。日本ハムのユニフォームを着るべきだった」と苦言を呈した。
- 11月23日放送の日本テレビ『行列のできる法律相談所 ~有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト~』の主旨に賛同して、エアブラシアート作品をチャリティーオークションへ出品する(#メディア出演詳細を参照)。11月23日、札幌ドームでの日本ハムファンフェスティバルにて左翼席後方のコンコースに「SHINJOコーナー with ひちょ」というスペースが設置され、新庄経営のレハサフ社から発売されている自身プロデュースのアロマパフューム「レハサフ」や森本稀哲プロデュースの商品などが販売される。11月28日、ホテルオークラ東京にて「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌2009年の自身の活動予定(自社商品の開発、俳優、歌手、地方競馬の馬主(後述)、画家)を発表[出 14]。初の絵画個展を11月29日 - 12月7日に自身の地元である福岡の博多大丸・福岡天神店、12月26日 - 12月31日には野球選手として最後に過ごした北海道の札幌パルコにて開催。
- 2009年
- 絵画のモデルとして購入する馬が競走馬となる予定であることから、地方競馬の馬主資格を取得していた。同馬はタノシンジョイ号(父:ダイタクバートラム、母:ウイルタイムオン、母の父:アスワンという血統で北海道・別海の野付ライディングファーム生まれ。牡2歳・岡林光浩厩舎所属)と命名され、9月25日、船橋競馬場での新馬戦へ初出走し勝利する[出 15]。翌年5月15日上映予定の、リトルリーグ誕生70周年を記念して製作された映画『僕たちのプレイボール』のエグゼクティブプロデューサーを務める。同作品主演・小原裕貴が11月1日の日本シリーズ・日本ハム対巨人第2戦(札幌ドーム)にて始球式投手を務めた際に、付き添いとしてグラウンドへ姿を見せ、その後の同試合中継(フジテレビ)にて初のプロ野球解説を担当する(#メディア出演詳細を参照)。
- 2010年 - 2011年
- 2010年前半を最後にメディア出演はなくなり、以降インドネシア・バリ島に住居を構え滞在する。現地へは以前CM撮影に訪れたことがきっかけといい、絵画制作に加え2011年よりモトクロス競技の練習を開始して、日本円にして1,000万円規模のレース場を開設し地元住民へ無料開放している[出 16]。
- 2011年8月初旬、新庄の父親の通夜・告別式にてメディアに映る[出 17]。9月8日放送のTBS『世界の強運実話!もってる人グランプリ』にて2年ぶりにテレビ番組へ出演する。
- 10月23日、球団回収となる予定の横浜ベイスターズ監督就任の可能性が浮上[出 18]したが、噂で終わった。
[編集] 人物
[編集] 現役引退について
- 開幕直後の引退表明
2006年4月18日オリックス戦(東京ドーム)2回裏にダン・セラフィニ投手からソロ本塁打しホームインすると、普段とは異なり日本ハム側の右翼席方向へ向かいヘルメットを脱いで深々と一礼した。攻撃が終わり守備位置に就くと再びファンに一礼(阪神時代途中からファンの新庄コールに対しては、一礼からガッツポーズに変えていた)。恒例の本塁打の打法名は「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と異例の開幕直後での引退表明を行った。7回裏に金子千尋投手から満塁本塁打すると三度ファンに一礼し、今度は打法命名がなされなかった。日本ハムが勝利してヒーローインタビューを受けた新庄は、しばし沈黙の後に自らマイクを握り「ええ。今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年…。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました」と観衆に改めて宣言した。引退を決意した決め手は開幕戦で観客満員を達成したことであり、早ければその翌日にでも表明するつもりで荒井修光専属広報など一部の球団関係者には事情説明がなされていた。またこの日の表明に踏みきった理由として、東京ドームが一軍初出場時の球場であることも明かした。翌19日の試合前には、この早い時期に引退発表を行い驚かせてしまったこと、また引退の決意を一部にしか伝えていなかったことをチームメイトに詫びており、トレイ・ヒルマン監督へは「1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから」と説明した。これに対しチームメイトも理解を示した。
- 引退理由
自身のホームページやテレビ出演にて概ね以下のように引退理由を語っている。
- 守備の衰えと体力の限界。
- 動体視力の低下(遺伝性の眼病によるものとされる)。
- 足(左内太股)の故障。
- 開幕戦で観客満員を達成して夢が叶い「自分の仕事は終わった」という達成感。
動体視力の低下に関しては、2006年シーズン開幕後1週間ほど経った試合から急に投球がかすんで見えだし、特に右投手のカーブと左サイドスロー投手の投球が見えなかったと、引退後に自身の前・公式サイト「CLUB SHINJO」にて告白。それまでチーム関係者へも明かさず、ひた隠しにしたままプレーを続けていた。
[編集] 人物像
一般的な野球選手のイメージとはかけ離れた高いタレント性とショーマンシップ、奇抜な言動で知られる。MLB時代頃から「野球を楽しむ」といった発言が目立ちはじめ、日本ハム移籍以降は、チームメイトにも「楽しもう」というメッセージを投げかけ、試合中でさえ笑顔をみせることがあった。MLBに移籍した2001年以降は、新庄の楽しそうにプレーする姿を指した愛称「SHINJOY(シンジョイ)」が浸透した。
「魅せる野球」にこだわり、独自に考案したファンサービスを積極的に行った。日本ハム入団から引退までの3年間に渡り自費で、札幌ドーム外野の右中間席上部に個人広告看板を2枚掲示(デザインは2005年までは2枚共に自身の個人マーク(#打撃を参照)がベース)し、日本ハム主催試合の外野左翼席に野球少年達を無料招待する「SHINJOシート」を毎試合126席ずつ用意していた。日本ハム時代には試合で活躍してヒーローインタビューの依頼を受けても、他に見合う活躍をした後輩選手がいる際には譲っていた。また、ヒーローインタビューなどでのインタビュアーからの質問に「そうですね」などと前置きしてから返答することは話が間延びして面白くないとの持論から、自身は即答することを心掛けており、日本ハム移籍後は一部のチームメイトにもこれを薦めた。他にも、自身が「赤色」をトレードカラーとした(後述)ように後輩選手にも各自のそれを持つことを薦めたり、自身が考案したかぶりものパフォーマンスにチームメイトも誘って実行した。
チームメイトも巻き込んでファンサービスに力を注ぐ狙いは、チームメイトにも興味を持ってもらい新たなファン層を開拓して広げていくきっかけづくりにあり、この考えについて後輩の森本稀哲は「自分を観に来たファンに他の選手を覚えてもらおうという感覚は凄い」と語り、新庄の引退後もその役割を引き継いでいる[出 19]。選手生活晩年には選手としてのファッションに関する例が多く報じられたが、それ以前からファッション的なことに限らず、球界に前例のない行動が目立った。引退を前にした現役最終年には「ファンのために選手個々がいろいろなことを最初にやる勇気を持ってほしい」と球界の選手全体に訴え、これからの球界では選手のファッション性も向上しないと球場に観客を呼べなくなってしまうと危惧した(「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照)。漫画家の水島新司は「新庄ほど常にファンのことを考え、楽しんでもらおうと思っている選手はいない。日本プロ野球界において、たった一人で球場を満員にできる唯一の選手だ」と評している。「新庄劇場」と称されたものなど派手な言動が目立つ反面、試合前パフォーマンスを行う際には各方面へ事前の了解を取りつけるなど、周囲に対する気遣いも厚かった。オールスターゲームのファン投票でも常に上位に入り、出場回数も多い。2006年の日本シリーズでは監督のトレイ・ヒルマンより先に胴上げされた。
メディアに向けて発する独特の喋り口は2004年の活躍時に「新庄節[注 1]」と称され同年の新語・流行語大賞にノミネートされた。また現役引退宣言で沸いた2006年同賞には「SHINJO」「新庄劇場」がそれぞれノミネートされた。序盤に引退宣言して日本一を経験できたラストシーズンについて「(強運を)もってるわ、俺。本当にこの漫画みたいなストーリー、出来すぎてません、これ? 今後俺、体に気をつけたいと思います」と総括した。引退後は、タレント・画家・実業家として活動している。プロ野球界からは距離を置いており、野球評論を行うことは極稀である。森本稀哲や川崎宗則らの一部選手とは連絡を取り合っているという。
阪神時代途中までは「ジーンズがはけなくなるから」と下半身強化トレーニングをしていなかったと告白し、打撃練習も手に豆さえできないくらいで片付けていると報じられてきた。しかし、幼少期から努力している姿は人には見せない子供であったと新庄の父親は語っており、プロ入り後も同様の同僚からの証言や「人に個人練習している姿を見つかると、練習をやめてしまう」といったエピソードも聞かれる。阪神時代の途中から怪我防止のために考えを改め実際トレーニングをしてみると下半身は太らない体質だという事がわかったとのこと。理想の体型は公衆トイレに多く表示されている男性用のマーク(男性の体が逆三角形にデザインされている)だが、トレーニングはあくまでも野球のためであって、見せるためだけの体づくりとはトレーニングのやり方が違うと語る。また、ランナーとしての瞬発的なスピードを維持するために、あえて長距離走の訓練を避けていたとのこと。アメリカで太股に肉離れを起こして以降は、故障箇所をカバーする筋肉をつけるため、好きなジーンズの着用も止めてハードな筋力トレーニングを続けており、日本ハム時代の同僚である岩本勉は、鬼気迫る表情でバーベルを担いで片足屈伸を続ける姿を目撃した時には、圧倒されて声をかけられなかったと証言した。
幼い頃から、相撲大会で負けて泣きながら帰宅すると、翌日には再挑戦し10人抜きで優勝してリベンジを果たしたり、ソフトボール大会で負けた審判の判定にひとり抗議するなどの負けん気の強さを持っていた。反面、得意のかけっこでは足の遅い友達を待ってゴールし、先生に「この子はタイムが計れない」と言わしめたり、裕福ではない家庭環境[出 6]の中でも、幼稚園時には誕生日の母親にお金がかからないプレゼントを差し出し「お金がないけん、ごめんね。おめでとう!」と告げるなどの優しい気持ちも持ち合わせていたことが、旧知の人物により証言されている。そういった性格は現役時代にも覗え、敗戦後のコメントは1999年頃から例え自身が活躍していても控えていた点や、幾度か自身の代わりに若手選手の抜擢を監督に進言したことがある点(2003年オープン戦にメッツ同僚を、2006年シーズンに森本稀哲を(#対人関係参照)、2006年日本シリーズに紺田敏正を[出 20])などである。幼い頃から親に物をねだった事は一度もなかったが、高校時代に冬場の練習での手のかじかみにたまりかねて革製手袋を買って欲しいと頼むと、父親は自分の手が荒れるのも構わず仕事用の軍手を買うための予算を使って購入してくれたという。自身は幼い頃から「将来お金持ちになり親孝行しないといけないと考えていた」と語る。
幼い頃から受けていた父親の教育方針は「言うな、行動で示せ」という「不言実行」の教えであり、自身は「親の行動を見て学んだというか、何もいわなくても見ていて分かった。不思議な親だった」と振り返っている。しかし、自身は目標ごとについては「有言実行」を目指す考えであることがうかがえる。阪神時代から、自身の時々の目標を積極的に公言してきた。MLB初打席初安打や2004年のオールスターゲームMVP獲得も事前のインタビューで予告していた。掲げてきた目標の難易度の高低(その結果も)は様々であった。その動機は「目標を公言することで、実現できなければ恥ずかしいという感情をモチベーションにする」との考えであり、そうすることでより頑張れる性格であると自己分析している。また、現役引退後もテレビ番組出演時や記者発表の場において、目標を掲げる発言は目立っている。
好きな色は「赤」。一軍定着と共にトレードカラーとして定着し、NPB在籍時はリストバンドなどで主に赤色のものを着用した。「赤=新庄剛志」で自身を覚えてもらおうとプロ入り時から決めていたという。一軍デビュー時には周囲からの「赤は派手すぎる」という声もあったが、活躍出来ないことには恥ずかしい派手な色を着用することで自身を追い込みたかったという。色を決めた理由は、自身のラッキーカラーであると人から伝えられたことがきっかけ。着替えの最後に赤いリストバンドを着けると気持ちが盛り上がるという。
好きな数字は「1」。シンプルだし格好いいからという。1992年オフに阪神球団より背番号63からの変更を打診された際には「1」もしくは憧れを抱いていたダリル・ストロベリーが着用した「44」を希望したが、両方とも空き番ではなかった。変更となった新背番号5について本人は「カクカクしているから自分に合っていると思う」と語り、以降三度の移籍の際も新背番号は同番となった。メッツからジャイアンツへのトレードが急遽決まった際には「背番号5を貰えるかどうかが一番気になった」とコメントした。その後、日本ハム移籍時に「1」へ変更[注 11]。また同時に登録名はNPB初となる姓のアルファベット表記「SHINJO」とした。スコアボードの選手名表記が縦書きの球場ではアルファベットがそのまま縦に綴られて表記されたほか、新聞の成績欄などでは従来の漢字表記をする例が多かった。すでに漢字表記での知名度が高かったため、「SHINJO効果[注 12]」や「新庄劇場」などでアルファベットと漢字の表記が混在する。また引退した翌2007年に、名前の読みが同じ「ツヨシ」であり親交も深い西岡剛が登録名を「TSUYOSHI」に変更した際には事前に相談を受けている(西岡の項目を参照)。顔が韓国の俳優のイ・ビョンホンと似ていると言われる。
[編集] 対人関係
- 首脳陣
プロ入り時の打撃コーチ(二軍)であり、長年に渡り指導を受けた柏原純一について「師匠だと思っている。二軍時代、夜遅くまで残って一緒に練習してもらった。「とにかく今年1年はお前を4番でいくから」と強く後押ししてくれた。一軍に上がってホームランを打った時やメジャー行きも真っ先に報告した」と自著[出 6]に記している。
阪神時代の最後に仕えた野村克也監督とは、1998年オフの秋季キャンプにて新監督となった同氏から面接を受けた際、40分ほど野村の話が続いたところで「あまりいっぺんに言われると、オレ頭が悪いので覚えきれません」と言って遮り面接を切り上げた。しかし本人に悪意はなく、それが判ったのか野村も「可愛い奴や」と笑いながら振り返っている。これには新庄の思惑があり、話を一度に聞いてしまうよりも途中で切り上げたほうが先に監督と接触出来るチャンスがあるのではないかと思ったという[出 6]。新庄の守備と足に関して野村はヤクルト監督時代から高評価していたと自著に記しているが、打撃に関しては「打撃以外は一流」と評価した。しかし打撃においても潜在能力は認めていて、就任1年目からたびたびスタメン4番にも据えた。最初に抜擢した時には「地位が人を育てる」と理由を説明し、阪神在籍最終の2000年には過去最高の打撃成績を残した。後に自著[出 6]で新庄は「野村監督の言葉で力を出すことができた」「ウマが合った」「選手個人の性格をうまく見抜いて、それを利用する」と記した。野村は2000年を最後に新庄がFA退団した際に「たったひとりのレギュラー選手がいなくなってしまった」と話した。日本ハム時代の2006年開幕戦試合前に新庄が演出したパフォーマンスショーを、再び敵将として見た楽天監督時代の野村は「あの人は芸能人ですから」とコメントした。これには日本ハム対楽天を注目カードに仕立て上げるための作戦として、開幕前より新庄から野村に対して「監督のことをボロクソに言いますから監督も僕のことをボロクソに言ってください」と持ちかけていたという話もある。
阪神時代のプロ生活最初の監督であった中村勝広は、当時の新庄を褒めること主体で指導していたと振り返る。また中村は新庄のMLB1年目(2001年)の活躍にはメッツ・ボビー・バレンタイン監督の「褒めちぎって、乗せて、力を発揮させる」指導法が大きかったと想像すると語った。メッツがその年限りで新庄を放出したのはゼネラルマネージャー主導のトレードであった。中村とバレンタインは2003年オフの新庄のNPB復帰の際、それぞれオリックス・ゼネラルマネージャー(中村)、ロッテ新監督(バレンタイン)として獲得に興味があったと語っている[出 21]。
- チームメイト
阪神時代の同僚で同学年の広沢好輝とは親友でシーズンオフの自主トレーニングも共にした。広沢は引退後に『週刊ベースボール』よりMLB1年目の新庄付特派員として派遣された。後輩の坪井智哉とは阪神・日本ハム両球団で同僚となり、日本ハム入団を決断するにあたって先に入団していた坪井の存在が大きかったと語っている。阪神時代からマーク・ジョンソンやトニー・タラスコなど来日する外国人選手とすぐに打ち解けあい、自著[出 6]では来日後の早い段階で放出される外国人選手を擁護する記述をしている。
ジャイアンツ時代に中堅を守る新庄は、左翼手のバリー・ボンズから「オレはホームランを打つから、守備はおまえに任せるよ」と伝えられた。誰もが一歩距離をとってしまう存在であったボンズから「グレートなセンター」と評されるなど親交を深めた。
日本ハム時代の後輩の森本稀哲は新庄を師匠と慕い、新庄もまた森本を弟子のように思っている。2004年新庄の日本ハム移籍が決まった頃、森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩んでいた。森本は同ポジションのスター選手入団に際し「なんで新庄来るんだよ」と思っていたが、新庄に打撃や守備を毎日根気強く教わり「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じ慕いだしたと、新庄の現役引退後に新庄と共演したテレビ番組[出 22]でも感謝の意を表している。また同番組で新庄は引退を自身の胸のうちで決意していた2006年のある試合前に監督室へ出向き、自身の代わりに森本を先発で使ってほしいと進言したというエピソードを紹介した。それによると新庄は、トレイ・ヒルマン監督からの「森本が打てる気がするのか?」との問いに絶対に打つと答え森本先発の確約を得た上で、森本に対しては「今日の試合はお前の人生でムチャクチャ大事だから、死ぬ気で打席に立て!このチャンスを逃したら二軍に落ちてクビ」と発破をかけたという。森本は「ここしかない」と覚悟を決めたその試合で3安打を放つ活躍を見せ、やがて左翼のレギュラーの座を掴んだ。新庄はこの時の森本を振り返り「そういった状況で打てることが凄い」と賞賛した。新庄はシーズン限りでの引退を発表した後に「背番号1を森本に受け継いでもらいたい」と発言。その後2007年より背番号1は森本へと引き継がれた。また、2004年のプレーオフで先発を外れたことに荒れていた後輩の木元邦之を励ましたこともある(木元の項目を参照)。同じく後輩の小笠原道大とは「ウマが合わない」「仲が悪い」と誤解されがちであった。しかし2006年にプレーオフを制しパ・リーグ優勝決定後の合同記者会見にて、小笠原が「日本シリーズを制覇して監督(ヒルマン)はもちろん、ツーさんを胴上げしたい」と発言した。これを聞いた新庄は「感無量」と語った。また、同い年の岩本勉とは「チームを北海道に定着させる」という方向性が一致したこともあり意気投合、タッグを組んでキャンペーンに精を出すなど友好を深め、岩本の引退後も親友として親交があった。
- 球団関係者
ドラフトの際に新庄を担当した阪神・渡辺省三スカウトへは、指名後の初対面であった(#高校時代参照)が好印象を抱いたという。入団後も渡辺は、病気がちだった新庄の父親のことをいつも気に掛けてくれ、1995年の引退騒動の際にも「親父さんは元気か。心配掛けるなよ」とだけ電話をもらい感激したという。1998年8月31日に渡辺が神戸市内のビル屋上から謎の転落死を遂げた翌9月1日、ヤクルト戦(甲子園)7回裏の2点を追い掛ける攻撃で川崎憲次郎投手から1点差と迫るソロ本塁打を放った。善戦するも敗戦の試合後、「今の自分があるのは渡辺さんのおかげ。どうしても勝ちたかった」と話した。
- 他球団関係者
1992年9月16日、新庄からパームボールを甲子園左翼席へサヨナラ本塁打された広島・大野豊は、その打たれ方のタイミングや飛距離を受けて、それを機にパームボールを投げるのを封印した。新庄は1997年のオールスターゲームにて応援ボイコットなどを受けてベンチで落ち込んでいた際、大野から「若いもんが、そんな暗い顔をしとったらいかん」と励まされたことに感激し、後に「他のチームの人から、あんな優しい言葉を掛けてもらったのは初めてでした。ホント、うれしかった」と振り返った。
佐々木主浩とはお互いがライバルチームに所属している時代から、シーズンオフに佐々木のラジオ番組にゲスト出演するなど親交があり、会うたびに、1995年6月20日横浜戦(横浜スタジアム)にて佐々木から放った左翼への本塁打性の打球が応援旗によって阻まれた件について、もしその妨害がなければ、新庄は「本塁打だった」、佐々木は「(左翼手の)宮里さんは入っていないと言っていた」などと言い合うという。
2006年9月10日、プレーオフ進出を決め、自身大阪での最後の試合となったオリックス戦(京セラドーム大阪)にて、自身最後の本塁打となる16号逆転2ランを放った。この試合では相手チームの清原和博からプレゼントされたバッティンググローブを着用しており、それには直筆で「己を信じリラックスして(似顔絵の新庄)らしいプレーを楽しみにしています 清原和博」と記されていた。三塁を回ったところでこの手袋をつけた左手に軽くキスをし、恩師・中村勝広と清原がいる一塁側オリックスベンチへ向け一礼した[出 23]。新庄はこのお礼として2008年10月1日のオリックス対ソフトバンク戦(京セラドーム大阪)にて引退試合を迎える清原に対して、自身が2006年の最後のオールスターゲームで着用した金色のバッティンググローブを贈り、「ホームランを打ってほしい」と伝えている。なお清原はサイズの問題もあってかこの手袋を試合では着用していないが、適時二塁打を放った。
2006年10月26日、日本シリーズ最終第5戦(札幌ドーム)での野球人生最後の打席は3球三振であった。涙を流しながら打席に立っている自身に対して、阪神時代から長年に渡り対戦してきた中日・谷繁元信捕手が1球目の見逃し後に「泣くな、真っ直ぐいくぞ」と言ってくれたように思ったと、翌日の引退会見で語った[出 24]。
- プライベート
阪神では在籍最終の2000年から始まったホームゲーム打席登場曲に福山雅治の『HEAVEN』、シーズン途中からは新曲『桜坂』を使用した。関係者を通してこの話を聞いた福山は自身のコンサートでステージのバックに阪神の球団旗を掲げて演奏し感謝の意を表した。そして新庄がこの年の大阪城ホールでのコンサート前の楽屋に福山を訪ねたことを機に二人は親しい間柄となった。また、日本ハム時代も最終年に福山の『美しき花』を登場曲として使用している。
2004年11月、映画『ナショナル・トレジャー』のロサンゼルスでのプレミア試写会にて、ジェリー・ブラッカイマープロデューサーや主演のニコラス・ケイジらと親交を深めた。その縁で同作品の日本公開(翌年5月)の「宣伝プロデューサー」を務め、テレビCM企画・新聞広告用のキャッチコピー製作・イベント参加など宣伝部門全般を担当した。2007年にはブラッカイマー制作3作品『デジャヴ』『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』『ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記』の日本公開応援プロジェクトの総合プロデューサーを務めた[出 25]。
[編集] 趣味・好物
- ファッション
阪神時代初期にヴェルサーチを頻繁に着用した。新庄の親類によると、幼い頃から西崎幸広選手が着用するスーツ姿をテレビで観て同ブランドに憧れていたとのこと。MLBに移籍した2001年にはアメリカ男性ファッション誌『GQ』にモデルとしてアルマーニのスーツ姿などが掲載された[出 26]。
- 愛車
自動車好きで、阪神時代の毎シーズンオフの契約更改に訪れる際に運転してくる車種を頻繁に替えるため、自動車専門誌記者までが取材するほど知られるところとなった。1993年はランボルギーニ・カウンタック、1994年ポルシェ、1995年ランボルギーニ・チータ、1996年メルセデス・ベンツなどである。MLB移籍が決定後には所有していたフェラーリをオークションにかけることを発表し「僕のフェラーリ売ります」というCMにも出演した。
- 食生活
少食である。一番の好物は母親手製の黄粉餅。大の甘党であり、市販のデザートにはヨーグルト等に付いている砂糖を入れて食べるという。フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした「新・食わず嫌い王決定戦」』に出演した際に告白した嫌いな料理は、初出演時が桃の缶詰(果物の缶詰が苦手で桃自体は好きとのこと)、2回目がおはぎ(粒餡が大の苦手であり「見るとゴキブリの卵を想像する」とのこと)であった。
[編集] メディア出演詳細
- テレビ番組
2004年1月2日放送のフジテレビ『クイズ$ミリオネア』に解答者として出演。スタジオでの応援として坪井智哉、ライフライン(テレフォン)の待機として山田勝彦・岩本勉・伊達昌司・木元邦之らの同僚選手も出演した。ライフラインを使い果たし、迷った際には鉛筆を転がして答えを選ぶという方法をとる。最後の問題に関しても鉛筆を使い、2度も同じ予想が出て、そのまま選択。15問全問正解し賞金1000万円を獲得した。この賞金を2004年分の札幌ドーム・個人広告看板設置費用の一部に利用した。
2008年10月20日放送の日本テレビ『しゃべくり007初回拡大SP』に黒木瞳と共にスペシャルゲスト出演。「現役で今、一番上手いと思うプロ野球選手は?」との質問に、打者では松中信彦と答えた。松中は打球方向がよめないどこにでも打てる打者であり、中堅で守っていて左打者の松中の外角に投球がいった瞬間に左翼方向に2歩ぐらいスタートを切るが、そこへ逆方向の右中間に打たれて抜かれる(ヒットにされる)とのこと。「いつも松中君と僕との戦いだった」と振り返った。
2008年11月23日放送の日本テレビ『行列のできる法律相談所 ~有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト~』の主旨に賛同して、「青空・夕空・夜空」を描いたエアブラシアート作品(エアブラシを使用した絵画)をチャリティーオークションへ出品。「カンボジアの人たちの為に心の底から何かしてあげたい」と語るVTRが流れた。賛同する理由としては、前年に出演した『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の企画にてカンボジアへ行き、現地の人達の厳しい生活状況を目の当たりにしていた経験があった。出品作品のタイトルは「Shinjo is Shinjo」と名付けられ、北海道のファイターズファンの人物に300万円で落札された。なお、同オークションへは恩師の野村克也も出品した。
2008年12月24日放送のテレビ朝日『ナニコレ珍百景SP』にて、北九州市にある三荻野バッティングセンターの世界最速230Km/hバッティングマシンに挑戦し、初来店で打ち返すことに成功。「今度僕を呼ぶときには、300Km/hを用意してください」とコメントした。
2009年2月19日フジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!「テレフォンショッキング」』の生放送にて、当日のゲストであるジェロから翌日のゲスト(お友達)として紹介を受けた。その際に受けた電話で新庄が「テレビ電話じゃだめですか?」と訊ねたところ、スタジオではCM中にテレビ電話のモニターが設置され、CM明けに新庄の動画が映された。そこからはテレビ電話にて会話がなされ、新庄のほうから「明日行ってもいいかな?」と聞いたことにより、司会のタモリは本来ゲスト(新庄)が言うはずの「いいとも!」を言わされてしまった。新庄は翌20日のスタジオ出演の際、自身がタモリをモデルとして描いたエアブラシアート作品を持ち込み披露した。作品は急遽制作したため未完成であり、完成後タモリにプレゼントすることを約束した。トークにて新庄は、現役引退後に打ち込んでいるエアブラシアートで制作した作品数は30を越えると語った。新庄が紹介した次回ゲストはATSUSHI(EXILE)であり、新庄にとってATSUSHIは「ギターの先生」とのこと。新庄のテレフォンショッキング出演は今回が2回目であったが、前回2004年10月8日の初出演の際は、持田香織(Every Little Thing)から紹介を受け岩城滉一を紹介した。
2009年11月1日フジテレビ『BASEBALL SPECIAL 2009~野球道~ 日本シリーズ 北海道日本ハムVS巨人第2戦』(札幌ドーム)の中継にて、初のプロ野球解説を清原和博と共に担当した。冒頭の挨拶にて、清原がいたからオファーを受けたこと、プロ野球の解説をするのは今回が最初で最後であることを告白した。試合中は「(自身の引退後にプロ入りした)巨人・坂本勇人を全く知らない」「いくら言っても生で見ないと分からない」とのことで、解説よりも日本ハム選手との交流エピソードを主に話した。5回表巨人の攻撃、二死一二塁から松本哲也が中堅前安打を放った場面で、中堅手・糸井嘉男が二塁走者の本塁突入を防ごうとすばやく前進し、捕球してすぐに送球したプレーに苦言を呈した。実況・三宅正治からの「新庄さんだったら?」という問いに対しては「俺だったらあえて急ごうとしない、あの状況(捕球位置から本塁までの距離と、捕球時点での走者の位置)から考えてどんな体勢でもホームで刺せるね。当然ホームで刺されるのをランナーは警戒するからアウトを取るための工夫をしなければならない」と返答。これに清原も大きく頷き「この工夫はイチローも実践している」とコメントした。
- コマーシャル
2006年12月21日、インテリジェンス社とCM契約を結ぶ。翌年に現役引退後最初のCMモデル出演として、同社が運営する転職雑誌・ウェブサイト『デューダ』のCMにて、「よろおね」と名刺を差し出すと同時に必要以上に体をよじりながら上体を乗り出すなどの演技を披露した。
2010年1月、東幹久・山口智充と共にアデランスのCMに出演。「3人の中でアデランスをしているのは誰?」という内容であった。正解は新庄であり、このCM撮影の為に丸坊主となっていた。
[編集] 新庄語録
「q:新庄剛志」を参照
[編集] 愛称
- プリンス
- 冠がつくこともある。阪神時代:「虎の~」「浪速の~」「~ オブ タイガース」。日本ハム時代:「北の~」「球界の~」。
- ツー
- 名前の「つよし」という読みから。阪神時代に親友の広沢好輝らから呼ばれて、その継承。日本ハム時代は同学年である岩本勉らから「ツーやん」、後輩から「ツーさん」と呼ばれた。
- シンちゃん
- 阪神時代にグラウンド整備担当者などのスタッフから呼ばれた。
- 宇宙人
- 他人には予測できないパフォーマンスや性格から。名付けたのはヤクルト監督時代の野村克也。後に阪神の監督となり、新庄から「敬遠球を打ちに出てもいいか」と許可を求められ回答に窮した挙句「好きにせえや!」と答えたところ、実行しサヨナラ安打とした際にもこの様に評した。
- SHINJOY(シンジョイ)
- 「SHINJO(新庄)」と「ENJOY(楽しむ)」の組み合わせ。メッツ時代の2001年、楽しそうにプレーする新庄を『ニューヨーク・タイムズ』がこう表現した。引退後、所有する競走馬名の一部に使用した(#現役引退後を参照)。また、阪神時代の登録名のアルファベット表記「SHINJYO」の下2文字を入れ替えた綴りでもある。
[編集] パーソナルデータ
- 身長 : 181cm(1993年) → 182cm(2005年)
- 体重 : 3680g(誕生時) → 78kg(1993年) → 75kg(2001年) → 76kg(2006年)
- 血液型 : A型
- 体脂肪率 : 3%(最低時) → 7%(2005年)
- スリーサイズ : 胸囲105cm・胴囲76cm・腰囲95cm(1993年) → 胸囲110cm・胴囲76cm・腰囲86cm(2001年)
- 股下 : 88cm(2001年)
- 視力 : 左右とも1.5(1993年)- 2006年に現役引退の理由のひとつとして、遺伝性の眼病による動体視力の低下を告白した。
- 握力 : 右88・左79(1993年) - 力士並みとも言われる。
- 背筋力 : 220kg(1993年) - 当時の阪神チーム内では一番強かったとのこと。
- 歯 - 阪神時代に、打撃時に食いしばり欠けた歯が痛くて集中力が低下し、食事も満足に出来ない時もあったため、また、黒ずんだ歯が嫌であったため約500万円かけて真っ白い歯(歯冠補綴物)に総入れ替えした。11月8日の「いい歯の日」(1993年日本歯科医師会制定)にちなんでオリコンがアンケート調査する「歯がキレイだと思う有名人」男性部門で初回2006年から3年連続第1位に選ばれた。
- 頭髪 - 染髪を好み、主には茶系色であるが、緑色や金色に染めたこともある。「帽子を被ったことにより乱れた髪型は見せたくない」との理由から、球場ではベンチにおいても常に帽子を着用している。
- 1993年のデータ:書籍『新庄剛志 PART2 (ベ-スボ-ルアルバム)』より
- 誕生時の体重データ:『月刊タイガース』1999年3月号より
- 2001年のデータ:自著エッセイ『ドリーミングベイビー』より
- 2006年の体重データ:『日刊スポーツ』より
- 最低時・2005年の体脂肪率データ:2006年4月13日放送テレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』より
[編集] プレースタイル
守備では屈指の強肩と打球判断、俊足を生かした外野守備力を誇り、NPBリーグ外野手の年間最多補殺を3回、最多刺殺を2回記録。MLBでも1年目に両リーグ新人外野手年間最多補殺を記録。生涯成績でも外野手として日米通算100補殺以上を記録している。打撃については調子の波があり、NPB年間打率は2割台中盤の年が殆ど。年間20本塁打以上は5回記録しているが、打率3割や本塁打30本に到達した年は一度もない。かつての指揮官・野村克也には「打撃以外は一流」と評された。もっとも、生涯成績ではNPB通算200本塁打、日米通算1500安打といった節目の記録に到達している。これらの記録達成時に自身は達成できるとは予想していなかったと発言し、常々打撃は苦手と発言していた。反面、守備に対しては、所属球団との契約交渉において補殺数出来高契約を求めたこともあり、常々の発言からも自信が覗えた。
[編集] 守備
高校・プロ入り時から外野手であったが、阪神時代には遊撃手及び三塁手に転向した時期もあり内野も守れる。1999年・2000年には二塁に、また三塁には1994年・1999年のオールスターゲームでも就いたことがある[注 13]。なお、試合内での移動を除く一軍においてのポジションコンバート歴は、1991年・遊撃手デビュー→翌1992年・三塁手(前任のトーマス・オマリー負傷離脱により)→遊撃手(前任の久慈照嘉負傷離脱により)→中堅手(前任の八木裕の打撃不振に加えて、それまで左翼手だったジム・パチョレックが、打撃不振の岡田彰布に代わって一塁に廻ったのも要因として挙げられる。八木はパチョレックに代わり左翼手として出場するようになった)。翌1993年春期キャンプ当初に首脳陣から再び遊撃手起用の方針を告げられるも、オープン戦で故障して長期離脱したことによりコンバートは中止となり中堅手として定着した。ただし、阪神時代のオールスターゲーム・日米野球にて人員不足時の左翼・右翼守備に就いたことが数度あるほか、メッツでの2001年のみ外野全3ポジションに万遍なく就いている。
[編集] 内野守備
[編集] 外野守備
- 全般
- 「打撃は得意ではないけど、守備は好き」と口にし、プロでの守備のほとんどを守った中堅手のポジションも「投手の動きがよく見え、投手にアドバイス出来るから」と好んでいる。外野手としては珍しくプロ人生でひとつのものを使い続けたグラブ(#野球用具参照)や、守備理論にも独特の合理性のもと拘りを持ち、2006年から日本ハム外野守備走塁コーチを務めた平野謙は、その守備理論には大変驚く点があったという。
- ポジショニング
- 自身は阪神時代に、補殺が狙える状況の中堅での基本的なポジショニング(位置どり)について、強肩への自信から走者がベースを回って次塁を狙うよう、深めの位置どりをしていると語っている。この位置どりに対して、同状況では基本的に浅めの位置どりを推奨する福本豊(阪神で1999年には外野守備走塁コーチ担当)は苦言を呈し、総じて後方への打球の捕球に自信がない外野手は深く位置どるものであるとも発言している。
- 自身は阪神時代のポジショニングについて、勘に頼った時には8割くらいは当たっていたと語っている。また、MLB時代も重要な局面での補殺成功の談話の中で、勘が当たっていたことをコメントしている[出 27]。
- 中堅から両翼の外野手に指示を送るリーダー的存在である期間が長い。阪神時代に急遽二塁守備へまわった際にも、その場から先輩外野手へ合図を送っている姿が中継されている。
- 構え
- 自身はテレビ番組にて、少年野球の子供達にも向けた提言として、「投手の投球モーション時に上半身を屈める構えは、外野への打球の大部分である飛球の場合に上体を起こす事で一瞬目線が浮き上がり、それだけでスタートが遅れてしまう。自分は、常に上体を起こして体の力を抜いた状態で、小刻みなステップを踏んでスタートのタイミングを計る」との勧めをユーモアも交えて実演している[出 28]。
- 打球判断
- 投手の投球方向を感知した瞬間、投球方向から予測される打球方向に2歩ほどスタートを切っていたと、自身は引退後に語っている。阪神で同僚外野手となった本西厚博は新庄の守備の優れている点として「打球を予測する嗅覚」を挙げ[出 29]、また打球落下地点を予測すると、そこへ全速力で到達できるよう一旦打球から目線を切って走る、用語でいう「目が切れる」外野手であると解説する。
- 捕球
- 普通の外野フライもジャンピングキャッチするという捕球スタイルについて、少年野球の指導者から「野球少年に悪影響を及ぼす」と指摘されたことがある。このスタイルは高校時代、先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身に付けたものだが、阪神時代に打球を顔面に受けたことが原因で大熊忠義コーチから一時禁止されていた。それ以降は引退までジャンピングキャッチを貫いた。なお、自身はジャンピングキャッチの利点について「走り込んできて、フライ性打球は上方向にライナー性は横方向に早めにジャンプして、その頂点で打球を見る事で目線が一瞬止まり(ぶれる事を防ぎ)、打球の急な変化に対応できる。そして、頂点から着地しながら捕球する事で、自然と打球の勢いを吸収することができる」と解説している[出 28]。また、自著[出 6]には「着地した直後にはその勢いですぐにスローイング(送球)できる」、「これを知人には「新庄式野球力学」と、からかわれることがある」と付け足している。
- 内野手の中継に送球する前の飛球捕球や、跳ねたクッションボールを素手の右手で捕る際などに、スローイング体勢に入りながら捕球する。
- 時折、追った打球に対して、体を正面に向ける前の状態で捕球することがある。MLBでトレーナー経験もあるフィジカルスーパーバイザーの広戸聡一は「新庄の肉体の一番の特長である、柔らかさ、しなやかさが日本人離れしている上半身を自在にコントロールして、顔は正面を向いて捕球できている」と分析する。MLB1年目に行った「真後ろ方向への打球を追い、全身がその方向に向いたままのポケットキャッチ」のように、顔も正面を向けることができづらい状態でも、顔の近辺で捕球できているとのことである[出 28]。また自身曰く、グラブの先が届くか届かないかのギリギリの打球は、肩の関節を外して捕球を試みていた。わずかでもボールへの距離を縮める工夫であったという。
- ダイビングキャッチを頻繁に試み、人工芝上で、袖の無いアンダーシャツを着用して腕を晒した状態であっても敢行する。
- 送球
- ゴロの打球に対してトップスピードで前進してきて、体が前に流れた時など体勢が悪くスローイングへの体重の溜めを作れない状態でも、体全体のバランスと肩・腹筋・背筋などの上半身を生かして良い送球ができていると栗山英樹は解説する[出 3]。送球の球筋が変化してしまっている場合には、ブルペンで投げ込み修正している[出 27]。
- プロでも内野手経験があるが、補殺を狙う際や内野手の中継への送球など、捕球してから投げるまでの動作時間が抜群に速い[出 29]。走者なしの場面での刺殺後に捕球動作からの流れでサイドスローにて内野手への返球を頻繁に行うが、補殺を狙うため中継への素早い送球を要する場面においても時折、同様のサイドスロー送球を素早く行う。
- 球界屈指の強肩として知られ、MLB時代には新庄の遠距離補殺に対してテレビ実況が「ロケット・アーム」と称した。阪神時代の送球は普通の外野手と比べると、塁上の受け手に走者が走る距離にして2 - 3mは早く到達しているであろうと、対戦経験から横浜・三塁ベースコーチ担当時の青山道雄は語っている[出 30]。1997年のオールスターゲーム試合前の投球スピードコンテストでは147km/hを記録し、同僚時代の定詰雅彦捕手は新庄からのバックホーム送球について1998年に「きれいなストレートの球質。ワンバウンド送球時、手元までグゥーと伸びてくるので、どこでバウンドするか判らない。彼の強肩なら、送球が内野手の頭上を通過するノーバウンドのバックホームをしたとしても、打者走者は送球間の二塁進塁を狙わないと思う」と語った[出 31]。プロ入り間もない二軍時代には、強肩が武器であるという自覚があったため、練習時の外野からホームへの送球ではバックネットに当たる暴投のような球を投げていた。その意図は、コーチが「肩の強さは伸び幅に限界があるが、コントロールなら教えればいくらでも修正が効く。あの肩ならノーコンでも周りの選手よりも可能性がある。」と考えるはずだと考えていたところにある。「ホームにきれいに送球できる選手はたくさんいてそこでは差がつきにくいが、肩の強い選手がコントロールを持てばそれを超えられる」と思っていたという。テレビ番組[出 8]でその肩について聞かれた際に自身は「あれでも(肩の強さは)落ちたんですよ」と言ってのけた。高校の野球部の同期には、プロ入り後「お前、肩(の強さが)落ちた?」と言われたとのこと。
- 他の野手との連携
- 2000年5月25日の中日戦(甲子園)、同点で迎えた6回表中日無死一三塁の場面で打者レオ・ゴメスが打ち上げた左翼定位置付近への飛球を、左翼・坪井智哉が一旦落下点に入っていたが、中堅・新庄が声で自身の到達を知らせながら走り込んで捕球し、体勢を整えず体を捻りながら本塁へ送球し走者・李鍾範を補殺した。この守備について1999年に外野守備走塁コーチを務めた福本豊は、当時の外野手陣の中において、走者がいて補殺を狙える場面での外野への打球で、肩の強い中堅・新庄が捕球出来る場合は優先して捕球を譲るという取り決めをしていたと語った[出 3]。MLB時代の2002年には中堅の守備位置から走り込んで右翼守備をカバーして補殺したこともある(#MLB時代を参照)。
- 日本ハム時代の中堅守備で左中間を組んだ左翼・森本との連携は抜群で「左中間の深い当たりをどちらかが捕球→体勢が悪い時は相手にトス→ボールを受け取った方が走者の次塁補殺を狙う」というプレーも稀に見られた。2005年の中日戦(ナゴヤドームでの交流戦)では逆にこのプレーを右翼・稲葉とやって失敗したこともある。その時は、右中間への安打を捕球した稲葉が後方へトスしたが、新庄は既にその地点を駆け抜けていてボールは更に後方へと転がり、足が速いとはいえない一塁走者のタイロン・ウッズを生還(打者走者の福留孝介は三塁進塁)させてしまった。このプレー失敗を日本ハム・トレイ・ヒルマン監督は「投げ手(森本は右。稲葉は左)が合わなかったから」と述懐している。また、これを機に番組『サンデーモーニング』内で張本勲と大沢啓二はこの種のプレーを総じて「今回の右中間でのプレーの場合、中堅から向かってきた右投げの新庄にトスしても新庄も体勢の立て直し(反転)が必要で、右翼の稲葉が体勢を立て直して自分で送球したほうが速かった(逆に、左中間で中堅から向かってきた新庄がトスを受ける場合は、そのままの体勢で送球出来る)」と解説した。
- ジャイアンツ時代の2002年6月21日・オリオールズ戦では、中堅手としてランダウンプレイに加わり、2→4→3→6→4→8と、最後は新庄が走者へタッチしてアウトにした。
- その他
- 日本ハム時代には、走者がいる場面で後方への飛球を追い、直接捕球は無理でフェンスに直撃すると判断すると、とっさに振り返って捕球体勢を一度とり、塁間で打球を見極める走者に一瞬「捕られる」と思わせてタッグアップに備えリタッチさせるなど惑わせて、結果的にその走者の進塁を明らかにひとつ少なく抑えるというトリックプレーを稀に見せた。再びフェンスを向いて素早くクッションボールを処理した時もある。
- 日本ハムでは投手交代時に外野3選手が中堅の位置に集まり、立て膝をついて膝を突き合わせ、グラブを頭に被ってミーティングするシーンが恒例となった(新庄の発案)。2006年の日本シリーズ第4戦の投手交代時には外野3選手の他に内野でも4選手が集まり同じポーズをとる姿が見られた。小笠原道大一塁手いわく自然とそうなったとのことで内野ではグラブは被っていない[出 32](この時外野からは新庄がしきりに「(グラブを)かぶれ、かぶれ」とジェスチャーを出していたが内野陣は気付いていなかった)。また、新庄引退後もファイターズの外野陣はこのミーティングを続けている。
[編集] 投手挑戦
- 1998年秋期キャンプより外野手との二刀流を目指し練習を開始して、翌1999年オープン戦においての初登板で球速143km/hを記録(藤崎台県営野球場)。福岡ドームでは最高の145km/hを記録した。この投手挑戦について、自身は「センターの守備位置からリリーフ登板してみたい」と発言するなど乗り気であり、発案者の野村克也監督は「(打撃時に活かせるよう相手である)投手の心理を理解させるため」「あれだけの強肩の持ち主。どんな球を放るか元捕手として純粋に興味がある」「あの返球を見たら、誰でもピッチャーをやらせたくなるだろう。下半身の使い方を覚えたら150km/hは出る」などと説明。しかし故障を機に断念した。
[編集] 打撃
- 全般
- 投球初球からでも積極的にスイングするため四球数は多くない。長年に渡り対戦したヤクルト・古田敦也捕手は新庄の打撃の特徴を「ヤマを張ってフルスイングするタイプ。腹をくくって打ってくる。そういう意味で嫌な打者」と評した[出 33]。特に阪神時代は成績不振と打撃コーチが頻繁に交代することも影響して、打撃フォームの試行錯誤を繰り返し、一枝修平ヘッドコーチからは「10人の新庄がいる」と評された。
- 比較的に直球を得意とし、変化球を苦手とする。高校時代に1番打者起用された理由は変化球への弱さにもあるという。日本ハム時代に右アンダースローのロッテ・渡辺俊介投手からは安打を記録できず、「フォームが崩れるから」と対戦を避ける傾向にあり特に2006年は全ての対戦試合でスタメンを外れた。本人も変則投法に苦手意識を持っており、右サイドスローのロッテ・山崎健投手から本塁打した際には「ボク、下手投げ得意じゃないの打法!!」とコメントした。
- 2000年に年間自己最高28本塁打を打ち、その内「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲本塁打は20本であった。MLB通算の満塁時打率は.400(25打数10安打)で特に初年度は.583を残すなどクラッチヒッターであるとの声もあがった。
- 構え
- 両手を伸ばしてバットを高く掲げ、呼吸をするように幾度か全身の背伸びを繰り返す。この待機の仕方は「ジャック打法」と呼ばれた(由来は童話『ジャックと豆の木』)。この待機法は形を変え、時には行わず、MLB2年目頃まで続けた。MLB1年目には相手チームから、両手を上げた脇の下から捕手が出すサインを覗いているのではないかという疑惑をかけられたことがあるが、「それで止めたら疑惑を認めることになる」と自分のスタイルを貫き、自然と疑惑は消えていった。この待機法の全身が伸びきった状態を描いたイラストレーションを自身の個人マークとして、アンダーシャツや個人広告看板(#人物像を参照)などに使用している。
- フォーム・スイング
- 基本的に一本足打法の時期が長い。阪神時代後期以降にすり足打法の時期もある。
- バットスイングにおける最大の弱点とされたドアスイング(トップからインパクトにかけてバットヘッドが遠回りをして出てきてしまうスイング)について、自身は2000年に「昨年までは、バットを棒のように使ってしまっていた」と表現した。1998年秋期キャンプにて野村克也新監督から受けた質問「バッティングには右手(右打ちの新庄にとって送り側)と左手(引き側)のどちらが重要な意味を持つか?」に対して、左手だと考えると答えた(それに対して野村は両方とも大事であると指導)。
- 年間本塁打・打点において自己最高を記録した2000年シーズン序盤、柏原純一打撃コーチ指導のもとで自身は「スイングスピード上昇を目指す」、「4月の試合でのヘッドスライディングの際に強打して負傷した左肩をかばってスイングしているうちに余分な力みが無くなった」、「バットヘッドの重みを使えて打てた」などと発言。スイング時にイメージするのは「バットを鞭のように使って打つ」とのこと。本塁打時などのインタビューにてこういったセリフが出た際の打撃について、門田博光はサンテレビの試合中継にて「スイング中ずっと同じ力で振るのではなく、インパクトの瞬間に最大の力を伝えている」と解説した。同様に広戸聡一は、新庄の打球に長飛距離が出る要因について「優れた上半身を生かしてのインパクトへの強い伝達能力」と分析する[出 28]。
- 日本ハム時代、自身は右腕の筋力が左に比べ強くなりすぎたことを気にしていたが、白井一幸ヘッドコーチのアドバイスでアッパースイングでバットを振ることで打撃成績が向上している。
- バント
- 独断でのセーフティー気味の犠牲バントを時折記録し、それには4番打者の時もあった。走者なしの場面でも時折セーフティーバントを企図する。2004年のオールスターゲーム第2戦では、1回表の先頭打者として、プレイボール前に左翼席を指差し予告ホームランのポーズをとったにもかかわらず、1球目でセーフティーバントを敢行した(全力疾走して結果はアウト)。スクイズプレイを企図したことは日米通じて殆んどない。
- その他
- 本塁打性の打球を放った際などに勢いよくバットを離すことがあるが、これにはグリップに滑り止めの松脂を多量に塗っていて手が離れにくいからという理由もある。
[編集] 走塁
- ベースランニング
- トップスピードが速く、1997年のある三塁打での、テレビ番組企画にて計測された打ってから三塁に到達するまでのタイムは11.03秒である。右打席でスイングが大きいため一塁までのタイムは4.4秒と平均を下回る[出 35]。高校時代の直線100m走タイムは11.7秒であった[出 36]。
- スライディング
- 1993年オープン戦にて二塁盗塁時にヘッドスライディングを敢行し、左肩を強打して重傷を負い、2000年4月にも同じく二盗時に敢行して左肩を強打負傷した苦い経験もあり、これを敢行する頻度は少ない。しかし、2004年のオールスターゲームでは「オールスターを盛り上げるために」と試みた本塁盗塁時に敢行している(#日本ハム時代参照)。
- 一塁へ駆け込む際の足からのスライディングを重要な局面で稀に敢行した。2001年6月17日インターリーグ、ニューヨーク・ヤンキース戦の決勝点へのチャンスを繋げる場面でこれを敢行した走塁は、地元マスコミから「カミカゼ・スプリント」と報じられた。この走塁中に故障を悪化させ、当試合を最後に故障者リスト入りした。
- 盗塁
- 俊足ではあるが、盗塁数は年間一桁台の年が殆んど。その理由には、首脳陣からの盗塁企図サインが少なかったこと、出塁率がそれほど高くなかったことが挙げられる。1998年秋期キャンプにて、野村新監督がヤクルト監督時代に敵将として感じていた、走力に対しての盗塁数の少なさの理由を本人へ問うたところ、「盗塁には興味がない」と返答した。
- その他
- 本塁打を打ったホームインの際に時折、手でベースへ触れるが、これはベースを土で汚さないためであり、球審から礼を言われたこともあるという。
[編集] 野球用具
- アドバイザリースタッフ契約
- メーカー不明:外野手用
- プロ入りして初めての給料を使い7,500円で購入し、MLB時代にチームメートに誤ってスパイクシューズで踏まれて大きく破損したことがあるなど4回の補修を重ね、現役引退まで使用した。これには父親からの「商売道具を大事にしろ」という教えが影響を及ぼしている。保管の際の湿気などにも気を配り、自身の「もうひとつの手」と称するほど拘りの代物で、絶対に他人が手を入れることを許さなかった。2006年の引退会見では、前日の最後の試合でライナーを捕球した際に破けたりと、消耗の度合いが限界まで達していたと語った。2011年に父親が死去した際には、このグラブも棺に納めた[出 17]。
- グラブ外側の親指部分に「(TH)63」(阪神球団マークと入団当初の背番号)と黒色で刺繍を入れたり、手首(甲側)の商標位置にオリジナルタグ(自身の個人マーク(#打撃を参照)と「Shinjo」の筆記体表記)を縫い付けていた時期もある。打球の手元での急変化に対応するため、ポケットが「中央・土手・先端」の3か所あり、先端部分からボールが半個分ほど出た状態でも捕球できるグラブであると語る[注 14]。使用時はグラブと手の固定のため、守備用手袋には松脂を塗っている。
- 他人から譲り受けたバットを試合で使用することが時折あり、そのバットで安打や本塁打を打ったと報じられることもあった。2001年シーズンの全10本塁打のうち、9本はジョー・マクユーイングとプレストン・ウィルソンのもので打っていて、自身のもので打ったのは1本のみであった。年間自己最高打率を記録した2004年は前年までのMLB生活で得た経験もふまえ、プロ選手としては珍しく3種類の素材(ヒッコリー・アオダモ・メイプル)のバットを使い分けた。
- 2005年のオールスターゲーム第2戦(甲子園)では、始球式で使用した黄金色のバットをそのまま試合でも使用した(規則上は試合での使用は認められていないが、審判も「お祭りだから」ということで黙認した)。
- バッティンググローブ
- 主に両手にはめる。試合途中のテンションが上がった打席では、両手とも素手にする時がある。ダイレクトプロテクト[出 23]を使用し、若手の頃は右手親指にスポンジを巻いていた。
- エルボーガード
- 基本的に黒色が基調(阪神時代の一時は赤色基調)。打撃時の投手側に向ける肘を死球から守るためのもので、1993年当時はまだ普及しておらず、7月に死球を左肘に受け負傷したことをきっかけに、既存の爪先ガードを切り刻み改良し、即席で肘にフィットするものを球団トレーナーに作成してもらった。MLBで初めてエルボーガードが使用されはじめたのはこれより後年との報道(『日刊スポーツ』)もあり、現在は日米で普及し重宝されているエルボーガードを早い段階から使用し始めたとされる。また通常は打撃用であるが、外野守備時のダイビングキャッチに備え着用したことも幾度かある。
- 自打球対策のフットガード(爪先から脛の中間位まで覆うもの)も時折着用する。
- スパイクシューズ
- アシックス社製:ハイカットタイプ(阪神時代)
-
- 2005年のオールスターゲームでは、180万円相当のダイヤモンドが埋め込まれたスパイクを履いた。2006年の日本シリーズでは、池山隆寛から紹介された奈良県にあるジャガーズ創工社製(「J」のロゴ)の金色×赤色のスパイクを履いた。
- ユニフォーム
- NPB時代はチームのユニフォームを製作しているデサント社と個人契約を結んでいるつながりもあり(日本ハム時代はビジター用が同社製(ホーム用はミズノ社製)であり、こちらは個人契約は結んでいない)、他の選手のものに比べて胸元部分が極端に深くV字型に開いていて、また袖部分は極端に短くタイトなものを特注していた。常に二の腕部分を曝け出すことで、肉付きが甘くなると鍛えなおすためとのこと。
- 背中のアルファベット表記は、阪神時代は「SHINJYO」(この表記はローマ字表記ではヘボン式・訓令式いずれの表記法でも間違い)であったが、メッツにFA移籍した際に「Y」を抜いた「SHINJO」に変更し、日本ハムでは登録名にもして継続された。
- 阪神時代、1999年オールスターゲームのホーム試合にて、ホーム用ユニフォームにビジター用の帽子・ヘルメット(共に黒色)を組み合わせて出場した(同試合で同僚の和田豊も、ヘルメットのみビジター用を着用した)。翌2000年オフ、ビジター用ユニフォームが縦縞の無いタイプに変更された際には、球団より事前に新デザインへの意見を求められた。
- 日本ハム時代、2005年オールスターゲーム第2戦の試合前にグラウンドに姿を見せた時に着用していたユニフォームは、通常はチーム名がプリントされている胸部分に「SHINJO」、逆に背中に「FIGHTERS」と正反対にあしらわれていた。自身曰く「今日は新庄ファイターズで」。そのまま出場しようとしたが、使用許可は得られなかった。
- 2006年5月18日対阪神交流戦(甲子園)では、阪神球団関係者から記念に贈られた阪神時代のユニフォームを着用して試合前シートノックを受けた。この行為に対してスタンドの阪神ファンからは拍手喝采が送られたが、日本ハム球団及び連盟から注意を受けた。後にトレイ・ヒルマン監督は「この行為に対しては戸惑った」と振り返った[出 38]。
- デサント社製:赤色・20cm、15cm、10cm(1993年)
- プーマ社製:チェッカーフラッグ柄(赤色×黒色、白色×黒色)・短いタイプ(日本ハム時代)
- 基本的に長いものを両手に着用し、短いものを二枚重ねにすることもある。NPB時代は基本的に、一番好きな色であり自身のトレードカラーの赤色。MLBでも当初は赤色の着用を希望したが、MLBではチームカラー以外のものを身に付けることが認められないため、メッツのチームカラーの中からオレンジ色を着用した(翌年の移籍先のジャイアンツもオレンジ色がチームカラーだったため3年間継続)。前述以外の色では阪神時代に、ツートンカラー(赤色×黒色)・紫色・黒色などを着用した。
- アンダーシャツ
- 基本的にタートルネックのノースリーブ。阪神時代初期には、汗が首筋をたれ落ちるのを防ぐために、夏場は長袖では暑いので肩の部分から袖を切り落としていた(自著[出 6]によると、タートルネックのノースリーブのものを着用した選手はNPBでは自身が最初であろうとのこと)。
- 日本ハム時代には、首部分に自身の個人マークをプリントしている。この類の個人マークを首部分にプリントしたのはNPB初である[出 39]。
- 日本ハム時代に着用した襟付きアンダーシャツについては「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照。
- アンダーストッキング
- ズボンの穿きこなしとして、裾とスパイク上部が数cmしか離れない穿き方が流行しはじめてからは、通常2枚穿く靴下類の代わりとして着用していた。規則では禁止であるが、自身は都合が良いと考えて初めて1枚のみの着用を始めたところ、皆も始めだしたとのこと。
- 野球バッグ
- ルイ・ヴィトン社製:価格58万8000円(2006年春季キャンプ)
- 1993年のデータ、エルボーガードについて:書籍『新庄剛志 PART2 (ベ-スボ-ルアルバム)』より
- 1998年・1999年のバットデータ:『月刊タイガース』1999年3月号より
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991 | 阪神 | 13 | 17 | 17 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | .118 | .118 | .118 | .236 |
| 1992 | 95 | 378 | 353 | 39 | 98 | 16 | 3 | 11 | 153 | 46 | 5 | 2 | 3 | 0 | 18 | 0 | 4 | 73 | 11 | .278 | .320 | .433 | .753 | |
| 1993 | 102 | 436 | 408 | 50 | 105 | 13 | 1 | 23 | 189 | 62 | 13 | 2 | 0 | 0 | 20 | 3 | 8 | 91 | 6 | .257 | .305 | .463 | .768 | |
| 1994 | 122 | 506 | 466 | 54 | 117 | 23 | 7 | 17 | 205 | 68 | 7 | 5 | 2 | 2 | 30 | 0 | 6 | 93 | 9 | .251 | .304 | .440 | .744 | |
| 1995 | 87 | 346 | 311 | 34 | 70 | 15 | 3 | 7 | 112 | 37 | 6 | 4 | 2 | 2 | 26 | 1 | 5 | 76 | 6 | .225 | .294 | .360 | .654 | |
| 1996 | 113 | 473 | 408 | 55 | 97 | 16 | 4 | 19 | 178 | 66 | 2 | 2 | 1 | 3 | 55 | 6 | 6 | 106 | 10 | .238 | .335 | .436 | .771 | |
| 1997 | 136 | 539 | 482 | 62 | 112 | 17 | 3 | 20 | 195 | 68 | 8 | 4 | 0 | 4 | 44 | 0 | 9 | 120 | 7 | .232 | .306 | .405 | .711 | |
| 1998 | 132 | 451 | 414 | 39 | 92 | 21 | 3 | 6 | 137 | 27 | 1 | 2 | 4 | 2 | 25 | 4 | 6 | 65 | 4 | .222 | .275 | .331 | .606 | |
| 1999 | 123 | 507 | 471 | 53 | 120 | 21 | 7 | 14 | 197 | 58 | 8 | 2 | 2 | 1 | 23 | 2 | 10 | 72 | 21 | .255 | .303 | .418 | .721 | |
| 2000 | 131 | 549 | 511 | 71 | 142 | 23 | 1 | 28 | 251 | 85 | 15 | 6 | 3 | 2 | 32 | 7 | 1 | 93 | 10 | .278 | .321 | .491 | .812 | |
| 2001 | NYM | 123 | 438 | 400 | 46 | 107 | 23 | 1 | 10 | 162 | 56 | 4 | 5 | 4 | 2 | 25 | 3 | 7 | 70 | 8 | .268 | .320 | .405 | .725 |
| 2002 | SF | 118 | 398 | 362 | 42 | 86 | 15 | 3 | 9 | 134 | 37 | 5 | 0 | 3 | 3 | 24 | 2 | 6 | 46 | 5 | .238 | .294 | .370 | .664 |
| 2003 | NYM | 62 | 124 | 114 | 10 | 22 | 3 | 0 | 1 | 28 | 7 | 0 | 1 | 2 | 1 | 6 | 1 | 1 | 12 | 0 | .193 | .238 | .246 | .483 |
| 2004 | 日本ハム | 123 | 544 | 504 | 88 | 150 | 28 | 3 | 24 | 256 | 79 | 1 | 3 | 12 | 4 | 15 | 0 | 9 | 58 | 6 | .298 | .327 | .508 | .835 |
| 2005 | 108 | 406 | 380 | 54 | 91 | 20 | 1 | 20 | 173 | 57 | 5 | 1 | 5 | 2 | 14 | 1 | 5 | 64 | 6 | .239 | .274 | .455 | .729 | |
| 2006 | 126 | 477 | 438 | 47 | 113 | 21 | 0 | 16 | 182 | 62 | 2 | 6 | 10 | 3 | 24 | 3 | 2 | 76 | 8 | .258 | .298 | .416 | .714 | |
| NPB:13年 | 1411 | 5629 | 5163 | 647 | 1309 | 234 | 36 | 205 | 2230 | 716 | 73 | 39 | 44 | 25 | 326 | 27 | 71 | 990 | 105 | .254 | .304 | .432 | .736 | |
| MLB:3年 | 303 | 960 | 876 | 98 | 215 | 41 | 4 | 20 | 324 | 100 | 9 | 6 | 9 | 6 | 55 | 6 | 14 | 128 | 13 | .245 | .299 | .370 | .668 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 年度別守備成績
- 内野守備成績(ポジション別)
| 年 度 |
球 団 |
遊撃 | 三塁 | 二塁 | |||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
||
| 1991 | 阪神 | 8 | 6 | 10 | 3 | 2 | .842 | - | - | ||||||||||
| 1992 | 9 | 9 | 18 | 0 | 3 | 1.000 | 26 | 13 | 47 | 6 | 3 | .909 | - | ||||||
| 1999 | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
| 2000 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | |
| 通算 | 19 | 15 | 31 | 3 | 5 | .939 | 27 | 13 | 47 | 6 | 3 | .909 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
- 外野守備成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1992 | 阪神 | 65 | 127 | 8 | 1 | 1 | .993 |
| 1993 | 102 | 236 | 13 | 6 | 1 | .976 | |
| 1994 | 120 | 289 | 4 | 1 | 0 | .997 | |
| 1995 | 87 | 206 | 5 | 3 | 3 | .986 | |
| 1996 | 111 | 248 | 6 | 4 | 1 | .984 | |
| 1997 | 135 | 276 | 13 | 6 | 1 | .980 | |
| 1998 | 124 | 268 | 12 | 4 | 5 | .986 | |
| 1999 | 121 | 247 | 8 | 3 | 2 | .988 | |
| 2000 | 129 | 251 | 8 | 3 | 3 | .989 | |
| 2001 | NYM | 119 | 256 | 12 | 3 | 3 | .989 |
| 2002 | SF | 117 | 286 | 10 | 6 | 3 | .980 |
| 2003 | NYM | 54 | 98 | 5 | 3 | 1 | .972 |
| 2004 | 日本ハム | 122 | 272 | 8 | 5 | 1 | .982 |
| 2005 | 106 | 212 | 3 | 2 | 0 | .991 | |
| 2006 | 126 | 271 | 4 | 3 | 0 | .989 | |
| NPB:12年 | 1348 | 2903 | 92 | 41 | 18 | .986 | |
| MLB:3年 | 290 | 640 | 27 | 12 | 7 | .982 | |
- 各年度の太字はリーグ外野手最高
[編集] 表彰
- NPB
- ベストナイン:3回 (外野手部門:1993年、2000年、2004年)
- ゴールデングラブ賞:10回 (外野手部門:1993年、1994年、1996年 - 2000年、2004年 - 2006年) ※2000年、2004年、2005年は外野手部門最多得票 - 両リーグで連続受賞は平野謙に次いで史上2人目
- 月間MVP:2回 (野手部門:1999年5月、2004年9月)
- JA全農Go・Go賞:6回 (好捕賞:1992年6月、1995年6月、2004年6月 最多二・三塁打賞:2004年8月 強肩賞:1997年9月、2004年9月) ※2004年の3回受賞は柴原洋と共に史上年間最多(2011年終了時点)
- 優秀JCB・MEP賞:3回 (1993年、1994年、2000年)
- 札幌ドームMVP (野球部門:2004年)
- オールスターゲームMVP:2回 (1999年第3戦、2004年第2戦) ※両リーグ所属選手として受賞は落合博満、清原和博に次いで史上3人目
- オールスターゲーム優秀選手賞:3回 (1999年第2戦、2000年第3戦、2006年第1戦)
- MLB
- ルーキーオールスター[注 7] (外野手部門:2001年)
- その他
- 日本プロスポーツ大賞 (功労賞:2004年[出 12])
- ゴールデン・アロー賞 (スポーツ賞:2006年)
- スポーツナビ大賞 (2006年[出 40])
- アクアピースゴールデンハート賞 (2001年[出 41])
[編集] 記録
- NPB初記録
- 初出場:1991年9月10日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、9回表に猪俣隆の代打として出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、9回表に香田勲男から中前適時打
- 初先発出場:1991年9月16日、対広島東洋カープ22回戦(広島市民球場)、7番・遊撃手として先発出場
- 初本塁打:1992年5月26日、対横浜大洋ホエールズ6回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に有働克也から
- 初盗塁:1992年7月9日、対横浜大洋ホエールズ15回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に二盗(投手:欠端光則、捕手:秋元宏作)
- NPB節目の記録
- 100本塁打:1998年7月25日、対横浜ベイスターズ17回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に野村弘樹から
- 1000試合出場:2000年7月20日、対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、4番・中堅手として先発出場 ※史上362人目
- 150本塁打:2004年4月21日、対西武ライオンズ8回戦(西武ドーム)、8回表に小野剛から ※史上134人目
- 1000本安打:2004年5月30日、対西武ライオンズ11回戦(函館オーシャンスタジアム)、3回裏に張誌家から左前安打 ※史上219人目
- 200本塁打:2006年6月16日、対広島東洋カープ4回戦(札幌ドーム)、3回裏に佐々岡真司からソロ ※史上87人目
- NPBその他記録
- 球団最年少先発4番打者出場 (1993年10月1日中日戦:21歳8か月3日) ※2011年シーズン終了時点継続中
- リーグ外野手最多補殺:3回 (1993年:13、1997年:13、1998年:12) ※1993年、1998年は両リーグ最多
- リーグ外野手最多刺殺:2回 (1994年:289、2004年:272) ※2004年は両リーグ最多
- リーグ最多三塁打:2回 (1994年:7、1999年:7) ※1994年は両リーグ最多
- リーグ最多死球:2回 (1993年:8、1999年:10) ※1993年は両リーグ最多
- リーグ最多併殺打 (1999年:21) ※両リーグ最多
- 16試合連続安打 (2000年9月7日ヤクルト戦 - 9月30日広島戦)
- 4試合連続本塁打:2回 (1996年4月13日広島戦 - 4月17日ヤクルト戦、2000年6月8日巨人戦 - 6月13日中日戦)
- 試合5安打 (2004年8月20日近鉄戦)
- ※複数打者イニング2満塁本塁打 (1996年10月9日中日戦1回 1本目:新庄剛志、2本目:塩谷和彦) ※史上初
- オールスターゲーム出場:7回 (1994年、1997年、1999年、2000年、2004年 - 2006年) ※全てファン投票選出
- オールスターゲーム・ファン投票リーグ最多得票:2回 (1994年:434,906、1999年:915,773)
- オールスターゲーム・単独ホームスチール成功 (2004年第2戦) ※史上初(2011年終了時点唯一)
- オールスターゲーム・全セ・リーグ1000本目安打 (1999年第2戦)
- 日米野球出場:2回 (1992年、2000年) ※2004年、2006年はファン投票選出されるも出場辞退
- MLB
| 回 | 状況 | 結果 |
|---|---|---|
| 1回表 | 二死満塁 | 6号満塁本塁打(左翼) |
| 2回表 | 一死走者なし | 中堅前安打 |
| 4回表 | 無死走者なし | 投手ゴロ |
| 6回表 | 二死走者なし | 7号本塁打(中堅) |
| 8回表 | 無死二塁 | 三塁内野安打 |
| 9回表 | 二死走者なし | 右中間二塁打 |
※MLB日本人選手初記録 (サヨナラ安打:2001年5月20日ドジャース戦、先発4番打者出場:2001年8月3日ダイヤモンドバックス戦、満塁本塁打:2002年5月17日マーリンズ戦、ワールドシリーズ出場及び安打:2002年10月19日エンゼルス戦、他)
- NPB・MLB通算節目の記録
- 日米通算外野守備機会100補殺:2003年
- 日米通算1500試合出場:2005年4月23日、対オリックス・バファローズ戦(東京ドーム)
- 日米通算200本塁打:2005年6月5日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤドーム)、1回表に山本昌からソロ
- 日米通算250二塁打:2005年
- 日米通算1000三振:2005年
- 日米通算1500本安打:2006年8月22日、対東北楽天ゴールデンイーグルス13回戦(岩手県営野球場)、5回表に渡邉恒樹から左前安打
[編集] 背番号
- 63 (1990年 - 1992年、2006年9月27日)
- 5 (1993年 - 2003年)
- 1 (2004年 - 2006年9月26日、2006年9月28日 - 2006年10月26日)
[編集] 登録名
[編集] 登場曲
- 阪神時代
- 日本ハム時代
[編集] 栄典・表彰
※野球に関する表彰は#表彰を参照。
- 栄典
- 紺綬褒章 (2007年)
- ファッション関連
- ベストドレッサー賞 (スポーツ・芸能部門:2001年)
- 日本メガネベストドレッサー賞 (スポーツ界部門:2001年)
- 日本ジュエリーベストドレッサー賞 (男性部門:2002年)
- ベストフォーマリスト (男性部門:2005年)
- COTTON USAアワード (Mr.COTTON USA:2007年)
- BEST STYLE IN SNEAKERS (2005年) ※MTV主催(MTV THE SNEAKER SHOW 2005より)
- ダンディ大賞 (スポーツ部門:2006年) ※ダンディハウス主催
- ヘアカラーリングアワード (グランプリ:2007年) ※ホーユー主催
[編集] 個展
- 絵画展
- Sinjo's Gallery in Fukuoka "LIFE is ART!" (2008年11月29日 - 12月7日 博多大丸・福岡天神店)
- Sinjo's Gallery in Hokkaido "Love & Fight!" (2008年12月26日 - 12月31日 札幌パルコ)
[編集] 音楽
- CDシングル
- 『第II章〜True Love〜』 C/W『最後に笑えたらいいね』 (日本コロムビア 1994年3月1日発売 1994年1月13日レコーディング) - ジャケット写真には三菱・ミニカトッポが使われている。
[編集] 映画
- 『僕たちのプレイボール』 (2010年[出 43])
[編集] メディア出演
[編集] テレビ番組
- 『第34回日本レコード大賞』 (TBS 1992年12月31日) - 川中美幸のエスコート役。
- 『とんねるずのみなさんのおかげでした「新・食わず嫌い王決定戦」』 (フジテレビ 2001年1月18日:釈由美子と対戦、2006年12月28日:黒木瞳と対戦) - 木梨側ゲスト(#趣味・好物を参照)。
- 『SMAP×SMAP』 (フジテレビ 2001年12月24日) - ゲスト(以降3回出演)。
- 『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』 (テレビ朝日 2002年1月2日) - リアル野球BAN対決。
- 『クイズ$ミリオネア 正月スペシャル』 (フジテレビ 2004年1月2日) - 挑戦者(#メディア出演詳細を参照)。
- 『森田一義アワー 笑っていいとも!「テレフォンショッキング」』 (フジテレビ 2004年10月8日、2009月2月20日) - テレフォンゲスト(#メディア出演詳細を参照)。
- 『いつみても波瀾万丈 スペシャル』 (日本テレビ 2004年12月19日) - メインゲスト。
- 『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』 (テレビ朝日 2006年4月13日) - メインゲスト。
- 『中居正広の金曜日のスマたちへ 「波瀾万丈特別編~新庄剛志の真実~」』 (TBS 2006年12月29日) - メインゲスト。
- 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』 (日本テレビ 2007年8月18日、19日) - チャリティーパーソナリティー。
- 『THE M』 (日本テレビ 2008年1月2日) - 特別番組MC。
- 『水戸黄門 第38部第7話「味が命の人情包丁! -伊勢-」』 (TBS 2008年2月18日) - ATSUSHI(EXILE)と共にセリフ無しの出演。
- 『難病と闘う子供たち!私たちはこんな病気と闘っています4』 (TBS 2008年4月8日) - MC(第1回 - 第4回)。
- 『しゃべくり007 初回拡大SP』 (日本テレビ 2008年10月20日) - スペシャルゲスト(#メディア出演詳細を参照)。
- 『行列のできる法律相談所 ~有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト~』 (日本テレビ 2008年11月23日) - エアブラシアート作品をチャリティーオークションへ出品(#メディア出演詳細を参照)。
- 『ナニコレ珍百景 史上最強!!! 驚きのニッポン衝撃風景グランプリ Xmas3時間SP』 (テレビ朝日 2008年12月24日) - 230Km/hバッティングマシン挑戦(#メディア出演詳細を参照)。
- 『旅のココロ 石ちゃん・新庄の絶対美味しい!感動グルメツアー!!』 (テレビ朝日 2009年1月12日) - 森本稀哲と共演。
- 『世界の絶景100選 ついに決定! 死ぬまでに見たい100の絶景と地球一絶景大発表スペシャル』 (フジテレビ 2009年2月20日) - 紹介した絶景「ジープ島に架かる虹の景観」が地球一絶景に選ばれた。
- 『お宝THEプレミアム』 (フジテレビ 2009年3月8日) - 現役時代に使用したグラブ(#野球用具参照)を自ら紹介した。
- 『Music Lovers』 (日本テレビ 2009年5月17日、24日) - 福山雅治のデビュー20周年を加藤晴彦と共に祝福。福山・新庄両者の経歴を照らし合わせて懐古した。
- 『BASEBALL SPECIAL 2009~野球道~ 日本シリーズ 北海道日本ハムVS巨人第2戦』 (フジテレビ 2009年11月1日) - 現役引退以来、初のプロ野球解説(#メディア出演詳細を参照)。
- 『世界の強運実話!もってる人グランプリ』 (TBS 2011年9月8日) - MC。
- 『VS嵐~辰年戦い初め~新春!最強王者決定戦』 (フジテレビ 2012年1月3日) - 嵐チーム・プラスワンゲスト。
他多数
[編集] コマーシャル
- オートバックスセブン
- ニューヨーク・メッツ (2001年) - 球団CM。
- デサント
- ローソン
- サントリー「モルツ」
- 東洋水産「マルちゃん ホットヌードル」
- コカ・コーラ「ジョージア」 - 缶コーヒー。
- PARCO
- 日本ハム「モーニングサーブ」「ハムギフト」
- 大塚製薬「オロナミンC」
- 国民健康保険 - 北海道限定。
- レイバン
- グンゼ
- 資生堂「シーブリーズ」
- エイチ・アイ・エス - 夏木マリ、秋元康と共演。
- アオキインターナショナル「メンズプラザアオキ」
- 長谷工アーベスト「スターコート豊洲」
- ダイドードリンコ「D-1」 (2006年)
- 『香料がいらない篇』
- 『ドイツ語篇』
- 『ダイナミック篇』
- 『無香料時代篇』
- 『本物の豆の香り篇』
- 『じゃあ言わない篇』
- 『豆だ篇』 (2007年3月 - )
- 『バンバンバン篇』 (2007年3月 - )
- 『もう1本篇』 (2007年3月 - )
- 『動体視力篇』 (2007年3月 - )
- 『たすきをチェック篇』 (2007年3月 - WEB限定)
- 『カップテスト篇』 (2007年3月 - WEB限定)
- 『タンクチェック篇』 (2007年3月 - WEB限定)
- 『標語を掲示篇』 (2007年4月 - )
- 『豆の品質をチェック篇』 (2007年4月 - ) 他
- ジレット
- 日本特殊陶業「NGKイリジウムプラグ」
- サッポロビール
- インテリジェンス「DODA(デューダ)」 (2007年1月 - ) - #メディア出演詳細を参照。
- アサヒビール「アサヒ本生アクアブルー」
- 『告知篇』 (2007年2月16日 - )
- 『登場篇』 (2007年2月20日 - )
- 『展開篇』 (2007年4月20日 - )
- 映画『デジャヴ』 (2007年)
- アデランス「アデランスは誰でしょう?」 (2010年) - #メディア出演詳細を参照。
- オッズパーク「オッズパークLOTO」 (2010年)
他
[編集] ファッション雑誌
[編集] 著書
- 単著
- 『ドリーミングベイビー』 (光文社 2001年4月 ISBN 4334972977) - エッセイ。
- 『shinjyo5.net』 (二見書房 2001年6月)
- 共著
[編集] 関連書籍
- 『タイガースの革命児―中込伸・亀山努・新庄剛志写真集』 撮影:畑井勇二 (ソニ-・マガジンズ 1992年12月)
- 『新庄剛志 (ベ-スボ-ルアルバムNO.115)』 (ベ-スボ-ル・マガジン社 1992年12月)
- 『振り抜け剛志!!―阪神タイガ-ス新庄剛志選手物語』 はやし勝、春樹椋尾、福まさる (星雲社 1993年4月)
- 『新庄剛志PART2 (ベ-スボ-ルアルバムNO.116)』 (ベ-スボ-ル・マガジン社 1993年8月)
- 『新庄剛志写真集 (Gakken Mook)』 (学習研究社 1994年4月)
- 『新庄くんは、アホじゃない!』 中田潤 (飛鳥新社 2001年4月)
- 『大リーガー新庄剛志』 高部務 (ラインブックス 2001年5月)
- 『新庄のお父さん、新庄のお母さん』 新庄剛志ウォッチャ-ズ (主婦と生活社 2001年7月)
- 『新庄語録―メジャーリーグ“ニューヨーク・メッツ”新庄剛志』 目津幸太郎 (近代映画社 2002年1月)
- 『新庄に学ぶ「楽観」の哲学』 三洲田泰雅 (廣済堂出版 2002年1月)
- 『大リーガー「新庄剛志」の育て方―子育ては“木育て”』 新庄英敏 (ゴマブックス 2002年5月)
- 『SHINJO』 ジョン・シェイ (朝日新聞社 2003年1月)
- 『夢のとなりで―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記 (Stride books series)』 小島克典 (メディアート出版 2004年3月)
- 『元・阪神―そして、ミスタータイガースは去った―』 中田潤、矢崎良一、橋本清、池田浩明、高橋安幸 (竹書房 2004年5月)
- 『こんなぼくでも英語がしゃべれた―新庄剛志の元通訳(メジャーリーグ)』 小島克典 (王様文庫 2005年1月)
- 『新庄の信条―バカカッコいい男の真実』 宮崎満教、新庄剛志特別取材班 (東邦出版 2006年7月)
- 『新庄のコトバ』 中田潤 (講談社 2006年9月)
- 『Thank you to all people新庄剛志―すべての人に (日刊スポ-ツグラフ)』 (日刊スポ-ツ出版社 2006年10月)
- 『新庄のやり方50―人生・仕事に役立つ「SHINJO流」哲学 (廣済堂文庫)』 三洲田泰雅、覇夢付愛太 (廣済堂出版 2006年12月)
- 『SHINJO夢をありがとう―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記・北海道観戦記 (廣済堂文庫)』 小島克典 (廣済堂出版 2007年3月)
- 『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝 選手編(13) 世界のSHINJYO新庄剛志』 (講談社 2009年11月) - 分冊百科。
他
[編集] 関連VHS・DVD
- VHS
- 『新庄剛志星を掴む男―新・猛虎伝説ミスタータイガースへの道』 立木義浩 (ビクタ-音楽産業第2・ビクターエンタテインメント 1993年9月)
- 『阪神タイガース3タテ伝説―対巨人3連戦3連勝全記録』 (文藝春秋 1999年6月)
- DVD
- 『SHINJO』 演:新庄剛志 (札幌テレビ放送・ビクターエンタテインメント 2007年1月)
- 『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝 選手編(13) 世界のSHINJYO新庄剛志』 (講談社 2009年11月) - 分冊百科。
他
[編集] 出典・脚注
[編集] 出典
- ^ a b 『新庄剛志PART2 (ベ-スボ-ルアルバムNO.116)』 (ベ-スボ-ル・マガジン社 1993年8月)より
- ^ a b 『大リーガー「新庄剛志」の育て方―子育ては“木育て”』新庄英敏(ゴマブックス 2002年5月)
- ^ a b c TBS・スポーツドキュメンタリー番組『ZONE「新庄剛志―その恐るべきポテンシャル」』より
- ^ 2009年5月17日放送『Music Lovers』にて発言。
- ^ a b 引退発言から一転、おわび会見 - ニッカンスポーツ、1995年12月6日、2010年2月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『ドリーミングベイビー』新庄剛志(光文社 2001年4月 ISBN 4334972977)
- ^ 『元・阪神―そして、ミスタータイガースは去った―』(竹書房 2004年5月)
- ^ a b 2004年12月19日放送・日本テレビ『いつみても波瀾万丈』
- ^ 全米を酔わせるスーパープレー 新庄は“サムシング”を持っている(後編) - sportsnavi.com
- ^ メジャーでも記録なし!魅せた新庄のヘッドスライディング - スポニチ Sponichi Annex
- ^ 幻の満塁弾 走者と抱き合って…
- ^ a b 協会より。※公式サイト日本プロスポーツ大賞では功労賞の2006年以前分は閲覧不可のため。
- ^ 甲子園出場の母校にバス差し入れ - ニッカンスポーツ、2004年8月10日、2010年2月15日閲覧。
- ^ [1] - Yahoo!News
- ^ 新庄の愛馬タノシンジョイがJRA挑戦 - デイリースポーツonline
- ^ 新庄氏「打ったらヒーロー」/一問一答 - nikkansports.com、後述のテレビ番組『世界の強運実話!もってる人グランプリ』など。
- ^ a b 新庄氏、父の棺に“相棒”グラブ
- ^ 大混乱必至!?DeNA社なら横浜“新庄監督” - SANSPO.COM
- ^ 2011年5月28日放送・TBS『バース・デイ』にて。
- ^ 44年ぶりV!新庄泣きっぱなし nikkansports.com
- ^ オリックス中村監督「幸せを祈ります」、ロッテ・バレンタイン監督「球界の救世主に」 - nikkansports.com
- ^ 2009年1月12日放送・テレビ朝日『旅のココロ 石ちゃん・新庄の絶対美味しい!感動グルメツアー!!』
- ^ a b nikkansports.com ダイレクトプロテクト(写真):送り側の手の親指にはめる用品。インパクト時の痺れ緩和などを目的とする。
- ^ グラブも言った「無理だ」nikkansports.com
- ^ SHINJO&ブラッカイマーがLAで共同会見。「デジャヴ」など3作品をPR
- ^ a b 米男性ファッション誌「GQ」でモデルデビュー - ニッカンスポーツ、2001年03月23日付 紙面から。
- ^ a b 初のサヨナラ補殺決める - ニッカンスポーツ、2003年5月25日、2010年2月17日閲覧。
- ^ a b c d e 2006年4月13日放送・テレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』でのトークより
- ^ a b 本西厚博が『週刊ベースボール』にてなど。
- ^ 『プロ野球ニュース19XX』補殺特集より
- ^ a b 『月刊タイガース』
- ^ 日本ハム内野陣が「自然に」新庄ポーズ
- ^ ヤクルト古田兼任監督「新庄はすごい人」
- ^ 200号空砲も2カ月ぶりコメントで喜び表す
- ^ スカウティング・レポート 『月刊スラッガー』2001年11月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、36-41頁。
- ^ 新庄、初のサヨナラ打放つも冷静 nikkansports.com
- ^ 2002年、2003年はスパイクシューズのみの契約。2004年プレスリリース
- ^ 日本ハム・ヒルマン監督「2人だけの誓い」
- ^ 『週刊ベースボール』2008年5月26日号に掲載の「綱島理友のベースボール意匠学」より。
- ^ スポーツナビ・アワード2006 - sportsnavi.com※ワイズ・スポーツ主催(スポーツナビ・アワード2006より)
- ^ アクアピースゴールデンハート賞※アクアピースネットワーク主催
- ^ [2] - nikkansports.com
- ^ 『僕たちのプレイボール』作品紹介-MOVIE Collection
[編集] 脚注
- ^ a b 同音同字で山形県新庄市の民謡がある。
- ^ 二軍選手の中から各球団2名ずつ。阪神からは嶋尾康史と共に選出された。
- ^ 国内の「新庄」と名のつく市町村(山形県新庄市、奈良県新庄町、岡山県新庄村)がタイガース新庄人気にあやかって村おこしの一環として創設。
- ^ 当時は日本プロ野球を引退すれば、メジャーリーグベースボールへの挑戦が出来る制度。自由契約になる必要はなく任意引退でよかった。この年よりMLBへ移籍していた野茂英雄が前年にこれを明らかにし、その後には伊良部秀輝の事例が続き、MLB側からも球団間での選手獲得機会均等を実現する制度の要求があり、新制度であるポスティングシステムができることになる。
- ^ 1992年に一軍で初めて中堅守備に就いた当球場では、翌2000年の広島戦でも同様のゴロ打球後逸の失策を犯しており、1999~2000年の全6失策の内訳で送球失策もある中、1年に1試合のみの当球場で2年連続して後逸失策を記録した。
- ^ 2004年からの北海道日本ハムファイターズ時代の指揮官トレイ・ヒルマンの通訳も、2003年より担当した。
- ^ a b 通称「新人ベストナイン」。各リーグごとからではなく両リーグを統一して、新人扱い選手を対象に各球団監督の投票で選出される。
- ^ この件について日本ハム・ヒルマン監督は翌年より新庄の上司となることが決まった際、独自に情報収集している(日本ハム・ヒルマン監督「2人だけの誓い」)。
- ^ 5戦目まで無敗を続けたが、2005年9月19日の対西武戦で初敗戦を喫すると「パフォーマンスは結果を出して何ぼ」という信条から、これを機にかぶりものパフォーマンスを封印した。
- ^ 2001年に開設され、2003年を最後に更新が休止されていた。
- ^ それまで同番をつけていた阿久根鋼吉へ新庄自身が即座に電話を入れ了承を得た(阿久根は背番号9へ変更)。
- ^ 2004年からの新庄のパ・リーグ移籍が各界にもたらした効果
- ^ このためか、水島新司の漫画では本職の外野手よりも内野手として出場していることが多い。日本球界復帰直後に発売された「パワプロクンポケット1・2」ではメイン守備は外野になっているがサブポジションで遊撃手も守れる仕様になっていた。
- ^ 2006年4月13日放送・テレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』でのトークより。現役時の同番組では、冗談交じりながら「もし盗まれたら引退する」と語った。先端部分からボールが半個分ほど出た状態での捕球に関しては、阪神時代に広島市民球場でホームラン性打球を捕球した時など、幾度かその映像が中継されている。
- ^ これより過去に外国人選手の姓名のイニシャル表記の例がある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- LHSF_COLONY 株式会社レハサフ - 新庄剛志公式オフィシャルウエブサイト・会社HP
- 新庄剛志オフィシャルブログ
- 新庄剛志の父、英敏の<SHINJO>劇場 - 父親のブログ
- 新庄カウントダウン - nikkansports.com
- 1の素顔 ― 新庄 最後の闘い - YOMIURI ONLINE
- 新庄 Fの足跡 - Doshin web
- UZR, 2000-2003 - 守備成績
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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