ジャック・ブルームフィールド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャック・ブルームフィールド
Jack Bloomfield
1959年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州の旗 テキサス州モンティ・アルト
生年月日 (1930-08-07) 1930年8月7日(93歳)
身長
体重
184 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手一塁手
プロ入り 1955年
初出場 NPB / 1960年7月3日
最終出場 NPB / 1966年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

ゴードン・リー・ブルームフィールド(Gordon Leigh "Jack" Bloomfield、1930年[1]8月7日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州モンティ・アルト出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ

日本プロ野球時代の登録名は「ブルーム」。

経歴[編集]

テキサス大学パンアメリカン校英語版(現在のテキサス大学リオグランデバリー校)卒業後、1955年からマイナーリーグでプレー。1958年にはAAAのシアトル・レーニアズ英語版に昇格し、打率.309を記録する。しかし、メジャーリーグへの昇格はできなかった。

1960年はAAAのポートランド・ビーバーズにいたが、知人とロン・ボトラの紹介で日本へ渡り、近鉄バファローズにシーズン途中入団した。入団の際、「ボクは、レイジー(ダラダラした感じ)・スタイル・プレイヤーだから、アメリカのファンには、あまり好かれなかった。だからメジャーにもとうとうあがれなかった。その情熱をニッポンで燃やしてみせる」と語ったという[2]。終盤は一塁手または二塁手を務めて常時出場するようになり、シーズンでは58試合の出場で打率.279を打った。

1961年島田光二内藤博文との定位置争いに勝って二塁手のレギュラーを掴み、わずかに3割に届かなかったが打率.297を記録、初めてオールスターゲームにも選ばれるが、同年6月3日阪急戦(西宮)の試合中、「ヤンキー・ゴー・ホーム!」と野次を飛ばした観客に激怒し、スタンドに乗り込んでその観客を蹴っ飛ばし、制裁金5万円・出場停止7日間という処分を受けた。刑事処分に発展することはなかったものの、これは日本で唯一となるプロ野球選手の観客への暴行事件である[3]

1962年には近鉄に所属した選手のシーズン最高打率となる.374をマークし、首位打者を獲得。1963年には打率.335で2年連続の首位打者・ベストナインに輝くとともに、最高出塁率のタイトルも獲得し、四番打者の小玉明利と共に近鉄ピストル打線の中軸を担った。1964年は打率.294(リーグ7位)と3割を割り、チームも最下位。二塁手としての守備力が低下していたことから、近鉄は守備に優れるロベルト・バルボン阪急から獲得[4]。このため、ブルームは自由契約となった[5]

ここで、かねてよりブルームに目を付けており、二塁手も固定できていなかったことから、鶴岡一人の判断で南海ホークスに移籍。1965年の春季キャンプでは内角打ちに苦労していた野村克也から内角打ちのコツを問われ、ブルームは「腕を折りたためばいいんだ、簡単さ」とアドバイスしたという。開幕から三番・ブルーム、四番・野村でクリーンナップを組み、両者とも3割を越える好調をキープするが、一塁手がケント・ハドリで固定されていたことから、二塁手で出場を続けていたブルームは夏場に故障で戦線離脱してしまう[6]。終盤復帰し、打率.302を記録するも、74試合の出場に留まった。一方、ブルームのアドバイスが効いたのか、野村は打率.320で初めての首位打者を獲得し、戦後初の三冠王に輝いている[7]

1966年は113試合に出場したが、.294と再び3割を割り込み、打点も前年を下回った[8]。結局、南海はメジャー経験豊富なドン・ブレイザーを獲得したため、ブルームはこの年限りで退団。「テキサスで真珠屋でもやるさ」とのコメントを残して帰国したという[2]

引退後は1967年にアメリカに戻り、1969年から1973年には新球団のサンディエゴ・パドレスのスカウトを務め、1974年には1年だけコーチとして現場復帰。1975年には同時期に日本でプレーしたジム・マーシャルが監督をしていたシカゴ・カブスにコーチとして移籍し、1978年まで務めた。カブス退団後はニューヨーク・ヤンキースヒューストン・アストロズピッツバーグ・パイレーツコロラド・ロッキーズモントリオール・エクスポズでスカウトを歴任。

選手としての特徴[編集]

ブルームの外角打ちの上手さに目をつけた張本勲は、ある日ブルームに外角打ちの極意を尋ねた。それに対してブルームは「外角を打つには内角を打つのが上手でないといけない。それは、外角に意識が向いている時に内角に直球が来ると手が出ないからである。こちらが内角を打つのが上手だと、投手が内角に投げるのを嫌がって外角に投げることが増える。そこで、相手の配球を読んで投手が外角に投げてくるのを狙い打つのだ(すなわち相手が外角に投げてくるとわかるので上手に外角が打てる)」と説明をした。これを聞いた張本は「なるほど、バッティングとは奥が深い」と感心したという。

ブルームが外角を打つのが上手なのは内角を打つのが上手いからだと考えた野村克也は、ブルームに内角打ちの極意を尋ねた。それに対してブルームは、「腕をたたみ、バットを立てるようにして最短距離でボールを打つのだ」と答えたという。ブルームのアドバイスが功を奏したのかは不明だが、野村は現役時代内角ギリギリの球を上手に打ってレフトポール際にホームランを打つのが得意であった。

ドラッグバントで内野安打を稼ぐのも得意であった[9]。張本はセーフティバントのコツについてもブルームに教えを請い、赤坂の有名店でステーキを奢った。「バックスイングをしてバントなんてしないように見せろ」という答えを得て、1970年の史上最高打率到達がかかった打席でバントヒットに成功している[10][11]

長池徳士は「ドラッグバントや外の球を打つのがうまかった」と述べている[12]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1960 近鉄 58 207 183 22 51 11 1 5 79 17 5 5 0 2 20 0 2 27 2 .279 .353 .432 .784
1961 108 391 354 44 105 27 4 7 161 32 7 4 2 2 30 3 3 41 4 .297 .355 .455 .810
1962 112 446 401 56 150 26 8 12 228 74 6 7 2 4 32 7 7 35 10 .374 .426 .569 .994
1963 121 486 439 62 147 31 6 9 217 62 3 3 1 1 38 7 7 50 5 .335 .396 .494 .890
1964 124 481 429 55 126 26 4 13 199 69 4 0 4 4 37 2 7 37 8 .294 .356 .464 .820
1965 南海 74 274 248 39 75 8 0 9 110 36 0 0 1 4 19 1 2 28 2 .302 .352 .444 .795
1966 113 408 350 50 103 16 2 6 141 33 2 1 6 4 43 0 5 49 10 .294 .376 .403 .778
通算:7年 710 2693 2404 328 757 145 25 61 1135 323 27 20 16 21 219 20 33 267 41 .315 .377 .472 .849
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

  • 首位打者:2回 (1962年、1963年)※2年連続はパ・リーグ歴代4位タイ、パ・リーグ外国人初
  • 最高出塁数:1回 (1963年)

表彰[編集]

記録[編集]

NPB初記録
NPBその他の記録

背番号[編集]

  • 26(1960年 - 1966年)

登録名[編集]

  • ブルーム(1960年 - 1966年)

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 公称上の生年は1932年であったが、後に2歳鯖読みしていたことが伊東一雄より本人の発言として明らかにされている(『スポーツ20世紀 Vol.2 プロ野球スーパーヒーロー伝説』P149)。
  2. ^ a b 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』365頁
  3. ^ 暴行にまでは至らなかったものの、スタンドに乱入したことで退場処分を食らった選手としては他に長田幸雄がいる。
  4. ^ 前年のベストナインも二塁手として選出されているが、守備試合数は一塁手のほうが多かった。
  5. ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』92頁
  6. ^ 二塁手の代役は前年のレギュラー格だった国貞泰汎が務めた。
  7. ^ Full-Count 「戦後初の3冠王」は1965年の野村克也 前年は本塁打&打点の2冠も“減俸”が刺激に
  8. ^ 一番打者である広瀬叔功が持病の腱鞘炎で出塁率.293の不振に陥り、盗塁王のタイトルも逃したことも影響している。
  9. ^ 【4】ブルーム” (2017年4月4日). 2022年9月14日閲覧。
  10. ^ 『伝説のプロ野球選手に会いに行く2』P106 - 107
  11. ^ 【プロ野球仰天伝説107】銀座でステーキを食わせてブルームの技術を教わった張本勲【爆笑&小ネタスペシャル】 週刊ベースボールオンライン、2018年4月9日、2018年4月9日閲覧
  12. ^ プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、産経新聞出版、P238、2015年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]