西村徳文

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西村 徳文
Norifumi Nishimura 2011.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県串間市
生年月日 1960年1月9日(54歳)
身長
体重
177 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手二塁手三塁手
プロ入り 1981年 ドラフト5位
初出場 1982年9月14日
最終出場 1997年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 千葉ロッテマリーンズ (1998 - 2012)

西村 徳文(にしむら のりふみ、1960年1月9日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手外野手内野手)、前千葉ロッテマリーンズ監督、野球解説者、野球評論家。

1982年から2012年までの31年間、選手・コーチ・監督としてロッテに在籍した。愛称は「走る将軍」。

経歴[編集]

幼少期[編集]

1960年に宮崎県で生まれる。幼少期は地元の方言で「おちゃかろ」と言われるほどの悪戯好きな子供だった[1]。串間市立有明小学校には野球部が存在しなかったため、兄とキャッチボールで遊び、串間市立福島中学校に進学してから本格的に野球を始めている。中学まではそれほど俊足ではなかったが、走り幅跳びでは裸足で6m以上跳んだ[2]

中学・高校時代[編集]

中学生から野球の練習に励み、1974年には主将を務めて当時完成間もない宮崎市営球場で行われた宮崎県大会で優勝している。宮崎県立福島高等学校進学後は1年生からベンチ入りし、走力などを高く評価されていた[3]。しかし、厳しい練習やオートバイへの憧れから1年生の秋には一時退部もしている。1976年の夏には第58回全国高等学校野球選手権大会に1番・二塁手として出場したが、初戦で新潟県立高田商業高等学校に敗れ、自身も無安打だった。

国鉄時代[編集]

高校卒業後は安定した就職先として日本国有鉄道に入社し[3]鹿児島鉄道管理局野球部で野球を続けた。業務と野球の両立に悩んでいたが、入社3年目の1980年にスカウトが視察に来るとプロ入りを目指す。1981年のドラフト会議において、ロッテオリオンズヤクルトスワローズ南海ホークスからそれぞれ5位指名を受け、ロッテオリオンズへ入団した(串間市出身のプロ野球選手は水谷実雄に続き2人目)[2]

ロッテ時代[編集]

1982年は9月に代走で初出場を果たすが、その秋に山本一義飯塚佳寛から俊足をさらに生かすためにスイッチヒッターへの転向を勧められた[4]。秋季キャンプから川崎球場近くにあるホテルに、高畠康真と泊まり込んで猛練習に取り組んだ結果、1983年には左打席でプロ初安打を記録し、5月には初スタメンと急成長を遂げた[5]。アマチュア時代は無名だったこともあり、凡退すると首脳陣から聞こえよがしに嫌味を言われたこともあったという[6]

1984年には規定打席に到達し、以降は俊足巧打の選手として一軍に定着した。1985年には初タイトルのベストナインゴールデングラブ賞(二塁手)を獲得し、オフに結婚した。社会人時代は数試合に1回程度だった[7]盗塁が激増し、1986年から1989年にかけては4年連続で盗塁王を獲得した[8]。一方で、1987年5月4日の対南海ホークス戦で右手人差指を骨折し、二塁手の他に三塁手も経験した[7]。1988年は10.19にも先発出場している。

1989年は選手会長に就任し、主将制度が無かった当時のロッテでチームのまとめ役となった[9]。また、有藤道世の勧めで振り切る打撃を心がけるようになったという[10]。しかし、3月11日のオープン戦(対中日ドラゴンズ戦)で右手有鈎骨を骨折し、4月18日に除去手術を受けたために開幕から32試合を欠場した[10]。5月27日の対西武ライオンズ戦で復帰したが、この間に水上善雄上川誠二森田芳彦が好調だったため、中堅手にコンバートされ[7]、以後は外野手を本職とした。

1990年3月21日のオープン戦で右太腿の肉離れ、5月17日には左足首の捻挫などの負傷で盗塁数が減ったが、秋山幸二に盗塁数を大きく引き離されて開き直ったことや、打撃方法の改造などで[11]好調を維持し、打率.338でパ・リーグ史上初となる、両打ち打者での首位打者を獲得した。この年には中堅手としてベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得しており、2011年シーズンまでは内野・外野の両方でゴールデングラブ賞を獲得したパ・リーグ唯一の記録であった[12]1992年4月9日には自身の所有する千葉マリンスタジアムのシーズンシートを千葉市に寄付し、福祉施設の子供が招待されるようになった[13]

1995年5月9日の対日本ハムファイターズ戦を風疹で欠場し、代わりに起用された諸積兼司が4安打の活躍を見せた。これを契機に諸積の出番が増え、1996年には中堅手のレギュラーを明け渡している[14]1997年は選手登録されていたものの、シーズンを通じて二軍で若手の指導にあたり[15]、同年で現役引退を表明した。10月12日のシーズン最終戦が引退試合となり、外野席にはファンが作成した「ダイヤモンドのスピードランナー 疾風のように行け、走れ西村、16年間ありがとう」という横断幕が掲げられた[16]

コーチ時代[編集]

1998年は一軍内野守備走塁コーチを務めた[17]1999年は一軍外野守備走塁コーチに転任し[18]、その後は二軍の外野守備走塁コーチなどにも就任している。2004年ボビー・バレンタインが監督に就任するとヘッドコーチも兼任し、選手とのパイプ役として信頼され、バレンタインがシーズン後に帰国した際は代理監督を務めた。

人望に優れて選手の信頼も厚く、2009年10月8日にはバレンタインの後任として2010年より監督に就任することが発表された[19]。背番号はコーチ時代と同じ78となり、年俸5,000万円(推定)で2年契約を結んでいる[20]

監督就任後[編集]

就任1年目となる2010年は、チームスローガンとして「和」を掲げた。順位予想でロッテを最下位とみなす声が多い中で[21]開幕戦こそ落としたものの、同開幕カードから4カード連続で勝ち越すなど、開幕から1か月を経過しないうちに貯金を10に乗せる。後半戦に入ると選手の疲労や離脱などで7連敗を喫し、8月4日には審判への抗議で自身初の退場処分も受けた。しかし、主力選手と個人面談を行なった翌日から3連勝し、結果的にこの一日が節目となって[22]シーズン最終戦に勝利して3位を確保し、3年ぶりのクライマックスシリーズ出場を決める。

クライマックスシリーズでは第1ステージ(対埼玉西武ライオンズ戦)、第2ステージ(対福岡ソフトバンクホークス戦)ともに全試合が相手主催試合ながら勝ち抜き、日本プロ野球史上初となる、レギュラーシーズン3位から日本シリーズ出場権を勝ち取った[23]。同年の日本シリーズ(対中日ドラゴンズ戦)も4勝2敗1分で、チームを5年ぶり4度目の日本一に導いた。監督就任1年目の日本一達成は史上9人目[24]、ロッテでは湯浅禎夫(毎日オリオンズ)以来60年ぶりの快挙となった。傑出した選手が少なく故障者も多い中でチームを束ね、史上初めてレギュラーシーズン3位から日本一を達成した業績が評価され[25]、11月15日に正力松太郎賞を受賞した。11月25日、新設された串間市民栄誉賞を受賞した。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された[26]

ところが、監督2年目の2011年は優勝したソフトバンクに33.5ゲーム差、5位東北楽天ゴールデンイーグルスに10ゲーム差の最下位に終わる。

2011年8月6日(QVCマリンフィールド)

2012年は開幕4連勝後も、6月までには貯金を最大15として首走。しかし、7月以降は徐々に成績を落とし。9月には9連敗で、最大で借金5にまで落ち込む。2年連続最下位こそ免れたが、前年に続きBクラスの5位に終わり、その責任を取る形でシーズン終了を以って退任[27]。選手時代から31年間在籍し続けたチームを退団した。

監督退任後[編集]

2013年よりサンケイスポーツ評論家、FOX SPORTS ジャパンBASEBALL CENTERBS12 プロ野球中継(いずれも球団制作の試合)の解説を務め、2014年よりよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属[28]することになった。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

プロ入り後のスイッチヒッター転向時には、朝起きると指が痛くて開かないほどの素振りや打撃練習を重ねて左打ちを習得した[4]。利き腕である右の方が腕力が強いため、左打ちで下からバットが出てフライが出やすく、これを防ぐために右手と左手を約2cm離してバットを押し出すなどの工夫を重ねている[11]。こうした努力もあって、左打席に入ることで内野安打を増やし、プロで通用する打撃を確立した[12]

なお右と左では好不調に差があり、どちらも好調を維持したのは1985年1990年の2年ぐらいだったという[12]。また、毎年のキャンプ入り直後は左打ちが上手く行えず、両打ちを維持するためには人一倍の練習が要求された[12]

走塁[編集]

4年連続の盗塁王や通算363盗塁を記録するなど、特に盗塁に関してプロ野球史上有数の記録を残した。本人が盗塁で最重要視したのはスタートで、平行にした右足を少し後に下げてつま先をやや開いた状態から、低重心で左足を右足に交錯させて一気にトップスピードに上げていた[29]。この際に交錯が大きすぎるとバランスが崩れ、小さすぎると加速が不十分だったという。

技術に関しては球団から渡されたビデオテープを基に独学し、盗塁王を獲得してからは盗塁の判断を基本的に任されていた[7]。投手の牽制球や捕手の配球についても研究し、リードを広げて変化球の時に盗塁することを目指した[4]。なお、スタートを失敗した際でも帰塁できるようになったことで、盗塁数が大きく増加している[29]スパイクシューズについては、1988年頃まで「こだわりがない」とコメントしていたが[7]、チーム契約と異なる用具メーカーの製品を使用して、1986年から改良を重ねてきた。そして、1989年からは当時の平均(260g)よりもかなり軽い200gのものを使用し、刃は16mmのものに加えて、軟らかいグラウンド用に19mmの長い刃も用意していた[4]

人物・エピソード[編集]

  • 家族は妻と2女で、妻は元ミス鹿児島[30]にも選ばれた。
  • 焼酎を好み、監督在任時はQVCマリンフィールドの監督室にはブランド焼酎のボトルが数多く並んでいたという。
  • 愛称の「走る将軍」は、水戸黄門水戸光圀を演じていた西村晃と同姓だったことに由来する。
  • 西村のレギュラーを奪取した諸積兼司や、同郷の黒木知宏には特に慕われる。現役時代は数々のタイトルを獲得しており、当時を代表する名選手であったが、当時のパ・リーグは人気低迷期だったために知名度が低く、その影の薄さが漫画のネタにもなった。
  • 木梨憲武に似てることや自身の名前と相まって、流行していた仮面ノリダーという愛称がついていた。
  • 監督在任時はロッテが勝利すると現役時代の応援歌に合わせてファンが外野席で「西村ダンス」を行なっていた。現役時代の歌詞を変えたもので、QVCマリンフィールドではスピーカーから音も流れていた。監督就任時の2010年の開幕以降は新しく歌詞が付いた。原曲はジョニー・ティロットソンの「Poetry In Motion」である。
  • 2年後輩である森田芳彦とは、宮崎県串間市立有明小学校→宮崎県串間市立福島中学校→宮崎県立福島高等学校→国鉄鹿児島鉄道管理局→ロッテオリオンズと小学校からプロ入りまで全く同じ経歴である。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1982 ロッテ 6 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1983 95 211 195 26 47 4 2 2 61 12 12 8 9 0 4 0 3 26 4 .241 .267 .313 .580
1984 124 406 368 46 105 17 3 5 143 29 25 13 19 1 11 0 7 23 5 .285 .318 .389 .706
1985 127 569 512 83 159 17 9 6 212 46 33 15 14 5 30 1 8 46 4 .311 .355 .414 .769
1986 105 445 387 71 110 10 1 4 134 29 36 9 18 2 32 1 6 45 1 .284 .347 .346 .693
1987 114 491 440 55 116 11 4 2 141 27 41 14 18 2 29 0 2 49 4 .264 .311 .320 .631
1988 130 593 532 68 136 15 0 3 160 38 55 7 16 2 40 0 3 55 5 .256 .310 .301 .611
1989 96 443 392 61 110 10 5 2 136 17 42 12 8 0 37 1 6 34 2 .281 .352 .347 .699
1990 117 520 438 78 148 27 5 3 194 38 35 8 18 2 59 1 3 40 7 .338 .418 .443 .861
1991 118 503 443 57 122 14 2 2 146 17 23 6 13 1 43 6 3 31 2 .275 .343 .330 .672
1992 97 394 348 34 75 11 6 1 101 27 14 2 11 1 34 0 0 36 3 .216 .285 .290 .575
1993 103 404 352 43 88 10 6 1 113 28 21 7 12 3 37 1 0 43 4 .250 .319 .321 .640
1994 75 215 194 27 48 7 0 2 61 11 15 3 4 1 14 0 2 20 0 .247 .303 .314 .618
1995 91 191 150 31 32 4 0 0 36 7 7 3 14 0 27 0 0 21 2 .213 .333 .240 .573
1996 34 31 25 9 2 0 0 0 2 0 4 0 0 0 6 0 0 2 0 .080 .258 .080 .338
1997 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:16年 1433 5417 4777 691 1298 157 43 33 1640 326 363 107 174 20 403 11 43 471 43 .272 .333 .343 .676
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2010年 ロッテ 3位 144 75 67 2 .528 2.5 126 .275 4.10 50歳
2011年 6位 144 54 79 11 .406 33.5 46 .241 3.40 51歳
2012年 5位 144 62 67 15 .481 10.0 64 .257 3.13 52歳
通算:3年 433 192 213 28 .474 Aクラス1回、Bクラス2回

※通算成績には2004年7月28日ロッテ・バレンタイン監督欠場時の監督代理1試合(勝利)を含む

  • 太字は日本一
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2010 ロッテ パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
埼玉西武ライオンズ
パ・リーグ2位)
2勝0敗=ファイナルステージ進出

ファイナルステージ
福岡ソフトバンクホークス
(パ・リーグ1位)
4勝3敗=日本シリーズ進出
日本シリーズ 中日ドラゴンズ
(セ・リーグ1位)
4勝2敗1分=日本一
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 32 (1982年 - 1986年)
  • 3 (1987年 - 1997年)
  • 78 (1998年 - 2012年)

関連情報[編集]

著書[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.30
  2. ^ a b 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.31
  3. ^ a b 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.32
  4. ^ a b c d 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.33
  5. ^ 週刊ベースボール、1999年7月19日号、P.26
  6. ^ 朝日新聞、2010年10月20日付朝刊、P.2、『就任1年目でロッテを日本シリーズに導いた監督 西村徳文さん』
  7. ^ a b c d e 週刊ベースボール、1989年10月2日号、P.140
  8. ^ 福本豊の9年連続、広瀬叔功の5年連続に次ぐパ・リーグ歴代第3位の記録である。
  9. ^ 週刊ベースボール、1989年9月10日号、P.61
  10. ^ a b 週刊ベースボール、1989年7月10日号、P.26
  11. ^ a b 週刊ベースボール、1990年8月27日号、P.32
  12. ^ a b c d 週刊ベースボール、1999年7月19日号、P.27 ※2012年に日本ハムの稲葉篤紀が一塁手部門でゴールデングラブ賞を獲得したため唯一ではなくなった。稲葉は2006年~2009年まで4年連続して外野手部門のゴールデングラブ賞を獲得している
  13. ^ 1992年04月10日
  14. ^ 読売新聞、2005年4月23日付朝刊、P.27
  15. ^ 読売新聞、1997年5月21日付朝刊、P.16
  16. ^ 朝日新聞、1997年10月18日付夕刊、P.12
  17. ^ 読売新聞、1997年10月21日付朝刊、P.25
  18. ^ 読売新聞、1998年10月24日付朝刊、P.22
  19. ^ 生え抜き選手の監督就任は八木沢荘六以来16年ぶりとなった。
  20. ^ 読売新聞、2009年10月9日付朝刊、P.15
  21. ^ 朝日新聞、2010年4月16日付朝刊、千葉地方面
  22. ^ 読売新聞、2010年11月16日付朝刊、P.26
  23. ^ 朝日新聞編集委員の西村欣也はスポーツ面のコラム「EYE」(11月9日付)で、「レギュラーシーズン1位のチームがリーグ優勝者となる現在の度はおかしいのではないか。CSを勝ち抜いたロッテこそ真のリーグ優勝チームだ」と述べている。
  24. ^ 前回は、2008年に埼玉西武ライオンズの渡辺久信が達成している。
  25. ^ 読売新聞、2010年11月16日付朝刊、P.26
  26. ^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
  27. ^ 退任に関しては、西村本人から辞意を申し入れ球団側がそれを了承する形となったが、球団側もシーズン終了を以って西村を退任させる方針を固めていたため、一部メディアでは「解任」とも報じられた。
  28. ^ 前ロッテ監督の西村徳文氏がよしもと入り
  29. ^ a b 週刊ベースボール、1988年12月26日号、P.36
  30. ^ ガンバレ日本プロ野球!?」(J SPORTS)2010年シーズン・第3回

関連項目[編集]

外部リンク[編集]