大村直之

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大村 直之
オリックス・バファローズ #6
基本情報
国籍 日本
出身地 兵庫県西宮市
生年月日 1976年2月13日(33歳)
身長
体重
173cm
70kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 外野手
プロ入り 1993年 ドラフト3位
初出場 1994年9月17日
年俸 1億2000万円(推定、2009年)
経歴(括弧内は在籍年)

大村 直之(おおむら なおゆき、1976年2月13日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手外野手)。

目次

[編集] プレイスタイル・特筆

[編集] 打撃・走塁

早くにレギュラーに定着し、盗塁王を獲得したことはないが、俊足を生かし1番打者として長く活躍している(1998年、1999年は2年連続で、イチローを抑えてリーグ最多の内野安打を記録した)。30歳で1500安打を達成するなどハイペースでヒットを量産しており、近い将来の2000本安打達成が期待されている。長打力もあり通算初回先頭打者本塁打数が16本であり、2006年終了時のパ・リーグ現役最多である。

打撃の特徴として初球に手を出すことは滅多になく、追い込まれてからもファウルでかなり粘る技術を持っているが、その割には四球が少ない。またポップフライ(打ち損ねた内野フライ、外野フライ)が多いことも特徴の一つである。

大村はバッテリーの意表をつき、一塁方向のセーフティバントで内野安打を稼ぐことがあり、毎年コンスタントに犠打を記録するなど一見2番もこなせるように見える。しかし、近鉄時代に「考えて細かいことをする2番は苦手」と発言しており、実際2番打者での成績は芳しくない。

本人曰く、「センター返しが自分の基本。巧いセンター返しが出来たかどうかで、その日の打撃の調子がわかる」との事。

[編集] 守備

守備範囲は広く打球に対する反応も非常に的確で、ゴールデングラブを3度受賞するなど中堅手としては球界トップクラスの守備力を持つ。だが最近は若手の台頭により、左翼手右翼手で起用されることが多くなっている。

[編集] 理念

一番打者として心がけていることは、「その投手の一番良い球を狙う」ことであるという。ソフトバンク入団後の週刊ベースボールでのインタビューによれば、「その投手の持つ一番良い球が試合の最初に打たれると、投手はその球種を投げづらくなる。近鉄時代に斉藤和巳と対戦した時はカーブばっかり狙っていた」とのことである。そのことを伝え聞いた斉藤は、「自分は(大村にカーブを狙われていることを)意識していなかったが、投手としてはそういう考えで打席に立たれると嫌だ」と答えている。大村の述べていることは、上手くいくと結果的に相手投手の投球の幅を狭め、自分だけではなくチームの打者全員に影響する。打線における大村の存在の大きさが伺える。

[編集] 来歴

[編集] 近鉄時代

1993年夏の甲子園で優勝。そのオフ、ドラフト3位指名を受け大阪近鉄バファローズに入団した。

1995年、1番バッターに定着し110試合に出場。しかし翌1996年は不本意な成績に終わり、レギュラーを剥奪される。1997年中盤から再び一軍に定着。

1998年にはシーズン通して安定した活躍を見せ、初の3割、23盗塁を記録。ベストナインゴールデングラブ賞を獲得。その活躍が認められ背番号を60から7に変更したが、1999年2000年の2年間は盗塁も打率も伸び悩んだ。

2001年、それまで拳一個分以上短く持っていたバットをグリップから握る通常の形にしたところ、前年は3本だった本塁打が大幅に増加、打率.271・16本塁打・53打点という1番打者らしくない成績を残す。その核弾頭的な活躍は、1985年阪神タイガース優勝時の1番打者として打率.322・34本塁打・84打点の成績を残した近鉄の打撃コーチ(当時)の真弓明信の現役時代を髣髴とさせた。チームはタフィ・ローズ中村紀洋らの活躍で12年ぶりのリーグ優勝を果たした。

2002年はわずか1盗塁と信じられない成績に終わったが、2003年には大石大二郎コーチらの方針で再び盗塁を積極的に試みるようになる。5年ぶりの打率3割、27盗塁と結果を残した。

2004年、2年連続の3割と22盗塁を記録。また選手会副会長としてチームをまとめ、オリックスと大阪近鉄の合併では精力的に署名活動を行った。しかしそれも叶わず球団は消滅。この年のオフにFA権を行使し、3年5億円(推定)の契約で福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に移籍した。

[編集] ソフトバンク時代

2006年8月20日、対西武16回戦で9回にヒットを放ち、史上89人目の通算1500本安打を達成。この年パ・リーグでただ一人全136試合出場を果たすと共に、165安打を放ち13年目にして初の打撃タイトル最多安打を獲得。さらに4年連続で20盗塁以上を記録した。シーズン終了後も、日米野球(初戦はファン感謝デーと重なり欠場)、パ・リーグ東西対抗戦(日米野球とのダブルヘッダー)と続けざまに出場した。

2007年には移籍してきた多村仁との中堅争いが注目された。4月30日スカイマークスタジアムでのオリックス戦では1500試合出場を達成。しかし3月末の太股痛、8月の左背筋痛による約1ヶ月間の二軍落ち、本多雄一の台頭などで1番での出場が激減し、盗塁も11と半減。足に不安を抱えるためか守備でも左翼を守ることが多くなった。それでも打率は5月に3割7分台に上がり、7月までリーグ1位に君臨。夏以降勢いは衰えたが、終盤まで首位打者争いに名を連ね、自己最高の打率.319(リーグ3位)を記録し2度目のベストナインに選出された。

2008年は開幕から足の故障で出遅れ、その後の回復も万全ではなく、指名打者や代打としての起用が多かった。盗塁数も激減し、試合終盤には戦況に関わらず代走や守備要員を送られることもしばしばあった。打順も1番での起用は殆ど無く流動的で、守備でも6年ぶりにライトを守ったりと、不満の残る一年となった。

2007年末の契約更改ではさらなる複数年契約を希望していたが、長期複数年契約者の成績低下・故障などを球団が懸念し単年契約にとどまった。この事に不満があり、2008年終了後の契約に迷いを感じる旨の発言をして動向が注目された。

2008年10月31日村松有人とのトレードでオリックス・バファローズに移籍。トレード相手の村松は元ホークス所属選手で「互いにFA移籍時の古巣球団(移籍元の球団)へのトレード」と報道されたが、オリックス・バファローズの球団史においてはオリックス・ブルーウェーブが前身球団であり大阪近鉄バファローズは吸収合併対象ゆえに傍系扱いとされているため、大村に関しては正確には古巣球団へのトレードではない。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S
1994 近鉄 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1995 110 309 282 37 76 7 4 3 100 19 15 10 5 2 20 0 0 56 2 .270 .316 .355 .670
1996 78 220 194 28 45 6 0 3 60 13 5 4 6 1 17 1 2 21 0 .232 .299 .309 .608
1997 97 367 327 53 92 17 5 1 122 30 15 5 12 1 26 0 1 44 5 .281 .335 .373 .708
1998 133 584 522 61 162 19 7 4 207 40 23 7 21 1 38 0 2 40 6 .310 .359 .397 .755
1999 132 533 494 54 128 19 3 2 159 36 7 9 19 1 17 2 2 40 6 .259 .286 .322 .608
2000 124 420 366 45 93 17 5 3 129 44 7 8 25 4 24 0 1 38 6 .254 .299 .352 .651
2001 136 651 590 82 160 34 2 16 246 53 5 1 15 4 31 0 11 74 8 .271 .318 .417 .735
2002 135 575 531 65 144 31 4 11 216 47 1 0 14 2 21 3 7 61 7 .271 .307 .407 .713
2003 136 615 550 94 165 34 7 16 261 61 27 10 7 8 40 1 10 77 7 .300 .354 .475 .828
2004 120 549 498 74 151 25 2 2 186 34 22 10 9 1 30 1 11 65 8 .303 .356 .373 .729
2005 ソフトバンク 133 584 529 68 143 21 3 8 194 48 31 9 17 4 22 0 12 76 11 .270 .312 .367 .679
2006 136 621 562 74 165 19 3 6 208 60 22 14 12 2 41 0 4 70 12 .294 .345 .370 .715
2007 113 487 455 44 145 20 0 1 168 31 11 7 10 3 9 2 10 51 12 .319 .344 .369 .713
2008 79 266 245 11 74 9 0 2 89 22 7 1 8 0 11 0 2 29 8 .302 .337 .363 .700
通算:15年 1668 6781 6145 790 1743 278 45 78 2345 538 198 95 180 30 347 10 75 742 98 .284 .328 .382 .710
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 記録

[編集] タイトル・表彰

[編集] 背番号

  • 60(1994年 - 1998年)
  • 7(1999年 - 2008年)
  • 6(2009年 - )

[編集] 出囃子(テーマソング)

[編集] エピソード

  • 野球は好きで始めたわけではない。小2の夏休み、小学校入学当初通っていた習字を辞め水泳を習いたがっていた直之に、かつて経済的な理由で野球を断念した父一一(かずいち)は「習字やめさしたるから水泳か野球どっちかにせえ」と選択を迫った。野球通の父に怒られるのが嫌だったのもあり8月中旬に一度は「水泳をやる」と宣言するが、父に「ほんまにええんか?」と返され、悩んだ末野球以外に選択の余地はないことを悟り、夏休み最終日の8月31日に帰宅した父に野球をやると告げた。
  • プロ入り前から、プロ以外で飯を食うことを考えてはいなかったほどで、かつて「野球を楽しんでいたのは高校まで」と発言したほど、プロ意識は高い選手である。近鉄入団後もケチで有名なフロントとは契約更改でもめることもしばしばあり、FA権利を獲得したら行使をするのは確実と思われていた。権利を獲得した02年オフにFA権利の行使をにおわす発言をしたところ、近鉄フロントに「あっそ、お疲れさん。勝手にどうぞ。」と冷たくあしらわれたという。そこで現状では行使しても思ったような契約は結べないと思い直しFA宣言を封印。翌年に成績を残してFA宣言をするつもりだった。しかし翌03年、打率、盗塁などの成績がアップすると、近鉄フロントは掌を返したような好待遇で大村を迎え、大村も「この球団に愛着がある」と、満面の笑みでコメントし契約を更改した。しかし、2004年は球団合併問題に尽力したため、野球をした記憶があまりなく、「近鉄がなくなるならどこでやっても一緒」という思いからFA権行使に踏み切った。
  • もしプロ野球選手になっていなかったら、プロゴルファー、パイロット、歌手になりたかったと発言している。歌手ならバラード系がいいらしい。また、カラオケでよく歌う歌手は、Mr.Children
  • 妻は西宮市立深津中学校時代の同級生で看護師をしていた。野球に興味が無かったため、大村のプロ入りを知らなかった。プロ4年目のオフ再会した二人は98年に結婚。一男一女があり家族仲は大変良く、大村のソフトバンク移籍時は一家で福岡に転居・同居していた。2007年12月には週刊ベースボールに食卓を囲む一家の写真が掲載された。
  • 子供好きで野球教室等で積極的に話しかける姿がよく見られる。野球道具に家族の名前を刻み、自分の子供には「厳しくせなあかん」と語っているが、ソフトバンク在籍時は休日の福岡ドームでの軽い練習に当時4歳の長男を連れてきたこともある。大村によると、「野球するかは本人次第だけど、足は速いで」とのことである。
  • チョコレートが大の苦手でバレンタインデーで(事情を知らない)ファンにチョコをもらい困惑したことがあったことを自身が明かしている。しかし2007年5月、瞬感スポーツ内で「キットカットのホワイトチョコバージョンが好き」と発言。同月のトークイベント「オールザッツホークス」でも現在はあんこが苦手で、特にぜんざい苺大福は、何をしたいかわからないと発言している。
  • 1995年阪神・淡路大震災で実家が全壊。大村は実家再建のために契約金や給料の多くを惜しまず実家に差し出した。
  • 入団後数年間は本人談「当てるバッティング」で成績を残し、1998年に.310を記録した。その後2年間伸び悩んだ彼は2001年に「当てて足で稼ぐバッティング」のままではダメだから「振り切って鋭く球を打つバッティング」に変えることにしたと発言している。結果として前年よりも成績は上がり、その後3年間、毎年彼の本塁打数が2桁台を記録しているのはバッティングスタイルを変えた影響が大きい。
  • 近鉄時代、当時の首脳陣が育成のため、森谷昭仁を重用し、大村がスタメン起用から外されるなどといったこと、大村の気さくな人柄に対し、森谷は、いわゆる“肩で風切る”気質だったことなどから、大村-森谷間には今でも感情的しこりが存在すると心配する声はある。
  • 大阪近鉄在籍時の優勝特番で、FUJIWARA原西孝幸に「ムエタイの選手」と紹介された。
  • ソフトバンク在籍時、公式戦で長袖のアンダーシャツを着用することは少なく、半袖ユニフォームに両腕に近鉄時代から使用している赤いリストバンドがトレードマークとなった。本人曰く、「少しでも(近鉄の色を)残しとかんとね」とのこと。
  • ソフトバンク在籍時、ポジションのライバルとなった柴原洋とは近鉄時代から変わらず仲が良い。
  • 週刊ベースボール八木智哉平野佳寿の対談企画の中で、平野が印象に残っているバッターとして松中信彦李承燁の名を挙げ、それに八木が「その2人のバッターも凄いけど、僕は大村さんが凄く印象に残っている」と応じた。その意見に平野が同意し、「あの人(大村)は投げにくさということで言えば一番かも知れない」とコメント。更に八木が「もちろん4番打者に投げるのは嫌だけど、大村さんは他の1番打者とは全然違う雰囲気を持っている。僕も一番嫌なタイプ」と返している(実際2006年はホークスキラーの八木にチームが苦戦する中、大村は八木を「お得意様」とし、9月には対戦打率.368を記録した)。他球団のエース級の投手から見た大村の印象がうかがえる。
  • 2007年3月30日、千葉マリンスタジアムでのロッテ戦で左太もも裏に違和感を覚え、以降5試合を連続欠場した。その後4月7日の日本ハム戦で復帰するが、肉離れを危惧し全力疾走をためらっていた。そのような中で、ポイントゲッターとしての役割を買った秋山幸二総合コーチが、大村本人も「記憶にない」6番打者起用を進言。4月13日以降6試合は6番に固定され、前半3試合で5安打を放つが後半3試合では2安打(4月19日には1試合4三振を喫し、バットを叩き折る姿も見られた)と振るわなかった。定位置の1番に戻った4月20日、川崎宗則の故障で2番に入った本多雄一との新コンビが当たり、以降チームは9連勝となった。
  • ソフトバンク在籍時の福岡ドーム大阪ドームでの応援歌は、近鉄時代のものとソフトバンクでのものが交互に演奏されるという、珍しいものであった。オリックス移籍後は近鉄時代の応援歌のみが使用されている。
  • 元ソフトバンクコーチで野球解説者の島田誠によると、大村のロッカーはチーム一きれいで、特に野球道具は寸分の狂いも無く毎回同じ位置に並んでいるという。
  • 大村本人は、自分のセックスアピールポイントは細い足首だと発言している。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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