大阪近鉄バファローズ

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大阪近鉄バファローズ
会社名 株式会社大阪バファローズ
創設年度 1949年
解散年度 2004年
所属リーグ
パシフィック・リーグ
歴代チーム名
  • 近鉄パールス(1949年 - 1958年)
  • 近鉄バファロー(1959年 - 1961年)
  • 近鉄バファローズ(1962年 - 1998年)
  • 大阪近鉄バファローズ(1999年 - 2004年)
本拠地
藤井寺球場
大阪ドーム
収容人員 36,477人(大阪ドーム)
フランチャイズの遍歴
永久欠番
1:鈴木啓示
獲得タイトル
日本一(0回)
なし
リーグ優勝(4回)
1979 | 1980 | 1989 | 2001
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(4回)(太字は勝利した年)
1979 | 1980 | 1989 | 2001
プレーオフ(前後期制)(3回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
2勝1敗
1975 | 1979 | 1980
球団組織
オーナー 田代和(解散時)
運営母体 近畿日本鉄道(解散時)
監督 梨田昌孝(解散時)
株式会社大阪バファローズ
Osaka Buffaloes
種類 株式会社
本社所在地 大阪府大阪市天王寺区上本町6-1-55(登記上本店)
大阪府大阪市中央区難波2-2-3 御堂筋グランドビル7階
(球団解散時の事務所)
設立 1999年9月
(株式会社大阪近鉄バファローズとして設立)
業種 サービス業
事業内容 プロ野球興行事業など
代表者 オーナー 田代和
代表取締役社長 小林哲也
主要株主 近畿日本鉄道 100%
関係する人物 佐伯勇(球団創設者)
特記事項:2005年3月31日解散。
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大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年から2004年まで存在した日本プロ野球球団の一つで、パシフィック・リーグに加盟していた。

概要[編集]

一軍は大阪府保護地域とし、大阪市西区にある大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)を、二軍ウエスタン・リーグ所属)はかつて一軍の本拠地だった藤井寺球場を本拠地にしていた。

球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。

1999年3月末までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。

2004年、球団と近鉄グループの経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。

なお、オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。このような、球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年の大映スターズ以来の出来事となる。

合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照。

1944年6月から1947年5月まで南海鉄道関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリング[1]との球団の系譜としての繋がりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。

球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中では、4回出場した日本シリーズで優勝していない唯一の球団であった[2]

球団の歴史[編集]

近鉄パールス時代[編集]

設立当初より低迷が続き、万年Bクラス、最下位の近鉄は「地下鉄球団」[出典 1]とも揶揄された。

1949年近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社の近鉄野球株式会社(初代、のちの近鉄興業株式会社[3])が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。近鉄にとっては、南海鉄道合併当時の1944年 - 1947年(近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である[4]。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現:近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐によれば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日に発足した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)に加盟。2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる[5]。しかし、毎日新聞側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かった為、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は、黒尾重明東急フライヤーズ)、森下重好田川豊(いずれも太陽ロビンス)ら数えるほどで、選手層が薄く設立より4年連続最下位となる。

1950年、開幕直前に藤田省三が高熱でダウン、藤田は球場には来たが加藤春雄が実質指揮を取る中で3月12日、藤井寺球場での対毎日オリオンズ戦が球団としての初めての公式戦となるが、初回四番森下重好のタイムリーで先制するものの、失策で自滅し2対6で敗戦[出典 2]。翌13日の対南海ホークス戦で沢藤光郎が粘投し、4対3でチーム初勝利を収める。チームは連敗、連勝、連敗を続け、この年は森下が30本塁打、沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるが、最終的には首位の毎日から37.5ゲーム離された最下位に終わる。投打共に駒不足を露呈した[4]。球団本社からの強化費用が予想以上に出ず、新人2選手が加入しただけで終わる[4](その2選手も翌年には退団)[出典 3]

1951年、この年もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。

1952年、8月に13連敗を喫し、シーズン通して首位の南海に4勝14敗、2位の毎日には3勝15敗と大きく負け越し、最終的に37勝56敗5分、3割に満たない勝率で3年連続最下位に終わる[出典 4]。シーズン終了後、藤田省三が監督を辞任し、芥田武夫が就任。 小玉明利、鈴木武らのに中心となる新人補強に加え[4]、独特の練習スタイルで結果を出す[4]

1953年、開幕直後には9連勝するなど、5月8日に一時期ながら首位に立つ[4]が、夏場以降は失速し、首位南海と22ゲーム差の最下位となる。勝率は初めて4割を超える[4]、。

1954年8月7日に新人の山下登が対高橋ユニオンズ戦で球団史上初のノーヒットノーランを達成している。74勝63敗5分で、創立以来初となる最下位脱出の4位、勝率5割を越えてのAクラスとなった。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄最多勝鈴木武盗塁王を獲得しており[出典 5]、チーム盗塁数223は当時の日本プロ野球歴代5位であった[出典 6]

1955年、序盤から投手陣が大不振[出典 7]6月19日には武智文雄(田中から改姓)が対大映スターズ戦(大阪)でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。この年連敗する事が多く、60勝80敗2分の5位に終わる[4]

1956年、4月から開幕10連勝と勢いをつけたが[4]、終盤に失速し5位[4]。この頃は万年最下位とは呼ばれなくなったが、優勝争いをしている西鉄、南海とは地力の差があった[出典 8]

1957年、この年パリーグは高橋ユニオンズと大映スターズが合併したことで8球団から7球団となり、日程が組みにくくなったことから最下位の球団は消滅させようという動きがあり、関根潤三は「世間はそれは近鉄だろうと思っていた」と述べ、大映オーナーの永田雅一による近鉄潰しだと述べている[出典 9]6月22日、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄が代行を務めるが8月を終わっても最下位で、消滅の危機となったが、最終的には6位に終わっている[6]。加藤春雄はオフに監督就任。

1958年、開幕から不振が続き、6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、首位の西鉄に3勝22敗1分、2位南海に4勝22敗1分と大きく負け越し、この年の近鉄のシーズン29勝は最多勝投手の稲尾和久の33勝を下回り[出典 10]、球団史上最低記録となる勝率.238でシーズンを終える[4]。シーズン終了後、加藤春雄が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マーク(通称、猛牛マーク)が制作される。

近鉄バファロー時代[編集]

1959年、5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠の38勝より1勝多いだけであった[出典 11]。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。1960年、43勝87敗1分で首位の大毎と39ゲーム差の最下位。

1961年、日本プロ野球シーズン最多記録となる103敗を記録。首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられ、チームの勝ち星は1958年に続き、稲尾和久の42勝に届かぬ36勝に終わった[出典 12]。新人の徳久利明が15勝を挙げ[7]球団初の新人王を獲得する。1958年から4年連続でチームは160失策以上を記録し[8][出典 13]、チーム38盗塁は2リーグ制以降、当時の最少記録となっている[出典 14]。シーズン終了後、千葉茂が監督を辞任し、別当薫が就任。

後年、この当時の事情を千葉茂はなかなか語ろうとしなかったが、1997年ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車だった列車での移動を西鉄並の二等車にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる[出典 15]。一方の選手は西鉄の稲尾和久や南海の杉浦忠などが登板する事が分かると、高熱や腹痛などの仮病を使って試合を欠場したとも述べている[9]

近鉄バファローズ時代[編集]

「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドームに移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム時代を参照。

西本監督就任まで[編集]

1962年、チーム名を近鉄バファローズに改名。ブルームが.374の高打率で首位打者を、チームの28勝を挙げ久保征弘最多勝を獲得するも、チームは久保が約半分の勝ち星となる57勝で5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。

1963年、5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差[10]の4位に終わる。この年の球宴には7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。翌1964年、この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。1958年よりこの年まで7年連続で失策数はリーグワースト[出典 16]。シーズン終了後、別当薫が監督を辞任。後任には岩本義行が就任。

1965年、優勝した南海と42.5ゲーム差で2年連続の最下位。この年第1回プロ野球ドラフト会議が行われ、2位指名で鈴木啓示が入団している。1966年、48勝82敗で2年連続最下位。シーズン終了後、岩本義行が監督を辞任、後任には当時31歳の小玉明利選手を兼任のまま監督就任。1967年 4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社(2代目)を設立し、近鉄興業(同年3月に近鉄野球株式会社=初代を商号変更)から経営を移管[11]。チームは開幕ダッシュもあり5月半ばまで首位だったが、主力選手の相次ぐ故障もあり3年連続の最下位に終わる。シーズン終了後、小玉明利が監督を辞任し選手として阪神に移籍した。後任には三原脩が就任した。1968年[出典 17]、西鉄との開幕戦で3連勝後、4月を14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降は失速し、首位の阪急と23ゲーム差の4位に終わる。しかし監督の三原によって選手に自信をつけさせたとされる。三原は家族の問題から退任を申し入れるも、慰留され続投。

1969年[出典 18]、5月までに9連敗を記録するなど低迷、しかし18勝1敗2分けと一気に追い上げ、球団初の首位争いを阪急と展開する。互いに直接対決4試合のみを残した10月17日の時点で2厘差で首位を保ち、阪急よりも優位であった[12]。しかし、10月18日からの対阪急4連戦に初戦から3連敗で阪急の逆転優勝を許し、2位に終わる。球団創立以来シーズンの対戦成績で勝ち越したことがなかった南海に対し17勝9敗と初めて勝ち越し、また15シーズン連続で負け越していた西鉄にも15勝11敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球で甲子園のアイドルと呼ばれた太田幸司を獲得。

1970年5月14日黒い霧事件に関連し球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行った事が報道された。山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆吉沢岳男高木喬の4名に山崎が八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まった。しかし、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、後任に鶴岡一人に一本化するが招聘に失敗し[13]、コーチの岩本尭が監督に昇格した[13]

1971年は3位。1972年、序盤に首位に立った南海相手に7連勝(1分)するなど、4月29日に同率首位にもなったが[14]、総合では首位とは14ゲーム差の2位に終わる。この頃は鈴木啓示が5年連続20勝を挙げ、また太田幸司人気もあってテレビ中継も増えている[出典 19]

1973年、パ・リーグは前後期2シーズン制を導入。投手力のある近鉄が優勝候補にも挙げられたが[出典 20]、その投手陣が相次ぐ故障などから崩壊し防御率3.83はリーグ5位で10勝以上あげたのが鈴木啓示のみ、打線も土井がで唯一打率ベスト10入り(3位)になっただけでチーム打率はリーグ最下位の.237、本塁打113本は南海と同数の5位、盗塁、得点はリーグ最少、失点、失策はリーグ最多で、8月末に岩本は休養し島田光二が代理監督を務めるが、前後期とも最下位の6年ぶりの最下位に終わっている[15]。二軍がウエスタンリーグ初制覇している。シーズン終了後、前阪急監督の西本幸雄が監督就任。

西本監督時代[編集]

藤井寺球場(一軍は1983年まで準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。二軍は創設当初から本拠地だった)
1958-1983年のメイン本拠地・日生球場
1997-2004年の本拠地・大阪ドーム

西本幸雄の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬の監督就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり[16]、西本退任以降の1982年から仰木彬が指揮した1992年までではBクラスは3度と安定した成績を保った[出典 21]

1974年、監督に就任した西本は羽田耕一栗橋茂佐々木恭介平野光泰梨田昌崇ら若手選手を鍛えてチーム力の強化を図ったが1年目は5位に終わり、オフにチームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードで放出する。1975年には初めて「優勝」(ペナント2期制度での後期優勝)を果たすが、プレーオフで前期優勝の阪急に1勝3敗で敗れる。1977年4月26日、対ロッテ戦で鈴木啓示が球団初の通算200勝を達成、近鉄入団の生え抜き選手としては唯一の名球会入り選手となった。南海と日本ハムファイターズに勝ち越し、ロッテ、クラウンライターライオンズに10勝以上あげているが、首位の阪急に6勝18敗2分と大きく負け越し前期は3位としたものの、後期は最下位でシーズン通しては4位に終わる。チーム盗塁数120はリーグトップだったが、チ-ム打率は5位、チーム本塁打92本はリーグ最下位に終わっている[15]

1978年、前期は阪急に次いで2位、後期は8月まで阪急が首位を独走していたものの、9月に近鉄が猛追し一時は首位に立つなど両チームのマッチレースとなり、後期最終戦となる9月23日に阪急との後期優勝をかけた直接対決を迎えた。近鉄は勝てば後期優勝、阪急はこの試合に勝ち、さらに残り2試合中1試合を引き分け以上が優勝の条件だった。近鉄はこの年25勝で最多勝の鈴木啓示を先発に立てたが、山田久志とのエース対決に敗れ、逆転で首位に立った阪急が次の試合にも勝って前期に続き優勝を決め、近鉄は2位に終わっている。この年近鉄は全球団に勝ち越したものの、阪急は近鉄以外の4球団に大きく勝ち越していたのが差となった[15]

1979年、前期はヤクルトから移籍のチャーリー・マニエルが本塁打を量産し首位を快走するが、6月9日にロッテ八木沢荘六の投球がマニエルの顎を直撃し戦線離脱、その後チームは失速し2位阪急との差が急激に縮まるが、6月26日の前期最終戦を平野の「執念のバックホーム」で引き分けに持ち込み前期優勝を決める。後期は2位となり、後期優勝の阪急とのプレーオフとなるが、この年防御率1位の山口哲治の3連投の活躍で3連勝し、球団創設30年目にして初のリーグ優勝を遂げる。74勝45敗11分、勝率.622は球団記録。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦の9回裏1点ビハインドの場面で、1死満塁の逆転サヨナラ勝ちの好機をつかむが、江夏豊の前に阻まれ、3勝4敗で敗退(江夏の21球参照)。

1980年、反発力を高めた飛ぶボールの効果もあり、この年本塁打・打点の二冠のマニエルをはじめチームから2桁本塁打10人を出す日本プロ野球新記録のシーズンチーム本塁打239本[17]し、前年5月19日から9月29日まで日本プロ野球記録を更新する215試合連続で得点を記録する[出典 22]。チームは前期2位、後期は残り3節の時点で5位と追い込まれるがそこから巻き返し、10月7日には後楽園球場で、マジック1で引き分けでも優勝決定という日本ハムとの直接対決を6-5で勝利し、続く8日、11日の対西武ライオンズ2連戦にも勝利し逆転で後期優勝、ロッテオリオンズとのプレーオフも3勝0敗で制し2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたしても広島に3勝4敗で敗退。オフにマニエルが契約更改で球団と決裂し退団。

1981年、マニエルの抜けた穴はあまりにも大きく、前年4人いた3割打者が1人も出ず、本塁打もビクター・ハリスの22本がチーム最高であるなど打線が低下[18]。前期6位、後期4位の最下位に終わりシーズン終了後、西本幸雄が監督辞任、後任に関口清治が就任。

10.7決戦[編集]

1980年10月7日に行われた後楽園球場における日本ハムと近鉄の最終戦。この試合は開始30分前に満員札止めとなった。日本ハムはこの試合で引き分けでも優勝が決まるが、近鉄が優勝するにはこの試合に勝ち、対西武戦も連勝する必要があるという日本ハムに非常に有利な試合であった。両チームの先発投手は近鉄は鈴木啓示、日本ハムは高橋一三のベテラン左腕。2回裏に日本ハムが1点を先取。打たれながらも何とか抑えていた高橋が3回表に無死二塁とすると、早くも木田勇リリーフした。しかし佐々木恭介に打たれて同点とされる。4回表には3本の安打を連ねられて3点を失った。木田はカーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。5回裏に日本ハムが1点を返せば、近鉄もクリス・アーノルドがソロ本塁打を放つ。しかし7回裏に日本ハムは代打富田勝二塁打を皮切りに4連打を浴びせて2点を返し、1点差にまで迫る。8回表に佐々木恭介がソロ本塁打を放った後に木田はマウンドに座り込んでしまい、ついに降板した。その裏に日本ハムも一死三塁から富田が近鉄2人目の投手の井本隆の頭をワンバウンドで越えるゴロを放ち、これを遊撃手吹石徳一がギリギリ追い付いて捕球。三塁走者の大宮龍男はこの場面で生還する事が出来なかった。二死から高代延博の安打でようやく生還して1点差に迫った。日本ハムは9回表の近鉄の攻撃を間柴茂有宇田東植のリレーで凌いだ。9回裏の日本ハムはクリーンナップの好打順。一番手の柏原純一の右翼への痛烈なライナーがフェンス一杯で捕球された。近鉄はこの後に3番手の村田辰美に替えた。トミー・クルーズも右翼正面へのライナーで二死。トニー・ソレイタ三振に終わり、5-6と近鉄の勝利で試合終了。自力優勝の機を逸した日本ハムを尻目に、近鉄は西武にも連勝して逆転優勝を果たした。西本幸雄監督は「あそこまで鍛えに鍛えて、全員が全力を尽くして戦えば、お客さんの期待に応える、あれだけのゲームが出来るのです」とのちに振り返り、当日に某新聞紙記者は「かつてプロ野球は巨人一辺倒だったが、時代は変わった」と書いた[19]

関口、岡本監督時代[編集]

1982年は序盤は首位になり前後期とも勝ち越し3位となるが、首位の日本ハムからは大きく離されての結果となった。1983年は4月末に7連敗すると5月まで最下位、持ち直すものの、以降は一度も5割にならないままこの年は4位、シーズン終了後、関口清治が監督が辞任、後任は岡本伊三美

1984年5月5日には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、新外国人選手だったドン・マネーが待遇面をめぐって4月末に退団するなどもあり、4位となるが、3位の対西武戦を9勝17敗と大きく負け越している。 1985年7月10日に鈴木啓示が現役引退を表明、背番号1は球団唯一の永久欠番となる。本塁打はリーグ最多の212本だが、防御率はリーグワーストの5.10で、この年は4位の阪急と勝率1毛差の3位であったが、首位西武とは15ゲーム差をつけられ、2ケタ投手もストッパーの石本貴昭だけであったが、この時期は79、80年の優勝メンバーと、後の89年優勝メンバーの世代交代の時期だったとされ、打者では大石大二郎、投手では石本の他に小野和義吉井理人佐々木修山崎慎太郎などの獲得や台頭が見られる[出典 23]

1986年、後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点滅する展開となる。9月30日にはマジック10、127試合目にはマジック3としながら、そこから阪急に3連敗し、残り1試合となる129試合目で優勝を逃し、首位の西武と2.5ゲーム差の2位に終わる。記録の残る1952年以降としては初めて観客動員が100万人を突破している[出典 24]

1987年新井宏昌が首位打者、ルーキー阿波野秀幸が15勝を挙げ新人王を獲得する活躍をみせるもののチーム内の不協和音もあり[出典 25]5位のロッテとは1.5ゲーム差で、4球団には11勝以上したものの残る西武には5勝19敗3分と大きく負け越した事もあり[出典 26]、最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、仰木彬が就任。

仰木監督時代[編集]

1988年、前年までリーグ3連覇中の西武と最後まで優勝争いを繰り広げることとなった。6月7日、主砲だったリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕されて解雇となるが、6月28日に急遽中日ドラゴンズから金銭トレードで獲得したラルフ・ブライアントが、74試合の出場ながら34本塁打するなど大活躍をした。9月15日の時点で西武に6ゲーム差をつけられるが、以降シーズン終了まで、首位の西武が勝ち進み、それ以上のペースで西武を追う近鉄、という展開となり、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄は残り4試合のうち3勝すれば優勝だったが、17日の対阪急戦に敗れ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となり、川崎球場へ移動しての18日の対ロッテ戦に勝利し、10月19日のロッテとのダブルヘッダーで第1試合を9回に逆転勝利するが、第2試合延長10回時間切れで4対4の引き分け[20]に終わり、130試合目にして優勝を逃す結果となった(詳細は10.19を参照)[21]

1989年、開幕前は西武と近鉄が優勝争いになると見られたが、ペナントに入ると開幕戦で近鉄に大勝したオリックスブレーブスが開幕から8連勝と抜け出し、近鉄や西武は勝率5割前後と出遅れる。近鉄はエースの阿波野秀幸が開幕から6連勝や、いてまえ打線の復調もあり、7月から8月にかけて2度の4連勝などで8月に一時首位に立つが、9月に入ると連敗を重ねて9月25日の時点で3位に後退していた。近鉄に後がない状況で、西武のマジック3で迎えた10月12日、対西武戦(西武球場)ダブルヘッダーにおいて、ラルフ・ブライアントがこの日4打数連続本塁打[22]が出て西武に連勝。近鉄が逆にマジック2を点灯させる(詳細は10.19#翌年の10.12を参照)。10月14日、藤井寺球場での対福岡ダイエーホークス戦に勝利し、129試合目で9年ぶり3度目の優勝達成となった[23]。初めての本拠地球場での日本シリーズ開催となったが[24]、初戦から巨人に3連勝するものの、加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言問題もあり[25]その後4連敗を喫し、巨人に敗れる。ドラフトにおいて、8球団競合[26]による抽選の上、新日鉄堺野茂英雄の交渉権を獲得し入団している。

1990年、野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得する活躍で新人王&MVPとなり、沢村賞も獲得。また同じく新人の石井浩郎も6月以降にレギュラーに定着し規定打席不足ながら打率.300、22本塁打と活躍。しかしチームは開幕2戦目から9連敗を喫し大きく出遅れ、阿波野を始め野茂以外の投手陣が軒並み成績を落としたこともあり、西武との大差を縮められず3位に終わる。

1991年、西武が開幕から抜けだすが、前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。1992年、前年とは逆に近鉄が序盤の大混戦から抜け出すが西武に追い上げられ2位に終わる。赤堀元之が防御率1.80を記録し最優秀防御率を獲得したが、規定投球回数達成者としては球団唯一の防御率1点台投手となった[18]。シーズン終了後、仰木彬が監督辞任。後任には小玉明利以来26年ぶりとなる生え抜きの鈴木啓示が監督に就任する。

鈴木、佐々木監督時代[編集]

1993年、監督の鈴木啓示と野茂英雄や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。野茂は4年連続で最多勝を挙げるが四球や自責点もリーグ最多で安定感に欠き、野茂以外に10勝以上投手が出なかったものの、抑えの赤堀元之と、石井浩郎、ブライアントなどのいてまえ打線が好調で、開幕から好スタートの直後に連敗が続き最下位に転落するも、最終的には首位の西武と7ゲーム差の4位に終わる[出典 27]

1994年、開幕の対西武戦で赤堀元之が伊東勤に開幕戦史上初の逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤からチームは低迷。6月17日には首位西武に16ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線の爆発により夏場から調子を上げ、7月26日から8月10日にかけて球団新記録となる13連勝を記録し一時は首位に立つなど、約1ヶ月半で32勝6敗、勝率.842の成績を残す。しかし、野茂が離脱した8月以降は後退、最終的に首位西武と7.5ゲ-ム差の2位に終わる[出典 28]。シーズン終了後、野茂が契約のこじれから退団、メジャーリーグロサンゼルス・ドジャースに移籍[27]金村義明FA権を行使し中日に移籍。

1995年、開幕直前、吉井が西村龍次との1対1の交換トレードによりヤクルトに移籍。ブライアントや石井浩郎の故障離脱もあってチームは低迷。鈴木啓示も途中休養する状況で、8年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは高校生としては史上最多7球団が1位指名したPL学園の福留孝介の交渉権を獲得するが、福留は入団拒否。

1996年、勝率5割付近を行き来する展開となる。翌年から本拠地が新たに大阪ドームに移転する為、Aクラス入りし開幕カードを新本拠地で迎えたかったが、Aクラス入りをかけた最終戦の対西武戦に破れ、4位でシーズンを終える。オフ、大幅減俸提示を拒否した石井が巨人に移籍。ダイエーを自由契約となった山本和範が15年ぶりに復帰。

大阪ドーム時代[編集]

佐々木監督時代[編集]

本拠地を大阪ドームに移転するも、選手の年俸が高騰、大阪ドームも最寄り駅は近鉄の駅ではなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となる[28]。また、大阪ドームの使用料も近鉄興業が保有していた藤井寺球場よりも大幅に上がった。1998年以降は観客動員数も増えなかった事もあり年間赤字が年々膨れ上がっていく。

1997年、開幕カードのグリーンスタジアム神戸での対オリックス2連戦がともに雨で中止となった為、4月8日の大阪ドームでの対千葉ロッテマリーンズ戦が開幕試合となり、大阪ドームでの初試合を4対2で勝利している[29]。借金が最大14になるなど、夏場までロッテと最下位争いをしていたが、10点差逆転勝利を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。この年の観客動員は186万6千人に達し、球団の年間最多観客動員記録となった[30]。この年限りで大石大二郎が引退。

1998年、8月半ばまで日本ハムと優勝争いを繰り広げるが、先発投手陣が安定せず1952年以来となる2桁勝利投手が出ず、ロブ・マットソンの8勝がチーム最高の勝ち星となった[31][18]。最終的には借金1の5位に終わる。

1999年4月に地元企業との提携と地元密着を目指してチーム名を大阪近鉄バファローズに改称し、9月に従来の近鉄野球株式会社に代わる新会社「株式会社大阪近鉄バファローズ」を設立。4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど低迷して最下位に終わる。シーズン終了後に佐々木恭介が監督を辞任、後任は近鉄最後の監督となる梨田昌孝

梨田監督時代[編集]

2000年、就任した梨田に「選手層が薄いが、ケガ人さえいなければ」と言われた状況において、オープン戦で吉岡雄二、シーズンに入って礒部公一クラークと次々に骨折する状況で[出典 29]中村紀洋が本塁打と打点王の二冠を獲得するが、チームは2年連続最下位に終わる。規定打席到達で3割を超えたのは武藤孝司だけであった。

2001年、開幕戦の3月24日の対日本ハム戦は一時は1対6で5点差をつけられるものの、両軍合わせて8本塁打の打ちあいとなり最後は10対9で逆転勝利する。その後も4月に2試合連続サヨナラ勝ちを収めるなど、逆転勝利が多く(78勝のうち41勝が逆転勝ち)、7月17日の対ロッテ戦も9回5点差から8得点を挙げ逆転勝ち、前半戦終了時には、5位のロッテとは5ゲーム、最下位の日本ハム以外が勝率5割以上という状況ながら、10年ぶりに首位で折り返す。シーズン途中に、ピッチャーでショーン・バーグマンジェレミー・パウエル、けがで故障した武藤孝司の代わりとしてショーン・ギルバートを獲得、この補強も功を奏した。終盤9月3日から5連敗し、9月5日の段階でもダイエーと同率首位、1厘差で西武が追い、5位まで6.5ゲ-ム差という混戦となるが、9月9日からの11試合を10勝1敗とした[32]9月24日の対西武戦ではタフィ・ローズが当時の本塁打シーズン日本プロ野球タイ記録となる55号本塁打を達成し、試合も9回裏松坂大輔から中村紀洋のサヨナラ2ラン本塁打で勝利し、優勝マジックを1とした。9月26日、対オリックス戦(大阪ドーム)で5対2とリードされた9回裏、無死満塁として、代打北川博敏が日本プロ野球初となる『代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打』で12年ぶり4度目のパ・リーグ優勝を決めている。同一監督での前年最下位からの優勝は1976年の巨人の長嶋茂雄に次いで2人目で、パ・リーグでは初。防御率リーグ最下位(4.98)での優勝。2位チームへの2桁負け越し(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。日本シリーズではヤクルトに自慢のいてまえ打線を封じ込まれ、1勝4敗で敗退。この年の優勝が近鉄としての最後のリーグ優勝となった。シーズン78勝(60敗2分)は球団記録。オフ、球団初(唯一)のFA移籍で加藤伸一を獲得。

2002年、西武と優勝争いを繰り広げ、2位で追う展開となる。途中、8年ぶりの10連勝を遂げるが、同時期に首位西武も9連勝し、差がほとんど縮まらず。8月の直接対決で9点差を逆転負けし、西武にマジック点灯。最終的に大差をつけられての2位に終わる。シーズン終了後に中村がFA宣言するが、メジャーリーグを含めて1ヶ月余りの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び残留する。大塚晶則はメジャーリーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、中日に金銭トレードされる。規定打席到達で3割を超えた選手が一人もいなかった。

2003年1月に会社の商号を株式会社大阪バファローズに変更。開幕5連勝するものの、大塚の移籍に伴う抑え投手の不在と4番中村の負傷もあり、3位に終わる。シーズン終了後、長年主砲として活躍し、この年も本塁打王を獲得しているローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。

2004年プロ野球再編問題[編集]

2004年[33] 、この年が近鉄球団としての最後の年となった。

1月31日、ネーミングライツ問題が発覚するが巨人などの反対もあり、失敗に終わる。6月13日、オリックス・ブルーウェーブと球団合併する方向で準備を進めていることを発表する。6月30日ライブドアが球団を買収する動きを見せたものの、近鉄は買収には応じず(ライブドアの動きについてはこちらも参照)[34]8月10日、合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日、オーナー会議でこの合併が正式に認められた。9月18日19日、この問題に反発するプロ野球選手会による日本プロ野球初となるストライキが行われ、近鉄、オリックス以外も含めて12球団すべての試合が中止となっている[35]

オープン戦で吉岡雄二がアキレス腱断裂で離脱。新外国人選手のラリー・バーンズが開幕3戦目で離脱、同じくヘクター・カラスコも、4月に4連敗で防御率20.00となり登録抹消。4月7日に4位となって以降このシーズンはAクラスになる事はなく、4月は最下位で終える。岩隈久志が開幕から球団記録となる12連勝もあり、一時は4位となるが、6月13日の球団合併発表の翌試合から4連敗するなど5位となり、7月は4位で終わるものの、アテネオリンピックで岩隈、中村紀洋が抜けた8月7日から7連敗で、以降は5位となる。梨田は合併発表時の時点では「借金4で手ごたえはあった」としているが、7月7日のオーナー会議の時点では選手は抜けがらになり、最後は立ち上がれなかったとも述べている[出典 30]9月24日、大阪ドームでの近鉄最終戦となる対西武戦が行われ、この年ここまで出場のなかった吉岡が代打で出場、この試合が引退登板となった赤堀元之や加藤伸一などが登板。試合は延長11回裏、1死二塁で星野おさむの右翼線へのサヨナラ安打で3対2で勝利、これが球団公式戦最後の勝利となった[出典 31]9月27日Yahoo! BBスタジアムの対オリックス戦が、共に合併する球団同士の公式戦最終戦となったが、2対7で敗れている[36]。チームは61勝70敗で4年ぶりのBクラスとなる5位に終わった。岩隈は15勝を挙げ最多勝を獲得するなど計算できた投手陣に比べ、打撃陣はローズが抜けた事や吉岡などの故障もあり、前年より本塁打、得点が激減となっている。2軍は前期優勝で、9月30日、藤井寺球場で最後の二軍公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われたが、後期優勝の中日に敗れている。

11月8日、オリックスと新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスの間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。大村直之がFAで福岡ソフトバンクホークスに移籍。中村紀洋がメジャ-リーグのロサンゼルス・ドジャースポスティングシステムで移籍している。

以上の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、球団合併反対運動では選手も署名活動に参加するなど[出典 32]、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。そして、11月30日をもって、球団はオリックス野球クラブ株式会社に営業権を譲渡する形で統合され[30]、プロ野球チームとしての大阪近鉄バファローズはここで55年の歴史に幕を降ろす。

2005年以降[編集]

2005年1月15日に御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村のポスティング申請など残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズ解散となる。なお、この後近鉄は合併後の暫定処置として球団合併後2007年までオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、2007年のシーズン終了と同時に完全撤退した[30]

球団愛称[編集]

  • 創設時の愛称・パールス(Pearls)は、近鉄沿線の伊勢志摩の特産品である真珠にちなんだものである。
  • パールスに代わる新しい球団愛称を公募したところ、1番多かったのが「猛牛」と呼ばれた新監督・千葉茂にちなんだバッファローズだった。ところが当時の球団幹部が「『バッファローズ』では表記が長すぎる」と言ったため、2文字減らしてバファロー(Buffalo)になった。千葉辞任後に「これからは監督だけが猛牛になるのではなく、チーム全員が猛牛にならなければならない」という理由でバファローズ(Buffaloes)となった。

シンボルマーク・マスコット[編集]

バフィリード
大阪近鉄バファローズ マスコット #100
バフィリード20130825.jpg
2013年8月25日 大阪近鉄復刻試合にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
選手情報
ポジション マスコット
プロ入り 1997年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • 大阪近鉄バファローズ(1997~2004)
ファルルとカペロ(2000年撮影)
  • 球団のシンボルマーク「猛牛マーク」(球団広報物では「ツノマーク」と表記)は千葉茂が監督に就任した1959年に、「バファロー」の新チーム名称に合わせて千葉の親友だった岡本太郎がデザイン。千葉の述懐に依ると銀座のバーで、デザイン料10万円で依頼したと言う。以降球団が解散する2004年まで、球団旗やユニフォームなどで使われ続けた。日本一に輝いた時に姿を公開することとなっていた「猛牛マーク」を横から見たような「サブマーク」が有ったが、公開されず球団と共に消えた。しかし、2008年頃にその幻のマークの原画が発見され、2010年岡本太郎記念館で公開された。従来の猛牛マークが牛の顔をのみであるのに対してこちらは牛の全身を横から捉えた図で岡本曰く「ふとっちょの猛牛が目をむいて突っ込んでる愉快なやつ」[37]西武ライオンズのシンボルマークやイメージカラーを積極的に用いた西武グループとは異なり、グループのバスタクシーなどに猛牛マークを入れる例は少なく、運送会社である近鉄物流(現:近物レックス)の車両や伝票に見られた程度であった。近鉄物流も球団解散の直前にグループを離れ、同社のトラックに猛牛マークは残っていたが、現在はKBRに変更されている。
  • 大阪ドーム移転前(1976年1996年)のマスコットはユニフォームを着た少年「バッファくん」(近鉄の野球帽・ユニフォームを着用、バットとグラブを持ち片足を上げた少年(顔のみのペットマークもあり)。スパイクはアシックス)がペットマークとして登場。初期のデザインではバットを握った右手の指本数が1本足りなかったが、後に改作された。着ぐるみも作られ、ファン感謝デーなどでも登場していた。このマスコットに似ているということで、中村紀洋の愛称になったこともある。2011年8月に開催されたオリックス・バファローズの「LEGEND OF Bs2011~蘇る黄金の70's~」でスタメン発表時にバッファくんのイラストが使われた。なお、バッファくん登場前には鼻息をふかして突進する姿の猛牛のマスコットを使っており、1975年後期優勝の近鉄電車の記念乗車券券面には西本幸雄監督の顔と伴に印刷されている。
  • 球団マスコットがモチーフ。大阪ドームへの本拠地移転後、以下のキャラクターが登場。キャラクターデザインはアニメトムとジェリー」などを手掛けたアメリカハンナ・バーベラ・プロダクションによるものである。なお、バフィリードだけは公募に依り命名された。
  • キャラクター着ぐるみ作成及び担当は明石家まんま朝おき太等を手がけた株式会社リップ。
    • バフィリード(バフィ) - 背番号100、主人公。
    • ファルルリーナ(ファルル) - 背番号200、女の子のキャラクター。2000年以降ユニフォーム姿(ワンピースにベルト)に変更。
    • 他にバルバロック(バル)(男性)とカペロット(カペロ)(子ども)の2人がいたが、いずれも2000年シーズンをもって登場が打ち切られた。
    • 球団合併により、各キャラクターも引退したが、バフィリードだけはオリックス本社に商標権が譲渡され、2013年に復刻イベントで登場した。他キャラに就いては近鉄本社が更新期限まで所有する状態となっている。

ユニフォームの変遷[編集]

  • 1950年1952年 球団創設期はホーム用が胸に「Pearls」が入ったもの、ビジター用は水色を基調としたユニフォームで胸にゴシック体で「KINTETU」のロゴが入った(1952年限り)。ゴシック体の「KINTETU」は1957年まで使用される。帽子は「K」「P」など数種類が存在。
  • 1953年 左胸に「Pearls」と書かれた、サンフランシスコ・シールズを参考にしたユニフォームが登場。同時に縦縞となり、球団名がバファローとなった1959年まで使用。
  • 1954年1958年 左胸に「P」1文字の、フィラデルフィア・フィリーズを参考にしたデザイン。1958年には帽子のツバ、アンダーシャツ、ストッキングが赤くなる(途中から従来の物も使用)。1958年からビジター用ロゴが飾り文字に変更。
  • 1959年 千葉監督就任と同時に球団名をバファローに変更。ホーム用は黒の帽子・アンダーシャツ・縦じま・袖ラインが採用され、赤い「Buffalo」の胸マークが入ったデザインに変更された。ビジター用は背番号の書体を変更。帽子の前面には、金糸で猛牛マークが入った。
  • 1960年1961年 縦縞を廃止。チームカラーを黒と黄色に変更。ビジター用の左袖が近鉄の社章から猛牛マークに変更される。
  • 1962年1965年 球団名がバファローズとなり、胸ロゴが「BUFFALOES」に変更。袖番号が付けられる。帽子マークは「K」と「B」を組み合わせたものに。1965年からラインを黒に変更し、番号が胸に移動。
  • 1966年1973年 ロサンゼルス・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。同時にロゴも筆記体の「Buffaloes」に変更。ストッキングは上部が濃紺に3本の白線、下部が赤色となる。
    • 1968年より、三原脩監督就任時より、ホーム用の背番号、胸番号の角が取れ、丸型となる。
    • 1969年1971年 ヘルメットが紺地に猛牛マークが入ったものになる。
    • 1972年より、帽子のツバがオレンジ色となる。
    • 1973年後期より、袖とズボンにラインが入るなどのマイナーチェンジが施される。
  • 1974年1996年 西本幸雄監督就任時より、ニット式のベルトレスユニフォームが登場。袖部分のラグランスリーブが赤となり、首と袖に白線が入り、丸首プルオーバースタイルとなる。左袖には、炎と猛牛を組み合わせたマークが入る。ユニフォームデザインはアトランタ・ブレーブスのものを参考にしている。
    • 帽子・ヘルメットは、紺色地に赤の「B」マーク(デザイン自体は1966年より使用しているものと同じでボストン・レッドソックスと同じ書体)・ツバが赤。その後、ヘルメットのみ猛牛マーク(赤色のツノ・紺色の目を白縁でデザイン)に変更されたデザインが使われるようになる(採用時期不詳)。
    • 1977年より 左袖のマークが猛牛マークになり、デサント社が開発した快適性、軽量化を図ったメッシュ素材の上着を、野球のユニフォームとしては世界で初めて採用する。
    • 1978年より 背番号の上に選手名(英字表記)が入り、ベルトレスからインナーベルト式になる。
    • 1978年後期より、帽子の地色が赤、前面が白、白部分のサイドに紺のラインが入り、紺色の「KINTETSU BUFFALOES」のロゴ(アーチ型)、猛牛マークが入る三色帽に変わる。三色帽はモントリオール・エキスポズが採用していたものを参考にデザイン。
      • 1979年1980年、1989年の3度のリーグ優勝を果たしたゲンのいいユニフォームで、マイナーチェンジを繰り返しながら23年の長きに渡り使われた。
  • 1997年2004年 大阪ドーム移転を機にフルモデルチェンジ。デザインはコシノヒロコが手掛ける。同時に球団カラーを「バファローズホワイト」、「バファローズオレンジ」、「バファローズネイビー」、「バファローズレッド」の4色と設定。デザインはそれに基づかれた。
    • 帽子・アンダーシャツ・線は紺。
上記は2011年2012年にオリックス・バファローズが再現している。
    • 1999年より、球団名が大阪近鉄バファローズとなり、ビジター用が「Kintetsu」から「Osaka」に変更。これが近鉄最後のユニフォームとなった。また左袖には50周年記念のバフィーワッペンが入る(翌年以降、元のバフィーワッペンに戻す)。
      • ビジター用上着のデザインは当初は赤のみだった。[38]しかし、いざユニフォームが完成してみると、当時の佐々木監督や選手たちから「東芝のユニフォームみたい」「プロが着るユニフォームじゃない」などと異論が続出し、選手たちがユニフォーム変更を拒絶しかける事態となり[39]、事態の沈静化を図るため急遽紺が追加された。その後もファン感謝デーでこのユニフォームが初お披露目された際、ファンから「台湾プロ野球(のユニフォーム)だ」などと酷評され、優勝するまではこのユニフォームの評判は良くなかった。
      • ビジター用はユニフォームは金曜日から月曜日は紺、火曜日から木曜日では赤と使い分けられていたが、2000年以降は紺のみとなった(使い分けに関しては当初「ナイトゲームは赤、デーゲームは紺」とされたが、使用頻度の偏りを避けるために上記のようになった)。このため、結果的に、「Osaka」ロゴの赤は1999年のみの使用となった。

球団旗の変遷[編集]

  • 1949:「近鉄パールス」時代のもの。紺地にパール=真珠を模した白丸を散りばめる。左上には、真珠貝を模した白丸の上に「KP」の組文字。
  • 1950~1958:KPマークを真珠貝ではなく、円が囲む形となった。
  • 1959~1981:球団ニックネームがバファローとなり、岡本太郎氏デザインの猛牛マークが登場。水色地に赤で猛牛マーク、両目は紺。
  • 1982~1996:ユニフォームのカラーリングにあわせて、球団旗も赤・紺・白のトリコロールカラーとなる。赤地に白の猛牛マーク(両目の色が白であるものと紺であるものの2種類存在した。)、その下に紺地に白文字で「Buffaloes」。
  • 1997~2004:本拠地の大阪ドーム移転を機に、球団旗もリニューアル。紺と赤を波型で分け、中央に白の猛牛マーク、左上には赤文字で「Buffaloes」。

チームの特徴[編集]

  • 1990年代以前は外様監督が多く、仰木彬以前の生え抜き監督はプロ経験のない藤田省三芥田武夫を除くと、加藤久幸と小玉明利の2人しかいなかった。仰木以降は鈴木啓示佐々木恭介梨田昌孝と生え抜き監督が続いたが、球団消滅により梨田が近鉄最後の監督となった。監督は「基本的に若手中心で」(補強はしない)というのを毎年命じられていた。
  • 打線は「いてまえ打線」(大阪弁。共通語で「やってしまえ」の意)と呼ばれ、特にリーグ優勝した2001年にはチーム防御率4.98とリーグ最下位ながらチーム打率.280、チーム本塁打数211と他チームを圧倒し優勝をさらった。この年は3番のタフィ・ローズと4番の中村紀洋だけで101本、3~7番では実に165本もの本塁打を叩き出し話題となった。ローズが本塁打王(55本)、中村が打点王(132打点)、主に5番に入ることが多かった礒部公一は得点圏打率1位(.417)の成績を残している。この年阪神監督の野村克也が自チームの貧打線に対し「(バックに)いてまえ打線があったら(グレッグ・ハンセルは)20勝している」というコメントを残したのも有名。1980年には前述のようにシーズン239本塁打の日本記録を打ち出すなど、本塁打の魅力をどこよりも認識させた球団だった。詳細は、いてまえ打線を参照。
  • 野茂英雄吉井理人大塚晶則、中村紀洋、岩隈久志など、多くのメジャーリーガーを輩出している。
  • リーグ優勝する年は、必ずと言って良いほど助っ人外国人選手が本塁打を量産する傾向がある。実際に、球団設立から消滅までの55年でリーグ優勝は4回あるが、この間にチャーリー・マニエル1979年)に37本、1980年に48本)、ラルフ・ブライアント(1989年に49本)、ローズ(2001年に55本)がそれぞれ、本塁打王を獲得している。
  • 1970年前後に日生球場のナイター使用がプロ野球機構で問題になり、近鉄沿線の三重県愛知県へのフランチャイズ移転も検討されたが、愛知県は中日ドラゴンズの保護地域であるため許可を得られず断念した(但し名古屋での公式戦は地方開催扱いで1999年まで行われていた。これは近鉄の営業圏内であった事と、中京にパ球団を持たないリーグ事情も勘案されていた)。1973年に藤井寺球場のナイター工事が着手されたが、地元の反対で完成は11年後の1984年にずれこんだ。
  • 日本一を経験していない球団では、最長の期間存続した。身売りの多いパ・リーグ球団としては、唯一親会社が変わらないまま歴史に幕を閉じた。
  • 2004年9月、北海道で行われた世界ラリー選手権(WRC)、ラリージャパンに「チームバファローズ コットンファクトリー」としてプジョー・206で参戦したが、リタイヤした。当時の監督の梨田がプジョーを愛車としていたことが縁だった。
  • 最下位になったことが非常に多いチームであり、1950年の2リーグ分立以降では19回。2010年横浜ベイスターズが最下位20回を更新するまでは消滅したチームも含めて両リーグワーストだった。
  • シーズン90敗以上を5シーズンで記録している。2010年に横浜ベイスターズが6シーズンで90敗以上を更新するまでワースト記録だった。
  • プロ野球に理解のないフロントの体質に関して不満を持つ選手も多かった。野茂は先発日に藤井寺球場の駐車場に車を止めたところ、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求されたり、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」(理由については野茂の項を参照)と言われたこともある。佐々木は入団後初めてグランドに集まった際、フロントの訓示で「お前達野球クラブの選手は」と言われ、頭に血が上ったと述懐している。「ドン・マネー事件」での外国人選手に対する待遇のみならず、監督に三原が就任する以前、近鉄選手の移動は列車では当時の二等車(後の普通車)のみ(西鉄ライオンズ等は一等車、後のグリーン車を既に利用していた)だったことからも、選手に対する待遇の悪さは伝統的なことであったといえる。金村義明も著書「在日魂」の中で1989年のパリーグ優勝旅行はハワイ4泊6日の旅だったが、飛行機は往復ともエコノミークラス(金村は球団側に「ビジネスクラスにして欲しい」と要望していたが、球団側が「ビジネスクラスは満員でチケットが取れない」と拒否、しかし当日金村らが搭乗した便のビジネスクラスはガラガラだったらしい)であったり、選手の子どもの飛行機代は選手の自腹だったらしい。後年金村は西武でも優勝旅行を経験したが、近鉄と西武の優勝旅行は同じハワイでも雲泥の差だったとしている。

応援スタイル[編集]

  • 打者に対する基本的な応援コールは「かっとばせー、○○(選手名)!××(対戦相手チーム)倒せー、オー!」だった。このスタイルは1980年代までは近鉄のみならず大半のチームで採り入れられていたが、1990年代以降は年々少なくなっていき、遂には近鉄でしか使われなくなった。一方で、近鉄は球団解散時までこのスタイルを通した(ちなみに、現在この応援コールを使っているのは中日ドラゴンズ福岡ソフトバンクホークスで、共に読売ジャイアンツ主催試合のみである)。
  • 応援歌を流す前のコールは98年の途中までが「~~○○(驚弾炸裂紀洋、俊敏華麗に武藤など)」×3を1回もしくは2回のあと「○○!(○○!)○○!(○○!)○○(○○!)」から選手別応援歌、98年の途中からは「~~○○」×3からすぐに応援歌の演奏に変更した。
  • 球団解散時には「暴れん坊将軍」のオープニングテーマを原曲とするI(1995年~)、タオルマフラーを持って踊るII(2000年~)、2種類の歌詞があるIII(2001年~)、ビハインドの場面で使われるIV(2002年~)、ビッグイニングの時に使われるV(2003年~)と5種類のチャンステーマが存在。III以降は「踊る牛」「笑う牛」(以上III)「紅の丑」(IV)「パニ牛」(V)とタイトルもついていた(代打のテーマにも「働く牛」というタイトルがついている)。
  • 前述の暴れん坊将軍のテーマはジェシー・リード1991年1992年在籍)の応援歌としても歌われた。
  • ラルフ・ブライアント1988年途中~1995年在籍)の応援歌は仮面ライダーV3が原曲。
  • チャンス時のテーマ、三三七に長らく8時だョ!全員集合のオープニングテーマを使っていた。ドームに移転してからこの曲は安打以外での出塁テーマとなり、安打の場合の三三七はHelloweenの「Guardians」を使った。
  • ジェット風船はチームカラーの赤色に統一していた。
  • 藤井寺球場は住宅地と隣接していたため、鳴り物入りの応援が禁止されており、メガホンと声だけの応援スタイルを取った。[40]
  • 1985年の日本シリーズ(阪神対西武)では、甲子園球場での西武側の応援団が少ないだろうということで近鉄の応援団が協力を申し出て共に応援を行った。

球団名変遷と年度別成績[編集]

※銀地はリーグ優勝、順位の欄は左の数字が順位、右の数字はリーグ所属球団数。

年度 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 打率 防御率 本塁打
近鉄パールス
1950年 藤田省三 7/7 120 44 72 4 .379 37.5 .242 3.85 86
1951年 藤田省三 7/7 98 37 56 5 .398 33.5 .223 3.13 37
1952年 藤田省三
芥田武夫(注1)
7/7 108 30 78 0 .278 40.0 .243 4.06 37
1953年 芥田武夫 7/7 120 48 69 3 .410 22.0 .246 2.93 31
1954年 芥田武夫 4/8 140 74 63 3 .540 16.0 .247 2.66 23
1955年 芥田武夫 5/8 142 60 80 2 .429 39.0 .252 3.45 35
1956年 芥田武夫 5/8 154 68 82 4 .455(注2) 29.5 .226 3.17 48
1957年 芥田武夫
加藤春雄(注3)
6/7 132 44 82 6 .356(注2) 38.5 .225 3.22 35
1958年 加藤久幸(注4) 6/6 130 29 97 4 .238(注2) 49.5 .215 4.04 41
近鉄バファロー
1959年 千葉茂
林義一(注5)
6/6 133 39 91 3 .300 49.0 .229 3.68 48
1960年 千葉茂 6/6 131 43 87 1 .331 39.0 .236 3.61 69
1961年 千葉茂 6/6 140 36 103 1 .261(注2) 51.5 .229 3.96 68
近鉄バファローズ
1962年 別当薫 6/6 131 57 73 1 .438 21.0 .252 3.40 70
1963年 別当薫 4/6 150 74 73 3 .503 12.5 .256 3.44 98
1964年 別当薫 6/6 150 55 91 4 .377 28.5 .254 3.63 112
1965年 岩本義行 6/6 140 46 92 2 .333 42.5 .235 3.61 91
1966年 岩本義行 6/6 133 48 82 3 .369 31.0 .228 3.60 100
1967年 小玉明利 6/6 132 59 71 2 .454 16.0 .251 3.83 104
1968年 三原脩 4/6 135 57 73 5 .438 23.0 .234 3.28 84
1969年 三原脩 2/6 130 73 51 6 .589 2.0 .243 2.78 118
1970年 三原脩 3/6 130 65 59 6 .524 13.5 .233 2.98 108
1971年 岩本堯 3/6 130 65 60 5 .520 18.0 .241 3.21 151
1972年 岩本堯 2/6 130 64 60 6 .516 14.0 .248 3.07 123
1973年 岩本堯
島田光二(注6)
6/6 130 42 83 5 .336 6・6(注7) .237 3.83 113
1974年 西本幸雄 5/6 130 56 66 8 .459 5・4(注7) .230 3.63 131
1975年 西本幸雄 2/6(注8) 130 71 50 9 .587 3・1(注7) .246 3.09 115
1976年 西本幸雄 4/6 130 57 66 7 .463 5・4(注7) .245 3.04 102
1977年 西本幸雄 4/6 130 59 61 10 .492 3・6(注7) .245 3.31 92
1978年 西本幸雄 2/6 130 71 46 13 .607 2・2(注7) .266 3.21 115
1979年 西本幸雄 1/6(注8) 130 74 45 11 .622 1・2(注7) .285 3.70 195
1980年 西本幸雄 1/6(注8) 130 68 54 8 .557 2・1(注7) .290 4.96 239
1981年 西本幸雄 6/6 130 54 72 4 .429 6・4(注7) .253 4.10 149
1982年 関口清治 3/6 130 63 57 10 .525 3・2(注7) .258 4.11 151
1983年 関口清治 4/6 130 52 65 13 .444 29.5 .262 4.49 134
1984年 岡本伊三美 4/6 130 58 61 11 .487 16.5 .257 4.36 174
1985年 岡本伊三美 3/6 130 63 60 7 .512 15.5 .272 5.10 212
1986年 岡本伊三美 2/6 130 66 52 12 .559 2.5 .271 4.34 183
1987年 岡本伊三美 6/6 130 52 69 9 .430 21.5 .270 4.22 135
1988年 仰木彬 2/6 130 74 52 4 .587 0.0 .253 3.23 154
1989年 仰木彬 1/6 130 71 54 5 .568 0.0(注9) .261 3.86 157
1990年 仰木彬 3/6 130 67 60 3 .528 14.5 .275 4.34 181
1991年 仰木彬 2/6 130 77 48 5 .616 4.5 .265 3.46 157
1992年 仰木彬 2/6 130 74 50 6 .597 4.5 .247 3.69 155
1993年 鈴木啓示 4/6 130 66 59 5 .528 7.0 .258 3.62 145
1994年 鈴木啓示 2/6 130 68 59 3 .535 7.5 .274 4.24 169
1995年 鈴木啓示
水谷実雄(注10)
6/6 130 49 78 3 .386 32.0 .234 3.97 105
1996年 佐々木恭介 4/6 130 62 67 1 .481 14.5 .255 4.01 146
1997年 佐々木恭介 3/6 135 68 63 4 .519 7.5 .274 3.79 112
1998年 佐々木恭介 5/6 135 66 67 2 .496 5.0 .267 4.28 126
大阪近鉄バファローズ
1999年 佐々木恭介 6/6 135 54 77 4 .412 23.5 .257 4.54 151
2000年 梨田昌孝 6/6 135 58 75 2 .436 15.0 .262 4.66 125
2001年 梨田昌孝 1/6 140 78 60 2 .565 2.5(注9) .280 4.98 211
2002年 梨田昌孝
真弓明信(注11)
2/6 140 73 65 2 .529 16.5 .258 3.93 177
2003年 梨田昌孝 3/6 140 74 64 2 .536 8.5 .274 4.30 187
2004年 梨田昌孝 5/6 133 61 70 2 .466 17.0(注12) .269 4.46 121
年度 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 打率 防御率 本塁打
1950年から2004年までの順位のグラフ
  • 注1 開幕から9月16日まで藤田、9月24日から閉幕まで芥田
  • 注2 引分は0.5勝0.5敗で計算
  • 注3 開幕から6月20日まで芥田、6月22日から閉幕まで加藤(代行)
  • 注4 加藤春雄から改名
  • 注5 開幕から6月18日まで千葉、6月20日から閉幕まで林(代行)
  • 注6 開幕から9月26日まで岩本、9月28日から閉幕まで島田(代行)
  • 注7 前後期制のため、前期順位・後期順位の順で表示
  • 注8 ポストシーズン成績を参照
  • 注9 2位とのゲーム差
  • 注10 開幕から8月8日まで鈴木、8月9日から閉幕まで水谷(代行)
  • 注11 開幕から8月14日まで・8月17日から閉幕まで梨田、8月16日のみ真弓(代行)
  • 注12 レギュラーシーズン1位とのゲーム差

ポストシーズン成績[編集]

年度 試合名 成績 対戦相手
1975年 プレーオフ ○●●● 阪急
1979年 プレーオフ ○○○ 阪急
日本シリーズ ○○●●●○● 広島
1980年 プレーオフ ○○○ ロッテ
日本シリーズ ○○●●○●● 広島
1989年 日本シリーズ ○○○●●●● 巨人
2001年 日本シリーズ ●○●●● ヤクルト

タイトル獲得選手[編集]

総合[編集]

最優秀選手
最優秀新人

打撃部門[編集]

首位打者
本塁打王
打点王
盗塁王
最多安打

タイトル制定(1994年)以後の該当者無し。 タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。

  • 土井正博(1964、1967)
  • 永淵洋三(1969)
  • 新井宏昌(1987)
  • ジム・トレーバー(1990)
  • 石井浩郎(1993)
最高出塁率
最多勝利打点

1981年制定、1989年から廃止

投手部門[編集]

最多勝利
最優秀防御率
  • 久保征弘(1963)
  • 清俊彦(1972)
  • 鈴木啓示(1978)
  • 山口哲治(1979)
  • 野茂英雄(1990)
  • 赤堀元之(1992)
最多奪三振

タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。

  • 阿波野秀幸(1989)
  • 野茂英雄(1990-1993)
  • ジェレミー・パウエル(2002)

タイトル制定以前の該当者は以下の通り。

  • 鈴木啓示(1967-1972、1974、1978)
  • 阿波野秀幸(1987)
最優秀勝率

2001年で廃止され、翌年からは最優秀投手となった。

最優秀投手
  • ジェレミー・パウエル(2002)
  • 岩隈久志(2004)
最優秀救援投手

※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。

なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。

  • 鈴木康二朗(1984-1985)
  • 石本貴昭(1986)
  • 赤堀元之(1992-1994)
  • 大塚晶文(1998)
沢村賞
  • 野茂英雄(1990)

ベストナイン[編集]

  • 小玉明利三塁手:1960、1962-1965)
  • ジャック・ブルーム(二塁手:1962-1963)
  • 高木喬一塁手:1965)
  • 土井正博(外野手:1967-1968)
  • 鈴木啓示(投手:1969、1975、1978)
  • 永淵洋三(外野手:1969)
  • クラレンス・ジョーンズ(一塁手:1974)
  • 佐々木恭介(外野手:1975、1978)
  • 石渡茂(遊撃手:1977、1979)
  • 梨田昌孝捕手:1979-1981)
  • 栗橋茂(外野手:1979-1980、1982)
  • チャーリー・マニエル(指名打者:1979-1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1983-1984、1990)
  • リチャード・デービス(一塁手:1985)
  • 新井宏昌(外野手:1986-1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • 山下和彦(捕手:1989)
  • ラルフ・ブライアント(外野手:1989、指名打者:1993-1994)
  • 野茂英雄(投手:1990)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 石井浩郎(一塁手:1993-1994)
  • 中村紀洋(三塁手:1996、1999-2002)
  • フィル・クラーク(一塁手:1997-1998、指名打者:1999)
  • タフィ・ローズ(外野手:1997、1999、2001-2003)
  • 大村直之(外野手:1998)
  • 礒部公一(外野手:2001)
  • ジェレミー・パウエル(投手:2002)
  • 岩隈久志(投手:2004)

ゴールデングラブ賞[編集]

1972年 - 1985年はダイヤモンドグラブ賞

  • 有田修三(捕手:1975-1976)
  • 梨田昌孝(捕手:1979-1981、1983)
  • 平野光泰(外野手:1979-1980)
  • 小川亨(一塁手:1980)
  • 羽田耕一(三塁手:1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1982-1984)
  • 新井宏昌(外野手:1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 大村直之(外野手:1998、2003)
  • 中村紀洋(三塁手:1999-2002、2004)

正力松太郎賞[編集]

その他のチーム記録[編集]

  • 初試合 1950年3月12日・藤井寺球場(対毎日、2-6)
  • 初勝利 1950年3月13日・藤井寺球場(対南海、4-3)
  • リーグ優勝 4回(1979年 - 1980年、1989年、2001年)
  • 日本一 0回
  • Aクラス 22回(1954年、1969年 - 1972年、1975年、1978年 - 1980年、1982年、1985年 - 1986年、1988年 - 1992年、1994年、1997年、2001年 - 2003年)
  • Bクラス 33回(1950年 - 1953年、1955年 - 1968年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年、1981年、1983年 - 1984年、1987年、1993年、1995年 - 1996年、1998年 - 2000年、2004年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 5年(1988年 - 1992年)
  • 連続Bクラス最長記録 14年(1955年 - 1968年)
  • シーズン最多勝利 78(2001年)
  • シーズン最少敗戦 45(1979年)
  • シーズン最高勝率 .622(1979年)
  • シーズン最少勝利 29(1958年)
  • シーズン最多敗戦 103(1961年)
  • シーズン最低勝率 .238(1958年、当時は引き分けを0.5勝0.5敗で計算していたため、現在の勝率に換算すると.230)
  • シーズン最高打率 .290(1980年)
  • シーズン最多得点 791(1980年)
  • シーズン最多安打 1332(2001年)
  • シーズン最多二塁打 249(2002年)
  • シーズン最多三塁打 40(1953年、1954年)
  • シーズン最多本塁打 239(1980年、当時日本新記録。現在はパ・リーグ記録)
  • シーズン最多四球 581(2001年、日本記録)
  • シーズン最多四死球 644(2001年、日本記録)
  • シーズン最多盗塁 223(1954年)
  • シーズン最多犠飛 52(1978年、日本記録)
  • シーズン最高防御率 2.66(1954年)
  • シーズン最低防御率 5.10(1985年)
  • シーズン本塁打数200本以上3回(日本記録。1980年、1985年、2001年)
  • 最大連勝 13(1994年7月26日・対ロッテ~8月10日・対ロッテ)
  • 最大連敗 13(1952年5月25日・対毎日第1試合~6月15日・対西鉄第1試合)
  • 1試合最多得点 21(1980年6月30日・対ロッテ第1試合、2000年9月5日・対オリックス)
  • 1試合最多失点 25(1985年9月18日・対南海)
  • 1試合最多安打 26(2003年8月18日・対日本ハム)
  • 1試合最多二塁打 8(1963年6月19日・対東映、1963年10月3日・対阪急)
  • 1試合最多三塁打 3(1984年5月24日・対南海 他4度)
  • 1試合最多本塁打 8(2003年7月12日・対日本ハム)
  • 1試合最多犠打 7(1987年・対南海、日本記録)
  • 1試合最多盗塁 9(1954年7月27日・対毎日)

選手記録[編集]

完全試合
ノーヒットノーラン
サイクル安打
通算2000本安打
通算200勝

通算最多記録[編集]

近鉄在籍時代に記録したもののみ(他球団在籍時での記録は数字に含まれない)[41]

投手
  • 勝利投手 - 317 鈴木啓示
  • セーブ - 139 赤堀元之
  • 登板試合 - 703 鈴木啓示
  • 奪三振 - 3061 鈴木啓示
打者

歴代オーナー[編集]

歴代監督名は「球団名変遷と年度別成績」の項目を参照。

歴代本拠地[編集]

  • 1950年 藤井寺球場
  • 1950年(9月以後) - 1957年 大阪球場
  • 1958年 - 1983年 日本生命球場
  • 1984年 - 1996年 藤井寺球場
  • 1997年 - 2004年 大阪ドーム
  • なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。
    • 名古屋地区 ナゴヤ球場[43](-1996年)、ナゴヤドーム(1997年-1999年)で3-10試合程度。オープン戦では本来本拠地とする中日とのビジターゲームもあった。
    • 京都地区 西京極球場[44](1965年-1973年=1968年は非開催)で5-10試合程度。これとは別に同様に準本拠地としていた阪急主催での対近鉄戦もあった。
    • また、1989年と1990年は大阪球場で10試合前後の主催試合を行った。
本拠地についての備考
  • 日生球場・大阪球場
    • 日生球場は収容人員が日本野球機構主催によるオールスターや日本シリーズを開催する時の最低下限である3万人よりも少なかったので、近鉄主管で行われる場合(1979、80年のプレーオフも)大阪球場を使った他、オールスターについては近鉄が主管となる順番となった回は南海ホークスに開催権を譲渡していた。但し、1975年のプレーオフは藤井寺で開催しており、仮に日本シリーズ出場が決まった場合も藤井寺を使う予定だった。なお、ナイトゲーム主催のために近鉄は日生球場にナイター設備(1958年)や観客席増設(1962年)の工事を負担している[45]
  • 藤井寺球場
    • 形式上は藤井寺、大阪球場(1957年まで)→日生(1958年以後)のダブルフランチャイズだったが(専用球場の届出もこの2ヶ所で登録された)、1983年までは日生をメインに日曜・祝日などのデーゲーム時に藤井寺を使用。1984年以後は藤井寺をメインに年10-20試合程度を日生で開催した。1997年にメインを大阪ドームに移した後も1999年までは藤井寺とのダブルフランチャイズで登録された。

永久欠番[編集]

#1 鈴木啓示

2004年当時はパ・リーグ唯一の永久欠番だったが、吸収合併先のオリックスでは当時1番をつけていた後藤光尊が引き続き着用を希望したため、引き継がれず消滅(オリックス側は念のため鈴木本人に確認したが、「自分の永久欠番はあくまで近鉄での記録によるもの」とし、後藤の継続着用を承諾)。

また、近鉄として最後の監督である梨田昌孝によって、以下のような名言が残されている。

「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

主な球団歌・応援歌[編集]

  • 大阪近鉄バファローズの歌(旧題:近鉄バファローズの歌)(作詞:竹中郁、作曲:米山正夫、歌:クールボナール)
  • 炎えろ!近鉄バファローズ(作詞:西沢爽、作曲:城賀イサム)
    • 上記2曲はCD「大阪近鉄バファローズオフィシャル球団歌・応援歌」では高橋元太郎が歌っている。「近鉄バファローズの歌」のクールボナールが歌うバージョンでは、キダ・タローが編曲を担当している。
  • ドリーム&パワー(作詞・作曲:岡田誠司、歌:イエスマン・ブギー・バンド フィーチャリング JUN)
  • RED de HUSTLE(作詞:キユサマ☆ワカルフ、作曲:パパ・ダイスケ、歌:大西ユカリと新世界

エピソード[編集]

ミケンズルール[編集]

巨人はロッテより弱い[編集]

ネーミングライツ問題[編集]

2004年キャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案だったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。

ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季 - 1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)<中村長芳オーナー率いる福岡野球が経営母体>、ロッテオリオンズ(1969年 - 1970年に前出の中村がオーナーだった。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融アコムだったため、青少年への影響面から認められなかった理由の1つに挙げられていた。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。

過去の合併計画[編集]

2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。
1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では

  1. 近鉄と広島が合併
  2. 本拠地を広島県広島市に置き、セ・リーグ所属とする
  3. 球団事務所・フロントや首脳陣は両オーナー相談の上で決定し、新しい首脳陣が選手50人を人選
  4. 資本は近鉄・広島で半々
  5. 球団愛称は公募する

と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。

幻の移転計画[編集]

本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。

  • 1960年代には近鉄の東端である名古屋への移転を計画したが、愛知県を保護地域としている中日ドラゴンズの反対で実現しなかった。しかし、ナゴヤ球場及びナゴヤドームでは1990年代後半まで、年数試合の主催試合を開催していた。
  • 1970年代に西本幸雄佐伯勇オーナーに、近鉄沿線の花園ラグビー場周辺を整備して野球場を建設し、本拠地を移転することを進言したところ、「(お金が)幾らかかると思っているんだ」と返されたという。
  • 1980年代初頭の藤井寺ナイター問題時には、東大阪市が受け入れに名乗りを上げたことが新聞報道されたが、藤井寺のナイター設備設置計画がまとまったことで立ち消えとなった。

また、青木一三は著書で、佐伯オーナーが1979年頃に、愛媛県を本拠とする来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却の申し入れをおこなっていたと記している[46]

脚注[編集]

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  1. ^ 1938年、南海軍として設立。1947年5月に近鉄から旧南海が分離したことにより、球団の運営も南海となる。
  2. ^ 二軍でも、ウエスタン・リーグ1995年に1回だけ優勝するも二軍の日本一は達成できなかった。なお、楽天が2013年に日本シリーズで優勝したため、同年地点で現存する12球団全てが日本一を経験していることになる。
  3. ^ 「近畿日本鉄道100年のあゆみ」 P.783 近畿日本鉄道2010年
  4. ^ a b c d e f g h i j k 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P36-P37
  5. ^ 鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』恒文社、1984年、p.308
  6. ^ 最下位は大映で、この年のオフに毎日と合併している。
  7. ^ チーム最多勝、26敗はリーグ最多敗戦
  8. ^ いずれの年もリーグワースト
  9. ^ 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P39。週刊ベースボール2011年12月12日号の「豊田泰光のオレが許さん!」でも豊田泰光が千葉から聞いた話として述べている。
  10. ^ 記録大鑑のP53-59には1ゲーム差と書かれているが、実際は2ゲーム差である。
  11. ^ 「近畿日本鉄道100年のあゆみ」P.319 近畿日本鉄道2010年
  12. ^ この時点での成績は、近鉄が72勝48敗6分(勝率.600)、阪急が73勝49敗4分(勝率.598)で、近鉄は2勝で優勝となるのに対し、阪急は2勝1分以上が条件だった(当時の新聞縮刷版による)。
  13. ^ a b 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P41
  14. ^ 南海ホークス刊「南海ホークス40年史」P229-231
  15. ^ a b c 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」83ページ
  16. ^ 仰木就任以前の近鉄は西武に対しては西武創設初年度の1979年に勝ち越して以降、仰木就任初年度の1988年に勝ち越すまで1986年のタイを除いて、全て負け越すなど相性は良くなかった。
  17. ^ 被本塁打も251本で、こちらも日本プロ野球新記録
  18. ^ a b c 日本野球機構刊『The Official Baseball Encyclopedia 2004 日本プロ野球記録大百科』2175ページ
  19. ^ ナンバー『熱闘!プロ野球三十番勝負』文春文庫、1992年、P146~152
  20. ^ 当時は試合時間が4時間を越えると新しいイニングに入らないというルールがあった。
  21. ^ この日は後に近鉄と球団合併することになるオリエント・リース(現:オリックス)が阪急を買収することを発表した日でもあった。
  22. ^ 第1試合全打点をたたき出す3打席連続本塁打と、第2試合敬遠四球を挟んでの4打数連続
  23. ^ この年のここまでの出典は週刊ベースボール2013年10月7日号24-25ページとする
  24. ^ 1979、80年はナイター設備が未整備で、大阪球場で開催している。
  25. ^ 加藤のこの発言に対し、巨人の選手が怒って奮起し4連勝した、とされるもの。詳細はこちらを参照
  26. ^ この時競合したのはダイエー、阪神、オリックス、大洋、ロッテ、日本ハム、ヤクルト
  27. ^ 詳しい経緯は「野茂英雄の近鉄退団」を参照
  28. ^ 近鉄電車阪神なんば線への乗り入れで大阪ドームの最寄り駅に来るようになったのは、近鉄球団消滅後の2009年
  29. ^ 恵みの雨で本拠地開幕 大阪ドーム1号は鈴木貴久スポーツニッポン 2012年4月8日
  30. ^ a b c 「近畿日本鉄道100年のあゆみ」P.500-501 近畿日本鉄道2010年
  31. ^ 2001年に前川勝彦が12勝するまで、近鉄は2桁勝利投手が出なかった
  32. ^ この年のここまでの記述の出典を「ベースボ-ルマガジン2011年11月号102ページ」とする
  33. ^ この節の出典は特記無い場合。ベースボールマガジン2005年冬季号50ページ及び129-136ページとする
  34. ^ 朝日新聞社刊 『スト決行プロ野球が消えた2日間』30ページ
  35. ^ この中止の代替開催は行われなかった
  36. ^ 【9月27日】2004年(平16) さらば近鉄 ラストゲームは合併するオリックス”. スポーツニッポン (2007年9月27日). 2012年9月12日閲覧。
  37. ^ 岡本太郎デザインの幻の猛牛マークを展示 南青山で
  38. ^ これはデザインを担当したコシノが、事前にバファローズのイメージカラーを調査したところ、「赤」という意見が大半を占めたため。
  39. ^ これと前後して週刊ベースボール誌がコシノにインタビューした際、コシノが「あたしが作ったユニフォームなんだから誰が着たって似合うに決まってるわよ」と放言した記事が載り、これが異論の火に油を注ぐ格好となった。
  40. ^ 但し、1999年の最終戦で試合の終盤にトランペットを使用するなど、いくつかの例外もある。
  41. ^ 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ
  42. ^ 株式会社大阪近鉄バファローズ 「感動の軌跡 大阪近鉄バファローズ50周年記念誌」
  43. ^ 開場から1975年までの名称は「中日スタヂアム」
  44. ^ 現:わかさスタジアム京都
  45. ^ 「近畿日本鉄道100年のあゆみ」P.319 近畿日本鉄道2010年
  46. ^ 青木一三『ダイエー/オリックス球団買収の真相』ブックマン社、1989年、P107 - 108

出典[編集]

  1. ^ さらば P52
  2. ^ さらば P44
  3. ^ さらば P44
  4. ^ 記録大鑑P41
  5. ^ さらば P49
  6. ^ 記録大鑑P714
  7. ^ さらば P45
  8. ^ さらば P45
  9. ^ さらば P49
  10. ^ 記録大鑑P53
  11. ^ 記録大鑑P55
  12. ^ 記録大鑑P59
  13. ^ 記録大鑑P53-59
  14. ^ 記録大鑑P714
  15. ^ さらば P50-51
  16. ^ 記録大鑑P53-59
  17. ^ この年の記述の出典は、さらばP53
  18. ^ この年の記述の出典は、さらばP53
  19. ^ さらば P53
  20. ^ サヨナラ P94
  21. ^ さらば P78
  22. ^ 記録大鑑P571
  23. ^ サヨナラ P95
  24. ^ 記録大鑑P1078
  25. ^ サヨナラ P95
  26. ^ 記録大鑑P111
  27. ^ さらば P94
  28. ^ さらば P94
  29. ^ さらば P31
  30. ^ さらば P31
  31. ^ さらば P42-43
  32. ^ さらば P31

参考文献[編集]

  • ベースボール・マガジン社刊 週刊ベースボール別冊冬季号「さらば大阪近鉄バファローズ」
  • 日刊スポーツ出版社刊 「サヨナラ近鉄バファローズ」
  • 講談社刊 宇佐美徹也著「プロ野球記録大鑑」

関連項目[編集]