10.19

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10.19(じってんいちきゅう)とは、1988年10月19日川崎球場で行われた日本プロ野球のロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ、以下「ロッテ」)対近鉄バファローズ(当時。以下「近鉄」)第25・26回戦(ダブルヘッダー)のこと。「10.19の悲劇」とも称される。

複数の関連著書が刊行(#参考文献を参照)され、試合のダイジェストはビデオソフトとしてリリースされている[1]

2010年に日本野球機構が行なった「最高の試合」「名勝負・名場面」調査では、監督およびコーチ、報道関係者の両者が「最高の試合」の第2位にこの試合を選んでいる[2]

後記のとおり、「続編」#翌年の10.12も含む。

目次

[編集] 概説

[編集] 10月18日までの概略

1988年のパシフィック・リーグは序盤から独走する首位の西武ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ、以下「西武」)に対し、近鉄が終始2位につけていたものの、シーズン中盤まで最大8ゲーム差をつけられ、9月15日の段階でも6ゲーム差と大きく水を空けられていた。しかしここから近鉄が奇跡的な巻き返しを見せ、にわかに熱を帯びる。

9月30日時点での西武・近鉄の勝敗(西武と近鉄のゲーム差は1.5)

  • 西武 64勝47敗6分 勝率.577 残り試合13(近鉄4・日本ハム2・阪急2・南海4・ロッテ1)
  • 近鉄 61勝47敗3分 勝率.565 残り試合19(西武4・日本ハム2・阪急2・南海2・ロッテ9)

10月1日2日に西武と近鉄の直接対決があったが、1日は西武、2日は近鉄が勝つ。その後10月4日には西武が負けて近鉄が勝ったため、近鉄はこの時点でまだ2位ながらマジック14が点灯した。近鉄は翌日の試合にも勝ち、ついに首位に立った。

10月5日時点での近鉄・西武の勝敗(近鉄と西武のゲーム差は0、近鉄にマジック13が点灯)

  • 近鉄 64勝48敗3分 勝率.571 残り試合15(西武2・阪急2・南海2・ロッテ9)
  • 西武 65勝49敗6分 勝率.570 残り試合10(近鉄2・日本ハム2・阪急1・南海4・ロッテ1)

そして10月7日から近鉄は10月19日まで15連戦(10日・19日はダブルヘッダー)、西武は10月16日まで10連戦という過酷な日程を戦うことになっていた。7日・8日にいきなり直接対決があったが西武が連勝。再び首位を奪い返すとともに近鉄に2ゲーム差を付けた。ところが9日から13日まで西武は4勝1敗で乗り切ったものの、近鉄がロッテ戦6試合に全勝。近鉄のマジックは消滅せずに減り続けた。14日はともに勝ち、15日はともに負け[3]、16日はともに勝って、ここで西武は全日程を終了した。

10月16日時点での西武・近鉄の勝敗(西武と近鉄のゲーム差は0.5、近鉄にマジック3が点灯)

  • 西武 73勝51敗6分 勝率.589 全日程終了
  • 近鉄 72勝51敗3分 勝率.585 残り試合4(阪急1・ロッテ3)

近鉄は17日に阪急に敗戦を喫したため、優勝するためには残るロッテ3試合に全勝するしかなく、引き分け1つも許されない状況に追い込まれた。近鉄は阪急西宮球場から移動するバスの車内で、佐々木修が音頭を取り、近鉄バファローズの球団歌を全員で合唱した。

翌日の18日、近鉄はロッテに12-2で完勝。そして10月19日を迎えた。ロッテは既に最下位が決定しており、しかも近鉄戦は10月の7戦全敗を含めて8連敗中だったので、近鉄が勢いで連勝するのではないかと、ダブルヘッダーが行われる川崎球場は近鉄の逆転優勝を期待するファンで超満員となった。

[編集] ダブルヘッダー第1試合

15時試合開始。川崎球場は快晴だった。先発投手はロッテが小川博、近鉄が小野和義

[編集] 出場選手

[近鉄]

[ロッテ]


[編集] 試合内容

初回にロッテ愛甲猛が小野の失投を捉え2ラン本塁打で2点を先制。近鉄は小川の前に4回までパーフェクトに抑えられるが、5回表に鈴木貴久のソロ本塁打で1点を返した。7回裏・ロッテ、四球2つなどで二死一・三塁のチャンス。佐藤健一がセンター前に放った打球はダイビングキャッチを試みる鈴木の前に弾みタイムリー二塁打、1点を追加、再び2点リードとなった。8回表・近鉄、鈴木のヒットと代打加藤正樹の四球で一死一・二塁。この場面で近鉄ベンチは代打・村上隆行を送った。村上の打球はレフトフェンスを直撃する2点タイムリー二塁打で3-3の同点。同点のまま9回表を迎えた。当時のパ・リーグは「ダブルヘッダー第1試合は延長戦なし。9回で試合打ち切り」という規定があったため、近鉄はこの9回表に勝ち越さなければならなかった。この試合で球審を務めた橘修は「7回辺りから球場全体の雰囲気が異様になり、マスクをしていても胸が絞めつけられそうだった」と述懐している。

その9回表一死、淡口憲治がライトフェンス直撃の二塁打で出塁。代走佐藤純一が送られた。ここでロッテはリリーフ牛島和彦を投入した。続くこの日2安打の鈴木が牛島からライト前に安打を放つ。三塁ベースコーチ滝内弥瑞生は本塁突入を指示したが、打球が強すぎ、また外野が前進守備を敷いていたため、佐藤は三本間に挟まれてランダウンプレイとなり、捕手小山昭吉触球されて二死となった。なお、この間に鈴木は二塁に進塁した。近鉄・仰木彬監督はこの挟殺プレイに関して「正直勝つのは無理だと思った」と語っている。

ここで仰木監督はこの年での引退を決めていた梨田昌孝を代打に送る。またロッテは捕手を小山から袴田英利に交代した。一塁が空いており、敬遠も考えられる状況だったが、牛島は梨田との勝負を選んだ。ボールカウント0ストライク1ボールからの二球目、梨田の打球は牛島の内角高め直球に詰まりながらもセンター前に落ちた。二塁走者の鈴木は三塁を回り本塁へ。センターから返球がダイレクトに届き、クロスプレイとなるも、鈴木は捕手袴田の触球をかいくぐりながら横っ飛びで本塁に滑り込んだ。球審・橘修の判定はセーフ。4-3で、近鉄が勝ち越しに成功した。勝ち越しの本塁を踏んだ鈴木は両手を広げて飛び出した中西太ヘッドコーチの胸に飛び込み、二人は抱き合ったまま倒れ込んで喜んだ。梨田は、二塁ベース上でガッツポーズをした。冷静沈着な梨田の選手生活最初で最後のガッツポーズだった[4]

9回裏は、当時の抑え・吉井理人が8回裏から続投した。しかし先頭打者・丸山一仁への際どい投球がボールと判定され四球。吉井はマウンドから駆け降り、判定を不服として球審に詰め寄った。吉井は、続く代打・山本功児に対しても制球が定まらず2球連続ボール。ここで仰木監督はリリーフ阿波野秀幸を送った。阿波野は2日前の試合で128球を投げ9回を完投していたが、一塁走者丸山の守備妨害などもあり二死一塁までこぎつけた。しかし佐藤にこの試合4安打となる二塁打を許し二死二・三塁。次打者愛甲も簡単に2ストライクと追い込みながらも死球を与え、二死満塁となった。

迎えた打者は森田芳彦(本来なら4番の高沢秀昭の打順だったが、首位打者争いをしていた高沢は、この試合3打数0安打で途中交代していた)。1点でも許すと優勝を逃す状況で、阿波野は森田を三球三振に仕留めて試合終了[5]。終了時刻は18時21分で、試合時間は3時間21分。近鉄の勝利により、優勝の行方は130試合目である第2試合に持ち越されることとなった。

リリーフ勝ち越し打を打たれた牛島和彦は第2試合が始まる前にロッテ球団職員から「これで(2試合目の)放映権料が入ります、ありがとうございます」と感謝されたと引退後雑誌Numberの特集記事で答えている[出典無効]。第2試合の放映権料は1億円ともいわれており、当時の球団財政がかなり潤ったといわれている[誰によって?]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
近鉄 0 0 0 0 1 0 0 2 1 4
ロッテ 2 0 0 0 0 0 1 0 0 3
  1. 近 : 小野、吉井、阿波野 - 山下、古久保、梨田
  2. ロ : 小川、牛島 - 斉藤、小山、袴田
  3. : 吉井 10勝2敗24S  : 牛島 1勝6敗25S  S: 阿波野 14勝12敗1S  
  4. :  近 – 鈴木20号(5回小川)  ロ – 愛甲17号(1回小野)
  5. 審判:球審…、塁審…山本斎田村越、外審…山崎中村

[編集] ダブルヘッダー第2試合

第1試合終了から23分後の18時44分に第2試合が開始された。先発投手はロッテが園川一美[6]、近鉄が高柳出巳

[編集] 出場選手

[近鉄]

[ロッテ]


[編集] 試合内容

当時のパ・リーグは(9回で打ち切りとなるダブルヘッダー第1試合を除き)9回終了時点で同点の場合、最大12回までの延長戦を行うことになっていたが、「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了を以って打ち切り」という規定もなされていた。

また、ロッテは第1試合に敗れたことで対近鉄戦9連敗となっていた。

試合はまたしてもロッテが2回裏にビル・マドロックの本塁打で1点を先制(マドロックは当期限りでの解雇が既に決定していた。外国人選手は解雇が決まれば即帰国することが多い)。度々ストライクの判定をめぐって仰木監督や中西ヘッドコーチがベンチから飛び出し抗議を行うなど、球場内に不穏な空気が漂いながら試合は進んでいった。

近鉄は6回表にベンジャミン・オグリビーのセンター前安打で同点に追いつき、続く7回表には、吹石徳一が2号ソロ、真喜志康永が3号ソロ本塁打で一挙2点の勝ち越しに成功した。吹石は骨折で登録を抹消されていた金村義明の代役出場で、梨田同様、この試合が現役最後の試合となった。本塁打を打った吹石に「カネ、やったぞ」と声をかけられた金村は号泣したという。この本塁打では、吹石は派手なガッツポーズでダイヤモンドを駆け回った。普段地味な働きをしていただけに、ベンチの誰しもがこの姿に感動したという。一方、ロッテは7回裏、岡部明一がソロ本塁打。近鉄は投手を吉井理人に代えたが、ロッテは西村徳文がタイムリーヒットを放ち同点に追いついた。

8回表、近鉄は、父親が危篤状態だったが日本に残って試合に出場したラルフ・ブライアントが34号ソロ本塁打を放ち4-3で再びリードを奪った。ここで近鉄は8回裏から逃げ切りを図るべく第1試合に続いて阿波野をマウンドへ送った。しかし、首位打者を争うロッテ高沢秀昭が阿波野の決め球スクリューボールを捉えて本塁打。4-4と三度同点となった。捕手の山下やベンチの梨田はタイミングの合わない高沢に対してストレートで抑えられると判断していたが、阿波野自身はストレートの調子が良くないとこれを拒否し、スクリューボールを投じて本塁打にされてしまった。阿波野は「なぜ自分のストレートを信じた山下さんを信じられなかったのか」と後悔したと言う。

9回表、近鉄は二死後大石第二朗が二塁打で出塁したが、新井宏昌の三塁線を襲った強烈な打球に対し、三塁手水上善雄が横っ飛び、一塁へダイレクトに送球というファインプレイで新井をアウトにし、この回を無得点とした。新井は、この時珍しく塁審に抗議し、後で「自分にはヒーローになるツキがないのか」と思ったと述懐している。

9回裏、ロッテはこの回の先頭打者古川慎一がヒットで出塁。続く袴田英利は犠牲バントをしたが、阿波野と梨田が一瞬捕球を譲り合ったため慌てて交錯。内野安打となり無死一・二塁。ここで阿波野は二塁へ牽制球を投じた。この球が高めに浮き、それを大石がジャンプして捕球。その体勢のまま、二塁走者の古川と交錯しながらも触球しにいった。その際、古川の足が二塁ベースから離れたとして、二塁塁審の新屋晃はアウトを宣告した。古川は新屋塁審に抗議し、ロッテ・有藤道世監督もベンチを飛び出して「大石が古川を故意に押し出した」と走塁妨害を主張した[7]

この抗議がなされた時点で試合時間は既に3時間30分を過ぎていた。近鉄ベンチから仰木が飛び出し有藤に迫り、客席からも罵声や怒号が飛び交うなど騒然とする中、抗議が9分間なされた。その後ロッテは二死満塁としたが、打者・愛甲猛が打ったレフト前への詰まった飛球を、レフト淡口憲治が猛ダッシュして地面すれすれでダイレクトキャッチ。勝負は延長戦となった。

延長10回表、この時点で規定の4時間が迫っており、近鉄の攻撃は事実上これが最後である。この回先頭のブライアントは二塁ゴロを打ったが、二塁手・西村の一塁送球をベースカバーの投手・関清和が後逸し出塁。安達俊也が代走として送られた。続くオグリビーは三振で、一死。羽田耕一の打球は二塁手・西村正面へのゴロ。西村自らが二塁を踏み、一塁にボールが送られ、併殺打で三死となった。

この時、時間は22時41分。試合開始から3時間57分が経過していた。残り3分で10回裏のロッテの攻撃を終わらせることは不可能であり、近鉄の優勝の可能性が消え、西武の優勝(パ・リーグ4連覇)が決まった。

しかし、優勝の可能性は消えても試合は続き、近鉄ナインは10回裏を守らなければならなかった(止めたら放棄試合)。マウンドに上がった加藤哲郎は投球練習を省略し、少しでも試合を早く進めようとしたが、22時44分が過ぎた。先頭の丸山一仁は四球。代走に伊藤史生が送られた。続くビル・マドロックは捕邪飛に倒れた。次打者岡部明一に対して近鉄は投手を木下文信に交代、ロッテは代打に斉藤巧を送った。そして木下が斉藤と最後の打者古川慎一を三振に討ち取った。仰木彬監督は最後までベンチ中央に仁王立ちして指揮を執った。「悲劇の10回裏」と称された。

こうして4-4の同点のまま22時56分に時間切れのため試合終了。所要時間4時間12分。最終順位は1位西武、2位近鉄。最終ゲーム差0.0、勝率差は僅かに.002(一厘未満切り上げで正確には.0014)だった。試合終了後、仰木監督をはじめ、近鉄ナインは敵地ながらグラウンドに出て、三塁側とレフトスタンドに陣取ったファンへ深々と頭を下げ、挨拶を行った。ファンからは温かい拍手と「よくやった」などの労いの声が飛んだ。仰木コールも沸き起こった。選手たちは涙を流しながらも帽子を振って応えた。そして選手達はバスに乗り込み球場を後にしたが、近鉄ファンはそのバスを取り囲み最後の最後まで仰木監督や選手達を激励した。就任時は12球団一地味な監督と評されながら、監督就任1年目にして10.19を演出した仰木監督は「こんな立派な試合が出来た。残念ですけど、悔いはありません」とコメントを残している。

選手達が戻った東京都港区内のホテルの宴会場では従業員らによって祝勝会の準備が行われていた。優勝を逃した仰木らは「せっかく用意してくれたんだから」と従業員を気遣い、選手・コーチを集めて「残念会」を行う事を決めた。金村は「みんな、すみませんでした」と、ぐしゃぐしゃの表情で土下座を繰り返していた。またメジャーの元本塁打王オグリビーは会を中座し、トイレの個室にこもって涙を流し、「何で引き分けなんて制度があるんだ」と嘆いた(メジャーリーグには引き分け制度はなく、決着がつくまで制限なしで延長戦が行われる)。オグリビーも、この試合をもって現役を引退している。会の最後には選手会長の大石大二郎が「来年頑張ろう」と檄を飛ばし、安達俊也村上隆行のインディアン・ダンスで気勢を上げた。この試合に出場した近鉄の選手達が現役引退する際、「選手生活で一番印象に残る思い出は」という質問に対して、殆どの選手が「10.19のダブルヘッダー」と答えている。

この後、引き分け制度への懐疑論が相次ぎ、セ・リーグは検討の結果1990年から延長15回引き分け再試合制を導入した(2001年から試合数増のため延長が12回に短縮され、引き分けを復活)が、パ・リーグでは後に時間制限が撤廃されたに過ぎなかった。 更に2011年には東日本大震災による電力不足や節電に配慮するため、時間制限が再導入され電力状況の厳しい2012年も時間制限の継続が決まっている

前野重雄は著書『客は幾万 来なくとも 川崎球場ロッテ一部始終』にて、第一試合前にロッテナインが「近鉄に優勝させた方がいい」と同情的だったと触れている。しかしそれが「近鉄のある失礼なプレー」によってロッテナインの憤激に遭い、第二試合前ミーティングにおいて、一転「勝たせるな」が合言葉となったという。また同書では、有藤監督が情報漏洩に過敏になるあまり10.19当日の2試合とも、場内アナウンスとともに投手とマドロック、そして高沢以外のナイン・コーチらは「自らの先発」も告げられず秘匿されていたというエピソードが記述されている。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 R
近鉄 0 0 0 0 0 1 2 1 0 0 4
ロッテ 0 1 0 0 0 0 2 1 0 0 4
  1. (延長10回時間切れ引き分け)
  2. 近 : 高柳、吉井、阿波野、加藤哲、木下 - 山下、梨田
  3. ロ : 園川、荘、仁科、関 - 袴田
  4. :  近 – 吹石2号(7回園川)、真喜志3号(7回園川)、ブライアント34号(8回園川)  ロ – マドロック17号(2回高柳)、岡部11号(7回高柳)、高沢14号(8回阿波野)
  5. 審判:球審…前川、塁審…高木新屋五十嵐、外審…小林一小林晋
  • 最終順位(西武と近鉄のゲーム差は0、西武が優勝)
    • 西武 73勝51敗6分 勝率.589(.5887) 全日程終了
    • 近鉄 74勝52敗4分 勝率.587(.5873) 全日程終了

[編集] 球場の状況

ロッテは1978年に川崎を本拠地として以来、閑古鳥が鳴き、慢性的に観客動員数が伸び悩んでおり、この1988年も観客動員数は12球団最下位であった。球団は苦肉の策として当時、1シーズン全試合有効の無料招待券(1枚につき、シーズン中任意の1試合に入場可)を近隣住民をはじめ多くの人々に大量に配布していた。しかし、1980年代のロッテは低迷続きでこの年も最下位を独走、さらには川崎の施設老朽化等もあり、この招待券配布も観客動員の増加にはほとんど効果がなかった。

なお、当時、プロ野球の観客動員数の発表は実数によるものではなく、上記のような球団の公式発表による数値はあくまでも公称値である。特にロッテは当時、観客の実数が1,000人に満たなかった試合でも年間予約席(シーズンシート)の席数などを含めて「3,000人」などと公式発表するケースが多かった事を付記する。

だが、この日は朝から無料招待券を持った客が大挙して川崎球場に詰め掛けた。当然ながらこの招待券はシーズン全体の動員数を考慮して配布していたので(ただし前述の通りそもそも招待券を大量に配布したところで観客増を望める状況ではなかった部分を考慮する必要がある)、当初の予想に反して球場の定員を大幅に上回る人々が集まり、入場できなくなる人が続出した。あぶれた観客は球場に隣接する雑居ビル、マンション、アパート等の上の階に観戦場所を求めて集まり、右翼側場外にあるマンションは階段や踊り場、さらには屋上までが人で一杯になったほどだった。第一試合に近鉄が勝利したことでさらに過熱、満員札止めになった入場券売り場には入場できない人が殺到、係員に一万円札などの高額紙幣を差し出し入場を懇願するファンやフェンスを飛び越えて入場しようとして失敗し鉄条網に足を引っ掛け倒れ怪我をするファンまで現れた。

当時日産自動車硬式野球部に所属していた島田茂は川崎球場のライトスタンドの近くにあった自宅マンションのベランダからこの10.19を観戦していた。「自分も絶対にプロではこういう試合に出たい」と思ったという[8]。島田はこの年の秋にドラフト外でロッテに入団した。

無料招待券で入れる自由席に入場制限がかけられ、さらに指定席は、普段観客の入らない川崎球場は、定員分の券を予め用意していなかった。また当時川崎には指定席の発券システムがなく、不足した分は窓口の係員が座席表を確認しながらゴム印で席番を打った後観客に手渡すという手作業で行われていたため、チケットを求めて集まった観客の列に発券がいよいよ追いつかなくなった。指定席にはまだ余裕があった時点で混乱を避けるため急遽席番無しの立ち見券を発行するという異例の対応を実施した。さらには「大人用」の台紙を使い切ってしまったため、「小人用」の台紙の「小人」の表記をペンで消去して使いまわすなど、係員は終始発券の対応に追われた。

さらに売店は、当時の川崎球場は施設そのものの老朽化が進んでいた上に普段から観客数が少なかったことから設置数が元々少なく、全ての売店がメインスタンドのネット裏周辺のみに集中して設けられており、外野スタンドには物販スペースが一切設けられていなかった。また売り子による巡回販売も行われていなかったため、観客は自ら売店へ足を運ぶ必要があった。そのため、1階スタンド下の売店と場外のうどん店・ラーメン店・お好み焼店や自動販売機には場内の観客が次々と詰め掛けて長蛇の列をつくった。更に第1試合と第2試合の間のインターバルが夕食の時間とほぼ重なったため、第2試合が始まる頃にはほとんどの食べ物、飲み物が売り切れ、食事をとるのに支障が出てしまった。

また当時の川崎球場のトイレは全て男女共用で、実際に女性が利用できるのはネット裏1階の実質1箇所のみであった。しかも用を足す際には、わざわざ男性用の小便器が並ぶ中を通り抜けて個室に行かねばならなかったため、初めて川崎を訪れた女性の観客からは苦情が多数寄せられたという。ロッテ球団は1978年の川崎移転以来、川崎市に対して球場の改築・改修を求め続けてきたが、市側は財政難や球団の不人気を理由に消極的であった。しかし、この10.19で施設面の様々な問題点が噴出したことを契機に、市は翌1989年秋から総額約14億円を投じて2箇年計画で改修工事を実施する運びとなった(川崎球場の項目も併せて参照)。

この日の川崎球場には「本日仰木胴上げ日」という横断幕を掲げて応援するファンもいた。観客の9割近くが各地から動員された近鉄ファンなど近鉄を応援する人々であった。また、ホーム側の応援席にはロッテの勝利を願う西武ファンもいたため、本来のロッテファンが占める割合はさらに少なかったことになる。

[編集] テレビ中継

  • 第1試合
実況:西野義和朝日放送) 解説:岡本伊三美(当時朝日放送解説者、前近鉄監督)
  • 第2試合
実況:安部憲幸(朝日放送) 解説:小川亨(当時朝日放送解説者、元近鉄選手)
※ベンチリポーターは2試合とも戸石伸泰が担当、制作クレジットは協力:テレビ朝日 製作:朝日放送と表示された。

[編集] 西武

監督の森祇晶は、10月7・8日の直接対決で近鉄に連勝した時点で、一度は優勝を確信したという(この時点ではまだ近鉄にマジックが点灯していた)。西武が全日程を終了した次の日(17日)に近鉄が敗れたため、近鉄が残り試合に全勝しない限り西武の優勝が決まる所までいったが、翌18日は近鉄がロッテに大勝する。ここに至って、森は近鉄に10月だけで7敗目のロッテのあまりの不甲斐なさに呆然とし、動揺が生まれたという。

本試合結果待ちとなった西武は当日、西武ライオンズ球場をファンに開放し、スコアボードの大型映像装置でロッテ対近鉄戦を生中継していた(現在でいう、パブリックビューイング)。監督以下選手たちも西武球場に待機し、第1試合の7回裏、ロッテが2点リードすると選手たちはユニフォームに着替え、胴上げのためベンチ入りした。しかし、森は2点のリードでは安心できないとユニフォームを着ることを拒んだ。そして9回表、近鉄の代走佐藤が三本間でタッチアウトになると西武ベンチから思わず歓声が上がったが鈴木がホームインするとダッグアウトに戻り、近鉄が勝ったあとで選手たちを帰宅させた。チームリーダーだった石毛宏典は第一試合の近鉄の勝利の後「あの時は9割方近鉄の優勝を確信したが残り1割の奇跡を信じた」と後日語っている。

第2試合が始まると、森は秋季キャンプの会議を始めた。試合に一喜一憂するより、来季に向けた話し合いをした方が気が休まったからである。だが会議後、内野守備走塁コーチの伊原春樹は精神的苦痛のためか、一旦帰宅したという。森は球場の駐車場に停めてあった自分の車に乗り込み、ラジオで試合の行方に耳を傾けていた。延長10回裏、西武の優勝が確実になった状況で、新聞記者たちが集まってきた。しかし「まだロッテの攻撃時間がある」と押しとどめ、「ロッテよ、攻撃に時間をかけてくれ」と祈った。22時44分、正式に西武の優勝が決まると「選手たちが本当によくやってくれた」とコメントした。西武球場に集まった数百人のファンの前で、選手たちに胴上げされた。森は「近鉄の壮絶な戦いに身ぶるいするほどの感動を覚えた、この世界に生きる人間として頭が下がる」とコメントしている[9]

石毛は「こんなんで負けたら近鉄に申し訳ない」と1988年の日本シリーズを必ず制することを誓った。その日本シリーズで中日ドラゴンズと対戦して日本一を勝ち取ったが、その時に清原和博が「これで近鉄に顔向けができる」というコメントを残している。仰木はこの清原の台詞を聞いて、それ以来、自著『燃えて勝つ』にもその事について触れるなど清原に一目置くようになり、事ある毎に声を掛けるようになった。さらに仰木は2005年オリックス・バファローズの監督を1年だけ務め、健康上の理由で退任しシニア・アドバイザーに就任したが、まず真っ先に同年限りで読売ジャイアンツを戦力外になっていた清原を獲得している。

[編集] 日本シリーズを控える側

この年のセ・リーグ優勝チーム、中日ドラゴンズは名古屋市のホテルで日本シリーズ前の合宿を行っていた。監督の星野仙一はこの試合を自室でテレビ観戦し、日本シリーズでの対戦相手の行方を見守りながら、ふと「闘っている仰木さんの立場だったらどうだろうか、結果を待っている森さんの立場だったらどうだろうか」などと、自分と同じ“監督”としての立場を考えつつ、勝敗とはまた別のところに想いを巡らせていた。

パ・リーグの優勝決定はこの近鉄の最終戦までもつれたが、西武・近鉄両球団とも日本シリーズの前売入場券の台紙を予め作成していた。またナゴヤ球場開催分の入場券は、対戦カードを「中日 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」と表記した(日本シリーズのチケットは全て前売りで、シリーズ開始前に発売される為。但し引き分けによる日程の追加など特別なケースでは、当日券を発売する場合がある)。但し、かつてはリーグ優勝の決定がシリーズ直前までもつれるケースが何度もあったため、これは1988年に限ったケースではない。

ベースボール・マガジン社は、日本シリーズの公式プログラムを長年作成しているが、パ・リーグの優勝決定がもつれたため、「西武優勝版」と「近鉄優勝版」の2種類を予め作成。結局この日西武の優勝が決定した事により、後者はお蔵入りとなった。また同社出版の雑誌「週刊ベースボール」などでも同じ対応をおこなった。

[編集] 阪急身売り発表とマスコミの対応

この日の夕方、阪急ブレーブスがオリエント・リース(翌年4月、社名をオリックスに変更)に売却されることが発表された。9月に南海ホークスダイエーへ売却されることが決まった際にはマスコミもその情報を以前からキャッチしていたが、阪急に関しては全くの予想外で、この日のスポーツマスコミは「10.19」と「阪急身売り」の対応に追われた。

この日、川崎には阪急担当記者の一部も取材の応援に駆けつけていたが、彼らも急遽帰阪したり、買収関連の記者会見が行われる都内のオリエント・リース本社へ急行したりと予定変更を余儀なくされ「よりによって、何でこんな大事な日にそんな発表をするのか」と漏らす者もいたと言う[10]。「阪急身売り」は、プロ野球関係者にも衝撃を与え、この日、10.19の第1試合の解説をしていた前近鉄監督の岡本伊三美は、試合中に一報が入ると、「あの阪急が…」と絶句した。翌日のスポーツ紙のうち日刊スポーツサンケイスポーツは「阪急身売り」を一面で取り上げた(この年、近鉄の終盤の猛追撃がスポーツニュース等でも連日話題になっており、後述の通り異例の生中継が実施にも関わらず、「10.19」を二面以降に扱わなければならなかったほど、阪急身売りは衝撃的なものであった。なお、「10.19」「西武V4」を一面に取り上げたスポーツ紙もあった。

なお、この年阪急と南海が売却された事によって、パ・リーグ創設の1950年以来経営母体を一度も変更していなかった球団は、偶然にもこの日ダブルヘッダーを戦っていた近鉄のみとなったが、その近鉄も2004年オリックスに吸収合併された。

関西近畿広域圏では、テレビ朝日系列のABCテレビが第1試合から完全中継していたが関東地方では当初この試合の中継予定は無く、日本テレビTBSは18時21分に終了した第一試合の結果を夕方のニュースのスポーツコーナーで速報として伝え、第二試合終了後に「西武優勝」とのニューステロップを流しただけだった。テレビ朝日は『パオパオチャンネル』『ニュースシャトル』内で随時川崎球場からの中継を差し込んで放送、少しずつ試合中継を放送するうちに「もっと見たい」「(プロ野球の)中継を続けてくれ」と視聴者からの電話が殺到したため、斎田祐造編成部長の独断で[11]急遽番組予定を変更して第2試合途中の午後9時から全国放送[12]。結果的にこの日放送予定だったドラマ『さすらい刑事旅情編』を差し替えた[13]うえ、CMを入れずにノーカットで生中継するという、民放としては異例の対応を行い、画面上では「スポンサーのご厚意により、CMを入れずに放送します」とのテロップが放映された[14]

その後、22時から開始の『ニュースステーション』でもメインキャスターの久米宏が番組冒頭から「今日はお伝えしなければならないニュースが山ほどあるのですが、このまま野球中継を続けます」「伝えなければならないニュースもあるし、誰か助けてください」(後述)の一言と共に当初の内容を全て飛ばして中継を続けた。もっとも、近鉄戦のナイターが全国ネットで放送されるのは、テレビ朝日が西武主催ゲームを中継し、偶然その際に対戦相手となった場合を除けば極めて異例であった。

ニュースステーションのプロデューサー早河洋はこの日のニュースステーションでは「ブラックマンデー」から1年が経過したことからウォール街からの中継を計画、またこの日、阪急の身売り、リクルート事件の東京地検による初の強制捜査が行われていた放送予定であったが、今起きている生の内容を放送することを決断、特集自体が中止、延期となった。 ニュースステーション内で行われた中継の視聴率は近畿地区で46.7%(歴代最高)、関東地区でも視聴率30.9%(歴代3位)を記録した。この試合の中継は視聴者の反響を呼び、同年12月30日に放送された『ニュースステーション 年末スペシャル』でも「今年記憶に残ったニュース」として「10.19」を取り上げ、ドキュメンタリー形式で放送した。また毎日放送も後に、この試合のドキュメントを放送している。

フジテレビは試合と同じ時間帯に『夜のヒットスタジオ』を生放送していたため、司会を務めていた古舘伊知郎が試合に関するコメントを読み上げた。しかし、試合終了前にもかかわらずスタッフの手違いで「近鉄の逆転優勝」という予定稿を読み上げてしまい、即座に訂正するというハプニングが生じた。しかも、古舘に誤報であることを告げたのは、歌手のバックで演奏するオーケストラの団員であった(熱心な野球ファンであったため、本番中もラジオで試合中継を聞いていた)。[要出典]

[編集] 翌年の10.12

シーズン終了後、仰木が近鉄球団オーナーにシーズン報告を行うために向かう途上、「優勝を前にしてチャンスを逃した」として監督解任を覚悟したという。しかし、報告時にオーナーは「近鉄球団の代表として鼻高々である。来期も是非球団を指揮してほしい」と賛辞と共に激励されたという。

翌年1989年のパ・リーグは、オリックスの開幕8連勝で始まり首位を独走、6月末時点で2位近鉄に8.5ゲーム差をつけたが、ここから近鉄が猛追、7月を14勝6敗1分けで大きく勝ち越しオリックスを捉えた。さらに、8月下旬からは西武も猛追、首位が目まぐるしく入れ替わる大混戦を演じた。

10月5日、4-5で対オリックス戦に敗れた近鉄は自力優勝が消滅した。また同日、パールス当時からのオーナー、佐伯勇近鉄名誉会長が逝去。翌10月6日の対オリックス戦は、重苦しい空気のまま延長にもつれ込んだが10回裏、ハーマン・リベラのサヨナラ3ラン本塁打により5-2で勝利した。リベラのコメント「このホームランを、妻とおなかの中の子と、きのう亡くなった佐伯オーナーにささげる」また、5日には一歩リードした西武がダイエー戦で、3回までに8-0とリードしながら、9回表に一挙8点(このときのダイエー8人連続得点は当時の日本記録)を失い、12-13で敗北。西武にとって後々に響く敗戦となった。

そして近鉄は、10月7日の対日本ハム戦に4-3で勝利、10月8日1987年新人王を争った近鉄・阿波野秀幸と日本ハム・西崎幸広の初の先発直接対決となったが4-0で勝利した。しかし10月9日の対ロッテ戦は6-7で敗戦、近鉄は残された西武との4試合、2敗を喫した時点で優勝が消滅するという状況に追い詰められた。

そして首位西武と3位近鉄とのゲーム差は2の状態で10月10日からの西武対近鉄直接対決3連戦を迎えた。

10月10日、西武対近鉄戦。西武が敗れ同日オリックスがロッテに勝利すれば、オリックスにマジック4が点灯する状況だった。試合は西武先発渡辺久信と近鉄先発山崎慎太郎の緊迫した投手戦となったが、8回表、リベラの勝ち越しソロ本塁打により3-2で近鉄が勝利した。山崎のコメント「負けたら終わりなんだと思えば自然と力が抜けて気負いが無くなった」 また、オリックスは先発山沖之彦が31球でKOされるなど投壊により4-17でロッテに大敗したが、試合後に西武の敗戦を知らされたオリックス上田利治監督は「そうかっ」と表情を変えたという。

10月11日は雨のため、西武対近鉄戦、ロッテ対オリックス戦共に試合中止、両試合とも急遽翌日にダブルヘッダーが組まれた。

その10月12日西武ライオンズ球場で西武対近鉄のダブルヘッダーが行われた。西武が連勝し、同日オリックスが1敗もしくは1分けすれば西武の優勝決定という状況だったが、第1試合、近鉄は0-4の劣勢からラルフ・ブライアントが、西武先発郭泰源から4回表にソロ、6回表に同点に追い付く満塁本塁打、そして5-5で迎えた8回表、再びブライアントに打席が回り、西武・森監督は、ブライアントをこの年14打席8三振、また来日以来被本塁打0に押さえ込んでいた渡辺久信をマウンドに送った。しかし、ブライアントはボールカウント2ストライク1ボールからの渡辺の4球目、内角高めの速球をライトスタンド最上段に勝ち越しソロ本塁打を放ち、打たれた渡辺はマウンド上で膝をついてしゃがみこんだ[15]。第1試合は6-5で近鉄の勝利。

第2試合も中3日の阿波野を立てて14-4で近鉄が連勝した。なおブライアントは第2試合3回表にも西武先発高山郁夫から2-2の均衡を破るソロ本塁打を放って、4打数連続本塁打(1回表は敬遠四球)を達成[16]。「奇跡の4連発」と語り継がれている[15]。近鉄にマジック2が点灯。また、オリックスも10-2、14-2でロッテに連勝した。

<ダブルヘッダー第1試合>

西武―近鉄24回戦 開始14:30 西武13勝11敗 観衆32,000人

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
近鉄 0 0 0 1 0 4 0 1 0 6
西武 1 3 0 0 1 0 0 0 0 5

(近)高柳佐藤秀池上、○加藤哲(6勝2敗1S)、S吉井(5勝5敗20S) - 山下
(西)、●渡辺久(15勝11敗)、石井 - 伊東仲田
本塁打
(近)ブライアント46号(4回郭)、47号(6回郭=満塁)、48号(8回渡辺久)
(西)3号(2回高柳)
[審判](球)五十嵐 (塁)中村浩山崎 (外)小林一斎田

<ダブルヘッダー第2試合>

西武―近鉄25回戦 開始18:11 西武13勝12敗 観衆50,000人

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
近鉄 2 0 4 3 3 0 1 1 0 14
西武 2 0 0 0 0 0 0 2 0 4

(近)○阿波野(19勝8敗)、木下 - 山下
(西)●高山(5勝4敗)、西本工藤松沼博山根 - 伊東、仲田、大久保
本塁打
(近)ブライアント49号(3回高山)、リベラ24号(3回高山)、鈴木19号(3回西本)、20号(8回山根)
(西)清原35号(8回木下)
[審判](球)寺本 (塁)新屋・小林一・中村稔 (外)東・山崎

この3連戦では、当時“猛牛キラー”と称された西武のドラフト1位ルーキー・渡辺智男は全く登板しなかった。渡辺智は10月9日、ゲーム差無しで迎えた西武対オリックス最後の直接対決に先発し、8回1/3を投げて勝利投手となった(11-2で西武が勝利)。しかし渡辺智は前年10月、右肘の軟骨除去手術を受けたため登板間隔を考慮する必要があり、またこのダブルヘッダーが仮に1勝1敗となった場合、優勝決定が10月15日の直接対決に持ち越されていた可能性があった。なお渡辺智は10月15日、消化試合となったが近鉄対西武最終戦に先発し、延長12回を投げ抜き6-5で勝利している。

また、この3連戦は10月10日(テレビ朝日・放送時間19:00 - 21:48)と10月12日の第2試合(フジテレビ・(放送時間19:00 - 20:54)が全国ネットでテレビ中継され、12日の第1試合も関東ローカルではあったが、フジテレビが録画ハイライトと生中継を混ぜて担当した(放送時間16:00 - 18:00)。12日の試合はテレビ埼玉でも(第1試合開始の14:30から)生中継した。ちなみに、同試合に順延となった11日は本来TBS(全国ネット・放送時間19:00 - 20:54)の担当予定だったが[17]、中止決定を受け翌日の担当局であるフジテレビと話し合いの末、同局への委譲が決定した。結果的に実現はしなかったが、CS放送(当時は主にケーブルテレビ向主体)が全くと言っていいほど普及されていなかった当時としてはパ・リーグの同一カード3連戦がゴールデンタイムで全国に生中継されること自体が異例だった。また、年末にテレビ朝日ニュースステーションの中で第1試合の渡辺久信対ラルフ・ブライアントの対決を特集したが、このときはテレビ埼玉の映像(音声は文化放送の実況)を使用した。なお、川崎球場のロッテ対オリックス戦もテレビ神奈川を中心に第1、第2試合共に生中継されている。

10月13日川崎球場でのロッテ対オリックス最終戦。オリックスはロッテ先発園川一美からブーマーの2打席連続本塁打などで3点をリードするが、先発佐藤義則が5回裏、愛甲猛に3ラン本塁打を打たれ逆転。8回途中から登板の伊良部秀輝に反撃を封じられ、オリックスは5-3で痛恨の敗戦、近鉄のマジックはついに1になった。この試合はTBSテレビが試合当日に急遽19:30 - 20:54の時間帯で全国中継を行った。この試合の勝利投手となった園川は先述のとおり「10.19」の第2試合の先発だったもので、コメントは「敵役は慣れているもの」だった。

そして10月14日藤井寺球場での近鉄対福岡ダイエー戦。近鉄は1回裏、鈴木貴久の犠牲フライで1点を先制、4回裏には山下和彦新井宏昌のタイムリーヒットで3点を追加、5回裏にはハーマン・リベラが25号ソロ本塁打を放ち5点をリード。中1日で先発の加藤哲郎も7回途中まで1失点の好投を見せると、7回途中から阿波野秀幸が胴上げ投手として登板。スタンドからは前年同様の阿波野コールが沸き起こる。8回表は1点を返され、なおも1死一・二塁のピンチだったが、岸川勝也の投手強襲の打球を阿波野が好捕、一塁に送球し併殺に切り抜けた。そして、9回表は鈴木貴久が山本和範の本塁打性の打球をフェンスに激突しながら好捕(このプレーは同年オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞で好プレー賞を受賞した)、続いて二塁手大石大二郎藤本博史のイレギュラーバウンドした打球をジャンピングキャッチと連続ファインプレーで2死。最後は伊藤寿文を三振に打ち取り試合終了。5-2でダイエーを降した近鉄はオリックスをゲーム差なしの勝率1厘差で上回り、9年ぶり3度目のリーグ優勝を果たした。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
ダイエー 0 0 0 0 0 0 1 1 0 2
近鉄 1 0 0 3 1 0 0 0 X 5
  1. : 加藤哲 7勝2敗1S  : 村田 6勝8敗  S: 阿波野 19勝8敗1S
    本塁打(近)リベラ25号(5回村田)  
  2. 審判:球審…村田、塁審…林忠前田永見、外審…岡田哲柿木園

この試合はレギュラー番組[18]を休止して、当日19:00からABCテレビをキーステーションにANN系列で生中継され(ただし青森放送山形放送山口放送テレビ大分など当時のNNN系列とのクロスネット局では放送なし)、29.5%(ビデオリサーチ、関東地区)の高視聴率を獲得した。結果的に、近鉄のみならずABCにとっても前年の雪辱を果たす結果となった。実況はABCの太田元治が担当し、前年10.19の第2試合を実況した安部憲幸は近鉄ベンチレポートを担当した(ちなみにダイエー側のレポーターはKBC後庵継丸が担当)。前年に引き続き近鉄戦で優勝決定が掛かったナイターが全国ネットで放送されるのは2年連続であり、当時のANN系列が近鉄優勝に注目していた編成だったかが分かる。

[編集] 脚注

  1. ^ 朝日放送文藝春秋「Sports Graphic Number Video・優勝を賭けた近鉄の死闘7時間33分 最終戦 10.19川崎球場」 ISBN 4-16-911044-7
  2. ^ 「最高の試合」「名場面・名勝負」監督、選手らが選ぶ記憶に残る試合 日本野球機構特別ウェブページ「ここに、世界一がある。」
  3. ^ 10月15日の近鉄-南海戦は球団売却が決まっていた南海ホークスの本拠地・大阪球場での最終戦であり、南海は試合後に、杉浦忠監督自ら大阪のファンに別れを告げた。
  4. ^ 球団は長年正捕手を務めた功績により、翌年のオープン戦での引退試合を提案したが、梨田は「あの打席を現役生活の最後にしたい」とそれを辞退した。
  5. ^ 出典 『古今東西ベースボール伝説』 ベースボールマガジン社
  6. ^ 園川は「優勝が決まる試合だろうが、そうでない試合だろうが、同じようにやっている」 「“ザマアミロ”って感じがあった。勝っても負けてもどうせ“憎まれ役 ”だってことは解っていたから」とコメントしている[要出典]
  7. ^ 有藤は後のNHKドキュメントで、「あの抗議は、結果としてはしない方がよかった」などと述べている。また、Numberより発刊されたこの試合のビデオでのインタビューでは、同様の発言に加えて「白黒ハッキリした方が良かった」という主旨の発言もしている。さらに後にテレビ朝日の番組では、「(あのプレーは)アウトなのだが、選手が助けを求めているから抗議に行かざるを得なかった」「引き上げようとしたところで仰木が出てきて、もういいだろといったことでカチンときて抗議を続けてしまった」とも述べている。
  8. ^ 『週刊ベースボール』1989年11月6日号
  9. ^ 『週刊ベースボール』1988年11月7日号
  10. ^ オリックスの当時の社長で、現在もオリックス球団オーナーの宮内義彦は、「(社長としての多忙なスケジュールの中)この日しか空いている日が無かった。この日までパ・リーグの優勝争いがもつれ込むことは全くの予想外だった」と後に雑誌のインタビューで語っている。
  11. ^ ライターの山村基毅は『Number』211号内の記事「近鉄、130試合目の悲劇」の中で、編成局長の小田久栄門が斎田に電話で指示を出したとしている。
  12. ^ このほか、翌年から地元パ・リーグ球団が復活する予定となっていた福岡県九州朝日放送(KBC)と、かつてロッテが準本拠地とし、当時地元にプロ野球球団がなかった宮城県東日本放送(KHB)も、ABCの中継をネットして第1試合から放送していた。
  13. ^ 当初は21時から15分間野球中継を放送し、『さすらい刑事旅情編』以下の番組は放送時間を繰り下げる予定だったものの、中継時間を15分延長して21時30分までの中継に変更したが、中継続行を望む視聴者からの電話が殺到したため、ついに『さすらい刑事旅情編』の放送を取り止めた。このため「さすらい刑事旅情編」の放送取り止めに対する抗議を恐れ、製作局の命令で番組スタッフを都内の居酒屋へ緊急避難させたという。
  14. ^ この背景には急な番組差し替えでスポンサーへの対応が出来なかった事に加え、繰り下げ対応だったものが急遽差し替えとなり、残り24分間でドラマ枠のCM全てを放送するのが困難となったことがあげられる。
  15. ^ a b Sports Graphic Number 790 p.56
  16. ^ “続10・19”!ブライアント、獅子の息の根止める4連発!
  17. ^ この日は当初19:00から2時間にわたり「8時だョ!全員集合スペシャル」(1985年に終了した同番組の傑作VTR集)を放映する予定だったが、西武対近鉄戦への変更とともに同試合が雨天中止にならない限りは放送延期となるはずだった。しかし、雨天中止となったことで当初の予定通り放映できた。
  18. ^ この日は土曜日だったため、通常時の番組は19:00から「悪魔くん」、19:30から「おぼっちゃまくん」(ABCのみ「部長刑事」)、20:00から「暴れん坊将軍III」。なお、試合当日ABCは本来「おぼっちゃまくん」を先行放送している17:55から「部長刑事」を繰り上げ放送した。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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