10.19

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10.19(じってんいちきゅう)は、1988年10月19日川崎球場で行われた日本プロ野球のロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ、以下「ロッテ」)対近鉄バファローズ(のちの大阪近鉄バファローズ、以下「近鉄」)第25・26回戦(ダブルヘッダー)を指す。「10.19の悲劇」とも称される。

日本プロ野球史上、最もドラマチックだった日のひとつであり、かつ昭和時代のプロ野球最後の名勝負としても長く記憶されている。

目次

[編集] 概説

[編集] 10月18日までの概略

1988年のパシフィック・リーグは序盤から独走する首位の西武ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ、以下「西武」)に対し、近鉄が終始2位につけていたものの、シーズン中盤まで最大ゲーム差8をつけられ、9月15日の段階でも6ゲーム差と大きく水を空けられていた。しかしここから近鉄が奇跡的な巻き返しを見せ、にわかに熱を帯びる。

  • 9月30日時点での西武・近鉄の勝敗(西武と近鉄のゲーム差は1.5)
    • 西武 64勝47敗6分 勝率.577 残り試合13(近鉄4・日本ハム2・阪急2・南海4・ロッテ1)
    • 近鉄 61勝47敗3分 勝率.565 残り試合19(西武4・日本ハム2・阪急2・南海2・ロッテ9)

10月1日2日に西武と近鉄の直接対決があったが、1日は西武、2日は近鉄が勝つ。その後10月4日には西武が負けて近鉄が勝ったため、近鉄はこの時点でまだ2位ながらマジック14が点灯した。そして近鉄は翌日の試合にも勝ち、ついに首位に立つ。

  • 10月5日時点での近鉄・西武の勝敗(近鉄と西武のゲーム差は0、近鉄にマジック13が点灯)
    • 近鉄 64勝48敗3分 勝率.571 残り試合15(西武2・阪急2・南海2・ロッテ9)
    • 西武 65勝49敗6分 勝率.570 残り試合10(近鉄2・日本ハム2・阪急1・南海4・ロッテ1)

そして10月7日から近鉄は10月19日まで15連戦(10日・19日はダブルヘッダー)、西武は10月16日まで10連戦という過酷な日程を戦うことになっていた。7日・8日にいきなり直接対決があったが西武が連勝。再び首位を奪い返すとともに近鉄に2ゲーム差を付けた。ところが9日から13日まで西武は4勝1敗で乗り切ったものの、近鉄がロッテ戦6試合に全勝。近鉄のマジックは消滅せずに減り続けた。14日はともに勝ち、15日はともに負け[1]、16日はともに勝って、ここで西武は全日程を終了する。

  • 10月16日時点での西武・近鉄の勝敗(西武と近鉄のゲーム差は0.5、近鉄にマジック3が点灯)
    • 西武 73勝51敗6分 勝率.589 全日程終了
    • 近鉄 72勝51敗3分 勝率.585 残り試合4(阪急1・ロッテ3)

17日に近鉄は阪急相手に痛恨の敗戦を喫し、この時点で優勝するためには残るロッテ3試合に全勝するしかなくなった。もはや引き分け1つも許されない状況に追い込まれた沈痛な阪急西宮球場からの移動のバスの車内で、佐々木修が音頭を取り、近鉄バファローズの球団歌を全員で涙を流しながら合唱し、最後の気力を奮い立たせた。そして、翌日はロッテに12-2で完勝。運命の10月19日を迎えることになる。ロッテは既に最下位が決定しており、しかも近鉄戦は10月の7戦全敗を含めて8連敗中だったので、近鉄が勢いで連勝するのではないかと、ダブルヘッダーが行われる川崎球場は近鉄の奇跡の逆転優勝を期待するファンで超満員となった。近畿地方ではこのダブルヘッダーがABCテレビで完全実況生中継された。

[編集] ダブルヘッダー第1試合

午後3時試合開始。川崎球場は雲ひとつ無い快だった。先発投手は、ロッテが小川博、近鉄が小野和義であった。


初回にロッテ愛甲猛が小野の失投を捉え2ラン本塁打で2点を先制。近鉄は小川の前に4回までパーフェクトに抑えられるが、5回表に鈴木貴久のチーム初安打となるソロ本塁打で1点を返す。7回裏・ロッテ、四球2つなどで2死一・三塁のチャンス。佐藤健一がセンター前に放った打球はダイビングキャッチを試みる鈴木の前に弾みタイムリー二塁打、1点を追加、再び2点リードとなる。8回表・近鉄、鈴木のヒットと代打加藤正樹の四球で1死一・二塁。この場面、近鉄ベンチは一発長打を期待して代打・村上隆行を送る。村上は期待に応え、外角カーブに完全に泳ぎながらも打球はレフトフェンスを直撃。執念の2点タイムリー二塁打で3-3の同点。同点のまま9回表を迎える。当時のパ・リーグは「ダブルヘッダー第1試合は延長戦なし。9回で試合打ち切り」という規定があったため、近鉄はこの9回表に勝ち越さなければならなかった。

その9回表1死、淡口憲治がライトフェンス直撃の二塁打で出塁。代走佐藤純一が送られた。ここでロッテは同点ながら守護神牛島和彦を投入した。続くこの日2安打の好調鈴木が牛島からライト前に安打を放つ。三塁コーチ・滝内弥瑞生は本塁突入を指示したが、ライトからの好返球のため佐藤は三本間に挟まれ、捕手小山昭晴にタッチされ、アウトに。佐藤はショックのあまりその場に崩れ落ち、立ち上がることができない。球場全体が重苦しいムードに包まれた。

ここで近鉄・仰木彬監督は梨田昌孝を代打に送る。梨田は1979年、翌1980年のリーグ連覇の立役者だったが、体力の衰えからこの年限りでの現役引退を決意していた。2死ながら一塁が空いており、敬遠もありえる状況だったが、牛島は「今日の近鉄は執念で攻めてくるので、誰と勝負しても同じ」と敬遠せずに勝負することを選んだ。

梨田の野球人生の全てをかけた一打は、牛島の内角高め直球にどん詰まりながらもセンター前に落ちるヒット。二塁走者の鈴木は三塁も回り、一挙に本塁へ。センターから矢のような返球がダイレクトに届き、クロスプレーとなるも、鈴木は捕手袴田英利のタッチをかいくぐりながら横っ飛びでホームに滑り込む。判定はセーフで4-3、勝ち越しに成功した。近鉄の選手達は歓喜のあまりグラウンドに飛び出した。ついに勝ち越しの本塁を踏んだ鈴木は両手を広げて飛び出した中西太ヘッドコーチの胸に飛び込み、抱き合ったまま倒れ込み喜びを爆発させた。ベンチの誰もが落涙したという(この9回表1死から近鉄勝ち越しまでの模様は、日本プロ野球史上屈指の名場面として今も語り継がれ、テレビでも頻繁に再放映されている。)。

残る9回裏は、当時の守護神・吉井理人が8回裏から続投。しかし先頭打者・丸山一仁への、ストライクゾーンギリギリの投球がボールと判定され(丸山は四球)、冷静さを失った吉井は制球が定まらず、続く代打・山本功児に2球連続ボール。ここで仰木監督はリリーフ阿波野秀幸を登板させる。しかし2日前の試合で128球を投げ9回を完投していた阿波野は本調子には程遠い。一塁走者丸山の守備妨害などもあり2死一塁までこぎつけるが、佐藤にはこの試合4安打となる二塁打を許し2死二・三塁。次打者愛甲も簡単に2ストライクと追い込みながらもデッドボールを与え2死満塁としてしまう。

迎えた打者は森田芳彦。ヒット、四死球、エラー、暴投、ボーク、すべてが許されない絶体絶命の状況に球場内の緊張は極限に達する。しかし捕手梨田の懸命なリードと阿波野の踏ん張りで森田を三球三振にしとめ、試合終了[2] 。どうにか勝利をものにする。終了時刻午後6時21分で、試合時間は3時間21分。優勝の行方はついに130試合目である第2試合に持ち越されることとなった。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
近鉄 0 0 0 0 1 0 0 2 1 4
ロッテ 2 0 0 0 0 0 1 0 0 3
  1. 近 : 小野、吉井、阿波野 - 山下、古久保、梨田
  2. ロ : 小川、牛島 - 斉藤、袴田
  3. : 吉井 10勝2敗24S  : 牛島 1勝6敗25S  S: 阿波野 14勝12敗1S  
  4. :  近 – 鈴木20号(5回小川)  ロ – 愛甲17号(1回小野)
  5. [審判]球審橘修 塁審山本隆造斎田忠利村越茶美雄 外審山崎夏生中村浩道

[編集] ダブルヘッダー第2試合

第1試合終了から23分後の午後6時44分、第2試合開始。先発投手は、ロッテが園川一美、近鉄が高柳出巳であった。


当時のパ・リーグは(9回で打ち切りとなるダブルヘッダー第1試合を除き)9回終了時点で同点の場合、最大12回までの延長戦を行うことになっていたが、「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了を以って打ち切り」という規定もなされていた。

試合はまたしてもロッテが2回裏にビル・マドロックの本塁打で1点を先制。度々ストライクの判定をめぐって仰木や中西がベンチから飛び出し抗議を行うなど、球場内に不穏な空気が漂いながら試合は進んでいった。

近鉄は6回表ベンジャミン・オグリビーの中前打で同点に追いつく。そして7回表、吹石徳一が2号ソロ、真喜志康永が3号ソロ本塁打、脇役2人の一世一代の本塁打で一挙2点の勝ち越しに成功する。しかし7回裏、ロッテは岡部明一がソロ本塁打、代わった吉井理人からも、西村徳文がタイムリーヒットを放ち同点に追いつく。しかし近鉄は8回表、ラルフ・ブライアントが34号ソロ本塁打を放ち4-3で再びリードを奪う。

その8回裏から近鉄ベンチは逃げ切りを図るべく第1試合に続いて阿波野をマウンドへ送った。阿波野登板でスタジアムには近鉄優勝の予感が漂う。しかし、首位打者を争うロッテ高沢秀昭が阿波野の決め球スクリューボールを捉えて本塁打。4-4と三たび同点になってしまう。

9回表、二死後大石大二郎がツーベースヒットで出塁するも、新井宏昌の三塁線を襲った強烈な打球を三塁手水上善雄が横っ飛び、一塁へダイレクトに送球という、超ファインプレーを見せて新井をアウトにし切り抜け、結局この回無得点に。

そして9回裏、この試合を象徴する事件が起きる。この回、先頭打者古川慎一がヒットで出塁。続く袴田英利の送りバントを阿波野、梨田が一瞬譲り合ったため慌てて交錯、内野安打となり無死一・二塁。ここで阿波野は二塁へ牽制球を投じる。この球が高めに浮き、それを大石がジャンプして捕球。その体勢のまま、二塁走者の古川と交錯しながらもタッチしにいく。その際、ジャンプした大石を避けるため姿勢を低くした古川の足が僅かに二塁ベースから離れたとして、新屋晃二塁塁審はアウトを宣告したが、古川が審判に抗議。ロッテ・有藤道世監督もベンチを飛び出し、「大石が古川を故意に押し出した」と走塁妨害を主張し、抗議を始めた。
時間の制約を負っている近鉄ナインは気が気ではない。近鉄ベンチから仰木が飛び出し有藤に迫り、客席からも「有藤ひっこめ!」の罵声や怒号が飛び交う等、球場全体が騒然となる中、9分間の抗議を行った。結局、判定は覆らなかったが、残り30分を切った段階でのこの9分間は、近鉄にとって重い時間となってしまった。後日、この試合が語られる際には、壮絶な試合展開よりもこの抗議が無ければと注目されてしまうのはこのためである。

その後ロッテは2死満塁、打者の愛甲猛はレフト前へ詰まり気味の打球を放った。落ちればサヨナラのこの打球をレフト淡口憲治が懸命に前進、地面すれすれでダイレクトキャッチのファインプレー。延長へ望みを繋いだ。

延長10回表、この時点で規定の4時間が迫っており、近鉄の攻撃は事実上これが最後。この回先頭のブライアントはセカンドゴロに打ち取られるが、一塁送球をベースカバーの投手・関清和が後逸し出塁。安達俊也が代走として送られる。続くオグリビーは三振に倒れ、まず1アウト。続いて迎えたバッターはベテラン羽田耕一。しかし、第2球を打った羽田の打球はセカンド・西村徳文正面へのゴロ。西村自らがベースを踏み、安達がフォースアウト。そして一塁にボールが送られ、ダブルプレーで3アウトとなり、10回表終了。この時、時間は午後10時41分。試合開始から3時間57分が経過。残りの3分では10回裏のロッテの攻撃を終わらせることは事実上不可能であり、これにより近鉄の優勝の可能性が消え、西武の優勝(パ・リーグ4連覇)が決まった。

しかし、優勝の可能性は消えても近鉄ナインは10回裏を守らねばならなかった。マウンドを務めたのは加藤哲郎木下文信の両投手。加藤は投球練習を省略し、少しでも試合を早く進めようとしたが、無情にも運命の午後10時44分が過ぎて行った。先頭の丸山一仁に四球を出したが続くビル・マドロックは捕邪飛に打ち取る。そして木下が斉藤巧古川慎一を三振に討ち取った。テレビ画面には、ベンチ中央に仁王立ちして監督の責務を全うする仰木彬と、涙を浮かべて守備につく選手達が流された。「悲劇の10回裏」「最も短く、残酷な消化試合」と語り継がれている。

こうして4-4の同点のまま午後10時56分に試合終了。所要時間4時間12分。最終順位は1位西武、2位近鉄。最終ゲーム差0.0、勝率差は僅かに.002(正確には1厘4毛)だった。試合終了後、仰木監督をはじめ、近鉄ナインは敵地ながらグラウンドに出て、三塁側とレフトスタンドに陣取ったファンへ深々と頭を下げ、挨拶を行った。ファンからは温かい拍手と「よくやった」などの労いの声が飛んだ。選手たちは涙を流しながらも帽子を振って応え、球場を後にした。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 R
近鉄 0 0 0 0 0 1 2 1 0 0 4
ロッテ 0 1 0 0 0 0 2 1 0 0 4
  1. (延長10回時間切れ引き分け)
  2. 近 : 高柳、吉井、阿波野、加藤哲、木下 - 山下、梨田
  3. ロ : 園川、荘、仁科、関 - 袴田
  4. :  近 – 吹石2号(7回園川)、真喜志3号(7回園川)、ブライアント34号(8回園川)  ロ – マドロック17号(2回高柳)、岡部11号(7回高柳)、高沢14号(8回阿波野)
  5. [審判]球審・前川 塁審・高木新屋五十嵐 外審・小林一小林晋
  • 最終順位(西武と近鉄のゲーム差は0、西武が優勝)
    • 西武 73勝51敗6分 勝率.589 全日程終了
    • 近鉄 74勝52敗4分 勝率.587 全日程終了

[編集] エピソード

[編集] 近鉄

  • 就任時は12球団一地味な監督と評された仰木彬であるが、監督就任1年目にして10.19を演出した。試合後の仰木は「こんな立派な試合が出来た。残念ですけど、悔いはありません」とコメントを残している。
  • また仰木は、第1試合の9回表1アウト、鈴木のヒットの際に二塁ランナー佐藤が挟殺されたプレイに関して「正直勝つのは無理だと思った」と語っている。仰木の語る通り、球場を埋め尽くしたファンの応援も一気に静まりかえった。
  • 第1試合9回表、現役最後の打席で執念の勝ち越し打を放った梨田昌孝は、二塁ベース上でガッツポーズをした。冷静沈着な梨田の選手生活最初で最後のガッツポーズだった。球団は長年正捕手を務めた功績により、翌年のオープン戦での引退試合を提案したが、梨田は「あの打席を最後にしたい」とそれを辞退した。
  • 梨田のタイムリーヒット後のラジオアナウンサーの台詞は「梨田、君は男だ!」。
  • 捕手の山下やベンチの梨田はタイミングの合っていない高沢に対してストレートで抑えられると判断していたが、阿波野自身はストレートの調子が良くないとこれを拒否し、スクリューボールを投じて本塁打にされてしまった。阿波野は「なぜ自分のストレートを信じた山下さんを信じられなかったのか」と後悔したと言う。それもあって翌年の優勝の掛かった試合では後悔したくないと全てストレートを投じた。
  • チームの主砲ラルフ・ブライアントは父親が危篤状態だったが、チームのために日本に残って試合に出場した。そして第2試合で見事に34本目の本塁打を打つ。日本と外国の習慣の違いもあり、実業よりも家族を最優先にする外国人は、家族の事情(特に危篤といった場合)があれば、何はともあれ日本を離れるのが普通である。また、優勝争いに加わっていなければ確実に帰国していただろう。
  • 第2試合9回表に渾身の当たりを内野ゴロにされた新井は「自分にはヒーローになるツキがないのか」と思ったと述懐している。
  • 吹石徳一骨折で登録を抹消されていた金村義明の代役出場だった。第2試合7回表に本塁打を打った吹石に「カネ、やったぞ」と声をかけられた金村は号泣したという。この本塁打では、吹石は派手なガッツポーズでダイヤモンドを駆け回った。普段地味な働きをしていただけに、ベンチの誰しもがこの姿に感動したという。テレビでも中西太ヘッドコーチが涙をこらえるシーンが映し出された。朝日放送の安部憲幸は「泣いてますね、三浦トレーナーが」と実況した。吹石も梨田同様、この試合が現役最後の試合となった。
  • 第2試合の10回表が終了した時点での試合経過時間は3時間57分だった。規定時間にあと3分残っていたが、3分では10回裏を終わらせることはほぼ不可能だった。しかし、近鉄の選手は「それでも3分で終わらせれば新しいイニングに入れる」と声を掛け合い急いで守備に就いた。マウンドの加藤哲郎は投球練習を返上、一塁ベンチ(ロッテ)に向かって「早く出て来い。3分でシメる」と言ったという。
  • 近鉄の選手の話によれば、時間が4時間を経過して優勝の可能性が消滅した際、試合の勝敗などどうでもいいと思ったらしいが、守りにつくと勝つことは出来なかったが負ける訳にもいかない、負けたくないと必死に守ったそうである。
  • 試合終了後、選手は皆涙を流し、メジャーの元本塁打王オグリビーですら人目をはばからずに泣き「何で引き分けなんて制度があるんだ」と嘆いた(メジャーリーグには引き分け制度はなく、決着がつくまで無制限で延長戦が行われる)。オグリビーはこの試合をもって現役を引退している。
  • 選手・コーチは失意のままバスに乗り込んだが、近鉄ファンはそのバスを取り囲み、最後の最後まで仰木監督や選手達を激励した。選手達が戻った東京都港区内のホテルの宴会場では従業員らによって祝勝会の準備が行われていたが、優勝を逃したため撤去作業を行うことになった。しかし、仰木らは「せっかく用意してくれたんだから」と従業員を気遣い、選手・コーチを集めて「残念会」を行う事を決めた。選手は敗戦の悔しさをしばし忘れ、喜怒哀楽が入り混じったテンションで酒を酌み交わした。金村は「みんな、すみませんでした」と、ぐしゃぐしゃの表情で土下座を繰り返していた。またオグリビーは会を中座し、トイレの個室にこもって涙にくれていた。会の最後には選手会長の大石大二郎が「来年頑張ろう、安達、村上、最後に締めるぜ」とを飛ばし、安達俊也村上隆行のインディアン・ダンスで気勢を上げた。
  • この後、引き分け制度への懐疑論が相次ぎ、セ・リーグは反省の結果1990年から延長15回引き分け再試合制を導入した(2001年から試合数増のため延長が12回に短縮され、引き分けが復活)が、パ・リーグでは後に時間制限が撤廃されたに過ぎなかった。
  • しばしば「勝ちに等しい引き分け」「うちのチームには苦しい引き分け」と試合終了後に監督がコメントすることがあるが、まさしく「負けに等しい引き分け」がこれほど適当な試合も他に例がないであろう。試合終了後の選手のコメントの中にも「引き分けなのに負けた」と言うものがあった。
  • 無念のV逸から360日後の1989年10月14日、近鉄は9年ぶりのリーグ優勝を成し遂げる。この年は近鉄、オリックス、西武による三つ巴の激しい優勝争い(最終的に優勝した近鉄から3位の西武まで0.5ゲーム、勝率2厘差)が最後の最後まで展開され、近鉄にとっては前年の無念を晴らす形となった。「前年の10.19がなければ、この年の近鉄の優勝はなかった」などという声も少なくない(その事については後述)。
  • この試合に出場した近鉄の選手達が現役引退する際、「選手生活で一番印象に残る思い出は」という質問に対して、殆どの選手が「10.19のダブルヘッダー」と答えている。
  • これらの試合に出場した選手は、2007年の吉井理人を最後にすべて引退した。ちなみに、吉井はくしくもこの10.19の対戦相手であるロッテが現役最後の所属球団だった。また、出場していない選手で当時両チーム所属選手のうち現役なのは2008年現在、ロッテの堀幸一ただ一人である。

[編集] ロッテ

  • 最下位ロッテの頑張りがダブルヘッダーを大いに盛り上げた反面、近鉄のシーズン土壇場での追い上げはロッテの弱さにも一因があった。ロッテは第1試合に敗れたことで対近鉄戦9連敗となっていた。もし第2試合を落としたら同一カード10連敗になっていたので、順位に関係が無くてもそう簡単に負ける訳にはいかない状況だった。
  • 第2試合9回表の水上の三塁線の超ファインプレーに対して、実況していた朝日放送の安部憲幸は「THIS IS プロ野球!」という名言を残した(その後すぐに写ったニュースステーション内では、メインキャスターの久米宏が「THIS IS ニュースステーションでございます」と挨拶を返している事や安部が実況を担当していた野球ゲーム実況パワフルプロ野球シリーズではサヨナラホームランなどの劇的な幕切れの時に発していた)。
  • マドロックは当期限りでの解雇が既に決定していた。外国人選手は解雇が決まれば即帰国するのが普通だが、マドロックは残ってシーズン終了までプレイし続けた。そのマドロックが第2試合で先制ソロ本塁打を放ったのだが、もしマドロックが帰国していれば近鉄が1点差で勝利していたかもしれないとして、近鉄優勝の夢を打ち砕いた人物と思っているファンも少なくない。
  • 第2試合で同点弾を打った高沢秀昭はこの時、阪急ブレーブス松永浩美と熾烈な首位打者争いを演じていた。ダブルヘッダー前の時点で打率首位であり出場しなければ首位打者確実だったにもかかわらず出場した。ただし有藤監督は試合の重要性から高沢を出場させる一方で、高沢に首位打者を取らせることも意識していたと思われ、第1試合では無安打だった高沢を試合終盤でベンチに下げている。代わりに4番の打順でショートの守備に入ったのが森田芳彦で、第1試合最後の9回裏ロッテの攻撃二死満塁での森田の打席は高沢がそのまま出場していれば高沢の打席であった。有藤はこの試合のあと10月23日の阪急ロッテ最終戦では高沢を欠場させ、松永を歩かせている。
  • 有藤は後のNHKドキュメントで、第2試合9回裏の「あの抗議は、結果としてはしない方がよかった」などと述べている。また、Numberより発刊されたこの試合のビデオでのインタビューでは、同様の発言に加えて「白黒ハッキリした方が良かった」という主旨の発言もしている。さらに後にテレビ朝日の番組では、「(あのプレーは)アウトなのよ、でも選手が助けを求めているから抗議に行かざるを得なかった」、「引き上げようとしたところで仰木が出てきて「もういいだろ」といったことでカチンときて抗議を続けてしまった」とも述べている。
  • 第1試合の先発だった小川博は、(先発ローテーション投手の通例として)第2試合ではベンチ入りせず、帰宅して家族と近所の寿司屋に食事に行ったところ、寿司屋の主人に「なんで球場に居ないの?」と言われ、普段テレビで中継などされることのないロッテの試合が寿司屋のテレビで放映されているのに驚き、帰宅後も中継に見入っていたという。但し、近鉄にも感情移入して、有藤が抗議した際には、「監督、それはないでしょう」と内心思ったという。
  • 第2試合の先発だった園川一美は「優勝が決まる試合だろうが、そうでない試合だろうが、同じようにやってるんです」 「“ザマアミロ”って感じがありましたね。勝っても負けてもどうせ“憎まれ役 ”だってことは解ってましたから」とコメントしている。またその翌年10月13日、ロッテは対オリックス戦に勝利し、事実上オリックスの優勝を消したが、その試合に先発し勝利投手となった園川のコメントは「敵役は慣れてるもの」だった。
  • 第2試合終了後、殺気立ったファンらが球場の選手入口周辺に陣取っていて、ロッテの選手達は身の安全が確保されていなかったため、川崎球場から一時出られなかったと言われている。しかし高沢は2008年のインタビューで「そのような注意を受けた記憶はない。どのような手段で帰ったかはまったく覚えていない(当時高沢は自動車運転免許を持っておらず、鉄道か同僚の車で川崎球場に出入りしていた)が、普通に帰り支度をして帰った」と否定している。
  • 10.19後、高沢は『殺すぞ』との脅迫電話を受けたとされている。
  • 第1戦でリリーフに回り勝ち越し打を打たれた牛島和彦は第2試合が始まる前にロッテ球団職員から「これで放映権料が入ります、ありがとうございます」と感謝されている。第2試合の放映権料は1億円ともいわれており、当時の球団財政がかなり潤ったといわれている。

[編集] 西武

  • 監督の森祇晶は、10月7・8日の直接対決で近鉄に連勝した時点で、一度は優勝を確信したという。この時点では近鉄にマジックが点灯していたが、西武に連敗したことでそれまでの勢いが止まると読んでいたのだろう。しかし、西武は残り試合を6勝2敗で乗り切ったが、近鉄はこの間を8勝1敗としたため、ジリジリと近鉄のマジックは減っていった。西武が全日程を終了した次の日(17日)に近鉄が敗れたため、近鉄が残り試合に全勝しない限り西武の優勝が決まる所までいったが、翌18日は近鉄がロッテに大勝する。ここに至って、森は近鉄に10月だけで7敗目のロッテのあまりの不甲斐なさに呆然とし、動揺が生まれたという。
  • 10月19日の試合結果待ちとなった西武は当日、西武ライオンズ球場をファンに開放し、スコアボードの大型映像装置でロッテ対近鉄戦を生中継していた(現在でいう、パブリックビューイング)。監督以下選手たちも西武球場に待機し、第1試合の7回裏、ロッテが2点リードすると選手たちはユニフォームに着替え、胴上げのためベンチ入りした。しかし、森は2点のリードでは安心できないとユニフォームを着ることを拒んだ。そして、第1試合は近鉄が勝った。
  • 第2試合が始まると、森は秋季キャンプの会議を始めた。試合に一喜一憂するより、来季に向けた話し合いをした方が気が休まったからである。だが会議後、内野守備走塁コーチの伊原春樹は精神的苦痛のためか、一旦帰宅したという。
  • 森は球場の駐車場に停めてあった自分の車に乗り込み、ラジオで試合の行方に耳を傾けていた。延長10回裏、西武の優勝が確実になった状況で、新聞記者たちが集まってきた。しかし「まだロッテの攻撃時間がある」と押しとどめ、ロッテよ、攻撃に時間をかけてくれと祈った。午後10時44分、正式に西武の優勝が決まると「選手たちが本当によくやってくれた」とコメントした。西武球場に集まった数百人のファンの前で、選手たちに胴上げされた。
  • また、森は「近鉄の壮絶な戦いに身ぶるいするほどの感動を覚えた、この世界に生きる人間として頭が下がる」とコメントしている[3]。チームリーダー・石毛宏典は「こんなんで負けたら近鉄に申し訳ない」と日本シリーズを必ず制することを誓った。その後の日本シリーズ中日ドラゴンズと対戦して日本一を勝ち取ったが、その時に清原和博が「これで近鉄に顔向けができる」というコメントを残している。仰木はこの清原の台詞を聞いて「なんと男気がある選手なんだろう」と心を強く打たれ、それ以来、自著『燃えて勝つ』にもその事について触れるなど清原に一目置くようになり、事ある毎に声を掛けるようになった。さらに仰木は2005年オリックス・バファローズの監督を1年だけ務め、健康上の理由で退任しシニア・アドバイザーに就任したが、まず真っ先に同年限りで読売ジャイアンツを戦力外になっていた清原を説得し、入団にこぎつけている。だが仰木は同年12月15日に他界。この清原招聘が文字通り、仰木の“最後の仕事”となった。

[編集] その他球界

  • この年のセ・リーグ優勝チーム、中日ドラゴンズは名古屋市のホテルで日本シリーズ前の合宿を行っていた。監督の星野仙一はこの試合を自室でテレビ観戦し、日本シリーズでの対戦相手の行方を見守りながら、ふと「闘っている仰木さんの立場だったらどうだろうか、結果を待っている森さんの立場だったらどうだろうか」などと、自分と同じ“監督”としての立場を考えつつ、勝敗とはまた別のところに想いを巡らせていた。
  • パ・リーグの優勝決定はこの近鉄の最終戦までもつれたが、西武・近鉄両球団とも日本シリーズの前売入場券の台紙を予め作成していた。またナゴヤ球場開催分の入場券は、対戦カードを「中日 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」と表記する措置が執られた(日本シリーズのチケットは全て前売りで、シリーズ開始前に発売される為。但し引き分けによる日程の追加など特別なケースでは、当日券を発売する場合がある)。但し、かつてはリーグ優勝の決定がシリーズ直前までもつれるケースが何度もあったため、これは1988年に限ったケースではない(翌1989年も前述のケースと同様で、パは優勝の可能性があった近鉄・西武・オリックスの3球団が入場券の印刷を手配し、先に優勝が決まったセの巨人は東京ドーム開催分の入場券の券面を「巨人 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」とした)。現在ではドーム球場を本拠地とする球団が多くなったため、かつてよりも公式戦の日程消化に比較的余裕ができ、また入場券も大手プレイガイドのオンラインシステムによる発券が主流となり、作成に掛かる時間が大幅に短縮されている(対戦カード決定後に作成しても十分間に合う)ため、このようなケースは稀になりつつある。
  • ベースボール・マガジン社は、日本シリーズの公式プログラムを長年作成しているが、パ・リーグの優勝決定がもつれたため、「西武優勝版」と「近鉄優勝版」の2種類を予め作成。結局この日西武の優勝が決定した事により、近鉄版はお蔵入りとなった。また同社出版の雑誌「週刊ベースボール」などでも同様の措置を執った。
  • ダブルヘッダー第1試合で球審を務めた橘修は「7回辺りから球場全体の雰囲気が異様になり、マスクをしていても胸が絞めつけられそうだった」と述懐している。橘はこの時の冷静かつ正確なジャッジが評価され、パ・リーグ優秀審判員賞を受賞した。

[編集] ファン・球場

  • ロッテは1978年に川崎を本拠地として以来、慢性的に観客動員数が伸び悩んでおり、この1988年も観客動員数は12球団最下位と言う体たらくぶりだった。球団は苦肉の策として当時、1シーズン全試合有効の無料招待券(1枚につき、シーズン中の1試合に入場可)を近隣住民をはじめ多くの人々に大量に配布していた。とは言え、1980年代のロッテは低迷続きでこの年も最下位を独走。優勝争いに加わるなど到底考えられず、さらには川崎の施設老朽化等もあって、この招待券配布も観客動員の増加にはほとんどと言っていいほど効果がなかった。実際のところ、招待券を受け取っても結局使わずじまいで済ませてしまう人が大半だった。
  • そんなこともあって、10月19日に近鉄が川崎球場で優勝を決定する可能性が生じてもロッテ関係者はまったく慌てていなかった。事実、この日の前日になっても関係者は「たとえ観客がいつもより多いとはいっても、せいぜい普段の週末程度(土・日曜の観客数は多くても概ね15,000~20,000人ほど)しか集まらないだろう」などとたかをくくっていたそうである。
    ただし当時、プロ野球の観客動員数の発表は実数によるものではなく、上記のような球団の公式発表による数値はあくまでも公称値である。特にロッテは当時、観客の実数が1,000人に満たなかった試合でも年間予約席(シーズンシート)の席数などを含めて「3,000人」などと公式発表するケースが多かった事を念のため付記する。
  • だが、この甘い観測はくつがえされ、この日は朝から無料招待券を持った客が血相を変え大挙して川崎球場に詰め掛けた。ファンの一部には金券ショップや持っていた人から譲り受けたり買い取ったりした人々もいた。当然の事ながらこの招待券はシーズン全体の動員数を考慮して配布していたので(とは言え前述の通り、そもそも招待券を大量に配布したところで観客増を望める状況ではなかったのだが)、当初の予想に反して球場の定員を大幅に上回る人々が集まり、入場できなくなる人が続出した。あぶれた観客は球場に隣接する雑居ビル、マンション、アパート等の上の階に観戦場所を求めて集まり、右翼側場外にあるマンションは階段や踊り場、さらには屋上までが人でいっぱいになってしまったほどだった。
  • 当時日産自動車硬式野球部に所属していた島田茂は川崎球場のライトスタンドの近くにあった自宅マンションのベランダからこの10.19を観戦していた。「自分も絶対にプロではこういう試合に出たい」と思ったという[4]。島田はこの年の秋にドラフト外でロッテに入団した。
  • 無料招待券で入れる自由席に入場制限がかけられると、今度は指定席が飛ぶように売れた。しかし普段観客の入らない川崎球場では、定員分の券を予め用意していなかった。また当時川崎には指定席の発券システムがなく、不足した分は窓口の係員が座席表を逐一照合しながらゴム印で席番を打刻して観客に手渡す、という手作業で行われていたため、チケットを求めて集まった観客の列に発券がいよいよ追いつかなくなった。この時点では指定席にはまだ余裕があったものの、混乱を避けるため急遽席番無しの立ち見券を発行するという異例の対応を実施した。さらには「大人用」の台紙を使い切ってしまったため、「小人用」の台紙の「小人」の表記をペンで消去して使いまわすなど、係員は終始発券の対応に追われた。こうしたことから、この10.19はチケットの売り上げ増にはそれほど大きく貢献しなかったといわれている。
  • だが、普段では考えられない大勢の観客が押し寄せたため、球場敷地内の売店は大わらわだった。当時の川崎球場は施設そのものの老朽化が進んでいた上に普段から観客数が少なかったことから売店の設置数が元々少なく、全ての売店がメインスタンドのネット裏周辺のみに集中して設けられており、外野スタンドには物販スペースが一切設けられていなかった。また売り子による巡回販売も行われていなかったため、観客は自ら売店へ足を運ぶ必要があった。そのため、1階スタンド下の売店と場外のうどん店・ラーメン店・お好み焼店や自動販売機には場内の観客が次々と詰め掛けて長蛇の列をつくり、食べ物や飲み物が売れに売れる事態となった。更に第1試合と第2試合の間のインターバルが夕食の時間とほぼ重なったため、第2試合が始まる頃にはほとんどの食べ物、飲み物が売り切れてしまった。一塁側場外のラーメン店も麺が底を突いて売り切れとなったが、あまりの空腹から、店主に「せめてスープだけでもいいから分けてくれ」と嘆願する観客もいたという。
  • また当時の川崎球場のトイレは全て男女共用で、実際に女性が利用できるのはネット裏1階の実質1箇所のみであった。しかも用を足す際には、わざわざ男性用の小便器が並ぶ中を通り抜けて個室に行かねばならなかったため、初めて川崎を訪れた女性の観客からは苦情が多数寄せられたという。ロッテ球団は1978年の川崎移転以来、川崎市に対して球場の改築・改修を求め続けてきたが、市側は財政難や球団の不人気を理由に消極的であった。しかし、この10.19で施設面の様々な問題点が噴出したことを契機に、市は翌1989年秋から総額約14億円を投じて2箇年計画で改修工事を実施する運びとなった(川崎球場の項目も併せて参照)。
  • この日の川崎球場には「本日仰木胴上げ日」という横断幕を掲げて応援するファンもいた。観客の9割近くが各地から動員された近鉄ファンおよび(どちらのファンでもないが)近鉄を応援する人々であり、さらにホーム応援席にはロッテの勝利を願う西武ファンもいたため、ホームである真のロッテファンはさらに少なかったことになる。現在は、ホームである千葉マリンにはもちろん、ビジター時にも存在する熱狂的ともいえるロッテファンは当時は存在せず、本当にホームの球団なのかという応援団の少なさだった。
  • 同じ関西地区の南海、阪急の応援団も近鉄優勝をと、一致団結して西武戦等では熱心に応援していたという。しかし、身売りの決まっていた南海の大阪球場最終試合となった10月15日対近鉄戦に勝利。阪急も西武のシーズン最終戦となった10月16日の試合で敗戦、さらに翌17日の対近鉄戦では勝利を収めてしまい(この敗戦で近鉄はロッテ3連戦引き分けも許されない状況に陥った)近鉄のアシストすることはできなかった。

[編集] マスコミ

  • この日の夕方、阪急ブレーブスがオリエント・リース(翌年4月、社名をオリックスに変更)に売却されることが発表された。9月に南海ホークスダイエーへ売却されることが決まった際にはマスコミもその情報を以前からキャッチしていたが、阪急に関しては全くの予想外で、この日のスポーツマスコミは「10.19」と「阪急身売り」の対応に追われた。この日、川崎には阪急担当記者の一部も取材の応援に駆けつけていたが、彼らも急遽帰阪したり、買収関連の記者会見が行われる都内のオリエント・リース本社へ急行したりと予定変更を余儀なくされ「よりによって、何でこんな大事な日に(そんな発表をするのか)」と漏らす者もいたと言う[5]。翌日のスポーツ紙のうち日刊スポーツサンケイスポーツは「阪急身売り」を一面で取り上げた。なお、この年阪急と南海が売却された事によって、パ・リーグ創設の1950年以来経営母体が一度も変更されたことがない球団は、偶然にもこの日ダブルヘッダーを戦っていた近鉄1球団だけとなった。
  • 関東地方では当初この試合の中継予定は無かったが、テレビ朝日が『パオパオチャンネル』『ニュースシャトル』内で随時川崎球場からの中継を差し込んで放送、少しずつ試合中継を放送するうちに「もっと見たい」「(プロ野球)中継を続けてくれ」と視聴者からの電話が殺到したため、斎田祐造編成部長の独断で急遽番組予定を変更して第2試合途中の午後9時から全国放送。
    (近畿では、前述の通り系列のABCテレビが第1試合から完全中継した。なお、ABCテレビではアニメ『ハーイあっこです』の系列局への裏送りを実施した。また、翌年から地元パ・リーグ球団が復活する予定となっていた福岡県KBCと、かつてのロッテオリオンズの準本拠地で、当時地元球団のなかった宮城県KHBの両局も、ABCの中継を1試合目から放送していた)
    しかも当時人気番組だった『さすらい刑事旅情編』と差し替えた[6]上にCMを入れないという民放ではおおよそ考えられないことをやってのけ(後に久米宏曰く「スタッフが試合に夢中でCMを入れそこなってしまった[7])、画面上では「スポンサーのご厚意に依りCMを入れずに放送します」とのテロップが流された。
    そして午後10時からの『ニュースステーション』もメインキャスター・久米宏が番組冒頭部分から「今日はお伝えしなければならないニュースが、山ほどあるのですが、このまま野球中継を続けます」「伝えなければならないニュースもあるし、誰か助けてください」(後述)の一言と共に本来のニュース番組としての内容を全て飛ばして[8]放送し、中継を続けた。いかに全国の野球ファンがこの試合の行方を固唾を呑んで見守っていたかがわかる。尤も、近鉄戦のナイターが全国ネットで放送されるのは極めて異例であり、当時のテレビ朝日系列が如何に近鉄の試合に敏感な編成だったかが伺われる。なおABCでは、第2試合終盤ではアナウンサーに出すお茶も尽きたという。
  • この試合の中継放送は、近畿地区では視聴率46.7%、関東地区でも視聴率30.9%と、日本シリーズ以上の驚異的な高視聴率を記録した。余談だが、これは18年に渡って放送されたニュースステーションの歴代最高視聴率である。
  • この試合の中継は視聴者の反響を呼び、同年12月30日に放送された『ニュースステーション 年末スペシャル』でも「今年記憶に残ったニュース」として10.19を取り上げ、ドキュメンタリーの形で数十分にわたって放送した。番組によれば、プロ野球としては確かに注目すべき日ではあったものの、それ以外に報道面で様々に重要な日であったため、テレビ朝日を含めスタッフは誰も近鉄のことまでは思い至らない日だったという。また毎日放送も後に、この試合のドキュメントを放送している。また1992年にこのダブルヘッダーをダイジェストしたNumberビデオ「最終戦 10.19川崎球場」が文藝春秋社から発売された(ISBN 4-16-911044-7)。
  • 開運!なんでも鑑定団」や「うたばん」といったテレビ番組でスポーツグッズ鑑定士を務めている、スキンヘッド姿で知られる前野重雄は、当時ロッテ番の雑誌遊軍記者だった。そのキャリアを活かして、10・19のオリオンズ側や「中華麺店」などのウラ事情ばかりを集めたノンフィクション『川崎ドリーム 川崎球場に客が来た日』を週刊少年ジャンプの「第一回小説ノンフィクション大賞」に応募。第一席入選を果たした。それは1991年8月の月刊ジャンプノベル創刊号に発表されたのみである。ペンネームは前野兆治。

[編集] 翌年の10.12へ

翌年1989年パ・リーグは、オリックスの開幕8連勝で始まり首位を独走、6月末時点で2位近鉄に8.5ゲーム差をつけたが、ここから近鉄が猛追、7月を14勝6敗1分けで大きく勝ち越しオリックスを捉えた。さらに、9月に入ると西武も猛追、首位が目まぐるしく入れ替わる大混戦を演じた。

10月5日、対オリックス戦に敗れた近鉄は自力優勝が消滅した。また同日、当時の近鉄球団のオーナーだった佐伯勇が逝去。翌10月6日の対オリックス戦は、重苦しい空気のまま延長にもつれ込んだが10回裏、ハーマン・リベラのサヨナラ3ラン本塁打により5-2で勝利した。

  • リベラのコメント「このホームランを、妻とおなかの子と、故佐伯オーナーにささげる」

また、5日には一歩リードした西武がダイエー戦で、3回までに8-0とリードしながら、9回表に一挙8点(このときのダイエー8人連続得点は当時の日本記録)を失い、12-13で敗北。西武にとって後々に響く敗戦となった。

そして近鉄は、10月7日の対日本ハム戦に勝利、10月8日は近鉄・阿波野秀幸と日本ハム・西崎幸広の初の直接対決となったが4-0で勝利した。

しかし10月9日の対ロッテ戦は6-7で敗戦、近鉄は残された西武との4試合、2敗を喫した時点で優勝が消滅するという状況に追い詰められた。

そして天王山、10月10日からの西武対近鉄直接対決3連戦を迎えた。この時点で首位西武と3位近鉄とのゲーム差は2.0。

10月10日、西武対近鉄戦。西武が敗れ同日オリックスがロッテに勝利すれば、オリックスにマジック4が点灯する状況だった。試合は西武先発渡辺久信と近鉄先発山崎慎太郎の緊迫した投手戦となったが、8回表、ハーマン・リベラの勝ち越しソロ本塁打により3-2で近鉄が勝利した(このときリベラだけが先発選手で唯一、渡辺に三振を奪われていなかった)。

  • 山崎のコメント「負けたら終わりなんだと思えば自然と力が抜けて気負いが無くなった」

なお、オリックスは投壊により4-17でロッテに大敗したが、試合後西武の敗戦を知らされた、オリックス・上田利治監督は「そうかっ」と表情を変えたという。

流れは近鉄にあったが、10月11日は雨のため、西武対近鉄戦、ロッテ対オリックス戦共に試合中止、両試合とも急遽翌日にダブルヘッダーが組まれた。そして運命の10月12日を迎えた。

10月12日、西武対近鉄(西武ライオンズ球場)のダブルヘッダーが行われた。西武が連勝し、同日オリックスが1敗もしくは1分けすれば西武の優勝決定という状況だったが、第1試合、近鉄は0-4の劣勢から主砲・ラルフ・ブライアントが、西武先発郭泰源から4回表にソロ、6回表に同点に追い付く満塁本塁打、そして5-5で迎えた8回表、再びブライアントに打席が回ってきた。西武・森祇晶監督は、ブライアントをこの年14打席8三振、また来日以来被本塁打0に押さえ込んでいた渡辺久信をマウンドに送ったが、ブライアントは渡辺久信の4球目、ライトスタンドに突き刺さる勝ち越しソロアーチを放ち、6-5で第1試合近鉄勝利。

第2試合も中3日のエース阿波野秀幸を立てて14-4で近鉄が連勝した。なおブライアントは第2試合3回表にも西武先発高山郁夫から2-2の均衡を破るソロ本塁打を放ち、打撃機会4打数連続本塁打を達成、「奇跡の4連発」と語り継がれている。近鉄にマジック2が点灯。また、オリックスも10-2、14-2でロッテに連勝した。

ダブルヘッダー第1試合。開始 午後2時半

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
近鉄 0 0 0 1 0 4 0 1 0 6
西武 1 3 0 0 1 0 0 0 0 5
  1. [審判]五十嵐(球)東 中村浩 山崎(塁)小林一 斎田(外)

ダブルヘッダー第2試合

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
近鉄 2 0 4 3 3 0 1 1 0 14
西武 2 0 0 0 0 0 0 2 0 4
  1. [審判]寺本(球)新屋 小林一 中村稔(塁)東 山崎(外)

この3連戦では、当時“猛牛キラー”と称された西武のドラフト1位ルーキー・渡辺智男は全く登板しなかった。渡辺智は10月9日、ゲーム差無しで迎えた西武対オリックス最後の直接対決に先発し、8回1/3を投げて勝利投手となった(11-2で西武が勝利)。しかし渡辺智は前年10月、右肘の軟骨除去手術を受けたため登板間隔を考慮する必要があり、またこのダブルヘッダーが仮に1勝1敗となった場合、優勝決定が10月15日の直接対決に持ち越されていた可能性があったため、森はあえて渡辺智を温存する策を執った。結局、近鉄が終始圧倒したこともあってこの3連戦での登板機会はなかったが、一部ファンの間では「この近鉄3連戦のどこかで渡辺智が登板していれば、西武は優勝できたかもしれない」などと、森の采配に対する批判があった。それに対して森は「智男が使い物にならなくなったら、誰が責任を取るのだ」と反論している。なお渡辺智は10月15日、消化試合となったが近鉄対西武最終戦に先発し、延長12回を投げ抜き5-6で勝利した。

また、この3連戦は10月10日(テレビ朝日・放送時間19:00~21:48)と10月12日の第2試合(フジテレビ・(放送時間19:00~20:54)が全国ネットでテレビ中継され、12日の第1試合も関東ローカルではあったが、フジテレビが録画ハイライトと生中継を混ぜて担当した(放送時間16:00~18:00)。12日の試合はテレビ埼玉でも(第1試合開始の14:30から)生中継した。ちなみに、同試合に順延となった11日は本来TBS(全国ネット・放送時間19:00~20:54)の担当予定だったが[9]、中止決定を受け翌日の担当局であるフジテレビと話し合いの末、同局への委譲が決定した。結果的に実現はしなかったが、CS放送(当時は主にケーブルテレビ向が主体)が全くと言っていいほど普及されていなかった当時としてはパ・リーグの同一カード3連戦がゴールデンタイムで全国に生中継されること自体が異例だった。また、年末にテレビ朝日ニュースステーションの中で第1試合の渡辺久信ラルフ・ブライアントの対決を特集したが、このときはテレビ埼玉の映像(音声は文化放送の実況)を使用した。なお、川崎球場のロッテ対オリックス戦もテレビ神奈川を中心に第1、第2試合共に生中継されている。

10月13日、ロッテ対オリックス戦、舞台は川崎球場。ロッテの先発は奇しくも10.19第2試合と同じ園川一美。ロッテは5回裏に愛甲猛がオリックス先発佐藤義則から逆転3ラン本塁打。8回表から抑えに伊良部秀輝を投入。5-3でオリックス痛恨の敗戦。近鉄についにマジック1が点灯した。前年、近鉄の優勝を最終戦で阻止したロッテが、今度は近鉄の優勝をアシストした形になるという、皮肉ではあるが、しかし劇的な展開だった。

そして10月14日、本拠地藤井寺球場での近鉄対ダイエー戦。近鉄ファンで超満員に膨れ上がった藤井寺球場は、試合途中から観客席で大ウェーブが何度も起きるなど、尋常でない盛り上がりとなった。7回表から阿波野秀幸が胴上げ投手として登板すると、スタンドからは前年同様の阿波野コールが沸き起こる(ただ、この采配は吉井理人には不満の残るものだった。詳細は吉井の項を参照)。9回表は鈴木貴久山本和範の本塁打性の打球をフェンスに激突しながら好捕(このプレーは同年オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞で好プレー賞を受賞した)、続いて大石大二郎藤本博史のイレギュラーバウンドした打球をジャンピングキャッチでセカンドゴロと連続ファインプレーで2死。最後は伊藤寿文を三振に打ち取り、5-2でダイエーを降した近鉄はオリックスをゲーム差なしの勝率1厘差で上回り、9年ぶりのリーグ優勝を果たした。

優勝決定直後は大量の紙テープや紙ふぶきが投げ入れられるだけではなく、多くの観客がグラウンド内に乱入し警備員の制止も振り切り、近鉄選手を取り囲み仰木監督の胴上げも思うように上がらず大変な混乱状態となった。続いてラルフ・ブライアントが胴上げされたが、ブライアントはその後ライトスタンド前まで走って行き万歳をした。するとそこでも乱入者があり、内野の方へ走って戻るブライアントを追いかけ、さながらブライアントを先頭にしたウイニングランの様相を呈した。仰木監督は優勝インタビューの最後に朝日放送のアナウンサーのマイクを奪い取り、「本当にご声援をありがとうございました!」と興奮隠さぬあいさつにはファンの大声援が応えた。続いて仰木監督と選手達はチャンピオンフラッグを先頭に球場内を一周したが、2年越しの悲願達成にスタンドでは多くのファンが涙を流した。そしてその後ダッグアウトに引き揚げた選手達は涙を流した。


チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
ダイエー 0 0 0 0 0 0 1 1 0 2
近鉄 1 0 0 3 1 0 0 0 X 5
  1. [審判]村田(球)林忠 前田 永見(塁)岡田哲 柿木園(外)

この試合はレギュラー番組[10]を休止して、当日19:00からABCテレビをキーステーションにANN系列で生中継された(ただし青森放送山形放送山口放送テレビ大分など当時のNNN系列とのクロスネット局では放送なし)。結果的に、近鉄のみならずABCにとっても前年の雪辱を果たす結果となった。実況はABCの太田元治が担当し、前年10.19の第2試合を実況した安部憲幸は近鉄ベンチレポートを担当した(ちなみにダイエー側のレポーターはKBC後庵継丸が担当)。前年に引き続き近鉄戦で優勝決定が掛かったナイターが全国ネットで放送されるのは2年連続であり、当時のANN系列が近鉄優勝に注目していた編成だったかが分かる。

[編集] テレビ中継

  • 第1試合

実況:西野義和(朝日放送) 解説:岡本伊三美(朝日放送解説者、前近鉄監督)

  • 第2試合

実況:安部憲幸(朝日放送) 解説:小川亨(朝日放送解説者、元近鉄選手)

[編集] 脚注

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  1. ^ 10月15日の近鉄-南海戦は球団売却が決まっていた南海ホークスの最終戦である。南海は試合後に、杉浦忠監督自ら大阪のファンに別れを告げた。
  2. ^ 出典 『古今東西ベースボール伝説』 ベースボールマガジン社
  3. ^ 『週刊ベースボール』1988年11月7日号
  4. ^ 『週刊ベースボール』1989年11月6日号
  5. ^ オリックスの当時の社長で、現在もオリックス球団オーナーの宮内義彦は、「(社長としての多忙なスケジュールの中)この日しか空いている日が無かった。この日までパ・リーグの優勝争いがもつれ込むことは全くの予想外だった」と後に雑誌のインタビューで語っている。
  6. ^ 当初午後9時から15分だけ野球中継を放送し、「さすらい刑事旅情編」以下の番組を繰り下げることで対応し、さらに15分延長して9時30分までの挿入処置としたが、中継続行を望む視聴者からの電話があまりにも殺到したため、ついに「さすらい刑事旅情編」の放送を取り止め、10時から生放送の「ニュースステーション」に繋ぐ決断を下した。
  7. ^ 急な番組差し替えでスポンサーへの対応が出来なかった事に加え、繰り下げ対応だったものが急遽差し替えとなり、残り24分間でドラマ枠のCM全てを放送するのは困難だった。
  8. ^ 世界経済を揺るがしたいわゆる「ブラックマンデー」から丁度1年になる日だったため、番組内で特集を組み、ウォール街からの中継も行う予定だったが、野球中継のために特集そのものが中止となった。
  9. ^ この日は当初19:00から2時間にわたり「8時だョ!全員集合スペシャル」(1985年に終了した同番組の傑作VTR集)を放映する予定だったが、西武対近鉄戦への変更とともに同試合が雨天中止にならない限りは放送延期となるはずだった。しかし、雨天中止となったことで当初の予定通り放映できた。
  10. ^ この日は土曜日だったため、通常時の番組は19:00から「悪魔くん」、19:30から「おぼっちゃまくん」(ABCのみ大阪ガス提供の「部長刑事」)、20:00から「暴れん坊将軍III」。なお、試合当日ABCは本来「おぼっちゃまくん」を先行放送している17:55から「部長刑事」を繰り上げ放送した。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

2008年10月9日河北新報は、前日に行われた巨人 - 阪神の同率首位対決を報じる記事の隣に、東北楽天ゴールデンイーグルスを扱うコラムを掲載し、『"前身"の近鉄の最終戦の話をしたい。もう20年がたつ。1988年の「10.19の悲劇」。(中略)救援したエース阿波野はどん底に突き落とされた。(中略)翌年、近鉄はリーグ制覇。悔しさが結実した。』と述べた。さらに、巨人 - 阪神の報道では『巨人にとって10月8日は(中略)記念日だ。「10.8」を選手として戦った原監督は、その日にマジックナンバー「2」を点灯させた。』と、10.19と10.8を並べる配置をした。

野球番組の歴代視聴率一覧

[編集] 外部リンク