太田幸司
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 青森県三沢市 |
| 生年月日 | 1952年1月23日(60歳) |
| 身長 体重 |
176cm 74kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1969年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1970年4月19日 |
| 最終出場 | 1982年9月29日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
|
|
|
この表について
|
|
太田 幸司(おおた こうじ、1952年1月23日 - )は、青森県三沢市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、スポーツキャスター、日本女子プロ野球機構スーパーバイザー。
目次 |
[編集] 来歴
三沢基地の軍属をしていた日本人の父と白系ロシア人の母の元で一人っ子として育つ。実母に関しては、ラジオ番組の中でいわゆるスラブ人ではなくフランス人の子孫だと明かしている。
[編集] 高校時代
三沢高校在学中に、野球部のエースとして1968年夏、1969年春・夏と阪神甲子園球場で行われた選抜高等学校野球大会・全国高等学校野球選手権大会に3大会連続出場を果たした。
特に1969年夏は、東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした。その決勝戦、松山商業戦に2日間の熱投が行われた。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回(試合時間:4時間16分)を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。太田はこの試合を1人で投げ抜いた(投球数:262球。松山商のエース・井上明も一人で232球を投げ抜いている)。再試合となった2日目の試合も全イニングを投げたが、2-4で敗戦。決勝戦計27イニング、準々決勝からの連続45イニングを1人で投げ抜いた熱投も実らず、準優勝に終わった(第51回全国高等学校野球選手権大会決勝の項も参照)。甲子園の2日間にわたる決勝戦と延長戦を一人で連投したことが、投手としての寿命を縮めた(能力を損ねた)のではないか、とはよく言われることである。ちなみに太田本人はこの点に関し恨み言をしたことはない。
混血ゆえ、薄茶色の髪に色白で端正な顔立ちの美少年で、選抜大会出場後から女性ファンが周囲に姿を見せるようになった[1]。さらにこの決勝戦の熱投も加わり、「コーちゃん」という愛称で女子高生などに絶大な人気を呼んだ。それ以前には特定の高校野球選手に社会現象に近いような形で女性ファンが集まったことはなく、「甲子園球児のアイドル」の元祖と呼べる存在である[1]。
[編集] プロ時代
同年のドラフト1位で近鉄バファローズに入団。近鉄球団も、指名の挨拶に佐伯勇オーナー自らが向かうなど最大限の敬意を払って迎えたという。太田は入団発表のため、青森から大阪まで列車を乗り継いで向かった。近鉄の球団広報担当者は報道陣に現在地点などを随時報告していたがその口調が「太田君は、只今名古屋にお着きになられました」とまるで皇族の様な扱いであったため、報道陣の仲間内ではしばらくの間太田を「殿下」と呼んでいたという。
人気はプロ入り後も全く衰えることはなかった。開幕一軍メンバーに抜擢されたがこの決定に「二軍でみっちり体を作ってから一軍にあがるつもりだったのに…」と当惑。以降もこの状況が続き悩んでいたという。開幕間もない4月19日、藤井寺球場での対ロッテオリオンズ戦で、1-1の8回に公式戦初登板。この登板は試合中の7回にコーチから伝えられたが、これは監督の三原脩が「前日に伝えて眠れなくなったりでもしたら困る」と考えてのことだった[2]。8回は三者凡退に抑え、その裏味方が1点を勝ち越したものの、9回に乱れて再び同点に。ところが、9回裏に自らの代打に立った木村重視がサヨナラ本塁打を放ち、ラッキーな初勝利を手にした。
プロ入り初年の1970年から1972年までは、ファン投票1位を獲得してオールスターゲームへの出場を果たす。特筆すべきは初年の1970年のオールスターゲームでの3試合連続リリーフ登板である。一軍でほとんど実績がない(前半戦を終えて上記の1勝のみ)にもかかわらず、球場やテレビで観戦する太田のファンに配慮して出さざるを得ず、全パ監督の西本幸雄(当時阪急ブレーブス)は「いかに被害を少なくするか」苦心したという。1試合目こそワンアウトしか取れずに連打を浴びて降板したものの、2試合目は1イニングを三者凡退で抑え、3試合目はワンポイントリリーフとして阪神タイガースの田淵幸一を抑えた。この3試合を期にプロとしての実力も徐々につき始める。
3年目の1972年のオールスター第3戦で、読売ジャイアンツの長嶋茂雄・王貞治を打ち取ったことが「プロ野球人生のターニングポイントだった」と後に語っている[1]。1973年には6勝を挙げる。この年のオールスターゲームでは入団以来のファン投票1位が途切れたが、全パ監督の西本幸雄が監督推薦で選出。太田は「やっと、一人前のプロ野球選手になれた」と喜んだ[1]。1974年からは西本が近鉄の監督に就任。主力・若手を区別なく鍛える西本に、人気先行に悩んでいた太田はほっとしたという。そのシーズンに念願の二桁勝利(10勝)を挙げる。1975年には自己最多となる12勝を挙げた。1977年にも10勝を挙げている。1979年には7勝を挙げて球団初のリーグ優勝に貢献(ただし日本シリーズでの登板はなかった)。翌1980年のリーグ優勝には数字の上で貢献はできなかったが、日本シリーズでの登板を経験した。
その後は十分な成績を挙げられず、1983年には読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍、さらに1984年には阪神タイガースへ鈴木弘規との交換トレードで移籍したが、両球団での一軍登板は無く、1984年シーズン終了後に現役を引退した。
[編集] 引退後
1985年から、毎日放送の野球解説者やスポーツキャスターとして活躍。
特にMBSラジオでは、解説業のかたわら、1985年4月から2009年3月まで平日夕方のプロ野球速報・スポーツ情報番組でキャスターを担当。担当期間中は、高校野球関係の特集記事・番組を除いて、近畿広域圏以外での露出度は低かった。
また、無類のゴルフ好きとしても有名。アマチュアトーナメントなどへの出場で、前述の生放送番組を休むことが時折あった。2005年には、日本アマチュア選手権(7月5日から鳥取県・大山ゴルフクラブで開催)に出場したが、1打差の43位で決勝に進めなかった。
2009年8月17日には、新たに発足した日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーに就任。MBSラジオでの活動をほぼ解説業に絞る一方で、2010年に開幕した女子プロ野球の設立・運営に携わっている。2009年12月21日に開催された同機構の第1回ドラフト会議では、キャスター経験を生かす形で、自ら進行役を担当。毎日放送以外の放送局でも、女子プロ野球の公式戦を中継する場合に、「スーパーバイザー」の立場で解説役を務める。
[編集] 「甲子園のアイドル」
上記のとおり「甲子園のアイドル」として、近鉄入団後数年間は女性を中心に高い人気を誇った。それに関する以下のような話がある[1]。
- 近鉄が本拠地として使っていた日本生命球場では、太田の入団を機に女性用トイレを増設した。
- 球場に向かう電車内では、チームメイトが太田をガードした。
- チームメイトが選手寮を訪ねてきたファンに「太田はパチンコに行った」と言ったところ、寮の近くのパチンコ屋が瞬く間に追っかけの女性ファンで一杯になった[3] 。
- 試合から寮に戻ると、自室に見知らぬ女性が入り込んでいた。
[編集] 人物像
北国の青森県出身であった太田は大阪の夏の暑さにやられ、夏バテとともに水虫を発症したことが太田の活躍を妨げた一因と言う話がある。反面、寒さには強いのか、冬でも半袖で過ごす。出演番組でも、そのことがよく話題になる。
若手時代までコメントに東北なまりが残っていたが、その後関西で長く生活してきたこともあって、現在では関西弁にすっかりなじんでいる。MBSラジオで放送される番組やCMでも、関西弁を交えたトークやセリフが多い。
[編集] 家族
現役時代の後年には、羽曳野市に自宅を建てたうえで、両親を三沢から呼び寄せて同居。そのため、一人っ子でありながら、両親を扶養する関係で長らく独身を通していた。
1992年のプロ野球開幕前には、「もし阪神が今年優勝したら結婚する」と宣言。しかも、阪神が同年に最後までヤクルトと激しい優勝争いを演じたため、結婚の話が現実味を帯びた。しかし、阪神が結局2位に終わったため、宣言の実行は幻に終わった。
44歳の時に、自身の後援会会長の娘と結婚。できちゃった結婚で話題になった。現在は、3人の実子とともに暮らしている[1]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1970 | 近鉄 | 25 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | -- | -- | .200 | 236 | 56.1 | 62 | 5 | 18 | 0 | 2 | 37 | 0 | 0 | 26 | 24 | 3.86 | 1.42 |
| 1971 | 14 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 115 | 25.0 | 26 | 7 | 16 | 0 | 3 | 13 | 7 | 0 | 20 | 19 | 6.84 | 1.68 | |
| 1972 | 16 | 8 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | -- | -- | .667 | 258 | 59.2 | 67 | 6 | 20 | 0 | 4 | 36 | 2 | 0 | 34 | 26 | 3.90 | 1.46 | |
| 1973 | 40 | 28 | 4 | 1 | 0 | 6 | 14 | -- | -- | .300 | 803 | 192.0 | 161 | 21 | 74 | 5 | 9 | 113 | 3 | 1 | 86 | 69 | 3.23 | 1.22 | |
| 1974 | 43 | 26 | 2 | 0 | 0 | 10 | 14 | 2 | -- | .417 | 714 | 163.1 | 156 | 21 | 76 | 2 | 8 | 77 | 3 | 0 | 95 | 84 | 4.64 | 1.42 | |
| 1975 | 35 | 24 | 12 | 1 | 1 | 12 | 12 | 1 | -- | .500 | 769 | 188.2 | 169 | 17 | 45 | 1 | 9 | 91 | 6 | 0 | 85 | 78 | 3.71 | 1.13 | |
| 1976 | 29 | 23 | 2 | 1 | 0 | 9 | 7 | 0 | -- | .563 | 609 | 144.0 | 125 | 13 | 76 | 1 | 1 | 54 | 6 | 1 | 70 | 63 | 3.94 | 1.40 | |
| 1977 | 36 | 29 | 14 | 2 | 2 | 10 | 14 | 1 | -- | .417 | 878 | 218.2 | 208 | 23 | 39 | 0 | 6 | 72 | 4 | 0 | 86 | 78 | 3.21 | 1.13 | |
| 1978 | 21 | 15 | 2 | 1 | 0 | 1 | 9 | 0 | -- | .100 | 308 | 69.2 | 90 | 9 | 21 | 0 | 3 | 26 | 1 | 2 | 46 | 42 | 5.40 | 1.59 | |
| 1979 | 31 | 20 | 4 | 1 | 0 | 7 | 4 | 0 | -- | .636 | 572 | 136.0 | 135 | 15 | 41 | 0 | 6 | 47 | 4 | 1 | 55 | 50 | 3.31 | 1.29 | |
| 1980 | 14 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 189 | 38.0 | 64 | 9 | 14 | 0 | 1 | 17 | 3 | 0 | 47 | 45 | 10.66 | 2.05 | |
| 1981 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 9 | 2.0 | 3 | 1 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 2 | 9.00 | 2.50 | |
| 1982 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 168 | 38.0 | 39 | 1 | 17 | 1 | 1 | 19 | 0 | 0 | 23 | 19 | 4.50 | 1.47 | |
| 通算:13年 | 318 | 188 | 41 | 7 | 3 | 58 | 85 | 4 | -- | .406 | 5631 | 1331.1 | 1305 | 148 | 459 | 10 | 53 | 604 | 39 | 5 | 677 | 599 | 4.05 | 1.32 | |
[編集] 記録
- オールスターゲーム出場:7回 (1970年 - 1975年、1977年)
- うちファン投票1位による出場回数:5回 (1970年 - 1972年、1974年、1975年)
[編集] 背番号
- 18 (1970年 - 1982年)
- 33 (1983年)
- 24 (1984年)
[編集] 関連情報
[編集] CM出演
- 現在
いずれもMBSラジオのみで放送。現役時代のイメージから一転して、コミカルな内容になることが多い。
- 過去
いずれも近鉄バファローズ時代。同球団の選手としては、異例の抜擢であった。
[編集] 出演番組
[編集] テレビ
- BANG BANG BASEBALL(主に阪神タイガース戦中継の解説)
毎日放送以外の放送局でも、高校野球関連の特集番組を制作する場合に、インタビューなどで登場することが多い。
[編集] ラジオ
- MBSタイガースライブ(前身の「毎日放送ダイナミックナイター」「MBSタイガースナイター」時代から解説者として出演)
- 2008年度までは、プロ野球シーズン中に前座コーナー(「プレイボール太田幸司です」など)のキャスターを担当。中継で解説を務める場合でも、中継先からコーナーを進行していた。
- 子守康範 朝からてんコモリ!(2009年4月~、金曜→月曜コメンテーター)
- 同番組の放送枠が3時間へ拡大したのを機に、亀山つとむと交代でコメンテーターを務めている。最近は子守から「大たこ王子」と呼ばれることも。
- ノムラでノムラだ♪ EXトラ!(2009年4月~)
- プロ野球シーズン中には、平日のナイター中継で解説を担当する場合に、実況アナウンサーとともに「EXトラ『ほっと』インフォメーション」で中継先から中継の聴きどころを紹介する。
- 2009年度のナイターオフ期間中は、18時台「ノムラでノムラだ♪Go!Go!エキストラ」の水曜日に、解説者としてレギュラーで出演していた。
- MBSとらぐみタイガースライブ!(2010年度以降のナイターオフ番組)
- 2010年度にレギュラーで出演した土曜日の放送には、「レディースデー」として、女性ゲストが毎週登場。同番組で唯一、MBSの女性アナウンサー(松本麻衣子)が進行役を務めていた。2011年度は日曜日に出演。
- 太田幸司の熱血!!タイガーススタジアム(キャスター)
- ナイターオフ限定のスポーツ情報番組で、前身番組は「太田幸司のスポーツナウ」。
[編集] 楽曲
甲子園大会での決勝戦連投をテーマにした楽曲が発表されている。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
|
|||||