藤本敦士

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藤本 敦士
東京ヤクルトスワローズ #10
HT-Atsushi-Fujimoto.jpg
阪神時代(2008年6月27日、阪神鳴尾浜球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県明石市
生年月日 1977年10月4日(34歳)
身長
体重
174cm
72kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 2000年 ドラフト7位
初出場 2001年4月14日
年俸 3,100万円(2011年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

藤本 敦士(ふじもと あつし、 1977年10月4日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手内野手)。兵庫県明石市出身。

愛称は「モンキー」、「もっさん」、「フジモン」、「あつし」、「あっちゃん」。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

明石市立花園小学校時代は父親が監督を務めるソフトボールチームに所属し兵庫県大会で優勝して全国大会に出場。明石市立望海中学校で軟式野球部に入り野球を始め、当時から主に遊撃手を務めていた[1]育英高校では3年時に主将を務め、第67回選抜高等学校野球大会に出場。2回戦の前橋工業高校戦で自らの失策が原因でサヨナラ負けを喫し、試合後のインタビューに涙を流しながら応答してこれからの決意を表明した。

亜細亜大学進学後は1年春からベンチ入りするなど期待されていたが、椎間板ヘルニアを患い1年途中で中退。一時は「スポーツはもう無理」とまで言われたが、懸命なリハビリテーションにより治癒した。

当時実家の焼き鳥屋の常連だった岡田彰布に紹介され甲賀総合科学専門学校に進学し、同校野球部に入部した。

卒業後は社会人野球デュプロに入社し、2000年社会人野球日本選手権大会では遊撃手を探しに来ていた当時阪神監督の野村克也が観戦する中、ヤマハ岡本真也から3安打猛打賞の活躍を見せた。元々阪神の獲得リストには入っていなかったが、同年秋のドラフト会議阪神タイガースから7位指名を受けて入団。同期には藤田太陽狩野恵輔赤星憲広らがいる。

[編集] 阪神時代

2001年は4月に骨折した沖原佳典に代わり一軍登録され、14日に遊撃の守備で初出場。17日にはプロ初打席で初安打を放つ。翌18日には9回2死から決勝点となる初タイムリーを放ち、19日にも引き続き決勝タイムリーを放つとその後好走塁で生還、守備でもダイビングキャッチなどの活躍を見せ、初めて阪神甲子園球場お立ち台に立つなどチャンスを掴んだ。下位指名だったこともあってか野村監督は記者に対して「お前らも打つとは思ってなかったやろ」と意外さを隠さなかった。同年は、56の背番号に加え、共に小柄な俊足の左打者で赤いリストバンドを着け、オープンスタンスの打撃フォームまで似通っていたことから、同期入団で先にブレイクした赤星憲広によく間違えられていた。

2002年から背番号を変更。この時候補に6も挙がったが、「和田豊コーチの現役時代の番号で恐れ多い」として9を選択した。遊撃手として開幕スタメン出場し、9回裏に頭脳プレーで併殺を取り勝利に貢献。同年はフレッシュオールスターゲームに出場して決勝本塁打を放ちMVPに選ばれたが、なかなか調子が上がらず一軍と二軍を往復しながらシーズンを終えた。同年オフに赤星と共に虎風荘を退寮。

2003年は8番遊撃手として2年連続の開幕スタメン出場。4月下旬には一時期打率がリーグトップになるなど急成長し、オールスターゲームにファン投票で初出場。初めて規定打席に到達して打率.301を記録し「恐怖の8番打者」とも言われ、矢野輝弘と共に充実した下位打線を組んで18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

2004年オープン戦で打率.360と活躍したが、開幕スタメンは新人の鳥谷敬だった。その後、開幕6試合目でスタメンに復帰。前年は本塁打0だったが満塁打を含む5本塁打を放つなど、目立った活躍も多く見られた。また、アテネオリンピック野球日本代表に選出され、オランダ戦で本塁打を放つなど二塁手のレギュラーとして活躍し、福留孝介と共にチームで2人だけの全試合フルイニング出場を果たした。しかし、帰国後は不振に陥り、鳥谷にスタメンを奪われ、打率.257と前年より大きく成績を落とした。

2005年は鳥谷がレギュラーに抜擢されたことに伴って二塁手へコンバートされ、関本健太郎とのポジション争いが始まる。開幕から4月26日の対中日ドラゴンズ戦までは、前年の実績が上回る関本ではなく藤本が起用されたが、肉離れにより登録抹消されてしまう。復帰後は、相手先発投手に右投手が予想される場合は左打者の藤本、左投手が予想される場合は右打者の関本が起用される併用策での出場が中心になった。また、2年ぶりにオールスターゲームに出場。

2006年は2番二塁手として開幕スタメン出場。猛打賞で好調なスタートを切ったものの、2戦目の1打席目で自打球を目に受け退場。そこからまた関本との併用になったが、シーズン後半に今岡誠が離脱したことで関本が三塁手に回り、藤本が二塁手に定着した。同年はオールスターゲームに3度目の出場を果たし、2戦目で馬原孝浩から8回表に勝ち越し2点タイムリーを放って1打数1安打2打点でMVPを獲得した。フレッシュオールスターMVPとのダブル受賞は簑田浩二石井浩郎青木宣親に続く史上4人目の記録。日米野球にもファン投票で選出され、2戦目の初打席でタイムリー、4戦目ではチーム初安打を放つなど大舞台に強いところを見せた。守備でも9月24日の対読売ジャイアンツ戦ではファインプレー3連発でチームを救い、守備で活躍しお立ち台にたった。ファインプレーのみならず堅実なところも見せ、二塁手として12球団トップの守備率.995を記録。一方で打撃成績は打率.237と前年より更に落ちてしまった。同年オフに熱狂的なファンがスポーツ用具メーカーの社員を装って藤本の自宅を訪れ、公式戦で使用したグラブを騙し取る事件が起きた。なお、犯人は翌年に逮捕された。

2007年はキャンプから打撃不振で併用相手だった関本が結果を残したことから、開幕スタメンの座を関本に譲った。関本が不振に陥った4月や6月はスタメン出場もしたが、出場105試合中スタメンは33試合とスタメン出場は減った。同年も打率は2割前半と結果を残せず、プロ入り後初めて盗塁0に終わった。

2008年は親交の深い濱中治とのトレードで加入した平野恵一が二塁のレギュラーに定着したことで、スタメンでの出場機会は更に減少した。シーズン中盤に平野が故障で戦線離脱した際は、三塁手にアーロム・バルディリスが起用されると関本が二塁手、藤本が起用される際は関本が三塁手という形の併用で二塁手としてスタメン出場の機会を得た。しかし、平野が復帰するとまた控えに戻り、プロ入り後最低の58試合出場で打撃も低調なままに終わった。同年はプロ入り後初めて三塁手も守った。

2009年は平野に加え、シーズン途中にクレイグ・ブラゼルが入団したことで、それまで一塁を守っていた関本が二塁に回ったため、前年よりさらに減少の47試合出場に止まった。また、大和の出場機会が増加したことや自身の不振により3度の二軍落ちを経験した。シーズンオフに出場機会(特にプロ入り当初守っていた遊撃で勝負できる環境)を求めて、この年取得した国内FA権を行使。これに対し、この年正遊撃手を務めた川島慶三の故障などで内野手が手薄になっていたヤクルトが獲得に動き、11月24日に2年契約の総額1億円で入団に合意。30日に正式契約を結んだ[2]。背番号は同年に引退した城石憲之が着けていた10で、その後愛車のナンバーにするほど愛着のある番号になった。

[編集] ヤクルト時代

2010年は3月17日に古巣・阪神とのオープン戦で代打で出場し、「代打・藤本」のコールに阪神ファンが大歓声を上げた。以降も阪神戦の打席では阪神ファンから声援が送られる光景が見られた。開幕スタメンこそルーキーの荒木貴裕に譲ったが、2戦目から遊撃スタメンに定着。本拠地開幕戦となった3月30日の対中日戦で決勝打を放ち、攻守にわたる活躍を見せ、移籍後初のお立ち台に立った。序盤はレギュラーを張り続け、4月30日の対横浜ベイスターズ戦では自身4年ぶりの本塁打となる1号2ランも放った。しかし、5月1日の対横浜戦で、5回1死2・3塁で三塁走者だった藤本は、宮本慎也の一塁ゴロで本塁に突入したがアウトとされた判定を不服とし、深谷球審の胸倉を掴んだことが「暴行」と判断されて自身初の退場処分を受けた。ヤクルト球団常務の大木勝年は「(映像では捕手の)タッチはなさそうだ」と、プレーの映像を添えて文書をコミッショナー事務局に提出する意向を示した[3]。6月後半以降は打率が低下してスタメンから外れることが多くなり、守備も7月16日阪神戦での1試合3失策など乱調に陥ったため、翌17日に一軍登録を抹消された。8月27日に再登録されたが、翌28日に椎間板ヘルニア(腰痛)により再び登録抹消され、治療に専念することとなった。10月9日に手術を受け成功した。

2011年は二軍スタートとなったが、遊撃レギュラー格の川端慎吾の戦線離脱により、6月3日に一軍昇格。7月1日の対広島東洋カープ戦では勝利を決定づける1号3ランを放つなど、森岡良介とともに苦しい内野事情を支えたが、その後精彩を欠き、打率は2割を切り、前年に続き1試合2失策するなどで、7月25日に登録を抹消されてしまう。チームは9月まで首位を独走していたが中日に逆転されてしまい、リーグ優勝を逃す。藤本にとっては阪神時代の2008年に続く大逆転負けを喫したことになる。その後、10月25日のシーズン最終戦で再び1軍登録され、それまでノーヒットノーランを続けていた広島先発の前田健太からレフト線に2ベースを放って同点のランナーとなり、サヨナラを呼び込んだ。チームにとって2009年以来2回目となったクライマックスシリーズでは、ファーストステージの巨人戦第1試合に5回代打で出場し、同点タイムリー。チームはその後、初のファイナルステージ進出を決めた。

[編集] 人物

阪神時代には同僚の金本知憲から「悪戯の相手」としてよくちょっかいを出されていた。2003年のオールスターゲーム第2戦で、金本から松井稼頭央を紹介され、「大きい声では言えない話だが…」と、松井が来シーズン阪神に移籍する意思があると伝えられた。これは金本の悪戯だったが、藤本はレギュラーの座を松井に奪われると思い込み、試合中は半泣き状態だった。この話を聞いた福留孝介が本気で心配し、松井に移籍の真偽を聞いたという。金本はこの様子に大受けしていたが、真に受けて気落ちしていた藤本を見て少し反省し、種明かしをした。同年、阪神がリーグ優勝を決めた際の祝勝会で、藤本は赤星と共に「打倒金本!」と書かれた鉢巻を巻いて参加し、ささやかな逆襲をした。ほかにも、2008年6月7日の対福岡ソフトバンクホークス戦(阪神甲子園球場)でサヨナラ安打を放った新井貴浩に祝福を行っていた金本が、いつの間にか手荒い祝福の対象を無関係な藤本に変えていたり、2005年のリーグ優勝でも金本が藤本の手足を掴んでグラウンドを引き回したりなどの場面が見られた。

2003年10月の『月刊タイガース』(第26巻第9号39ページ)における藤本の特集で、ジョージ・アリアスが「藤本のファンである息子に『(2003年に誕生する予定だった)ベイビー(弟か妹)に“フジモト”と名前を付けよう』と言われ、『なんてことを言うんだ!押し入れに入れてお仕置きだよ』と息子を叱った」「(その息子は)藤本をTVで見て『サルガオ』と言ってしまったこともある」と語っている。

虎風荘に住んでいた頃、ジェイソン・ボーヒーズのお面をつけた井川慶に部屋を襲撃されるという悪戯を受けたことがある[要出典]。この悪戯には藤川球児も共犯者として一緒に参加したエピソードもある。

飛行機が苦手である。社会人時代に通勤ラッシュの電車に乗っていて、突然激しい動悸に襲われて途中下車。休憩して再度乗り込むも症状は治まらず、その後飛行機や満員電車では同じ症状が起きるようになったという[要出典]。同僚だった濱中治中村豊とは、遠征時には共に陸路で移動していたことから「陸路組」と呼ばれ、プライベートでも親密である。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
2001 阪神 75 202 186 21 50 11 1 1 66 17 2 2 2 0 13 2 1 36 0 .269 .320 .355 .675
2002 63 162 139 8 29 4 0 1 36 8 3 1 15 0 8 2 0 23 0 .209 .252 .259 .511
2003 127 451 402 51 121 16 7 0 151 36 9 4 17 4 26 7 2 42 9 .301 .343 .376 .719
2004 111 419 385 45 99 12 3 5 132 33 5 1 6 0 27 1 1 58 9 .257 .308 .343 .650
2005 119 400 357 36 89 14 2 1 110 36 3 1 7 2 33 5 1 40 7 .249 .313 .308 .621
2006 138 443 393 35 93 12 1 3 116 30 3 1 19 3 27 5 1 56 13 .237 .285 .295 .581
2007 105 164 148 10 36 2 2 0 42 13 0 0 3 0 12 0 1 23 3 .243 .304 .284 .588
2008 58 89 76 12 19 1 1 0 22 7 1 0 4 2 6 0 1 14 3 .250 .306 .289 .595
2009 47 70 64 6 14 1 0 0 15 1 0 2 3 0 3 0 0 4 4 .219 .254 .234 .488
2010 ヤクルト 65 209 187 20 43 9 1 2 60 18 1 0 6 3 11 0 2 27 2 .230 .276 .321 .597
2011 23 48 44 5 9 2 1 1 16 6 0 1 0 0 4 0 0 7 0 .205 .271 .364 .634
通算:11年 931 2657 2381 249 602 84 19 14 766 205 27 13 82 14 170 22 10 330 50 .253 .304 .322 .626
  • 2011年度シーズン終了時

[編集] 年度別守備成績


遊撃 二塁 三塁




































2001 72 102 169 9 39 .968 2 5 2 0 0 1.000 -
2002 53 64 106 7 23 .960 4 1 7 0 1 1.000 -
2003 126 187 309 15 60 .971 - -
2004 98 142 277 11 61 .974 18 14 29 1 6 .977 -
2005 1 1 0 0 0 1.000 117 210 283 11 67 .978 -
2006 - 137 252 339 3 73 .995 -
2007 - 100 118 140 7 25 .974 -
2008 - 42 47 69 1 13 .991 3 1 3 0 1 1.000
2009 - 37 48 60 2 11 .982 -
2010 62 87 158 11 31 .957 - -
2011 11 15 21 2 4 .947 - 3 3 3 0 0 1.000
通算 423 598 1040 55 218 .968 457 695 929 34 194 .979 6 4 6 0 1 1.000
  • 2011年度シーズン終了時

[編集] 表彰

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 56 (2001年)
  • 9 (2002年 - 2009年)
  • 10 (2010年 - )

[編集] 登場曲

[編集] 脚注

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[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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