日本生命球場

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日本生命球場
Nippon Life Insurance Baseball Stadium
(Nissay Stadium)
日生球場
施設データ
所在地 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2-1-55
開場 1950年6月30日
閉場 1997年12月31日
取り壊し 1997年
所有者 日本生命保険
管理・運用者 日本生命球場
グラウンド 内野 - クレー舗装
外野 - 天然芝
照明 照明塔 - 6基
照度-バッテリー間:2,400ルクス、
内野:1,800ルクス、
外野:1,300ルクス
設計者 大林組
使用チーム • 開催試合
近鉄バファローズ(本拠地:1958年 - 1983年、準本拠地:1984年 - 1996年)
近畿学生野球連盟(1958年 - 閉場)
収容能力
20,500人
(特別指定席5,000人、内野席10,000人外野席5,500人)
グラウンドデータ
球場規模 敷地面積:33,057m²、
グラウンド面積:11,500m²
スタンド面積:7,700m²
両翼90.4m、中堅116m
左中間107.1m、右中間106.9m
フェンス 外野4.2m
日生球場(一塁側スタンドから、1992年撮影)
日生球場(ライトスタンドから、1990年撮影)
日生球場跡地近くの歩道は、野球場を模ったブロックにより舗装されている(2005年撮影)
株式会社日本生命球場
種類 株式会社
略称 日生球場
本社所在地 日本の旗 日本
大阪府
設立 1959年2月
業種 サービス業
事業内容 日本生命球場の管理・運営
資本金 1,000万円(1997年4月)[1]
主要株主 日本生命保険 10%(1997年4月)[1]
特記事項:1.1998年1月31日解散、5月清算結了。
2.日本生命球場の土地・建物を所有者である日本生命保険から借り受ける形で、管理運営を行っていた。
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日本生命球場(にほんせいめいきゅうじょう、Nippon Life Insurance Baseball Stadium1950年 - 1997年)は、かつて日本大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2-1-55にあった野球場。名前の通り日本生命保険(日生)が所有、日生10%出資による関連会社の株式会社日本生命球場が運営していた[1]。通称「日生球場」(にっせいきゅうじょう)。

目次

[編集] 歴史

[編集] 建設までの経緯

戦後間もない1940年代後半、市民にも広く開放する従業員の厚生施設として、野球場の建設が日本生命によって計画された。

GHQからは野球場を建設する資材を住宅建設に回すように勧告を受けたが、当時の大阪には市民に開放された野球場が少なく、スポーツを通じて地域社会に貢献するため、日本生命は建設を決断した。1948年に復活した日本生命硬式野球部も、戦時中にグラウンドの一部を隣接する生野高等女学校(現在の府立勝山高校)拡張のために売却し、戦後すぐの1946年には残った部分を生野区役所拡張のため売却するなどして、自社グラウンドは失われていた。このため、野球部員も強く野球場建設を欲していた。

[編集] 建設 - 草創期

球場は、大阪陸軍造兵廠の南隣に位置し、米軍による爆撃で焼け野原と化していた大阪市東区森之宮西之町(現:同市中央区森ノ宮中央2丁目)の広大な一画を用地として建設されることとなった。総工費は6000万円で、設計、工事は大林組が担当。1950年3月15日に着工し、6月28日に竣工。29日に関西大学野球部明治大学硬式野球部を招いて、日本生命野球部との招待試合が行われ、30日に落成式が挙行された。

7月1日の毎日オリオンズ南海ホークス戦を皮切りに、1950年にはプロ野球公式戦が21試合行われたが、使用の半数以上を会社や学校などのアマチュア野球やレクリエーション利用が占めた。また、建設当時は用地取得が十分に進まなかったこともあり、外野フェンスが直線の四角い形をした狭いグラウンドで、左中間・右中間が浅いため、本塁打が出やすい球場であった。内野スタンド1万4000人、外野芝生席9000人、計2万3000人を収容することができた。

その後も年に10試合前後セ・リーグ公式戦が行われたが、1954年シーズン終了後に日本生命はアマチュア専用球場とする方針を打ち出し、以降3年間プロ野球の試合は行われなくなった。この年のシーズンオフに外野フェンスの拡張工事が行われ、直線であった外野フェンスが丸みを帯びたものとなった。交通の便もよくプロ野球の試合がなく平日も利用できるため、1955年に関西六大学リーグが主会場を阪急西宮球場から日生球場に移転。1956年からは近畿大学野球リーグの主会場となり、1997年まで連盟事務所が球場内に設けられた。その後も閉場まで全国高等学校野球選手権大会大阪大会や学生野球など、関西のアマチュア野球の会場として利用された。

[編集] 近鉄球団の本拠地化

1958年に、日本生命は近畿日本鉄道から、近鉄パールス(後の近鉄バファローズ)の準本拠地として夜間だけ球場を使わせてほしいという要望を受けた。近鉄は、本拠地(専用球場)の藤井寺球場にナイター設備がなかったため、ナイターの試合は大阪球場を借りて開催していた。しかし、大阪球場を所有する南海の試合日程が優先され、利用料の負担も大きいことから、日生球場の使用を要望した。日本生命は近鉄の要望を了承。近鉄が7000万円をかけて照明灯などナイター設備を新設し、日本生命に譲渡した。パ・リーグ内には、3球団が大阪に密集していることから、近鉄沿線である名古屋圏へのフランチャイズ移転の声もあったが、パ・リーグ総裁の決定によって3年間の日生球場の使用が認められた。日本生命にとっても、アマチュア専用では維持が厳しく、ナイター設備など施設の充実はアマチュア野球のためになるという判断があった。これ以降、近鉄はナイターを中心に主催試合の大部分を日生球場で開催したため、野球協約上の専用球場は藤井寺球場のままであったが、日生球場が実質的な本拠地となった。

1959年2月に球場の運営会社として、株式会社日本生命球場を設立[1]。土地・建物を日本生命から借り受け、球場貸出料と広告料などで運営を賄うことになった。1960年に近鉄球団の名古屋移転が見送りとなり、日生球場は大改修を立案。住民の反対や娯楽分野への設備投資を抑制する閣議決定を受けて一時計画は頓挫したものの、1963年4月に総工費1億2000万円をかけた改修工事が完了した。設備は一新され、新設されたボックス席480席を含む収容人数2万500人となった。近鉄が公式戦と練習をあわせて年間70日使用し、収入面ではプロ野球興行に大きく依存していたが、1973年に近鉄は藤井寺球場にナイター設備を建設して移転すると日本生命に通告した。しかし、周辺住民の反対で藤井寺球場のナイター設備建設が中断したため、引き続き日生球場は近鉄の主催試合に使用された。

1970年代には、プロ野球機構やパ・リーグ事務局が、ナイターの照度が不充分で選手のプレーに支障をきたすことなどを問題視し、一時は球団の本拠地を愛知県中日(ナゴヤ)球場)や三重県など近鉄沿線の中京地区へ移転することも検討された。しかし、既に愛知県を保護地域(フランチャイズ)としている中日ドラゴンズの独占権益が侵される恐れがあることや、ファンの分散化による不利益が生じる可能性など、問題点が多々あったことから本拠地移転が見送られた。1975年に照度アップの工事が行われた。

また、日生球場では、3万人以上収容の球場での開催が義務づけられているオールスターゲーム日本シリーズが開催できないため[2]、1979年、1980年の広島との日本シリーズやプレーオフ[3]の際、近鉄はかつて使用していた大阪球場を南海から借りて開催した。

1984年、藤井寺球場にナイター設備が完成し、近鉄は同年のシーズンから主催試合の大部分を藤井寺球場で開催した。これに伴い、日生球場での試合数は1984年に19試合、以降も年間10試合前後と大幅に減少した。

なお、1977年には関西学生アメリカンフットボール連盟公式戦、関西学院大学ファイターズ京都大学ギャングスターズ戦が行われている(関京戦)。この試合は「涙の日生球場」として語り継がれることになった。同球場でアメリカンフットボールの試合が行われたのはこれが唯一である。

[編集] 幻の南海ホークスの本拠地化

近鉄準本拠地化に伴い試合数が減少した1980年代後半、南海ホークスは当時の本拠地であった大阪球場関西空港開港に伴う難波地区再開発計画の一環として閉鎖・解体することを決定(野球場の機能は1990年に停止。その後は住宅展示場となったが、1998年に完全閉鎖・解体)したため、それに代わる新球場を堺市(有力候補として中百舌鳥球場か、堺大浜球場)に建設する計画があった。

その球場の建設・使用がなされるまで、暫定的に当球場や大阪市南港中央野球場などを本拠地にすることが予定されていたが、1988年11月ダイエーへ球団譲渡・更に福岡県福岡市へ移転したことで実現しなかった。

[編集] 閉鎖、その後

1985年の東京ドーム建設開始以降、ドーム化などの再開発が検討されるも、球場付近には遺跡がある可能性が高く、発掘調査に5年以上の期間が想定された。そのため、日本生命は将来の日生球場のあり方に議論を重ね、1991年3月に球場以外の用途での再開発計画を発表し、1996年10月に1997年シーズン限りで球場を閉鎖することを決定した。施設の老朽化が進み、耐震基準を満たしておらず、加えて維持費もかさみ、更に大阪ドーム舞洲ベースボールスタジアム大阪市南港中央野球場など新しく広い球場が大阪に建設され、47年間の野球場としての使命を完遂したと判断した。

大阪ドームが開場するなどの事情から、プロ野球公式戦は1996年5月9日に行われた近鉄対福岡ダイエーホークス戦(ナイター)が最後の試合となった(その試合後、敗戦したダイエーの選手が乗るバスにダイエーファンから生卵がぶつけられるという事件が発生した)。日本プロ野球における専用球場の指定も1996年限りで抹消された。1997年11月8日に第7回全日本アマチュア野球王座決定戦が開かれ、関西学生リーグを制した近大三菱重工神戸を5-4で破り、この試合が日生球場最後の公式戦となった。同年12月31日に球場は閉鎖され、翌1998年1月31日に株式会社日本生命球場が解散、5月に清算が結了した。

「東の神宮(明治神宮野球場)、西の日生」または「関西アマチュア野球のメッカ」[4]と呼ばれる存在であったことから、閉鎖決定前に各アマチュア連盟に行った調査に対して、各連盟は交通の便がよいことなどを挙げ利用継続を希望した。しかし、学生野球が積極的に利用していた日生球場は閉鎖され、2000年代以降は近隣の阪急西宮球場や藤井寺球場も閉鎖されて、関西の学生野球は球場確保に苦労するようになる。

跡地には現在、分譲マンションのモデルルームやコインパーキングがある。また、日生球場のあった地域の周辺歩道では写真にあるような野球場をモチーフにした舗装パネルが敷かれ、当時の面影を垣間見ることができる。

[編集] 施設

  • スコアボード:パネル式

一時期は、バックスクリーン田辺製薬の「アスパラ」の広告看板が掲示され、本塁打が出た場合にはその電飾が登場する演出もなされていた。またフェンス広告もカラー看板が採用されていた。

観客からは、JR大阪環状線大阪市営地下鉄中央線森ノ宮駅下車すぐという立地条件や、グラウンドとスタンドの距離が近くて見やすいなどの点が評価されていた。しかし、トイレの不潔さは群を抜いていたと言われ、1960年代の後半まで女性用トイレが無かった(1970年太田幸司の入団で、押寄せる女子高生のため設置された)。それ以外の設備も不十分で、また施設の老朽化が著しくなり、選手からも不評だった。

1984年に近鉄でプレーしたマネー内野手は開幕から29試合で8本塁打を放つハイペースで活躍するも、日生球場のロッカーがあまりにも不潔でゴキブリドブネズミが出ることにショックを受け、「こんな汚い球場でプレーしたくない」と不満を爆発させた。更に家族のホームシックや待遇の悪さもあって、程なく帰国した。

[編集] 交通

[編集] 想定される埋蔵文化財

球場のあった森之宮地域は上町台地の北東端に位置し、古代から現代に至るまで交通の要衝として繁栄してきた。球場跡地の北には大阪城があり、西には後期難波宮大極殿跡を中心とする難波宮史跡公園がある。東に隣接するアピオおおさかや森ノ宮ピロティホールの建設による発掘では、西日本有数の貝塚遺構を伴う森の宮遺跡が発見されている。

森の宮遺跡は縄文中期から近世にかけての複合遺跡で、古代の集落の居住地域は貝塚の西の高台部分、要するに現在の球場跡地であった推定されている。難波京において球場跡地や森の宮遺跡を含む一帯は左京三条三坊にあたり、すぐ西側は難波宮であった。江戸時代には大阪城玉造口の与力同心屋敷があり、それ以前も石山本願寺寺内町や豊臣期の大阪城三の丸外郭であったとされている。

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d 参考:関連会社等一覧表 - 1997年4月時点の日生公式サイトで発表された関連会社一覧(インターネットアーカイブ1998年2月5日付保存キャッシュ)。
  2. ^ 本来近鉄主管の順番となるオールスターゲームは、南海に開催権を譲渡して大阪球場で開催した。
  3. ^ ただし、1975年のプレーオフは藤井寺球場で開催。仮に日本シリーズに出場する場合も藤井寺球場を使用する予定だった。
  4. ^ 『アミューズメントBOOK '95 関西版』(1995年、京阪神エルマガジン社発行。ISBN 4874350194

[編集] 関連書籍

  • 白球で綴る半世紀 日本生命球場史
1998年4月、編集・発行:日本生命球場。国立国会図書館の書誌情報

[編集] 関連項目

座標: 北緯34度40分49秒 東経135度31分49秒 / 北緯34.68028度 東経135.53028度 / 34.68028; 135.53028

前本拠地:
大阪球場
1950 - 1957
近鉄バファローズの本拠地
1958 - 1983
次本拠地:
藤井寺球場
1984 - 1996
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