ラグビー
上、ラグビーユニオン: 南アフリカ vs. ニュージーランド 左、ラグビーリーグ: ニュージーランド vs. オーストラリア |
ラグビー(英: rugby)は、イギリスラグビー校発祥のフットボールの一種。現在、ラグビーユニオンとラグビーリーグの2つのスポーツとして主に行われている。
目次 |
[編集] 解説
この競技は、正式にはラグビーフットボール (Rugby football) と呼ばれる。2つのチームに分かれて行われ、楕円形(回転楕円体)のボールを奪い合って相手陣のインゴールまで運ぶ、あるいはH型のゴール上部に蹴り入れて得点を競うスポーツである。
イングランド発の競技ということもあって、ヨーロッパ(イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、フランス、イタリア:イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズはホームユニオンと称される)ばかりでなく、オセアニア(オーストラリア、ニュージーランド、サモア、フィジー、トンガ)および南アフリカ、アルゼンチンで人気の競技である。とりわけ英連邦諸国内ではサッカーやクリケットと並ぶ人気スポーツである。
[編集] 歴史
ラグビーの起源は、「1823年、イングランドの有名なパブリックスクールであるラグビー校でのフットボールの試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスがボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」ことだとされている。
1840年頃にはボールを持って走る「ランニングイン」が確立して普及しだしたのは確かであるが、その第1号がエリス少年だったかどうかは諸説ある。しかし、エリスが最初にボールを持って走ったという証言が記してある文章が、ラグビーの起源を調べる上で最古の文献だということは間違いなく、起源と考案者を探る上で名前がわかっている人物はエリスただ一人である。
なお、当時のフットボールでは、手を使うこと自体はルールとして許されていた。エリス少年がルールを破ったとされるのは、ボールを手で扱ったことでなく、ボールを持って走った行為についてである。 当時はまだ今でいうサッカーも生まれていない。
エリスは1806年にマンチェスター近郊で生まれ、ラグビー校では少なくとも3シーズン、フットボールをプレーしている。オックスフォード大学に進み、卒業した後は牧師となり、病気療養のために渡った南フランスで65歳で没した。南仏コートダジュールの小都市マントンに墓地がある。ラグビーとクリケットを愛したと伝えられている。
ラグビー校ではラグビーのルーツ以外にも多くの習慣が生まれており、イングランド代表の白いジャージの元になった白いシャツとショーツと紺色のストッキング、ハーフタイムにサイドをチェンジする習慣、インターナショナル代表がかぶるキャップ、H型のゴールポスト、楕円球のボールなどラグビーの起源を示すような証拠が多くこの学校から生まれた。
ラグビーの源流である「原始フットボール」は中世イングランドに起源をさかのぼる。数千人の大人数が手と足を使って村と村の対抗戦として原始的な「フットボール」を行っていた。ちなみに1点先取で勝負を決めていたことから、長時間続けるために得点するのを難しくしようとオフサイドが生まれ、今日のラグビーにもルールとして生き永らえている。試合は祝祭でもあり、死者も出るほど激しかった。
19世紀に入り、ラグビー校やイートン校、ハロー校などパブリックスクールでは学校ごとに独自のルールでそれぞれのフットボールを行なっていた。それぞれ学校で違うルールの統一を目指した協議は長らく行われてきたが、1863年10月26日にロンドンのフリーメイソンズ・タバーンでFA(フットボール・アソシエーション)とロンドンにある12のクラブの間で会議が開かれ、12月までに6回のミーティングを持って統一ルールの作成を行った。この統一ルール作成により近代サッカーが本格的に誕生した。このとき、一部のクラブの代表が、ボールを持って走ること、ボールを運んでいる相手にハッキング(すねをけること)、トリッピング(引っ掛けてつまずかせること)およびホールディング(おさえること)を行うことが認められなくなったことに合意できず、FAを脱退した。これがラグビーフットボールとアソシエーションフットボール(サッカー)が分岐した瞬間である。
そして1871年、脱退した者たちによって、サッカーのFA(フットボール・アソシエーション、1863年設立)に対抗して、ロンドンでラグビー協会(RFU:ラグビーフットボール・ユニオン)が設立された。
発祥であるイギリスでは中流階級から上流階級の間でも人気があり、その子息が通う名門校でも盛んに行われていることから「紳士のスポーツ」とも称される。
[編集] ラグビーユニオンとラグビーリーグ
ラグビーは英国でも指折りの炭鉱地帯であるマンチェスターを中心とするイングランド北部のランカスター、ヨークシャー地方ならびにウェールズ南部で発展していった。
しかし1895年、選手の労働会社などへの休業補償問題(現在も兼業しながらプレーする選手が多数だが、当時は今と違ってラグビーにはプロ契約が存在しなかった)がきっかけで、北部でラグビー協会からの分裂が起き、22チームからなるプロリーグが発足した。それ以降、世界にはラグビーという名のスポーツが二つあり、ケンブリッジ大学対オックスフォード大学戦に代表される南部を母体とするアマチュア主義をうたった組織はラグビーユニオン、北部を母体とする報酬を目的とするものはラグビーリーグと呼ばれる。日本でラグビーといえばラグビーユニオンのことである。
分裂した頃はルールは全く同一のものであったが、現在ではユニオンは15人制でリーグは13人制である。ルール上最も異なっている点は、ラグビーリーグがFWの密集(ラック、モール)を排除したことである。
プロ容認のリーグへ転向するユニオンの選手の流失が相次ぎ、リーグに移った選手はユニオンでのプレーを禁止されるなど長らくユニオンとリーグは対立状態にあった。
しかしラグビーワールドカップなどをきっかけに120年以上アマチュア主義を守ってきたユニオンも1995年以降にプロを認めたこともあり、コーチ層での交流(リーグのディフェンスシステムをユニオンに取り入れるなど)などからしだいに対立は緩和。今は選手がユニオンとリーグを行き来することも多い。現在、英国ではラグビーリーグとラグビーユニオンの両方のルールで前後半の試合を行うクロスコード・ゲームが行われることもある。
[編集] ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表
| 年 | 出来事 | ルール |
|---|---|---|
| 〜19世紀 | ||
| 1400- 1800年 |
多くの異なる種類のフットボール(ラグビーの先祖)がブリテン中で行われていた。現代サッカーと異なり、ほとんどのフットボールの試合では手を使うことが許されていた。 | |
| 1830年 | ボールを持って走ることは1830年代にラグビー校で一般的になり、1850年代と1860年代にラグビースクールフットボールは連合王国中で人気となった。 | |
| 1863年 | ザ・フットボール・アソシエーション (FA) が結成され、FAとラグビーフットボールの間の分裂が正式なものとなった。 | |
| 1864年 | 初のラグビークラブがリーズとハダーズフィールドで結成され、その後1870年代と1880年代にはカンバーランド、ランカシャー、ヨークシャーで何百ものクラブが作られた。 | |
| 1871年 | ラグビー・フットボール・ユニオン(ラグビーフットボール協会、RFU)が創設され、ポールモールレストランで21クラブによる会合が開かれた。 | |
| 1871年 | 確認されている初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われた。 | |
| 1876年 | マシュー・ブロクサムの書簡がザ・ミーティアに掲載された。この書簡ではラグビー校の生徒のウィリアム・ウェブ・エリスがボールを拾い上げたことがラグビーの発祥であると主張されている。1895年のラグビー協会の調査では証拠はないとされたが、この神話を不朽のものとすることが決定された。 | |
| 1876年 | ヨークシャーカップがヨークシャーのラグビークラブによって始まった。この大会はFAカップ決勝よりも多くの観客を集めた。 | |
| 1877年 | 選手数が1チーム20人から15人に減少した。 | |
| 1883年 | 初のホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの間で行われた。 | |
| 1886年 | 大部分が労働者階級で構成される北部クラブの高まる優越性を危惧して、南部が主体のラグビーフットボール協会は厳格なアマチュアルールを導入した。 | |
| 1888年 | 1888年と1889年に、ニュージーランド先住民フットボールチームがブリテン、オーストラリア、ニュージーランド遠征を行った。 | |
| 1890年 | 1890/91シーズンから現代の得点システムがホーム・ネイションズによって一様に承認された。 | |
| 1892年 | ブラッドフォードとリーズのラグビーフットボールクラブが選手の休業保障を行ったことによって、プロフェッショナリズムの非難が向けられた。しかしイングランドラグビー協会 (RFU) 自身も、1888年ブリテン諸島代表のオーストラリア遠征や、1904年にイングランドと対戦したニューサウスウェールズのHarry Hamillに対する支払いを認めている。 | |
| 1893年 | ヨークシャーのクラブは選手の休業保障として6シリングを支払うことを提案したが、RFUはこの提案を否決した。これによって北部のクラブおよび選手による試合の中止が広がっていった。 | |
| 1895年 | ラグビーフットボール界の分裂の結果、ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン (NRFU) が結成された。この分裂には、労働者階級の北部チームの成功や、入場料を徴収した競技場でのラグビー試合のRFUによる禁止命令、クラブがアマチュアリズムを受け入れなかった場合のRFUからの除籍に対する恐れ、選手が仕事を休んでラグビーの試合に出場した際の休業保障の開始など多くの要素が作用している。同じような動きは他の国々でも存在した。22のクラブがハダーズフィールドのジョージホテルで会合を開きNRFUが結成された。ハダーズフィールドでの初会合から15年以内に、200以上のクラブがRFUを脱退しNRFUに加入した。 | リーグ・ ユニオン |
| 1896年 | ミニングハムが初のノーザン・ユニオン・チャンピオンシップで優勝した。ミニングハムは1903年にアソシエーションフットボール(サッカー)に転向し、ブラッドフォード・シティとなった。 | リーグ |
| 1897年 | 試合をより興奮するものにするため、ノーザン・ユニオンはラインアウトを廃止し、全てのゴールの得点を2点に減らした。ラインアウトはタッチラインからのパントに変更された。トライは3点を与えられた。 | リーグ |
| 1897年 | チャンレジカップが創設され、開始から成功を収めた。バトリー (Batley) がセントヘレンズ (Saint Helens) を10対3で破り、初の勝者となった。 | リーグ |
| 1898年 | ノーザン・ユニオンにプロフェッショナリズムが導入された。このプロフェッショナリズムは厳密にパートタイムであり、選手は他の「きちんとした」仕事を持っていることが義務付けられた。 | リーグ |
| 1900年 | ラグビーユニオンが1900年の夏季パリオリンピックに採用された。これは1924年のパリオリンピックに終了した。 | ユニオン |
| 20世紀前半 | ||
| 1901年 | ラグビーリーグのラインアウトに代わるパントアウトの導入実験がわずか4年で終了した。現在はボールがアウト・オブ・プレーになるとスクラムでリスタートされる。 | リーグ |
| 1904年 | ラグビーリーグの初の国際試合がウィガンで行われ、イングランドが他国合同チームに3対9で敗れた。 | リーグ |
| 1905年 | ウェールズが初遠征を行ったラグビーユニオンのニュージーランド代表にかろうじて勝利した。この試合は「世紀の試合」と呼ばれた。 | ユニオン |
| 1906年 | イングランドは(スプリングボクスとして知られる)南アフリカとラグビーユニオンの試合を初めて行った。南アフリカが黒人選手がプレーすることに抗議した後、ジェームス・ピータースがイングランドチームから外された。 | ユニオン |
| 1906年 | ジェームス・ピータースはイングランド代表としてスコットランドと戦い、初の黒人ラグビー選手となった。 | ユニオン |
| 1906年 | ラグビーリーグにおいて、よりクリテイティブなプレーのためのスペースを与えるために選手数が15人から13人に減らされた。タックル後の試合再開の形としてプレー・ザ・ボールの初期の形が導入された。 | リーグ |
| 1907年 | ラグビーリーグがオーストラリアおよびニュージーランドに広まっていった。ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグがシドニーのBateman'sホテルで創設された。ニューサウスウェールズ・ラグビー・リーグは故障した選手に対する保障問題でオーストラリアン・ラグビー・ユニオンと喧嘩した後に、8チームで開始した。初優勝はサウス・シドニーが果たした。ラグビーリーグはニューサウスウェールズ州とクイーンズランド州での主要なフットボール競技としてラグビーユニオンに取って代わっていった。 | リーグ |
| 1907年 | ニュージーランドラグビーリーグチームがブリテンへ遠征を行った。ニュージーランドの郵便局員アルバート・ヘンリー・バスカヴィルによって組織されたニュージーランド遠征チームは、彼らのオープン・プロフェッショナリズムのために母国のメディアに「オール・ゴールズ (All Golds)」との汚名を着せられた。彼らはシドニーとブリテンではラグビーユニオンのルールで試合を行い、オーストラリアの偉大な選手であるダリ・メッセンジャーに遠征に加わるよう説得した。彼らは初のテストマッチに2対1で勝利したが、バスカヴィルは帰国中に肺炎のため25歳で死去した。 | リーグ |
| 1908年 | 初のオーストラリアカンガルーズ遠征チームがブリテンを訪れた。ハンスレットは、チャンピオンシップ、チャレンジカップ、ヨークシャーカップ、ヨークシャーリーグの4つのトロフィー全てを手にした初のクラブとなった。ハンスレットはラグビーリーグ初期の主要な選手であるアルバート・ゴールドソープに率いられた。 | リーグ |
| 1910年 | ラグビーユニオンのホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがフランスの参加によりファイブ・ネイションズ・チャンピオンシップとなった。 | ユニオン |
| 1910年 | 初のノーザン・ユニオンのブリティッシュ・ライオンズによる遠征がオーストラリアおよびニュージーランドへ行われ、シドニーとブリスベンで行われたテストマッチに勝利した。 | リーグ |
| 1912年 | ラグビーユニオン南アフリカ代表がブリテン諸島およびフランスに遠征した。遠征チームはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、フランスのヨーロッパ5チーム全ての勝利する「グランドスラム」を達成した。 | ユニオン |
| 1914年 | ハダーズフィールドのアルバート・ローゼンフェルドが1シーズン100トライを記録した。ブリテン代表遠征チームはテストマッチ3連戦の最終戦でオーストラリアに14対6で勝利し、The Ashesを勝ち取った。最後までこの試合に残っていたのはわずか10人であり(選手交代は認められていなかった)、ロークス・ドリフトのテストマッチとして知られるようになった。 | リーグ |
| 1922年 | ノーザン・ユニオンはラグビー・フットボール・リーグと改名した。この組織名がオーストラリアにおけるこのスポーツの名称としても以後使用されるようになった。 | リーグ |
| 1925年 | ラグビーユニオンのオールブラックスのブリテン、フランス、カナダ遠征が行われた。ニュージーランド人達は遠征中無敗を誇り、「The Invincibles(無敵)」の称号を得た。 | ユニオン |
| 1929年 | 初のラグビー・リーグ・チャレンジ・カップ決勝がウェンブリーで行われた。41,500人の観衆の前でウィガンがデューズベリーに13対2で勝利した。 | リーグ |
| 1930年 | ファイブ・ネイションズとは別にラグビーユニオンヨーロピアンカップが始まった。この大会は第二次世界大戦で中断された。 | ユニオン |
| 1930年 | ラグビーリーグのブリテン代表とオーストラリア代表のテストマッチ第3戦が0対0の引き分けに終わった後、前例のない第4戦がロッチデールで行われた。ブリテン代表は3対0で勝利しThe Ashesを手にした。 | ユニオン |
| 1932年 | 夜間照明の下で初のラグビーリーグの試合が開催された。 | リーグ |
| 1933年 | 大晦日、フランスにおける初のラグビーリーグの試合が、イングランドとオーストラリアの間で行われた。フランスはプロフェッショナリズムの申し立ての真っ只中にありラグビーユニオンのファイブ・ネイションズから除外されていたことから、新しいスポーツを受け入れようとしていた。 | リーグ |
| 1934年 | 元ラグビーユニオン代表のジャン・ガリアによってフランスでラグビーリーグが設立された。1939年までにフランスリーグには225クラブが所属した。 | リーグ |
| 1934年 | フランスはパリで初めての国際試合を行いイングランドに32対21で敗れた。ソルフォードはフランス遠征を行い、‘Les Diables Rouges’(赤い悪魔)のニックネームを得た。 | リーグ |
| 1941年 | フランスヴィシー政府は敵国との繋り(フランスはドイツおよびイタリアの占領下にあった)を理由にラグビーリーグを禁止した。ラグビーリーグの資金および資産は全て没収されるかラグビーユニオンのクラブに渡った。ラグビーユニオンは無傷であり、ラグビーリーグに奪われた競技場のほとんどを取り返した。今でもラグビーリーグのクラブの資産は彼らに返還されていない。 | リーグ・ユニオン |
| 1943年 | ノーザン・コマンド陸軍ラグビーリーグチームとノーザン・コマンド陸軍ラグビーユニオンチームはヘディングリーでラグビーユニオンルールで戦い、ラグビーリーグ側が18対11で勝利した。次の年は三軍統合ラグビリーグチームが三軍統合ラグビーユニオンチームを15対10で破った。これらは、1996年に交流が再開されるまで、唯一のリーグ対ユニオンの試合であった。 | リーグ・ユニオン |
| 1944年 | ヴィシー政権の崩壊により、フランスにおけるラグビーリーグの禁止令が解除された。 | リーグ |
| 1945年 | ブライアン・ビーヴァンがウォリントンでラグビーリーグデビューを果たした。16年間に渡って、ビーヴァンはウォリントンで620試合に出場し740トライを上げた。キャリア通算トライ数は796。しかし、故郷のオーストラリア代表としてプレーすることはなかった。 | リーグ |
| 1946年 | ランス・トッド・トロフィーがチェンレジカップ決勝のマン・オブ・ザ・マッチに初めて手渡された。ウェイクフィールド・トリニティー・ワイルドキャッツのビリー・ストットが初の受賞者となった。1942年に交通事故で死亡したランス・トッドは1907年ニュージーランド代表遠征チームの一員であり、ソルフォードを1928年から1940年まで指揮した。 | リーグ |
| 1946年 | この年は史上最も有名なラグビーリーグ遠征が行われた。ライオンズはHMSインドミタブルでオーストラリアへ航海した。オーストラリアを横断する5日間の旅で、ガス・リスマンに率いられたチームはテストマッチを2勝1引き分けで終えThe Ashesを保持した。 | リーグ |
| 1949年 | フランスラグビーリーグは名称への「ラグビー」の使用を禁止され、Jeu à Treize(Game of Thirteen)へと改称した。 | リーグ |
| 1950年 | トリノからのイタリアチームがイングランド北部へと遠征した。イタリアは後に国内大会やオーストラリアとの試合を行ったが、この活動は1962年に途絶えた。 | リーグ |
| 20世紀後半 | ||
| 1951年 | 南米ラグビーチャンピオンシップが開始した。 | ユニオン |
| 1951年 | 南アフリカラグビーユニオン代表がブリテン諸島およびフランスへ遠征した。南アフリカは二度目のファイブ・ネイション・グランドスラムを達成した。 | ユニオン |
| 1951年 | 活動を終えてからちょうど10年後、フランスはオーストラリアでの初のラグビーリーグシリーズに勝利した。フランスは1955年にも再び勝利を収めた。 | リーグ |
| 1951年 | ラグビーリーグのセク・トンプソンはあらゆるスポーツの中で初のグレートブリテン代表の黒人選手となった。 | リーグ |
| 1952年 | ラグビーユニオンのヨーロピアンカップが再開した。 | ユニオン |
| 1953年 | 英国陸軍通信部隊で兵役を果たしていたウェールズ人の若者、ビリー・ボストンがウィガンでデビューした。彼はイギリスの最多トライ数の記録を持っており、全世界ではビーヴァンに次いで第2位である。 | リーグ |
| 1954年 | イングランドブラッドフォードOdsalスタジアムで行われた1953-54 ラグビーリーグチャレンジカップ決勝は102,569の観衆を集め、ラグビーユニオン・ラグビーリーグを含むラグビーフットボールの試合の新記録を打ち立てた。 | リーグ |
| 1954年 | 初のラグビーリーグ・ワールドカップ(ユニオンも含めて初)がフランスで開催された。パリ、パルク・デ・プランスで行われた決勝では、グレートブリテン代表がフランス代表を16対12で破り優勝した。 | リーグ |
| 1956年 | スプリングボクスがニュージーランドに遠征した。南アフリカはニュージーランドに対して遠征で初めての敗戦を喫した。 | ユニオン |
| 1957年 | オーストラリアがラグビーリーグ・ワールドカップ第2回大会で優勝した。 | リーグ |
| 1958年 | ラグビーリーグテストマッチ第2試合でグレートブリテン代表はオーストラリア代表に25対18で勝利した。この試合では健康なグレートブリテン代表はピッチに8人しかいなかった。アラン・プレスコットは腕を骨折しながら77分間プレーした。 | リーグ |
| 1960年 | グレートブリテンが第3回ラグビーリーグ・ワールドカップで優勝した。 | リーグ |
| 1964年 | ラグビーリーグで初めて選手交代が認められたが、ハーフタイム前に負傷した選手に限られていた。 | リーグ |
| 1966年 | 国際ラグビーリーグ委員会は、ボールを保持したチームには3度のプレー・ザ・ボールズが認められ、4度目のタックルでスクラムが組まれるルールを導入した。次の年に南半球はこのルールを採用した。1972年には6度の攻撃権が認められるようになり、1983年にスクラムはボールの引き渡しに変更された。 | リーグ |
| 1967年 | プロラグビーリーグは減少する観客を呼び戻す試みで、他のスポーツに先駆けて主な試合日を日曜日とした。 | リーグ |
| 1968年 | ‘Watersplash’(浅瀬)チャレンジカップ決勝が、豪雨がピッチを満たしていたにもかかわらず行われた。この試合は最もドラマティックな幕切れとなった。ウェイクフィールドのドン・フォックスが逆転のためのゴール近くからの簡単なコンバージョンを試みたが失敗し、リーズが11対10で勝者となった。 | リーグ |
| 1968年 | ラグビーユニオンで選手交代が初めて認められた(負傷選手のみ)。 | ユニオン |
| 1969年 | スクリングボクスがブリテンとアイルランドに遠征した。この遠征はアパルトヘイトに対する抗議を受け、以後南アフリカはアパルトヘイト廃止までヨーロッパ遠征を行わなかった。 | ユニオン |
| 1969年 | ラグビーリーグはイギリスの大学のスポーツとしてついに認められていった。 | リーグ |
| 1970年 | グレートブリテン代表はオーストラリアとのテストマッチの後半2戦に勝利しThe Ashesを得た。 | リーグ |
| 1970年 | イングランドで開催されたラグビーリーグ・ワールドカップは少ない観客しか集めることができなかった。オーストラリアが優勝した。 | リーグ |
| 1971年 | ニュージーランドがブリテンでのラグビーリーグシリーズで初めて勝利した。 | リーグ |
| 1971年 | ラグビーユニオンのライオンズがオーストラリアとニュージーランドに遠征した。このライオンズはニュージーランドでのテストシリーズで勝利した唯一のチームである。 | ユニオン |
| 1971年 | スプリングボクスのオーストラリア遠征は抗議活動を受けた。 | ユニオン |
| 1972年 | タイムキーパーとサイレンがラグビーリーグに初めて導入された。 | リーグ |
| 1972年 | グレートブリテンがフランス・ラグビーリーグ・ワールドカップで再び優勝した。 | リーグ |
| 1973年 | バーバリアンズがカーディフ・アームズ・パークでオールブラックスを破った。 | ユニオン |
| 1973年 | 多くのアマチュアリーグ・クラブが消滅していることに対するRFLの軽視に抗議して、草の根レベルでラグビーリーグを運営するためブリティッシュ・アマチュア・ラグビーリーグ・アソシエーション(イギリスアマチュアラグビーリーグ連合)が設立された。両者の再統一には30年を要した。 | リーグ |
| 1974年 | ラグビーユニオンのライオンズが南アフリカに遠征した。99コールが悪名高い遠征である。 | ユニオン |
| 1974年 | ラグビーリーグのドロップゴールによる得点が2点から1点に減点された。 | リーグ |
| 1974年 | パプアニューギニアのラグビーユニオン国際連盟への加入が認められた | ユニオン |
| 1975年 | ウェールズとイングランドが別々のチームでラグビーリーグ・ワールドカップに参加し、両半球で数カ月に渡ってプレーした。オーストラリアがイングランドに1ポイントリードしトロフィーを手にした。 | リーグ |
| 1976年 | ラグビーユニオンニュージーランド代表(オールブラックス)が南アフリカに遠征した。南アフリカとスポーツで交流することを禁じた国際オリンピック委員会 (IOC) の決定に反抗したニュージーランドの1976年夏季モントリオールオリンピックからの追放をIOCが拒否したことから、28の国(アフリカのほとんどの国)がモントリオールオリンピックをボイコットした。 | ユニオン |
| 1978年 | ラグビーユニオンニュージーランド代表がブリテンおよびアイルランドに遠征した。ニュージーランドはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズを破り初めてグランドスラムを達成した。 | ユニオン |
| 1980年 | ロンドンにラグビーリーグクラブ、フルハムが再結成された。9,500人以上の観客が初試合に訪れ、ウィガンに勝利した。フルハムは初シーズンの終りに昇格し、昇格や降格、ホームの移転を経て、現在もロンドン・ブロンコスとして存続している。 | リーグ |
| 1980年 | オーストラリアで出身州別のラグビーリーグチームが対戦する形式(クイーンズランド出身の選手とサウスウェールズ出身の選手が相対する)が作られた。‘State against state; mate against mate’である。1982年から、3試合シリーズとして行われており、世界最強・最も厳しいラグビーと認識されている。 | リーグ |
| 1981年 | オーストラリアでラグビーリーグに「シン・ビン」が導入された。 | リーグ |
| 1981年 | スプリグボクスがニュージーランドに遠征した。 | ユニオン |
| 1981年 | 国際ラグビー評議会によってアパルトヘイト政策を廃止するまで南アフリカのラグビーユニオン国際大会への参加が禁止された。 | ユニオン |
| 1982年 | トンガ、フィジー、サモアによるラグビーユニオンのパシフィック・トライネイションズ開催 | ユニオン |
| 1982年 | ラグビーリーグオーストラリアチームの遠征において初めて全試合に勝利し、「The Invincibles(無敵)」として知られるようになった。 | リーグ |
| 1983年 | ラグビーリーグのトライが4点に加点された。6度目のタックルによるポゼッション移行の導入やスクラムの下図を劇的に減少させたことで、試合の性格は大きく変化した。退場に値しない反則に対してシン・ビン(一時的な退場)が導入された。 | リーグ |
| 1983年 | ラグビーリーグの他国リーグ間の移籍が解禁された。 | リーグ |
| 1984年 | オーストラリアラグビーユニオンチームのブリテンおよびアイルランド遠征。オーストラリアはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズを破り初めてグランドスラムを達成した。 | ユニオン |
| 1987年 | ニュージーランドとオーストラリアで開催された初のラグビーユニオンワールドカップでニュージーランドがフランスを29対9で破り優勝した。 | ユニオン |
| 1987年 | アマチュアレベルにおける2つのルール間の「自由通路」が導入されたが、個々の場合の区別は継続した。 | ユニオン・ リーグ |
| 1987年 | RFUはラグビーユニオンに108のリーグのおよそ1000クラブが参加する昇格・降格ありのピラミッド型カリッジ・リーグ(the Courage Leagues)を導入した。 | ユニオン |
| 1988年 | ラグビーリーグのウィガンがハリファックスRLFCを32対12で破り、チャレンジカップ8連覇のスタートを切った。エレリー・ハンリー、アンディー・グレゴリー、ショーン・エドワーズといった選手を擁した現代的なタレント揃いのチームは10年間リーグを支配し、この期間に3度ワールドカップで優勝した。 | リーグ |
| 1989年 | 初の公式ワールドクラブチャレンジでウィドネス・バイキングスがキャンベラ・レイダースを30対18で破った。 | リーグ |
| 1990年 | ロシアでラグビーリーグが始まった。ロシアは2000年ワールドカップに出場し、クラブもチャレンジカップに出場した。 | リーグ |
| 1990年 | ラグビーリーグにブラッド・ビン(Blood-bin)が導入された。 | リーグ |
| 1990年 | フランスのラグビーリーグの名称への「ラグビー」の使用禁止が解除された。これいによって名称はRugby à Treizeへと戻った。 | リーグ |
| 1991年 | ブリテン諸島とフランスで開催された第2回ラグビーユニオンワールドカップ決勝(ロンドン、トゥイッケナム)でオーストラリアがイングランドを12対6で破った。 | ユニオン |
| 1992年 | アパルトヘイトの廃止によりスプリングボクスが国際ラグビーユニオン界に復帰した。 | ユニオン |
| 1992年 | ウェンブリー・スタジアムで行われたラグビーリーグワールドカップ決勝は73,631人の観衆を集め、オーストラリアがグレートブリテンを10対6で破った。 | リーグ |
| 1992年 | マーティン・オファイアが世界記録の440,000ポンドの移籍金によりウィドネスからウィガンへ移籍した。 | リーグ |
| 1993年 | アメリカ合衆国は初のラグビーリーグ国際試合でカナダを54対14で破った。 | リーグ |
| 1994年 | デイヴィッド・ヒンチリフ議員はラグビーユニオン側のラグビーリーグのアマチュア選手に対する差別を禁止する法案を提出した[1]。 | ユニオン・ リーグ |
| 1994年 | イギリスの三軍はラグビーリーグをスポーツであると認めた。ラグビーリーグは軍において他のスポーツと同じ立場を得た。 | リーグ |
| 1995年 | 国際ラグビー評議会はラグビーユニオンが「オープン」プロフェッショナルスポーツであると宣言した。これによって、試合に関係する全ての支払いや手当の制限が撤廃された。 | ユニオン |
| 1995年 | 南アフリカで開催された第3回ラグビーユニオンワールドカップにおいて、ヨハネスブルクエリス・パークで行われた決勝で、延長戦の末に南アフリカがニュージーランドを15対12で破った。 | ユニオン |
| 1995年 | ブリテンでワールドカップが復活し、ラグビーリーグ百周年が祝われた。ウェンブリーで行われた決勝でオーストラリアがイングランドに16対8で勝利した。フィジー、トンガ、南アフリカ、西サモアは本大会に出場したが、アイルランド、スコットランド、アメリカ合衆国、ロシア、クック諸島、モルドヴァ、モロッコはラグビーリーグ新興国トーナメントに参加した。 | リーグ |
| 1995年 | ラグビーユニオンのヨーロッパ12クラブによって争われるハイネケン・カップが作られた。 | ユニオン |
| 1995年 | オーストラリアにおけるテレビ放映権に関する紛争の一部として、イギリスのRFLはニューズ・コーポレーションからラグビーリーグのスーパーリーグを新設する87百万ポンドのオファーを受けた。リーグ側は夏シーズン制に移行することを承諾し、パリ・ザンジェルマン・ラグビーリーグがイギリスのトップクラブに加わり14チームが参加した。 | リーグ |
| 1996年 | RFLはラグビーリーグのスーパーリーグにビデオ判定を導入した。 | リーグ |
| 1996年 | オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの間で争われるラグビーユニオンのトライ・ネイションズが始まった。 | ユニオン |
| 1996年 | イングランドのユニオンおよびリーグのそれぞれトップクラブであるバース・ラグビーとウィガンRLFCが、それぞれのルールで試合を行うという歴史を作った。最初の試合はマンチェスター、メイン・ロードにおいてリーグルールで行われウィガンがバスに82対6で勝利した。2週間後、リターンマッチがトゥイッケナムにおいてユニオンルールで行われ、バスがウィガンに44対19で勝利した。 | リーグ・ ユニオン |
| 1998年 | オーストラリアにおいて、スーパーリーグ戦争が終わりを迎え、ニューズ・インターナショナルとオーストラリアン・ラグビーリーグは彼らの大会を融合させてナショナルラグビーリーグを作ることで合意した。 | リーグ |
| 1998年 | コモンウェルスゲームズおよびアジア競技大会においてラグビーセブンズ競技が始まった。 | ユニオン |
| 1999年 | IRBセブンズワールドシリーズが始まった。 | ユニオン |
| 1999年 | ウェールズで開催された第4回ラグビーユニオンワールドカップ、カーディフミレニアム・スタジアムで行われた決勝でオーストラリアがフランスを35対12で下した。 | ユニオン |
| 2000年 | IRBは南半球のスーパー12で試みた後、国際ラグビーユニオンに「シン・ビン」と「テレビジョン・マッチ・オフィシャル」(TMO) を導入した。 | ユニオン |
| 2000年 | ラグビーユニオンのカリッジリーグはチューリッヒ・プレミアシップとなった。 | ユニオン |
| 2000年 | ラグビーユニオンのファイブ・ネイションズはイタリアの参加によりシックス・ネイションズ・チャンピオンシップとなった。 | ユニオン |
| 2000年 | スタジアムオーストラリアの世界記録109,874人の観衆の前で、ニュージーランドはオーストラリアをかろうじて破った。 | ユニオン |
| 21世紀 | ||
| 2001年 | ラグビーユニオンのライオンズによるオーストラリア遠征が行われた。ワラビーズはライオンズに初めて勝利した。 | ユニオン |
| 2003年 | ラグビーユニオンのチャーチルカップがカナダ、アメリカ合衆国、イングランドサクソンズ(イングランドA代表)と招待国1チーム(後に3チーム)によって始まった。 | ユニオン |
| 2003年 | オーストラリアで開催された第5回ラグビーユニオンワールドカップ、シドニー、スタジアム・オーストラリアで行われた決勝で、イングランドは延長戦の末にオーストラリアを20対16で破った。 | ユニオン |
| 2003年 | ラグビーリーグのヨーロッパ全土への振興のために欧州ラグビーリーグ連盟 (RLEF) が作られた。 | リーグ |
| 2006年 | フランスのチームカタラン・ドラゴンズにラグビーリーグのスーパーリーグライセンスを与えられた | リーグ |
| 2007年 | フランス、スコットランドおよびウェールズで開催された第6回ラグビーユニオンワールドカップ決勝、スタッド・ド・フランスにおいて、南アフリカがイングランドを15対6で破った。 | ユニオン |
| 2008年 | ラグビーリーグは悲惨な2000年大会以来初めてワールドカップを開催した。 | リーグ |
| 2011年 | ニュージーランドで開催された第7回ラグビーユニオンワールドカップ決勝、オークランド、イーデン・パークにおいて、ニュージーランドがフランスを8対7で破った。 | ユニオン |
| 2011年 | 14チームが2013ラグビーリーグワールドカップの出場権を得た: オーストラリア、イングランド、ニュージーランド、サモア、ウェールズ、フィジー、フランス、パプアニューギニア、アイルランド、スコットランド、トンガ、クック諸島、イタリア、アメリカ合衆国。 | リーグ |
[編集] 日本におけるラグビー
「日本のラグビーユニオン」も参照
日本で「ラグビー」といわれるものは主にラグビーユニオンであり、1899年、慶應義塾大学の塾生に田中銀之助がイギリス人の英語教師エドワード・B・クラークとともに伝えたのが最初だと言われる。
かつて日本ではラ式蹴球(しゅうきゅう)とも呼んでいたが、サッカー(ア式蹴球)と混同されるため、ラグビーと呼ぶ言い方が定着した(早稲田大学ラグビー蹴球部は「ラ式蹴球部」と称していた[2]。単に「蹴球」と呼ぶ場合、昔はラグビーを指したが、サッカー人気が定着してからはサッカーを指す様になった。日本式呼称は闘球(とうきゅう)。
以来、日本のラグビーは慶應義塾大学、同志社大学、早稲田大学、明治大学などの大学ラグビーの伝統校が戦前から定期戦を行い発展してきた。近年では関東学院大学など新興勢力が伝統校に肩を並べている。また、(大学スポーツ全体に言えることであるが)関東の大学が他地域の大学を戦力の質・量、実績共に圧倒している。
もっとも、ラグビーは元々九州で盛んで全国社会人ラグビーフットボール大会の初期の優勝チームは九州勢が続いたという歴史もあり、高校ラグビーでは西日本の高校が優勢であり、西日本の高校出身の選手も多く出場している。
日本選手権での対戦成績を見ても実力では社会人が大学に大きく水をあけているにもかかわらず、社会人ラグビーのトップクラス同士の集客力は大学ラグビーの人気カード(早明戦、早慶戦など)に及ばず、日本ラグビー界の大きな課題となっている。2003年開始のトップリーグの創設はこれらの問題を解決する切り札として期待されている。
日本代表はワールドカップには1987年の第1回大会から途切れなく出場を続けているが、本大会では1991年にジンバブエに勝ったのが唯一の勝ち星で、国際ラグビー評議会 (IRB) がプロを認めた1995年にはオールブラックス(ニュージーランド代表)に17‐145の大敗を喫している。また2007年のフランス大会ではオーストラリア代表ワラビーズに3-91という大差で負けており、世界のトップクラスの国々とはまだ大きな開きがあるというのが現実である。なお、第3回大会のオールブラックス戦での大敗を機にラグビー人気は下火になり、それまで地上波で放送されていた国内の好カードも、CS放送でしか見られなくなったと指摘する声がある[3]。
ラグビーユニオンによる規則では、アマチュア競技であることが永らく定められてきたが、1995年にこの「アマチュア宣言」が撤廃され、プロもアマも認める「オープン化」が宣言された。
- 高校の部活動における死亡事故
10万人あたりの死亡事故確率は4.030人(柔道 3.417人、野球 0.961人)、2000年から2009年にかけて計12名が死亡[4]。但し後遺症が残る障害事故は含まず。
[編集] ルール(ラグビーユニオン)
相手陣地のゴール領域(これをインゴールという)でボールを地面に置くことをトライ (TRY) と呼び、ゴールラインの上空、線上に建てられた2本の柱の間のクロスバーより上にボールを蹴り入れることをゴールと呼ぶ。プレー中にドロップキックしてのゴールをドロップゴール、相手の反則の際に与えられるペナルティーキックでのゴールをペナルティーゴールと呼び、また、トライに成功したチームにはゴールの機会が与えられ、これをコンバージョンと呼ぶ。それぞれの得点は、トライが5点、ペナルティーゴール及びドロップゴールが3点、コンバージョンによるゴールが2点である。
選手は、ボールを持ち、走り、投げ、蹴ることができるが、ボールを前方に落としたり(ノックオン knock on)前方に投げたり(スローフォワード throw forward)してはいけない。つまり攻撃側は、『ボールを持っているプレーヤーが、自チームの15名の先頭にいなければならない(ボールを持たないプレーヤーがボールを持っているプレイヤーよりも前にいる場合、そのプレーヤーはオフサイドの位置にいるのでプレーに参加できない)。』のである。守備側は、ボールを持った選手のみに対して、タックルをすることができ、これによって倒された攻撃側の選手は、ボールを素早く手放さなければならない。これを行わないと、ノット・リリース・ザ・ボールという反則になる。
タックルによって選手の動きが止まることで、後に続く攻撃側、守備側双方の選手らが集まり密集が形成されるが、その中の選手がボールを持っている状態をモール、ボールが地面にある状態をラックと呼ぶ。この他に審判の指図で意図的に形成される整然としたスクラム scrummage と呼ばれる密集状態があり、スクラム及びラックの中では、ボールの操作は足でのみ許されている。スクラムは、審判の「クラウチ」→「タッチ」→「ポーズ」、そして「エンゲージ」の合図で両チームのフォワード(前衛)同士が円陣を組むように組み合い、スクラムハーフがボールをスクラム内に投入し、攻撃側、守備側双方のフッカーがこれを取り合う。ただし、ゴールラインが近い場合にはスクラム内にボールをキープしたままインゴールに押し込んでしまう場合がある。この場合はスクラム・トライというトライになる。
ラグビーでは常に危険が付き纏うため、反則が事細かに規定されているが、反則があっても必ずしも競技が即中断されるとは限らず、反則を犯したチームに不利な展開が続く限り猶予される場合があり、アドバンテージ(を見る)といわれる。この時、主審は有利なチームに向けて水平に腕をあげている。
反則からの再開には、スクラムによるものとペナルティーキック等によるものとがあり、反則の種類によっていずれで再開されるかが定められている。比較的軽い反則からはスクラムで再開し、重い反則からはペナルティーキックから再開される(フリーキックもある)。1チーム15人で競われる(重大な反則を犯したときは、イエローカードを提示されるシンビンとよばれる10分間の一時的退出やレッドカードを提示される退場もあるので、その場合は14人以下になる)。大学生以上の場合、試合時間は前後半あわせて80分であり、ハーフタイムは10分以内である。
ボールがタッチラインから外に出るとラインアウトという方法で再開する。出た地点からゴールラインと平行に引かれた仮想線(これをラインオブタッチという)の両側に両チームのフォワードが並び、出た地点から出したチームの相手側(ペナルティキックの場合出したチーム)の選手がラインオブタッチ上にまっすぐに投げ(まっすぐでないときはノットストレートという反則になる)、それを両チームが取り合う。
近年のラインアウトは、ルール変更もあり、人を持ち上げて、より高いところでボールを取ろうとするのが普通である。ただし、反則によるペナルティーキックで直接外に出した場合は出したほうが投げる。ところが、タッチラインの外でボールを投げ入れる側がボールを直接捕ったとき、フォワードが並ばないうちにボールを投げ入れてしまうことがある。これをクイック・スローインといい、戦術の一つとなっている。ただし、どちらか片方のフォワードが並んでいた場合は当然反則である。
ラグビーではしばしばゲインラインという用語が使われる。ゲインラインは攻撃の有効性をはかる指標のひとつであり、直前の攻撃の結果できたポイント(スクラム、モール、ラック等の地点)を通りゴールラインに平行な線がゲインラインとなる。ゲインラインからどれだけ前進(後退)するかは、その攻撃でどれだけ自分たちの地域を獲得できたか(できなかったか)を意味し、すなわち、得点できる(される)かのキーポイントとなる。ラインアウトの場合はラインオブタッチが、スクラム、モール、ラックの場合はその中心線がゲインラインとなる。
試合時間は前半・後半各40分の計80分だが、終了時刻を過ぎてもプレーが途切れるまで試合は継続される。ペナルティキックやフリーキックでも試合は継続される。ラグビーでは、試合終了のことを「ゲームセット」ではなく「ノーサイド」と呼ぶ。戦い終えたら両軍のサイドが無くなって同じ仲間だという精神に由来する言葉である。 計時方法はサッカーと同じロスタイム制度が多く使われるが、重要な大会ではタイムキーパー制度が使われる。これは、負傷者の手当や選手への指導など、審判が必要と認めたときに計時を止める方式である。そのため、40分を経過した時点でホーンが鳴り、時間が来たことを知らせる。基本的にプレーが止まると終了だが、後半の場合、リードしている側が反則を犯した場合、試合は継続する。そのため、リードしている側はボールを外にけり出して試合を終了させる。
[編集] ラグビーのポジション(ラグビーユニオン)
詳細は「ラグビーのポジション」を参照
ポジションは、大きくフォワードとバックスに分かれており、それぞれ次の様に呼ばれる。フォワードの8人は、スクラムを構成する。
- フォワード (FW)
- (最前列)3人 - フッカー (HO)(2) と、左右のプロップ (PR)(1, 3)
- (第二列)2人 - 左右のロック (LO)(4, 5) 海外ではSRと書きセカンドローと呼ばれる
- (第三列)3人 - ナンバー・エイト (NO8)(8) と、左右のフランカー (FL)(6, 7)
- バックス (BK)
- ハーフバック (HB) 2人 - スクラムハーフ (SH)(9) と、スタンドオフ (SO)(10)海外ではFHと書きフライハーフと呼ばれる ※ハーフ団とも呼ばれる。
- スリークォーター・バック (TB) 4人 - 左右それぞれのウィングスリークォーターバック (WTB)(11, 14) とセンタースリークォーターバック (CTB)(12, 13)
- フルバック (FB)(15) 1人
各ポジションの呼び方は、国によって微妙に異なる。
[編集] 関連競技
[編集] 脚注
- ^ David Hinchliffe (1994年6月26日). “Do I not like that . . . / Hypocrisy has to end: David Hinchliffe MP explains why he has introduced a Bill to stop rugby union discriminating against the league code”. The Independent 2011年11月25日閲覧。
- ^ 松澤 良祐 (2007). 早稲田大学ラグビー蹴球部の歴史と伝統. (Thesis), 早稲田大学.
- ^ “なぜ日本でラグビーW杯は注目されないのか”. ニューズウィーク日本版 (2011年9月20日). 2011年9月26日閲覧。
- ^ http://www.geocities.jp/rischool_blind/sports.html
[編集] 関連項目
- 国際ラグビー評議会(IRB)
- 欧州ラグビー協会(FIRA–AER)
- 日本ラグビーフットボール協会
- ラグビー日本代表(A代表、年齢別代表、女子代表など)
- ジャパンラグビートップリーグ
- ラグビー代表国一覧
- ラグビー大会一覧
- ラグビーチーム一覧
- 日本の大学ラグビーチーム
- アジア5カ国対抗 (Asian 5 Nations)
- IRBネイションズカップ
- チャーチルカップ
- ラグビージュニア世界選手権(U20世界ラグビー選手権)
- ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ
- バーバリアンズ
- 近鉄花園ラグビー場
- 秩父宮ラグビー場
- 秩父宮雍仁親王
- スクール☆ウォーズ
- 国際ビーチフットボール協会
- マウスピース (スポーツ)
- 清水富美加
[編集] 外部リンク
- IRB - 国際ラグビー評議会 (英語)
- JRFU - 日本ラグビーフットボール協会 (日本語)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||