岩隈久志
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| 東北楽天ゴールデンイーグルス #21 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 東京都東大和市 |
| 生年月日 | 1981年4月12日(28歳) |
| 身長 体重 |
190cm 86kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1999年 ドラフト5位 |
| 初出場 | 2001年5月29日 |
| 年俸 | 3億円(2009年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 2004年 |
| WBC | 2009年 |
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この表について
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 野球 | ||
| 銅 | 2004 | 野球 |
岩隈 久志(いわくま ひさし、1981年4月12日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(投手)。2009年からは楽天選手会長に就任。
目次 |
[編集] 投球スタイル
近鉄時代は右腕をダラリとたらす独特なタメから投げ込む特徴的なフォームがトレードマークだったが、二段モーションが禁止されてからは試行錯誤を繰り返し、現在のような、スリークォーターに近いオーバースロー型に変化した(脚のタメ方などに前モーションの名残が見られる)。
故障前はMAX153km/hのキレのある直球と大きく曲がる縦のスライダーを武器にした、いわゆる典型的な本格派の完投型スライダー投手と言えるスタイルだったが、故障してからは肩に負担の大きい縦スライダーを多投しないようになり、左右自在に落とす140km/h台の高速フォークを中心に、変化の小さい横のスライダーや内角へ切り込むシュート、120km/h台で打者のタイミングを外すカーブなどを使って、近鉄時代から定評のある打たせて取る投球を更に進化させた。ストレートの球速も依然MAX150km/h以上をマークする。チェンジアップ等などもなげる。
本人も低めへの制球力は故障前よりも現在のほうが良くなったと週刊ベースボール誌のインタビューなどで答えており、2008年シーズンにはその低めへのコントロールを生かし、失投を減らして、登板200イニング以上で被本塁打3本という驚異的な成績を残している。
プロ野球スカウティング・レポート2009(アスペクトムック)では、「150km/hを超える直球を持っており、変化球も主力のよく曲がるスライダーと速いフォーク、強打者をつまらせるシュート、緩急のカーブを全てキレよく揃え、四球も非常に少なく低めの制球にも優れている。打者の左右に成績が振り回されることもない。弱点が全くない投手」と評されている。
[編集] 来歴
小学1年時より野球を始める。その後堀越高等学校に進学し、3年夏は西東京大会ベスト4。
ドラフトにて大阪近鉄バファローズより5巡目指名を受けて入団。
[編集] 近鉄時代
一軍登板なし。二軍戦に2試合、2イニングに登板。シーズンオフに黒潮リーグに参加し、149km/hを記録するなど首脳陣から期待を受ける。
5月29日の北海道日本ハムファイターズ戦で8回裏にプロ初登板し初勝利。後半戦に活躍し、最終的には完封1つを含む4勝2敗。手薄であった近鉄投手陣に貢献し、チームのリーグ優勝への力となった。
先発ローテーションの一角として23試合に登板し8勝7敗をマークする。
背番号を48から21に変更。15勝10敗、最多完投、最多無四球を記録する。
球団新記録となる開幕12連勝を達成。最終的に15勝2敗となり、最多勝利と最優秀投手のタイトルを獲得。またアテネオリンピック野球日本代表に選出される。オールスターのファン投票ではパ・リーグの先発部門でトップとなり、球宴第1戦の先発投手となる。日米野球の第5戦でも7回1失点の好投で勝ち投手となる活躍を見せる。シーズン終了後、球団合併に伴い、東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍(後述:エピソード欄)。
[編集] 楽天時代
球団初年度の開幕投手を任せられ、1失点完投で球団初の勝利投手に。その後、1年間に亘り先発ローテーションを守ったが、シーズン途中から肩の故障等もあり(肩の違和感は前年からあり、2004年には何度か登板をスライドさせていた)、防御率は規定投球回到達投手の中でワーストとなる4.99。勝利数も2桁には届かず(9勝15敗)、自身にとっても球団にとっても不本意な成績に終わった。
禁止事項となった2段モーションを修正するためにフォームを変更。しかしフォームが固まらず、また前年に痛めた肩の故障の影響などで開幕に間に合わず。8月半ばまで二軍で調整を続ける。8月29日、北海道日本ハムファイターズ戦で一軍復帰。9月12日、千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)でようやくシーズン初勝利。結局、最終的には6試合に登板し、防御率3.72。1勝2敗に終わった。
2年ぶりに開幕投手を務める。また、1週間後のホーム開幕戦でも先発投手に選ばれたが、試合開始直前(スタメン発表後)に背中の違和感を訴え登板回避、川岸強が急遽登板する事態に。翌日に登録抹消。4月下旬に一軍復帰し、1勝を挙げるも、5月中旬に左脇腹の肉離れを起こし、再び戦線離脱。後半戦に一軍復帰し、7月31日の千葉ロッテ戦(千葉マリン)で2勝目を挙げる。その後、シーズン終了まで先発ローテーションの一角を務め、最終的には16試合に登板し、5勝5敗(防御率3.40)。シーズン終了後の10月に右肘の手術を受ける。
2年連続4度目の開幕投手を務めた(7回1失点の好投を見せるも、チームはサヨナラ負け。自身には勝敗は付かなかった)。3月27日のオリックス戦では楽天移籍後初の完封勝利を無四球で挙げた。その後も勝ち星を量産し、6月15日の巨人戦で(大阪近鉄バファローズ時代以来)4年ぶりの10勝目を無四球完封で挙げる。8月16日、千葉マリンでのロッテ戦で自己最多となる16勝目。さらに、9月22日、西武ドームでの西武ライオンズ戦で、パ・リーグでは2003年の斉藤和巳(福岡ダイエーホークス=当時)以来となる20勝目に到達。そして、シーズン最終登板となった10月5日、Kスタ宮城でのソフトバンク戦でも勝利し、1985年の佐藤義則以来23年ぶりの21勝投手となり、最多勝を獲得。楽天のシーズン65勝のうち、1/3近くを一人で挙げた。また、同試合で防御率ではダルビッシュ有を抜き、勝率では同率であった小松聖をかわして単独投手三冠を達成。リーグ最多投球イニングも記録し自己最高のシーズンとなった。特筆すべきは被本塁打であり、200投球イニング以上で被本塁打が3本であった(うち2本はセ・パ交流戦で許したもので、パ・リーグチーム相手に許した本塁打は9月29日、対ソフトバンク戦で松田宣浩に打たれた1本のみ)。200投球回数以上で被本塁打3本以下の記録は1958年以来50年ぶりの快挙であった。
オフの各表彰では、チームが5位であったにもかかわらず、沢村賞、最優秀選手、ベストナイン、最優秀バッテリー賞など、投手関連の主要な賞を独占した。最優秀選手のBクラスチームからの選出は、1988年の門田博光以来。
なお、夏の北京オリンピック野球日本代表入りを熱望していたが果たせず、悔しさを翌年のWBCで晴らすことになる。
2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、先発三本柱の一人として期待される。一次ラウンドの一位決定戦の韓国戦に先発し、5回1/3を1失点に抑えるも打線は韓国の投手リレーの前に沈黙し、チームは0-1で惜敗した。二次ラウンド、初戦のキューバ戦では先発・松坂の後を受け2番手として登板し、1回を2奪三振とパーフェクトリリーフ。敗退か準決勝進出かがかかった二次ラウンド、キューバとの敗者復活戦で6回を無失点に抑え、チームは5-0で勝利。この試合では霧深い悪質なグラウンドコンディション[1]に対し、守りやすくしようと「フライを打たせないようにした」とし、群を抜いた制球力で低めに変化球を集めた。事実アウトの15/18は内野ゴロで打ち取り、ここまでで最もHRの多かったキューバ打線を完全に手玉に取って準決勝進出に貢献した。決勝でも7回2/3[2]を2失点に抑える快投を見せ、勝利に貢献したものの、3-2の日本1点リードで迎えた9回裏にダルビッシュ有がリリーフするも連打を浴び、同点されてしまい勝ち星はつかなかった。
通算で20回を3失点に抑え、WBCで先発を務めてイニング15回以上を投げた投手の中では、出場国の投手でナンバー1の防御率を記録した。日本自体も出場国でナンバー1のチーム防御率を残したが、岩隈はその筆頭として活躍した。出場した全試合で快投を見せたものの、打線の援護は計6点と少なく、またダルビッシュ有の救援失敗などもあって記録上は1勝しかあげられなかった。そのためか、MVPは松坂大輔に譲ったが、ベストナインに選出された。
このシーズンから球団の選手会長(3代目)に就任。3年連続5度目の開幕投手を務める。北海道日本ハムのダルビッシュ有と投げ合い、6回を1失点に抑え勝利投手になる。
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2001 | 近鉄 | 9 | 8 | 1 | 1 | 0 | 4 | 2 | 0 | -- | .667 | 192 | 43.2 | 46 | 3 | 13 | 0 | 3 | 25 | 1 | 0 | 28 | 22 | 4.53 | 1.35 |
| 2002 | 23 | 23 | 2 | 0 | 1 | 8 | 7 | 0 | -- | .533 | 594 | 141.1 | 132 | 10 | 42 | 2 | 8 | 131 | 4 | 1 | 62 | 58 | 3.69 | 1.23 | |
| 2003 | 27 | 27 | 11 | 0 | 1 | 15 | 10 | 0 | -- | .600 | 809 | 195.2 | 201 | 19 | 48 | 2 | 3 | 149 | 2 | 0 | 85 | 75 | 3.45 | 1.28 | |
| 2004 | 21 | 21 | 7 | 1 | 2 | 15 | 2 | 0 | -- | .882 | 647 | 158.2 | 149 | 13 | 30 | 2 | 8 | 123 | 0 | 0 | 57 | 53 | 3.01 | 1.13 | |
| 2005 | 楽天 | 27 | 27 | 9 | 0 | 1 | 9 | 15 | 0 | 0 | .375 | 796 | 182.1 | 218 | 19 | 40 | 3 | 6 | 124 | 7 | 0 | 113 | 101 | 4.99 | 1.41 |
| 2006 | 6 | 6 | 2 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | .333 | 169 | 38.2 | 43 | 4 | 12 | 0 | 1 | 16 | 0 | 0 | 18 | 16 | 3.72 | 1.42 | |
| 2007 | 16 | 16 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | 0 | .500 | 388 | 90.0 | 95 | 6 | 23 | 0 | 2 | 84 | 0 | 0 | 47 | 34 | 3.40 | 1.31 | |
| 2008 | 28 | 28 | 5 | 2 | 3 | 21 | 4 | 0 | 0 | .840 | 787 | 201.2 | 161 | 3 | 36 | 1 | 4 | 159 | 4 | 0 | 48 | 42 | 1.87 | 0.98 | |
| 通算:8年 | 157 | 156 | 37 | 4 | 8 | 78 | 47 | 0 | 0 | .624 | 4382 | 1052.0 | 1045 | 77 | 244 | 10 | 35 | 811 | 18 | 1 | 458 | 401 | 3.43 | 1.23 | |
- 2008年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 個人記録
- 初登板・初勝利:2001年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)、8番手として8回裏1死より登板、1回2/3を1失点 被安打2 奪三振3 四死球1
- 初奪三振:同上、8回裏2死に野口寿浩から
- 初先発:2001年6月10日、対日本ハムファイターズ13回戦(大阪ドーム)、3回5失点で敗戦投手
- 初先発勝利:2001年8月19日、対福岡ダイエーホークス24回戦(福岡ドーム)、6回1失点
- 初完投勝利・初完封勝利:2001年9月18日、対西武ライオンズ26回戦(大阪ドーム)、5-0 被安打2 奪三振6 四死球1
- 1000投球回数:2008年8月16日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏3アウト目をサブローから三振を奪って達成、プロ314人目
[編集] タイトル・表彰・記録
- 沢村賞:1回(2008年)
- 最優秀選手(MVP):1回(2008年)
- 最多勝利:2回(2004年、2008年)
- 最優秀防御率:1回(2008年)
- 最優秀投手(最高勝率):2回(2004年、2008年)
- ベストナイン:2回(2004年、2008年)
- 最優秀バッテリー賞:1回(2008年・藤井彰人と)
- セ・パ交流戦優秀選手賞:1回(2008年)
- 月間MVP:4回(2003年4月、2004年4月、2004年5月、2008年6月)
- ゴールデンスピリット賞:1回(2008年)
- 報知プロスポーツ大賞(野球部門パ・リーグ):1回(2008年)
- 最多完投:1回(2003年)
- 最多無四球:3回(2003年、2004年、2008年)
- オールスターゲーム出場:3回(2003年、2004年、2008年)
- アテネオリンピック野球日本代表(2004年)
- 開幕投手:5回(2004年、2005年、2007年、2008年、2009年)
- 開幕12連勝(球団記録):2004年
- シーズン21勝:2008年
[編集] 背番号
- 48(2000年 - 2002年)
- 21(2003年 - )
- 20(アテネ五輪、2009年WBC)
[編集] 人物・エピソード
[編集] 人物
- 愛称は「クマ」。チームメイトやコーチ以外にも多くの球界の人物がこう呼ぶ。
- 西武沿線に住んでいたこともあり、小さい頃は、ファンクラブに入って西武ライオンズ球場に通い詰めるほどの熱烈な西武ファンだった。
- 2002年12月、21歳で西武ライオンズ・広橋公寿打撃コーチ(当時)の長女と結婚。きっかけは東京都内の美術館で、広橋一家と偶然出会ったことから。娘1人がいるが、2009年1月に第2子の長男が誕生。愛妻家として有名。トレードマークである青いグラブには、妻と娘の名前が縫われている。
- 近鉄時代、「なにわのプリンス」と呼ばれていた。また梨田昌孝(当時の近鉄監督)からは、足の長さ・細さから「バンビちゃん」とも呼ばれた。楽天移籍後は「杜の貴公子」と呼ばれている。
- 喫煙家だったが、2004年10月頃からタバコをやめている。理由は夫人の父広橋公寿が嫌煙家の為。広橋家は全員が非喫煙者である。
- 2006年、東北のステキなお父さんを選ぶ「第1回ベストファーザー in 東北」に選出された。
- 2007年8月23日の千葉ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で、野村克則コーチと乱闘寸前の小競り合いを起こした。4回途中でKOされ7回途中までロッカーに閉じこもっていたところを、野村コーチに注意され激高。コーチ陣が割って入り事態は収まったが、その様子はCS放送で中継された。その後、岩隈は試合中に野村コーチに対して謝罪した(2人は高校の先輩と後輩であり仲はとても良い)。後に娘の熱が原因であったとブログで公表している。
- 近鉄時代は、同期入団で同学年の高木康成と宮本大輔と仲が良く、入団1年目に3選手はファームで「陸上部」と言われるほどの走り込みを行った。また、同期入団にして結婚も同年となった前田忠節や、岩隈の長女と同い年の娘がいる阿部真宏、合併反対運動・プロテクト拒否で同志となった福盛和男らとも仲が良い。楽天時代は、福盛、一場靖弘とは互いの妻子と交遊がある。『壮絶人生ドキュメント プロ野球選手の妻たち』というドキュメンタリー番組では、岩隈夫人と一場夫人が夫を支える心境を語り合っていた。
[編集] 選手としての特徴
- 投球前に右腕をダラリと下げるという変則的なピッチングフォームを教えたのは、当時近鉄の二軍ピッチングコーチだった久保康生。故障の経験から肩を上手く使えていなかった岩隈に、大きく肩を回して投げる感じをつかませるために、一旦腕を下げてからの投球を指導したのが始まりである。しかし、2006年に二段モーションは禁止事項となり、フォームの修正を余儀なくされた。
- 右投げ右打ちであるが、元々は左利きであり、食事やペン等は左手を使っている(例外はゴルフ・ボウリング・ビリヤード)。野球が右投げ右打ちであることについては、「自分が野球を始めた頃、周りの人は皆右投げ右打ちだったから僕もそうした」と語っている。岩隈と同パターンの選手は他に銀仁朗(西武捕手)、坂本勇人(巨人内野手)、由規(ヤクルト投手)がいる。
[編集] 野球に関するエピソード
- 近鉄時代は日本ハム戦に特に強く、2003年から2004年にかけて11連勝した。また、2004年は西武戦にも強く、当時の梨田昌孝監督も、特にこの2チーム相手に岩隈を当てる事が多かった。しかし、楽天移籍後初の日本ハム戦で黒星を喫し、連勝は止まった。なお2005年9月から2008年7月まで、対ロッテ戦でも連勝を続けていた。
- 近鉄時代の2004年5月16日の西武戦で、あと1人で完封達成のところで和田一浩に本塁打を打たれ、完封を逃した。それから3年後の2007年9月24日の西武戦でも、またもあと1人で完封達成のところで和田に本塁打を打たれ、この際はその後続けて3連打を浴びて降板し、完投勝利までもを逃した(ただし、勝利投手にはなっている)。
- 楽天第1号選手中村武志と初めて公式戦でバッテリーを組んだ05年5月8日宮城での読売ジャイアンツ戦で高橋尚成と投げ合い1失点完投勝利、楽天にとって交流戦初勝利となった。
- 2008年は最終登板で好投したことにより最優秀防御率のタイトルを確定させたが、2004年にも最終登板に防御率のタイトルがかかっていた。この時は、一時は松坂大輔の防御率を逆転したものの、2死で自身の出したランナーが2人いるという状況から、続投。しかし、次の相川良太に3ランを打たれ、タイトルを逃した。
- 近鉄時代は福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に対して相性が悪く、それを首脳陣が気にしてか実際に登板数も少なかった。実際、2003年9月17日の対戦で序盤に打ち込まれてKOされたのを最後に、2007年9月5日までホークスとの対戦機会がなかった。しかし2008年、7試合に登板して5勝1敗、通算わずか7失点と完全に手玉にとり、近鉄時代からのレベルアップを見せた。
[編集] 逸話・雑記
- 堀越高の同期は、安達祐実・佐藤江梨子・中村勘太郎・初音映莉子・葉山恵里らである。ただし、岩隈のみ体育コース、以外のメンバーは芸能コースである。卒業時には近鉄入団が決定していた岩隈に対し安達祐実から応援コメントがあった。
- 登場曲
- 『パシフィックアイランドミュージック』 Def Tech(2007年)
- 『小さな掌』 Aqua Timez(2008年前期)
- 『NO.1』 日華(2008年後期)
[編集] プロ入り初登板
高卒2年目の2001年に、1軍投手の戦力不足の事情から5月29日の日本ハムファイターズ戦でプロ初登板の機会を得た。8回裏1点リードの状況で初登板し、9回裏に小笠原道大にソロホームランを浴びて同点に追いつかれた。しかし、延長10回表に近鉄打線が爆発し、中村紀洋のこの日3本目の本塁打となる満塁弾などで大きく勝ち越し、結果近鉄が17-12で勝利して岩隈はプロ初登板初勝利を挙げた。岩隈の試合後のコメントは「自分が抑えていればすんなり勝てている状態だったのに打たれてしまいチームに申し訳ない」という内容であり、プロ初勝利の喜びの声はなかった。
この試合は両チーム合わせての登板投手数の日本記録を更新する乱戦で、近鉄はベンチ入りしている投手の全てを使っていた。試合終了後、梨田昌孝監督は「もし最後の投手にアクシデントがあったらノリ(中村)を登板させるつもりだった」とコメントした(中村は高校時代、投手として甲子園出場の経験がある)。
[編集] 楽天入団の経緯
2004年シーズン終了後、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの球団合併と、楽天の新規参入に伴う選手分配ドラフトで、合併球団オリックス・バファローズに分配された。しかし、岩隈は合併に際しての労使「申し合わせ」を引き合いに入団を拒否。オリックス側は説得を試みたが失敗し、合併新球団と岩隈双方の今後を考えたオリックス・宮内義彦オーナーの判断で、楽天に金銭トレードで譲渡された(選手分配ドラフトについてはプロ野球再編問題の当該項参照)。なお、オリックスは、読売ジャイアンツ高橋尚成とのトレードも視野に入れていた。
[編集] 著書
- 『絆(きずな)冬は必ず春となる』潮出版社(2009年)
[編集] 脚注
- ^ キューバのセンター、ヨエニス・セスペデスが小笠原の平凡な飛球を落球する程に霧が濃かった。
- ^ WBC1試合最多投球回数
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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