野村克則
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| 読売ジャイアンツ コーチ #92 | |
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | (大阪府豊中市生まれ) |
| 生年月日 | 1973年7月23日(36歳) |
| 身長 体重 |
178cm 84kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手、一塁手 |
| プロ入り | 1995年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1997年4月16日 |
| 最終出場 | 2006年10月1日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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野村 克則(のむら かつのり、1973年7月23日 - )は、元プロ野球選手(捕手)で、現役時代の登録名は「カツノリ」(2004年以外)。2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスのバッテリーコーチを務めたが、2010年からは読売ジャイアンツ(巨人)の二軍バッテリーコーチを務めている。
父は楽天前監督の野村克也、母はタレントの野村沙知代、異父兄はダン野村・ケニー野村。他に異母兄が1人いる。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
堀越高校から明治大学へ進み、2年(1993年)秋の東京六大学野球で首位打者(山下圭と同率)と打点王の二冠を獲得、ベストナインにも選ばれる。リーグ通算76試合出場、256打数72安打、打率.281、3本塁打、33打点。大学時代の背番号は父・克也の現役時代と同じ19だった。
1995年のプロ野球ドラフト会議で、父が監督を務めるヤクルトスワローズから3位指名を受け捕手として入団。父との混同を避けるため登録名を「カツノリ」とした(ちなみに、入団発表で着用していたユニフォームでは背ネームが「K.NOMURA」となっていたが、キャンプからは「KATSUNORI」に改められていた)。
[編集] プロ入り後
1年目(1996年)はフレッシュオールスターゲームに出場するが、一軍では正捕手古田敦也の他に野口寿浩もおり出場なし。1997年、1998年の2年間で合計51試合に出場するが多くは試合が決まった後の起用で、若松勉監督が就任した1999年は一軍出場なしに終わる。
2000年に金銭トレードで克也が監督を務めていた阪神タイガースに移籍、翌2001年はサヨナラタイムリーを2度打つ。8月29日の巨人戦では井川慶をリードして1対0の完封を引き出すなど、この頃からリード面では一定の評価を受けるようになった。2年間で合計95試合に出場、両年とも下位に低迷したシーズン終盤からは先発での起用が増えたが、星野仙一監督が就任した2002年は11試合出場に留まった。2003年、二軍で規定打席数には大幅に足りないものの打率.321の成績を残すが、一軍は捕手、右の代打ともに割り込む余地がなく出場なしに終わる。
2004年、堀内恒夫が新監督に就任した読売ジャイアンツ(巨人)に金銭トレードで移籍した。なお、巨人ではファーストネームやニックネームでの登録を原則認めていないという事情から本名「野村克則」で登録。しかし、正捕手の阿部慎之助の存在により出場はわずか3試合のみに留まり、シーズン終了後球団から戦力外通告を受ける。
阪神・巨人から戦力外通告を受けた際、ブルペン捕手・二軍バッテリーコーチといったポストを提示されていたが現役続行を望み、12球団合同トライアウトに参加。2打席連続本塁打を打つなどの好アピールで、東北楽天ゴールデンイーグルスへの入団が決まった(この時の経緯はTBS『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』で紹介された)。
2005年、登録名をヤクルト・阪神時代と同じカツノリに戻す。4月17日の対日本ハム戦でプロ初のクリーンナップとなる5番を務めたが、結局6試合の出場にとどまる。同年オフに克也が楽天監督に就任し、三たび同じユニフォームを着ることになった。
2006年、正捕手藤井彰人の不調時には先発出場し、同年のオールスターゲームで初めてノミネートされるが、ファン投票の結果は4位だった。このシーズンは元来の弱肩に身体能力の衰えも加わって盗塁阻止率が1割を下回り、また打撃も指を脱臼したとはいえかろうじて1割を越える程度で、ファンからもブーイングを受けた。翌年も現役続行する意思を固めていたが9月28日、球団による戦力外通告を機に引退を表明した。現役最後となる10月1日の対ロッテ戦(フルスタ宮城)では先発フル出場したが、6個の盗塁を許すなど(平下、西岡、サブロー、青野各1、根元2)活躍はできなかった。この試合の後、同じく引退する飯田哲也とともに引退セレモニーが行われた。
[編集] 引退後
2006年10月9日、球団より新設された二軍育成コーチ(バッテリー担当)就任が発表された。背番号は73で、登録名は「カツノリ」から本名の「野村克則」に改めた。同年の秋季キャンプからコーチとして始動。2007年、二軍育成コーチの傍らセ・パ交流戦ではスコアラーとして一軍戦でベンチ入り。
2008年~2009年は山田勝彦と共に一軍バッテリーコーチを務め、試合中はヘッドコーチの橋上秀樹と共に作戦面も支えた。2010年からは巨人の二軍バッテリーコーチに就任する[1]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1997 | ヤクルト | 26 | 33 | 31 | 1 | 8 | 1 | 0 | 1 | 12 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 10 | 3 | .258 | .303 | .387 | .690 |
| 1998 | 25 | 24 | 23 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | .174 | .208 | .174 | .382 | |
| 2000 | 阪神 | 43 | 55 | 49 | 6 | 13 | 1 | 1 | 2 | 22 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 11 | 2 | .265 | .327 | .449 | .776 |
| 2001 | 52 | 102 | 95 | 3 | 20 | 3 | 0 | 1 | 26 | 6 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 2 | 28 | 2 | .211 | .257 | .274 | .531 | |
| 2002 | 11 | 16 | 16 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .188 | .188 | .313 | .501 | |
| 2004 | 巨人 | 3 | 5 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | .400 | .333 | .733 |
| 2005 | 楽天 | 6 | 10 | 10 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .100 | .100 | .100 | .200 |
| 2006 | 56 | 141 | 129 | 8 | 16 | 4 | 1 | 0 | 22 | 5 | 1 | 0 | 1 | 1 | 7 | 1 | 3 | 26 | 6 | .124 | .186 | .171 | .357 | |
| 通算:8年 | 222 | 386 | 356 | 18 | 66 | 11 | 2 | 4 | 93 | 17 | 1 | 0 | 2 | 3 | 20 | 1 | 5 | 90 | 13 | .185 | .237 | .261 | .498 | |
[編集] 背番号
- 33 (1996年 - 1999年)
- 50 (2000年 - 2003年)
- 63 (2004年)
- 52 (2005年 - 2006年)
- 73 (2007年 - 2009年)
- 92 (2010年 - )
[編集] 個人記録
- 初出場:1997年4月16日、対横浜ベイスターズ2回戦(明治神宮野球場)、7回裏に代打として出場
- 初打席:同上、7回裏に西清孝から左飛失
- 初安打:1997年4月29日、対横浜ベイスターズ4回戦(横浜スタジアム)、7回表に川村丈夫から中前安打
- 初本塁打・初打点:1997年8月2日、対中日ドラゴンズ17回戦(明治神宮野球場)、8回裏に山田喜久夫から代打本塁打
- 初先発出場:1997年8月17日、対中日ドラゴンズ21回戦(ナゴヤドーム)、7番・一塁手として先発出場、1打数無安打
[編集] 人物
- 非常に律儀で面倒見がよい。また、指導者としての能力も高く評価されており、人格者としても高評価をする人物は多い(徳光和夫、江川卓など)。但し、「親に似ずに人格的には優れている」と評されることも多い。
- ヤクルト・阪神時代には打率2割台半ば、 二軍でも3割を記録するなど、打撃面では平均的な実力を持つが、遠投では他の選手に遠く及ばない弱肩であり野球選手としては大成しなかった。一方練習熱心であり、また父親の威厳を笠に着ることもない好人物として知られている。阪神時代の桜井広大、巨人時代の小田幸平や二岡智宏、楽天時代の一場靖弘、竜太郎など後輩の面倒見もよく、2005年に一場が二軍落ちし落ち込んでいた時はほぼ付きっきりであったという。
- 上記の理由からかコーチ能力には定評があり良きバッテリーコーチ、相談相手として現役選手からは予々評判が良い。
- 子供の頃、父は45歳まで現役、その後も講演、解説、取材等で家を空けることが多く、野球以外のことで父親らしいことをしてもらった記憶がないと話していた。
- ヤクルト時代は石井一久を同い年ながら兄のように慕っており、お揃いのスパイクなどを履いていた。
- 引退試合で喫した1試合6許盗塁は、1人の捕手が1試合に許した盗塁の日本ワースト記録である。相手の千葉ロッテは、最後の花道に盗塁を刺すシーンを用意しようという考えで積極的に走ったが、あまりの弱肩のために一つも刺すことができなかった。
- 通算出場222試合中克也が監督時の出場試合数は202あり、また新設コーチへの就任や一軍コーチへの昇格などは楽天ファンからも非難されている。加えてヤクルト、阪神共に克也が監督だった頃は、二番手捕手や代打要員として起用されたものの、克也の退団と共にカツノリの出番は減っている。また阪神時代、成績が優れないにも関わらず1軍に残っていたことも多く、その理由も「親子だから」と克也が発言している。なお、克也とはこれまでヤクルト、阪神、楽天で一緒だったが、ヤクルト入団、阪神移籍は克也の後を追う形であったのに対し、楽天に入団した際の監督は田尾安志であり、克則の方が先である。
- 2005年のトライアウトで、同年解雇された小倉恒の再獲得を克也に進言している。また2006年、先発投手陣が手薄になった影響で一場が登板過多になり、秋季の強化リーグで故障した際「あんたが一場を壊したんだ」と電話で克也に抗議したとスポーツ紙で特集された。2009年のキャンプでは、報道陣と話し込んでミーティングに遅れがちな克也をコーチが呼びに行かせるなど、克也に臆せず発言できる人物として重宝されている。
- 2007年8月23日の千葉ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で、先発した岩隈久志が4回途中でKOされ7回途中までベンチに戻らなかったため克則が注意したところ、岩隈が激高し小競り合いになった。岩隈は試合中に克則に謝罪し、後に娘の熱が原因であったとブログで釈明している。2人は同じ高校出身であり、普段は仲が良く談笑する姿もたびたび見られていた。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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