野村克則

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野村 克則
東北楽天ゴールデンイーグルス No.73
基本情報
国籍 日本
出身地 東京都大阪府豊中市生まれ)
生年月日 1973年7月23日(34歳)
身長
体重
178cm
84kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 捕手一塁手
プロ入り 1995年 3位
初出場 1997年
最終出場 2006年10月1日
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

野村 克則(のむら かつのり、1973年7月23日 - )は、元プロ野球選手。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス一軍バッテリーコーチ。現役時代の登録名は「カツノリ」(2004年以外)。

父は現東北楽天監督の野村克也、母はタレント野村沙知代、異父兄はダン野村ケニー野村

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 入団前~ヤクルト時代

堀越高校から明治大学へ進み、2年(1993年)秋の東京六大学野球首位打者山下圭と同率)と打点王の二冠を獲得、ベストナインにも選ばれる。大学時代の背番号は父・克也の現役時代と同じ19だった。
1995年ドラフト会議3位指名で、克也が監督を務めるヤクルトスワローズ捕手として入団。登録名は「カツノリ」。しかし、不動の正捕手であった古田敦也の壁は厚く(それでも古田の控えとして1997年25試合、翌年の1998年も25試合に出場している)、2番手捕手の座までが精一杯であった。若松勉監督が就任した1999年は一軍出場なしとなってしまう。
なお、入団発表で着用していたユニフォームでは背ネームが「K.NOMURA」となっていたが、キャンプからは「KATSUNORI」に改められていた。

[編集] 阪神時代

金銭トレード2000年に父・克也が監督を務めていた阪神タイガースに移籍。初年度の2000年には43試合、さらに2001年には52試合出場。特に2001年には、サヨナラタイムリーを二度打ちヒーローになるなど、矢野輝弘に次ぐ控え捕手としての地位を固めつつあった。また終盤はスタメンで起用されることも多く、8月29日の巨人戦では井川慶をリードして1対0の完封を引き出している。この頃からリード面では一定の評価を受けるようにもなった。
しかし2001年限りで克也が監督を辞任して以後はなかなか出場機会に恵まれなかった。星野仙一監督が就任した2002年は11試合出場、チームが18年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした2003年は一軍出場なしであった。2003年はファームで3割を打っていたにもかかわらず矢野が健在で、右の代打も八木裕広澤克実早川健一郎などがひしめきあっていたため一軍での出番はなかった。強気なリードとパンチある打撃が持ち味だったが、その頃から打率を意識したバッティングへと変わっていく。

[編集] 巨人時代

2004年、金銭トレードで堀内恒夫監督が就任した読売ジャイアンツに移籍[1]し本名[2]の「野村克則」として新たな活動の場を求めるも、阿部慎之助の存在で出場機会に恵まれず、出場が3試合にとどまり、わずか1年で戦力外通告を受けた。
戦力外通告を受けたときは阪神・巨人からブルペン捕手・二軍バッテリーコーチといったポストの誘いを受けたが、それらを断って現役続行を望み、2005年12球団合同トライアウトでは2打席連続本塁打を打つなど好アピール、田尾安志監督の東北楽天ゴールデンイーグルスへ入団するに至った(この時の経緯はTBSプロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』で紹介された)。同時に登録名をカツノリに戻した。

[編集] 東北楽天時代

東北楽天での1年目は4月17日の対北海道日本ハム戦でプロ初のクリーンナップとなる5番を打ったりもしたが、結局6試合の出場にとどまる。その年のオフに克也が東北楽天監督に就任し、三度克也と同じユニフォームを着ることになった。
2006年シーズンは藤井彰人に次ぐ2番手捕手として、藤井がリード・打撃ともに不振に陥ると、代わりにしばしばスタメンでも出場した。同年のオールスターゲームでは球団ノミネートで藤井彰人を押しのけ、初選出された。しかし、ファン投票での選出はなかった。
このシーズンは元々の弱肩に加え、身体能力の衰えもあり盗塁阻止率が1割を下回り、得意と言われている打撃も指を脱臼していたためとは言え、かろうじて1割を越える程度と不振が続いていており、ファンからもブーイングを受けるほどの有り様だった。当初、2007年も選手として現役続行することを表明したが、編成部が成績不振を疑問視した結果戦力外と判断し、後日現役引退を表明した。現役最後となる10月1日の対ロッテ戦(フルスタ宮城)では、スタメンマスクをかぶりフル出場。この試合ではロッテ野手陣に6個の盗塁を許すなど(平下西岡サブロー青野根元2)、活躍はできなかった(因みに根元は1イニング2盗塁)。
現役最後の試合の後、同じく引退する飯田哲也とともに引退セレモニーが行われた。また、現役引退後に同チームの二軍バッテリーコーチに就任することが発表された。

[編集] コーチ時代

2006年10月9日、球団より新設された二軍育成コーチ(バッテリー担当)に就任することが発表された。背番号は73に決定。なお登録名は「カツノリ」ではなく本名[3]となった。育成コーチについては他に永池恭男が野手担当、高村祐が投手担当となった。
2007年、交流戦前に一軍帯同していたがコーチ登録抹消となりスコアラー登録され、交流戦期間中はベンチ入りをしていた。
2008年、一軍バッテリーコーチに配置転換。山田勝彦と共にバッテリーコーチ二人体制となる。

[編集] 年度別打撃成績

年度 所属 試合 打席 打数 得点 安打 二打 三打 本打 塁打 打点 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 打率
1997 ヤクルト 26 33 31 1 8 1 0 1 12 1 0 0 2 0 10 3 .258
1998 25 24 23 0 4 0 0 0 4 1 0 0 1 0 7 0 .174
1999 -
2000 阪神 43 55 49 6 13 1 1 2 22 3 0 1 5 0 11 2 .265
2001 52 102 95 3 20 3 0 1 26 6 1 0 4 2 28 2 .211
2002 11 16 16 0 3 2 0 0 5 0 0 0 0 0 5 0 .188
2003 -
2004 巨人 3 5 3 0 1 0 0 0 1 1 0 1 1 0 0 0 .333
2005 楽天 6 10 10 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 3 0 .100
2006 56 141 129 8 16 4 1 0 22 5 1 1 7 3 26 6 .124
通算 222 386 356 18 66 11 2 4 93 17 2 3 20 5 90 13 .185
※2006年に盗塁1を記録

[編集] 背番号

  • 33(1996年 - 1999年)
  • 50(2000年 - 2003年)
  • 63(2004年)
  • 52(2005年 - 2006年)
  • 73(2007年 - )

[編集] エピソード

  • 通算222試合出場中、父親が監督時の出場試合数が202試合である。
  • 2003年のオフに巨人移籍するが、この年のドラフトで当時父・克也が監督を務めていた社会人野球シダックス野球部野間口貴彦の獲得を目指しており、克則の獲得は克也へのアピールだったという噂がある。なお、野間口は巨人に入団した。
  • 巨人時代、カツノリの試合前の打撃練習では当時二軍調整中であった清原和博が舌を巻くほどであったが肩の弱さは致命的で、同僚の清水隆行ほどではないが遠投では他の選手に遠く及ばなかった。
  • 東北楽天への入団は克也の働きかけか、という噂が立つことがあるが、今回はヤクルト・阪神の時と異なり、先に克則が入団し、後から克也が入ってくる形になっている。また、トライアウトから克則の採用を決めた当時の監督は田尾安志であり、当時シダックス監督であった野村克也の影響力が働いたとは考え難い。
  • 選手としては大成しなかったものの、練習熱心で知られ、好人物としても知られている。ヤクルト時代は石井一久を同い年ながら兄貴分のように慕っており、お揃いのスパイクなどを履いていた。阪神時代にも母親の逮捕によって選手生命が危ぶまれた時には坪井智哉新庄剛志らは大変に心配しており、デイリースポーツでも報じられている。不遇に終わった巨人時代であったが、チームメイトからの人気は高く、小田幸平二岡智宏など後輩の面倒をよく見ていた。楽天時代には特に明治大学の後輩にあたる一場靖弘竜太郎の練習に付き合い、食事をおごる等よく面倒を見ていた。2005年に一場が二軍落ちを経験し、落ち込んでいた時などはほぼ付きっきりであったという。このように親しい間柄であったためか、一場は後のカツノリの引退セレモニーで涙を流していた。
  • 2005年トライアウトで一度解雇された小倉恒の獲得を父克也に進言している。ヤクルト時代等にも二軍選手を度々克也に推挙しているところを見るに、選手を見る目は父親譲りであるようだ。その後、小倉は東北楽天のリリーフエース、クローザーとして素晴らしい成績を残している。
  • 阪神時代は桜井広大の教育係としてゴンタな桜井を褒めて煽って宥め賺して育てていた、阪神はカツノリのコーチ能力を買いゆくゆくは2軍コーチを任せる予定だった。

[編集] 脚注

  1. ^ この金銭トレードは当時、野村克也が監督を務めていたシダックス所属でその年のドラフト有力候補であった野間口貴彦を獲得するための野村に対する巨人の懐柔策であるとする説が有力。最終的に巨人は野間口の獲得に成功。
  2. ^ ヤクルト、阪神では当初、父・克也が監督として在籍していたため紛らわしさを考えて登録名をカツノリとしていたが、当時の巨人ではニックネームでの登録を認めていないため、やむを得ず本名で登録した。巨人ものちにニックネームでの登録を行ったが、それはファーストネーム・ファミリーネームがまったく同じ選手がいたことに起因する苦肉の策である(ジェレミー・パウエルルイス・ゴンザレスジェレミー・ゴンザレス。ジェレミー・ゴンザレスはGGというニックネームで登録)。
  3. ^ 選手時代でも「カツノリ」と登録したが、自身が二軍育成コーチに就任をしたことから自分の意思で本名に登録したと思われる。

[編集] 関連項目

ヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)
1995年ドラフト指名選手
1位:三木肇 / 2位:宮出隆自 / 3位:野村克則 / 4位:石井弘寿