木村拓也

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木村 拓也
読売ジャイアンツ コーチ #84
基本情報
国籍 Flag of Japan.svg 日本
出身地 宮崎県宮崎市
生年月日 1972年4月15日(37歳)
身長
体重
173cm
75kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手中堅手
右翼手左翼手遊撃手
三塁手一塁手捕手
プロ入り 1990年 ドラフト外
初出場 1992年9月29日
最終出場 2009年10月12日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2010 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

木村 拓也(きむら たくや、1972年4月15日 - )は、元プロ野球選手内野手外野手)。愛称はキムタク

現役時代はユーティリティープレイヤーとして活躍。

目次

[編集] 来歴・人物

高校時代は捕手を務め、宮崎県立宮崎南高等学校では1年夏の甲子園で1勝、3年春には5打席連続三塁打、高校通算30本塁打の記録を持つ。遠投120mの強肩捕手として鳴らしていた。父親は旧・田野町町議会議員を長く務めた地元の名士である。[1]

[編集] 日本ハム時代

1990年ドラフト外日本ハムファイターズに入団。1992年俊足と強肩を買われて外野手に転向。[要出典]

[編集] 広島時代

1994年オフに長冨浩志投手との交換トレードで広島東洋カープに移籍。移籍当初は現在と比較して打撃もかなり非力であった。[要出典]正田耕三の後釜候補として二塁手に挑戦し、以後内野の守備も兼ねるようになる。

1996年オフにスイッチヒッターに挑戦し、1997年よりスイッチヒッターデビューした。

1997年秋季キャンプから故障がちな野村謙二郎の控えとして遊撃手に挑戦。

1998年、公式戦で遊撃を守ったほか代打の切り札として活躍、盗塁も14個記録して貴重なスーパーサブとしての役割を果たした。

1999年には一時捕手への再転向案が浮上し、公式戦でも4試合捕手を守った。この頃よりユーティリティープレイヤーとなり、この年だけで投手・一塁手以外の全ポジションを守っている(高校時代は投手としての出場もあった)。同年は広島市民球場のバックスクリーンにプロ初本塁打を放つなど課題のバッティングも向上し、2000年には1番打者として初の規定打席に到達したのに加え、打率2割8分8厘、10本塁打、30打点、165安打の好成績を残すなど10年目にしてブレイクした。以降は3年連続して130試合出場するなど、チームにとって欠かせない存在となる。

2001年は2番東出輝裕とのコンビでシーズン通じて1番打者で活躍し、自己最高の45打点をマークするも、打撃にパンチ力がついたためか引っ張り中心のスイングが目立つようになり打率、出塁率を前年と比較して大きく下げてしまう。加えてリードオフマンとしては、三振が多いのも課題で、最も打席数の多い1番という条件を考慮しても、129個もの三振を喫している。首脳陣からもその点を指摘された事もあって、コンパクトかつ確実性を重視したバッティングスタイルを心掛けるようになる。

2002年は遊撃手・東出の故障により、それまで二塁・中堅での起用が主であったが、遊撃での起用も多くなった。経験が少ないわりに堅実な守りを見せたが、打撃面での成績は前年を下回ってしまった。

2003年には東出が二塁へコンバートされることになったため、木村が遊撃へ回る案も出たが、アンディ・シーツの獲得により実行はされなかった。しかし、東出から二塁のポジションを奪還し、自己最高の13本塁打を放ったのに加え、センター前に渋く打ち返すシュアな打撃にも磨きがかかり、打率も2割8分を超えた。シーズン通して二塁を主に守っていたが、三塁や外野、シーツが退いた場合は遊撃の守備にも就いた。

2004年にはそのユーティリティーさを評価されアテネオリンピック野球日本代表に選出(オリンピックはベンチ入り可能な選手人数が非常に少ないため、複数のポジションをこなせる選手は重宝される)、攻守で貴重な貢献を見せた。10月9日の対横浜28回戦では富岡久貴の前に三重殺(記録はセンターフライ)を喫している。このシーズン以降は若手選手の急成長に加え、足や腰を故障するなどして、打撃や走塁で満足なプレーを残せず、スタメン出場の機会は著しく減少した。シーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、手術を受けた。

2005年は開幕早々守備で魅せ、遊撃の尾形佳紀と不動の二遊間を構成するかと思われていたが、尾形の故障により結局固定されず。打順は一定しないもののほぼ二塁・遊撃を守る。レギュラーに定着しかけていたが腰痛を発症し、8月上旬に離脱した。1ヶ月後復帰したが、以後はスタメン起用は大幅に減ってしまった。

2006年シーズン、新たに監督へ就任したマーティ・ブラウンの若手起用の方針により開幕二軍スタートとなり、全く一軍での起用がないまま6月5日山田真介外野手との交換トレードで巨人へ移籍。

[編集] 巨人時代

同年6月7日の対ソフトバンク戦(福岡)で一軍登録され、4回表にDHでスタメンだった原俊介の代打で初出場。試合途中に李承燁の負傷退場もあり、三塁中堅の守備についた。、

2006年シーズン終了後の契約更改では、代打出場での打率が高く代打の切り札としての活躍を認められ、多くの選手の年俸が引き下げられる中、年俸5000万円(推定)から、200万円アップの5200万円(推定、本人は「旅費分くらいは上がった」と答えている)を勝ち取った。

2007年シーズンは、二塁手として加入した新外国人のルイス・ゴンザレスが開幕早々に負傷離脱した事もあり、対右先発時のスタメン二塁手として活躍する。慣れた二塁での起用だった事もあり、この年の100試合以上に出場した二塁手の中では阪神関本健太郎の守備率.994に次ぐ守備率.993を記録し、守備能力の健在ぶりをアピールした。

2007年には偶に捕手練習をしていたこともあり、捕手二人制をしいていた2007年巨人では、正捕手の阿部慎之助が欠場や途中交代した際はブルペンに入って、捕手としての出場に備えた事が数試合あったと言う。10月20日の「クライマックス セ」の日本シリーズ進出決定試合で日本シリーズ出場を決める最後の打者となってしまったが、2年連続で前年の10月10日のセ・リーグ優勝決定試合でも最後の打者になっている。奇しくも対戦相手は共に中日ドラゴンズであった。

上記のようにチームの穴を埋める活躍を見せたことで、2007年シーズン終了後には、自身プロ入り後最高年俸となる6500万円(推定)で更改し、会見では笑顔も見せた。また、原辰徳監督は別の席で「今年、タク(木村拓也の渾名)がいなかったらと思うとゾッとしますね」とコメントしている。

2008年は開幕から2番、二塁に定着し打撃も好調で打率3割をキープし続け、中軸へのつなぎ役として重要な役割を果たした。5月26日の対日本ハム戦では故障で欠場した小笠原道大に代わり3番でスタメン出場し、先制点となる本塁打を放ち勝利に貢献した。試合後のヒーローインタビューでは「ジャイアンツは主力がいなければ勝てないのかと思われたくない。だから絶対に勝ちたかった」とコメントした。6月21日の対ソフトバンク戦では延長12回に自身5年ぶり、巨人移籍後初となる逆転サヨナラ打を放った。その日は、それまで3度のチャンスの打席で全て三振しており、三度目にはバットを叩きつけて悔しがったが、9回2死で大道典嘉が同点ホームランを打って追い付いた後の逆転劇であった。ヒーローインタビューでは「前半にあれだけチャンスの場面で三振ばっかりしてたんで、申し訳なくて。それを大道さんが救ってくれたんでね。大道さんのためにもなんとか打ちたかったですね」と語った。9月24日には広島市民球場でプロ野球251人目となる通算1000安打を達成するなど、シーズンを通じて正二塁手として定着し続けた。規定打席こそ僅かに及ばなかったものの、自己最高の打率.293を残し、更には広島時代の2003年以来となるシーズン100安打、チームトップの26犠打をマークするなど巨人移籍後最高のシーズンとなった。

2009年は若手選手との競争に加えて、正二塁手候補として新たにエドガルド・アルフォンゾが入団。しかし、アルフォンゾや脇谷亮太の不振で、前年同様2番セカンドで木村が固定された。一時はリーグ打率4位をマークする好調ぶりだったが、4月16日から29日にかけて20打席近く無安打を喫するなど不振に陥り、4割近い打率も一気に2割台前半へと下降した。不振の脇谷が徐々に調子を上げたこともあり、スタメンから木村が外れることも多くなった。

交流戦に入ると、5月19日の北海道日本ハムファイターズ戦でシーズン第1号を含む3安打、6月16日の埼玉西武ライオンズ戦では 石井一久から逆転3ラン本塁打を放つなど、復調の兆しを見せたものの、7月3日に一軍選手登録を抹消されたが、ファームで結果を残し、7月14日には再登録された。

9月4日の東京ヤクルトスワローズ戦では、鶴岡一成セス・グライシンガーが先発投手であった為に、捕手として先発出場)、阿部慎之助(この日は一塁手で出場し、マスクは被っていない)がダッグアウトに退いた後に起用された加藤健が延長11回裏の打席でヤクルト投手の高木啓充の投球を頭部に受け、死球退場し、既に登録捕手を全員使いきってしまっていた為、木村本人曰く「突貫工事」で、急遽延長12回表に1999年7月6日横浜戦以来10年ぶりに捕手のポジションに就いた。豊田清藤田宗一野間口貴彦をリードし、1イニングを無失点に抑え、試合後に当日のテレビ中継の解説を務めた山本浩二(広島在籍当時の監督)から絶賛された。シーズン最終打席は巨人最終戦の10月12日のヤクルト戦において7回代打で登場、結果はサードゴロであった(この結果、木村の生涯打数は丁度4000となった。同時に、生涯打率が公式記録として認められる範囲に入った)。日本シリーズでは第4戦において8番二塁で先発出場、5回に八木智哉から安打を放っている。8回林昌範に三振を奪われており、これが現役生活最後の打席となっている。

11月7日、自身初の日本一となった日本シリーズ第6戦終了後に球団から今シーズン限りで現役を引退することが発表され記者会見を行った。[1]。2010年より巨人の一軍内野守備走塁コーチを務める。

[編集] プレースタイル

2006年代打成功率は4割を超え、「代打の神様」と呼ばれた八木裕から、2007年にオープン戦の解説で「代打で結果を残すスイッチヒッターは怖い」と絶賛された。

バントが非常に巧く、無死や塁上にランナーがいない場面でも積極的にセーフティバントを試みることもある。盗塁に関しては、年齢のせいか広島時代のように積極的に企図する機会は減ったものの、巨人移籍後も俊足は健在で守備範囲も広かった。前述のとおり肩も非常に強く、外野守備時には度々矢のような送球を魅せた。広島で長期にわたってリードオフマンを任され、巨人移籍後も2番などの上位打線を打つ機会が多いのもこうした小技や堅実さが優れていたという理由がある。広島に在籍していた頃は長打を意識するあまり、前述のように三振数が多いことが大きな課題であったが、巨人移籍後はその傾向が改善された。得点圏での勝負強さや確実性のみならず、出塁率得点圏打率も大幅に向上している。

打席登場曲は2007年Fatboy Slimの「Slash Dot Dash」。2008年からRage Against The Machineの「Guerrilla Radio」を使用。

[編集] ユーティリティープレイヤー

投手以外全てのポジションを守れる(投手も高校時代に経験あり)上にスイッチヒッターというとてつもなく器用な選手である。巨人移籍以降は正二塁手としての出場も増えている。途中出場であっても、二塁手で先発している選手を他のポジションに移し、二塁を守る事が多かった。

本職は元々は捕手で、プロ入り後は主に二塁手・中堅手であるが、プロでは投手以外の全てのポジションを経験している。本職以外のポジションでも、堅実にこなすことができるのが持ち味である(ただし捕手と一塁手を守った機会は他のポジションに比べて極端に少ない。だが下記のように、巨人では本職である二塁手の次に多かったのが一塁手である)。1999年以降内野を守る機会が多くなったが、2007年度まで外野手としての登録であり、2008年に内野手登録となった。

守った機会は少ないが遊撃の守備も非常に上手く、俊足強肩を生かした守備は本職が遊撃手である選手と遜色ない。一方で本人が「センターラインより左のポジションは自信がない」と言う通り、三塁の守備は不得意としており、巨人移籍後は終盤に二塁手以外にチームの都合から不慣れではあるが一塁手の守備要員としての出番が増えた。

あくまでも統計上の数字にすぎないが、2007年の守備機会による二塁守備評価(→レンジファクター)は前任者である仁志敏久よりも高かった。これは彼の守備が名手と呼ぶに値している証明と言える。

2009年、試合時の予期せぬ事態により、広島在籍時には一時守っていたものの、プロ入り後はあまりつくことのなかった捕手のポジションに10年ぶりに就くことになった。

ユーティリティプレイヤーになっていく過程は、ドラフト外でのプロ入りから始まり、「チームで空いてるポジションを探して、そこに入ろうとした」結果である。ドラフト外のプロ入りについて「今で言う育成選手ですよ」というコメントをしており、「後に続く人たち(育成選手を含む若手)の目標になりたい」と語っている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S
1992 日本ハム 6 15 13 3 3 2 1 0 5 1 1 0 1 0 1 0 0 3 0 .231 .286 .385 .670
1993 29 18 16 4 3 0 0 0 3 2 0 1 0 0 2 0 0 3 0 .188 .278 .188 .465
1994 83 41 39 6 8 3 0 0 11 0 2 0 1 0 0 0 1 10 1 .205 .225 .282 .507
1995 広島 7 7 7 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
1996 30 15 14 5 2 0 0 0 2 0 4 2 1 0 0 0 0 4 0 .143 .143 .143 .286
1997 77 88 78 17 18 1 0 0 19 5 8 1 2 0 8 0 0 25 0 .231 .302 .244 .546
1998 86 150 131 20 32 5 2 0 41 8 14 2 5 1 13 0 0 27 0 .244 .310 .313 .623
1999 90 231 205 23 51 6 1 3 68 13 6 2 15 1 10 0 0 39 10 .249 .282 .332 .614
2000 136 620 572 74 165 34 2 10 233 30 17 15 11 1 33 1 3 80 4 .288 .330 .407 .737
2001 137 630 551 78 145 23 5 7 199 45 18 11 16 2 61 1 0 129 5 .263 .336 .361 .697
2002 130 449 412 46 98 18 1 5 133 27 6 1 13 1 20 0 3 66 7 .238 .278 .323 .600
2003 131 537 473 64 135 19 0 13 193 38 14 6 26 3 30 4 5 95 6 .285 .333 .408 .741
2004 85 183 161 21 40 8 2 2 58 12 4 0 4 1 17 0 0 32 2 .248 .318 .360 .679
2005 111 354 313 32 77 9 0 2 92 16 3 5 13 0 26 2 2 41 9 .246 .308 .294 .602
2006 巨人 62 169 146 12 38 7 0 0 45 7 0 2 5 1 16 0 1 32 2 .260 .335 .308 .644
2007 113 338 311 26 82 15 2 2 107 29 4 4 5 2 17 2 3 64 6 .263 .306 .344 .650
2008 124 432 372 46 109 21 0 7 151 31 1 3 26 2 27 1 5 61 3 .293 .347 .406 .753
2009 86 210 186 17 43 8 0 2 57 16 1 0 8 2 12 0 2 38 2 .231 .282 .306 .589
通算:18年 1523 4487 4000 495 1049 179 16 53 1417 280 103 55 152 17 293 11 25 752 57 .262 .315 .354 .670

[編集] 年度別守備成績



外野 二塁 遊撃




































1992 5 12 1 0 0 1.000 - -
1993 26 13 0 0 0 1.000 - -
1994 80 50 4 0 0 1.000 - -
1995 3 3 0 0 0 1.000 1 2 1 1 1 .750 -
1996 17 8 0 0 0 1.000 - -
1997 38 15 0 0 0 1.000 10 17 16 1 4 .971 -
1998 35 40 3 0 2 1.000 10 9 20 1 4 .967 4 6 12 2 2 .900
1999 25 17 0 1 0 .944 44 58 106 6 26 .965 9 5 11 3 2 .842
2000 50 83 3 2 0 .977 118 237 365 14 81 .977 -
2001 122 200 7 3 1 .986 34 58 80 4 12 .972 -
2002 36 49 1 0 0 1.000 62 71 138 3 18 .986 46 48 102 2 22 .987
2003 11 8 0 0 0 1.000 110 235 339 9 63 .985 2 0 0 0 0 -
2004 43 31 0 0 0 1.000 21 20 33 2 10 .964 1 1 0 0 0 1.000
2005 12 10 1 0 1 1.000 81 134 235 7 38 .981 29 15 26 2 3 .953
2006 31 35 0 0 0 1.000 19 29 33 3 8 .954 -
2007 3 0 0 0 0 - 92 195 232 3 54 .993 -
2008 2 2 0 0 0 1.000 103 166 213 5 40 .987 -
2009 - 64 115 126 3 21 .988 -
通算 539 576 20 6 4 .990 769 1346 1937 62 380 .981 91 75 151 9 29 .962


三塁 一塁
























1998 - 1 1 0 0 1 1.000
1999 4 1 5 1 0 .857 -
2002 9 0 6 0 2 1.000 -
2003 13 7 15 4 1 .846 -
2004 10 1 9 4 0 .714 -
2006 7 3 10 0 2 1.000 -
2007 - 2 3 0 0 0 1.000
2008 18 8 22 2 2 .938 20 47 5 1 4 .981
2009 - 16 34 2 0 1 1.000
通算 61 20 67 11 7 .888 39 85 7 1 5 .989


捕手






















1999 4 10 2 0 1 1 1.000 4 4 0 .000
2009 1 2 0 0 0 0 1.000 0 0 0 -
通算 5 12 2 0 1 1 1.000 4 4 0 .000

[編集] 背番号

  • 59 (1991年 - 1994年)
  • 41 (1995年 - 1998年)
  • 58 (2006年6月8日 - 同年終了迄)
  • 0 (1999年 - 2006年6月7日、2007年 - 2009年)
    • 27 (アテネ五輪代表時)
  • 84 (2010年 - )

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

[編集] エピソード

広島時代には木村一喜が、巨人移籍後は木村正太が同チームに所属しているため、実況や場内アナウンスでは必ず「きむらたくや」と呼ばれ、スコアボードにも「木村拓」と表示される。

SMAPの「キムタク」こと木村拓哉と同じ1972年生まれで、野球中継の一行紹介で「球界のキムタク」と紹介されることも多い。2人はフジテレビ系『SMAP×SMAP』の特別企画『同学年』で対談したことがあり、対談の席で拓也が試合中にホームランを打つことを拓哉に約束、収録日(2002年9月7日)に行われた巨人-広島戦(東京ドーム、当時は広島在籍)で拓也が実際にホームランを放って拓哉が喜ぶという姿が見られた。なお、世界に一つだけの花のアルバムバージョンのPVにおいても再度共演を果たしている。

「キムタク」というニックネームから、知らない人はイケメンと想像する人が多く、「たいしたことないじゃん」とか「どこがキムタクなの?」とか言われるのを耳にし、ショックを受けることもあったという。また、検索エンジンで「木村拓也」と入力した際、「木村拓哉ではありませんか?」と結果表示されることがショックだと語っている。

[編集] 関連項目

[編集] 脚註

  1. ^ 巨人:木村拓也が現役引退 毎日新聞 2009年11月7日閲覧
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