木村拓也

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木村 拓也
木村拓也20040219.jpg
広島時代(2004年2月19日、日南市天福球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県宮崎郡田野町(現・宮崎市
生年月日 1972年4月15日
没年月日 2010年4月7日(満37歳没)
身長
体重
173 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 内野手外野手捕手
プロ入り 1990年 ドラフト外
初出場 1992年9月29日
最終出場 2009年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2010)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

木村 拓也(きむら たくや、1972年4月15日 - 2010年4月7日)は、宮崎県宮崎郡田野町(現・宮崎市)出身の元プロ野球選手内野手外野手捕手)、プロ野球コーチ。愛称はキムタク

来歴・人物[編集]

高校時代は捕手を務め、宮崎県立宮崎南高等学校では1年夏の甲子園(70回大会)で1勝、3年春には5打席連続三塁打、高校通算35本塁打の記録を持つ。遠投120mの強肩捕手として鳴らしていた。

父親は旧・田野町町議会議員を長く務めた地元の名士である[1]

日本ハム時代[編集]

1990年に捕手としてドラフト外日本ハムファイターズに入団。しかし、開幕時の支配下登録の当時の60人枠から漏れ、一度は任意引退選手扱いとなったことがあった。

1992年に俊足と強肩を買われて外野手に転向[2]

広島時代[編集]

1994年オフに長冨浩志投手との交換トレードで広島東洋カープに移籍。移籍当初は打撃もかなり非力であった。正田耕三の後釜候補として二塁手に就き、以後内野の守備も兼ねるようになる。

1996年オフにスイッチヒッターに転向し、1997年よりスイッチヒッターデビューした。

1997年秋季キャンプから故障がちな野村謙二郎の控えとして遊撃手に挑戦。これが大きな転機となる。

1998年、公式戦で遊撃を守ったほか代打の切り札として活躍、盗塁も14個記録してスーパーサブとしての役割を果たした。

1999年には一時捕手への再転向案が浮上し、公式戦でも4試合捕手を守った。この頃よりユーティリティープレイヤーとなり、この年だけで投手・一塁手以外の全ポジションを守っている。同年は広島市民球場のバックスクリーンにプロ初本塁打を放つなど課題のバッティングも向上し、2000年には1番打者として初の規定打席に到達したのに加え、打率2割8分8厘、10本塁打、30打点、165安打の好成績を残すなど10年目にしてブレイクした。以降は3年連続して130試合出場するなど、チームにとって欠かせない存在となる。

2001年は2番エディ・ディアスとのコンビでシーズン通じて1番打者で活躍し、自己最高の45打点をマークするも、打撃にパンチ力がついたためか引っ張り中心のスイングが目立つようになり、加えてリードオフマンとしては三振が多いのも課題で、最も打席数の多い1番という条件を考慮しても、129個もの三振を喫している。首脳陣からもその点を指摘された事もあって、コンパクトかつ確実性を重視したバッティングスタイルを心掛けるようになる。

2002年は遊撃手・東出輝裕の故障により、それまで二塁・中堅での起用が主であったが、遊撃での起用も多くなった。経験が少ないわりに堅実な守りを見せたが、打撃面での成績は前年を下回った。

2003年には東出が二塁へコンバートされることになったため、木村が遊撃へ回る案も出たが、アンディ・シーツの獲得により実行はされなかった。しかし、東出から二塁のポジションを奪還し、自己最高の13本塁打を放ったのに加え、センター前に渋く打ち返すシュアな打撃にも磨きがかかり、打率も2割8分を超えた。シーズン通して二塁を主に守っていたが、三塁や外野、シーツが退いた場合は遊撃の守備にもついた。

2004年にはアテネオリンピック野球日本代表に選出(詳細は後述)。10月9日の対横浜28回戦では三浦大輔の前に三重殺(記録はセンターフライ)を喫している。このシーズン以降は若手選手の急成長に加え、足や腰を故障するなどして、打撃や走塁で満足なプレーを残せず、スタメン出場の機会は著しく減少した。シーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、手術を受けた。

2005年は開幕早々守備で魅せ、遊撃の尾形佳紀と不動の二遊間を構成するかと思われていたが、尾形の故障により結局固定されなかった。打順は一定しないもののほぼ二塁・遊撃を守る。レギュラーに定着しかけていたが腰痛を発症し、8月上旬に離脱した。1ヶ月後復帰したが、以後はスタメン起用は大幅に減った。

2006年シーズン、新任のマーティ・ブラウン監督の若手起用の方針により開幕二軍スタートとなり、全く一軍での起用がなく、本人の希望もあって6月5日山田真介外野手との交換トレードで巨人へ移籍。広島OBの江夏豊は「広島は大きな損失をした」と木村の移籍を惜しんだ。なお、広島時代の応援歌「足の速さは 誰にも負けない 風を切り走れ 木村拓也」のフレーズは現在、同姓の木村昇吾に引き継がれている。

巨人時代[編集]

「出番を求めてトレードを志願したのに、トレード先が戦力の充実している巨人だった」と、トレードに懐疑的な考えを抱いていたが、移籍後間もない同年6月7日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で早くも一軍登録され、4回表に指名打者でスタメンだった原俊介の代打で初出場。試合途中に李承燁の負傷退場もあり、三塁手中堅手としても出場し、いきなりの活躍を見せる。シーズン終了後の契約更改では、代打出場での打率が高く代打の切り札として起用され、多くの選手の年俸が引き下げられる中、年俸5000万円(推定)から、200万円アップの5200万円(推定、本人は「旅費分くらいは上がった」と答えている)を勝ち取った。

2007年シーズンは、二塁手として加入した新外国人のルイス・ゴンザレスが開幕早々に離脱した事もあり、対右先発時のスタメン二塁手として活躍する。慣れた二塁での起用だった事もあり、この年の100試合以上に出場した二塁手の中では関本健太郎の守備率.994に次ぐ守備率.993を記録し、守備能力の健在ぶりをアピールした。

2007年には偶に捕手練習をしていたこともあり、捕手2人制を敷いていた巨人では、正捕手の阿部慎之助が欠場や途中交代した際はブルペンに入って、捕手としての出場に備えた事が数試合あった。

上記のようにチームの穴を埋める活躍を見せたことで、2007年シーズン終了後には、自身プロ入り後最高年俸となる6500万円(推定)で更改し、会見では笑顔も見せた。また、原辰徳は別の席で「今年、タク(木村の愛称)がいなかったらと思うとゾッとしますね」とコメントしている。

2008年は開幕から2番、二塁に定着し打撃も好調で打率3割をキープし続け、中軸へのつなぎ役として重要な役割を果たした。5月26日の対日本ハム戦では故障で欠場した小笠原道大に代わり3番でスタメン出場し、先制点となる本塁打を放ち勝利に貢献した。試合後のヒーローインタビューでは「ジャイアンツは主力がいなければ弱いのかと思われたくない。だから絶対に勝ちたかった」とコメントした。6月21日の対ソフトバンク戦では延長12回に自身5年ぶり、巨人移籍後初となる逆転サヨナラ打を放った。その日は、それまで3度のチャンスの打席で全て三振し、バットを叩きつけて悔しがったが、9回2死で大道典嘉が完投目前の杉内俊哉から同点本塁打を打って追い付いた後の逆転劇であった。ヒーローインタビューでは「前半にあれだけチャンスの場面で三振ばっかりしてたんで、申し訳なくて。それを大道さんが救ってくれたんでね。大道さんのためにもなんとか打ちたかったですね」と語った。9月24日には広島市民球場でプロ野球251人目となる通算1000安打を達成するなど、シーズンを通じて正二塁手として定着し続けた。規定打席こそ僅かに及ばなかったものの、自己最高の打率.293を残し、更には広島時代の2003年以来となるシーズン100安打、チームトップの26犠打をマークするなど巨人移籍後最高のシーズンとなった。

現役最後のシーズンとなった2009年は若手選手との競争に加えて、正二塁手候補として新たにエドガルド・アルフォンゾが入団。しかし、アルフォンゾや脇谷亮太の不振で、前年同様2番セカンドで木村が固定された。一時はリーグ打率4位をマークする好調ぶりだったが、4月16日から29日にかけて20打席近く無安打を喫するなど不振に陥り、4割近い打率も一気に2割台前半へと下降した。不振の脇谷が徐々に調子を上げたこともあり、スタメンから木村が外れることも多くなった。交流戦に入ると、5月19日の北海道日本ハムファイターズ戦でシーズン第1号を含む3安打、6月16日の埼玉西武ライオンズ戦では 石井一久から逆転3ラン本塁打を放つなど、復調の兆しを見せたものの、7月3日に一軍選手登録を抹消された。ファームで結果を残し、7月14日には再登録された。

9月4日の対ヤクルト戦(東京ドーム)では、捕手登録選手が全て交代してしまったため、10年振りに捕手として出場した(詳細は後述)。

10月10日、広島時代の同僚・緒方孝市の引退試合(マツダスタジアム)では、8回からセンターの守備に就いていた緒方に向けて狙ったかのようにフライを放ち、アウトになったにもかかわらず笑顔をみせた。シーズン最終打席は巨人最終戦の10月12日、対ヤクルト戦において7回代打で登場、結果は三塁ゴロだった。この結果、木村の生涯打数は4000となり、生涯打率が公式記録として認められる範囲に入った。日本シリーズでは第1戦、第2戦、第4戦で先発出場するなど、最後まで試合の第一線で活躍し続けた。第4戦の5回に八木智哉から安打を放っている。8回は林昌範に三振を奪われ、これが現役生活最後の打席となっている。チームは4勝2敗で7年ぶりの日本一奪回。木村にとっては初の日本一であり、現役最後のシーズンにして有終の美を飾った。

11月7日、日本シリーズ第6戦終了後に球団から今シーズン限りで現役を引退することが発表され記者会見を行った[3]。引退理由については詳細に語られなかったが、若手に出番を与えるために木村の出場機会が減ることを考慮した原がコーチ就任を要請し、木村がこれを受諾した上でのことであることが後に語られている。優勝直後のニュース番組では小笠原が目に涙を浮かべて引退は早いという趣旨の言葉を語っている。ファン感謝デーでは会田有志と共に引退セレモニーを行い、息子のインフルエンザで会場に来られなかった家族に「パパは、がんばったよ」と挨拶をした。

2010年、巨人の1軍内野守備走塁コーチに就任した。公式戦開幕前の3月4日に開催された2010年度入団新人研修に講師として招聘され、新人選手を相手に、自らがドラフト外で入団してから引退するまでの19年間の選手生活について、「プロとしてやれた秘訣」として「ハワイでのウインターリーグでイチローと同室になり、イチローの野球に対する姿勢を見て自分の甘さに気づいた」ことを語り、「この世界で食っていくためには、自分自身を知って可能性を探ることも大事だ」と述べて新人選手を鼓舞した[4]

突然の死[編集]

2010年4月2日17時40分頃、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島での対広島東洋カープ1回戦の試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失しそのまま倒れ込んだ。直ちにその場で関係者や両チームの選手、救急隊によってAEDで蘇生処置を受けた後、広島大学病院に緊急搬送された。医師による検査などの結果、クモ膜下出血と診断され[5]、そのまま緊急入院して治療を受けていたが、意識不明の重体から容態は改善することのないまま、2010年4月7日3時22分に入院先の病院で息を引き取った。37歳没[6]。なお、清武英利球団代表は同日の記者会見で「搬送された時点で、すでにレベル5の最悪の状態だった」と状況を語った。目立った前兆は無かったが、広島入り直前に関係者に対して「ひどい頭痛に見舞われて、2時間ぐらいしか眠れなかった[7]」「食べる量は変わらないのに痩せた」と話していたという[8]。生死をさまよう中、巨人の選手は木村の背番号「84」をつけて、巨人ファンは現役時代の応援歌を、広島ファンも広島在籍時の応援歌をそれぞれ熱唱し、「ガンバレ、ガンバレ、拓也」とエールを送り、復帰を祈っていた。

死去当日の4月7日は、開催されたプロ野球の全試合会場で半旗を掲揚したほか、試合前に黙祷が捧げられ、マツダスタジアムではかつて在籍した広島の松田元オーナーらにより、倒れた場所である本塁付近に献花が捧げられた(同球場では試合なし)。また、生前所属していた巨人・広島の各選手と関係者、当日に巨人の対戦相手で広島時代に同僚だった阪神金本知憲新井貴浩岡義朗1軍野手チーフコーチ、広島の当日の対戦相手で、広島時代の同僚だったヤクルト福地寿樹などが喪章を付けて試合を行った[9][10]。巨人はこの日の対阪神タイガース戦に勝利、小笠原道大は決勝本塁打(甲子園での本塁打は小笠原自身初)を放ち、木村に白星を捧げた。通夜は4月9日、葬儀・告別式は4月10日にそれぞれ広島市内で営まれ、3000人以上の多くの関係者やファンが詰めかけ、別れを惜しんだ。法名は「唯信」。

4月24日には東京都内で「お別れの会」が行われ、告別式に参列できなかった巨人の選手・関係者や、当日の試合のため東京入りしていた広島の選手も参列、改めて故人との別れを惜しんだ。同日の対広島東洋カープ戦は「追悼試合」として開催され、この試合の始球式は木村拓也コーチの当時小学5年生の長男が父が巨人でコーチをしていた時のユニフォームを着て始球式を務めた。同世代で移籍組の谷佳知が、木村と同年(1994年)に広島へ入団した高橋建から代打逆転満塁本塁打(レギュラーシーズンでの満塁本塁打は初)を放ち、巨人の勝利に貢献。インタビューで木村に対する思いを涙ながらに語った。

その後は、巨人軍と密接な関係にある日本テレビで追悼特番が組まれ、他のテレビ局や野球雑誌などでも2010年シーズン中は木村に関する話題が幾度も取り上げられた。球界関係者のコメントには人格面・技術面を高く評価していたものも多く、指導者・プロ野球OBとしての今後に大きな期待を掛けられていた木村の突然死は、球界とその中でも木村が多くの足跡を遺した広島・巨人両球団にとって大きな人的損失であったことが窺える。

プレースタイル[編集]

シーズン打率3割もゴールデングラブ賞も獲得していないが、「俊足・強肩・巧打」と、攻守ともに優れたユーティリティープレイヤーとして重宝された選手だった。2006年の代打成功率は4割を超え、かつて「代打の神様」と呼ばれた八木裕「代打で結果を残すスイッチヒッターは怖い」と絶賛した。

ユーティリティプレイヤーになっていく過程は、ドラフト外でのプロ入りから始まり、「チームで空いているポジションを探して、そこに入ろうとした」結果である。ドラフト外のプロ入りについて「今で言う育成選手ですよ」というコメントをしており、「後に続く人たち(育成選手を含む若手)の目標になりたい」と語っていた。

バントが非常に巧く、無死や塁上にランナーがいない場面でも積極的にセーフティバントを試みることもあった。盗塁に関しては、巨人移籍後は広島時代のように積極的に企図する機会は減ったものの、俊足は健在で守備範囲も広かった。前述のとおり肩も非常に強く、外野守備時には度々矢のような送球を見せた。広島で長期にわたってリードオフマンを任され、巨人移籍後も2番などの上位打線を打つ機会が多かったのもこうした小技や堅実さが優れていたという理由がある。広島に在籍していた頃は長打を意識するあまり、前述のように三振数が多いことが大きな課題であったが、巨人移籍後はその傾向が改善された。得点圏での勝負強さや確実性のみならず、出塁率得点圏打率も大幅に向上した。2008年の日本シリーズでは第1戦の7回表、スクイズと見せかけてわざと空振りし、一塁走者を進める偽装スクイズを成功させた(直後、李のタイムリーで逆転勝ち)。

打席登場曲は2007年Fatboy Slimの「Slash Dot Dash」。2008年からRage Against The Machineの「Guerrilla Radio」を使用。

球界屈指のユーティリティープレイヤー[編集]

投手以外全てのポジションを守れる(投手も高校時代に経験あり)上にスイッチヒッターという器用な、言い換えれば采配を取る監督にとっては自在に使える便利な選手であった。巨人移籍以降は正二塁手としての出場も増えた。途中出場であっても、二塁手で先発している選手を他のポジションに移し、二塁を守る事が多かった。

本職は元々は捕手で、プロ入り後は主に二塁手・中堅手であるが、プロでは投手以外の全てのポジションを経験した。本職以外のポジションでも、堅実にこなすことができるのが持ち味であった(ただし捕手を守った機会は他のポジションと比べて極端に少ない)。1999年以降内野を守る機会が多くなったが、2008年に内野手登録となるまでは外野手として登録されていた。

守った機会は少ないが遊撃の守備も非常に上手く、俊足強肩を生かした守備は本職が遊撃手である選手と遜色ない。一方で本人が「センターラインより左のポジションは自信がない」と言う通り、三塁の守備は不得意としており、巨人移籍後は終盤に二塁手以外にチームの都合から不慣れではあるが一塁手の守備要員としての出番が増えた。

あくまでも統計上の数字にすぎないが、2007年の守備機会による二塁守備評価(→レンジファクター)は前任者である仁志敏久よりも高かった。

そういった中でも、彼のユーティリティープレーヤーぶりを表す象徴的な出来事が、2004年アテネオリンピック野球日本代表選出と、2009年9月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦17回戦での急遽捕手としての出場である。

巨人時代の原辰徳監督からは絶大なる信頼を受けていた。移籍当初の巨人はFA制度を利用しての補強が相次ぎ、その影響で世代交代・若手の育成が急務だった。原は木村に同じく巧打・堅守で知られた川相昌弘のような役割を期待していた。木村が守備で緩慢なプレーでミスをした際、すぐ交代させるなど、木村には若手への見本となるためのハードルを高く敷いた。木村もこれによく応え、野手のチームリーダー格として若手を牽引した。木村が引退時の巨人は小笠原・アレックス・ラミレスマーク・クルーンなどまだ他球団からの移籍選手に依存していたが、2012年の優勝では打者では坂本勇人長野久義、阿部、投手では内海哲也山口鉄也西村健太朗などが主力となり、木村の努力は実を結んだといえる。

現役最晩年に最も活躍し、メディアでも注目を浴びた非常に珍しい選手である[11]。また、他球団の主力選手で巨人に移籍した選手は結果を残せぬまま退団する選手も多かったなか、巨人移籍後も攻守にわたって重宝され、原巨人のリーグ3連覇に大きく貢献した。引退後すぐに巨人のコーチ就任を打診されるなど、他球団出身の選手としては異例の待遇を受けた。原は2012年のリーグ優勝後、「ようやく拓也にいい報告が出来る」と振り返った。

アテネオリンピック日本代表として[編集]

アテネオリンピックでの野球日本代表は各チームから2名以内の選出という申し合わせ事項があり、広島からエースの黒田博樹と共に選出されたのは、当時連日スタメンに名を連ねていた前田智徳新井貴浩ではなく、グレッグ・ラロッカ緒方孝市と交代でセカンドやセンターで出場する機会の多かった木村だった。オリンピックにおける野球競技(を含めた野球の国際大会)では、ベンチ入り可能な選手人数が非常に少ないため、複数のポジションをこなせる選手は重宝された。アテネオリンピックの公式記録集では日本代表で唯一、ユーティリティープレーヤーである「U」の表記となっている[12]。試合出場は予選リーグの対ギリシャ戦(8回から谷佳知との交代でレフトを守る)と、3位決定戦となった対カナダ戦(8番レフトでフル出場)の2試合にとどまったが[12]、試合での攻守のみならず、雑用係やブルペンキャッチャーとしても活躍し、長嶋茂雄からは「率先して裏方の仕事を手伝い、銅メダルに貢献してくれた」と称えられた[9]

2009年9月4日、対ヤクルト17回戦[編集]

2009年9月4日東京ドームで行われた対東京ヤクルトスワローズ17回戦。巨人の先発はセス・グライシンガーのため、相性を考慮して先発捕手は鶴岡一成、正捕手の阿部慎之助は一塁手として先発出場した。阿部は7回表の守備で途中交代、鶴岡も8回裏に木村が代打に起用されて退き、9回表から唯一残った捕手である加藤健が出場。木村は二塁の守備に付いた。試合は9回裏に巨人が同点に追いついて延長戦に突入。しかし、11回裏に打席に入った加藤が頭部に死球を受けて退場し、次の12回表を守る捕手がいない、という緊急事態になった[13][14]

この時に白羽の矢が立ったのが、広島在籍時に捕手経験があった木村である。原辰徳監督は捕手起用のために木村を探したが、加藤が退場する前から出番を感じた木村は、すでにブルペンに行き、捕り慣れていない変化球を捕球する練習を行っていたという[注 1]。木村は、何時でも、どのポジションでも出られるように5種類のグラブ(一塁手用、二塁手・遊撃手兼用、二塁手・遊撃手兼用予備、三塁手用、外野手用)を常に持ち歩いていたが、捕手用のミットは持っていなかったため、「一番柔らかかったから」として鶴岡のミットを、チェストプロテクターレガースなどはブルペン捕手からそれぞれ借りたという「急造捕手」としてグラウンドへ出た[13]。捕手としての出場は広島時代の1999年7月6日の横浜12回戦に同じく「急造捕手」として出場して以来10年ぶり(3716日ぶり)であった[14]

12回表に救援登板した豊田清には、初球にフォークを投げさせるなど自らサインを出し[注 2]田中浩康を中飛に打ち取る。「豊田さんは直球とフォークしかないから。体を張って止めればいい」と割り切っていた木村だったが[13]、バッター青木宣親のところで藤田宗一に投手交代。「球種が多くて大変でした」と語りながらも、1球目シュート、2球目カーブととバッターの裏をかく配球[注 2]で入り、最後にスライダーで青木を三振に仕留めた[14]。この後飯原誉士には四球を与え、アーロン・ガイエルに右前打を浴びたが、この回3人目の野間口貴彦松元ユウイチをこのイニング延べ23球目となる151km/hの速球で三振に仕留め[14]、木村はその役割を見事に果たした。原はベンチを飛び出し、戻ってきた「捕手・木村拓」に抱きつくように何度も肩をたたいて活躍を讃えた[13][14]。当日の試合で解説を担当した広島時代の恩師・山本浩二は「こんなに上手いと思わなかった」「涙が出そうになった」と語ったほどである。ちなみに木村自身は「冷静に見えた? そんなことはない。やりづらかったですよ。心臓はバクバク。恥ずかしくて…。照れもあった」と語り[14]、直後のテレビ番組インタビューでは「(捕手は)もうやりたくない」と吐露したが、広島在籍時の監督である達川光男は、木村の性格からこの発言を「本職の捕手を立てるための気配り」と分析して賞賛した。

エピソード[編集]

SMAP・木村拓哉との関係[編集]

広島時代には木村一喜が、巨人移籍後は木村正太が同チームに所属していたため、実況や場内アナウンスでは必ず「きむらたくや」と呼ばれ、スコアボードにも「木村拓」と表示された。コーチ就任後も木村龍治がコーチして在籍している関係上、「木村拓コーチ」と表記された。同じ「きむらたくや」を名乗る著名人としては、アイドルグループ・SMAP木村拓哉がおり(漢字表記も「木村拓」まで同じ)、野球中継の一行紹介では木村拓哉の愛称「キムタク」にちなんで木村拓也を「球界のキムタク」と紹介することも多かった。

2人は同じ1972年生まれであり、関西テレビフジテレビ系『SMAP×SMAP』の特別企画『同学年』で対談したことがある。その席で拓哉は「野球はあまり詳しくないが、自分と同じ名前のプロ野球選手がいることは知っていた。違和感を覚えつつも、活躍しているのを聞くと密かに嬉しく思っていた」と語り、一方拓也は「自分もプロ野球選手としてSMAPの木村さんと同じぐらい名前を知ってもらえるようになろうと、目標にしていた」と語っている。また、この席で拓也は、収録後に行われる巨人-広島戦(2002年9月7日東京ドーム、当時は広島在籍)で本塁打を打つことを拓哉に約束。宣言通り、巨人・工藤公康から左越えに本塁打を放ち、それを聞いた拓哉が大喜びするという姿が見られた[15]。また、『SMAP×SMAP』のコーナー『ビストロスマップ』で極楽とんぼが出演した際、拓哉にプレゼントとして拓也が打ったファールボールをプレゼントしている。

主演ドラマ「月の恋人〜Moon Lovers〜」の上海ロケだった際に、拓也の緊急入院を知った拓哉は「まだ試合終了にはなっていない。奇跡を待ちたい。」とエールを送った[15]ものの、その願いは届かなかった。その後、拓也の告別式には献花も行った。

同郷関係[編集]

巨人軍の球団代表を務めた清武英利は同じ宮崎南高等学校出身で、木村の先輩である。

テレビ長崎アナウンサーの伊賀透浩とは中学の同級生である。伊賀アナは平日のKTNスーパーニュースを担当しており、4月2日に木村が倒れたニュースを東京のスタジオからの速報で知ったのが、ローカルニュースが始まる一分前であり、まさに予期せぬ突然のできごとだった。12月には木村の呼びかけで同窓会を行う予定であったという[16]

テレビ出演[編集]

日本テレビズームイン!!サタデー』(以下ズムサタ)の人気コーナー「プロ野球熱ケツ情報」に巨人移籍の2006年から多数出演。進学校出身ということもあり、博学多彩な知識を披露してコーナーを盛り上げ、同じ他球団出身の大道と共に常連出演者となった。 2010年4月10日の放送では、「ありがとう 木村拓也」と題して熱ケツ情報の名場面を振り返る追悼企画をCMを挟まずに放送した。ちなみに番組レギュラーの望月理恵は同じく番組レギュラーで巨人OBの宮本和知の代理で取材に訪れた際、木村と同じ1972年生まれと告白しているが、学年は望月が上である(望月は2月、木村は4月生まれ。そのため、木村は望月のことを先輩と呼んでいた)[17]。またズムサタでの4年間の取材をまとめたドキュメンタリー『一生懸命-木村拓也・パパが残してくれたモノ-』が同年7月25日にリアル×ワールドで放送された[注 3]

また、同じく日本テレビ『中井正広のブラックバラエティ』での野球ものまねでは現役選手ながら他の選手とともによく出演していた。2010年4月11日の放送では番組の最後に本番組出演時のVTR(2008年12月12日収録)をバックに「木村拓也さん ありがとうございました」という追悼コメントを出した。

詳細情報[編集]

通算打撃成績[編集]

















































O
P
S
1992 日本ハム 6 15 13 3 3 2 1 0 5 1 1 0 1 0 1 0 0 3 0 .231 .286 .385 .670
1993 29 18 16 4 3 0 0 0 3 2 0 1 0 0 2 0 0 3 0 .188 .278 .188 .465
1994 83 41 39 6 8 3 0 0 11 0 2 0 1 0 0 0 1 10 1 .205 .225 .282 .507
1995 広島 7 7 7 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
1996 30 15 14 5 2 0 0 0 2 0 4 2 1 0 0 0 0 4 0 .143 .143 .143 .286
1997 77 88 78 17 18 1 0 0 19 5 8 1 2 0 8 0 0 25 0 .231 .302 .244 .546
1998 86 150 131 20 32 5 2 0 41 8 14 2 5 1 13 0 0 27 0 .244 .310 .313 .623
1999 90 231 205 23 51 6 1 3 68 13 6 2 15 1 10 0 0 39 10 .249 .282 .332 .614
2000 136 620 572 74 165 34 2 10 233 30 17 15 11 1 33 1 3 80 4 .288 .330 .407 .737
2001 137 630 551 78 145 23 5 7 199 45 18 11 16 2 61 1 0 129 5 .263 .336 .361 .697
2002 130 449 412 46 98 18 1 5 133 27 6 1 13 1 20 0 3 66 7 .238 .278 .323 .600
2003 131 537 473 64 135 19 0 13 193 38 14 6 26 3 30 4 5 95 6 .285 .333 .408 .741
2004 85 183 161 21 40 8 2 2 58 12 4 0 4 1 17 0 0 32 2 .248 .318 .360 .679
2005 111 354 313 32 77 9 0 2 92 16 3 5 13 0 26 2 2 41 9 .246 .308 .294 .602
2006 巨人 62 169 146 12 38 7 0 0 45 7 0 2 5 1 16 0 1 32 2 .260 .335 .308 .644
2007 113 338 311 26 82 15 2 2 107 29 4 4 5 2 17 2 3 64 6 .263 .306 .344 .650
2008 124 432 372 46 109 21 0 7 151 31 1 3 26 2 27 1 5 61 3 .293 .347 .406 .753
2009 86 210 186 17 43 8 0 2 57 16 1 0 8 2 12 0 2 38 2 .231 .282 .306 .589
通算:18年 1523 4487 4000 495 1049 179 16 53 1417 280 103 55 152 17 293 11 25 752 57 .262 .315 .354 .670
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算守備成績[編集]


外野 二塁 遊撃 三塁 一塁




























































1992 5 12 1 0 0 1.000 - - - -
1993 26 13 0 0 0 1.000 - - - -
1994 80 50 4 0 0 1.000 - - - -
1995 3 3 0 0 0 1.000 1 2 1 1 1 .750 - - -
1996 17 8 0 0 0 1.000 - - - -
1997 38 15 0 0 0 1.000 10 17 16 1 4 .971 - - -
1998 35 40 3 0 2 1.000 10 9 20 1 4 .967 4 6 12 2 2 .900 - 1 1 0 0 1 1.000
1999 25 17 0 1 0 .944 44 58 106 6 26 .965 9 5 11 3 2 .842 4 1 5 1 0 .857 -
2000 50 83 3 2 0 .977 118 237 365 14 81 .977 - - -
2001 122 200 7 3 1 .986 34 58 80 4 12 .972 - - -
2002 36 49 1 0 0 1.000 62 71 138 3 18 .986 46 48 102 2 22 .987 9 0 6 0 2 1.000 -
2003 11 8 0 0 0 1.000 110 235 339 9 63 .985 2 0 0 0 0 - 13 7 15 4 1 .846 -
2004 43 31 0 0 0 1.000 21 20 33 2 10 .964 1 1 0 0 0 1.000 10 1 9 4 0 .714 -
2005 12 10 1 0 1 1.000 81 134 235 7 38 .981 29 15 26 2 3 .953 - -
2006 31 35 0 0 0 1.000 19 29 33 3 8 .954 - 7 3 10 0 2 1.000 -
2007 3 0 0 0 0 - 92 195 232 3 54 .993 - - 2 3 0 0 0 1.000
2008 2 2 0 0 0 1.000 103 166 213 5 40 .987 - 18 8 22 2 2 .938 20 47 5 1 4 .981
2009 - 64 115 126 3 21 .988 - - 16 34 2 0 1 1.000
通算 539 576 20 6 4 .990 769 1346 1937 62 380 .981 91 75 151 9 29 .962 61 20 67 11 7 .888 39 85 7 1 5 .989

捕手






















1999 4 10 2 0 1 1 1.000 4 4 0 .000
2009 1 2 0 0 0 0 1.000 0 0 0 -
通算 5 12 2 0 1 1 1.000 4 4 0 .000

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 59 (1991年 - 1994年)
  • 41 (1995年 - 1998年)
  • 0 (1999年 - 2006年6月7日、2007年 - 2009年)
  • 58 (2006年6月8日 - 同年終了)
  • 84 (2010年)
    • 23 (アテネ五輪予選時)
    • 27 (アテネ五輪代表時)

関連項目[編集]

脚註[編集]

注釈[編集]

  1. ^ その時の事を原は「(木村に)逃げられたと思った」とコメントした。
  2. ^ a b 球種のサインはベンチから西山秀二が指示する予定だったが、それを確認する余裕がなかったため、本人曰く「二塁守備の時に捕手が出していたサインを見た記憶を思い出しつつ」木村が自らサインを出し続けたという[14]
  3. ^ 放送は16:25~17:25。ナレーションは広島ファンの徳井義実チュートリアル)が担当。同年11月20日にも再放送された。

出典[編集]

  1. ^ “宮崎出身・木村も東知事にエール! 父が町議会議員”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2007年1月23日). オリジナル2007年1月25日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20070125015742/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20070123-OHT1T00050.htm 2013年4月13日閲覧。 
  2. ^ “「困った時の拓也頼み」プロ魂は後輩へ(巨人 木村拓也内野手・37歳)”. デイリースポーツ (神戸新聞社). (2009年12月15日). オリジナル2009年12月18日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091218033433/http://www.daily.co.jp/baseball/retire/2009/12/15/0002583040.shtml 2013年4月13日閲覧。 
  3. ^ “巨人:木村拓也が現役引退 来季は巨人のコーチに”. 毎日jp (毎日新聞社). (2009年11月8日). オリジナル2009年11月9日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091109054109/http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/pro/news/20091108k0000m050067000c.html 2013年4月13日閲覧。 
  4. ^ NPB新人研修 木村拓コーチ講義内容 讀賣巨人軍公式サイト 2010年3月4日閲覧
  5. ^ “木村拓也コーチが倒れ病院に搬送…くも膜下出血と診断”. スポーツ報知. (2010年4月2日). オリジナル2010年4月5日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100405040001/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20100402-OHT1T00191.htm 2013年4月13日閲覧。 
  6. ^ “巨人の木村拓也コーチが死去…意識戻らぬまま”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月7日). オリジナル2010年4月10日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100410094822/http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20100407-OYT1T00295.htm? 2013年4月13日閲覧。 
  7. ^ “木村拓コーチ重体…試合前ノック中「くも膜下出血」”. スポーツニッポン. (2010年4月3日). オリジナル2010年4月7日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100407104527/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/04/03/01.html? 2013年4月13日閲覧。 
  8. ^ “「やせてしまった」と漏らす くも膜下出血の木村コーチ”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2010年4月3日). オリジナル2010年10月31日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20101031163628/http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100403/bbl1004031144005-n1.htm 2013年4月13日閲覧。 
  9. ^ a b “人間性で周囲魅了 木村拓也氏死去”. 中国新聞. (2010年4月8日). http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cw201004080080.html 2010年4月8日閲覧。 
  10. ^ “広島で同僚の金本「信じたくありません」”. nikkansports.com. (2010年4月8日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20100408-615485.html 2010年4月8日閲覧。 
  11. ^ 朝日新聞 2009年12月18日
  12. ^ a b ATHENS2004 Olympic Baseball Centre” (英語). LA84 Foundation (2004年8月24日). 2011年11月21日閲覧。
  13. ^ a b c d “12回二塁手から変身、キムタクが捕手で抑えた”. 日刊スポーツ. (2009年9月5日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20090905-539855.html 2013年11月9日閲覧。 
  14. ^ a b c d e f g “【9月4日】2009年(平21) 捕手がいない!“何でも屋”木村拓也 心臓バクバクの23球”. スポーツニッポン. (2010年9月). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10september/KFullNormal20100901214.html 2013年11月9日閲覧。 
  15. ^ a b “キムタク、巨人・木村拓也コーチにエール”. SANSPO.COM (サンケイスポーツ). (2010年4月5日). オリジナル2010年7月25日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100725140114/http://www.sanspo.com/geino/news/100405/gng1004050512002-n1.htm 2013年4月13日閲覧。 
  16. ^ ZEROの会 - テレビ長崎アナウンサーズ・伊賀透浩ブログ2010年12月25日
  17. ^ 2008年10月25日放送分にて。

外部リンク[編集]