工藤公康

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工藤 公康
Kudo Kimiyasu.jpg
横浜ベイスターズ時代(2009年7月22日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県豊明市
生年月日 1963年5月5日(51歳)
身長
体重
176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1981年 ドラフト6位
初出場 1982年4月10日
最終出場 2010年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、愛知県豊明市出身の元プロ野球選手投手)。所属した西武ダイエー巨人の3球団で日本シリーズを制覇したことから、優勝請負人と呼ばれた。2012年からは、野球解説者野球評論家として活動している。長男は俳優工藤阿須加、長女はプロゴルファー工藤遥加

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校)時代は山本幸二とバッテリーを組み、1981年第63回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦では長崎西高校戦で史上18人目、19度目(金属バット採用後初めて)のノーヒットノーランを記録(4-0)。チームをベスト4に導いた。

同年のドラフト会議では1位指名が確実といわれながらも、熊谷組への就職を発表しプロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、西武ライオンズが6位で強行指名した。その後、説得に応じ入団となった(当時のマスコミには、「6位指名ながら、1歳上で1位指名の伊東勤より高額の契約金・年俸」と推定されていた)。

入団時の経緯については、管理部長の根本陸夫が主導して指名、入団にこぎつけたとされ、俗に「根本マジック」、「球界の寝業師」などと称される出来事のひとつであると長年伝えられ、工藤自身もそう思っていたが、2012年に週刊文春で工藤が2011年に広岡達朗から聞いた話として語った所によれば、根本は工藤を入団させる事には当時は反対の立場で、積極的に入団させようとしていたのは当時西武の監督だった広岡だったという[1]

西武時代[編集]

入団1年目の1982年から監督の広岡達朗から“坊や”と可愛がられ中継ぎで起用された[2][3]。この年のパ・リーグのプレーオフに登板し、第2戦では江夏豊と投げ合って勝ち投手になっている。なお、前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であり、パ・リーグの旧プレーオフを経験した選手の中では最後まで現役を続けていた。

その後はやや伸び悩んだが入団3年目の1984年に広岡に命じられアメリカの1A・サンノゼ・ビーズへ留学しメジャーリーグの野球を見たことが転機となり、帰国し宮田征典の指導を受け主力投手となった[4]

1985年に初タイトルとなる最優秀防御率を獲得。

1986年の日本シリーズで西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2Sを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。

1987年は2度目となる最優秀防御率、最高勝率ベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修に譲った。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。しかし、その後故障もあり、一時低迷する。

1991年シーズンに自己最高の16勝を上げ復調し、最高勝率を獲得。

1993年のシーズンは15勝3敗と安定感抜群の好成績で最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。

1994年秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことからFA権を行使。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスに移籍した。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。

地元ということで中日ドラゴンズもこの頃獲得に乗り出すも失敗している。

ダイエー時代[編集]

ダイエーでは投手の柱として活躍すると共に、武田一浩と共に、城島健司を日本を代表する捕手に育てあげた。特にリード面に関しては、試合中にベンチ前でリードの意図について城島に問い詰める場面が度々見られたり、打たれるとわかっていても敢えて城島のサイン通りに投げて打たれ、何故打たれたのかをマウンド上で言って聞かせるなど徹底したものであった。これについて工藤は「試合の中が一番いいんです。試合が終わった後であの球はああだったこうだったと言っても、もう遅いんですよ。」と語っており、こうした体当たりの指導で城島を育てていった。そうした甲斐あり1999年のシーズン始めには城島に対して「今年一年お前の出すサインには首を振らないから、自信を持ってサインを出せ」と述べていたという。その年チームは球団初のリーグ優勝・日本一に輝き、日本一決定後のマウンド付近で工藤と涙を流す城島が抱擁していたシーンは有名。工藤と城島のバッテリーはシーズン終了後に最優秀バッテリー賞を受賞。

1999年は武田が退団したが、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に登板し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封という圧巻の投球を披露した(この試合で稲尾和久(西鉄)の持っていた日本シリーズ通算奪三振数の日本記録を塗り替えた)。中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーは4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。オフにはFA宣言。一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが[5]、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が決定。4年契約を辞退し、単年契約を結んだ[6]

巨人時代[編集]

2000年は12勝を挙げてリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。2001年は5試合の登板に終わったが、2002年以降は先発ローテーションの一員としてチームに貢献。しかし打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。

2004年8月17日、対ヤクルト戦で2失点完投勝利で通算200勝を達成、日本プロ野球史上23人目、41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録。また、この試合でプロ入り初本塁打を記録、41歳、プロ入り23年目での初本塁打は日本プロ野球史上最年長記録。

2005年5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録(当時)を更新。2005年8月26日の対阪神戦では最年長2桁勝利記録(当時)を更新した。2013年現在では、最年長200勝を含め、いずれも山本昌が記録を更新している。

2006年はシーズン前半に3勝を挙げ、7月には大野豊を上回り、プロ野球史上初の43歳2か月以上の現役左腕投手となった。しかし、6月~7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩痛も発症し、登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績でシーズンを終えた。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志山口鉄也木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。

横浜時代[編集]

2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉健の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明している。そして1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号は47。

マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久と共に巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBSアナウンサー青木裕子の「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです。」と、茶目っ気たっぷりに答えた。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。

2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。5月23日、対西武戦に登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。

2007年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[7]。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。開幕当初は打ち込まれ二軍落ちも経験したが、再昇格以降は安定した投球を続けた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。

2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。

2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。9月15日、選手の若返りを図りたい球団本部から、戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約となる旨の通知を受ける。現役続行の意思を示し、古巣の西武が獲得の意向を示した。

西武復帰[編集]

2009年11月14日、工藤が「家族会議の結果、西武にお世話になる事に決めた」と明言、16年ぶりに古巣に復帰することになった。デビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕の帆足和幸がつけており、帆足は「(背番号47は)元々は工藤さんの番号。工藤さんや球団が望むのであれば喜んで返還する」との意向を見せたが、「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」として工藤本人が47番を固辞した[8]。11月16日、背番号は「55」と発表された[9]

2010年7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実動年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの一発を浴び、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団[10]

西武退団後・引退表明[編集]

西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、2011年シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した[11]。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送のゲスト解説者も務めた。この頃父親が死去しており、告別式に顔を出せないほど多忙だったという。

7月、秋にメジャーリーグのトライアウトを受験するつもりである旨表明した[12]が、後述の通り肩の傷が癒えなかったことから受験には至らなかった。

2011年11月22日のスポーツ報知の取材で、肩関節唇に炎症を抱えるなど肩の調子が上がらないことで、本人の口から引退を示唆する発言が出た。最終的な進退判断は、家族と話し合って決めるとしていた[13]。その後、横浜ベイスターズを買収したDeNAに新監督就任を要請されたが、12月5日に交渉が合意に至らず破談したことが明らかになった[14]。12月9日、自身のブログで肩の故障が治癒しないことから現役引退を決意したことを表明した[15]。工藤の引退後は、中日山本昌が日本プロ野球で最年長の選手である。

2012年4月7日、西武ド-ムでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武の監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立ち[16]、工藤の投じたゆるい大きなカーブはワンバウンドし、工藤は「マウンドから届かなかったのは初めて」とコメントしている[17]

引退後[編集]

2012年からは、日刊スポーツ文化放送ライオンズナイター』の解説者として活動[18]テレビ朝日の『報道ステーション』にも、日本ハムの監督に就任した栗山英樹の後任扱いで、プロ野球担当キャスターとして定期的に出演している[19]

また、2011年まで栗山が務めていた朝日放送の「熱闘!高校野球ナビゲーター」を継承。全国高等学校野球選手権大会の予選・本大会期間中には、プロ野球の解説・評論活動と並行しながら、同局が制作する大会関連番組(『速報!甲子園への道』『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当する[20]

2013年7月19日、自身のブログ筑波大学大学院に合格したことを発表[21]。翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久吉井理人とともに入学した[22]

プレースタイル[編集]

江川卓をもってして「小学生が真似るべきは工藤投手のフォーム。まさにお手本」と言わしめる程、多くの解説者に賞賛される投球フォームを持つ。足が胸につく程にまで上げるのが特徴。工藤は、雑誌の付録の江夏豊など往年の名投手の投球フォームの分解写真(右投手なら鏡に映したという)を参考にし、子供の頃に礎を完成させた、と語っている。辻内崇伸など若い投手にも工藤のフォームを参考にした投手は多い。

工藤の特徴は、大きなカーブと優れたコントロールにある。高校時代からこのカーブはすぐにでもプロに通用すると高く評価されていた。このカーブが投げられるようになった理由を、この夏の甲子園の間の練習中に、何の気なしに親指をボールに立てて投げたら大きく曲がるようになった、と当時のテレビで話していた(甲子園の宿舎でのチームメイトとの花札遊び(オイチョカブ)という話もある)。工藤の球種は主にストレートカーブと少ないが(歳を重ねる事に、スライダー、フォーク、シンカー、カットボール(当時はまっスラ)等は投げていた。)、工藤は「ストレートとカーブだけではプロは抑えられません。でもそれぞれを何種類か持っていればいいんです。要は緩急をつけることです。」と語っており、ストレートは130km/h台後半と140km/h台後半、カーブは100、110、120、130km/h台を使い分けていたという。また、ストレートの最速は149km/hである。

20代後半に故障して科学的トレーニングで復活を果たした経験を持つことから、ウエイトトレーニングや「骨格の正しい動き」などの重要性を主張している。日本プロ野球におけるこの分野の先駆者でもある。トレーニングと平行してアフターケアにも力をいれており、専属のマッサージ師と契約している。また、40歳前後でフォークボール(スプリット)やスクリューボールを習得するなど、年齢を全く感じさせない。身体への配慮、野球への探究心が、40歳を超えても好調時は146km/h、不調の2006年も140km/h前後を計測させた。

人物[編集]

2006年までに在籍した3球団で優勝と日本一を経験しており、このことから「優勝請負人」と呼ばれ、日本シリーズでも数々の記録を保持している。最年長記録を次々と更新することから「鉄腕」と呼ばれることもある。

栄養値の高い食事をしたり青汁を飲んだりするなど食事や体調管理には気を遣っていることで有名だが、そうなったのは雅子夫人と結婚してからで、それ以前は毎日のように朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた。それが蓄積され88年シーズン途中から不調に陥り、89年には肝機能障害を発症。医師から「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態になり、89年シーズンは何度も二軍落ちを繰り返し4勝8敗・防御率4.96という散々たる成績で、戦力外通告を覚悟したという。同年オフに雅子夫人と結婚した際のプロポーズは「(野球を辞めて)山にこもって暮らそうよ」だったが、雅子夫人が「夫をもう一度野球を出来る身体にして、野球で喜ぶ顔が見たい」と、引退を考えていた工藤を説得し、夫婦二人三脚での体質改善に取り組むようになった。工藤はその後約1年間のリハビリを経て復活、以降体調管理には非常に気を遣うようになった[23]

1980年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツ、ベスト、スラックス、エナメル靴、ヘアスタイルも角刈り、パンチパーマが当たり前であったが、DCブランド、ジーンズ、スニーカーを着こなし、ヒーローインタビューで笑いをとったり、優勝決定時の胴上げに加わらず、カメラに向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。そのため、先輩等にこっぴどく酷評されることもあったが、1986年新語・流行語大賞では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博渡辺久信と共に表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった[24]。また渡辺とは翌1987年ので春季キャンプの頃、テレビ朝日ニュースステーション』で「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というコーナーを持ったことがある。

1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、一塁を守っていた清原が号泣していたというのはよく知られるエピソードだが、この試合に先発し9回まで投げていたのが工藤であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負することを選択、篠塚を外角へのスライダーでセンターフライに打ち取り胴上げ投手となっている。これについて、工藤を兄と慕っていた清原は自著の中で「泣き虫の弟にどこまでも優しい兄だった」「ゲームセットの瞬間、工藤さんに抱きついて思いっきり泣いた」と感謝を述べているが、工藤自身は試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったため)どんなガッツポーズにしようかマウンド上で考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつ、「あの涙は、本当に美しかった」と語っている。

ダイエーからFAで巨人に移籍する際、福岡では工藤の残留を願うファンが署名活動を行い、15万人もの署名が集まった。工藤は移籍後、数年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った。

2008年に週刊ベースボールのインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。

巨人移籍後に、ダイエー時代の同僚であり公私共に親交の深かった藤井将雄が亡くなったが、シーズン中にもかかわらずスーツ姿で葬儀に参列。ダイエーのユニフォームを着た選手と共に棺を担いだ。当時藤井の本当の病状については関係者でもごく一部にしか知らされておらず、工藤は後に「本当の病状を知っていたらFA移籍はなかったかも知れない」と語っている。

読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きにわたって掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えている。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となっており、近年このコーナーを下敷きにした教則本が出版された程である。移籍後も横浜HPへデータ・権利が引き継がれた。

プロ入り後はノーヒットノーランを達成することはなかった。惜しくも逃した試合として1986年7月13日、1999年9月11日のいずれも近鉄戦で前者は9回1死まで完全試合、後者は8回までノーヒットノーランに抑えながら、2試合とも鈴木貴久に本塁打を打たれた。

子供たちに夢を与える活動「夢の課外授業」の発起人として、2000年より全国の小学校を訪問している。毎年オフに神宮の室内球技場で行っているチャリティキッズベースボールスクールも2009年までに15回開催(主催二十一世紀倶楽部)。

横浜時代のチームメイトだった加藤康介は、工藤の姿を見て大いに勉強させられ、横浜を戦力外通告後に阪神に移籍した際の活躍の原動力になったと語っている[25]。工藤自身も『報道ステーション』2013年7月12日放送分にて加藤の奮闘振りを讃える発言をしている。

身売りした阪急、南海からの勝ち星のある最後の現役選手だった。

背番号について[編集]

背番号21をつけたダイエー時代の1995年と1996年以外は2009年まで47を背負い続けたことから、47は工藤、あるいは左腕投手の代名詞と言える背番号となっている。2010年は背番号を55にした。

プロ入り時に西武が最初に用意した背番号は17だった。ところが熊谷組の入社試験まで受けていたので、他のスカウトから絶対プロ入りはない、と考えられていた工藤が、「プロ入り拒否・熊谷組入社」から「西武入団」へと方向転換したため、西武との密約が噂された。球団側・工藤側ともにそれを否定できなかったため、47に「降格」となった。

1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマーに与えられていたため止む無く21を着けた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディ47を引き継いだため、移籍3年目の1997年にやっと希望通り47が与えられた。ちなみにこの背番号21は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えて貰った、東尾修が現役時代に背負っていた背番号と同じ番号で、西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21をつけている。

21をつけていた2年間はかなりの違和感を覚えていたそうで、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47を希望。当時47を付けていた小野仁13に変更した。横浜に移籍する際も背番号47をつけ、前年まで47を付けていた堤内健は36に変更した。

背番号47が左腕投手に与えられる例として、ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉に、工藤の背番号であった47を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。なお、杉内は2012年に巨人に移籍した際に背番号18を与えられた(47を付けていたのは左腕投手の山口鉄也)。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸は、2001年の入団以来何度も47への変更を訴え、2006年にようやく認められている。その後、帆足は2009年オフに工藤が西武復帰を決めた際、背番号47を工藤に返還する意向を見せたが、工藤はそれを固辞し、55を選んだ。なお、帆足は2012年にソフトバンクへ移籍し、背番号を11としたが、2013年から背番号を47としている。

2009年11月16日に埼玉西武ライオンズの入団会見を行った際に、背番号を55を選んだ理由として、ダイエー時代のチームメイトであり、現役中の2000年に31歳の若さで急逝した藤井将雄が生前に着用していた背番号15を意識し、「彼の5番が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けていこう、と心に決めていた」と語った。また、「子供たちから『イケイケゴーゴー』だと言われたし、自分の誕生日も5月5日なので」とも語った。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1982 西武 27 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 122 28.2 22 0 21 2 1 29 1 0 11 11 3.41 1.50
1983 23 2 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 138 33.1 30 6 13 0 0 24 0 0 13 12 3.24 1.29
1984 9 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 53 12.1 10 1 10 0 1 8 0 0 4 4 2.92 1.62
1985 34 14 8 0 1 8 3 0 -- .727 554 137.0 84 13 73 2 2 104 1 1 44 42 2.76 1.15
1986 22 20 10 2 1 11 5 0 -- .688 586 145.1 111 22 56 3 1 138 1 0 53 52 3.22 1.15
1987 27 26 23 2 2 15 4 0 -- .789 899 223.2 181 18 64 4 2 175 2 0 65 60 2.41 1.10
1988 24 20 11 2 0 10 10 1 -- .500 694 159.0 164 18 70 6 1 94 4 0 77 67 3.79 1.47
1989 33 17 4 0 0 4 8 2 -- .333 540 118.0 126 12 76 4 2 94 9 0 70 65 4.96 1.71
1990 13 13 4 1 0 9 2 0 -- .818 359 85.2 58 11 46 1 2 89 4 0 33 32 3.36 1.21
1991 25 23 10 4 1 16 3 0 -- .842 705 175.1 124 17 75 1 0 151 4 0 55 55 2.82 1.13
1992 25 24 6 3 0 11 5 0 -- .688 645 150.2 140 17 69 3 3 133 4 0 60 59 3.52 1.39
1993 24 23 4 0 0 15 3 0 -- .833 697 170.0 129 10 65 4 2 130 5 0 46 39 2.06 1.14
1994 24 22 4 1 1 11 7 0 -- .611 554 130.2 120 12 44 0 3 124 2 1 54 50 3.44 1.26
1995 ダイエー 22 22 6 1 1 12 5 0 -- .706 652 163.0 137 15 48 0 0 138 4 0 69 66 3.64 1.13
1996 29 29 9 1 0 8 15 0 -- .348 867 202.2 207 17 70 2 1 178 6 0 94 79 3.51 1.37
1997 27 27 0 0 0 11 6 0 -- .647 670 161.1 153 14 48 2 3 146 2 0 61 60 3.35 1.25
1998 15 14 1 0 1 7 4 0 -- .636 386 93.2 90 8 28 1 2 65 0 1 35 32 3.07 1.26
1999 26 26 7 3 2 11 7 0 -- .611 754 196.1 143 12 34 1 1 196 6 1 56 52 2.38 0.90
2000 巨人 21 21 1 1 1 12 5 0 -- .706 545 136.0 127 14 16 0 1 148 5 0 53 47 3.11 1.05
2001 5 5 0 0 0 1 3 0 -- .250 103 21.1 35 3 7 1 0 8 2 0 21 20 8.44 1.97
2002 24 24 1 1 0 9 8 0 -- .529 681 170.1 157 21 26 3 2 151 5 0 61 55 2.91 1.07
2003 18 18 4 2 1 7 6 0 -- .538 483 117.0 117 15 22 2 3 115 1 0 56 55 4.23 1.19
2004 23 23 2 0 0 10 7 0 -- .588 596 138.2 160 27 33 1 1 128 3 0 78 72 4.67 1.39
2005 24 24 1 0 0 11 9 0 0 .550 595 136.0 159 26 44 3 1 130 4 0 73 71 4.70 1.49
2006 13 13 0 0 0 3 2 0 0 .600 295 70.0 69 12 19 0 3 52 0 0 41 35 4.50 1.26
2007 横浜 19 18 0 0 0 7 6 0 0 .538 442 103.2 118 6 28 1 4 73 2 0 46 45 3.91 1.41
2008 3 3 0 0 0 0 2 0 0 .000 70 13.2 21 3 5 0 1 7 2 0 13 8 5.27 1.90
2009 46 1 0 0 0 2 3 0 10 .400 172 37.1 53 11 14 1 0 24 2 1 30 27 6.51 1.79
2010 西武 10 0 0 0 0 0 2 0 0 .000 33 6.0 11 1 4 0 0 7 0 0 7 7 10.50 2.50
通算:29年 635 472 116 24 12 224 142 3 10 .612 13890 3336.2 3056 362 1128 48 67 2859 81 5 1379 1279 3.45 1.25

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

  • オールスターゲーム出場:10回 (1986年 - 1987年、1991年、1993年、1995年、1997年、1999年 - 2000年、2004年 - 2005年)
レギュラーシーズン
  • 実働29年(歴代1位)
  • 年齢別最多勝(42歳で11勝、44歳で7勝)
  • 40歳以降2桁奪三振試合数
  • 23年連続勝利(歴代1位タイ)
日本シリーズ
  • 出場回数:14(シリーズタイ記録)
  • 通算奪三振:102(シリーズ記録)
  • 1試合奪三振:13(1999年第1戦、シリーズ記録)
  • イニング3者3球三振(1994年第2戦3回、シリーズ史上初)
  • 両リーグ勝利投手(パ8勝、うち西武で7勝、ダイエーで1勝 セ1勝、うち巨人で1勝、史上3人目)
初記録
  • 初登板:1982年4月10日、対阪急ブレーブス前期1回戦(西武ライオンズ球場)、6回表2死に2番手で救援登板、1/3回無失点
  • 初奪三振:同上、6回表にウェイン・ケージから
  • 初勝利:1982年8月31日、対日本ハムファイターズ後期9回戦(西武ライオンズ球場)、5回表2死に2番手で救援登板、3回1/3を無失点
  • 初先発:1983年8月4日、対南海ホークス16回戦(西武ライオンズ球場)、3回1/3を2失点
  • 初先発勝利・初完投勝利:1985年7月9日、対南海ホークス12回戦(大阪球場)、9回2失点
  • 初完封勝利:1986年6月18日、対南海ホークス11回戦(西武ライオンズ球場)
  • 初セーブ:1988年6月5日、対阪急ブレーブス11回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初ホールド:2009年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回裏に2番手で救援登板、1回無失点
打撃成績
節目の記録
  • 1000投球回数:1991年6月1日、対ロッテオリオンズ8回戦(宮城球場) ※史上241人目
  • 1000奪三振:1992年8月6日、対近鉄バファローズ17回戦(藤井寺球場)、2回裏にアルビン・デービスから ※史上85人目
  • 100勝:1993年9月4日、対福岡ダイエーホークス21回戦(西武ライオンズ)、9回1失点完投勝利 ※史上109人目
  • 1500投球回数:1994年7月17日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム) ※史上138人目
  • 1500奪三振:1996年6月29日、対近鉄バファローズ14回戦(福岡ドーム)、5回表に水口栄二から ※史上39人目
  • 2000投球回数:1997年6月10日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(福井県営球場) ※史上75人目
  • 150勝:1998年9月9日、対千葉ロッテマリーンズ23回戦(千葉マリンスタジアム)、先発登板で7回1/3を4失点(自責点3) ※史上43人目
  • 2000奪三振:1999年9月23日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏に藤井康雄から ※史上16人目
  • 2500投球回数:2000年8月17日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム) ※史上41人目
  • 500試合登板:2004年4月21日、対横浜ベイスターズ2回戦(東京ドーム)、先発登板で4回1/3を7失点(自責点3) ※史上73人目
  • 2500奪三振:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、5回裏にビリー・マーチンから ※史上8人目
  • 200勝:2004年8月17日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、9回2失点完投勝利 ※史上23人目
  • 3000投球回数:2005年5月12日、対オリックス・バファローズ3回戦(東京ドーム) ※史上25人目
  • 600試合登板:2009年7月9日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、8回裏1死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点 ※史上34人目
その他の記録
  • 1イニング4奪三振:1996年8月2日、対千葉ロッテマリーンズ戦の7回 ※NPB史上3人目

背番号[編集]

  • 47 (1982年 - 1994年、1997年 - 2009年)
  • 21 (1995年 - 1996年)
  • 55 (2010年)

関連情報[編集]

著書[編集]

単著[編集]

共著[編集]

監修[編集]

  • 『工藤公康のピッチングバイブル:DVDでマスター』(カンゼン、2012年6月、ISBN 9784862551306

関連書籍[編集]

  • 『ON対決初戦工藤公康86球にこめた戦い!:スコアラーの目から…』(吉見健明著、三省堂スポーツソフト、2000年10月、ISBN 4385602328
  • 『工藤公康「42歳で146km」の真実:食卓発の肉体改造』(黒井克行著、講談社+α新書、2006年1月、ISBN 4062723573
  • 『工藤公康 粗食は最強の体をつくる!:食事を変えれば、体が楽になる!強くなる!若くなる!』(幕内秀夫著、三笠書房、2006年4月、ISBN 4837921868
  • 『工藤公康プロフェッショナルの矜持』(黒井克行著、新潮社、2006年10月、ISBN 4104489042

出演[編集]

テレビ出演[編集]

ラジオ出演[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 週刊文春 2012年5月3日、10日号「今だから、話せる」
  2. ^ 九州スポーツ、2009年10月28日3面
  3. ^ 週刊現代、2009年11月14日136頁、講談社
  4. ^ <朝日新聞×マイナビ転職>Heroes File〜挑戦者たち〜 工藤公康さんvol.1
  5. ^ 工藤 巨人消した?”. 毎日インタラクティブ. 2001年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月11日閲覧。
  6. ^ 工藤 引退覚悟契約”. 毎日インタラクティブ. 2001年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月11日閲覧。
  7. ^ プロ野球記録は1950年9月28日、阪急の浜崎真二が対大映戦で打った48歳9か月。
  8. ^ 工藤、西武入りへ!背番「47」は辞退 サンケイスポーツ 2009年11月14日閲覧
  9. ^ 復帰喜ぶ工藤 サンケイスポーツ 2009年11月16日閲覧
  10. ^ 西武・工藤に戦力外通告 最年長47歳、現役続行の意志”. 朝日新聞 (2010年9月27日). 2011年6月26日閲覧。
  11. ^ 信念と現実のはざ間で。現役最年長・工藤公康の現在地”. スポーツタイムズ (2011年10月13日). 2013年12月30日閲覧。
  12. ^ 今秋、米球界に挑戦=元西武の工藤氏―プロ野球”. 時事通信 (2011年7月24日). 2011年12月9日閲覧。
  13. ^ 工藤、引退へ「投げるたび肩壊れる」プロ30年で区切り”. スポーツ報知 (2011年11月23日). 2011年11月24日閲覧。
  14. ^ 横浜DeNAが工藤氏と監督交渉打ち切り”. デイリースポーツ (2011年12月5日). 2011年12月9日閲覧。
  15. ^ 30年間ありがとうございました。”. 工藤公康公式サイト (2011年12月9日). 2011年12月9日閲覧。
  16. ^ ありがとう47番!工藤公康氏来場!!西武球団公式サイト
  17. ^ 工藤公康氏 引退式 秋山、渡辺監督もひと役「この2球団は大事な球団」スポーツニッポン 2012年10月13日閲覧
  18. ^ 工藤投手「引退します」 解説者に転身”. 日刊スポーツ (2011年12月9日). 2011年12月9日閲覧。
  19. ^ 工藤公康氏「報ステ」に登板!栗山氏後任”. 日刊スポーツ (2012年1月13日). 2012年1月13日閲覧。
  20. ^ 「熱闘甲子園」キャスターに工藤公康氏”. 日刊スポーツ (2012年6月22日). 2012年6月22日閲覧。 ちなみに、歴代の「熱闘!高校野球ナビゲーター」のうち、高校時代に同大会で甲子園に出場した経験のある人物は工藤が初めてである。なお、本大会期間中は「熱闘甲子園」の取材ならびに番組収録が優先されるため、文化放送のプロ野球中継には出演しない。
  21. ^ 工藤公康氏 50歳で筑波大大学院合格「スポーツ医学研究したい」 - スポーツニッポン 2013年7月19日
  22. ^ 工藤、吉井、仁志の3氏 そろって筑波大大学院に入学:朝日新聞デジタル
  23. ^ 2010年8月6日放送『情報ライブ ミヤネ屋』より
  24. ^ 【話の肖像画】男のプライド(中)プロ野球投手・工藤公康 - MSN産経ニュース
  25. ^ 加藤 完全復活の支えは工藤氏から学んだ心得 スポーツニッポン 2013年7月12日、同14日閲覧。
  26. ^ テレビドガッチ (2014年7月3日). “阿部サダヲ、スポーツの現場で突撃取材!?栗山英樹、安藤美姫、工藤公康が友情出演!『ママが生きた証』”. 2014年7月3日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]