工藤公康

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工藤 公康
横浜ベイスターズ #47
基本情報
国籍 日本
出身地 愛知県豊明市
生年月日 1963年5月5日(46歳)
身長
体重
176cm
80kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 投手
プロ入り 1981年 ドラフト6位
初出場 1982年4月10日
年俸 5500万円+出来高(2009年)
経歴(括弧内は在籍年)

工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手投手)。自称「ハマのおじさん」。

現役最多の224勝(2009年7月1日時点)を挙げている。また、2006年までに在籍した3球団で優勝と日本一を経験しており、このことから「優勝請負人」と呼ばれる。最年長記録を次々と更新することから「鉄腕」と呼ばれることもある。

背番号21を付けた福岡ダイエー時代の1995年1996年以外は一貫して背番号47を背負っており、工藤のトレードマークと言える。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前と西武時代

名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校)時代は山本幸二とバッテリーを組み、1981年第63回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦では長崎西高校戦で史上18人目、19度目(金属バット採用後初めて)のノーヒットノーランを記録(4-0)。チームをベスト4に導く。

熊谷組への就職を発表し、プロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、西武ライオンズ根本陸夫管理部長(当時)が ドラフト6位で強行指名。その後、説得に応じ入団(当時のマスコミには、6位指名ながら、1歳上で1位指名の伊東勤より高額の契約金・年俸と推定されていた)。前年、大学進学が決まっていた秋山幸二のドラフト外での強行指名、伊東勤埼玉県立所沢高等学校定時制に進学させるなどと同じく、俗に「根本マジック」、「球界の寝業師」などと称される出来事のひとつである。以後、根本を「オヤジ」と呼んで慕っていた。西武黄金時代の中心投手となり、縦に落ちる独特のカーブは相手打者をきりきり舞いさせた。

1982年、入団1年目の年に、パ・リーグの前期後期制時代のプレーオフに登板し、江夏豊と投げ合って勝ち投手になっている。なお前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であり、パ・リーグの旧プレーオフを経験した最後の現役選手である。

1985年の日本シリーズで対戦した阪神タイガース、特にバースには3ランホームランを2本被弾、敬遠気味の2四球と1つのアウトも取れなかった。ただし、掛布は3打数0安打1三振と抑えた。

1986年の日本シリーズで西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2Sを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。

1987年の日本シリーズでも1完封を含む2勝1Sで2年連続MVPを受賞。

1993年のシーズンはパ・リーグMVPを受賞。

[編集] FA宣言でダイエーへ

1994年秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないと言うのを建前にしてFA宣言。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスに移籍した。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。

ダイエーでは投手の柱として活躍するとともに、武田一浩と共に、城島健司(現シアトル・マリナーズ)を日本を代表する捕手に育てた。また、当時オリックスに在籍していたイチローから三振を奪うなど目覚ましい活躍を見せていた。数奇な運命か工藤が育てた城島はのちにシアトル・マリナーズでイチローとチームメイトとして現在も活躍している。1999年9月11日大阪近鉄バファローズ戦ではノーヒットノーランの記録のかかった8回1アウト1ストライク3ボールの場面で、ボール球を要求した城島のリードにあえてストライクを投げ込み、鈴木貴久に本塁打を打たれた後、「ホームランを打たれるよりフォアボールが一番あそこはいけないんだ」「俺の結果なんかどうでもいいんだ。(優勝争いの中で)チームが勝てばいいんだ」と指導したという逸話は有名(鈴木貴久には1986年7月13日にも9回ホームランを打たれ完全試合を逃している)。

1999年は武田がFA退団したが、工藤はエースとして11勝を挙げ最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーホークス初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。武田の移籍した中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも、第1戦に登板。「背番号47左腕エース対決」と注目された野口茂樹との投げ合いを制し、1試合最多タイの13奪三振の完封という圧巻の投球を披露した。この試合で稲尾和久の持っていた日本シリーズ通算奪三振数の記録を塗り替えた工藤は「やばいな。神様を追い越しちゃったよ」と語ったという。また、中日の星野仙一監督は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさをあらわにしてコメントした。「圧倒的中日有利」との下馬評のなか、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーは4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。

[編集] 再びFAで巨人へ

その1999年オフ、久々の優勝を置き土産に2度目のFA宣言をして読売ジャイアンツに移籍。翌2000年には12勝をあげリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは前年まで所属していた福岡ダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。2001年は5試合の登板に終わったが、2002年以降はローテーションの一員としてチームに貢献。しかし打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)。

2004年8月17日ヤクルト戦で2失点完投勝利。通算200勝を達成した。元広島東洋カープ北別府学(元広島投手コーチ)以来12年ぶり、史上23人目、巨人在籍投手としては監督の堀内恒夫以来24年ぶり5人目。41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録となった(2008年シーズン終了時点では山本昌)。そしてこの試合では自ら決勝本塁打を打っている。41歳、23年目でのプロ入り初本塁打はそれぞれ史上最も遅い記録である。本人は、「パ・リーグで打席に立つことがなかったのだから、(セ・リーグに移籍して)5年目の初ホームラン」と語っている。

2005年5月19日交流戦の福岡ソフトバンクホークス戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録を更新(同じく山本昌に塗り替えられた)。2005年8月26日阪神タイガース戦では最年長2桁勝利記録を更新(これも山本昌が記録更新)。

2006年はシーズン前半に3勝を挙げ、7月には大野豊を上回り、プロ野球史上初の43歳2か月以上の現役左腕投手となった。しかしその後6月〜7月の2試合で計20失点を喫し、さらに肩痛をも発症しシーズン途中で登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績でシーズンを終えた。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。越年しトレーニング地へ渡米していた。

[編集] 横浜時代

2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉健の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、またそれに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えている事などが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明している。そして1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年江藤智(現西武)に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号47を背負うことが決まり、それまで47だった堤内健(現在は横浜の打撃投手)の背番号は36に変更された。

マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久とともに巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBS青木裕子アナウンサーの「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです」と、茶目っ気たっぷりに答えた。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額となった(金額は推定)。

2007年4月1日、巨人戦に登板したことにより、一軍での実働年数が26年になった。これは野村克也(現楽天監督)に並ぶプロ野球最長記録である。5月23日、西武戦に登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利を更新、単独1位となる。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。

2007年7月12日の中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した。プロ野球記録は1950年9月28日、阪急の浜崎真二が大映戦で打った48歳9か月。2007年7月24日の巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の「近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手」になった。

2007年開幕当初は打ち込まれ、2軍落ちも経験したが1軍に再昇格して以降は安定した投球を続けた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。

2008年4月1日ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村克也(当時西武、現楽天監督)と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで2軍に降格した。同年9月9日北海道日本ハム×湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、1軍では1勝も出来ずに1984年以来24年ぶりの1軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。

2009年は現役28年目となりこれは日本プロ野球の新記録であり、同一背番号(47)の着年数の26年もこれも日本プロ野球の新記録である。5月5日の巨人戦で、自身初のホールドを記録した。同年5月25日の楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えたあと、チームが9回裏に逆転サヨナラ勝ちしたことにより、46歳にして自身が持つ44歳4カ月のセ・リーグ最年長勝利記録を更新した。なお40歳以降の37勝目は、36勝で並んでいた大毎若林忠志を抜き去り単独1位となった。

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

[編集] レギュラーシーズン

  • 実働28年(歴代1位)
  • 年齢別最多勝(42歳で11勝、44歳で7勝)
  • 40歳以降2桁奪三振試合数

[編集] 日本シリーズ

  • 出場回数:14(シリーズタイ記録)
  • 通算奪三振:102(シリーズ記録)
  • 1試合奪三振:13(1999年第1戦、シリーズ記録)
  • イニング3者3球三振(1994年第2戦3回、シリーズ史上初)
  • 両リーグ勝利投手(パ8勝=西武で7勝、ダイエーで1勝、セ1勝=巨人で1勝、史上3人目)

[編集] 年度別投手成績








































1982年 西武 47 27 0 0 0 1 1 0 .500 122 28.2 22 0 21 1 29 1 0 11 11 9.26 3.41
1983年 23 0 0 0 2 0 0 1.00 138 33.1 30 6 13 0 24 0 0 13 12 6.53 3.24
1984年 9 0 0 0 0 1 0 .000 53 12.1 10 1 10 1 8 0 0 4 4 5.95 2.92
1985年 34 8 0 1 8 3 0 .727 554 137.0 84 13 73 2 104 1 1 44 42 6.83 2.76
1986年 22 10 2 1 11 5 0 .688 586 145.1 111 22 56 1 138 1 0 53 52 8.56 3.22
1987年 27 23 2 2 15 4 0 .789 899 223.2 181 18 64 2 175 2 0 65 60 7.06 2.41
1988年 24 11 2 0 10 10 1 .500 694 159.0 164 18 70 1 94 4 0 77 67 5.32 3.79
1989年 33 4 0 0 4 8 2 .333 540 118.0 126 12 76 2 94 9 0 70 65 7.17 4.96
1990年 13 4 1 0 9 2 0 .818 359 85.2 58 11 46 2 89 4 0 33 32 9.40 3.36
1991年 25 10 4 1 16 3 0 .842 705 175.1 124 17 75 0 151 4 0 55 55 7.76 2.82
1992年 25 6 3 0 11 5 0 .688 645 150.2 140 17 69 3 133 4 0 60 59 7.97 3.52
1993年 24 4 0 0 15 3 0 .833 697 170.0 129 10 65 2 130 5 0 46 39 6.88 2.06
1994年 24 4 1 1 11 7 0 .611 554 130.2 120 12 44 3 124 2 1 54 50 8.57 3.44
1995年 ダイエー 21 22 6 1 1 12 5 0 .706 652 163.0 137 15 48 0 138 4 0 69 66 7.62 3.64
1996年 29 9 1 0 8 15 0 .348 867 202.2 207 17 70 1 178 6 0 94 79 7.92 3.51
1997年 47 27 0 0 0 11 6 0 .647 670 161.1 153 14 48 3 146 2 0 61 60 8.16 3.35
1998年 15 1 0 1 7 4 0 .636 386 93.2 90 8 28 2 65 0 1 35 32 6.28 3.07
1999年 26 7 3 2 11 7 0 .611 754 196.1 143 12 34 1 196 6 1 56 52 9.00 2.38
2000年 巨人 21 1 1 1 12 5 0 .706 545 136.0 127 14 16 1 148 5 0 53 47 9.79 3.11
2001年 5 0 0 0 1 3 0 .250 103 21.1 35 3 7 0 8 2 0 21 20 3.41 8.44
2002年 24 1 1 0 9 8 0 .529 681 170.1 157 21 26 2 151 5 0 61 55 7.99 2.91
2003年 18 4 2 1 7 6 0 .538 483 117.0 117 15 22 3 115 1 0 56 55 8.85 4.23
2004年 23 2 0 0 10 7 0 .588 596 138.2 160 27 33 1 128 3 0 78 72 8.34 4.67
2005年 24 1 0 0 11 9 0 .550 595 136.0 159 26 44 1 130 4 0 73 71 8.60 4.70
2006年 13 0 0 0 3 2 0 .600 295 70.0 69 12 19 3 52 0 0 41 35 6.69 4.50
2007年 横浜 19 0 0 0 7 6 0 .538 442 103.2 118 6 28 4 73 2 0 46 45 6.37 3.91
2008年 3 0 0 0 0 2 0 .000 70 13.2 21 3 5 1 7 2 0 13 8 3.71 5.27
通算:27年 579 116 24 12 222 137 3 .618 13685 3293.1 2992 350 1110 43 2828 79 4 1342 1245 7.73 3.40
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
    • 通算2828奪三振は歴代奪三振数7位、通算222勝は歴代13位タイである。

[編集] エピソード

  • 名古屋電気高校(現・愛工大名電高校)在学時は、現パ・リーグ審判の中村稔と同級生でありチームメイト。夏の甲子園の準決勝で敗れたのが報徳学園で、同校はそのまま優勝した。この時の相手チームのエースが金村義明である。また先述のノーヒットノーランの試合を長崎西高サイドで観戦していたのが当時同校在学中の女優・麻生祐未だった。
  • 80年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツベストスラックスエナメル靴、ヘアスタイルも角刈りパンチパーマが当たり前であったが、DCブランド、さらにジーンズスニーカーを着こなし、さらにヒーローインタビューで笑いをとったり、優勝決定時の胴上げに加わらず、カメラに向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。その為、先輩等にこっぴどく酷評されることもあったが、1986年新語・流行語大賞では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博渡辺久信とともに表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった。また渡辺とは翌1987年ので春季キャンプのころ、テレビ朝日ニュースステーションで「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というコーナーを持ったことがある。
  • 今でこそ「ハマのおじさん」として知られるが、西武入団当時は首脳陣からはその童顔から「坊や」と呼ばれていた。また目と口の特徴から、ファンからは「カリメロ君」と呼ばれる事が多く、そのニックネームは文化放送ライオンズナイター等を通じて広く知られていた。
  • 西武時代はホークスキラーだった。南海・ダイエー戦で36勝10敗という好成績を残している。36勝は西武時代の通算113勝の1/3近くを占める。1995年、そのダイエーに移籍したが当時のチームの戦力差もあったとはいえ西武とは通算4勝9敗と相性はよくなかった。
  • 1993年FA制度が導入された年は権利行使の最有力選手と呼ばれていた。しかし同年パ・リーグMVPを獲得したものの日本シリーズではいまいち活躍できず不完全燃焼の感があったのか、敗戦後マスコミにもう1年残留を明言する。翌年FA宣言後ダイエーや中日と交渉するが、結局根本の所属するダイエーに移籍する。
  • 2002年に80打席連続無安打のセ・リーグ記録を樹立している。しかし入団当時は打撃も良く、DH制のあるパ・リーグでは打席に立つことは無かったが日本シリーズで度々好打を放った。新人で出場した1982年の中日との日本シリーズでは、初打席でフェンス直撃の二塁打。当時日本シリーズで新人初打席本塁打は記録されておらず、あと2〜3mも打球が伸びていれば高卒の投手によって日本シリーズ史上初の新人初打席本塁打が達成されるところであった。新人初打席本塁打は1985年に阪神の嶋田宗彦捕手が達成。こちらは社会人出身の選手だった。このとき打たれたのは工藤にとってはチームの先輩で、嶋田にとっては高校の先輩の東尾修であった。また、1986年の日本シリーズでは1引分3連敗の後、第5戦の延長12回裏に広島津田恒実からサヨナラ安打を記録している。翌年のシリーズからパ・リーグ出場球団の本拠地球場開催試合に限りDH制度が採用され(実際の採用開始は1985年で、1年おきに全試合採用・不採用となる計画だった。また2005年からのセ・パ交流戦におけるパ・リーグ球団主催試合でも採用)パ球団所属の投手が打席に立つ機会は表の攻撃に限定されるため、このようなパ球団所属投手によるサヨナラ打は、事実上この時の工藤が最後となった(ただしDHの打順に守備位置がついた場合にはその可能性も残されているが、あまり実例がない)。
  • 工藤の西武ライオンズ在籍時のチームメイトで2009年現在も現役選手として同球団に所属している選手は1人もいない。現在他球団に所属している西武時代のチームメイトだった現役選手は、巨人の豊田清ヒューストン・アストロズ松井稼頭央だけである。
  • ダイエー時代の王監督は彼の使い方には相当神経を使っていた。信頼できる抑えがいないとき、先発の工藤が快調なテンポで7回を投げ終えた。球数も少ないこともあって、王監督が“あと1回頼む”と懇願したが、“限界です”の一言でさっさと降板してしまった。工藤がFAで巨人に移籍したとき、王監督は当時の長嶋監督に起用の難しさを訴えたほど。計算して使えない、こちらの要求は受け付けない、一度へそを曲げたらテコでも動かない、うまく使わないと戦力どころか大きなマイナスになる…といったことを注意事項として伝えていたらしい。
  • ダイエーからFAで巨人に移籍する際、福岡では工藤の残留を願うファンが署名活動を行い、15万人もの署名が集まった。工藤は移籍後、署名に参加したファン全員に感謝の手紙を送った。
  • 2008年週刊ベースボールのインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。
  • 巨人移籍後に、ダイエー時代の同僚であり公私共に親交の深かった藤井将雄が亡くなったが、シーズン中にもかかわらずスーツ姿で葬儀に参列。ダイエーのユニフォームを着た選手とともに棺を担いだ。当時藤井の本当の病状については関係者でもごく一部にしか知らされておらず、工藤は後に「本当の病状を知っていたらFA移籍はなかったかも知れない」と語っている。
  • 前述の通り、工藤は在籍球団全てで優勝を経験しているが、実は仕えた5監督(広岡達朗森祇晶王貞治、長嶋茂雄、原辰徳)を胴上げするという偉業も成し遂げていた。ところが、堀内恒夫は優勝出来ないまま退任したため、この記録もストップしてしまった。上記の監督は全員巨人OBである。横浜の大矢明彦監督はヤクルトアトムズ→スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)のOBである。
  • ダイエー移籍前後から年間投球イニングが減少し、好調の年と不調の年が交互に来ることが多くなったことから、「隔年エース」というかなりポピュラーな蔑称が存在する。
  • 2002年シーズン途中で巨人はビジター用のユニフォームの文字が「TOKYO」から「YOMIURI」に変わった。その直後、工藤がナゴヤドームでの中日戦で一人だけ「TOKYO」の文字の入ったユニフォームを着て投球練習を行っていたところ主審から注意を受け(公認野球規則で同一チームのユニフォームは全て統一されたものでなくてはならない、という規定がある)急遽着替えたことがあった。
  • 2005年の宮崎キャンプで、フジテレビアナウンサー三宅正治内田恭子の両名に投球練習を妨害されたことがある。取材中に野球とは関係の無い私語を延々と続けて騒いでいた二人に、コーチを通じてブルペンエリアからの退出を告げた。バツの悪い二人は関係者に謝罪した後に早々に現場から立ち去った。「すぽると」では、視聴者に対して謝罪や説明は全くされなかったが、直後の放送からしばらくの間は、三宅アナの顔が強張ったままであった。この一件に関して、デイリースポーツ夕刊フジが対極的な記事を掲載している。デイリーがフジテレビ側を批判をした一方で、フジテレビと同族企業である夕刊フジは「大人気ない。女子アナに取材されるのは一流の証。八つ当たりは見苦しい」という工藤批判の記事を掲載している。
  • 日本プロ野球の歴代200勝投手で年間20勝を経験していないのは工藤、山本昌と(日米通算200勝の)野茂英雄だけ。年間で20勝以上することが稀な時代に投げている事もある。また工藤の場合は「夏場に弱い」ことが一因とも言われる。このことは工藤がほぼ毎年指摘され続けている欠点である。また、最多勝のタイトルを獲得していない200勝投手は、梶本隆夫と工藤だけである。ただし、最多勝争いに絡んだことはあり、1991年には16勝と野茂英雄に1勝及ばなかった。
  • 読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きに渡って掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えている。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となっており、近年このコーナーを下敷きにした教則本が出版されたほどである。移籍後も横浜HPへデータ・権利が引き継がれた。
  • 複数球団で共に現役を過ごした選手は秋山(西武、ダイエーで18年)が最長で、続いて清原(西武、巨人で15年)、同じく石毛(西武、ダイエーで15年)がいる。
  • 身売りした阪急、南海からの勝ち星のある唯一の現役選手である。
  • 旧ナムコ(法人はバンダイナムコゲームス)が86年に発売した初のプロ野球ゲーム「プロ野球ファミリースタジアム」に登場する選手(当時は全員架空名)の中で、唯一現役で残っている選手でもある。

[編集] 投球

  • 江川卓をもってして「小学生が真似るべきは工藤投手のフォーム。まさにお手本。」と言わしめるほど、多くの解説者に賞賛される、完璧な投球フォームをもつ。工藤の投球フォームは、雑誌の付録の江夏豊など往年の名投手の投球フォームの分解写真(右投手なら鏡に映したという)を参考にし、子供の頃に礎を完成させた、と語っている。巨人の辻内崇伸など若い投手にも工藤のフォームを参考にした投手は多い。
  • 工藤の特徴といえば大きなカーブと優れたコントロールにある。高校時代からこのカーブはすぐにでもプロに通用すると高く評価されていた。このカーブが投げられるようになった理由を、この夏の甲子園の間の練習中に、何の気なしに親指をボールに立てて投げたら大きく曲がるようになった、と当時のテレビで話していた。(甲子園の宿舎でのチームメイトとの花札遊び(オイチョカブ)という話もある。)
  • 1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、ファーストを守っていた清原が号泣していたというのは良く知られるエピソードだが、このとき登板していたのが工藤であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負。篠塚をセンターフライに打ち取り胴上げ投手となっている。工藤が若い頃から冷静沈着であったことがうかがえるエピソードである。このときセンターを守っていたのは秋山幸二で、相手の巨人の監督は王貞治であった。
  • 20代後半に故障して科学的トレーニングで復活を果たした経験を持つことから、ウエイトトレーニングや「骨格の正しい動き」などの重要性を主張している。プロ野球におけるこの分野のパイオニアでもある。トレーニングと平行してアフターケアにも力をいれており、専属のマッサージ師と契約している。また、40歳前後でフォークボール(スプリット)やスクリューボールをマスターするなど、年齢を全く感じさせない。そのような身体への配慮、野球への探究心が、40歳を超えても好調時は147km/h、不調の2006年も140km/h前後を計測させた。その自信が未だメジャーリーグの土を踏んでみたい、という目標を堂々と公言させる(本人が時々新聞や雑誌などで語っている)。

[編集] 背番号47

  • プロ入り時に西武が最初に用意した背番号は17だった。ところが熊谷組の入社試験まで受けていたので、他のスカウトから絶対プロ入りはない、と考えられていた工藤が、「プロ入り拒否・熊谷組入社」から「西武入団」へと方向転換したため、西武との密約が噂された。球団側・工藤側ともにそれを否定できなかったため、47に「降格」となった。これまで、47といえば、320勝投手小山正明(在籍した阪神ロッテ大洋で47にこだわった)のイメージが残っていたが、工藤の活躍以降4734金田正一など)とともに左腕の主力投手の番号というイメージが定着した。
  • 1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマーに与えられていたため止む無く21を着けた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディ47を引き継いだため、移籍3年目の1997年にやっと希望通り47が与えられた。21を付けていた2年間はかなりの違和感を覚えていたそうで、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47を希望。当時47を付けていた小野仁13に変更した。ちなみにこの背番号21は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えて貰った、東尾修が現役時代に背負っていた背番号と同じ番号である。現西武ライオンズ監督で西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21をつけている。
  • ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉に、工藤の背番号であった47を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸は、2001年の入団以来何度も47への変更を訴え、2006年にようやく認められている。

[編集] プライベート

  • 出身地の愛知県と言えば中日ドラゴンズファンが多い土地柄であるが、そんな中でも工藤は筋金入りの巨人ファンであった。これは熱狂的な巨人ファンであった父親の影響によるもの。ただし、幼少の頃は野球に興味がなく、父親の強い薦めで仕方なく野球を始めた。
  • 高校時代は河合奈保子のファンとして知られ、ファンレターも度々書いていた。
  • 栄養値の高い食事をしたり、青汁を飲んだりするなど、体に気を遣う工藤であるが、ヘビースモーカーである。
    • 2008年のタバコをやめていただきたい有名人を選ぶコンテスト「タバコやめてネコンテスト」にランクインされた。[1]
  • 工藤の大ファンであった現夫人を工藤に紹介したのは、西武の同僚であった清原和博である。夫人が鹿嶋市出身という事もあり、シーズンオフの合同トレーニングなどで鹿島アントラーズの選手との交友が深い。特に、同じ愛知県出身のサッカー元日本代表秋田豊(2007年引退)とは仲が良く、対談が鹿島のイヤーブックに採録された事がある。
  • 球界では有名な子沢山投手である(2男3女)。子供からの影響で登板時のBGMは『ドラゴンボールGT』の主題歌であったFIELD OF VIEWの『DAN DAN 心魅かれてく』を2004年から使用していたが、2007年からゆずの『栄光の架橋』へと変更した。
  • FA宣言による巨人入団の際、長嶋茂雄が工藤の自宅へ挨拶に訪問した際、工藤の子供が「セコムのおじちゃん」と言った。

[編集] 著書

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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