杉内俊哉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杉内 俊哉
福岡ソフトバンクホークス #47
基本情報
国籍 日本
出身地 福岡県大野城市
春日市生まれ)
生年月日 1980年10月30日(28歳)
身長
体重
175cm
81kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 投手
プロ入り 2001年 ドラフト3巡目
初出場 2002年4月1日
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2000年2008年
WBC 2006年2009年

杉内 俊哉(すぎうち としや、1980年10月30日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手投手)。

目次

[編集] プレイスタイル

セットポジションからゆったりしたモーションで投球する、非常にバランスのとれたフォームが特徴。その綺麗なフォームから、投手の手本として取り上げられることも多い。武器は抜群の制球力により低めコーナーに決まるカーブや、スラーブスライダーサークルチェンジ、無回転のチェンジアップ、高めのストレート(最速は147km/h)を使い、三振を量産する。

成績の良いシーズンと悪いシーズンの差が非常に顕著である。また成績の良いシーズンが続いたことが少ないため、「隔年投手」と呼ばれることがある。[1]本人もそれを気にしていたが、2008年に10勝をあげて自身初の2年連続二桁勝利を達成、最多奪三振のタイトルも獲得し、「隔年投手」の称号を返上した。

松坂世代の1人。松坂大輔レッドソックス)、和田毅新垣渚(ともにソフトバンク)とはライバル。また斉藤和巳和田毅新垣渚とともにホークス投手の四本柱と呼ばれる。斉藤が故障でシーズンを棒に振った2008年からは「ホークスのエース」とも言われている。

[編集] 来歴

福岡県春日市生まれ、大野城市育ち。大野城市立大野小学校大野城市立大野中学校鹿児島実業高等学校卒業。小学4年生の時に大野城少年野球に所属し野球を始めた。当時は外野手で、5年生で一塁手。6年生の時に投手に転向し、エースとして全国大会に出場した(ベスト16)。中学時代は市の少年硬式野球チーム(大野城ガッツ)のエースで、チームを全国準優勝に導いた。鹿児島実業高等学校時代には3度甲子園に出場。高めに伸びる直球と落差の大きいカーブを武器に活躍した。

1998年(高校3年次)の夏の鹿児島予選決勝では、共に当時から注目を集めていた川内高校木佐貫洋と投げ合い、3-1で勝利し甲子園出場。第80回全国高等学校野球選手権大会の1回戦で八戸工大一青森)相手にノーヒットノーランを達成。同2回戦で松坂大輔小山良男小池正晃らを擁する横浜東神奈川)と対戦するもカーブをことごとく見極められ、松坂に本塁打を喫するなど8回6失点で敗れた。

高校卒業時点でのプロの評価は良くて4位と高校の監督を通じて知らされたことから社会人野球へ進路を決めた。当初はJR九州への入社が内定していたというが、三菱重工長崎に就職。肩痛に苦しみながらもトレーニングに励み、130km/h台だった球速がMAX149km/hとなる。

2000年には後藤隆之とのダブルエースで都市対抗野球大会出場に貢献。準々決勝の三菱自動車川崎(現・三菱ふそう川崎)戦でベテラン斉藤秋博に同点3ラン、続く渡部英紀(三菱重工横浜より補強)に勝ち越しソロを浴び降板した。直後にシドニーオリンピック野球日本代表として招集され、オリンピックに出場。(4位)

2001年日本選手権準決勝日産自動車戦で8回1失点の好投で勝利に貢献。その後チームも初優勝を達成した。同年秋ドラフト会議3巡目指名で福岡ダイエーホークスに入団した。憧れていた工藤公康と同じ背番号47番を与えられる。

[編集] プロ入り後

初登板初先発の試合で、初回先頭バッターサブローを3球三振に仕留めるなど、当時からドクターKぶりを覗わせた。1年目の2002年は、シーズンでは2勝に終わるが、フレッシュオールスターゲームではセーブを記録している。

制球難の克服のためフォームをノーワインドアップからセットポジションに変更したことが功を奏し、2003年には入団した同学年和田毅新垣渚に負けじと先発ローテーションに定着し2桁勝利を達成。日本シリーズでも阪神相手に2勝を挙げ日本一に貢献し、シリーズMVPを獲得した。シーズンオフにはTV番組とべとべホークスのレポーターを担当していた上葉えりかと入籍。

2004年6月1日ロッテ戦に2回7失点で降板後、自らの不甲斐なさに両手でベンチを殴打し骨折。プロの投手としての自覚を欠くこの行為に対して球団から罰金100万円を科せられた。

2005年には前年の屈辱をばねに奮闘。4月、5月と2ヶ月連続の月間MVPを獲得。自己最速で10勝目を挙げ、チームでは杉浦忠以来4人目となるシーズン200奪三振(218)も達成した。18勝4敗・防御率2.11で初の最多勝最優秀防御率沢村賞パ・リーグの左腕投手の受賞は史上初)のタイトルを獲得。MVPに選ばれた。またこの年は死球暴投ボーク失策がいずれも0と、安定したピッチングを見せた。

2006年WBC日本代表に選ばれ、2試合に登板し0勝1敗防御率5.40。2次リーグ韓国戦で決勝トーナメントへの自力進出が消滅した試合の敗戦投手となった。レギュラーシーズンでは中盤以降失速し、規定投球回数に届かず7勝に終わった。プレーオフでも第2ステージ第1戦で先発したものの、3回2失点で降板し敗戦投手になっている。

2007年には二年振りの二桁勝利となる15勝を記録するなど、先発陣の軸として活躍。2008年も二年連続となる二桁勝利を達成し、隔年投手の名を返上した。北京オリンピック野球日本代表に選出されシーズン中の登板回数が不利な中、三年振りの200奪三振を達成している。奪三振率は9.78で、NPB1位だった。

10月1日京セラDでの清原和博の引退試合に先発登板し、8回完投も自責点4で敗戦投手。清原の打席では全球ストレートで勝負し、4打数1安打1打点2三振。ちなみに02年3月2日のオープン戦。自身の“デビュー”戦で初被弾したのが清原だった。最終打席で三振したボールに清原が『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』というメッセージを添えて杉内に贈った。

王ホークス最終戦となった10月7日楽天戦では田中将大と投げ合い、互いに9回無失点の投手戦。杉内は11奪三振を奪い、ダルビッシュ有を抜いて最多奪三振のタイトルを決めたが、試合は12回裏に守護神馬原孝浩が打たれサヨナラ負け。試合終了後には「(王貞治監督最後の試合で)なんとしても勝ちたかった」と心中を吐露した。またこの年は、同僚の和田毅大隣憲司と共にホークス左腕3本柱と呼ばれた。

2009年には、グラブの位置を上げ、左手が隠れるようにした新フォームに変更。これは今までのフォームでは「打者に"握りが分かる"と言われたことがある」ためである[2]2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、5試合にリリーフとして登板し、6回1/3を無安打無失点と完全に抑え、日本の二連覇に貢献した。

シーズンでは、4月5日の開幕3試合目の対オリックス戦で初登板。4回2死、ホセ・フェルナンデスからこの日2個目の三振を奪い史上122人目、現役では8人目となる通算1000奪三振を歴代4位のスピードで達成。交流戦では12球団最長の44回を投げるなど負けなしの3勝を挙げてチームの連覇に貢献し、交流戦MVPを獲得。また6月には自身6度目の月間MVPを獲得し、これはパ・リーグ投手部門史上最多の獲得数となった。

[編集] 人物像

  • 投球は左投げだが、筆記・食事では右手を使う。
  • 母親が「左利きの人が好きだから」という理由で杉内を左利きにした。
  • 俊哉の名前の由来は母親の初恋相手の名前が『俊哉』だったから。
  • 嫌いな食べ物は山芋。体が受けつけないらしい。
  • 現在チームメイトである本多雄一は、大野城ガッツ、鹿児島実の後輩でもある。
  • 1998年全国高等学校野球選手権大会の1回戦で八戸工大一を相手にノーヒットノーランを達成しているが、この日は母親の誕生日で、試合前に「20奪三振完全試合をやる」と宣言したという。宣言通りとは行かなかったが、16奪三振を記録。与えた四球は1つだった。
  • 2004年のベンチ殴打事件の際、日刊スポーツインターネット版の速報では、当時同僚でキャッチャー城島健司(現シアトル・マリナーズ)が「利き手はやめろブルガリア!ブルガリア 」と声をかけた、と報道されたことがあった[3]。ブルガリアという記述は数時間後に削除されたが、キャンプの時に体調管理のために毎晩ヨーグルトを食べており、 近しい人にはブルガリアと呼ばれていたという話が、2004年のホークスキャンプレポートに掲載されている。
  • 家族(結婚前は母、姉、祖父母)を非常に大切にし、前述の甲子園のエピソードに表されるように特に母親を大事にしていたことから、同僚の斉藤和巳からは「マザコン」と冷やかされもした。ダイエーとの契約金で母と祖父母のためにマンションをそれぞれ購入し、自分は残った契約金の中から子犬を買った。社会人時代も給料はほとんどを実家へ仕送りしていたという。社会人野球を経験したことから自分で稼ぐことの大変さを学んだと述べている。2004年のベンチ殴打事件に関して杉内の祖父は「俊哉は背負っているもの(家族のこと)が大き過ぎるから」と擁護した。自身は、既婚者であり、長男・咲哉くんがいる。
  • 休みの日は野球好きの咲哉くんに付き合い、「実況パワフルプロ野球」で遊んだ後に公園で野球を教えている。
  • メジャーリーグ志向の強い選手が多い中、杉内は否定的な立場を取っている。本人の弁では「英語がわからないから」。
  • 筋力トレーニングに「加圧トレーニング」という方法を利用している。以前はプロでやっていくには体が小さすぎると言われていた。そのため早急に筋肉量を増やす必要があったからだという。
  • 洞爺湖サミットが開催される2008年7月7日までの一年間、“Cool Earth Ambassador(クール アース アンバサダー)”に就任した。
  • 5月に強く、『ミスター・メイ』の異名をとる。2005年には5勝、2007年も5勝、2008年は4勝でいずれも無敗で月間MVPを獲得している。また、2007年から連勝中。
  • 月曜日にも強く、連勝中である。
  • シーズン初登板は、8戦6勝(1完封)で、無敗である。
  • 2009年からイチローと、世界で二人しか使用していない新素材のアンダーシャツを使用。

[編集] 出囃子(テーマソング)

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
2002 ダイエー
ソフトバンク
11 9 0 0 0 2 2 0 -- .500 204 44.0 48 5 23 3 4 46 1 0 29 29 5.93 1.61
2003 27 24 3 2 0 10 8 0 -- .556 675 162.2 148 13 55 1 3 169 4 0 64 61 3.38 1.25
2004 10 9 0 0 0 2 3 0 -- .400 216 45.2 56 8 27 1 2 51 2 0 36 35 6.90 1.82
2005 26 26 8 2 2 18 4 0 0 .818 765 196.2 150 14 43 1 0 218 0 0 51 46 2.11 0.98
2006 22 21 0 0 0 7 5 0 0 .583 558 132.2 130 15 44 2 5 114 2 0 57 52 3.53 1.31
2007 28 28 5 3 3 15 6 0 0 .714 793 197.2 166 12 46 1 5 187 1 0 58 54 2.46 1.07
2008 25 25 8 1 3 10 8 0 0 .556 776 196.0 162 15 36 1 2 213 3 0 63 58 2.66 1.01
通算:7年 149 142 24 8 8 64 36 0 0 .640 3987 975.1 860 82 274 10 21 998 13 0 358 335 3.09 1.16
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

[編集] タイトル・表彰・記録・その他

[編集] タイトル

[編集] 表彰

  • 月間MVP:6回(2003年8月、2005年4月、2005年5月、2007年5月、2008年5月、2009年6月) ※パ・リーグ投手部門史上最多
  • 最多奪三振賞:1回(JA全農GO・GO賞 2008年5月度)
  • 月間MIP賞(2008年5月度)
  • ベスト・ファザー賞(2009年度)

[編集] 記録

  • オールスターゲーム出場:2005年、2007年、2008年、2009年
  • 1イニング4奪三振:2003年4月14日 千葉ロッテ戦(千葉マリン) 
  • 毎回奪三振:
    • 2005年8月20日 西武戦(ヤフードーム) 9回完投13奪三振
    • 2008年10月1日 オリックス戦(京セラドーム大阪) 9回完投13奪三振
  • 1シーズンで2桁奪三振11回:2008年 史上7人目

[編集] その他

[編集] 個人記録

[編集] 背番号

  • 47(2002年 - )

[編集] 関連項目

他の言語