駒田徳広

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駒田 徳広
横浜ベイスターズ コーチ #73
基本情報
国籍 日本
出身地 奈良県磯城郡三宅町
生年月日 1962年9月14日(46歳)
身長
体重
191cm
120kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 一塁手外野手
プロ入り 1980年 ドラフト2位
初出場 1983年4月10日
最終出場 2000年10月10日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

駒田 徳広(こまだ のりひろ、1962年9月14日 - )は、元プロ野球選手内野手)。奈良県出身。

現在は横浜ベイスターズ一軍打撃コーチ。

目次

[編集] 来歴・人物

長身で、頑丈な体であり、怪我による戦線離脱が少ない選手であった。大柄な体に似合わずボールを避けるのも巧く、故障の原因ともなる死球も実働18年でわずか19と非常に少なかった。現役時代、シーズン全試合出場は8度(1990年‐1992年、1994年‐1998年)を数えた。

満塁時には無類の強さを発揮し、「満塁男」の異名を持つ。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は王貞治の15本、藤井康雄中村紀洋の14本に次ぐ歴代4位タイの13本を記録した。13本中、横浜在籍時に8本。また、1994年から1999年まで6年連続で毎年満塁本塁打を放っており、これはイチローと並ぶ日本記録である。

一塁守備における捕球技術の高さにも定評があった。一時期右翼手を任されたような柔軟さを持っていた。横浜移籍後は堅実な一塁守備による内野守備力の底上げにより、打撃面だけでなく守備でもチームを支えた。

少々の高めや低めのボール球でも弾き返してヒットする事も多かったため、駒田には通常のストライクゾーンと異なる「駒田ゾーン」があるのではと実況時に言われていた事がある。長身だがストライクで追い込まれる毎に上半身を少々かがめて打つのが特徴であった。横浜移籍後は特に顕著に見られるようになり、長打には未練を残しつつも、基本的には単打でも良いからとにかくヒットを打って次の打者に繋げるスタイルになった。

ボール球に手を出すとバッティングフォームを崩して打率が下降しがちなのが常識とされているが、駒田は比較的高打率を残す中距離砲であった。長距離砲が少なかった第2次藤田元司監督時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けな程ライトスタンドに叩き込む駒田の姿を見た藤田監督が、マスコミと談笑した際「なぜ試合になるとホームランが少ないのだろう」と、記者達と共に訝ることもあった。当時の巨人打者の中で、背筋力など筋力全般が優れていたとされる。

無事是名馬を地で行き、「マイペースな一流の中距離砲」として名球会入りを果たした。

[編集] 経歴

[編集] 高校時代

エースで4番の大型サウスポー。ノーアウトランナー無しの回の先頭バッターでの敬遠。強豪天理高戦でのノーアウト満塁であるにも関わらず敬遠されたエピソードは有名である。高校通算43本塁打。

[編集] 巨人時代

  • 1980年桜井商からドラフト2位で巨人に投手として入団。長身と左投げゆえ投手としての可能性を考えた為であったが、入団後は打者転向に取り組み、強打好守の外野手として期待される。
  • 1983年4月10日の対大洋後楽園球場において、史上初の初打席満塁本塁打で一軍デビュー。打順は7番、対戦投手右田一彦。背番号50の駒田を筆頭に、駒田と同郷の奈良県出身である背番号55の吉村禎章、同54の槙原寛己の3人は「50番トリオ」と呼ばれ巨人の新時代の主力と期待され、この年槙原は12勝をあげる活躍で新人王、吉村は規定打席不足ながら.326、駒田も規定打席不足ながら12本塁打を放ちセ・リーグ優勝の原動力となった。この時期、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」とも呼ばれていた。駒田に近い人間は駒田本人の名前から「駒」、あるいは面長の顔から「ウマ」などと呼んでいた。
  • 1984年、巨人監督に就任したばかりの王貞治から一本足打法を薦められ荒川博の自宅へ通い習得を試みるが思い通りの結果を残せず途中でやめてしまう。
  • その後、外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。
  • 1987年、シーズン後半に松本匡史から外野のポジションを奪取。
  • 1988年、背番号を10に変更。初の規定打席到達。
  • 1989年、シーズン途中で中畑清の故障と、それに伴う岡崎郁の三塁コンバートにより一塁が空き、レギュラー獲得。以降一塁手のレギュラーに定着し、初めてゴールデングラブ賞を受賞。
  • 1989年の日本シリーズ第7戦で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制ホームランを放ち、ダイヤモンドを一周中に「バ~カ!!!」と叫んだ。巨人は第3戦で加藤-村田辰美-吉井理人の継投に完封され、勝利投手となった加藤が試合後「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と発言したと報じられた(詳細は加藤の項目を参照)経緯もあり、この発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている。実際には加藤の発言そのものに怒っていたわけではなく、場外ホームランだと思っていたことと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮の余り「こぉんの!! バ~カヤロ~!!!」と叫んだが、「『バ~カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。それがテレビで写っちゃってね」「加藤本人も多分聞こえてなかったと思います。聞こえてたのは金村義明くらいでしょう」と後年回想している。[1]。駒田はこの「バ~カ!!!」発言以降、人格が変わると風評が立ち、相手チームからの内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べている[2]。このシリーズで最優秀選手に選ばれた。
  • 1990年、22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録する。
  • 1992年、アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。この年キャリアハイを記録。守備範囲は狭かったものの強肩で貢献。
  • 1993年、原の三塁への再コンバートにより再び一塁手に戻るも、打撃不振のために1990年から続けてきた全試合出場記録が途切れる。
    • シーズンオフ、中日ドラゴンズ落合博満FA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する。関東の球団を希望する駒田と、近藤昭仁監督の獲得希望がマッチする形で横浜へ移籍。横浜球団は駒田獲得の際、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊屋鋪要大門和彦山崎賢一市川和正松本豊)を突然解雇した。FAで巨人を退団し国内の球団へ移籍したのは2006年小久保裕紀まで現れなかった。生え抜きの選手としては2008年現在も駒田ただ1人である(生え抜き選手では松井秀喜も2002年にFAで巨人を退団したが、彼は大リーグへの移籍)。
  • 巨人のチーム歴史での位置づけ[3]

[編集] 横浜時代

  • 1994年、シーズン開幕当初は3番を任され3割20本を期待されるが、不振といかないまでも今ひとつの内容で6番に下げられる。併殺打も29を数えた。この夏頃から、ヘルメットを被って一塁守備に付くようになった。
  • 1996年、5月6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されるがその後失速。最終戦で3安打を放ち猛追するも.299に終わる。
  • 1997年ブラッグスが前年限りで退団したため、空いた4番にローズが座り、駒田はさらに空いた5番に打順が繰り上がる。5年ぶりに打率3割を達成し、打点も現役最多の86と移籍後最高の成績を残してマシンガン打線の一翼を担った。
  • 1998年、優勝を目指すチームにあり、外様である駒田が物を言いやすいようにと、キャプテンに就任する。昨年に引き続きマシンガン打線の一翼を担う。
  • 前半戦では故障で何試合かスタメンを外れたロバート・ローズの代わりに4番に座る事も多かったが、満塁ホームランで当時破竹の勢いで広島の快進撃を支えていた小林幹英の勢いを止めたり、4月の中日戦で入団以来満塁被弾ゼロを誇っていた山本昌に初満塁被弾を浴びせる等、十分すぎるほどの活躍でローズの穴を埋めていた。しかし、優勝が近づくにつれ深刻な打撃不振に陥る。日本シリーズに突入してもなかなかエンジンがかからなかったが、第5戦でようやく4安打5打点と突如大爆発すると、日本一を決めた第6戦では、西口文也から決勝2点タイムリーを放ち、シリーズ優秀選手に選ばれた。
  • 1999年、打率.291を残すものの、ローズを始めとする打撃陣が皆絶好調であったためチーム打率(.294)を下回る結果に。
  • 2000年、2000本安打が懸かったシーズンであったが、精彩を欠き二軍落ちも味わう。何とか2000本安打は達成したが、直後に球団から戦力外通告を受ける。現役への意欲が強く移籍先を探すが、この年の現場放棄騒動(右投手に対して左打者の自分に替えて右打者を送ったことに憤激して試合中に帰宅した事件)でトラブルメーカーとして見られてしまったことや、年俸と年齢がネックとなり獲得を希望する球団が現れなかったため引退。

[編集] 引退後

  • 2009年から古巣横浜で1軍打撃コーチ就任。古巣には9年ぶり、コーチとしては4年ぶりの現場復活となる。「技術的なものは杉村さんがいるのだから、自分の仕事は少ないと思う。選手とのコミュニケーションを大事にして、強かった頃の1番・2番コンビを復活させたい。」と語った。

[編集] 年度別打撃成績















































O
P
S
1981 巨人 50 一軍出場なし
1982
1983 86 182 27 52 5 2 12 97 47 2 1 3 0 13 1 31 5 .286 .530 .337 .867
1984 79 84 11 20 3 1 2 31 11 1 0 0 0 7 0 21 3 .238 .369 .297 .666
1985 92 151 13 38 7 1 3 56 20 1 1 2 2 15 2 24 4 .252 .371 .327 .698
1986 64 101 13 26 6 0 3 41 18 1 0 3 1 15 0 21 2 .257 .406 .353 .759
1987 113 331 50 95 7 1 15 149 40 1 1 8 2 29 1 55 6 .287 .450 .346 .796
1988 10 116 365 45 112 22 2 11 171 40 0 4 6 1 32 0 43 11 .307 .468 .363 .831
1989 126 413 47 125 31 3 11 195 56 10 6 3 0 40 2 60 10 .303 .472 .367 .839
1990 130 470 70 135 27 3 22 234 83 7 3 0 5 51 2 70 11 .287 .498 .444 .942
1991 130 510 66 160 23 2 19 244 66 5 2 0 2 44 2 78 16 .314 .478 .363 .841
1992 130 505 73 155 25 1 27 263 64 1 4 0 2 47 2 70 10 .307 .521 .368 .889
1993 122 437 35 109 18 0 7 148 39 1 2 2 4 39 0 89 18 .249 .339 .311 .650
1994 横浜 130 525 60 149 33 2 13 225 68 0 1 0 3 28 2 95 29 .284 .429 .323 .752
1995 130 499 45 144 29 4 6 199 66 0 1 0 2 37 1 78 20 .289 .399 .339 .738
1996 130 485 57 145 22 1 10 199 63 1 3 1 2 45 1 78 18 .299 .410 .360 .770
1997 135 507 57 156 31 2 12 227 86 2 3 0 6 45 0 73 20 .308 .448 .364 .812
1998 136 551 63 155 25 1 9 209 81 0 2 0 8 27 0 86 21 .281 .379 .315 .694
1999 129 519 53 151 29 1 9 209 71 0 1 0 6 31 2 84 14 .291 .403 .333 .736
2000 85 306 25 79 14 0 4 105 34 2 0 0 1 18 1 57 11 .258 .343 .302 .645
通算:実働18年 2063 6941 810 2006 357 27 195 3002 953 35 35 28 47 563 19 1113 229 .289 .433 .344 .777
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

  • 1000試合出場 - 1992年
  • 1500試合出場 - 1996年
  • 2000試合出場 - 2000年
  • 1000本安打 - 1993年
  • 1500本安打 - 1997年
  • 2000本安打 - 2000年9月7日、対中日戦で野口茂樹から
  • 150本塁打 - 1995年

[編集] 背番号

  • 50 (1981年 - 1987年)
  • 10 (1988年 - 2000年)
  • 75 (2005年)
  • 73 (2009年 - )

[編集] 過去の出演番組

[編集] 脚注

  1. ^ 『プロ野球乱闘読本』(オークラ出版 2008年4月)より要約。
  2. ^ 2006年12月20日付東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より。
  3. ^

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク