駒田徳広

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駒田 徳広
YB-Norihiro-Komada20090430.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県磯城郡三宅町
生年月日 1962年9月14日(52歳)
身長
体重
191 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1980年 ドラフト2位
初出場 1983年4月10日
最終出場 2000年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

駒田 徳広(こまだ のりひろ[1]1962年9月14日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手内野手外野手)、野球指導者、野球解説者、タレント。

満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った[2]。現役時代は長身の中距離打者として、巨人と横浜で活躍。一塁手としては史上最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞した。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学生時代は野球の他に水泳もやり、県の大会で上位の成績を残していた[3]。中学に入り本格的に野球を始める。1年生までは右打ちで、2年生から左打ちに転向[4]。中学生時代は長身ながらも非力で、2番打者などを打って三遊間をゴロで抜けるヒットをよく打っていたというが、桜井商業高校時代は体格もよくなり、エースで4番打者として活躍[5]。イニングの先頭バッターで敬遠されたり、高校3年時、春季奈良県大会決勝戦での強豪天理高校戦において、無死満塁で敬遠されたというエピソードがある[6][7]。高校通算で43本塁打、打率.490を記録。高校では駒田の打撃練習の前に、打球の行方に注意を促す校内放送が流れるほど飛距離が凄かったという。地元のマスコミからは「奈良のマニエル」と呼ばれていた[8]

巨人時代[編集]

1980年、巨人からドラフト2位で投手として指名され入団[9]。入団後、新人合同自主トレーニングの期間だけ投手としての練習をしたが、駒田自身投手としての能力に限界を感じていたため、監督の藤田元司に野手への転向を直訴。認められ、1年目の春季キャンプより内野手となった[10]

1、2年目は一軍に上がることはなかったがプロ入り3年目の1983年、オープン戦で結果を残し開幕一軍入りを果たす。4月10日、開幕2戦目の大洋戦(後楽園球場)で、試合前の練習で怪我をした一塁のレギュラー、中畑清に代わり7番・一塁手で先発出場。初回、二軍で得意としていたプロ初先発の右田一彦から、日本プロ野球史上初となるプロ初打席での満塁本塁打[11]を右翼席に放った。藤田は当初ベテランの山本功児の起用も考えていたが、当時助監督だった王貞治の進言で駒田の先発が決まったと言われる。この年、規定打席不足ながら12本塁打を放った背番号50の駒田、12勝をあげる活躍で新人王を獲得した背番号54の槙原寛己、同じく規定打席不足ながら打率.326を記録した背番号55の吉村禎章の3人はセ・リーグ優勝の原動力となり、巨人期待の若手として注目され、彼らの背番号にちなみ50番トリオと呼ばれた。この時期駒田は、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」ともあだ名されていた。

1984年、巨人の監督に就任した王貞治からホームラン打者として期待され、一本足打法の習得を薦められる。首都圏で試合のある日は毎日のように王の師匠である荒川博の自宅へ通い、王がしたように合気道を習い、真剣を振るなど夜中まで練習をして一本足打法の習得を試みたが[12]、結果を残せなかった。当時打撃についてあまりにも考え悩みぬいている姿から、チームメイトからは銅像の『考える人』に由来する「ロダン」というあだ名を付けられていたという。翌1985年の序盤には一本足打法をやめるも結果を残せないでいたが、1986年後半に、当時二軍の打撃コーチだった松原誠の指導により、ホームランを狙うためにボールを上から叩くよう指導されていたそれまでの打撃フォームをやめ、グリップを下げてレベルスイングにすることで、自身にあった打撃スタイルを確立する[13]。外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。

1987年、シーズン後半に松本匡史から外野のポジションを奪取。1988年、背番号を10に変更する。初めて規定打席に到達し、セ・リーグ打率ランキングの4位に入った。この年は初の4番スタメンも経験している[14]。決して足は速くなかったが、チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけては、1番打者として起用されることが多かった。

1989年、シーズン序盤に三塁手・中畑清が故障し、それに伴う一塁手・岡崎郁の三塁コンバートにより、空いた一塁に定着。初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。この頃より「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バ〜カ!!!」と叫んだと言われている。巨人は第3戦(東京ドーム)で加藤、村田辰美吉井理人の継投の前に完封されたが、勝利投手となった加藤が試合後「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」という旨の発言をした経緯もあり、この「バ〜カ!!!」発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている[15][16]。このシリーズは、7試合までの日本シリーズ史上最高打率.522、1本塁打、5打点という成績を残し、最優秀選手に選ばれた。

1990年、7番打者ながら22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録し、チームのセ・リーグ2連覇に貢献する。ファン投票で選出され、オールスターゲームに初出場。翌1991年は3番打者として多く出場し、チーム最高打率であり生涯自己最高でもある打率.314を残すなど、主軸としての地位を不動のものとした。1991年8月19日の対中日戦(東京ドーム)で、上原晃から生涯唯一のサヨナラホームランを放っている。

1992年アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。守備範囲は狭かったものの強肩で貢献した。前半戦は本塁打を量産したが、打点数もほぼ同数を記録し続けるなど勝負弱さが目立ち、シーズンを通しても得点圏打率は.231と低迷した。この年は最終的には自己最多の27本塁打を記録。前半戦は不調の原に代わり4番打者として29試合に出場。4月21日の対ヤクルト戦(神宮球場)で1試合3本塁打を記録している。シーズンオフには原、斎藤雅樹と共に日本人としては球団初の年俸1億円プレイヤーになる。

1993年、原の三塁への再転向により再び一塁手に戻るも、股関節痛などから打撃不振に陥る。5月22日の対阪神戦(甲子園)で、1989年5月27日から続けてきた450連続試合出場記録と、1990年9月11日から続けてきた307試合連続フルイニング出場記録が途切れる。この年、バッティングに対する意見の相違などによる、打撃コーチの中畑清との確執がマスコミで度々報じられる[17]。監督の長嶋茂雄とも、駒田が自身の処遇について尋ねるためコンタクトを取ろうと試みても、無視をされるなど秋風が吹いた。

首脳陣との意思疎通がうまくいかなくなっていたことに加え、同年シーズンオフ、同じ一塁手の中日・落合博満FA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する。関東の球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜ベイスターズ監督の近藤昭仁による、駒田獲得の希望がマッチし、横浜へ移籍[18][19][20]。横浜球団は駒田移籍の直後、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊屋鋪要大門和彦山崎賢一市川和正松本豊)を突如として解雇したが、解雇された選手の年俸が駒田の獲得資金に充てられたのでは、と一部マスコミから揶揄・批判されたこともある[21]。なお、巨人からFA宣言して国内球団に移籍したのは駒田のほかに、それぞれかつて所属した球団に出戻りを果たした小久保裕紀サブロー鶴岡一成中日ドラゴンズに移籍した小笠原道大がいるが、生え抜きの選手で国内球団に移籍したのは2014年現在、駒田のみである。

横浜時代[編集]

1994年、ベテランが大量に解雇されチームが若返ったことに伴い、32歳を迎えるシーズンながらチーム最年長選手となる。シーズン開幕当初は3番打者を任され、序盤こそ本塁打を連発し好調だったが、徐々に成績が低下。中盤からは主に6番打者として出場するようになった。併殺打もセ・リーグ記録となる29を数えた。

1995年、オールスターゲーム前までフル出場しながら、本塁打はわずかに2本。年間を通じても6本であった。このころよりパワー不足を補うため、大きく足を上げる打法を時々試すようになる。打撃用ヘルメットを被って守備をし、コンタクトレンズが目にあわないため黄色のゴーグルをかけていた。

1996年、5月、6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されたがその後失速。最終戦で3安打を放つも、あと1安打足りず打率.299に終わる。8月22日の対巨人戦(東京ドーム)で河野博文から満塁本塁打を放ち、セ・リーグ全球団から満塁本塁打の記録達成。8月末頃よりバットを寝かせる打撃フォームに改造し、閉幕までの1か月少々の間に5本塁打を記録するなどホームランが出るようになる。前年本塁打数がわずか6本で衰えもささやかれていたが2年ぶりに二桁に乗せた。

1997年、4番打者のグレン・ブラッグスの退団により打順が繰り上がり、主に5番打者として出場。前年からの打撃改造が奏功し5年ぶりに打率3割を達成。打点も86と35歳にして自己最多の成績を残した。

1998年、当時新しく選手会長に就任した石井琢朗が、外様の駒田が経験などをスムーズに発言しやすいようにと要請し、キャプテンに就任。マシンガン打線の5番打者としてチームの日本一に貢献。前半戦では不振のロバート・ローズに代わり20試合で4番打者を務めたり、9月の初旬まで打点数ランキングの2位につけ打点王争いに絡むなど活躍したが、終盤には応援団に応援ボイコットをされるほどの深刻な打撃不振に陥る。結局打率.281で本塁打は9本に終わったが、前の打者の出塁率の高さと、2本の満塁本塁打を含む自身の満塁での強さなどから81打点を挙げ、生涯唯一のベストナインを獲得する[22]日本シリーズでは第4戦までわずか2安打とシーズン終盤の不調をひきずっていたが、第5戦(西武ドーム)で満塁でのタイムリーを含む4安打5打点と大活躍をして調子を取り戻すと、日本一を決めた第6戦(横浜スタジアム)では、スコア0-0の8回裏、西口文也から決勝2点適時二塁打を放ち[23]シリーズ優秀選手に選出された。シーズンオフ、野球教室で正座をした際に半月板を損傷し、手術を受ける。

1999年、打率.291の好成績を残すものの、ローズを始めとする打撃陣が皆絶好調であったため横浜のチーム打率.294を下回ってしまった。5月18日から6月17日まで25試合連続安打を記録。また、7月17日の対中日戦(ナゴヤドーム)で、巨人時代の1993年10月21日より続けていた連続試合出場記録が739試合で途切れる[24]。12年連続100安打以上を達成[25]

2000年は2000本安打まで残り73本で迎えたシーズンであったが、プレッシャーの為か開幕から精彩を欠き、打撃不振に陥る。家族も球場で観戦していた6月18日(父の日)の対広島戦で6回に代打を送られた際に憤激し、バットとヘルメットを投げつけてベンチ裏に下がり、試合中に無断帰宅。球場を去る際、取材陣に対し「野球観が違う」とコメントしたことで首脳陣批判と受け取られ、球団からペナルティとして罰金30万円と二軍降格を命じられた[26][27]。この時、2000本安打を諦めてでも引退をするか否かを考えていたが、騒動を知った王貞治から直筆の手紙を受け取り改心し、9月6日に2000本安打を達成[28]名球会に入会した。

その後球団から引退勧告をされるも拒否をし、9月22日に戦力外通告を受ける。結果として現役最終試合となった10月10日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)は4番打者として出場し、第1打席で前田浩継から適時打を放ち交代。現役続行を希望していたため退団セレモニーなどは行われなかった。その後移籍先を探し続け、一時近鉄や阪神が獲得を検討しているとの報道や、メジャーリーグエクスポズがキャンプの招待選手として招聘を検討しているとの報道があったが、結局他球団からの正式な誘いはなく、翌2001年の1月18日に現役引退を表明。名球会入りを果たした名選手でありながら、会見場のセッティングなどはされず、屋外で立ったまま記者の質問に答える形式での引退表明となった。その場でも、「一週間後(現役を)やらないかと言われたら俺はやる」と語るなど、現役への未練を滲ませた[29]。同月20日には、原辰徳が発起人となって「2000本安打達成を祝う会」が開かれ、長嶋茂雄や権藤博などをはじめ現役時代の歴代監督も招かれ、長嶋がスピーチを行った。

引退後[編集]

2001年からニッポン放送の野球解説者を務める。この年の秋から始まったプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの4番打者として活躍。2002年からテレビ東京の解説も兼任。

2005年、この年誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任した田尾安志の要請で[30]楽天一軍打撃コーチに就任。しかし、成績不振のため4月30日に二軍打撃コーチへ降格となり、シーズン終了後に解任された。

2006年からは再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、tvk東北放送テレビ北海道STVラジオにも出演。2006年の読売ジャイアンツ春季キャンプにて、李承ヨプの臨時一塁守備コーチを務める。

2009年に当時スタメンに極端に少なかった左打者の育成を託され、横浜の一軍打撃コーチに就任[31]。リーグ最下位となるチーム打率.239という打撃成績の責任を取り、シーズン終了後に退団した。

2010年からtvk、文化放送スカイ・A sports+(主に楽天戦。2012年からJ SPORTSに移行)の野球解説者を務める。また、2010年に社団法人化した日本プロ野球名球会においては、監事を務める。同年の第17回IBAFインターコンチネンタルカップでは監督の岡崎郁からの指名で、日本代表の打撃コーチを務める。2011年からTBSニュースバードの野球解説者も兼任。2012年千葉ロッテマリーンズ春季キャンプにて、大松尚逸の臨時一塁守備コーチを務める。また、2012年9月1日から常磐大学硬式野球部の臨時コーチを務め、同年10月22日にチームは3季ぶりに関甲新学生野球連盟一部リーグへの昇格を決めた[32]。同年11月に行われたマスターズ甲子園2012奈良情報商業高校・桜井商業高校OBの一員として出場、選手宣誓も行った。

プレースタイル[編集]

長身で頑丈な体であり、怪我による戦線離脱がほとんどない選手であった。大柄な体に似合わずボールを避けるのも巧く、故障の原因ともなる死球も実働18年でわずか19と非常に少なかった。現役時代、シーズン全試合出場は8度(1990年から1992年1994年から1998年)を数えた[33]

打撃面[編集]

満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は王貞治の15本、藤井康雄中村紀洋の14本に次ぐ歴代4位タイの13本を記録した[34][35][36]。これは、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチローと並び日本記録である[37]。満塁時の通算打率.332、打点200。

一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、長打をあきらめヒットを稼ぐ打撃スタイルを確立してから成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、二桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になるとホームランが少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという[38]。しかし、安打製造機というほどではなく、横浜移籍後についていえば3割を記録したのは1回のみで(巨人時代と合わせると通算5回)、生涯最高打率は.314であった。一方で、不調にあえいだ1993年を除けば打率.280を下回ることもなく、年間を通じた打率に関しては毎年安定した成績を残している。1994年にはリーグ最多二塁打を記録しているように、駒田は比較的高打率を残す中距離砲であったと言える。

しかし4打席4三振をした翌日に4打数4安打を記録した1996年の開幕1、2戦に象徴的なように、試合単位ではムラのある選手であった。そのため調子の良い日は止められず、猛打賞を142回記録している。またその不安定さが、巨人時代、打力はありながらもクリーンナップに定着できなかった要因となったとも言われる。腕のリーチが長いために少々のボール球でもバットに当ててしてしまうこともあって早打ちの傾向があり、四球が少なく淡泊な打撃も目立ったが、年齢を重ねるごとにクラッチヒッターぶりを発揮。1992年は打率3割、27本塁打を記録しながら64打点に終わるも、1998年は9本塁打ながら81打点を記録している。

また、オールスター前まで首位打者だった1991年や、最多本塁打だった1992年、打率上位に顔を出していた1996年1997年、最多打点争いをしていた1998年など、オープン戦から前半戦は例年好成績を残していた。しかし夏場の暑さに弱く、毎年中盤以降成績を落とし、名球会所属の選手としては数少ない、打撃タイトルとは無縁の選手であった。

いわゆる「悪球打ち」の選手であり、外角低めの球を腕の長いリーチを利かせてバットをちょこんと当て、レフト前に打球を運び打率を稼ぐ一方、ハイ・ボールや内角低めの球をアッパースイングでホームランにすることも多かった。また、打席での狙い球が読めない選手として有名であり、「悪球打ち」と合わせて相手バッテリーを悩ませた[39]

背筋を伸ばし、テイクバックを大きくとる打撃フォームが基本形であったが、バットを立てたり寝かせたり、足を上げたりすり足にしたり、スクエアスタンスにしたりオープンスタンスにしたりと、調子に合わせて試合単位で打撃フォームを細かく修正した。またストライクで追い込まれる毎にその長身を少々かがめて打つ姿が特徴的であった。レギュラーを獲得してからはバットを立てた構えを基本としていたが、1995年ごろから長打が出なくなってきていた。しかし、1996年の夏ごろにバットを寝かせる打法に改造することによってバットがスムーズに出るようになり、長打力をとり戻す。30代半ばにして衰えを克服したことが、後の2000本安打達成につながったと言える。

また、左打者としては歴代1位の併殺打数を記録している。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一・二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのためか打ち損じのセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後は確実性を求め、バットを振り切らずに当てるだけの打撃をすることが多くなり、結果として打ち損じの内野ゴロを量産した。駒田自身は、体の大きい選手は、年齢を重ね下半身の力が衰えてくると上半身がかぶさるように打つようになってしまうため、内野ゴロが増えてしまうと分析している[3]。それらのことが、足があまり速くなかったこと、また横浜時代は前を打つ打者の出塁率が高かったことと合わせて、併殺打が多くなった要因であると考えられる。

バットは33インチ(83.82センチ)・915グラムと他の選手と比べても短くて太めの、ミート性を重視したものを使っていた。1987年のアリゾナ教育リーグに参加した際に地元のマイナー選手と交換したバットが元となっている。

三振をすると走ってベンチに戻る姿が印象的であった。本人は「恥ずかしいから。三振してピッチャー睨んでる選手もいるが、そんな行為は愚かなことだと思う」と語っている。

守備面[編集]

手首が柔らかくグラブ捌きが巧みで、一塁手として内野手からのショートバウンド、ハーフバウンド送球の捕球が非常に上手かった[40]。浮足立つことなく、体をあまり動かさずに手首のハンドリングだけで事もなげにショートバウンド送球を捕球する姿が特徴的だった[41]。また身長も高いため、内野手は思い切った送球ができ、巨人・横浜の内野守備力の向上に貢献した。バント処理にも定評があり、果敢なダッシュで相手打者にプレッシャーをかけ、下手投げの鋭い送球で二塁でランナーを刺すこともしばしばあった[42]。若い頃は、一塁ライン際の打球の捕球が上手いことでも知られた。当時のセ・リーグに守備の上手い一塁手がいないという状況も手伝い、一塁手としては歴代最多となる、10度のゴールデングラブ賞を受賞している。

しかし、ファウルフライの捕球には難を残し、特に(海に近く、すり鉢状の球場の形状によって)風の舞う横浜スタジアムを本拠地とする横浜に移籍してから、その傾向が顕著になった。1998年5月20日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)で、一塁手としてはプロ野球タイ記録で史上13人目となる、1試合3失策を記録している。

外野守備の際は、守備範囲は広くないものの、肩の強さが際立った。

走塁面[編集]

背筋を伸ばし、大きなストライドで走る姿が特徴的であった。

その他[編集]

その一見覇気のないように見えるプレースタイルからか、横浜スタジアムでの一塁側横浜ファンからのヤジはひと際大きく、それへの駒田の応戦は一種の名物になっていた。しかし、審判への抗議などによる退場は一度もない。本人曰く一番印象に残っている野次は、神宮球場で言われた「横浜ベイスターズが優勝できないのは君がいるからなんだよ!君さえいなければ優勝できるのに」であるという。また敵チームに言われた野次としては、10学年下の当時阪神の捕手・北川博敏が、駒田が打席に入った際に味方守備陣に言った「これ(駒田)ボール振るよ!」が印象に残っているという。

また、ヘルメットを被って守備をしたり[43]、プロ野球選手で初めてストッキングを履かずにユニフォームのパンツの裾にゴムをつけ、ストッキングのように見せるなど[44]、ユニフォームの着こなしもユニークな選手であった[45]

守備に就く際、足に帽子を引っ掛け、そのまま放り上げて頭に乗せるというアシカ芸をしばしば見せていた。

人物[編集]

引退後はテレビラジオでの野球解説の他に俳優業をこなしたり、多くのバラエティ番組旅番組に出演している。美佳子夫人とともにテレビ出演することも多い。

オールド・カーと1980年代のアイドル歌謡のファンであり、そのことをテーマにしてしばしばメディアに登場している。『'84ヤング・ジャイアンツ―歌の球宴』では「冬のリヴィエラ」のカヴァー・ソングを披露している。また、引退後、横浜関内のベイスターズ通りに歌謡喫茶を出店していたこともある。

石井琢朗との対談の中で、「俺は大雑把<略>俺は気が小さいから大雑把にしなきゃいけなかった」と自身の性格について語っている[46]

「野球はレジャーだから。投手はスポーツだけど、打者はレジャー。スポーツだったら、週に6試合なんてできない」[4]と述べたり、「ジャングルTV 〜タモリの法則〜」(2001年2月13日)出演時、「運動が嫌い」と語るなど、元野球選手らしからぬ発言も多い。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1983 巨人 86 199 182 27 52 5 2 12 97 47 2 1 3 0 13 0 1 31 5 .286 .337 .533 .870
1984 79 91 84 11 20 3 1 2 31 11 1 0 0 0 7 0 0 21 3 .238 .297 .369 .666
1985 92 172 151 13 38 7 1 3 56 20 1 1 2 2 15 3 2 24 4 .252 .324 .371 .694
1986 64 120 101 13 26 6 0 3 41 18 1 0 3 1 15 1 0 21 2 .257 .350 .406 .756
1987 113 371 331 50 95 7 1 15 149 40 1 1 8 2 29 3 1 55 6 .287 .344 .450 .795
1988 116 404 365 45 112 22 2 11 171 40 0 4 6 1 32 4 0 43 11 .307 .362 .468 .830
1989 126 458 413 47 125 31 3 11 195 56 10 6 3 0 40 10 2 60 10 .303 .367 .472 .839
1990 130 528 470 70 135 27 3 22 234 83 7 3 0 5 51 6 2 70 11 .287 .356 .498 .854
1991 130 558 510 66 160 23 2 19 244 66 5 2 0 2 44 7 2 78 16 .314 .369 .478 .848
1992 130 556 505 73 155 25 1 27 263 64 1 4 0 2 47 7 2 70 10 .307 .367 .521 .888
1993 122 482 437 35 109 18 0 7 148 39 1 2 2 4 39 1 0 89 18 .249 .308 .339 .647
1994 横浜 130 558 525 60 149 33 2 13 225 68 0 1 0 3 28 3 2 95 29 .284 .321 .429 .749
1995 130 539 499 45 144 29 4 6 199 66 0 1 0 2 37 1 1 78 20 .289 .338 .399 .736
1996 130 534 485 57 145 22 1 10 199 63 1 3 1 2 45 6 1 78 18 .299 .358 .410 .769
1997 135 558 507 57 156 31 2 12 227 86 2 3 0 6 45 4 0 73 20 .308 .360 .448 .808
1998 136 586 551 63 155 25 1 9 209 81 0 2 0 8 27 1 0 86 21 .281 .311 .379 .690
1999 129 558 519 53 151 29 1 9 209 71 0 1 0 6 31 0 2 84 14 .291 .330 .403 .732
2000 85 326 306 25 79 14 0 4 105 34 2 0 0 1 18 2 1 57 11 .258 .301 .343 .644
通算:18年 2063 7598 6941 810 2006 357 27 195 3002 953 35 35 28 47 563 59 19 1113 229 .289 .342 .433 .774
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]


一塁 外野
























1983 24 189 12 39
1984 12 31 3 26
1985 36 190 13 26
1986 25 124 9 0 1.000 18 0
1987 53 411 21 65
1988 26 133 3 0 1.000 100 147 5 4 1 .974
1989 113 953 53 5 75 .995 22 0
1990 130 1187 104 7 101 .995
1991 130 1220 99 8 84 .994
1992 19 94 14 1 .991 119 179 9 2 3 .989
1993 115 921 47 8 80 .992 11 0
1994 130 1059 75 8 112 .993
1995 130 1132 71 11 111 .991
1996 128 1002 71 7 104 .994
1997 131 1018 64 7 99 .994
1998 136 1163 68 12 104 .990
1999 129 1113 69 12 94 .990
2000 81 702 41 3 61 .996
通算 1548 12642 837 97 1122 .993 426 10
  • 太字年はゴールデングラブ賞受賞年

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
  • 初出場・初先発出場:1983年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、7番・一塁手で先発出場
  • 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回裏に右田一彦から右越満塁本塁打 ※史上16人目の初打席初本塁打(満塁本塁打は史上初)
節目の記録
  • 100本塁打:1992年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム)、7回裏に秋村謙宏から右中間へソロ ※史上168人目
  • 1000試合出場:1992年7月1日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、5番・右翼手で先発出場 ※史上303人目(佐藤兼伊知と同日達成)
  • 1000本安打:1993年8月29日、対広島東洋カープ18回戦(東京ドーム)、12回裏に望月秀通から左前安打 ※史上170人目
  • 150本塁打:1995年9月7日、対読売ジャイアンツ24回戦(横浜スタジアム)、4回裏に木田優夫から2ラン本塁打 ※史上102人目
  • 1500試合出場:1996年6月8日、対阪神タイガース10回戦(札幌市円山球場)、6番・一塁手で先発出場 ※史上116人目
  • 1500本安打:1997年5月6日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、2回表に加藤伸一から中前安打 ※史上71人目
  • 300二塁打:1998年7月5日、対ヤクルトスワローズ11回戦(藤崎台県営野球場)、6回表に石井一久から右翼へ2点適時二塁打 ※史上20人目
  • 1000三振:1999年5月27日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、2回表に石井一久から ※史上24人目
  • 2000試合出場:2000年4月30日、対広島東洋カープ6回戦(横浜スタジアム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上31人目
  • 350二塁打:2000年6月15日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、2回表に桑田真澄から左翼線二塁打 ※史上20人目
  • 2000本安打:2000年9月6日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤドーム)、3回表に野口茂樹から左翼線二塁打 ※史上29人目
  • 3000塁打:2000年9月17日、対読売ジャイアンツ27回戦(東京ドーム)、4回表に上原浩治から中前安打 ※史上35人目
その他の記録
  • 25試合連続安打(1999年5月18日 - 6月17日)
  • シーズン29併殺打(1994年、セ・リーグ記録)
  • オールスターゲーム出場:6回(1990年 - 1992年、1995年、1997年 - 1998年)
  • プロ野球通算55000号本塁打:1987年9月7日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、5回表に欠端光則から2ラン本塁打
  • プロ野球通算70000号本塁打:1997年9月9日、対読売ジャイアンツ23回戦(東京ドーム)、4回表にバルビーノ・ガルベスから右中間へソロ
  • 代打の代打で満塁本塁打:1989年4月16日、対広島東洋カープ戦 ※NPB史上4人目

背番号[編集]

  • 50 (1981年 - 1987年)
  • 10 (1988年 - 2000年)
  • 75 (2005年)
  • 73 (2009年)

出演[編集]

野球解説[編集]

バラエティ[編集]

映画[編集]

ドラマ[編集]

テレビコマーシャル[編集]

ラジオ[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 本名の読みは「とくひろ」だが、入団時に「のりひろ」と呼称され、そのままうやむやになって本人も使い分けているという(『FLASH2012年3月20日号での本人のインタビューより)。
  2. ^ 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム
  3. ^ 2012年11月17日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  4. ^ 2012年11月19日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  5. ^ 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月)
  6. ^ 同じ試合の次の打席も満塁で迎え、満塁本塁打を放つ。しかし投手・駒田が藤本博史に満塁本塁打を浴びてチームは8-13で敗退している。
  7. ^ [虎四ミーティング]駒田徳広(プロ野球解説者)<前編>「“無死満塁で敬遠”伝説の真相」(2/5)”. 現代ビジネス Sportsプレミア (2013年2月8日). 2014年8月10日閲覧。
  8. ^ 週刊読売 1980年12月
  9. ^ 首都圏以外のチームに指名された場合、東海大学に進学することを検討していたという。
  10. ^ 2012年11月27日朝日新聞・奈良版、朝刊
  11. ^ メジャーリーグでは2010年現在5人達成しているが、日本プロ野球では1995年ダイエーケビン・ミッチェルと駒田の2人だけであり、日本人選手としては2014年現在、駒田のみである。
  12. ^ 駒田は「ナイター後、シャワーも浴びず荒川さんのもとに通う日が続きました。練習が終わるのは午前1時ごろでした。息を止めて何十回と素振りをする。日本刀でつるした新聞紙の短冊を切る。オフは朝から合気道の稽古。様々な練習をしました。年末年始も休みはなかった」と、当時の練習の厳しさを語っている(2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。
  13. ^ 2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  14. ^ 巨人時代の4番打者としての通算成績は、34試合、打率.376、7本塁打、14打点(1988年 - 1992年)。
  15. ^ しかし駒田本人は、実際には加藤の発言そのものに怒っていたわけではなく、場外ホームランだと思っていたことと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮の余り「こぉんの!! バ〜カヤロ〜!!!」と叫んだが、「『バ〜カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。それがテレビで写っちゃって」と後年回想している。また「加藤本人にも多分聞こえてなかったと思います。聞こえてたのは金村義明くらいでしょう」とも述べている(『プロ野球乱闘読本』オークラ出版 2008年4月より要約)。
  16. ^ また駒田はこの「バ〜カ!!!」発言以降、人格が変わるとの風評が立ち、相手チームからの内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べている(2006年12月20日付東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より)。
  17. ^ 駒田は後年、「中畑さんは猛ノックでチームを立て直すという考え方。<中略>中畑さんとは頻繁に衝突しました。考え方が決定的に違ったのです」と述べている(2012年12月04日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。「さんまのまんま」にテレビ出演時(1997年1月14日)も、司会の明石家さんまから「なんでFAして巨人を出たの?」と聞かれた際、「その時のコーチと合わなかった」と答えている。
  18. ^ FA移籍を選択した背景には、恩師の藤田元司のアドバイスがあったと言われる(『プロ野球「トレード&FA」大全』洋泉社編集部)。なお、中日、ロッテも駒田獲得に名乗りを上げている。
  19. ^ 駒田は12月9日に横浜市内のホテルで入団会見を行い、その席上で「大変やりがいを感じる。(横浜に)骨をうずめるつもりで頑張る。(横浜は)球場が街の真ん中にあって格好いいね」、「打率3割、本塁打30本ぐらいの結果を出しチームに貢献したい」と抱負を語っている。
  20. ^ 駒田の巨人軍史における位置づけについて。『巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。1989年の日本シリーズMVP受賞が掲載され、簡単な経歴も添えられている。なお、同書では、槙原、吉村はいずれも単独でのエピソードが紹介されている。
  21. ^ 駒田の年俸1億2000万円と巨人への獲得保障金(駒田の前年度年俸の1.5倍の額)の合計額は約3億円であり、高木(推定年俸9840万円)、屋鋪(推定年俸4800万円)、大門(推定年俸2700万円)、山崎(推定年俸2700万円)、市川(推定年俸1900万円)、松本(推定年俸2040万円)の年俸の合計額は約2億4000万円である。しかし、横浜球団は駒田獲得と大量解雇の関係を明確に否定している。駒田獲得資金の総額については、スポーツニッポンは総額3億6千万超、コストカット額は前述の6選手と引退する斉藤明雄、その他戦力外になった5選手の年俸を加えて3億8千万としている[1]
  22. ^ プロ入り18年目での初受賞は当時、遅咲きの新記録。
  23. ^ 10年ひと昔…横浜、駒田徳広の一撃で38年ぶりの日本一
  24. ^ 横浜時代のみでは738試合であり、2012年現在、連続試合出場の横浜球団記録。
  25. ^ 1990年代の10年間、日本プロ野球において野村謙二郎に次いで2番目に安打を放っている(1459本)。
  26. ^ 事件の背景には、右投手(ネイサン・ミンチー)に対し左打者の自分を下げて右打者(中根仁)を代打に送ったことと、当時チームは最下位であったにも関わらずバントやミーティングをしないなど、点を取るための特別な工夫をしない権藤博の監督采配への鬱積した不満もあったと言われる。
  27. ^ あと30本 駒田徳広 職場放棄「2軍でも何でもいいや!」
  28. ^ 達成時「僕みたいな普通の選手でも、根気よく頑張れば偉業を達成することが出来る」とコメントしている。
  29. ^ 後に、「自分がこの後テスト生(トライアウト)で入団したら、名球会に対して失礼だ」ということをあるテレビ番組で話している。
  30. ^ 読む野球-9回勝負-No.6、主婦の友社、P172
  31. ^ 就任時、「技術的なものは(年長で打撃チーフコーチ格の)杉村さんがいるのだから、自分の仕事は少ないと思う。選手とのコミュニケーションを大事にして、強かった頃の1番、2番コンビを復活させたい」と語っている。
  32. ^ 常磐大「駒田効果」
  33. ^ シーズン全試合出場8度は史上7位の記録(2012年現在)。
  34. ^ 全満塁本塁打の内訳。第1号:1983年4月10日(後楽園)大洋・右田から。第2号:1984年5月2日(後楽園)代打で大洋・遠藤から。第3号:1988年4月23日(東京ドーム)大洋・岡本から。 第4号:1989年4月16日(東京ドーム)代打で広島・紀藤から。第5号:1989年5月3日(東京ドーム)阪神・遠山から。第6号:1994年4月21日(神宮)ヤクルト・宮本から。第7号:1995年9月22日(横浜)広島・小林敦から。第8号:1996年5月4日(ナゴヤ)中日・中山から。第9号:1996年8月22日(東京ドーム)巨人・河野から。第10号:1997年7月16日(東京ドーム)巨人・から。第11号:1998年4月18日(横浜)中日・山本昌から。第12号:1998年5月10日(下関)広島・小林幹から。第13号:1999年8月19日(横浜)阪神・湯舟から。
  35. ^ 満塁男・駒田徳広 2年連続1号はグランドスラム
  36. ^ 駒田が満塁本塁打を打った試合は、すべてチームは勝利している。
  37. ^ 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム
  38. ^ 引退から9年がたった横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという[2]
  39. ^ 巨人時代のコーチである松原誠は、駒田は感覚的に打つ部分と、理論的に打つ部分が相半ばする選手のため、相手バッテリーはどちらのタイプの選手として対処していいのか解りづらいのでは、とテレビ中継で解説している。
  40. ^ 巨人時代の守備走塁コーチだった江藤省三は、駒田はプロ入り当初から誰に教わるでもなくグラブ捌きがグニャグニャしすぎるくらい柔らかく、みんなが驚いたことを覚えている、と語っている。また、駒田は体は大きいが俊敏で当時は足も速く、元々器用だった選手がそのまま体が大きくなったのでは、と分析し、長身も含め一塁手としては理想的だったと語っている(2000年2月21日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。子供のころからショートバウンドボールの捕球は上手かったというが、プロ入り後はルーキーイヤーに同僚だったタコ足捕球の名一塁手・松原誠や、同じく一塁守備のうまかった山本功児に捕球のコツをおそわったり、レギュラー一塁手の中畑清とショートバウンド送球を投げ合って捕球練習をしたという。
  41. ^ 立浪和義は、自身の現役時代に守備の上手かった一塁手として駒田を挙げ、「適当に捕っている感じだが、球がグラブにちゃんと収まっている感じがすごい」という表現で、ショートバウンド送球の捕球技術を評価している(立浪和義著『攻撃的守備の極意 ポジション別の鉄則&打撃にも生きるヒント』廣済堂出版)。
  42. ^ 松原誠は、駒田との対談の中で、駒田はバント処理の際、(現役選手の中で)「一番前に出」て相手打者にプレッシャーをかけている一塁手だと評価している(1999年12月20日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。
  43. ^ 巨人時代の1993年の夏ごろからヘルメットを被って守備をするようになり、特に1995年はかなりの頻度でヘルメットを被っていた(1996年以降は被っていない)。
  44. ^ 夏場にストッキングを履くと疲れやすくなるという理由から1992年、ストッキングを履かずにユニフォームのパンツの裾に黒のゴムをつけた。外から見て、ゴムをストッキングのように見せるメリットがあった。現在では大リーグも含めそのスタイルが定着しているが、当時駒田はソックスにゴムを掛けていた(最近はスパイクの底にゴムを引っ掛ける形が主流)。当時監督の藤田には「いろいろ考えるものだね」と感心されたというが、横浜に移籍した当時には裾がくるぶしまでかかるパンツが定着していた為、やめてしまったという。
  45. ^ アンダーシャツにもこだわりがあり、巨人時代、灰色の半袖アンダーシャツを着用することがたびたびあった。チームのアンダーシャツは統一されていなければならず、本来であれば規則違反であるが、黒に近かったためか黙認されていた。優勝後のビールかけで水中メガネを使用した第1号の選手でもある(1989年)。また、試合では使用しなかったが、ルイ・ヴィトンの革を使ったファーストミットを作ったことがある。
  46. ^ 2006年6月19日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より。
  47. ^ 巨人を模したと思われる球団「東京ガリバーズ」の選手役として出演し、甲子園球場で撮影されたホームランを打つシーンでは、実際に左中間スタンドに飛球を叩き込んでいる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]