駒田徳広

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駒田 徳広
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県磯城郡三宅町
生年月日 1962年9月14日(49歳)
身長
体重
191cm
110kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1980年 ドラフト2位
初出場 1983年4月10日
最終出場 2000年10月10日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

駒田 徳広(こまだ のりひろ[1]1962年9月14日 - )は、元プロ野球選手内野手)。奈良県出身。

現在はプロ野球解説者、タレント。

目次

[編集] 経歴

[編集] 高校時代

桜井商ではエースで4番として活躍。イニングの先頭バッターでの敬遠や強豪天理高校戦で無死満塁で敬遠されたエピソードは有名である。高校通算43本塁打。駒田の打撃練習の前に、打球の行方に注意を促す校内放送が流れるほど飛距離が凄かったという。地元では「奈良のマニエル」と呼ばれていた。

[編集] 巨人時代

1980年、ドラフト2位で巨人に投手として指名され入団。しかし打者としての能力を買われ、入団後即打者へ転向した。

1983年4月10日の対大洋戦(後楽園球場)で、試合前の練習で怪我をした中畑清に代わり7番一塁手で先発出場。日本プロ野球史上初の初打席満塁本塁打[2]を放ち一軍デビューを果たす。藤田元司監督は当初ベテランの山本功児の起用も考えていたが、当時助監督だった王貞治の進言で先発が決まったと言われる。対戦投手は二軍時代得意としていた右田一彦。背番号50の駒田、背番号55の吉村禎章、背番号54の槙原寛己の3人は「50番トリオ」として巨人の期待の若手として注目された。この年槙原は12勝をあげる活躍で新人王、吉村は規定打席不足ながら打率.326、駒田も規定打席不足ながら12本塁打を放ちセ・リーグ優勝の原動力となった。この時期、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」とも呼ばれていた。

1984年、巨人の監督に就任した王貞治からホームラン打者として期待され、一本足打法の習得を薦められる。首都圏で試合のある日は毎日のように王の師匠である荒川博の自宅へ通い、夜中まで練習をして一本足打法の習得を試みたが結果を残せなかった。その後、1985年から巨人の打撃コーチに就任した松原誠の指導などにより、自身にあった打撃スタイルを確立していった。外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。

1987年、シーズン後半に松本匡史から外野のポジションを奪取。1988年、背番号を10に変更。決して足は速くなかったが、チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけては、1番打者として起用されることが多かった[3]

1989年、シーズン途中に中畑清が故障し、それに伴う岡崎郁の三塁コンバートで一塁が空いたことにより、一塁手に定着。初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。またこの年はキャリアで唯一の二桁盗塁(10盗塁)を記録している。この頃より「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。

1989年の日本シリーズ第7戦で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バ〜カ!!!」と叫んだと言われている。巨人は第3戦で加藤-村田辰美-吉井理人の継投の前に完封されたが、勝利投手となった加藤が試合後「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」という旨の発言した経緯もあり、この「バ〜カ!!!」発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている[4][5]。このシリーズで最優秀選手に選ばれた。

1990年、22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録する。翌1991年は自己最高の打率.314を残すなど、主軸としての地位を不動のものとする。

1992年、アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。この年は自己最多の27本塁打を記録。守備範囲は狭かったものの強肩で貢献した。シーズンオフには原、斎藤雅樹と共に日本人としては球団初の年俸1億円プレイヤーになる。

1993年、原の三塁への再転向により再び一塁手に戻るも、打撃不振のために1990年から続けてきた全試合出場記録が途切れる。この年、打撃コーチの中畑清との確執がスポーツ紙でたびたび取り上げられる[6]。監督の長嶋茂雄とも、駒田自身がコンタクトを取ろうと試みても長嶋監督は無視をするなど秋風が吹いた。

同年シーズンオフ、ドラゴンズの落合博満FA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する。関東の球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜監督の近藤昭仁による、駒田獲得の希望が合致する形で横浜へ移籍[7]。横浜球団は駒田獲得の際、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊屋鋪要大門和彦山崎賢一市川和正松本豊)を突如として解雇したが、解雇した選手の総年俸と駒田の獲得必要資金がほぼ一致したことから、一部マスコミから「駒田の獲得資金稼ぎ」と揶揄・批判されたこともある。なお、巨人からFA宣言して国内球団に移籍したのは駒田のほかに小久保裕紀サブロー鶴岡一成がいるが、生え抜きの選手で国内球団に移籍したのは駒田ただ一人である。

[編集] 横浜時代

1994年、シーズン開幕当初は3番打者を任される。序盤こそ好調だったが徐々に成績が低下し、中盤からは主に6番打者として出場。併殺打も29を数えた。

1995年、オールスター前までフル出場しながら、本塁打はわずかに2本。年間を通じても6本であった。ヘルメット姿で守備をし、コンタクトレンズが目にあわないため黄色のゴーグルをかけるようになる。

1996年、5月・6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されたがその後失速。最終戦で3安打を放つも、あと1安打足りず打率.299に終わる。8月22日の巨人戦で河野博文から満塁本塁打を放ち、セ・リーグ全球団から満塁本塁打の記録達成。シーズン中盤よりバットを寝かせる打撃フォームに改造し、3試合連続本塁打を記録するなどホームランが出るようになる。前年本塁打数がわずか6本で衰えもささやかれていたが2年ぶりに二桁に乗せた。

1997年、主に5番打者として出場。前年からの打撃改造が奏功し5年ぶりに打率3割を達成。打点も86と35歳にして自己最多の成績を残した。

1998年石井琢朗の要請によりキャプテンに就任。マシンガン打線の一人としてチームの日本一に貢献。前半戦では不振のロバート・ローズの代わりに4番を務めたり、打点王争いに絡むなど活躍したが、終盤には応援団に応援ボイコットをされるほどの深刻な打撃不振に陥り、結局打率.281で本塁打は9本に終わる。しかし前の打者の出塁率の高さと自身の満塁での強さから81打点を挙げ、生涯唯一のベストナインを獲得する。日本シリーズでは第5戦で4安打5打点と大活躍、第6戦では、西口文也から決勝2点タイムリーを放ち、シリーズ優秀選手に選出された。

1999年、打率.291の好成績を残すものの、ローズを始めとする打撃陣が皆絶好調であったためチーム打率(.294)を下回る結果に。5月18日から6月17日まで25試合連続安打を記録。また、7月17日の中日戦で、1993年より続けていた連続試合出場が739試合で途切れる。

2000年、2000本安打が懸かったシーズンであったが、プレッシャーのためか開幕から精彩を欠く。家族も球場で観戦していた「父の日」の6月18日の対広島戦で、代打を送られたことに憤激し、バットとヘルメットを投げつけて、試合中に無断で帰宅。球団から職場放棄のペナルティとして罰金30万円と二軍降格を命じられた。この時2000本安打を諦めてでも引退をするか否かを考えていたが、騒動を知った王貞治から直筆の手紙を受け取り改心し、9月6日に無事2000本安打を達成した[8]

その後、9月22日に球団から戦力外通告を受ける。現役続行を希望したが、他球団からの誘いがなく、翌2001年1月18日に現役引退を表明。名球会入りを果たした名選手でありながら、会見場のセッティングなどはされず、屋外で立ったまま記者の質問に答える形式での引退表明となった。その場でも、「一週間後(現役を)やらないかと言われたら俺はやる」と語るなど、現役への未練を滲ませた[9]

[編集] 引退後

2001年ニッポン放送の野球解説者を務める。

2002年テレビ東京の解説も兼任。

2005年、新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスの初代一軍打撃コーチに就任。しかし、成績不振のため4月30日に二軍打撃コーチへ降格となり、シーズン終了後に退団。

2006年からは再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、tvk東北放送テレビ北海道STVアタックナイターにも出演。

2009年、横浜の一軍打撃コーチ就任。前年のチーム打率.266を大きく下回るチーム打率.239(リーグ最下位)と結果を残せずシーズン終了後に退団。

2010年、tvk、文化放送スカイ・A sports+の野球解説者を務める。

2011年TBSニュースバードの野球解説者を務める。

[編集] プレースタイル

長身で頑丈な体であり、怪我による戦線離脱がほとんどない選手であった。大柄な体に似合わずボールを避けるのも巧く、故障の原因ともなる死球も実働18年でわずか19と非常に少なかった。現役時代、シーズン全試合出場は8度(1990年1992年1994年1998年)を数えた。

その一見覇気のないように見えるプレースタイルからか、横浜スタジアムでの一塁側横浜ファンからのヤジはひと際大きく、それへの駒田の応戦は一種の名物になっていた。しかし、審判への抗議などによる退場は一度もない。

また、ヘルメットを被って守備をしたり[10]、プロ野球選手で初めてストッキングを履かずにユニフォームのパンツの裾にゴムをつけ、ストッキングのように見せるなど[11]、ユニフォームの着こなしもユニークな選手であった[12]

[編集] 打撃面

満塁時には無類の強さを発揮し、「満塁男」の異名を持つ。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は王貞治の15本、藤井康雄中村紀洋の14本に次ぐ歴代4位タイの13本を記録した。これは、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である(同じく満塁男と呼ばれた藤井康雄ですら約20本に1本)。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また、1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチローと並び日本記録である。

一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、長打をあきらめヒットを稼ぐ打撃スタイルを確立してから成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからとにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、二桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司監督時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田に対し藤田監督も、「なぜ試合になるとホームランが少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという。しかし、安打製造機という程でもなく、横浜移籍後についていえば3割を記録したのは1回のみで、巨人時代とあわせても通算5回、最高打率も.314であった。一方で、不調にあえいだ1993年を除けば打率.280を下回ることもなく、年間を通じた打率に関しては毎年安定した成績を残している。1994年にはリーグ最多二塁打を記録しているように、駒田は比較的高打率を残す中距離砲であったと言える。

しかし1996年の開幕1、2戦に象徴的なように4打席4三振をした翌日4打席4安打を記録するなど試合単位ではムラのある選手であった。そのため調子の良い日は止められず、猛打賞を142回記録している。しかしその不安定さが、巨人時代、長打力はありながらもクリーンナップに定着できなかった要因ともなったと言われる。

いわゆる「悪球打ち」の選手であり、少々高めや低めのボール球でも弾き返してヒットする事も多かったため、駒田には通常のストライクゾーンと異なる「駒田ゾーン」があると言われていた。また、打席での狙い球が読めない選手として有名であり、「悪球打ち」と合わせて相手バッテリーを悩ませた。巨人時代のコーチである松原誠は、駒田は感覚的に打つ部分と、理論的に打つ部分が相半ばしている選手のため、相手バッテリーはどちらのタイプの選手として対処していいのか解りづらいのでは、とテレビ中継で解説している。また一方で、ボールカウントが浅い内から打っていく早打ちの傾向があり四球が少なく、淡泊な打撃も目立った。

背筋を伸ばし、テイクバックを大きくとる打撃フォームが基本形であったが、バットを立てたり寝かせたり、足を上げたりすり足にしたりと、試合単位で打撃フォームを細かく修正した。またストライクで追い込まれる毎にその長身を少々かがめて打つ姿が特徴的であった。レギュラーを獲得してからはバットを立てた構えを基本としていたが、1995年ごろから長打が出なくなってきていた。しかし、1996年の夏ごろにバットを寝かせる打法に改造することによって長打力をとり戻し、衰えを克服したことが、後の2000本安打達成に繋がった。

また、左打者としては歴代1位の併殺打数を記録している。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのため打ち損じのセカンドゴロが非常に多く、その事が足があまり早くなかったことと合わせて、併殺打数の多い一因になったと考えられる。

バットは33インチ(83.82センチ)と他の選手と比べても短めのものを使っていた。1987年のアリゾナ教育リーグに参加した際に地元のマイナー選手と交換したバットが元となっている。

三振をすると走ってベンチに戻る姿が印象的であった。本人は「恥ずかしいから。三振してピッチャー睨んでる奴がいるけど、バカじゃないかと思う」と語っている。

[編集] 守備面

手首が柔らかく、一塁手として内野手からのショートバウンド、ハーフバウンド送球の捕球が非常に上手かった[13]。また身長も高いため、内野手は思い切った送球ができ、巨人・横浜の内野守備力の向上に貢献した。またバント処理にも定評があり、果敢なダッシュで相手打者にプレッシャーをかけ、二塁でランナーを刺すこともしばしばであった[14]。当時のセ・リーグに守備の上手い一塁手がいないという状況も手伝い、一塁手部門でゴールデングラブ賞を10度受賞している。

ただ一塁後方のファールフライの捕球を苦手とし、特に風の舞う横浜スタジアムを本拠地とする横浜に移籍してから、その傾向が顕著になる。また巨人時代は補殺数も多かったが、横浜に移籍した頃より徐々に守備範囲が小さくなり補殺数は減少傾向にあった。失策数も増え横浜時代の7年で二桁失策を3回記録。1998年には1試合で3つの失策をしたこともある。しかし、ショートバウンド、ハーフバウンド送球の捕球能力は現役晩年まで衰えなかった。

[編集] 走塁面

若いころは代走として起用されるなど、そこそこの脚力があったが、選手時代の半ば以降はあまり足の速い選手ではなかった。背筋を伸ばし、大きなストライドで走る姿が特徴的であった。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1983 巨人 86 199 182 27 52 5 2 12 97 47 2 1 3 0 13 0 1 31 5 .286 .337 .533 .870
1984 79 91 84 11 20 3 1 2 31 11 1 0 0 0 7 0 0 21 3 .238 .297 .369 .666
1985 92 172 151 13 38 7 1 3 56 20 1 1 2 2 15 3 2 24 4 .252 .324 .371 .694
1986 64 120 101 13 26 6 0 3 41 18 1 0 3 1 15 1 0 21 2 .257 .350 .406 .756
1987 113 371 331 50 95 7 1 15 149 40 1 1 8 2 29 3 1 55 6 .287 .344 .450 .795
1988 116 404 365 45 112 22 2 11 171 40 0 4 6 1 32 4 0 43 11 .307 .362 .468 .830
1989 126 458 413 47 125 31 3 11 195 56 10 6 3 0 40 10 2 60 10 .303 .367 .472 .839
1990 130 528 470 70 135 27 3 22 234 83 7 3 0 5 51 6 2 70 11 .287 .356 .498 .854
1991 130 558 510 66 160 23 2 19 244 66 5 2 0 2 44 7 2 78 16 .314 .369 .478 .848
1992 130 556 505 73 155 25 1 27 263 64 1 4 0 2 47 7 2 70 10 .307 .367 .521 .888
1993 122 482 437 35 109 18 0 7 148 39 1 2 2 4 39 1 0 89 18 .249 .308 .339 .647
1994 横浜 130 558 525 60 149 33 2 13 225 68 0 1 0 3 28 3 2 95 29 .284 .321 .429 .749
1995 130 539 499 45 144 29 4 6 199 66 0 1 0 2 37 1 1 78 20 .289 .338 .399 .736
1996 130 534 485 57 145 22 1 10 199 63 1 3 1 2 45 6 1 78 18 .299 .358 .410 .769
1997 135 558 507 57 156 31 2 12 227 86 2 3 0 6 45 4 0 73 20 .308 .360 .448 .808
1998 136 586 551 63 155 25 1 9 209 81 0 2 0 8 27 1 0 86 21 .281 .311 .379 .690
1999 129 558 519 53 151 29 1 9 209 71 0 1 0 6 31 0 2 84 14 .291 .330 .403 .732
2000 85 326 306 25 79 14 0 4 105 34 2 0 0 1 18 2 1 57 11 .258 .301 .343 .644
通算:18年 2063 7598 6941 810 2006 357 27 195 3002 953 35 35 28 47 563 59 19 1113 229 .289 .342 .433 .774
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別守備成績


一塁 外野
























1983 24 189 12 39
1984 12 31 3 26
1985 36 190 13 26
1986 25 124 9 0 1.000 18 0
1987 53 411 21 65
1988 26 133 3 0 1.000 100 147 5 4 1 .974
1989 113 953 53 5 75 .995 22 0
1990 130 1187 104 7 101 .995
1991 130 1220 99 8 84 .994
1992 19 94 14 1 .991 119 179 9 2 3 .989
1993 115 921 47 8 80 .992 11 0
1994 130 1059 75 8 112 .993
1995 130 1132 71 11 111 .991
1996 128 1002 71 7 104 .994
1997 131 1018 64 7 99 .994
1998 136 1163 68 12 104 .990
1999 129 1113 69 12 94 .990
2000 81 702 41 3 61 .996
通算 1548 12642 837 97 1122 .993 426 10
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
その他の記録

[編集] 背番号

[編集] 出演

[編集] 野球解説

[編集] バラエティ

[編集] ドラマ

[編集] 映画

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^ 巨人時代後期までは、「こまだ とくひろ」と読んでいた。本人も役所に婚姻届けを出すまでは「のりひろ」が正しい読みだということを知らなかったという。
  2. ^ MLBでは2010年6月13日現在5人達成しているが、日本プロ野球では1995年ダイエーケビン・ミッチェルと駒田の2人だけであり、日本人選手としては2012年現在駒田1人である。
  3. ^ 1987年8月9日ナゴヤ球場で、一軍初登板でノーヒット・ノーランを記録した高卒新人左腕近藤真一が先発した中日ドラゴンズ戦や、西武ライオンズとの1987年の日本シリーズなども、1番打者として起用された。
  4. ^ しかし駒田本人は、実際には加藤の発言そのものに怒っていたわけではなく、場外ホームランだと思っていたことと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮の余り「こぉんの!! バ〜カヤロ〜!!!」と叫んだが、「『バ〜カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。それがテレビで写っちゃってね」「加藤本人も多分聞こえてなかったと思います。聞こえてたのは金村義明くらいでしょう」と後年回想している(『プロ野球乱闘読本』オークラ出版 2008年4月より要約)。
  5. ^ また駒田はこの「バ〜カ!!!」発言以降、人格が変わると風評が立ち、相手チームからの内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べている(2006年12月20日東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より)。
  6. ^ 駒田が「さんまのまんま」に出演した時(1997年1月14日)に司会の明石家さんまに「なんでFAして巨人を出たの?」と聞かれた際、駒田は「その時のコーチと合わなかった。」と答えている。
  7. ^巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。  1989年の日本シリーズMVP受賞が掲載され、簡単な経歴も添えられている(p.68〜)。なお、同書では、槙原、吉村はいずれも単独でのエピソードが紹介されている。
  8. ^ 達成時「僕みたいな普通の選手でも、根気よく頑張れば偉業を達成することが出来る」とコメントしている。
  9. ^ 後に、「自分がこの後テスト生(トライアウト)で入団したら、名球会に対して失礼だ」ということをあるテレビ番組で話している。
  10. ^ 巨人時代の1993年の夏ごろからヘルメットを被って守備をするようになり、特に1995年はかなりの頻度でヘルメットを被っていた(1996年以降は被っていない)。
  11. ^ 夏場にストッキングを履くと疲れやすくなるという理由から1992年、ストッキングを履かずにユニフォームのパンツの裾に黒のゴムをつけた。外から見て、ゴムをストッキングのように見せるメリットがあった。現在では大リーグも含めそのスタイルが定着しているが、当時駒田はソックスにゴムを掛けていた(最近はスパイクの底にゴムを引っ掛ける形が主流)。ちなみに当時の藤田監督には「いろいろ考えるものだね。」と感心されたが、横浜に移籍した当時には裾がくるぶしまでかかるパンツが定着していた為、やめてしまったという。
  12. ^ アンダーシャツにもこだわりがあり、巨人時代、灰色の半袖アンダーシャツを着用することがたびたびあった。チームのアンダーシャツは統一されていなければならず、本来であれば規則違反であるが、黒に近かったためか黙認されていた。優勝後のビールかけで水中メガネを使用した第1号の選手でもある(1989年)。
  13. ^ 巨人時代の守備走塁コーチだった江藤省三は、駒田はプロ入り当初からグラブさばきがグニャグニャしすぎるくらい柔らかく、みんなが驚いたことを覚えている、と語っている(2000年2月21日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。
  14. ^ 同じく一塁の名手として鳴らした松原誠は、駒田との対談の中で、駒田はバント処理の際、「一番前に出」て相手打者にプレッシャーをかけている一塁手だと評価している(1999年12月20日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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