クレイグ・ブラゼル
| セントポール・セインツ | |
|---|---|
阪神時代(2009年7月16日、阪神甲子園球場)
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | アラバマ州モンゴメリー |
| 生年月日 | 1980年5月10日(33歳) |
| 身長 体重 |
191 cm 95 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 一塁手 |
| プロ入り | 1998年 ドラフト5巡目 |
| 初出場 | MLB / 2004年8月17日 NPB / 2008年3月20日 |
| 最終出場 | NPB / 2012年9月11日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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クレイグ・ウォルター・ブラゼル(Craig Walter Brazell, 1980年5月10日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州出身のプロ野球選手(内野手)。
目次 |
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
ジェファーソン・デービス高校在学時から飛距離のあるバッターで「高校通算130本くらい打った」と豪語する。当時はアメリカンフットボールのクォーターバックも掛け持ちしており、NFLからオファーが来たこともあったが、試合中にタックルを受けて膝を痛め、野球に専念した[1]。
アメリカ時代[編集]
1998年6月2日に、ニューヨーク・メッツからドラフト5巡目で指名を受け、同4日にメッツと選手契約を結んだ。入団年は、マイナーリーグのルーキー級のチームであるGCLメッツで13試合に出場して、打率.298・1本塁打・6打点という成績を記録した。一方、守備面では一塁手としての試合出場が主であったが、捕手としても2試合に出場している。プロ入り後に捕手として試合に出場したのは、メジャーリーグを含めてもこの2試合だけである。
1999年は、同じくルーキー級キングスポート・メッツでプレイ。本塁打こそ約10試合に1本のペースとなる6本塁打に留まったが、59試合の出場でヒットを85本放ち、.385という高打率を残した。
2000年は、A級キャピタルシティ・ボンバーズでプレイし、自身初となる100試合以上(112試合)に出場した。前年に.400近い打率を記録していたが、この年は打率.241・8本塁打・57打点という打撃成績に終わった。
2001年もキャピタルシティでプレイしたが、出場試合数は30試合近く減少し、83試合にしか出場できなかった。しかし、打撃面での成績は、打率.308・19本塁打・72打点と大幅に上昇し、出場試合数が減少したにも関わらず、多くの部門で前年を上回る数字を残した。
2002年には、アドバンスドA級セントルーシー・メッツに昇格。打率こそ.300には及ばなかったものの、100試合で16本塁打を放ち、2年連続で15本塁打以上をクリア。その後2A級ビンガムトン・メッツでも35試合で6本塁打を放った。この年は、2チーム合計で打率.276・22本塁打・101打点という打撃成績を記録した。
2003年もビンガムトンでプレイ。111試合の出場で、打率.292・17本塁打・72打点という成績を残し、シーズン終盤に3A級ノーフォーク・タイズに昇格し12試合に出場した。
2004年は松井稼頭央の故障者リスト入りに伴い8月17日にメジャーデビュー。この年はメッツで24試合に出場して打率.265・1本塁打・3打点という数字を記録。なお、この年に放った本塁打は、メジャーリーグにおけるブラゼルの唯一の本塁打である。一方、マイナーリーグでもタイズで、単独のチームでの試合出場としては自身のマイナーリーグ記録となる123試合に出場。2年ぶりに20本以上の本塁打を放った。
2005年もノーフォークでのプレイとなったが、52試合の出場で打率.249・6本塁打・28打点と結果を残せず、同年の10月15日にフリーエージェントとなった。
2006年3月7日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、傘下の2A級ジャクソンビル・サンズでプレー。20本塁打と90打点をクリアしたが、一方で打率は.250にさえ届かなかった。10月15日に自身2度目のフリーエージェントとなり、12月13日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約。
2007年は、実に3年ぶりとなるメジャーリーグでの試合出場を果たしたが、わずか5試合の出場に終わり、放ったヒットも1本だけであった。一方マイナーでは2A級ウィチタ・ラングラーズで7本塁打、3A級オマハ・ロイヤルズで32本塁打を放ち、通算で39本の本塁打を記録し、この年のマイナーリーグ全体の本塁打王となった。12月4日、埼玉西武ライオンズへの入団が発表された。推定年俸1億円の1年契約。オリックス・バファローズに移籍したアレックス・カブレラの穴を埋める選手として期待され、背番号もカブレラの42を受け継いだ。
西武時代[編集]
2008年、開幕から4番を任された。真面目な性格で、当時打撃コーチだった大久保博元から積極的にアドバイスを聞くなど、日本球界へ積極的に溶け込む姿勢が見られた。3月は不調だったものの、4月に入ると好調に転じて17打点を挙げ、チームの首位浮上に貢献した。5月に入ると打率が.174と急落したが6月に復調し、打率.344・6本塁打・21打点の活躍で来日1年目の外国人選手としては2003年のルーズベルト・ブラウン以来の月間MVPを受賞した。この受賞と、来日して以来自宅から西武ドームまで西武鉄道を利用して電車通勤していたことから、7月8日に西武鉄道が実施する「Save the earth」キャンペーンのイメージキャラクターに選ばれた。
打球方向が右翼に集中する傾向が強く、後半戦はブラゼル対策として極端に右翼側に守備が寄る「ブラゼルシフト」が各球団に浸透したこともあり低打率に喘いだ。徐々に成績は低下し、量産していた本塁打も8月下旬からは1本も打てなくなった。8月22日の対福岡ソフトバンクホークス戦で、空振りしたバットがすっぽ抜け、フェンスを越えて一塁側スタンドまで飛んで行き、観客が怪我をするというハプニングが起こり、ブラゼルもこれで右肩を痛め、登録抹消となった。復帰後は定位置であった4番を外れ6番で起用されることが多く、時にはスタメンを外れることもあった。9月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で朝井秀樹から背中に、更に10月4日にまたも対楽天戦で木谷寿巳から右側頭部に死球を受けて交代し、その後目まいの症状を訴えた。数週間経っても症状は治まらず、クライマックスシリーズに向けての宮崎合宿2日目となった10月8日、「めまいがある」と前日の練習から参加できなかったため、監督の渡辺久信は「ぶっつけ本番でCSに向かうようなら、使うところはない」と発言し、緊急帰京して都内で精密検査を受けることになったが、結局、日本シリーズの登録枠から外されて帰国した。
ヒラム・ボカチカと共に、翌年の契約はクライマックスシリーズと日本シリーズの活躍次第であるとフロントから通告されていたが、結局両シリーズに出場できず、頭部死球による故障から復帰のめども立たなかったことから、11月14日に西武退団が決まり、11月19日にマット・キニーと共に自由契約公示された。
8月以降の急降下によって最終的に.234となった打率が再契約の最大の障害であったとされているが、1年目にして27本塁打を記録しており、当時千葉ロッテマリーンズの監督だったボビー・バレンタインからは、シーズン中から「外国人3人(フリオ・ズレータ、ベニー・アグバヤニ、ホセ・オーティズ)を足しても、本塁打数がブラゼルに及ばない」と高く評価され、オフにロッテが獲得に興味を示したが、井口資仁が入団したことで実現には至らなかった。
阪神時代[編集]
2009年は、ボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結びスプリングトレーニングに招待選手として参加したが、解雇されメジャー復帰はならなかった。複数球団からマイナー契約のオファーがあったが、独立リーグ・アメリカン・アソシエーションのセントポール・セインツに入団。開幕から6試合で打率.556・4本塁打・11打点と好調だった[2]ところ、打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役を探していた阪神の目に留まり、5月28日に正式契約(シーズン終了までの契約)。背番号は当時空き番だった67になった。
西武時代に既に他球団に攻略されていることから、当初は西武監督の渡辺から日本での活躍について否定的な発言をされていたが、6月5日に一軍登録されると、同日のオリックス・バファローズとの交流戦で金子千尋から移籍後初の本塁打を放った。同13日の対ロッテ戦で、左膝、右膝、股間と3球連続で自打球を当てたが、その次の球を本塁打にし、この試合を含む4試合連続本塁打を放った。7月にはランディ・バースからアドバイスを受けた[3]。この月は本塁打数こそ減るも安定した成績を残し、8月になるとまた調子を上げた。米国で長男が生まれた8月26日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ野球18人目となる1イニング2本塁打を放った。阪神では1982年の掛布雅之以来で、外国人では1969年のウィリー・カークランド以来である。
9月に右膝の肉離れを起こして離脱し、復帰後も怪我の影響で時折スタメンを外れたり、なかなかヒットが出ず怒りを露わにする場面もあったが、打撃は徐々に復調し、10月の対東京ヤクルトスワローズ戦で本塁打を打つなどチームの3位争いを牽引した。結局この年は全試合の半分ほどの出場数だったが、打率290・16本塁打の好成績を残し、全くの期待外れに終わったメンチの穴を埋めた。阪神では主に6番を打ったが、オールスターゲームまでは不振の新井貴浩に代わって5番を担った。この年には途中入団にもかかわらず、タオルやTシャツなどのグッズが製作された。ブラゼル自身の野球道具にも平仮名で名前が書かれているため、2010年から販売された選手名入りの応援用タオルには、ひらがなで「ぶらぜる67」と印刷されている。
シーズン終了後10月10日にアメリカへ帰国する際「生涯、阪神で選手を終えるくらいの気持ちでいる」と残留を熱望し、阪神への想いを語った。12月12日、年俸8,000万円の1年契約で2010年の契約を結んだ。なお、この年のブラゼルの応援歌は途中入団であったことと、近年の阪神の外国人選手の大半が期待外れに終わっていることから固有のものは作られず、汎用曲の「ヒッティングマーチ2番」が使われていた。2010年のシーズン開幕前にブラゼル専用の応援歌と、外国人用の汎用応援歌が作られている。
2010年は開幕から好調で新外国人のマット・マートンと共にチームを牽引した。6月19日の対横浜戦で大家友和から本塁打を打ち、両リーグ1番乗りの20号を記録(同日、阿部慎之助も記録)。阪神では1990年のラリー・パリッシュ以来5人目であり、ブラゼル自身は西武時代の2008年にも記録しているので、両リーグで記録したのは、阪神在籍の1975年と西武在籍の1983年に記録した田淵幸一以来で、外国人選手では初である[4]。同月29日には3打席連続本塁打を放った。オールスターゲームにも特別枠で選出され、第2戦では本塁打も放った。9月1日の対横浜戦で1986年に記録したバース以来となる助っ人外国人40本塁打を記録し、一時は本塁打王争いのトップに躍り出る。下位に沈んだ広島東洋カープ・横浜との試合には滅法強かったが、上位の中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ(巨人)戦を苦手にしたため、上位チームとの試合が続いた終盤に調子を崩し、最終的にはアレックス・ラミレスには及ばなかったものの、自己最多の47本塁打で2位となった。2010年の公式戦では、自身が本塁打を打った際、ベンチ前でナインが出迎える時に葛城育郎が必ず列の最後部、その手前には浅井良が立ち、浅井とは一緒に一礼してから両腕をお互いに腰の位置で引き合うポーズ(マスコミ等ではブラダンスと称されている)を、葛城とは両腕を挙げながらブラゼルは左脚、葛城は右脚を挙げるパフォーマンスを行っている。のちにトラッキーや関本賢太郎も加わったほか、オールスターゲームに出場して本塁打を放った際には久保康友・城島健司・藤川球児といったチームメイトのみならず、巨人のラミレス・阿部慎之助、中日の和田一浩も加わっていた。シーズン終了後に阪神と2012年までの2年契約を結んだ。2011年の年俸は2億円+出来高で、2012年の年俸は変動制となる。
2011年はこの年から導入された統一球の影響で極端な「投高打低」のシーズンとなる中、ブラゼルも例外ではなく4月は打率.196, 本塁打は0と出遅れた。その後は調子を戻して6月・7月は月間打率が3割を超え、8月20日の対横浜戦では真田裕貴から通算100号本塁打を放った。しかし直後に右大腿二頭筋の筋挫傷で1か月弱戦線離脱し、打率は.282と辛うじて一定の数字を残したが、本塁打は前年の約3分の1となる16本にまで落ち込んだ。このことから残留が微妙という報道も流れたが、約2割減となる年俸1億5,600万円で2012年も残留することになった。
2012年は本来捕手である城島健司が肘や膝の故障の影響でブラゼルと併用の形で一塁に専念することになり、双方の出場機会を増やすためにキャンプから外野の練習も行った。実際に4月8日と22日の2試合でブラゼルは左翼、城島は一塁で同時に先発出場し、公式戦では実現しなかったがオープン戦では右翼で先発出場したこともある。5月に城島が故障の悪化で登録抹消されてからはブラゼルの外野起用はなくなったが、前年以上の打撃不振に加えて新井良太の台頭、さらに新井貴浩が右肩の不安により一塁での起用しか出来なくなったことで、7月以降ブラゼルの出場機会は激減し、8月3日には阪神では故障以外では初めての二軍落ちとなった。その後再昇格はしたが、新井貴との二者択一での一塁起用のためにスタメンの機会は限られて目立った結果も残せず、9月16日に「今後の出場機会がない」ために再度登録抹消され18日にアメリカに帰国。10月15日に球団から来季の契約を結ばないことが発表され[5]、10月18日に自由契約公示された[6]。
アメリカ復帰[編集]
2013年2月7日に、2009年に1週間だけ所属していたセントポール・セインツへの復帰が発表された[7][8][9]。
プレースタイル[編集]
打撃では桁外れのパワーを持ち味とし、西武時代に故障でファーム調整していた際に西武第二球場に隣接する室内練習場で打撃練習をしていたところ、飛距離150メートル越えの大飛球を連発し窓を破壊したり[10]、2008年6月27日に埼玉県営大宮公園野球場で行われた対ロッテ戦ではNACK5スタジアム大宮のピッチまで届く場外ホームランを放った。西武時代は右方向に極端に引っ張った打球が多く内角に弱点があったが、阪神移籍後は当時打撃コーチであった和田豊の指導により、引っ張りだけでなく逆方向へもホームランを放つケースが増え[11]、どのコースにも対応できる柔軟さを身に付けた[12]。また、不利なカウントに追い込まれるとグリップを余す打撃スタイルへ切り替えられる柔軟な思考により、巧みなバットコントロールを生かし左方向への軽打を見せることもできる[13]。初球から積極的に振っていくスタイルで四球は少なく[11][14]、2008年は521打席で30個、2009年は295打席でわずか8つであった。左投手には日本での通算打率.243と苦戦しているが、右投手に対しては打率.288と強さを発揮し、特に2010年は47本塁打中の36本塁打を右投手から放った。
守備では守備範囲は狭いがグラブ捌きは巧みで、ショートバウンドの送球をうまくすくい上げる技術を備える[11]ほか、バントシフトで一塁から猛チャージをかける一面も見せる。2010年のセ・リーグゴールデングラブ賞一塁手部門は該当者なしだったが、最多得票を集めたのはブラゼルであった。
走塁では左膝に古傷を抱えていることもあって一塁到達は5秒台中盤と足が非常に遅く[11]、チームがリードしている時には代走を送られることが多いが、2012年のソフトバンクとのオープン戦では中堅手の内川聖一が打球処理を誤りボールを蹴ってしまったためランニングホームランを記録している。
人物[編集]
吉野家の牛丼が好物で、シーズン中は週4回食べに行っている。阪神在籍時の2010年には、「パワーブラゼル丼」と名付けられた牛丼が阪神甲子園球場で販売された[15]。
激高しやすい性格で、日本で審判の判定や死球などで現在までに2回退場処分を受けたことがある[16]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2004 | NYM | 24 | 35 | 34 | 3 | 9 | 2 | 0 | 1 | 14 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 1 | .265 | .286 | .412 | .698 |
| 2007 | KC | 5 | 5 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .400 | .250 | .650 |
| 2008 | 西武 | 130 | 521 | 471 | 59 | 110 | 19 | 0 | 27 | 210 | 87 | 0 | 0 | 0 | 7 | 30 | 0 | 13 | 139 | 11 | .234 | .294 | .446 | .740 |
| 2009 | 阪神 | 82 | 295 | 285 | 29 | 83 | 14 | 0 | 16 | 145 | 49 | 0 | 1 | 0 | 2 | 8 | 2 | 0 | 66 | 13 | .291 | .308 | .509 | .817 |
| 2010 | 143 | 601 | 564 | 82 | 167 | 15 | 0 | 47 | 323 | 117 | 1 | 0 | 0 | 6 | 25 | 0 | 6 | 153 | 14 | .296 | .329 | .573 | .902 | |
| 2011 | 120 | 456 | 422 | 33 | 119 | 21 | 0 | 16 | 188 | 69 | 0 | 1 | 0 | 6 | 21 | 1 | 7 | 71 | 15 | .282 | .322 | .445 | .767 | |
| 2012 | 98 | 295 | 275 | 21 | 64 | 11 | 0 | 12 | 111 | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18 | 0 | 2 | 72 | 16 | .233 | .285 | .404 | .688 | |
| MLB:2年 | 29 | 40 | 38 | 4 | 10 | 2 | 0 | 1 | 15 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 8 | 1 | .263 | .300 | .395 | .695 | |
| NPB:5年 | 573 | 2168 | 2017 | 224 | 543 | 80 | 0 | 118 | 977 | 365 | 1 | 2 | 0 | 21 | 102 | 3 | 28 | 501 | 69 | .269 | .310 | .484 | .795 | |
- 2012年度シーズン終了時
表彰[編集]
記録[編集]
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:2008年3月20日、対オリックス・バファローズ1回戦(西武ドーム)、4番・一塁手で先発出場
- 初打席:同上、1回裏に金子千尋の前に空振り三振
- 初安打:2008年3月22日、対オリックス・バファローズ2回戦(西武ドーム)、6回裏に中山慎也から右前安打
- 初本塁打・初打点:2008年3月26日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(札幌ドーム)、5回表に吉川光夫から右越3ラン
- 初盗塁:2010年7月20日、対広島東洋カープ11回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に二盗(投手:齊藤悠葵、捕手:倉義和)
- 初サヨナラ安打:2012年5月31日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に薮田安彦から右前安打
- その他の記録
- 100本塁打:2011年8月20日、対横浜ベイスターズ15回戦(横浜スタジアム)、8回表に真田裕貴から右中間へソロ ※史上263人目
- オールスターゲーム出場:1回(2010年)
- 1イニング2本塁打:2009年8月26日、対横浜ベイスターズ17回戦(横浜スタジアム)、5回表にレス・ウォーランドから中越ソロ、高崎健太郎から右中間へ3ラン ※史上18人目(20度目)
背番号[編集]
- 9 (2004年)
- 39 (2007年)
- 42 (2008年)
- 67 (2009年途中 - 2012年)
登場曲[編集]
- 「If Heaven Ain't a Lot Like Dixie」- Hank Williams Jr.(2009年 - 2012年)
脚注[編集]
- ^ ベースボール・マガジン社「週刊ベースボール」2008年7月7日号14ページ「明るいチームにふさわしい新大砲 ブラゼル」
- ^ ブラゼル27日にも来日「99%合意」 デイリースポーツ、2009年5月24日。
- ^ 阪神ブラゼルに先輩バースが金言3ヶ条 日刊スポーツ、2009年7月7日。
- ^ 日刊スポーツ、2010年6月20日付
- ^ 阪神 ブラゼルと来季契約を結ばずスポーツニッポン2012年10月15日。
- ^ “2012年度 自由契約選手”. 日本野球機構オフィシャルサイト (2012年10月18日). 2012年10月23日閲覧。
- ^ アメリカン・アソシエーション公式ホームページ February 7, 2013. St. Paul欄
- ^ セインツ公式HP SAINTS SAY "OKAERINASAI" TO FORMER MAJOR LEAGUER CRAIG BRAZELL
- ^ 日刊スポーツ 元阪神ブラゼル 米独立リーグ
- ^ 球場破壊! ブラゼルにファーム退去令 スポーツニッポン、2008年9月13日。
- ^ a b c d 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰 『プロ野球スカウティングレポート2011』 廣済堂出版、2011年、304-305頁。ISBN 978-4-331-51519-8。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、102頁。ISBN 978-4-86191-710-3。
- ^ 2010年「猛虎ファイル」にて。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』 白夜書房、2010年、57頁。ISBN 978-4-86191-595-6。
- ^ パワーブラゼル丼「グルメ・ショップガイド|球場情報|阪神甲子園球場」
- ^ 阪神・ブラゼルが乱闘後に退場 ブラゼルの退場は10年9月9日の中日戦以来、自身2度目。 デイリースポーツ4月11日(水)19時58分配信
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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