原辰徳

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原 辰徳
読売ジャイアンツ 監督 #88
Tatsunori Hara 2009 Japan Series.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県相模原市
生年月日 1958年7月22日(53歳)
身長
体重
181cm
88kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手左翼手一塁手二塁手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1981年4月4日
最終出場 1995年10月8日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1999 - 2003, 2006 - )

原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、神奈川県相模原市出身(福岡県大牟田市生まれ)の元プロ野球選手内野手外野手)・監督。愛称は若大将タツ平成の若大将ヤング・ミスター永遠の若大将

現在は読売ジャイアンツ監督、同球団名誉顧問。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督を務めた。2008年より国際武道大学の客員教授も務める。東海大学政治経済学部経済学科卒業、学位は学士(経済学)。

目次

[編集] 来歴

[編集] プロ入り前

父は福岡県立三池工業高等学校東海大学付属相模高等学校および東海大学硬式野球部の監督であった原貢東海大学野球部に所属する菅野智之は甥(妹の子)である。

幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、大牟田市にある東洋高圧の社宅に住んでいた。なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた。[1]私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校。小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居[2]。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校と転校した。[3]中学校時代、厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家森村誠一一家も住んでいた。[4]

1974年東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末高知高校に敗れたものの、準優勝という成績を収めている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二[5]宇野勝土屋正勝杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原の他にも、津末、綱島、佐藤、村中らの好選手を擁していた。高校通算本塁打は43本。

1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、首都大学野球連盟の古豪で強豪校の東海大学への進学を表明。全球団から指名なしという事態が起き、ドラフト直後に巨人オーナーの正力亨と監督の長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言したことから東海大学総長松前重義が激怒、記者会見を開き「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば彼も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。

その後無事に東海大学政治経済学部経済学科に進学。遠藤一彦は先輩、市川和正は同級生、高野光は後輩にあたる。当時東海大学はあまり大学野球で人気のない首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。2年生秋と4年生春の2度の打撃三冠王になる。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学江川卓と対戦。4打数2安打1本塁打を記録するものの同年の全日本大学野球選手権大会明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。

3年生時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年生の岡田彰布[6]と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。

1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツ新監督の藤田元司が4球団競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。入団決定直後に日本テレビで特集番組が放映された。背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた「8」となった。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。監督時代の応援歌も同じで、第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の対阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた。

1981年3月、東海大学政治経済学部経済学科卒業。

[編集] プロ入り後

1981年開幕戦からスタメン出場(6番・二塁手)、第1打席・プロ初打席は中日ドラゴンズ三沢淳にセカンドフライ、牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄から初本塁打を放つ。シーズン当初はチームのポジション事情により二塁手として出場していたが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障によりアマチュア時代からのポジションである三塁手となり、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。

1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布雅之に次いで2位。ファン感謝デーでは当時大人気のタケちゃんマンに扮した。ブラックデビルは江川卓で「タッちゃんマンとブラックスグル」と称した。

1983年は初めて打率3割を記録、打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献、MVPに選ばれた。巨人での3割30本塁打100打点は青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次ぐ球団史上4人目の快挙だった。

1986年9月24日、対広島25回戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言する程の影響があった。バットとボールが触れるインパクトの瞬間、左手を使って押し込む動作を行う際、絶頂時と骨折後との違和感が、ずっと消えなかったとの事である。これ以降、負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされる[7]

1987年1988年は連続で3割30本塁打を記録。

1989年は外野手(左翼手)に転向。同年、デビューから9年連続20本塁打の新記録を達成した。同年の近鉄バファローズとの日本シリーズ第5戦において、近鉄の吉井理人は原の前の4番打者ウォーレン・クロマティを敬遠し、敢えて満塁策をとり、第4戦まで無安打の原と勝負する作戦を試みるが、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を打った。なお、原はこのシリーズわずか2安打だったが、その2安打が第5戦の満塁、第7戦の2ランといずれも本塁打で、シリーズMVPに選ばれた駒田徳広と同じ6打点を記録している。

1992年一塁手に転向。当初、三塁への復帰も検討されていた。不安定な左翼守備、その影響で成績が下降したこと、既に「原=三塁」が定着しており、転向によってそのイメージが損なわれてしまったことなどが理由だった。結局、アキレス腱痛の悪化などを考慮して、一塁への転向が決まった。また、この年、年俸が1億円台を突破。歴代の巨人軍選手として、初めての1億円プレーヤーとなった。

1993年は三塁手に再転向。5月2日に4番出場が1000試合に到達した。しかし、複数個所の故障に悩まされ、プロ入り以来続けていたシーズン20本塁打以上の記録と、規定打席到達が途切れ、引退した年を除いてプロ入り以来最低の成績に終わった。余談だが、第1号本塁打を放ったのは開幕から21試合目であり、5月5日であった。同年オフ中日の主砲落合博満FAを宣言し巨人に移籍し四番を任される事が確実となり微妙な立場に。

1994年左脚のアキレス腱を部分断裂し開幕を二軍で迎え、一軍初出場は開幕から53試合目・6月14日の阪神戦、先発出場も打順は7番。ドラフト1位ルーキーで前月の月間MVP藪恵市から本塁打を放ち意地をみせた。10.8決戦では三塁手で先発し落合の負傷退場で一塁手へ変更されフルイニング出場(8回裏先頭打者立浪和義ヘッドスライディング内野安打を記録した時点の巨人の一塁を守っていた)。2年連続で規定打席未満ながら(夏場の3打席連続本塁打含む)入団以来14年連続二桁本塁打を記録し4年ぶりのリーグ優勝、日本シリーズでは欠場の落合に代わり四番・一塁で出場し第2戦で西武ライオンズ工藤公康から巨人の同試合唯一の得点となる適時打を放ち(槙原寛己が完封)球団創立60周年での日本一達成に貢献した。

1995年に現役引退。引退試合は、ホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化してしまうこととシーズン終盤まで優勝争いをしていたことから当初予定されていなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現した。原の引退が決まると、ビジターの各球場でも敵味方の区別なくのファンから熱烈な声援が上がった。セレモニーを含めた引退試合は東京ドームのスケジュールの都合上、当時としては珍しくデーゲームでの開催となった。現役最後の試合では、紀藤真琴から左中間スタンドへ本塁打を放つ。最終打席では、広島側の粋な計らいにより大野豊がワンポイントで登板しライバル対決が行われた(結果はレフトフライ)。引退セレモニーでは「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある」と語って苦しかった胸のうちを告白。また「今日、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」との言葉を残した。同年、巨人一筋15年、ON後の巨人を牽引した4番打者に対し、背番号8を永久欠番にとの署名が多く集まり、巨人は“準永久欠番”に制定[8]

長打率の高さに反して、三振が少ない(通算894三振)ことで知られている。右打者の割に併殺打も少なく(通算122併殺)、犠飛が多い(通算70犠飛)事から、極端なフライボールヒッターだった事がわかる。2007年シーズン終了時点で、各スタッツは歴代で三振57位、併殺打122位、犠飛13位である。

[編集] 評論家・コーチ・監督時代

1996年NHKの野球解説者に就任。プロ野球中継の解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務める。TBSラジオで「原辰徳のいきいきトーク」(土曜17時~17時15分、東京地区のみ)でパーソナリティーを担当。

1999年、長嶋が監督の下、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。初キャンプでは外野ノックの際に本塁打を連発して珍プレーとして取り上げられた。本人曰く「バットで打ったらスタンドに入れるのが仕事だったもんだから、つい、ネ。」2000年には、ヘッドコーチに昇格。

2001年9月29日、勇退した長嶋の後任として巨人監督に就任[9]。背番号は83。1年目のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。選手の潜在能力を引き出し選手を惹きつける力が非常に長けている。2007年にFAで巨人入りした小笠原道大、2008年に加入したセス・グライシンガーアレックス・ラミレスなど、他球団も獲得に乗り出した選手は「原監督の指導を受けてみたい」と口を揃えた。WBCの際もバントを3回連続失敗したイチローが「心が折れそうだ」と口にした際には「バントはするな」と言っていた。マスコミはこの発言を「原、非情の指令」などと報じたが、この発言には続きがあり、「バントはするな。俺はイチローが見たいんだ」と発言し、その言葉でイチローは「心が折れないで済んだ。原監督の言葉が無かったら折れていた」と口にする。同じくWBC代表だった稲葉篤紀も第一ステージでは不振に陥ったが、しかし第二ステージで稲葉を4番に置いた。稲葉自身は第二ステージでは「スタメン入りは無理だろう」、「使われても代打」と思っていたが、監督室で原から「稲葉、明日4番でいくから」と言われ、稲葉自身も驚いたという。原は稲葉を4番に置いた理由を「長打もあり、単打もありバントも出来る」と説明し、これを聞いた稲葉は「そういう4番もあるのか」と気付かされたという。その後、稲葉は復調し、本来の力を取り戻した。 2002年、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、[10]故障で一軍から離脱していた河原純一の抑え転向、長嶋政権下ではスタメンを外れることの多かった清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。2002年の日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初の無傷の4連勝で、長嶋や王が成し得なかった「監督初年度での日本一」を達成した。この年、松井秀喜と清水以外の選手は故障、翌年も怪我人の多い2年間だったものの、日本一となった2002年などは、当時の支配下選手70名中66名を一軍で適材適所で使い分け、二軍で好調だった選手を昇格後即スタメンで起用したり、積極的にエンドランや盗塁を用いる用兵で結果を残した。6月19日の対横浜戦の11回表無死一塁で、打者が投手で左打者の岡島秀樹、相手投手が左投げの河原隆一の場面、ベンチに控え野手清原和博村田善則鈴木尚広が残っている状況で、投手である桑田真澄を代打に指名した。横浜は投手を右投げの東和政に交代させ、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田は初球をバスターエンドランし、試合に勝利した[11]

しかし次の2003年は、前年まで不動の4番だった松井秀喜のMLB行きや、相次ぐ主力選手の怪我による離脱、前年好調だった投手陣が一転して不調に陥ったこと、更には阪神の快進撃の前に敗れ3位に終わる。当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え、球団代表・三山秀昭との確執も発覚し“人事異動”の名目で監督を辞任、特別顧問に転任した。

2004年から2年間は巨人軍特別顧問(兼日本テレビ解説者、報知新聞客員評論家)としてグラウンド外からチームを見守った。

2005年オフ、監督の堀内恒夫がチームの成績不振により引責辞任。後任として監督に再任される。背番号は88

2006年シーズン当初は開幕ダッシュに成功したが、小久保裕紀高橋由伸など怪我人が続出し、6月から7月の間に立て続けに大型連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗など)を喫して優勝争いから脱落、8月4日には最下位に転落する。最終的には2年連続となるBクラス・4位で終わる。

2007年故障で出遅れた上原浩治を今季のみ限定としながらも抑えに転向させ、それまではクリーンナップを務めていた高橋由伸の1番固定させるなど、型破りな選手起用によってチームをリーグ優勝へと導いた。しかし、この年から導入されたセ・リーグクライマックスシリーズ2ndステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃してしまう。

2008年は一時は阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられるが9月の12連勝で首位に迫り、10月8日に阪神を逆転して首位に立つと、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成した。そしてクライマックスシリーズ2ndステージでは、中日を相手に、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で2002年以来の日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズではパ・リーグの覇者埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。

この年、神宮での雨中の開幕戦で、遊撃スタメンだった二岡智宏が足を負傷、二塁スタメンだった当時2年目・19歳の坂本勇人を本来のポジションである遊撃に回し、坂本はこれ以降2008年の全試合・全イニングにフル出場しレギュラーに定着、急成長を遂げた。また、投手陣でも前年に育成枠から昇格した山口鉄也や、若い越智大祐東野峻、野手でも亀井義行や、育成枠から隠善智也らを積極起用するなど、若手・中堅・ベテランを使い分ける采配が評価される。

同年10月28日、日本プロ野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。背番号は83。2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。

2009年シーズンが開幕すると、育成枠出身の松本哲也や坂本・亀井、原自ら「風神・雷神」と名づけた左右の中継ぎコンビ・山口と越智などの若手が次々に台頭した。また、上原浩治のMLB移籍によって先発投手の戦力低下が危惧されたが、ヤクルトから獲得したディッキー・ゴンザレスやテスト生出身のウィルフィン・オビスポがその穴を埋めたため前年とは対照的に春先から首位を快走した。リードした試合の終盤には主力選手をベンチに下げたり、谷佳知を相手先発投手に応じてスタメン・代打と使い分けたり、捕手の阿部慎之助や外野手の亀井を一塁手としても起用するなど選手層の厚さを活かした柔軟な用兵を見せ好成績を維持した。9月23日にV91965年 - 1973年)以来のリーグ3連覇を果たした。第2次監督時代の長嶋らと対照的にベテランやホームランバッターに依存せず、若手を積極的に起用する原の手腕は多くの解説者に高く評価された[12]クライマックスシリーズ第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で勝利。2年連続日本シリーズ出場となった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに4勝2敗で勝利。監督として2度目の日本一を達成する。11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた日韓クラブチャンピオンシップにも勝利。監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を成し遂げた。

巨人入団時の監督だった藤田元司と助監督だった王貞治(後の監督)とは、監督としてのやり方が似ているとよく言われる。実際、藤田の生前には監督業について何度も意見を交わし、また王から指導者としてのアドバイスも受けたことがある。

2009年12月6日にスイスローザンヌで開かれた国際野球連盟の総会において2009 ワールド・ベースボール・クラシック優勝などの実績が評価され、世界最優秀監督に選出された[13]

[編集] 人物

嗜好

冗談で「野球より好きだ」と公言するほどのゴルフ好き。50歳の誕生日を迎えた際、「49歳でアメリカへ渡り、50歳のときにゴルフのシニアツアーに参戦。全米シニアで同世代のグレグ・ノーマンニック・プライスと戦う。37歳で現役引退したとき、そう思ったんだ」と発言したほど[14]

プロレス日本テレビで中継をしている全日本プロレスプロレスリング・ノアの系列に造詣が深く、ゲスト解説などもしている。これら団体の試合を会場で観戦することもしばしばある。全日本プロレスでは永源遙攻撃が原、岡崎郁と一緒に観戦していた廣田浩章ジーンズの膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人であるラッシャー木村の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。ノア社長の三沢光晴や、現役引退試合の翌日に同じく東京ドームで行われた「新日本プロレスVSUWFインターナショナル全面戦争」の興行を観戦し、当時メインイベントで高田延彦に勝利した、全日本プロレスの武藤敬司社長とはプライベートでも親交を深めている。ジャイアント馬場の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。馬場はジャイアンツの大先輩でもある。最近はノア以外の選手にも注目しており、特に新日本プロレスの真壁刀義は同じ相模原市出身ということもあって、巨人の選手との会話において真壁を引き合いに出し若手に奮起を促しているという[15]

また、球界屈指の愛犬家で、ボクサー犬をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前。藤田元司が監督を退任した後に子犬をプレゼントしたという。

愛車はレクサス・LS600h

メロンパンが大好きで、菓子パン類ではメロンパン以外は菓子パンとして、認めていないという。

以前は喫煙者であったが、2003年に第1次監督退任後から禁煙トレーニングを行い、同年12月31日付で卒煙した。2004年以降は非喫煙者であり、2005年秋に第2次監督就任後以降は、チーム内の選手スタッフの現役喫煙者全員に禁煙の指示を出し、球団事務所内の全面禁煙を徹底した。「強いチームを作るのに喫煙行為は巨人の選手としてはもちろん、アスリートとしての自覚も欠けている」とコメントしている[16]2011年時点ではチーム内の選手、スタッフはほとんどが非喫煙者であり、最終的にはチーム内の喫煙率を0.0%を達成出来る様に全力を尽くしている。

ジェスチャー

少年時代から長嶋の大ファンであり、長嶋の下でコーチに就任して以降、長嶋の「ビュッと振ってバーンと当てる」といった擬態音で説明したり、派手なジェスチャーを交えるスタイルを継承している。長嶋のコーチ時代には本塁打を打った選手への出迎えが長嶋とそっくりであった。一部マスコミからは「チョーさん(長嶋)が2人いる」と揶揄され、久米宏は「マイナス掛けるマイナスはプラスだからなぁ」と評した。監督時代の長嶋は、試合展開や個々の特性などを一切考慮されず「教則本的な基本から1ミリでも外れた面がある采配」をするたびに「カンピューター」などとスポーツマスコミに目の仇にされていたが、原も表面的なイメージをひきずり桑田のバスター策などを「思いつき」などと形容されていることが多い。

ジェスチャーの一つ一つに特徴がある。特に味方選手がホームランを打った後の出迎えの際には、目を見開き両拳を突き出し選手と合わせるしぐさは定番となっている。ものまね芸人神奈月や巨人ファンであるSMAP中居正広は、バラエティ番組でこのものまねをよく披露している。なお原がハイタッチではなくグータッチを好んでするのはハイタッチが手のひらという比較的面積が大きい部分でするため、移動したりしながらでき緩慢になることがあるのに対して、グータッチは拳と拳のためしっかり集中してやらないと形がくずれてしまい、失敗するので緩慢になるのを防止する効果があり、さらに拳と拳が合うように手をお互い見ているため目があい意思疎通も図れるからである。

体育会系

爽やかな印象があるが、基本的に「体育会系」の人物。2003年に木佐貫洋が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と活を入れ、2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では東海大学の後輩でもある久保裕也が打ち込まれた際には、異例の鉄拳を交えた説教をした。その後記者団に「(鉄拳制裁について)ちょっとなでなでしただけ。彼はジャイアンツの期待の星なんだ」とコメントした。けっして体育会系一辺倒ではなく、プロになれなかった場合は学校の先生を目指していたとのこと。

叩かれ役

夕刊フジ日刊ゲンダイなど、いわゆる団塊世代向けのタブロイド誌では叩かれ役となることが多く、毎日のように落語の三題噺のような展開の話が掲載されている。主に「何かの問題を全て原の責任に仕立て上げる」「原が誰々を嫌っている(またはその逆)」といったような話を好んで掲載しており、一例をあげると、2009年極度の打撃不振から李承燁を二軍落ちさせたが、清武球団代表が「原監督が李の扱いのためにかなりストレスを受けていた」と明かした話がその年の夕刊フジに掲載されているが、夕刊フジは『韓国内からは「原監督は李が嫌いなのか」などの問い合わせが相次いだという』と併記している。[17]

[編集] エピソード

[編集] 監督時代

[編集] 第一次政権

  • 2001年オフに監督に就任した時に、当時オーナーだった渡邊恒雄に現役時代から親交があり、アメリカ合衆国にコーチ留学していた鹿取義隆ヘッドコーチとしての招聘を打診した[18]
  • 2003年10月7日に甲子園で、阪神との最終戦で当時阪神監督だった星野仙一から花束を贈られて「今までご苦労さん。必ず(現場に)帰ってこいよ!」と奨励されて、抱き合う場面が報じられた[19]

[編集] 第二次政権

  • 電話好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。FA宣言した野口茂樹には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、豊田清には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも辻内崇伸などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「愛のテレフォン」と呼ばれている。2006年のオフは高橋尚成に「お前は左のエースだから、来年からの背番号は21番だ」と話した。2007年オフ、当時の阪神の監督であった岡田彰布が「トライアウトの選手はとらない」と述べた後、藤田宗一が防御率10を超える成績不振を出したことによりロッテから戦力外通告を受けた。藤田に解雇が通知された翌日、藤田の家に原からの電話がかかってきて、藤田は巨人と契約。岡田はこのことに大きく後悔したという。
  • 2007年秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口や西村の指導を依頼。新聞で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。
  • 2009年3月7日に行われたWBC東京ラウンド日本対韓国戦での勝利監督インタビューの際、マイクの音声が球場に流れないというアクシデントが発生。場内の観客からは「聞こえない」などの苦情の声が相次ぐもインタビューは進行。途中、音声が球場に流れるようになった時、原は「最初のが聞こえてなかったんじゃないですか?」と発言し、同じインタビューを頭からやり直し、観客からの苦情を一変させ熱い声援を浴びた。
  • 現在、東海大相模高校のある相模原市に本社を置く住宅販売業「丸正産業」のイメージキャラクター[20]を解説者時代から務めているが、その会社の看板では巨人によく似たユニフォームを着ている(背番号「8」のバージョンと「88」のバージョンがある)。
  • 2010年2月22日 新日本プロレスの真壁刀義と4代目タイガーマスクが宮崎キャンプに訪問して、タイガーマスクからプレゼントされた特注の覆面を迷いなくかぶる大サービスも見せた。(白色のマスクで、巨人のログマーク入り)

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1981 巨人 125 507 470 64 126 23 6 22 227 67 6 6 0 7 27 0 3 78 9 .268 .308 .483 .791
1982 130 542 494 81 136 19 1 33 256 92 11 6 0 4 42 4 2 82 6 .275 .332 .518 .850
1983 130 571 500 94 151 32 4 32 287 103 9 4 0 8 60 1 3 56 11 .302 .375 .574 .949
1984 130 543 468 72 130 19 1 27 232 81 7 3 1 4 67 3 3 58 8 .278 .369 .496 .865
1985 124 521 441 79 125 23 2 34 254 94 7 3 2 8 60 2 10 42 6 .283 .376 .576 .952
1986 113 467 406 70 115 21 3 36 250 80 7 2 1 6 52 4 2 57 8 .283 .363 .616 .978
1987 123 489 433 80 133 17 3 34 258 95 7 2 0 7 44 6 5 61 11 .307 .372 .596 .968
1988 126 529 467 79 140 24 1 31 259 81 5 6 0 0 61 6 1 63 14 .300 .382 .555 .936
1989 114 459 395 60 103 22 0 25 200 74 3 3 0 2 60 4 2 68 6 .261 .359 .506 .866
1990 103 425 366 58 111 17 1 20 190 68 6 4 0 4 52 3 3 64 4 .303 .391 .519 .910
1991 127 524 455 66 122 13 1 29 224 86 5 3 0 12 55 1 2 82 7 .268 .342 .492 .834
1992 117 493 437 61 119 17 1 28 222 77 4 3 0 3 46 1 7 71 13 .272 .349 .508 .857
1993 98 387 336 28 77 14 0 11 124 44 3 2 0 3 44 1 4 62 9 .229 .323 .369 .692
1994 67 227 200 26 58 4 1 14 106 36 0 2 2 1 22 1 2 21 5 .290 .364 .530 .894
1995 70 160 144 13 29 8 0 6 55 15 2 1 1 1 13 1 1 29 5 .201 .270 .382 .652
通算:15年 1697 6844 6012 931 1675 273 25 382 3144 1093 82 50 7 70 705 38 50 894 122 .279 .355 .523 .878
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別監督成績

リーグ公式戦
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2002年 巨人 1位 140 86 52 2 .623 - 186 .272 3.04 44歳
2003年 3位 140 71 66 3 .518 15.5 205 .262 4.43 45歳
2006年 4位 146 65 79 2 .451 23.5 134 .251 3.65 48歳
2007年 1位 144 80 63 1 .559 - 191 .276 3.58 49歳
2008年 1位 144 84 57 3 .596 - 177 .266 3.37 50歳
2009年 1位 144 89 46 9 .659 - 182 .275 2.94 51歳
2010年 3位 144 79 64 1 .552 1.0 226 .266 3.89 52歳
2011年 3位 144 71 62 11 .534 3.5 108 .243 2.61 53歳
通算:8年 1146 625 489 32 .561 Aクラス7回、Bクラス1回
※1 太字は日本一
※2 2002年から2004年までは140試合制
※3 2005年から2006年までは146試合制
※4 2007年から144試合制
ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2002年 巨人 日本シリーズ 西武ライオンズパ・リーグ1位) 4勝0敗=日本一
2007年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

2ndステージ(※5)
中日ドラゴンズセ・リーグ2位) 0勝3敗=敗退
2008年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

2ndステージ(※6)
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 3勝1敗1引分=日本シリーズ進出
(※7)
日本シリーズ 埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 3勝4敗=敗退
2009年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

2ndステージ(※6)
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 4勝1敗=日本シリーズ進出
(※8)
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) 4勝2敗=日本一
2010年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

1stステージ
阪神タイガース(セ・リーグ2位) 2勝0敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ
クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ1位) 1勝3敗=敗退
(※9)
2011年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

1stステージ
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位) 1勝2敗=敗退
※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※5 2007年のクライマックスシリーズ2ndステージは5試合制で先に3勝したチームの優勝、リーグ優勝チームにアドバンテージなし
※6 2008年以降のクライマックスシリーズ2ndステージ(2010年以降ファイナルステージ)は6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※7 アドバンテージの1勝を含む。3勝で優勝となったのは、引き分け試合で勝利数が同数になる場合は上位チームの優勝となる規定による
※8 アドバンテージの1勝を含む
※9 これに相手チームのアドバンテージ1勝を含め、1勝4敗で敗退。
WBC 国・地域別対抗野球大会

2009年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック第2回大会では、監督として日本チームを大会2連覇に導く。

年度 大会名 チーム名 勝敗
2009年 第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) 日本代表 優勝

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

  • 初出場・初先発出場:1981年4月4日、対中日ドラゴンズ戦(後楽園球場)、6番・二塁手として先発出場
  • 初安打:同上、牛島和彦から左前安打
  • 初打点・初本塁打:1981年4月5日、対中日ドラゴンズ戦(後楽園球場)、小松辰雄から右越ソロ
  • オールスターゲーム出場:11回 (1981年 - 1988年、1990年 - 1992年)
  • 通算1000試合出場:1988年10月2日(280人目)
  • 監督通算500勝:2010年5月13日(26人目、巨人では5人目)

[編集] 背番号

  • 8 (1981年 - 1995年)
  • 80 (1999年 - 2001年)
  • 83 (2002年 - 2003年、2009年WBC)
  • 88 (2006年 - )

[編集] 関連情報

[編集] CD

  • どこまでも愛(1982年発売)オリコン最高85位、売り上げ1万1000枚[21]。B面のタイトル「サム」は愛犬の名。
  • ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし
  • サムシング(アルバム、1995年にCDで再発)

[編集] 著書

[編集] 出演

TV
CM

[編集] 脚注

  1. ^ 炭鉱町に咲いた原貢野球―三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡(澤宮優著、現代書館2004年)
  2. ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、26-27頁。
  3. ^ 中学卒業間近に、原は体育の授業(サッカー?)で左足首を複雑骨折した。診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。怪我の状態は深刻で、最悪の場合歩行困難あるいは重い後遺症が残ると思われ、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘ってリハビリ回復に成功し、幸いにも野球は続けられたが、後年のアキレス腱の悪化に間接的に繋がった。
  4. ^ 当時の原は練習帰りに団地の公園で森村の長男の遊び相手をしていた。森村は当時の2人の姿を覚えており、「面倒見のいい辰徳君に感謝しています」と語っている(原巨人、伝説を作った サンケイスポーツ 2008年10月11日閲覧)
  5. ^ 1974年の夏の全国高等学校野球選手権大会の準々決勝で原辰徳の東海大学付属相模高等学校と定岡正二の鹿児島実業高等学校が対戦し、延長15回の熱闘となってNHKが試合中継を途中で打ち切ったために、視聴者から苦情が殺到する一幕があった(全国高等学校野球選手権大会#テレビ・ラジオ中継#NHKでの中継の項参照)。この一戦が原辰徳の名が全国に知られるきっかけとなった。また原が巨人に入団した際、『月刊ジャイアンツ』誌上にて既にチームの先輩であった定岡との対談が組まれている。
  6. ^ 大学時代の全日本代表で共にクリーンアップを担っていた時から付き合いがあり、プライベートではお互いに携帯でメールでやり取りするほどの仲である。2008年に岡田が監督を辞任した時に「“岡田さん、辞めないでください”と原からメールが来た」と岡田がコメントしたことがある。2008年11月16日放送『SUPERうるぐす』の「独占告白 阪神 岡田前監督 辞任の真相」より。
  7. ^ しかし原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。
  8. ^ その後、背番号8は1996年から仁志敏久が、2007年からは谷佳知が付けている
  9. ^ 長嶋は10月1日の最終戦まで指揮。
  10. ^ 第一次政権の日本一に大きく貢献したのが、ヘッドコーチ・鹿取義隆の中6日を崩さない先発ローテーションであった。工藤公康や桑田真澄などのベテランを有効に使い、選手の能力を十二分に発揮させた。翌年は一転、深刻な投壊状態に陥った。
  11. ^ 代打桑田の理由に関しては公式HPの2002年6月22日の日記に論理的な判断(左打者の岡島に左対左でバントさせるよりも右打者の代打を起用したかったため、清原は送りバントを想定している打者ではないことと足が遅いことで併殺の恐れがあるため、村田は捕手・阿部慎之助が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要員であることと代打清原が出塁した後の代走を想定していたため)を掲載しているが、「野手を信頼していないから投手の桑田を代打起用した訳ではなく、残っている野手の分野を考えた」「奇策に奇策を重ねるような戦い、森祇晶監督に対して礼を逸した戦いぶりだった」と原本人はあまり評価をしていない。
  12. ^ (株)ベースボールマガジン社刊『週刊ベースボール』2009年10月26日号「特集 原巨人、3連覇!」では岡田彰布(90 - 91ページ)、豊田泰光(52 - 53ページ)、水野雄仁(28 - 29ページ)が賛辞のコメントを寄せている。
  13. ^ Italy's Fraccari elected IBAF president
  14. ^ 「夢は米ゴルフツアー参加だった」 50歳を迎えた巨人・原監督
  15. ^ 東京スポーツ・2009年12月2日付 2面
  16. ^ 2010年に自身が出版した自伝による内容。
  17. ^ G李2軍調整の波紋…韓国で原やり玉「嫌われた」『zakzak』2009年7月17日更新、18日閲覧
  18. ^ Number、2002年10月10日号、P.132
  19. ^ EandB - COLUMN-tigers5
  20. ^ 同社広告では「アドバイザー」と表記。
  21. ^ 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目インターネット・アーカイブのミラー)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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