原辰徳
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| 読売ジャイアンツ 監督 #88 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 福岡県大牟田市 |
| 生年月日 | 1958年7月22日(50歳) |
| 身長 体重 |
181cm 88kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 三塁手、一塁手、左翼手 |
| プロ入り | 1980年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1981年4月4日 |
| 最終出場 | 1995年10月8日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。監督。現在は読売ジャイアンツ監督、同球団名誉顧問。さらに、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督を務めた。
愛称は「若大将」「タツ」「平成の若大将」「ヤング・ミスター」「永遠の若大将」。または親しみを込めて「原さん」「原監督」とも呼ばれる。
また、神奈川県厚木市・相模原市育ちという関係もあり、プロ野球東西対抗では「神奈川県出身」として東軍で出場したこともある
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り前
福岡県大牟田市生まれ。父は福岡県立三池工業高等学校、東海大学付属相模高等学校および東海大学硬式野球部の監督であった原貢。私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校し、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県へ転居。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校[1]を経て、1974年東海大相模高校に入学。
東海大相模高時代には1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末高知高校に敗れたものの、準優勝という成績をおさめている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二、宇野勝、土屋正勝、杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にするほどの「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原のほかにも、津末、綱島、佐藤、村中らの好選手を擁し、高校野球ファンに鮮烈な印象を残している。高校通算本塁打は43本。
1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、東海大学への進学を表明。全球団から指名無しという異例の事態[2]が起き、ドラフト直後に巨人のオーナー正力亨と監督長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言したことから東海大学総長が激怒。記者会見を開き「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば原君も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。
その後無事に東海大学に進学。遠藤一彦は先輩、市川和正は同級生、高野光は後輩に当たる。東海大学は発足したばかりの首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。2年生秋と4年生春の2度の打撃三冠王になる。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学の江川卓と対戦。4打数2安打1本塁打とファンの期待に応えたものの同年の全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。
3年時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年の岡田彰布と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。
1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツの藤田元司新監督が4球団競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。入団決定直後に日本テレビで特集番組が放映された。背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた「8」となった。
[編集] プロ入り後
1981年開幕からスタメン出場、デビュー戦で中日ドラゴンズの牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄から初ホームランを放つ。シーズン当初は二塁手として出場していたが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障によりアマチュア時代からのポジションである三塁手となり、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。
1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布に次いで2位。
1983年は初めて打率3割を記録、打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献、MVPに選ばれた。巨人での3割30本塁打100打点は青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次ぐ球団史上4人目の快挙だった。
1986年9月24日、対広島25回戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言するほどの影響があった。バットとボールが触れるインパクトの瞬間、左手を使って押し込む動作を行う際、絶頂時と骨折後との違和感が、ずっと消えなかったとの事である。これ以降、負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされる。しかし原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。
1989年藤田監督が復帰、外野手(左翼手)へ転向。同年、デビューから9年連続20本塁打の新記録を達成した。同年日本シリーズの近鉄バファローズ戦(第5戦)において、近鉄の吉井理人は原の前の4番打者ウォーレン・クロマティを敬遠し、敢えて満塁策をとり、第4戦まで無安打の原と勝負する作戦を試みるが、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を打った。なお、原はこのシリーズわずか2安打だったが、その2安打が第5戦の満塁、第7戦の2ランといずれも本塁打で、シリーズMVPに選ばれた駒田徳広と同じ6打点を記録している。
1992年、一塁手へ転向。当初、三塁への復帰も検討されていた。不安定な左翼守備、その影響で成績が下降したこと、既に若いファンの間では「原=三塁」が定着しており、コンバートによってそのイメージが損なわれてしまったこと等が理由だった。結局、アキレス腱痛の悪化などを考慮して、一塁へのコンバートが決まった。
1993年、長嶋茂雄監督が就任。三塁手に再コンバート。複数個所の故障に悩まされ、プロ入り以来12年続けていた規定打席到達も途切れ、引退した年を除いてプロ入り以来最低の成績に終わった。
1995年現役引退。現役引退試合は、ホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化してしまうこととシーズン終盤まで優勝争いをしていたことから当初予定されていなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現した。セレモニーを含めた引退試合は東京ドームのスケジュールの都合上、当時としては珍しくデーゲームでの開催となった。現役最後の試合では、紀藤真琴から左中間スタンドへの本塁打を放つ。最終打席では、広島側の粋な計らいで大野豊がワンポイントで登板し名対決が最後に行われた(結果はレフトフライ)。同年、巨人一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を“永久欠番”にとの署名が多く集まり、巨人は“準永久欠番”に制定。
長打率の高さに反して、三振が少ない(通算894三振)ことで知られている。右打者の割に併殺打も少なく(通算122併殺)、犠飛が多い(通算70犠飛)事から、極端なフライボールヒッターだった事がわかる。2007年シーズン終了時点で、各スタッツは歴代で三振57位、併殺打122位、犠飛13位である。
[編集] 評論家・コーチ・監督時代
1996年にNHKの野球解説者に就任。プロ野球中継の解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務める。TBSラジオでパーソナリティー番組「原辰徳のいきいきトーク」(土曜17時から17時15分 東京地区のみ)担当。
1999年、長嶋監督のもと、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。2000年には、ヘッドコーチに昇格。
2001年9月29日 勇退した長嶋茂雄の後任として巨人監督に就任(長嶋は10月1日の最終戦まで指揮)。9月27日広島戦、乱打戦の末に10-11で惜敗した後、長嶋監督に監督室に来るよう命じられ「来年からは原(監督)だ。」と言われる。原はこの年はヘッドコーチだったが実は1998年のシーズン終了後、長嶋は次期監督を原にすることをオーナーと水面下で話を進めていた。背番号は83。自分の現役時代の「8」と長嶋の「3」を足した数字であるので選んだと言っている。一年目のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。2002年、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から離脱していた河原純一のストッパー転向、長嶋政権下ではスタメンを外れることの多かった清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。2002年の日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初の無傷の4連勝という快挙でもあった。このシリーズでは、当時無名の斉藤宜之、山田真介・福井敬治・鈴木尚広などを一軍に昇格させスタメンで起用、実力以上の活躍を引き出した。当時巨人で唯一走れる選手といえた鈴木尚広は原のヘッドコーチ就任時に走塁センスを絶賛された選手である。彼ら無名の選手をファームで育て上げた高田繁前二軍監督や淡口憲治二軍監督、高橋一三二軍投手コーチ(当時)などが隠れた功労者となる。この年、松井秀喜と清水以外の選手は故障、翌年も怪我人の多い2年間だったものの、二軍で好調だった選手がスタメンで起用され、積極的にエンドランや盗塁などで結果を残した。
しかし次の2003年は阪神の快進撃の前に破れ、3位に終わる。当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え三山秀昭球団代表との確執も発覚し“人事異動”の名目で監督を辞任。巨人軍特別顧問に転任した。このことがきっかけで、このシーズンで現役引退しコーチに就任内定していた川相昌弘は引退を撤回、中日に移籍した。
2004年から2シーズンは巨人軍特別顧問(兼日本テレビ解説者、報知新聞客員評論家)としてグラウンド外からチームを見守った。
2005年、堀内恒夫監督がチームの成績不振により引責辞任。後任として監督に再任される。背番号は88。「8は原点。最高のチームを作るという気持ちで88を選んだ」と説明している。2006年シーズンは開幕ダッシュには成功したが、交流戦中盤から8連敗、10連敗、9連敗などの大型連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗等)により、4位に終わる。開幕直後から高橋由伸など怪我人が続出、6月7日までは首位に留まったものの5月末に小久保裕紀も戦線離脱、優勝争いから脱落していった。李承燁と二岡智宏が奮闘するが、31年ぶりの2ケタ連敗(10連敗)を含め、前年まで球団史上で2回しかなかった9連敗を1か月足らずで2回も記録した。8月4日には最下位に転落。シーズン終盤では李や二岡も膝の故障をおして出場するような事態となる。10月8日の甲子園での阪神戦では優勝に望みを残していた阪神に勝利、対阪神戦の負け越しも3年で止め意地を見せ、最終的に4位で終わる。オフには、黄金期西武ライオンズの頭脳であった伊原春樹が切り札として招聘された。さらに、FAで加入した小笠原道大やトレードで谷佳知、ソフトバンクを自由契約となった大道典嘉が加入し、小久保、仁志、桑田、工藤がチームを去った。また、2006年の選手の相次ぐ離脱を踏まえ「もういい選手はいらない、強い選手が欲しい」と発言。若手脇谷亮太(秋季キャンプでキャプテンを務めた)の頑健さを絶賛する一方、生え抜きレギュラー陣の短期離脱を厳しく叱責している。
2007年チームは先発ローテンションに不安があり去年12勝した内海哲也以外当確候補がいなかった。しかし原監督は去年2勝の高橋尚成と0勝の木佐貫洋や新人の金刃憲人を開幕ローテンションにいれるなどした。結果内海は14勝、木佐貫は12勝、高橋尚は14勝で最優秀防御率と最優秀バッテリー賞などを受賞。また故障で出遅れた上原浩治のストッパー起用などといった革命起用した。
野手陣には小笠原や谷など新戦力や今まで3番を務めていた高橋由伸の1番固定などにより得点力が向上。5月2日のナゴヤドームの中日ドラゴンズ戦で創設後通算5,000勝を達成した。大接戦のペナントレースを制した。しかし、セ・リーグのクライマックスシリーズセカンドステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫したショックや、旧来の伝統から日本シリーズ出場の記念パレード、優勝旅行は一切行われず、オフには下位球団のエース・クローザー・4番を補強。自ら「心苦しいが、やるしかない」ともらした大型補強が敢行される。
2008年のペナントレースではいきなり開幕5連敗を喫するなど序盤から不調で一時は阪神タイガースに13.5ゲーム差をつけられた。しかし、北京オリンピックの前後から勝ち進み、9月の12連勝で首位に迫り、10月8日に阪神を逆転して首位に立つと、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成した。そしてクライマックスシリーズセカンドステージでは、中日を相手に、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で2002年以来の日本選手権シリーズ進出を決めた。予定外の胴上げ(8回)があり、インタビューでは目を潤ませていた。しかし、直後の日本シリーズではパ・リーグの覇者埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した(詳細はメークレジェンドを参照)。
同年10月28日、日本プロ野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。アマ時代以来の日本代表ユニホームを着ることが決定した。愛称は「侍JAPAN」背番号は83に決定。2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。国際武道大学 の客員教授に着任した。
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
勝 利 打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
残 塁 |
打 率 |
順 位 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1981年 | 巨人 | 8 | 125 | 507 | 470 | 64 | 126 | 23 | 6 | 22 | 227 | 67 | 8 | 6 | 6 | 0 | 7 | 27 | 0 | 3 | 78 | 9 | 80 | .268 | 25 | .483 | .321 |
| 1982年 | 130 | 542 | 494 | 81 | 136 | 19 | 1 | 33 | 256 | 92 | 14 | 11 | 6 | 0 | 4 | 42 | 4 | 2 | 82 | 6 | 90 | .275 | 19 | .518 | .335 | ||
| 1983年 | 130 | 571 | 500 | 94 | 151 | 32 | 4 | 32 | 287 | 103 | 20 | 9 | 4 | 0 | 8 | 60 | 1 | 3 | 56 | 11 | 117 | .302 | 12 | .574 | .380 | ||
| 1984年 | 130 | 543 | 468 | 72 | 130 | 19 | 1 | 27 | 232 | 81 | 7 | 7 | 3 | 1 | 4 | 67 | 3 | 3 | 58 | 8 | 117 | .278 | 27 | .496 | .372 | ||
| 1985年 | 124 | 521 | 441 | 79 | 125 | 23 | 2 | 34 | 254 | 94 | 11 | 7 | 3 | 2 | 8 | 60 | 2 | 10 | 42 | 6 | 96 | .283 | 25 | .576 | .376 | ||
| 1986年 | 113 | 467 | 406 | 70 | 115 | 21 | 3 | 36 | 250 | 80 | 7 | 7 | 2 | 1 | 6 | 52 | 4 | 2 | 57 | 8 | 92 | .283 | 13 | .616 | .363 | ||
| 1987年 | 123 | 489 | 433 | 80 | 133 | 17 | 3 | 34 | 258 | 95 | 14 | 7 | 2 | 0 | 7 | 44 | 6 | 5 | 61 | 11 | 79 | .307 | 8 | .596 | .372 | ||
| 1988年 | 126 | 529 | 467 | 79 | 140 | 24 | 1 | 31 | 259 | 81 | 10 | 5 | 6 | 0 | 0 | 61 | 6 | 1 | 63 | 14 | 92 | .300 | 6 | .555 | .382 | ||
| 1989年 | 114 | 459 | 395 | 60 | 103 | 22 | 0 | 25 | 200 | 74 | 14 | 3 | 3 | 0 | 2 | 60 | 4 | 2 | 68 | 6 | 88 | .261 | 27 | .506 | .359 | ||
| 1990年 | 103 | 425 | 366 | 58 | 111 | 17 | 1 | 20 | 190 | 68 | 10 | 6 | 4 | 0 | 4 | 52 | 3 | 3 | 64 | 4 | 93 | .303 | 7 | .519 | .391 | ||
| 1991年 | 127 | 524 | 455 | 66 | 122 | 13 | 1 | 29 | 224 | 86 | 12 | 5 | 3 | 0 | 12 | 55 | 1 | 2 | 82 | 7 | 85 | .268 | 22 | .492 | .342 | ||
| 1992年 | 117 | 493 | 437 | 61 | 119 | 17 | 1 | 28 | 222 | 77 | 12 | 4 | 3 | 0 | 3 | 46 | 1 | 7 | 71 | 13 | 94 | .272 | 20 | .508 | .349 | ||
| 1993年 | 98 | 387 | 336 | 28 | 77 | 14 | 0 | 11 | 124 | 44 | 8 | 3 | 2 | 0 | 3 | 44 | 1 | 4 | 62 | 9 | 77 | .229 | .369 | .323 | |||
| 1994年 | 67 | 227 | 200 | 26 | 58 | 4 | 1 | 14 | 106 | 36 | 3 | 0 | 2 | 2 | 1 | 22 | 1 | 2 | 21 | 5 | 47 | .290 | .530 | .364 | |||
| 1995年 | 70 | 160 | 144 | 13 | 29 | 8 | 0 | 6 | 55 | 15 | 2 | 2 | 1 | 1 | 1 | 13 | 1 | 1 | 29 | 5 | 22 | .201 | .382 | .270 | |||
| 通算:15年 | 1697 | 6844 | 6012 | 931 | 1675 | 273 | 25 | 382 | 3144 | 1093 | 152 | 82 | 50 | 7 | 70 | 705 | 38 | 50 | 894 | 122 | 1269 | .279 | .523 | .357 | |||
- 各年度の太字はリーグ最高
- 出典:オフィシャルベースボールガイド、日本プロ野球記録大百科、セントラルリーグ クリーンブック
[編集] タイトル・表彰
- 新人王(1981年)
- MVP:1回(1983年)
- 打点王:1回(1983年)
- 最多勝利打点:2回(1982年、1983年)
- ベストナイン:5回(1983年、1987年、1988年、1990年、1991年)
- ゴールデングラブ賞:2回(1987年、1988年)
- 月間MVP:3回(1983年5月、1985年7月、1989年4月)
- セ・リーグ最優秀監督賞:3回(2002年、2007年、2008年)
- 正力松太郎賞:1回(2002年)
- オールスター出場:11回(1981年 - 1988年、1990年 - 1992年)
[編集] 監督としてのチーム成績
[編集] リーグ公式戦
| 年度 | チーム | 背番号 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2002年 | 平成14年 | 巨人 | 83 | 1位 | 140 | 86 | 52 | 2 | .623 | - | 186 | .272 | 3.04 | 44歳 |
| 2003年 | 平成15年 | 3位 | 140 | 71 | 66 | 3 | .518 | 15.5 | 205 | .262 | 4.43 | 45歳 | ||
| 2006年 | 平成18年 | 88 | 4位 | 146 | 65 | 79 | 2 | .451 | 23.5 | 134 | .251 | 3.65 | 48歳 | |
| 2007年 | 平成19年 | 1位 | 144 | 80 | 63 | 1 | .559 | - | 191 | .276 | 3.58 | 49歳 | ||
| 2008年 | 平成20年 | 1位 | 144 | 84 | 57 | 3 | .596 | - | 177 | .266 | 3.37 | 50歳 | ||
- ※1 太字は日本一
- ※2 2002年から2004年までは140試合制
- ※3 2005年から146試合制
- ※4 2007年から144試合制
[編集] ポストシーズン
| 年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 2002年 | 巨人 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 4勝0敗=日本一 |
| 2007年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※5) |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) | 0勝3敗=敗退 | |
| 2008年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※6) |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) | 3勝1敗1引分=日本シリーズ進出 (※7) |
|
| 日本シリーズ | 埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) | 3勝4敗=敗退 |
- ※ 勝敗の太字は勝利
- ※5 2007年のクライマックスシリーズ2ndステージは5試合制で先に3勝したチームの優勝、リーグ優勝チームにアドバンテージなし
- ※6 2008年のクライマックスシリーズ2ndステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
- ※7 アドバンテージの1勝を含む。3勝で優勝となったのは、引き分け試合で勝利数が同数になる場合は上位チームの優勝となる規定による
[編集] WBC 国・地域別対抗野球大会
2009年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会では、監督として日本チームを大会2連覇に導く。
| 年度 | 大会名 | チーム名 | 勝敗 |
|---|---|---|---|
| 2009年 | 第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) | 日本代表 | 優勝 |
- 第1ラウンド(東京ラウンド)
- 第2ラウンド(サンディエゴ・ラウンド)
- 3月15日 ○ 6-0 キューバ
- 3月17日 ● 1-4 韓国
- 3月18日 ○ 5-0 キューバ
- 3月19日 ○ 6-2 韓国
- 準決勝
- 3月22日 ○ 9-4 アメリカ
- 決勝
- 3月24日 ○ 5-3 韓国
[編集] 監督通算成績
- 714試合 386勝317敗11分
- Aクラス4回、Bクラス1回
- リーグ優勝3回、日本一1回
[編集] 背番号
- 8 (1981年 - 1995年)
- 80 (1999年 - 2001年)
- 83 (2002年 - 2003年)
- 88 (2006年 - )
[編集] エピソード
[編集] 学生時代
- 2009年より阪神タイガースの監督を務める真弓明信とは同郷であり、幼少時代、福岡県大牟田市にある東洋高圧の同じ社宅に住んでいた。[3]
- 中学校時代、神奈川県厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家の森村誠一一家も住んでいた。当時の原は練習帰りに団地の公園で森村の長男の遊び相手をしていた。森村は当時の2人の姿を覚えており、「面倒見のいい辰徳君に感謝しています」と語っている[4]。
- 1974年の夏の全国高等学校野球選手権大会の準々決勝で原辰徳の東海大学付属相模高等学校と定岡正二の鹿児島実業高等学校が対戦し、延長15回の熱闘となって日本放送協会が試合中継を途中で打ち切った為に、視聴者から苦情が殺到する一幕があった(全国高等学校野球選手権大会#テレビ・ラジオ中継#NHKでの中継の項参照)。この一戦が原辰徳の名が全国に知られるきっかけとなった。また原が巨人に入団した際、『月刊ジャイアンツ』誌上にて既にチームの先輩であった定岡との対談がセットされている。
- 大学時代は政経学部で同級生に米津等史
[編集] 現役時代
- 監督時代の応援歌は現役時代と同じ。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた。
- ルーキー時代の1981年、明治乳業のプリンのCM、1982年には読売新聞のCM(試合の映像を使用、ナレーション:徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー))に出演していた。またオンワード(現:オンワード樫山)のメンズブランド「スコール」のCMにも出演。
- 入団して数年間、富士重工業のスバル・レオーネのCMに岩崎宏美と共にイメージキャラクターとして起用された(両者はスバル360と同じ1958年生まれ)。
- 1982年のファン感謝デーでは当時大人気のタケちゃんマンに扮した。ブラックデビルは江川卓で「タッちゃんマンとブラックスグル」と称した。
- 契約更改後の記者会見で、シーズンの貢献度から初の1億円の大台突破かという期待を持って臨んだが、9900万の提示を保留。「(漢字の)百の字の棒(一)がとれて白になっちゃったよ」と説明した。
[編集] 解説者時代
- 1996年秋より、当時オリックスのイチローと共に、日産自動車の「イチロ・ニッサン」「変わらなきゃも変わらなきゃ」キャンペーンのCMに出演していた。
- サントリーモルツのCMに登場し、山本浩二や達川光男らとコミカルな演技を披露していた。
- 朝の連続テレビ小説ふたりっ子では読売ジャイアンツ監督・原辰徳として出演。
[編集] 監督時代
- 2002年6月19日の横浜戦で11回表無死一塁で打者が投手で左打者の岡島秀樹で相手投手が左投げの河原隆一の場面で、ベンチに控え野手清原和博・村田善則・鈴木尚広が残っている状況で、投手である桑田真澄を代打に指名した。横浜は投手を右投げの東和政にスイッチし、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田は初球をバスターエンドランし、試合に勝利した[5]。
- 第一次政権の日本一に大きく貢献したのが、鹿取義隆ヘッドコーチの中6日を崩さないローテーションであった。工藤公康や桑田真澄などのベテランを有効に使い、選手の能力を十二分に発揮させた。翌年は一転、深刻な投壊状態に陥った。
- 2007年秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口や西村の指導を依頼。新聞で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。
- 電話好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。FA宣言した野口茂樹には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、豊田清には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも辻内崇伸などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「愛のテレフォン」と呼ばれている。2006年のオフは高橋尚成に「お前は左のエースだから、来年からの背番号は21番だ」と話した。2007年オフ、当時の阪神の監督であった岡田彰布が「トライアウトの選手はとらない」と公言した後、藤田宗一が防御率10を超える成績不振を出したことによりロッテから戦力外通告をだされ、解雇された。藤田に解雇が通知された翌日、藤田の家に原からの電話がかかってきて、藤田は巨人と契約。岡田はこのことに大きく後悔したという。
- 爽やかな印象とは裏腹に、鉄拳制裁も辞さない厳しい一面も併せ持つ。2003年に木佐貫洋が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と喝を入れ、2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では東海大学の後輩でもある久保裕也が打ち込まれた際、鉄拳を交えた説教をした後記者団に「(鉄拳制裁について)ちょっとなでなでしただけ。彼はジャイアンツの期待の星なんだ」とコメントした。
- 阪神の星野仙一SDと交流があり、喜怒哀楽を表に出さないためのスタイルなどを参考にしている。また、中日を戦力外となった選手(武田一浩)がテストを受けた際、星野に助言を求めている。星野は今季の大型補強に関しても、「あの『戦力』なら誰でも勝てる」などといったファン本位の声が上がるなか、「あれだけの“名前”が揃うと原もやりづらいだろう」と数少ない擁護発言をしている。
- 上記のようなスタイルを参考にはしているものの、他のチームの監督と比べて、試合中に喜怒哀楽が表情に出やすい。2008年の対中日との試合の攻撃中、一塁ランナーがスタートしヒットエンドランを仕掛けていたにも関わらず、中日のセカンドの荒木雅博の好判断で併殺に取った際には、笑顔から一瞬で真顔に変わる様をTVカメラで捉えられている。[要出典]
- もっともこうした動きはTVカメラやネットなど各種メディアが執拗に動きを追いすぎるきらいがあり、各種インターネットなどでは中日落合博満監督などと対比させることでやられ役として過剰にマイナス面からの演出を試みすぎている、などといった批判が飛んでいる。代表例としては、2007年クライマックスシリーズ第1戦では「右の先発を予想したオーダーを組み、奇襲先発した左の小笠原孝の前に敗北。先発の読み間違えベンチが混乱した」と報じられたが、実は先発予定だった山井大介の故障による中日側にとっての苦肉の策であり、巨人側も情報を察知、「左右を想定してスタメンに入れた左の功打者」である清水隆行(現:崇之)が小笠原からタイムリーを奪うなど、「純粋な好勝負の結果」の「小笠原の好投」であった。しかし結果的に巨人が3連敗したことから各種メディアがパニック的な原批判・落合賛美をはじめたことで、落合監督の神格化ともいえる評価のバブル的な上昇(それに伴った原の評価の理不尽な低落)がはじまってしまった。翌年の短期決戦は原が落合を破り、落合の短期決戦勝率も4回出場中この2007年の1勝のみとなったにもかかわらず、原のWBC監督就任時には「原では不安だ、何故短期決戦に強い落合を監督にしなかったのか」などといった声が内外から飛びかうといった前評判であった。[要出典]
- 野球人として野村克也楽天監督を『1990年代の巨人をゼロから追い越した存在』として父や藤田と同列にまで尊敬しているとのこと。2006年、若手選手に野村の著書「巨人軍論」を読ませ、感想文を提出させた。無名の二軍選手のために巨人寮には野村の著書があるという。野村を祝うイベントにも出席し、コメントを出している。原自身は自動エンドランを多用したり、セオリーから外れた積極走塁を用いて攻撃効率を高めるなど野村野球の再現者ではない。[要出典]
- 2003年監督辞任の際、引退セレモニーおよびスピーチを阪神対巨人最終戦の試合終了後敵地阪神甲子園球場で行った。これは親交が深い阪神・星野仙一監督の発案である。星野は『ジャンクSPORTS』に出演した時にこのセレモニーを発案したことを話していた。同球場の観客には阪神ファンが圧倒的に多く、ライバル球団の関係者がスピーチを行うことなど前代未聞であったが、辞任に至る経緯などから原に同情的な阪神ファンも少なくなかった[要出典]模様であり、試合終了後、阪神ファンからは「ハラ」コールが鳴りやまなかった(巨人ファンからは「タツノリ」コールがされたが、阪神ファンの声援が大きくかき消されていた)。辞任挨拶の際、阪神を率いていた星野から花束を渡され、「また戻って来い」「くじけるな。また野球を一から勉強しろ」と激励され、互いに抱擁を交わした。原は感極まり、涙が止まらなかった。原は現役の頃から阪神のユニフォームを着たファンからもサインを求められることが頻繁にあり、私設応援団などから野次としての応援歌の替え歌を流されることはあったものの、阪神ファンからも好意的な印象を得ている数少ない巨人OBの一人である。[要出典]2002年の甲子園での胴上げは、球場全体から大きな拍手を送られた。また、小泉純一郎首相(当時)は、この解任騒動を「野球界にも権力闘争があるんだね」と評した。
- 第一次監督就任前に川上哲治の近所に居を移したが、川上の後ろ盾がある星野仙一と監督の座を争った[要出典]。
- ヘビースモーカーとして知られていたが、第一次監督辞任後に禁煙している[6]。
- 冗談で「野球より好きだ」と公言するほどのゴルフ好き。50歳の誕生日を迎えた際、「49歳でアメリカへ渡り、50歳のときにゴルフのシニアツアーに参戦。全米シニアで同世代のグレグ・ノーマンやニック・プライスと戦う。37歳で現役引退したとき、そう思ったんだ」と発言したほど[7]。
- プロレスも日本テレビで中継をしている全日本プロレス→プロレスリング・ノアの系列に造詣が深く、ゲスト解説などもしている。これら団体の試合を会場で観戦することもしばしばある。全日本プロレスでは永源遙の唾攻撃が原、岡崎郁と一緒に観戦していた廣田浩章のジーンズの膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人であるラッシャー木村の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。ノアの三沢光晴社長や、現役引退試合の翌日に同じく東京ドームで行われた「新日本プロレスVSUWFインターナショナル全面戦争」の興行を観戦し、当時メインイベントで高田延彦に勝利した、全日本プロレスの武藤敬司社長とはプライベートでも親交を深めている。ジャイアント馬場の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。馬場はジャイアンツの大先輩でもある。
- 少年時代から長嶋の大ファンである。ヘッドコーチ時代は長嶋茂雄同様、「ビュッと振ってバーンと当てる」といった擬態音で説明することが多く、長嶋監督のコーチ時代には本塁打を打った選手への出迎えが長嶋監督とそっくりであった。一部マスコミからは「チョーさん(長嶋)が2人いる」と揶揄され、久米宏は「マイナス掛けるマイナスはプラスだからなぁ」と評した。
- ジェスチャーの一つ一つに特徴がある。特に味方選手がホームランを打った後の出迎えの際には、両拳を突き出し選手と合わせるしぐさは定番となっている。ファンの間では「グータッチ」として親しまれ、巨人ファンであるSMAPの中居正広はバラエティ番組でこのモノマネをよく披露している。
- 球界屈指の愛犬家で、ボクサー犬をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前。藤田元司が監督を退任した後に子犬をプレゼントしたという。
- 現在、東海大相模高校のある相模原市に本社を置く住宅販売業「丸正産業」のイメージキャラクター[8]を解説者時代から務めているが、その会社の看板では巨人によく似たユニフォームを着ている(背番号「8」のバージョンと「88」のバージョンがある)。
- 愛車はレクサス・LS600h。
- 直接打撃指導をすることも多く、今のところ左打者や中短距離打者の育成に実績を残している。[要出典]
[編集] 歌
- どこまでも愛(1982年発売)オリコン最高85位、売り上げ1万1000枚[9]。B面のタイトル「サム」は愛犬の名。
- ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
- サムシング(アルバム、1995年にCDで再発)
[編集] 出演
[編集] TV
- 笑っていいとも! テレフォンショッキング※・ゲスト(1983年、フジテレビ系)
- 第46回NHK紅白歌合戦(1995年12月31日、NHK)
- ドリーム☆アゲイン(2007年、日本テレビ系)読売ジャイアンツ監督役
[編集] CM
[編集] 著書
- 一流になる人はここが違う―私の出会ったヒーローたち (1998/01・日新報道) ISBN 4817404086
- 選手たちを動かした勇気の手紙 (2003/03・幻冬舎) ISBN 4344003128
- ジャイアンツ愛 (2003/11・幻冬舎) ISBN 4344004213
[編集] 脚注
- ^ 中学卒業間近に、原は体育の授業(サッカー?)で左足首を複雑骨折した。診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。怪我の状態は深刻で、最悪の場合歩行困難あるいは重い後遺症が残ると思われ、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘ってリハビリ回復に成功し、幸いにも野球は続けられたが、後年のアキレス腱の悪化に間接的に繋がった。
- ^ 通常のドラフトではドラフト拒否の選手にもほぼ9割の確率で指名が行く。
- ^ 炭鉱町に咲いた原貢野球―三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡(澤宮優著、現代書館2004年)
- ^ 原巨人、伝説を作った サンケイスポーツ 2008年10月11日閲覧
- ^ 代打桑田の理由に関しては公式HPの2002年6月22日の日記に論理的な判断(左打者の岡島に左対左でバントさせるよりも右打者の代打を起用したかったため、清原は送りバントを想定している打者ではないことと足が遅いことで併殺の恐れがあるため、村田は捕手・阿部慎之助が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要員であることと代打清原が出塁した後の代走を想定していたため)を掲載しているが、「野手を信頼していないから投手の桑田を代打起用した訳ではなく、残っている野手の分野を考えた」「奇策に奇策を重ねるような戦い、森祇晶監督に対して礼を逸した戦いぶりだった」と本人はあまり評価をしていない。
- ^ 【インサイド・レポート】原巨人に何があったのか。 - goo スポーツ:NumberWeb -
- ^ 「夢は米ゴルフツアー参加だった」 50歳を迎えた巨人・原監督
- ^ 同社広告では「アドバイザー」と表記。
- ^ 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目(インターネット・アーカイブのミラー)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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