原辰徳

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原 辰徳
読売ジャイアンツ 監督 #88
Giants hara 88.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県大牟田市
生年月日 1958年7月22日(56歳)
身長
体重
181 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手左翼手一塁手二塁手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1981年4月4日
最終出場 1995年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1999 - 2003, 2006 - )

原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日[1] - )は、日本の元プロ野球選手内野手外野手)、プロ野球監督。現在は読売ジャイアンツ(巨人)監督、同球団名誉顧問。福岡県大牟田市出身[2]神奈川県厚木市相模原市南区育ち[3][4]

1980年代から1990年代中盤にかけて巨人の4番打者を務め、ON時代後の巨人を支えた。監督としてもチームを3度、日本一に導いている。2009年にはワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督を務めた。また、2008年より国際武道大学の客員教授も務める[5]。愛称は「(永遠の[6]、平成の)若大将[6]、「ヤング・ミスター」、「AHRA」。

父は福岡県立三池工業高等学校東海大学付属相模高等学校および東海大学硬式野球部の監督であった原貢佐賀県鳥栖市出身)。辰徳と同じく東海大相模高校・東海大学の野球部に所属し、巨人に入団した菅野智之は甥(妹の子)にあたる。

年表[編集]

詳細は以下の#来歴を参照。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、市内にある東洋高圧の社宅に住んでいた。なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた[7]。私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校。小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居[8]。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校と転校した[9]。中学校時代、厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家森村誠一一家も住んでいた[10]

高校時代[編集]

1974年東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末高知高校に敗れたものの、準優勝という成績を収めている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二[11]宇野勝土屋正勝杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原の他にも、津末英明、綱島里志、佐藤功、村中秀人らの好選手を擁していた。高校通算本塁打は43本。

1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、首都大学野球連盟の古豪で強豪校の東海大学への進学を表明。全球団から指名なしという事態が起き、ドラフト直後に巨人オーナーの正力亨と監督の長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言したことから東海大学総長松前重義が激怒、記者会見を開き「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば彼も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。

大学時代[編集]

その後東海大学政治経済学部経済学科に進学。遠藤一彦は先輩、市川和正は同級生、高野光は後輩にあたる。当時東海大学はあまり大学野球で人気のない首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。

1年生秋のリーグ戦で初本塁打を打ったが、打率.267で、ベストテンには入れなかった[12]。首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。打撃三冠王を2度達成する(2年生秋・4年生春)。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学江川卓と対戦。4打数2安打1本塁打を記録するものの同年の全日本大学野球選手権大会明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。

3年生時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年生の岡田彰布[13]と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。

1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツ新監督の藤田元司が4球団競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。入団決定直後に日本テレビで特集番組『辰徳スペシャル』が放映された。背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた8となった。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。監督時代の応援歌も同じで、第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の対阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた。

1981年3月、東海大学政治経済学部経済学科を卒業する。

現役時代[編集]

1981年開幕戦に6番・二塁手で先発出場。プロ初打席は中日ドラゴンズ三沢淳の前にセカンドフライに倒れるも、代わった牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄からプロ初本塁打を放ち(珍しくライトスタンドへのホームランである)、その17日後に行われた対大洋ホエールズ戦(北九州市民球場)では遠藤一彦から自身初のサヨナラ本塁打も放った。試合終了後、興奮した大量のファンが乱入した。シーズン当初はチームのポジション事情により二塁手として出場していたが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により、アマチュア時代からのポジションである三塁に収まる。空いた二塁には篠塚利夫が入り、中畑は一塁で復帰し、内野のレギュラー陣が固まる。22本塁打を放ち新人王を獲得。

1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布雅之に次いで2位であった。

1983年は初めて打率3割を記録。打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれた。巨人での3割30本塁打100打点の記録達成は、青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次ぐ球団史上4人目の快挙だった。

1986年、前年を上回るペースで本塁打を記録していたが、9月24日の対広島25回戦で津田恒実の直球をファウルした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言する程の影響があった。バットとボールが触れるインパクトの瞬間、左手を使って押し込む動作を行う際、絶頂時と骨折後との違和感がずっと消えなかったとの事である。これ以降、負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされる[14]

1987年1988年は2年連続で3割30本塁打を記録。特に1988年は本拠地が東京ドームになってチーム本塁打が激減する中、最後までホームラン王争いに加わった。その後、1996年の松井秀喜までチーム内で30本塁打は登場しなかった。

1989年左翼手コンバートされる。同年、新人時代から9年連続20本塁打の新記録を達成した。近鉄バファローズとの日本シリーズ第5戦、近鉄・吉井理人は原の前を打つ4番打者・ウォーレン・クロマティを敬遠する満塁策をとり、この日までシリーズ無安打の原と勝負する作戦を選ぶ。しかし、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を放ち、溜飲を下げた。ちなみに、原はこのシリーズわずか2安打に終わったが、その2安打が第5戦の満塁弾、第7戦の2ランといずれも本塁打であり、シリーズMVPに選ばれた駒田徳広を上回る6打点を記録している。

1990年は開幕戦で脇腹痛め戦線離脱し、一時は任意引退公示されたが、打率3割を到達しリーグ優勝に貢献した。レギュラーシーズン127試合目ナゴヤ球場での中日戦での3本塁打で10年連続20本塁打達成、翌1991年、入団以来11年連続20本塁打の日本記録更新と年間犠牲フライのリーグ新記録を達成し2年連続ベストナインに選出される。しかし、プロ入団以来初めてのBクラス転落を経験し、年俸も微増の9900万円でわずかに1億円に届かなかった。

1992年一塁手に転向。当初三塁への復帰も検討されていたが、その背景には、不安定な左翼守備とその影響で打撃成績が下降したこと、また既にファンの間で「原=三塁」のイメージが定着しており、外野手転向によってそれが損なわれてしまっていたことなどの理由があった。しかし結局、アキレス腱痛の悪化などを考慮して、一塁への転向となる。入団以来12年連続20本塁打の日本記録更新しこの年のオフ、駒田、斎藤雅樹とともに、歴代の巨人の日本人選手として初めての1億円プレーヤーとなった。

1993年は三塁手に再転向。5月2日に4番出場が1000試合に到達した。しかし、複数個所の故障に悩まされ打撃不振に陥り、プロ入り以来初の規定打席未達に終わる。開幕から21試合を経た5月5日まで本塁打が出ないという不振ぶりで、新人時代より続けていたシーズン20本塁打以上の記録が12年で途切れるなど、プロ入り以来最低の成績に終わる。同年オフ中日の主砲・落合博満FAを宣言し巨人に移籍し四番を任される事が確実となり、原は微妙な立場に追いやられた。

1994年左脚のアキレス腱を部分断裂し開幕を二軍で迎え、一軍初出場は開幕から53試合目、6月14日の阪神戦だった。7番打者で先発出場するも、ドラフト1位ルーキーで前月の月間MVP・藪恵市から本塁打を放ち意地をみせた。2年連続で規定打席未達ながら、夏場に3打席連続本塁打を記録するなどの活躍を見せ、入団以来14年連続二桁本塁打を達成。チームは10.8決戦を制して4年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズで原は欠場の落合に代わり四番・一塁手で出場。第2戦で西武ライオンズ工藤公康から巨人の同試合唯一の得点となる適時打を放ち、球団創立60周年での日本一達成に貢献した。

1995年に現役引退。原の引退が発表された後の試合では、ビジターの球場でも敵味方の区別なくファンから熱烈な声援が上がった。引退試合は、巨人のホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化してしまうことと、シーズン終盤までチームが優勝争いをしていたことから当初予定されていなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現。東京ドームのスケジュールの都合上、当時としては珍しくデーゲームでの開催となった。原は4番・三塁手として出場し、紀藤真琴から左中間スタンドへ本塁打を放った。最終打席では、広島側の計らいにより大野豊がワンポイントで登板し、ライバル対決が行われた(結果はレフトフライ)。試合後の引退セレモニーでは「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある」と、苦しかった胸のうちを語り、「今日、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」との言葉を残した。

評論家時代[編集]

1996年NHK野球解説者スポーツ報知野球評論家へ就任。プロ野球中継解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務めた。

コーチ時代[編集]

1999年、長嶋が監督の下、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。初キャンプでは外野ノックの際に本塁打を連発して珍プレーとして取り上げられた。本人曰く「バットで打ったらスタンドに入れるのが仕事だったもんだから、つい、ネ。」。2000年には、ヘッドコーチに昇格。

コーチ時代について、「長嶋さんにはいろいろ助言もしたが、最終的に全て長嶋さんが決断をしていた。無責任のようだけど、3年間自分は座っているだけだった」と述べたことがある[15]

第一次監督時代[編集]

2001年シーズンオフ、勇退した長嶋の後任として第14代巨人監督に就任。背番号は83。1年目シーズンとなった2002年のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。当時オーナーだった渡邊恒雄に打診して、現役時代から親交があり、アメリカにコーチ留学していた鹿取義隆ヘッドコーチとして招聘した[16]

2002年は、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、[17]故障で一軍から離脱していた河原純一の抑え転向、清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初の無傷の4連勝で、長嶋や王が成し得なかった「監督初年度での日本一」を達成した。

この年、松井秀喜と清水以外の選手は故障が多かったものの、支配下選手70名中66名を一軍で適材適所で使い分け、二軍で好調だった選手を昇格後即スタメンで起用したり、積極的にエンドランや盗塁を用いる用兵で結果を残した。6月19日の対横浜戦の11回表無死一塁で、打者が投手で左打者の岡島秀樹、相手投手が左投げの河原隆一の場面、ベンチに控え野手清原和博村田善則鈴木尚広が残っている状況で、投手である桑田を代打に指名した。横浜は投手を右投げの東和政に交代させ、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田は初球をバスターエンドランし、試合に勝利した[18]

しかし翌2003年は、前年まで不動の4番だった松井秀喜のMLB行きや、相次ぐ主力選手の怪我による戦線離脱、前年好調だった投手陣が一転して不調に陥ったこと、更には阪神の快進撃などもあり3位に終わる。当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え、球団代表・三山秀昭との確執もあり、“人事異動”の名目で監督を辞任、特別顧問に転任した。10月7日に甲子園で、阪神との最終戦で当時阪神監督だった星野仙一から花束を贈られて「今までご苦労さん。必ず(現場に)帰ってこいよ!」と奨励されて、抱き合った[19]

特別顧問時代[編集]

2004年から2年間は巨人軍特別顧問(日本テレビ解説者、スポーツ報知客員評論家と兼任)としてグラウンド外からチームを支えた。また、TBSラジオの番組『原辰徳のいきいきトーク』(『ファンケル 原辰徳のいきいきトーク』[20]。2004年4月から9月…日曜9時55分 - 10時、2004年10月から2005年12月…土曜17時 - 17時15分、東京地区のみ放送)でパーソナリティを担当[6]

第二次監督時代[編集]

2005年オフ、監督の堀内恒夫が成績不振により引責辞任。後任として第16代監督に再任される。背番号は88

2006年、シーズン当初は開幕ダッシュに成功したが、小久保裕紀高橋由伸など怪我人が続出し、6月から7月の間に立て続けに8連敗、10連敗、9連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗など)を喫して優勝争いから脱落、8月4日には最下位に転落する。最終的には2年連続Bクラスとなる4位で終わる。

2007年、故障で出遅れた上原浩治を「今季のみ限定」で抑えに転向させたり、それまでクリーンナップを務めていた高橋由伸を1番打者に固定するなど、型破りな選手起用によってチームをリーグ優勝へと導いた。しかし、この年から導入されたセ・リーグクライマックスシリーズ2ndステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃してしまう。秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口貴彦西村健太朗の指導を依頼。新聞で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。

2008年は、一時は首位・阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられるも、9月に12連勝をして迫ると、10月8日に阪神を逆転して首位に立ち、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成する。クライマックスシリーズ2ndステージでは、中日を相手にアドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分の成績を残し、2002年以来の日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズではパ・リーグの覇者・埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。

この年、神宮での雨中の開幕戦で、遊撃スタメンだった二岡智宏が足を負傷、二塁スタメンだった当時2年目・19歳の坂本勇人を本来のポジションである遊撃に回したが、坂本はこの試合以降の2008年の全試合、全イニングに起用され、急成長を遂げた。野手では他に亀井義行や、育成枠から隠善智也らを、投手陣でも前年に育成枠から昇格した山口鉄也や、若い越智大祐東野峻らを積極的に起用するなど、若手・中堅・ベテランを使い分ける采配が評価された。

同年10月28日、日本野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。背番号は83。2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。

2009年シーズンが開幕すると、育成枠出身の松本哲也や坂本・亀井、原自ら「風神・雷神」と名づけた左右の中継ぎコンビ・山口と越智などの若手が次々に台頭した。また、上原浩治のMLB移籍によって先発投手の戦力低下が危惧されたが、ヤクルトから獲得したディッキー・ゴンザレスやテスト生出身のウィルフィン・オビスポがその穴を埋めたため前年とは対照的に春先から首位を快走した。リードした試合の終盤には主力選手をベンチに下げたり、谷佳知を相手先発投手に応じてスタメン・代打と使い分けたり、捕手の阿部慎之助や外野手の亀井を一塁手としても起用するなど選手層の厚さを活かした柔軟な用兵を見せ好成績を維持した。9月23日にV91965年 - 1973年)以来のリーグ3連覇を果たした。第2次監督時代の長嶋らと対照的にベテランやホームランバッターに依存せず、若手を積極的に起用する原の手腕は多くの解説者に高く評価された[21]クライマックスシリーズ第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で勝利。2年連続日本シリーズ出場となった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに4勝2敗で勝利。監督として2度目の日本一を達成する。11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた日韓クラブチャンピオンシップにも勝利。監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を成し遂げた。

2009年12月6日にスイスローザンヌで開かれた国際野球連盟の総会において2009 ワールド・ベースボール・クラシック優勝などの実績が評価され、世界最優秀監督に選出された[22]

2010年は、長野久義を獲得し前年同様優勝が期待されたが、前年度活躍した内海哲也、ゴンザレス、オビスポといった主力投手がそろって不調に陥り、高橋尚成の退団やマーク・クルーンの救援失敗も響いてチーム防御率が1点近く悪化し、連覇を逃した。クライマックスシリーズでも中日に敗れた。

2011年は、前年度の失敗から投手コーチに川口和久を招聘し立て直しを図り、この年入団した澤村拓一の活躍もあり改善したが、抑え投手を固定できず、久保裕也に決まるまではレビ・ロメロジョナサン・アルバラデホなどを日替わりで起用した。また、この年から導入された統一球に苦戦し、前年までの主な得点源であった本塁打が激減、得点力が大きく低下した。この年も中日が優勝、クライマックスシリーズでも敗れた。

2012年は、アレックス・ラミレスがDeNAに移籍したが、野村克也の教え子である橋上秀樹秦真司をコーチとして招聘し、村田修一杉内俊哉デニス・ホールトンを獲得し、阿部を四番とした新チームで開幕をスタートさせる。ところが春先は前年度並に打てない日々が続き、単独最下位にまで転落した。しかし、長野と坂本の打順を入れ替えたり、松本哲也が復調したり、西武から移籍した石井義人を代打の切り札として使い、シーズン途中に復帰したエドガー・ゴンザレスの活躍などもあり打線は復調、交流戦ではセ・リーグのチーム初の優勝を決めた。交流戦後も好調は続き、夏場から首位の座を譲らず独走でリーグ優勝を決めた。この年は、宮國椋丞高木京介田原誠次小山雄輝など若手投手が台頭し、若手起用の采配を評価する声が多かった。また、クライマックスシリーズではファイナルステージにおいて中日に3連敗と追い込まれながらもその後3連勝して日本シリーズへの出場権を得た。 日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズを相手に4勝2敗と勝ち越して三年ぶりの日本一を達成した。その後開催されたアジアシリーズでも優勝し、史上初の5冠を達成した。その功績が認められ、阿部とともに自身3度目の正力松太郎賞を受賞した。

2013年は、2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督へは就任しなかったが、シニアアドバイザーに就任した。日本が準決勝進出しアメリカ行きが決まると、自身も特別顧問の王と一緒にアメリカに同行した。代表は準決勝で敗れたが、立派に戦ったと褒め称えた[23]。なお、シニアアドバイザー在任中はコーチの川相昌弘が代理監督を務めた。巨人監督としては、前年度同様大差をつけてのリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは楽天にあと一勝で敗れ日本一連覇はならなかった。

2014年、父が心筋梗塞で入院したため、5月5日は離脱することが球団より発表された。この日の代理は再び川相が務め、翌日には現場復帰した。7月11日の対阪神戦で4-2と阪神2点リードで迎えた6回表、一死二、三塁、7番今成という場面でレフトの亀井を内野に配置して内野5人シフトを敢行した。ここで阪神は代打・西岡をコールすると、亀井は再び外野手用グラブにチェンジし、レフトのポジションに戻った。ところが、西岡のカウント2-2になると、巨人ベンチは再び亀井を三遊間に配置。ショートの坂本が二塁ベース前方、外野はセンターの松本を左中間、ライトの長野を右中間に置き、再び内野5人シフトで5点目阻止を狙った。だが、西岡の放った打球は飛球となり無人のセンターへ。その間にランナー2人の生還を許し、奇襲は失敗に終わった。

選手としての特徴[編集]

長打率の高さに反して、三振が少ない(通算894三振)ことで知られている。また、右打者の割に併殺打も少なく(通算122併殺)、犠飛が多い(通算70犠飛)事から、極端なフライボールヒッターだった事がわかる。2007年シーズン終了時点で、各スタッツは歴代で三振57位、併殺打122位、犠飛13位である。大飛球を放った際、しばし打席内で打球を目で追ってしまう癖があり、本塁打にならずフェンスに当って跳ね返った場合、単打止まりとなることが間々あった。

走塁放棄[編集]

原は走塁放棄でアウトになったことがある。1988年9月4日(日)の東京ドームでの対中日23回戦、6-1と中日がリードして迎えた9回裏1死1塁の場面で原は打席に立った。上原晃の球を捉え、左中間に大飛球を放った。中日の中尾孝義に替わって途中出場し左翼に入っていた豊田成佑が背走して捕球したかに見えた。1塁走者の岡崎郁は2塁を回っており、慌てて2塁を経由して1塁に戻ろうとした。そして豊田から内野に返球されたボールが岡崎より先に1塁に転送され、1塁塁審はアウトを宣告し試合終了かと思われた。しかし外野線審の手沢庄司は豊田の捕球は直接捕球でなく、フェンスに当って跳ね返ったボールがグラブに収まったのでアウトでなくフェアという判定を下していた。したがって岡崎をアウトにする為には、タッチが必要であった。また一連のプレー中、原はアウトになったものと思い、一塁ベースから離れベンチに戻っていた。審判団が協議し、原を走塁放棄でアウトとし、2死1塁から試合再開となった(試合は6-1で中日が勝利)。この走塁放棄の一件は、原だけでなく岡崎、また中日の内野陣、さらに1塁塁審までの勘違いがあって起こった珍事であった。なお、原のこの打席の記録は、左翼への安打となっており、試合経過説明として走塁放棄でアウトとなっている。[24]

監督として[編集]

巨人入団時の監督だった藤田元司と助監督だった王貞治(後の監督)とは、監督としてのやり方が似ているとよく言われる。実際、藤田の生前には監督業について何度も意見を交わし、また王から指導者としてのアドバイスも受けたことがある。

選手の潜在能力を引き出し選手を惹きつける力が非常に長けている。2007年にFAで巨人入りした小笠原道大、2008年に加入したセス・グライシンガーアレックス・ラミレスなど、他球団も獲得に乗り出した選手は「原監督の指導を受けてみたい」と口を揃えた。WBCの際もバントを3回連続失敗したイチローが「心が折れそうだ」と口にした際には「バントはするな」と言っていた。マスコミはこの発言を「原、非情の指令」などと報じたが、この発言には続きがあり、「バントはするな。俺はイチローが見たいんだ」と発言し、その言葉でイチローは「心が折れないで済んだ。原監督の言葉が無かったら折れていた」と口にする。同じくWBC代表だった稲葉篤紀も第一ステージでは不振に陥ったが、しかし第二ステージで稲葉を4番に置いた。稲葉自身は第二ステージでは「スタメン入りは無理だろう」、「使われても代打」と思っていたが、監督室で原から「稲葉、明日4番でいくから」と言われ、稲葉自身も驚いたという。原は稲葉を4番に置いた理由を「長打もあり、単打もありバントも出来る」と説明し、これを聞いた稲葉は「そういう4番もあるのか」と気付かされたという。その後、稲葉は復調し、本来の力を取り戻した。

試合では自己犠牲と勝利至上主義を貫き、必要であれば主軸打者にもバントをさせる。チームの和は競争原理が働くことで保たれるが、チームを最優先する意識を強く持った選手が集まってこそ勝利を得られると語り、己を殺すことに苦渋や不満を抱いているようではまだまだ未熟と考えている。これは個人の活躍はその場の喜びで終わるが、チームのために闘って勝てば自分が成長し豊かになる深い喜びを体感できるとの考えによるもの[5]

監督として通算で、セ・パ交流戦優勝(2012年・2014年)、セントラルリーグ優勝(2002年、2007年 - 2009年、2012年・2013年)、クライマックスシリーズ優勝(2008年・2009年、2012年・2013年)、日本一(2002年、2009年、2012年)、日韓クラブチャンピオンシップ優勝(2009年)、アジアシリーズ優勝(2012年)、WBC世界一(2009年)と、7冠を達成している[25]

人物[編集]

爽やかな印象があるが、強直な一面も持ち合わせている。2003年に木佐貫洋が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と活を入れた。2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では、二戦続けて失点した久保裕也をベンチ裏に呼んで叱るとともに軽く二回蹴り、その後記者団に「(キックは)ナデナデしただけですよ。しっかり頑張ろうということです。久保には信頼も大きい。期待の星だからね」とコメントした。東海大学の後輩でもある久保を怒られ役としたことには愛のムチの意味があるとみられる[26]。2013年5月に打撃不振になっていた村田修一長野久義を非公開で指導した際にも「ナデナデ」という表現を使っていた[27]

ON時代後の巨人の4番を務めたことから前世代の偉大な4番打者と頻繁に比べられ、現役時代より叩かれ役となることが多かった。監督となった現在もタブロイド誌で、毎日のように落語の三題噺のような展開の話が掲載されている[28]

電話好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。FA宣言した野口茂樹には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、豊田清には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも辻内崇伸などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「愛のテレフォン」と呼ばれている。2006年のオフは高橋尚成に「お前は左のエースだから、来年からの背番号は21番だ」と話した。2007年オフ、当時の阪神の監督であった岡田彰布が「トライアウトの選手はとらない」と述べた後、藤田宗一が防御率10を超える成績不振を出したことによりロッテから戦力外通告を受けた。藤田に解雇が通知された翌日、藤田の家に原からの電話がかかってきて、藤田は巨人と契約。岡田はこのことに大きく後悔したという。

2009年3月7日に行われたWBC東京ラウンド日本対韓国戦での勝利監督インタビューの際、マイクの音声が球場に流れないというアクシデントが発生。場内の観客からは「聞こえない」などの苦情の声が相次ぐもインタビューは進行。途中、音声が球場に流れるようになった時、原は「最初のが聞こえてなかったんじゃないですか?」と発言し、同じインタビューを頭からやり直し、観客からの苦情を一変させ熱い声援を浴びた。

現在、東海大相模高校のある相模原市に本社を置く住宅販売業「丸正産業」のイメージキャラクター[29]を解説者時代から務めているが、その会社の看板では巨人によく似たユニフォームを着ている(背番号「8」のバージョンと「88」のバージョンがある)。

プロになれなかった場合は学校の先生を目指していたという。

趣味[編集]

冗談で「野球より好きだ」と公言するほどのゴルフ好き。50歳の誕生日を迎えた際、「49歳でアメリカへ渡り、50歳のときにゴルフのシニアツアーに参戦。全米シニアで同世代のグレグ・ノーマンニック・プライスと戦う。37歳で現役引退したとき、そう思ったんだ」と発言したほど[30]

プロレス日本テレビで中継をしている全日本プロレスプロレスリング・ノアの系列に造詣が深く、ゲスト解説などもしている。これら団体の試合を会場で観戦することもしばしばある。全日本プロレスでは永源遙攻撃が原、岡崎郁と一緒に観戦していた廣田浩章ジーンズの膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人であるラッシャー木村の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。ノア社長の三沢光晴や、現役引退試合の翌日に同じく東京ドームで行われた「新日本プロレスVSUWFインターナショナル全面戦争」の興行を観戦し、当時メインイベントで高田延彦に勝利した、全日本プロレスの武藤敬司社長とはプライベートでも親交を深めている。ジャイアント馬場の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。馬場はジャイアンツの大先輩でもある。最近はノア以外の選手にも注目しており、特に新日本プロレスの真壁刀義は同じ相模原市出身ということもあって、巨人の選手との会話において真壁を引き合いに出し若手に奮起を促しているという[31]。2010年2月22日には新日本プロレスの真壁と4代目タイガーマスクが宮崎キャンプに訪問して、タイガーマスクからプレゼントされた特注の覆面を迷いなくかぶる大サービスも見せた(白色のマスクで、巨人のロゴマーク入り)

また、球界屈指の愛犬家で、ボクサー犬をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前。藤田元司が監督を退任した後に子犬をプレゼントしたという。

愛車はレクサス・LS600h

メロンパンが大好きで、菓子パン類ではメロンパン以外は菓子パンとして、認めていないという。

以前は喫煙者であったが、2003年に第1次監督退任後から禁煙トレーニングを行い、同年12月31日付で卒煙した。2004年以降は非喫煙者であり、2005年秋に第2次監督就任後以降は、チーム内の選手スタッフの現役喫煙者全員に禁煙の指示を出し、球団事務所内の全面禁煙を徹底した。「強いチームを作るのに喫煙行為は巨人の選手としてはもちろん、アスリートとしての自覚も欠けている」とコメントしている[32]2011年時点ではチーム内の選手、スタッフはほとんどが非喫煙者であり、最終的にはチーム内の喫煙率を0.0%を達成出来る様に全力を尽くしている。

ジェスチャー[編集]

少年時代から長嶋の大ファンであり、長嶋の下でコーチに就任して以降、長嶋の「ビュッと振ってバーンと当てる」といった擬態音で説明したり、派手なジェスチャーを交えるスタイルを継承している。長嶋政権でのコーチ時代には本塁打を打った選手への出迎えが長嶋とそっくりであった。一部マスコミからは「チョーさん(長嶋)が2人いる」と揶揄され、久米宏は「マイナス掛けるマイナスはプラスだからなぁ」と評した。監督時代の長嶋は、試合展開や個々の特性などが一切考慮されず「教則本的な基本から1ミリでも外れた面がある采配」をするたびに「カンピューター」などとスポーツマスコミに目の仇にされていたが、原も表面的なイメージをひきずり桑田のバスター策などを「思いつき」などと形容されていることが多い。

ジェスチャーの一つ一つに特徴がある。特に味方選手がホームランを打った後の出迎えの際には、目を見開き両拳を突き出し選手と合わせるしぐさは定番となっている。ものまね芸人神奈月や巨人ファンであるSMAP中居正広は、バラエティ番組でこのものまねをよく披露している。なお原がハイタッチではなくグータッチを好んでするのはハイタッチが手のひらという比較的面積が大きい部分でするため、移動したりしながらでき緩慢になることがあるのに対して、グータッチは拳と拳のためしっかり集中してやらないと形がくずれてしまい、失敗するので緩慢になるのを防止する効果があり、さらに拳と拳が合うように手をお互い見ているため目があい意思疎通も図れるからである。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1981 巨人 125 507 470 64 126 23 6 22 227 67 6 6 0 7 27 0 3 78 9 .268 .308 .483 .791
1982 130 542 494 81 136 19 1 33 256 92 11 6 0 4 42 4 2 82 6 .275 .332 .518 .850
1983 130 571 500 94 151 32 4 32 287 103 9 4 0 8 60 1 3 56 11 .302 .375 .574 .949
1984 130 543 468 72 130 19 1 27 232 81 7 3 1 4 67 3 3 58 8 .278 .369 .496 .865
1985 124 521 441 79 125 23 2 34 254 94 7 3 2 8 60 2 10 42 6 .283 .376 .576 .952
1986 113 467 406 70 115 21 3 36 250 80 7 2 1 6 52 4 2 57 8 .283 .363 .616 .978
1987 123 489 433 80 133 17 3 34 258 95 7 2 0 7 44 6 5 61 11 .307 .372 .596 .968
1988 126 529 467 79 140 24 1 31 259 81 5 6 0 0 61 6 1 63 14 .300 .382 .555 .936
1989 114 459 395 60 103 22 0 25 200 74 3 3 0 2 60 4 2 68 6 .261 .359 .506 .866
1990 103 425 366 58 111 17 1 20 190 68 6 4 0 4 52 3 3 64 4 .303 .391 .519 .910
1991 127 524 455 66 122 13 1 29 224 86 5 3 0 12 55 1 2 82 7 .268 .342 .492 .834
1992 117 493 437 61 119 17 1 28 222 77 4 3 0 3 46 1 7 71 13 .272 .349 .508 .857
1993 98 387 336 28 77 14 0 11 124 44 3 2 0 3 44 1 4 62 9 .229 .323 .369 .692
1994 67 227 200 26 58 4 1 14 106 36 0 2 2 1 22 1 2 21 5 .290 .364 .530 .894
1995 70 160 144 13 29 8 0 6 55 15 2 1 1 1 13 1 1 29 5 .201 .270 .382 .652
通算:15年 1697 6844 6012 931 1675 273 25 382 3144 1093 82 50 7 70 705 38 50 894 122 .279 .355 .523 .878
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

リーグ公式戦
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2002年 巨人 1位 140 86 52 2 .623 - 186 .272 3.04 44歳
2003年 3位 140 71 66 3 .518 15.5 205 .262 4.43 45歳
2006年 4位 146 65 79 2 .451 23.5 134 .251 3.65 48歳
2007年 1位 144 80 63 1 .559 - 191 .276 3.58 49歳
2008年 1位 144 84 57 3 .596 - 177 .266 3.37 50歳
2009年 1位 144 89 46 9 .659 - 182 .275 2.94 51歳
2010年 3位 144 79 64 1 .552 1.0 226 .266 3.89 52歳
2011年 3位 144 71 62 11 .534 3.5 108 .243 2.61 53歳
2012年 1位 144 86 43 15 .667 - 94 .256 2.16 54歳
2013年 1位 144 84 53 7 .613 - 145 .262 3.21 55歳
通算:10年 1434 795 585 54 .576 Aクラス9回、Bクラス1回
※1 太字は日本一
※2 2002年から2004年までは140試合制
※3 2005年から2006年までは146試合制
※4 2007年から144試合制
ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2002年 巨人 日本シリーズ 西武ライオンズパ・リーグ1位) 4勝0敗=日本一
2007年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

2ndステージ(※5)
中日ドラゴンズセ・リーグ2位) 0勝3敗=敗退
2008年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

2ndステージ(※6)
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 3勝1敗1引分=日本シリーズ進出
(※7)
日本シリーズ 埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 3勝4敗=敗退
2009年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

2ndステージ(※6)
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 4勝1敗=日本シリーズ進出
(※8)
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) 4勝2敗=日本一
2010年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

1stステージ
阪神タイガース(セ・リーグ2位) 2勝0敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ
クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ1位) 1勝4敗=敗退
(※9)
2011年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

1stステージ
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位) 1勝2敗=敗退
2012年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

ファイナルステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 4勝3敗=日本シリーズ進出
(※8)
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) 4勝2敗=日本一
2013年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

ファイナルステージ
広島東洋カープ(セ・リーグ3位) 4勝0敗=日本シリーズ進出
(※8)
日本シリーズ 東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ1位) 3勝4敗=敗退
※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※5 2007年のクライマックスシリーズ2ndステージは5試合制で先に3勝したチームの優勝、リーグ優勝チームにアドバンテージなし
※6 2008年以降のクライマックスシリーズ2ndステージ(2010年以降ファイナルステージ)は6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※7 アドバンテージの1勝を含む。3勝で優勝となったのは、引き分け試合で勝利数が同数になる場合は上位チームの優勝となる規定による
※8 アドバンテージの1勝を含む
※9 4敗の中に相手チームのアドバンテージの1勝を含む。
WBC 国・地域別対抗野球大会

2009年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック第2回大会では、監督として日本チームを大会2連覇に導く。

年度 大会名 チーム名 勝敗
2009年 第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) 日本代表 優勝

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1984年7月3日、対ヤクルトスワローズ12回戦(明治神宮野球場)、4回表に中本茂樹から左中間へソロ ※史上131人目
  • 150本塁打:1986年4月12日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、2回表にリチャード・ゲイルから左越3ラン ※史上79人目
  • 200本塁打:1987年6月23日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、9回裏に中西清起から左越2ラン ※史上53人目
  • 1000本安打:1988年7月13日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、9回表に尾花高夫から左前安打 ※史上153人目
  • 1000試合出場:1988年10月2日、対ヤクルトスワローズ25回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上280人目
  • 250本塁打:1989年4月8日、対ヤクルトスワローズ1回戦(東京ドーム)、1回裏に尾花高夫から左越2ラン ※史上28人目
  • 300本塁打:1991年5月2日、対阪神タイガース5回戦(東京ドーム)、5回裏に高村洋介から左越3ラン ※史上20人目
  • 1500本安打:1992年9月12日、対広島東洋カープ23回戦(東京ドーム)、7回裏に望月秀通から中前安打 ※史上66人目
  • 350本塁打:1992年9月25日、対中日ドラゴンズ24回戦(東京ドーム)、6回裏に今中慎二から左越2ラン ※史上15人目
  • 1000打点:1993年4月29日、対横浜ベイスターズ4回戦(横浜スタジアム)、4回表に齋藤隆から中前適時打 ※史上22人目
  • 1500試合出場:1993年6月1日、対横浜ベイスターズ7回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上106人目
  • 3000塁打:1994年6月26日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、1回表に加藤将斗から中前2点適時二塁打 ※史上32人目
その他の記録
  • 1イニング2本塁打:1985年5月12日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(横浜スタジアム)、8回表先頭で門田富昭から左越ソロ、2死2塁で久保文雄から左越2ラン ※史上10人目(12度目)[33] 
  • オールスターゲーム出場:11回 (1981年 - 1988年、1990年 - 1992年)
  • 監督通算500勝:2010年5月13日、対埼玉西武ライオンズ2回戦(東京ドーム)、9-1で勝利 ※史上26人目(巨人では5人目)
  • 監督通算700勝:2012年9月12日、対広島東洋カープ20回戦(東京ドーム)、5-0で勝利 ※史上18人目(巨人では4人目)

背番号[編集]

  • 8 (1981年 - 1995年)
  • 80 (1999年 - 2001年)
  • 83 (2002年 - 2003年、2009年WBC)
  • 88 (2006年 - )

関連情報[編集]

ディスコグラフィ[編集]

※特記ない限り、レコード盤として発売。

  • どこまでも愛(1982年発売)オリコン最高85位、売り上げ1万1000枚[34]。B面のタイトル「サム」は愛犬の名。
  • ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし) - 岡田彰布、高橋慶彦、宇野勝、遠藤一彦、荒木大輔と共にコーラス参加。
  • サムシング(アルバム、1995年にCDで再発)

著書[編集]

写真集[編集]

  • 打ちまくれ!原辰徳―巨人の四番は男の勲章だ(1982年・講談社)ISBN 4061444123
  • 原辰徳写真集(1982年・双葉社)

出演[編集]

テレビorラジオ

テレビ

  • サンデースポーツ(NHK総合テレビ) - キャスター
  • ふたりっ子(1996年。NHK) - 「読売ジャイアンツ監督・原辰徳」として出演。
  • ドリーム☆アゲイン(2007年。日本テレビ) - 読売ジャイアンツ監督役 ※他に出演したエキストラとは違い、台詞があった。

ラジオ

  • 原辰徳のいきいきトーク(2004年4月 - 2005年12月。TBSラジオ)[6]

CM

脚注[編集]

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  1. ^ a b c プロ野球カラー名鑑 2008. ベースボール・マガジン社. (2008). pp. 11. ISBN 978-4-583-61526-4. 
  2. ^ 原辰徳asahi.com(朝日新聞社)トピックス 2013年9月17日閲覧
  3. ^ インターネットの事典サイト『コトバンク』より、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』の解説では「福岡県出身」だが、『知恵蔵mini』では「神奈川県出身」となっている。
  4. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑』2004年・2005年版の解説者名鑑では、出身地の項に「福岡県大牟田市-神奈川県相模原市」と記載。
  5. ^ a b 名将に学ぶリーダーシップ論──原 辰徳(読売ジャイアンツ監督)2013年5月7日 GQJAPAN
  6. ^ a b c d 参考:『原辰徳のいきいきトーク』番組公式サイト(インターネット・アーカイブ保存キャッシュ)
  7. ^ 炭鉱町に咲いた原貢野球―三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡(澤宮優著、現代書館発行、2004年)
  8. ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、26-27頁。
  9. ^ 中学卒業間近に、原は体育の授業(サッカー?)で左足首を複雑骨折した。診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。怪我の状態は深刻で、最悪の場合歩行困難あるいは重い後遺症が残ると思われ、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘ってリハビリ回復に成功し、幸いにも野球は続けられたが、後年のアキレス腱の悪化に間接的に繋がった。
  10. ^ 当時の原は練習帰りに団地の公園で森村の長男の遊び相手をしていた。森村は当時の2人の姿を覚えており、「面倒見のいい辰徳君に感謝しています」と語っている(原巨人、伝説を作った サンケイスポーツ 2008年10月11日閲覧)
  11. ^ 1974年の夏の甲子園、準々決勝で原辰徳の東海大学付属相模高等学校と定岡正二の鹿児島実業高等学校が対戦し、延長15回の熱闘となってNHKが試合中継を途中で打ち切ったために、視聴者から苦情が殺到する一幕があった(全国高等学校野球選手権大会#テレビ・ラジオ中継#NHKでの中継の項参照)。この一戦が原辰徳の名が全国に知られるきっかけとなった。また原が巨人に入団した際、『月刊ジャイアンツ』誌上にて既にチームの先輩であった定岡との対談が組まれている。
  12. ^ 東海大が「完全」 原、ベスト10入れず 読売新聞 1977年10月25日 朝刊17ページ
  13. ^ 大学時代の全日本代表で共にクリーンアップを担っていた時から付き合いがあり、プライベートではお互いに携帯でメールでやり取りするほどの仲である。2008年に岡田が監督を辞任した時に「“岡田さん、辞めないでください”と原からメールが来た」と岡田がコメントしたことがある。2008年11月16日放送『SUPERうるぐす』の「独占告白 阪神 岡田前監督 辞任の真相」より。
  14. ^ しかし原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。
  15. ^ 2002年秋発売の週刊誌より[要文献特定詳細情報]
  16. ^ Number、2002年10月10日号、P.132
  17. ^ 第一次政権の日本一に大きく貢献したのが、ヘッドコーチ・鹿取義隆の中6日を崩さない先発ローテーションであった。工藤公康や桑田真澄などのベテランを有効に使い、選手の能力を十二分に発揮させた。翌年は一転、深刻な投壊状態に陥った。
  18. ^ 代打桑田の理由に関しては公式HPの2002年6月22日の日記に論理的な判断(左打者の岡島に左対左でバントさせるよりも右打者の代打を起用したかったため、清原は送りバントを想定している打者ではないことと足が遅いことで併殺の恐れがあるため、村田は捕手・阿部が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要員であることと代打清原が出塁した後の代走を想定していたため)を掲載しているが、「野手を信頼していないから投手の桑田を代打起用した訳ではなく、残っている野手の分野を考えた」「奇策に奇策を重ねるような戦い、森祇晶監督に対して礼を逸した戦いぶりだった」と原本人はあまり評価をしていない。
  19. ^ EandB - COLUMN-tigers5
  20. ^ 参考…ラジオ東京スピリッツ(TBSラジオ開局60周年記念特設サイト)より配信された、『原辰徳のいきいきトーク』放送当時の番組表PDFファイル。ファンケルが単独スポンサーに付き、タイトルは『ファンケル 原辰徳のいきいきトーク』となっていることが明記。
  21. ^ (株)ベースボールマガジン社刊『週刊ベースボール』2009年10月26日号「特集 原巨人、3連覇!」では岡田彰布(90 - 91ページ)、豊田泰光(52 - 53ページ)、水野雄仁(28 - 29ページ)が賛辞のコメントを寄せている。
  22. ^ Italy's Fraccari elected IBAF president
  23. ^ http://daily.co.jp/baseball/wbc/2013/03/19/0005825242.shtml
  24. ^ 朝日新聞東京本社版、1988年9月5日付朝刊25面
  25. ^ 日韓クラブチャンピオンシップは事実上、アジアシリーズの代替大会であるが、記録は別大会として扱われている。
  26. ^ 原監督が久保にケリ2発!虎・浜中に被弾し“一発退場”2006年3月13日 SANSPO.COM
  27. ^ 原監督「頭をなでなでしただけ」村田&長野に直接指導2013年5月22日 報知新聞社
  28. ^ 主に「何かの問題を全て原の責任に仕立て上げる」「原が誰々を嫌っている(またはその逆)」といったような話を好んで掲載しており、一例をあげると、2009年極度の打撃不振から李承燁を二軍落ちさせたが、当時球団代表だった清武英利が「原監督が李の扱いのためにかなりストレスを受けていた」と明かした話がその年の夕刊フジに掲載されているが、夕刊フジは『韓国内からは「原監督は李が嫌いなのか」などの問い合わせが相次いだという』と併記している(G李2軍調整の波紋…韓国で原やり玉「嫌われた」『zakzak』2009年7月17日更新、18日閲覧)。
  29. ^ 同社広告では「アドバイザー」と表記。
  30. ^ 「夢は米ゴルフツアー参加だった」 50歳を迎えた巨人・原監督
  31. ^ 東京スポーツ・2009年12月2日付 2面
  32. ^ 2010年に自身が出版した自伝による内容。[要文献特定詳細情報]
  33. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ
  34. ^ 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目 - 『ZAKZAK』2005年10月配信分(インターネット・アーカイブ2005年10月23日付保存キャッシュ)
  35. ^ a b c d 外部リンク『オリコン芸能人事典』内「原辰徳」より、「ヒストリー」を参照。

参考資料[編集]

  • 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ
    • 12球団全選手カラー百科名鑑2004(『ホームラン』2004年3月号増刊。2004年3月31日発行、日本スポーツ出版社
    • 12球団全選手カラー百科名鑑2005(『ホームラン』2005年3月号増刊。2005年3月31日発行、日本スポーツ出版社)
  • 各種外部リンク

関連項目[編集]

外部リンク[編集]