二岡智宏
| 北海道日本ハムファイターズ #23 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 広島県三次市 |
| 生年月日 | 1976年4月29日(35歳) |
| 身長 体重 |
180cm 81kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 遊撃手、三塁手、一塁手 |
| プロ入り | 1998年 ドラフト2位(逆指名) |
| 初出場 | 1999年4月2日 |
| 年俸 | 7,200万円(2011年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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二岡 智宏(におか ともひろ、1976年4月29日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(内野手)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
広島県三次市出身。同じプロ野球選手の福原忍と小学校から高校(広陵高等学校)まで同窓であり、中学校までは福原ではなく二岡がエースだった。
1993年(広陵高校2年生時)の秋、翌春の選抜高校野球大会の実質的な予選となる広島県秋季大会に選手として出場。10月2日に行われた同大会の準決勝を応援に向かった両親が交通事故に遭う。二岡は準決勝戦の終了後に、母親は無事だったが父親が意識不明であることを知らされる。当日夜は病院で父に付き添い、10月3日の決勝戦へ臨むこととなった。決勝戦は広島商業と対戦し9回裏二死まで8 - 0とリード、福原が完封目前だったが中井哲之監督の配慮で二岡が登板、3球三振で試合を決めた。父親は10月7日に他界。この経験からプロ入り後、親が交通事故に遭った小・中学生を試合に招待する活動を行うことになる(後述)。
1994年(同高校3年生時)には福原との二枚エース兼三塁手のレギュラーとなる。この年の広陵高校は高校野球大会広島県予選の優勝候補筆頭であったが、新井貴浩のいた広島工業高校に敗れた。高校卒業時にプロからの誘いもあったが、元々進学希望であったのでこれを断り、近畿大学に進学した。なお、実兄も広陵高校野球部に所属し、1991年の第63回選抜高等学校野球大会の優勝メンバーだった。
大学では1年生時からレギュラーとなり、7期連続ベストナイン、リーグ通算歴代1位の13本塁打、歴代2位の通算112安打を記録し、藤井彰人らと共に大学日本一など多くのタイトルを獲得。1997年には春・秋のリーグ戦、大学選手権、明治神宮野球大会、社会人選手権優勝チームとのアマ王座決定戦の全てで優勝し、史上初のアマチュア五冠達成の原動力となった。同年8月にはIBAFインターコンチネンタルカップに日本代表として出場、優勝メンバーの一員となる。
1998年には、二岡の獲得を巡って地元球団の広島東洋カープのほか、阪神タイガース、読売ジャイアンツ(巨人)が争うこととなった。広島は地元出身の二岡を高校時代から評価しており、希望入団枠制度枠で二岡以外の選手獲得には動かない姿勢を見せた。阪神は二岡が地元関西の近畿大学在学とあって、春先に1位指名を表明。この後松坂大輔指名にも動いたが断念し、再度二岡指名を表明した。だが最終的には二岡は、ドラフト直前になって一気に巻き返した巨人(上原浩治の1位指名を予定していたため、2位指名が確実だった)を逆指名した。この選択は広島への入団を期待していた地元からの反感を買い、批判があった。入団経緯に関して二岡の母は、本人が「自分では決められない、くじで決めたいぐらいだ」と言うほど悩んでいたこと、「広島を拒否」などと身に覚えのない発言や契約金を巡った憶測を記事にする報道に対して本人がそれまでに見たことないほど怒っていたこと、広島をひっそりと出発せざるを得ず「何も悪い事をしていないのに」と複雑な気持ちだったことを自著[1]の中で明かしている。
一方、広島スカウトの宮本洋二郎は、近畿大学在学中の4年間、常に二岡を目をかけ、全日本代表に選ばれた際にはオランダ・イタリアまで遠征、広島に来てくれるという確かな感触を掴んでいたという。ところがドラフト直前に巨人が猛攻勢を仕掛け立場が逆転してしまった。入団断りの連絡が大学関係者から広島球団に入った際、宮本は「二岡自身の言葉で入団断りの連絡を伝えて欲しい、それを聞くまでは下がれません」と突っぱねた。しかし宮本が二岡本人の言葉を聞くことは最後まで無かった[2]。
[編集] 巨人時代
ルーキーイヤーの1999年、長期にわたり巨人の遊撃手のレギュラーだった川相昌弘からポジションを奪取。126試合に出場し打率.289、18本塁打の成績を残した。例年ならば新人王に選ばれても決しておかしくない活躍だったが、同期入団で投手主要タイトルを総ナメにしていた上原浩治が新人王に選出された。
2000年はシーズン序盤から右手親指の故障に苦しみ、118試合に出場したものの規定打席には大きく届かなかったが、シーズン後半には優勝争いをしていたチームに復帰し、7月16日の対ヤクルト戦でサヨナラ本塁打を打ったほか、9月24日の対中日戦では巨人のセントラル・リーグ優勝を決めるサヨナラ本塁打を打った。
2001年は開幕直後から陥ったスランプと7月19日の対阪神戦で負った左手有鈎骨骨折で苦しみ、86試合出場に留まったが、2002年には二番打者として定着、112試合に出場し、巨人の遊撃手としては初の20本塁打以上となる24本塁打を放った。同年秋の西武との日本シリーズでは、シリーズ史上初の3戦連続猛打賞、第1戦の第2打席から第2戦の第2打席まで5打席連続安打(1977年の土井正三と並んで日本シリーズ歴代3位、球団タイ記録)、第3戦では満塁本塁打を放つなど4試合通算で19打数9安打(打率.474)、打点5の成績を残し、日本シリーズMVPに輝いた。
2003年は、5月15日の対横浜戦で自身初の1試合3本塁打を記録。チーム内に故障者が多発する中、自身初の全試合出場を果たし、初の打率3割、自己最多の29本塁打、67打点、14盗塁を記録してベストナインを受賞した。だが、2004年の春季キャンプ中の紅白戦で左足を故障してしまう。故障者続出のチーム事情から調整不十分での出場を余儀なくされ、91試合に出場したが打撃成績は大きく低下する。また、この年より、交通事故で親が死亡或いは重い障害を負った小、中学生を試合に招待する『二岡ボックス』の実施を始めた。
2005年は開幕から40試合本塁打がなく、シーズン初本塁打は対ソフトバンク戦(福岡ヤフードーム)で打ったランニング本塁打だった。8月12日の対阪神戦で打ったサヨナラ本塁打により、同一リーグの対戦球団全てからサヨナラ本塁打を記録。8月30日から9月29日まで22試合連続試合安打を記録するなど安打を量産し、自己最高打率を更新(.301)した。オフの12月18日、フリーアナウンサーの用稲千春と結婚した。
2006年4月30日の対中日戦で日本プロ野球初の2打席連続満塁本塁打を含む3本塁打10打点を挙げた(#記録)[3]。6月8日の対ソフトバンク戦で球団第71代目の四番打者として先発出場。巨人の生え抜き選手での四番打者は高橋由伸以来7年ぶりであり、巨人の「四番・遊撃手」は1961年の長嶋茂雄以来35年ぶりであった。その後も安定した成績を残し、終盤に膝痛を発症しながらも試合に出場し続け、Bクラスに低迷するチームで唯一全試合出場と気を吐いた。翌2007年は、開幕戦こそ怪我で欠場したものの、4月1日の対横浜戦でシーズン初出場。自己最多となる83打点を挙げた。
2008年、高橋に代わり第15代目巨人軍選手会長に就任。同年の開幕戦に出場するものの、試合中に右ふくらはぎを肉離れし、翌日より二軍調整。約4ヶ月後の7月20日の横浜戦で一軍復帰するまでの間に正遊撃手の座を坂本勇人に奪われていたため、三塁手にコンバートされたが、9月14日に右足首を捻挫して再び二軍落ち、ポストシーズンに出場することなくそのままシーズンを終えた。11月14日、マイケル中村・工藤隆人との交換トレードで林昌範と共に日本ハムへ移籍。なお、「選手会長の任期1年での解任」と「選手会長がトレードに出されたこと」は、共に球団史上初めての事だった。
[編集] 日本ハム時代
2008年11月25日に札幌市内で入団会見を行った。背番号は「(巨人時代の)7以外なら何でもいい」という本人の要望により23となった。
2009年の春季キャンプでは足の故障の影響で中盤から別メニューで調整し、終了後も二軍調整していたが、オープン戦期間中に一軍復帰。3月14日に行われた中日戦(札幌ドーム)で試合途中に移籍後初出場。3月17日の巨人戦(東京ドーム)では移籍後初安打を放った。シーズンが始まると、4月4日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)で移籍後シーズン初安打を、4月7日の千葉ロッテマリーンズ戦(東京ドーム)で移籍後初本塁打を打った。この年は自身初となるDH枠でオールスターゲームのファン投票で出場した。代打としても21回起用され、代打での打率は.400(20打数8安打)だった。
2010年5月19日の巨人戦(札幌ドーム)でディッキー・ゴンザレスから本塁打を打ったことで、セ・パ12球団全てからの本塁打を記録した。また、2年連続DH枠でオールスターゲームに出場した。シーズン10月19日に痛めていた、右ひじの手術を行った[4]。
2011年5月7日の試合で勝ち越しのホームランを放ち、ヒーローインタビューを受けた際に同じくホームランを打った中田翔に対して「中田の品のないホームランよりは、僕のほうが品があったんじゃないかと思います。」と洒落で札幌ドームの日ハムファンの笑いを誘った。シーズンを通しては様々な故障を抱えていることや、稲葉篤紀やマイカ・ホフパワーがDHで使われるようになったことなどがあり、出場数が減ることとなり、主にここぞの場面の右の代打での出場が主となった。
[編集] 人物・プレースタイル
グラウンドや打席ではポーカーフェイスを貫いている。これは中学・高校時代の「野球選手はグラウンドで歯を見せるな」という教えを守っているためであるという[3]。
[編集] 打撃
細身だが柔軟な手首を利かした打撃で右翼方向へ大きな打球を飛ばすことができる。巨人時代には「ミスター右中間」の異名をとった。日本代表監督星野仙一(当時)からも右打者で右翼方向に本塁打が打てる数少ない打者と評価され、北京五輪予選の代表の第一次選考にも選ばれた。
ルーキーイヤーから2007年まではコンスタントに2割8分20本塁打を記録する遊撃手だった。当時巨人の監督だった長嶋茂雄はその身体能力、潜在能力の高さを見抜き「いつか三番打者を打ち、3割・30本塁打・30盗塁を記録する」と発言し、原辰徳監督にも将来の主軸として期待された選手のひとりであった。
日本ハムに移籍してからは、打席に立つ際には状況に応じて、右打ちに加え犠打も積極的に行うようになるなど、チームバッティングを優先する形をとっている。
[編集] 守備
プロ入り後のキャリア初期においては、遊撃手として俊足と強肩を生かした守備を見せ、巨人不動の遊撃手となるまでに成長した。しかし、下半身の度重なる故障により徐々にスピードも衰え、守備範囲が狭くなっていった。2008年、二岡と同じ遊撃手である坂本勇人が頭角を現して一軍に昇格したが、既述の通り不動の遊撃手であった二岡からポジションを奪取するまでには至らず、空きのあった二塁手として出場した。しかし、すぐ後に二岡が肉離れにより二軍調整を余儀なくされると、それを埋めるために坂本が遊撃手を担い、その後二岡が再び一軍に戻ってきた頃には原監督の信頼を得、既に定着してしまっていた。そのため、二岡の方が他の守備位置に転向せざるを得なくなった。二岡は三塁手に転向(当時小笠原道大が既に在籍していたが、このシーズンは主に本業である一塁手として出場した)したが、当初は不慣れであるために失策が多かった。しかし持ち前のセンスと練習により技術の向上が見られた。
日本ハムでは足の爆弾を考慮され、指名打者としての出場がほとんどである。ただし、内野の主力選手(金子誠、小谷野栄一など)がスタメン落ちなどした場合の代役として遊撃手、三塁手の守備に就くこともある。また、2010年にはこれらに加えて高橋信二、稲葉篤紀などの故障から、一塁手にコンバート。そのため、DHと兼ねて一塁手としての出場も増えた。
[編集] 「二岡ボックス」
2003年オフに、それまで個人シートを設置していた川相昌弘が中日ドラゴンズへ移籍したこと、打率.300、29本塁打の好成績、ベストナイン受賞、年俸1億円突破などの功績で主力選手と認められたことで、2004年シーズンより二岡の自費で観客を招く『二岡ボックス』の設置が球団から許可された。この二岡ボックスは、本人の「交通事故によって(親を失った)自分と同じような境遇にある子どもたちに僕のプレーを見てもらいたい」という希望により、交通事故で親が死亡ないし重い後遺症を背負った小・中学生を対象に、東京ドームで開かれる読売ジャイアンツ主催のプロ野球公式戦の全試合に、各試合4人ずつを招待する(チケット並びに交通費など観戦費用の補助も含む)為の席として設けられた。
二岡ボックスの実施により、2004年11月には、独立行政法人自動車事故対策機構から感謝状を贈呈されている。
[編集] 不倫スキャンダル
2008年7月6日に、山本モナと共に東京都品川区五反田のラブホテル街に出入りしていた、という記事が、2008年(平成20年)7月10日発売の女性週刊誌『女性セブン』に、写真付きで不倫スキャンダルとして掲載された。この年の二岡は開幕直後に怪我で二軍落ちしており、復帰直前と目されていた最中の出来事だった。この一件で二岡の一軍復帰も急遽見送られ、直後に読売ジャイアンツ球場で行われたイースタン・リーグの試合では、球場にいたファンから、激しいブーイングを浴びる事態も起きた。
[編集] 慈善活動
2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の義援金として日本赤十字社を通じ200万円を寄付した[5]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999 | 巨人 | 126 | 462 | 418 | 49 | 121 | 14 | 0 | 18 | 189 | 51 | 8 | 2 | 6 | 3 | 33 | 0 | 2 | 92 | 7 | .289 | .342 | .452 | .794 |
| 2000 | 119 | 335 | 298 | 35 | 79 | 10 | 0 | 10 | 119 | 32 | 9 | 5 | 9 | 1 | 23 | 2 | 4 | 57 | 5 | .265 | .325 | .399 | .724 | |
| 2001 | 86 | 265 | 240 | 35 | 56 | 9 | 1 | 5 | 82 | 23 | 10 | 4 | 10 | 0 | 13 | 0 | 2 | 44 | 1 | .233 | .278 | .342 | .620 | |
| 2002 | 112 | 444 | 398 | 64 | 112 | 21 | 1 | 24 | 207 | 67 | 3 | 2 | 16 | 1 | 27 | 0 | 2 | 79 | 7 | .281 | .329 | .520 | .850 | |
| 2003 | 140 | 624 | 573 | 88 | 172 | 18 | 1 | 29 | 279 | 67 | 14 | 8 | 14 | 3 | 31 | 2 | 3 | 92 | 12 | .300 | .338 | .487 | .825 | |
| 2004 | 91 | 360 | 327 | 27 | 88 | 10 | 0 | 9 | 125 | 49 | 0 | 0 | 1 | 1 | 25 | 2 | 6 | 72 | 7 | .269 | .331 | .382 | .714 | |
| 2005 | 139 | 593 | 539 | 64 | 162 | 25 | 0 | 16 | 235 | 58 | 3 | 0 | 5 | 3 | 37 | 1 | 9 | 79 | 13 | .301 | .354 | .436 | .790 | |
| 2006 | 146 | 598 | 551 | 67 | 159 | 26 | 0 | 25 | 260 | 79 | 0 | 1 | 6 | 5 | 30 | 1 | 6 | 113 | 15 | .289 | .329 | .472 | .801 | |
| 2007 | 139 | 562 | 508 | 68 | 150 | 22 | 0 | 20 | 232 | 83 | 1 | 2 | 10 | 3 | 34 | 2 | 7 | 91 | 15 | .295 | .346 | .457 | .803 | |
| 2008 | 31 | 98 | 86 | 7 | 24 | 3 | 0 | 1 | 30 | 7 | 0 | 2 | 1 | 1 | 9 | 0 | 1 | 24 | 0 | .279 | .351 | .349 | .699 | |
| 2009 | 日本ハム | 69 | 187 | 170 | 25 | 43 | 5 | 0 | 4 | 60 | 25 | 0 | 1 | 2 | 2 | 10 | 0 | 3 | 36 | 5 | .253 | .303 | .353 | .656 |
| 2010 | 103 | 355 | 328 | 26 | 86 | 15 | 0 | 7 | 122 | 47 | 0 | 0 | 5 | 3 | 18 | 0 | 1 | 59 | 8 | .262 | .300 | .372 | .672 | |
| 2011 | 55 | 117 | 103 | 12 | 29 | 2 | 0 | 3 | 40 | 14 | 0 | 0 | 1 | 0 | 13 | 1 | 0 | 22 | 2 | .282 | .362 | .388 | .750 | |
| 通算:13年 | 1356 | 5000 | 4539 | 567 | 1281 | 180 | 3 | 171 | 1980 | 602 | 48 | 27 | 86 | 26 | 303 | 11 | 46 | 860 | 97 | .282 | .332 | .436 | .768 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 年度別守備成績
| 年 度 |
一塁 | 三塁 | 遊撃 | 外野 | ||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 1999 | - | - | 120 | 149 | 326 | 9 | 63 | .981 | - | |||||||||||||||
| 2000 | - | - | 117 | 130 | 213 | 7 | 36 | .980 | - | |||||||||||||||
| 2001 | - | - | 80 | 98 | 175 | 7 | 30 | .975 | - | |||||||||||||||
| 2002 | - | - | 105 | 109 | 261 | 5 | 40 | .987 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||||||
| 2003 | - | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 140 | 197 | 384 | 12 | 59 | .980 | - | ||||||||||
| 2004 | - | - | 91 | 129 | 237 | 7 | 41 | .981 | - | |||||||||||||||
| 2005 | - | - | 139 | 167 | 409 | 12 | 64 | .980 | - | |||||||||||||||
| 2006 | - | 6 | 1 | 3 | 1 | 0 | .800 | 144 | 167 | 400 | 7 | 69 | .988 | - | ||||||||||
| 2007 | - | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 139 | 168 | 421 | 9 | 71 | .985 | - | ||||||||||
| 2008 | - | 25 | 12 | 52 | 6 | 2 | .914 | 1 | 2 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | - | ||||||||||
| 2009 | - | 10 | 1 | 11 | 0 | 1 | 1.000 | 8 | 14 | 17 | 0 | 4 | 1.000 | - | ||||||||||
| 2010 | 17 | 133 | 10 | 1 | 9 | .993 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | 5 | 10 | 20 | 0 | 7 | 1.000 | - | |||||
| 通算 | 17 | 133 | 10 | 1 | 9 | .993 | 49 | 17 | 68 | 7 | 3 | .924 | 1089 | 1340 | 2865 | 73 | 485 | .983 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
[編集] 表彰
[編集] 記録
- 初記録
- 初出場:1999年4月2日、対阪神タイガース1回戦(東京ドーム) - 遊撃手として途中出場
- 初先発出場:1999年4月3日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム) - 七番・遊撃手
- 初安打:同上 - 投手:川尻哲郎
- 初本塁打・初打点:1999年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム) - 投手:黒田博樹
- 通算記録
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:7回(1999年、2000年、2003年、2004年、2006年、2009年、2010年)
- 2打席連続満塁本塁打:2006年4月30日、対中日ドラゴンズ6回戦(東京ドーム)の第三打席(4回裏)、第四打席(5回裏)で記録。相手投手はそれぞれ石井裕也、クラウディオ・ガルバ。2010年シーズン終了現在、日本プロ野球史上唯一。1試合2満塁本塁打はプロ野球史上2例目で、1951年10月5日の飯島滋弥(大映スターズ)と並び史上最多、セ・リーグでは初。
- 1試合10打点:2006年4月30日 ※セ・リーグ最多タイ。1985年8月10日のレオン・リー(横浜大洋ホエールズ)、1999年7月22日のロバート・ローズ(横浜ベイスターズ)、同8月12日の江藤智(広島東洋カープ)と並ぶ。プロ野球記録は飯島滋弥の1試合11打点(1951年10月5日)。
- 12球団から本塁打:2010年5月19日、対読売ジャイアンツ2回戦(札幌ドーム)でディッキー・ゴンザレスから本塁打を打ったことで達成。 ※史上18人目
| # | 日付 | 対戦球団 | 球場 | 相手投手 | 通算本数 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1999年4月14日 | 広島東洋カープ | 東京ドーム | 黒田博樹 | 1 |
| 2 | 4月24日 | 横浜ベイスターズ | 東京ドーム | 阿波野秀幸 | 2 |
| 3 | 5月7日 | ヤクルトスワローズ | 東京ドーム | 川崎憲次郎 | 3 |
| 4 | 5月30日 | 阪神タイガース | 東京ドーム | 藪恵壹 | 5 |
| 5 | 6月2日 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 門倉健 | 6 |
| 6 | 2005年5月19日 | 福岡ソフトバンクホークス | 福岡Yahoo! JAPANドーム | 星野順治 | 96 |
| 7 | 5月21日 | 北海道日本ハムファイターズ | 東京ドーム | 矢野諭 | 97 |
| 8 | 5月26日 | 千葉ロッテマリーンズ | 東京ドーム | 小林雅英 | 98 |
| 9 | 2006年5月21日 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | フルキャストスタジアム宮城 | 青山浩二 | 120 |
| 10 | 6月14日 | オリックス・バファローズ | 東京ドーム | 吉井理人 | 123 |
| 11 | 2007年6月2日 | 西武ライオンズ | グッドウィルドーム | 山崎敏 | 144 |
| 12 | 2010年5月19日 | 読売ジャイアンツ | 札幌ドーム | ディッキー・ゴンザレス | 165 |
[編集] 背番号
- 7 (1999年 - 2008年)
- 23 (2009年 - )
[編集] 登場曲
[編集] 参考文献
- ^ 『青い空を見上げて-読売ジャイアンツ二岡智宏』
- ^ 『野球小僧』2011年6月号 89ページより
- ^ a b 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.90
- ^ 北海道日本ハムファイターズ ニュース
- ^ “二岡智宏選手 義援金寄付について”. 北海道日本ハムファイターズ. (2011年3月20日) 2011年3月21日閲覧。
- ^ 東京ドームMVP賞 - 東京ドームシティ公式サイトより
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 二岡ボックスの実施について(読売ジャイアンツ)
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