宮本慎也

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宮本 慎也
東京ヤクルトスワローズ 選手兼任コーチ #6
Miyamoto Shinya in 2010.08.08.JPG
2010年8月8日 横浜スタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府吹田市
生年月日 1970年11月5日(41歳)
身長
体重
176cm
82kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手遊撃手二塁手
プロ入り 1994年 ドラフト2位
初出場 1995年4月11日
年俸 2億円+出来高(2012年)
※2011年から2年契約(年俸変動制)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2009 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年2008年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

宮本 慎也(みやもと しんや、1970年11月5日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手内野手)。元日本プロ野球選手会会長

目次

[編集] 経歴

[編集] アマチュア時代

小学3年の時に軟式野球チームに入る。この頃、生まれて初めてプロ野球関係者から野球を教わり、そのとき宮本にコーチをしていたのが阪神タイガースでかつて牛若丸と呼ばれたかの名遊撃手・吉田義男である。宮本が遊撃手にこだわるようになったのは吉田との当時の出会いが大きく影響しており、本人は今でも吉田から教わった遊撃手としての心得をしっかり守っているという。更に、ヤクルト入団後は同じく名遊撃手の大橋穣守備コーチと出会っている。4年の時に5年のチームに抜擢され、5年から投手を務める。宮本は父親が長嶋茂雄の大ファンだった影響もあり、卒業文集には「将来の夢はプロ野球選手で巨人に入りたい」と書いていた。

中学ではシニアリーグのチームに入るが、練習で3球投げたところで投手は無理とみなされ内野を守ることになる。小柄だったため無理にでも食べるよう父親に言われ実行した結果、3年になって急激に身長が伸びた。二塁手として出場した全国大会では決勝で敗れたものの、そこでのプレーがPL学園関係者の目に留まり、受験を勧められる。

進学したPL学園では1学年上に立浪和義片岡篤史らがいた。体格では劣るため守備力で遊撃手のレギュラーを取ろうと考え、夜も一人で練習を続けた。その練習はボールの動きを想定したもので、ボールに向かって走り、捕って投げるという動作を繰り返した。優勝した1987年の第69回全国高等学校野球選手権大会にはチーム唯一の2年生として出場。決勝戦では三塁手として先発出場し安打も放った。3年になると大学や社会人野球チームから勧誘を受け、その中でも早くから誘われていた同志社大学に進む道を選ぶ。

関西学生リーグでは1990年春季のリーグ戦で首位打者になる。リーグ通算84試合出場、286打数89安打、打率.311、3本塁打。4年になるといくつかのプロ球団からドラフト指名の挨拶を受けるが、いずれも4位か5位での指名というものだった。同大の野口真一監督から「社会人野球で力をつけてからプロ入りしたほうが良い。一般社会での経験もプラスになる」とのアドバイスを受けプリンスホテルに入社。野球のオフシーズンにはホテル従業員としての仕事もこなした。

1994年のドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。入団から現在まで背番号「6」であるが、入団時はヤクルトスワローズ(当時)をモチーフにした映画ヒーローインタビュー(1994年、東宝)で真田広之演じる主人公の轟仁太 役が背番号「6」(球団では当時は空き番号)という設定であった映画の公開直後であった為、映画制作に関わったフジテレビのスポーツ報道では「轟の後の選手」と話題になった。

[編集] プロ入り後

ルーキーイヤーの1995年は、主に二塁手の守備固めとして出場。日本シリーズにも全試合途中出場を果たしている。1996年には池山隆寛に代わって遊撃手として出場するようになり、シーズン後半には完全に固定されたが、ヤクルトの野手陣の層の厚さから8番を務めることが多かった。1997年にはゴールデングラブ賞を受賞する。しかし同年オフ、入団時に経営コンサルタントの誘いに乗り脱税行為をしていたことが発覚、刑事告発を受ける。その後、執行猶予付きの有罪判決が下った(詳細はプロ野球脱税事件を参照のこと)。有罪判決を受けたことにより1998年は開幕から出場停止処分を受け、球団は開幕前日に代役として日本ハムファイターズから城石憲之を獲得した(交換要員は捕手の野口寿浩)。出場停止処分が明けた後はレギュラーとして出場した。

1999年から2番としての出場も多くなり、2001年には2番打者として固定され67犠打でシーズン最多犠打の日本記録を打ち立てるなど、ヤクルトの日本一に貢献。ちなみに、シーズン67犠打は世界タイ記録でもある。1999年から2003年まで5年連続でゴールデングラブ賞を受賞。臨時コーチを務めた中西太からアドバイスを受けて努力した結果、2000年には打率3割を記録した。

2004年アテネオリンピック野球日本代表では、予選より長嶋茂雄代表監督よりキャプテンの指名を受け、予選では普段守らない二塁手のポジションを危なげなくこなした。予選前のミーティングで「これは一生懸命やって負けたから仕方ないという戦いじゃない。絶対勝つんだ」とナインを鼓舞。地元開催に加え今回からメンバー全員がプロで構成され、アマチュア選手の夢を奪っていることにもなるので、負ければアマチュア球界にも顔が向けられないからと語っている。ちなみに予選突破を決めた後のシャンパンファイトでは「負けなくてよかったね」とも言っている。オリンピックでは遊撃手としての守備、走塁もさることながらチームトップの打率5割と大活躍し、長嶋ジャパンを牽引した。

2005年は1番打者に指名されるが、2番を打っていた青木宣親が台頭したため入れ替わりで2番に戻る。同年オフ、日本プロ野球選手会会長だった古田敦也選手兼任監督になったため、会長職を引き継いだ。

2006年WBC代表にも井口資仁の代表辞退後に追加選出された。出場要請は大好きなパチンコをしている最中だったという。この時の背番号は多村仁と重複のため10番をつけた。準決勝の韓国戦では代打として結果を残し、その後の守備では本職ではない三塁手として出場した(守備機会は無し)。決勝のキューバ戦ではその試合で2度失策をした川崎宗則に代わり、9回に本職である遊撃手として出場した。ただし宮本への交代は前の攻撃の回で川崎がホームへ生還した際、右ひじを痛めたためであり、失策が原因で交代したわけではない。シーズンでは開幕から好調だったものの怪我での2度の離脱により73試合出場にとどまる。契約更改での球団からの提示額は500万円増だったが、「納得したいと思って」と自ら減額を申し出る。その上で、差額の1500万円を、二軍が使用する戸田球場の傷みの目立つフェンスの改修費用に充てるように球団に要望し、了承された。

2007年は手薄な野手のリーダーとしても期待され、これまでの出塁・進塁役から、走者を返す役割を期待される事も多くなり5番や6番での出場が多くなった。その重圧にも負けず3割5本塁打の活躍。しかし、この年の巨人の優勝決定試合では巨人の一打サヨナラのチャンスにおいて清水隆行のゴロをとった後に一塁へ悪送球をしてしまい、優勝を決定させるサヨナラタイムリーエラーという大失態を犯してしまった。シーズンオフには再び日本代表のキャプテンに指名され、チーム首脳陣と選手をつなぐ重要な役割を果たした。星野仙一監督からは「成績に関係なく代表に選ぶつもりだった」と絶大な信頼を寄せられており、またナインからも監督の次に胴上げされている。契約更改では球団社長にスコアラーの増強や二軍室内練習場の早期設置などチーム強化を直訴した。

2008年はシーズン途中から三塁手にコンバートされる。北京オリンピック野球日本代表では、前回のアテネに続きキャプテンとしてチームを牽引し金メダル獲得を目指したが4位に終わり「キャプテンとして責任を感じる」と涙で敗戦の弁を語った。シーズンオフの契約更改で39歳の2010年のシーズンまで年俸2億2000万円をベースに、各年最大8000万円の出来高で合意した(金額は推定)。また将来の監督候補のため来シーズンからコーチ兼任で指導者としての第一歩を踏み始めることになった。ちなみに幅広く経験を積むために打撃や守備、走塁などの担当部門に分けず全てを指導していくこととなった[1]。コーチ就任により3年続けてきた日本プロ野球選手会会長職は同年オフ、新井貴浩に譲っている。

2009年は三塁手に固定されたが、他の選手の故障などで遊撃を守ることもあった。打順は主に6番だったが、青木宣親の不調時には様々な打順をこなした。三塁手で守備率.993を記録し、三塁手として初めてゴールデングラブ賞を受賞し、遊撃手での受賞とあわせると、7度目の受賞となった。

2010年も前年とほぼ同じ起用となった。前年に続き、2年連続で2度目の三塁手部門でのゴールデングラブ賞を受賞したが、この年は球足の速い打球やイレギュラーバウンドの処理に苦しむ場面が多く見られ、1996年以来の二桁失策を記録。守備率も.959と前年から4分近く数字を落とした。

2011年は開幕から16試合で14安打を記録し、4月の月間最多安打(22本)、最高打率(.400)を記録し、初めて月間MVPを受賞。40歳5ヶ月での初受賞はリーグ最年長記録となった[2]。133試合に出場し、打率は3年ぶりの3割となる.302を記録。41歳になる年での打率3割越えは史上4人目の記録となった[3]。守っても292回の守備機会で失策をわずか1つに抑え守備率.997を記録し、三塁手の守備率のプロ野球新記録を更新した[3]。また、自身初のベストナインと3年連続のゴールデングラブ賞を受賞(いずれも三塁手として)。40歳11ヶ月でのベストナイン受賞はセ・リーグ史上最年長[4]、ゴールデングラブ賞受賞はプロ野球史上最年長記録である[5]

[編集] プレースタイル

ヤクルト入団当初は野村克也監督から自衛隊[6]と揶揄されたが、逆にそれほど価値の高い守備技術を持っていたということで、打撃面には目をつぶり8番遊撃手を与えられた。

自分の守備範囲のボールは必ず捕る堅実な守備でゴールデングラブ賞を遊撃手部門で6回、三塁手部門で3回獲得している名手。「ファインプレーがいかにも守備でのファインプレーだったとなると、たとえアウトが取れたとしても、投手には打たれてしまった気分が残るから、難しい打球でも簡単に取っているように見えることが守備の能力として必要だ」という哲学を持つ。

打撃面では、規定打席に到達したシーズンで3回の打率3割を記録している。若手の頃は2番や8番といった打順を打っていたが、30代後半のベテランになってからクリーンナップを任されるようになった。右打ちやファールを打ってカットするのが得意であるが、四球が少なく、出塁率はさほど高くない。2002年は519打席に立ちながら、僅か9四球という少なさだった。

かつては野村監督から「バントは下手」と言われていたが、2番打者に定着してからはバントの技術も上達。2001年には川相昌弘のシーズン犠打数(66犠打)の日本記録を更新する67犠打を記録、球界屈指のバントの名手となった。

状況判断がよく、1997年の日本シリーズではドゥエイン・ホージーのグリップエンドに当たった打球でも三塁走者の宮本は迷いなくホームへ突っ込んだ。[7]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 ヤクルト 67 57 50 13 11 2 0 0 13 4 3 1 1 0 6 0 0 9 0 .220 .304 .260 .564
1996 68 270 238 27 65 8 2 1 80 13 6 0 8 1 19 1 4 39 3 .273 .336 .336 .672
1997 115 432 387 44 109 15 3 1 133 33 16 5 6 3 31 10 5 37 11 .282 .340 .344 .684
1998 114 402 368 28 95 10 1 1 110 25 5 3 6 1 24 4 3 51 4 .258 .308 .299 .607
1999 131 572 501 60 124 14 1 1 143 24 11 4 45 0 23 1 3 40 6 .248 .285 .285 .570
2000 136 536 476 39 143 24 4 3 184 55 13 5 19 5 31 10 5 49 7 .300 .346 .387 .733
2001 125 578 477 74 129 15 0 1 147 17 11 6 67 1 27 0 6 57 8 .270 .317 .308 .625
2002 114 519 464 53 135 21 1 5 173 25 6 2 40 0 9 0 4 64 5 .291 .310 .373 .683
2003 140 643 543 78 154 20 1 7 197 44 11 3 50 5 38 1 7 78 10 .284 .336 .363 .698
2004 90 390 346 52 104 12 1 11 151 26 6 1 18 0 18 0 8 69 6 .301 .349 .436 .786
2005 135 608 547 71 145 19 2 7 189 47 5 2 22 1 26 1 12 88 10 .265 .312 .346 .658
2006 73 290 270 29 82 11 1 2 101 34 3 1 5 1 8 0 6 29 10 .304 .337 .374 .711
2007 131 514 464 42 139 18 3 5 178 39 3 1 23 0 22 4 5 55 16 .300 .338 .384 .722
2008 116 482 422 47 130 11 0 3 150 32 3 3 27 2 26 0 5 52 10 .308 .354 .355 .709
2009 128 505 469 43 138 26 4 5 187 46 3 2 12 4 16 0 4 58 6 .294 .320 .399 .719
2010 129 517 468 42 129 22 2 4 167 39 2 2 18 1 27 2 3 31 10 .276 .319 .357 .675
2011 136 518 474 30 143 17 1 2 168 35 2 1 19 2 17 0 6 37 14 .302 .333 .354 .687
通算:17年 1948 7833 6964 772 1975 265 27 59 2471 538 109 42 386 25 368 34 86 843 136 .284 .326 .355 .681
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字は歴代最高

[編集] 年度別守備成績


遊撃 二塁 三塁




































1995 10 5 10 0 2 1.000 56 43 50 2 13 .979
1996 65 116 180 11 33 .964 5 10 11 0 5 1.000
1997 115 185 356 4 64 .993
1998 114 197 357 6 69 .989
1999 131 215 409 9 76 .986
2000 136 240 378 4 76 .994
2001 125 198 425 9 87 .986
2002 114 162 342 7 53 .986
2003 140 188 460 8 80 .988
2004 90 120 278 3 52 .993
2005 135 211 447 3 85 .991(1)
2006 72 83 208 8 28 .973
2007 129 160 354 5 53 .990(2)
2008 58 72 174 2 30 .992 56 45 98 2 5 .986
2009 11 13 35 1 2 .980 2 0 4 0 0 1.000 118 68 197 2 16 .993(1)
2010 4 6 12 0 2 1.000 1 2 4 0 1 1.000 125 87 197 12 17 .959
2011 132 92 199 1 18 .997(1)
通算 1449 2171 4425 80 792 .988 64 55 69 2 19 .984 431 292 691 17 56 .983

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
  • 初出場:1995年4月11日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、6回裏に代打として出場
  • 初安打:1995年4月13日、対中日ドラゴンズ3回戦(明治神宮野球場)、8回裏にキクから右前安打
  • 初先発出場:1995年4月16日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、8番・二塁手として先発出場
  • 初犠打:1995年4月21日、対阪神タイガース1回戦(福岡ドーム)、2回裏に竹内昌也から
  • 初打点:1995年5月23日、対広島東洋カープ7回戦(明治神宮野球場)、8回裏に佐藤剛から
  • 初本塁打:1996年9月17日、対広島東洋カープ25回戦(明治神宮野球場)、2回裏に山崎健から左越ソロ
節目の記録
その他の記録
  • 連続遊撃手守備機会無失策
  • 三塁手最高守備率.997(2011年)
  • シーズン最多犠打:67(2001年)
  • オールスターゲーム出場:5回 (2002年、2003年、2007年、2008年、2009年)

[編集] 背番号

  • 6 (1995年 - )

[編集] 参考書籍

[編集] 脚注

  1. ^ ヤクルト・宮本 コーチ兼任で2年契約 - MSN産経ニュース
  2. ^ 2011年4月度「日本生命月間MVP賞」受賞選手 (セントラル・リーグ)NPB.pr.jp 2011年5月10日
  3. ^ a b 宮本がシーズン最高守備率のプロ野球新記録2011年10月25日 産経新聞
  4. ^ 宮本、セの最年長受賞=ソフトバンクから4人-プロ野球ベストナイン時事ドットコム 2011年11月28日
  5. ^ 宮本が最年長受賞=ソフトバンクは4人-ゴールデングラブ賞時事ドットコム 2011年11月24日
  6. ^ 自衛隊の代名詞である「専守防衛」を皮肉ったもので「守りは上手いが攻撃はからっきしダメ」という意味の隠語。
  7. ^ 野村監督が提唱した所謂「ギャンブルスタート」。最重要局面において3塁走者は打球が前に転がったら一か八かで本塁に強行突入するというもの。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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