青木宣親

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青木 宣親
東京ヤクルトスワローズ #23
青木宣親(2006年)
基本情報
国籍 日本
出身地 宮崎県日向市
生年月日 1982年1月5日(27歳)
身長
体重
175.5cm
77.0kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 中堅手
プロ入り 2003年 ドラフト4巡目
初出場 2004年7月17日
年俸 2億6,000万円
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2008年
WBC 2006年2009年

青木 宣親(あおき のりちか、1982年1月5日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手外野手)。ヒットを量産することから「安打製造機」と称される。

目次

[編集] 人物・来歴

宮崎県日向市立日知屋小学校、富島中学校、中学時代は非常に我が強くチ-ムから孤立しがちだった[要出典]宮崎県立日向高等学校早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に進学した。高校時代は投手だったが、大学入学後、投手の練習は走り込みが多いと知り、外野手に転向した[要出典]

早大の同期には鳥谷敬比嘉寿光由田慎太郎らが、1学年上には和田毅、1学年下には田中浩康、2学年下には武内晋一越智大祐がおり、主に1番・田中、2番・青木、3番・鳥谷、4番・比嘉、5番・武内、6番・由田という、後に6人全員がプロ入りした強力打線において、チャンスメーカーとして活躍し、早稲田大学野球部史上初の4連覇に貢献している。

2002年の3年春の東大1回戦では5打数5安打5打点1四球の活躍で、1試合6得点という六大学野球記録を達成した。同年の東京六大学野球秋季リーグ戦では、打率.436で首位打者のタイトルを獲得した。同リーグにおいて、ベストナインを3回受賞している。通算58試合出場、190打数63安打、打率.332、0本塁打、20打点。

2003年のドラフト4巡目指名を受け、ヤクルトに入団した。

[編集] プロ入り後

2004年

シーズンは一軍出場わずか10試合に終わったものの、二軍では打率.372でイースタン・リーグ首位打者、最高出塁率のタイトルを獲得。またリーグ2位の21盗塁を記録し、自慢の俊足をアピールした。同年のフレッシュオールスターゲームではMVPを獲得した。推定年俸1,000万円。

2005年

稲葉篤紀の移籍で、開幕から中堅手としてレギュラーに定着した。2番を打っていた序盤は低打率にあえぎ三振を量産していたが、徐々に安打が出始め、6月からは1番に定着した。10月6日にはセ・リーグ記録の192安打を更新。10月11日、イチロー以来史上2人目となるシーズン200安打を達成した。最終的にはイチローの210安打に届かなかったものの、プロ野球新記録のシーズン169単打を記録するなど、計202安打を放ち、最多安打。更に、打率.344でセ・リーグ首位打者のタイトルも獲得。また新人王に選出された。推定年俸1,000万円。

2006年

WBC日本代表に選ばれ、6試合に出場して優勝に貢献した。7月21日に行われたサンヨーオールスターゲームの第1戦目(神宮球場)ではMVPを獲得。フレッシュオールスターMVP経験者によるオールスターMVP受賞は、簑田浩二(阪急)、石井浩郎近鉄バファローズ)以来となる3人目の快挙となった。ちなみに翌日には藤本敦士(阪神)もMVPを受賞し、4人目のダブル受賞者となっている。推定年俸6,800万円。

シーズンでは2年連続の200安打と首位打者こそ逃したものの、両リーグトップの192安打を放ち2年連続の最多安打のタイトルを獲得。課題であった三振四球がそれぞれ減少・増加し、本塁打や打点、出塁率も大幅に向上した。得点圏打率.399はリーグトップ。また、41盗塁を記録して赤星憲広の6年連続を阻止し、自身初の盗塁王を受賞した。

契約更改時に球団からMLB移籍が決定となった岩村明憲がつけていた背番号1の後継者として要請されたが、本人が現状の背番号23に思い入れがあるため固辞している。

2007年

7月10日、出場373試合目での史上最速500本安打を達成。チームメイトのアレックス・ラミレスとシーズン終盤までハイレベルな首位打者争いを繰り広げた。リーグ4位の80四球と警戒されたこともあり、2005年に記録した自身のシーズン安打記録はラミレスに抜かれたが、リーグ2位の193安打を記録。打率.346で2度目の首位打者と初の最高出塁率のタイトルを獲得した。3年連続100得点以上となる114得点でリーグ最多得点を記録。本塁打も20本の大台に乗せ、長打率は初めて5割を超えた。推定年俸14,000万円。

2番が犠打0だったアダム・リグスから犠打の多い田中浩康に変わったことにより出塁→バントのパターンが増え、盗塁数は41から17と激減した。前年まで3番だった岩村明憲の移籍や俊足の飯原誉士の台頭などで、シーズン中は1番だけでなく2番・3番での起用も多かった。引退した古田敦也の引退試合では、古田の前の4番を打った。オフには足の回転を速くする新たなバッティングフォームに変えている。

2008年

5月5日、わき腹を痛めてしまい、初の怪我による登録抹消。5月29日に復帰後は着実に安打を積み重ね例年以上の高打率をマークし、内川聖一横浜)と共に熾烈な首位打者争いを繰り広げた。8月3日、北京五輪代表に選出され宮本慎也と共に登録抹消。推定年俸22,000万円。 西武から移籍した福地寿樹が1番打者として定着したため、シーズンでは主に3番打者として起用。得点圏打率が前年より下がり、また首位打者・最高出塁率のタイトルもともに内川に譲ったものの、自己最高の打率.347をマーク。リーグ最少の47三振と安定感を見せ、チームでは盗塁王に輝いた福地に次ぐ31盗塁も記録した。

シーズン終了後のチームファン感謝デーでは、チームメートの岡本秀寛川島慶三とともにヒット曲である羞恥心を熱唱した。

2009年

WBCに2度目の出場。スタメンで主にレフトを守ることになりレフトの経験は少なかったが、無難に守備をこなしていた。しかしアメリカ戦でクッションボールの処理を誤るというミスをしてしまった。大会では3番センター(レフト)で全試合に出場し、37打数12安打、打率.324、7打点の成績を残し、外野手として優秀選手賞を獲得、侍ジャパンの連覇に貢献した。

[編集] プレイスタイル

  • 日本でもトップクラスの俊足による盗塁と、確実性の高いシュアなバッティングを武器に安打を量産するアベレージヒッター。広いミートを活かした広角打法とレフト方向への流し打ちが持ち味だが、2006年以降は長打力も上がっており、クリーンナップの一角を担うこともある。
  • 通常、野球選手は一つのバッティングフォームを徹底的に追求するが、青木の場合は複数のバッティングフォームを使い分ける。理由としては「もし打てない時期が続いてもフォームを切り替えることで不振の時期を短くすることが出来るから」とのこと[1]。また青木のバッティング理論は下半身に重点を置いており、力の入るポジションを探していたら自然と低く構えるようになっていった。できるだけコンパクトに回転するように心掛けコマをイメージしている。
  • 打撃だけでなく、俊足を生かした守備範囲の広い中堅守備にも定評がある。2006年、2007年と2年連続で300刺殺以上でセ・リーグトップの刺殺数を記録し、ゴールデングラブ賞にも選出されている。しかし積極的にボールを追いかけるせいでの失策をすることもかつてはあったが、現在では失策も減り、2008年は守備率.996でセリーグ1位を記録している。肩は特段強いというわけではないが、送球は正確である。
  • 「複数ポジションをこなせるように」との、古田敦也選手兼任監督(当時)の方針で、外野のほかに二塁守備も経験済みである。2006年に1試合だけ公式戦で守ったこともある。

[編集] エピソード

交友関係
  • 同学年で出身が近い川崎宗則ソフトバンク)とは旧知の間柄であり、高校時代には練習試合での対戦経験もある。また、早稲田大学時代の旧知の仲、鳥谷敬とは、しばしば外食に出かける仲である。
プレー関連
  • 大学時代には2番打者だったが当時、東京六大学リーグ三冠王の鳥谷敬が次の3番を打っていたため、自然と出塁するバッティングになり、三遊間へ転がしての内野安打が増えていった。
  • バッティング練習ではコーチの奨めからヘッドの重い長距離打者用のバットを小野公誠から借り、重さからヘッドが遅れてくる感触を感じ取り、それを自分のバットの時に生かす練習をしていた。これにより遠心力を使ってボールをうまく打てるようになった。
  • 2005年の開幕直後は低打率に苦しみ、本人はいつ2軍に落とされても仕方ないのに我慢して起用し続けてくれた監督の若松勉に非常に感謝していると語っている[要出典]
  • 2005年開幕時はバットを立てて構えていたが、イチローを参考にしてバットを寝かしたフォームに変更した。以後快進撃を続け、200本安打を達成した。
  • 2006年のオールスター第1戦目でMVPを獲得した際は、松坂大輔から先頭打者安打、二盗成功のあと三盗失敗、平凡なライトフライを落球、吉井理人からホームランを打つなど、積極的なプレーで観客を盛り上げた。
  • 打撃不振の時に当時兼任監督の古田敦也から「湿気(しけ)た面(つら)してると打てねぇーぞ」と言われて不振から脱出したと語っている[要出典]
  • 将来的に衰えて走力も落ちることを見据え、現状に満足せずパワーアップをも試みており、そのモデルにバリー・ボンズを挙げている。
  • 2006年前は流し打ちの短打や内野安打で安打を稼ぐむしろ、非力な印象のある打者だった。監督だった若松も「引っ張って強い打球を打つこと」を課題として指摘していたり、202安打を記録したシーズン後半はサードが極端に前に出てショートが三遊間を狭める「青木シフト」がとられていた。現在では広角に強い打球を飛ばし、本塁打も打てる打者となったため、そのようなシフトはとられていない。
  • 2009年のWBCの終了後に韓国代表の投手陣からは「勝負したくない打者」と言われており、他国の投手陣も「投げてもすぐに弾き返される」と思われている。
その他
  • 趣味はドライブであり、球場までの車通勤を好む。(車内空間を好む。)
  • 大学の卒業論文のテーマは「盗塁」だった。
  • 2006年1月1日に放送されたスポーツマンNo.1決定戦の「ショットガン・タッチ」で世界新記録となる13m60cmを記録。パワーフォースでもNo.1を獲得し、総合3位に輝いた。
  • 2009年3月26日に、WBCの活躍により、東国原英夫宮崎県知事から宮崎県民栄誉賞を授賞
  • バスケットボールの協会傘下外のプロリーグ・bjリーグ東京アパッチのイベントにメッセージで参加しただけで、宮本慎也からマスコットのつば九郎とともに厳しく注意された。これは2009年4月26日の東京アパッチの試合終了後に神宮球場に足を運んでほしいという内容であったが、その日の試合は負け、東京の選手を名指しで「彫り物を入れてるあの選手のせいで負けた」などと発言した[要出典]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S
2004 ヤクルト 10 16 15 1 3 0 0 0 3 0 1 0 0 0 1 0 0 6 0 .200 .250 .200 .450
2005 144 649 588 100 202 26 4 3 245 28 29 7 18 1 37 0 5 113 5 .344 .387 .417 .804
2006 146 680 599 112 192 26 3 13 263 62 41 12 4 1 68 2 8 78 3 .321 .396 .439 .835
2007 143 652 557 114 193 26 2 20 283 58 17 6 4 3 80 15 8 66 4 .346 .434 .508 .942
2008 112 500 444 85 154 29 5 14 235 64 31 9 1 3 42 6 10 47 10 .347 .413 .529 .942
通算:5年 555 2497 2203 412 744 107 14 50 1029 212 119 34 27 8 228 23 31 310 22 .338 .406 .467 .873
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 守備成績

年度 外野 二塁
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2004 7 6 0 0 0 1.000 -
2005 144 320 3 1 1 .997 -
2006 146 306 9 5 5 .984 1 0 1 0 0 1.000
2007 143 265 6 1 2 .996 -
2008 112 229 7 1 2 .996 -
通算 552 1126 25 8 10 .993 1 0 1 0 0 1.000

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 個人記録

[編集] 背番号

  • 23 (2004年 - )

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

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