青木宣親

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青木 宣親
Norichika Aoki
ミルウォーキー・ブルワーズ #7
YS-Norichika-Aoki.jpg
ヤクルト時代(2008年7月16日、阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県日向市
生年月日 1982年1月5日(30歳)
身長
体重
5' 9" =約175.3cm
170 lb =約77.1kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 中堅手
プロ入り 2003年 ドラフト4巡目
初出場 NPB / 2004年7月17日
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2008年
WBC 2006年2009年

青木 宣親(あおき のりちか、1982年1月5日 - )は、ミルウォーキー・ブルワーズに所属するプロ野球選手外野手)。

妻は元テレビ東京アナウンサーの青木佐知。1児の父。

目次

[編集] 来歴

[編集] プロ入り前

日向市立日知屋小学校・日向市立富島中学校宮崎県立日向高等学校を経て早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に指定校推薦で進学。本人は「とにかく勉強するよりなかった」と語っている[1]。高校時代は投手だったが、大学入学後に外野手へ転向した。

早大の同期には鳥谷敬比嘉寿光由田慎太郎、1学年上には和田毅、1学年下には田中浩康、2学年下には武内晋一越智大祐がおり、後に6人全員がプロ入りした強力打線「1番・田中(ヤクルト)、2番・青木(ヤクルト)、3番・鳥谷(阪神)、4番・比嘉(元広島)、5番・武内(ヤクルト)、6番・由田(オリックス)」でチャンスメーカーとして活躍し、早稲田大学野球部史上初の4連覇に貢献している。

2002年の3年春の対東京大学1回戦では5打数5安打5打点1四球の活躍で、1試合6得点という六大学野球記録を達成した。同年の東京六大学野球秋季リーグ戦では、打率.436で首位打者のタイトルを獲得した。同リーグにおいて、ベストナインを3回受賞している。通算58試合出場で190打数63安打・打率.332・0本塁打・20打点。大学の卒業論文のテーマは「盗塁」だった。[要出典]

2003年のドラフトでヤクルトスワローズから4巡目指名を受け、入団した。

[編集] 日本球界時代

青木のバッティングフォーム(2010年4月3日)

2004年は一軍出場10試合に終わったものの、二軍では打率.372でイースタン・リーグ首位打者と最高出塁率を獲得。リーグ2位の21盗塁を記録し、自慢の俊足をアピールした。同年のフレッシュオールスターゲームではMVPを獲得した。

2005年稲葉篤紀の移籍により開幕から中堅手としてレギュラーに定着。2番を打っていた序盤は低打率で三振を量産していたが、徐々に安打が出始め、6月からは1番に定着した。10月6日にはセントラル・リーグ記録の192安打を更新。10月11日、イチロー以来史上2人目となるシーズン200安打を達成。最終的には210安打に届かなかったものの、プロ野球新記録のシーズン169単打を記録するなど、計202安打を放って最多安打、打率.344でセ・リーグ首位打者新人王にも選出された。

2006年2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、6試合に出場して優勝に貢献。7月21日に行われたオールスターゲームの第1戦目(明治神宮野球場)ではMVPを獲得(フレッシュオールスターMVP経験者によるオールスターMVP受賞は簑田浩二(阪急)・石井浩郎近鉄)以来となる3人目。翌日にも藤本敦士阪神タイガース)がMVPを受賞し、4人目のダブル受賞者となっている)。オールスター第1戦目でMVPを獲得した際は、松坂大輔から先頭打者安打、二盗成功後に三盗失敗、平凡な右翼フライを落球、吉井理人から本塁打を打つなどした。2006年1月1日に放送されたスポーツマンNo.1決定戦の「ショットガン・タッチ」で世界新記録となる13m60cmを記録。パワーフォースでもNo.1を獲得し、総合3位に輝いた。シーズンでは首位打者こそ逃したものの、両リーグトップの192安打を放ち2年連続の最多安打のタイトルを獲得。課題であった三振が減少、四球が増加し、本塁打打点出塁率も大幅に向上した。得点圏打率.399はリーグトップ。また、41盗塁を記録して赤星憲広の6年連続を阻止し、自身初の盗塁王を受賞した。

2007年、7月10日に出場373試合目での史上最速500本安打を達成。チームメイトのアレックス・ラミレスとはシーズン終盤までハイレベルな首位打者争いを繰り広げ、リーグ4位の80四球と警戒されたが、打率.346で2度目の首位打者と初の最高出塁率のタイトルを獲得。安打数はリーグ1位のラミレスの204安打に次ぐ193安打を記録。2005年に記録した自身のセ・リーグシーズン最多安打記録(202安打)はラミレスに抜かれた。また3年連続100得点以上となる114得点でリーグ最多得点を記録。本塁打も20本の大台に乗せ、長打率は初めて5割を超えた。2番が犠打の少ないアダム・リグスから犠打の多い田中浩康に変わったことにより出塁→バントのパターンが増え、盗塁数は41から17と激減した。前年まで3番だった岩村明憲の移籍や俊足の飯原誉士の台頭などで、シーズン中は1番だけでなく2番・3番での起用も多かった。古田敦也の引退試合では、古田の前の4番を打った。オフには足の回転を速くする新たなバッティングフォームに変えている。

2008年、5月5日に脇腹痛で初の怪我による登録抹消を経験するが、5月29日に復帰後は着実に安打を積み重ね、例年以上の高打率を記録。同じく杉村繁の指導を受けた経験のある内川聖一と共に首位打者争いを繰り広げた。8月には宮本慎也とともに北京五輪代表に選出された。西武から移籍した福地寿樹が1番打者として定着したため、シーズンでは主に3番打者として起用。得点圏打率が前年より下がり、首位打者・最高出塁率も内川に譲ったものの、自己最高の打率.347を記録。リーグ最少の47三振と安定感を見せ、チームでは盗塁王に輝いた福地に次ぐ31盗塁も記録した。

2009年2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、2度目の出場。左翼を本職とする選手がいないチーム事情から、経験の少ない左翼手を中心に出場するも、堅実な守備を披露。3番打者として全試合に出場し、37打数12安打・打率.324・0本塁打・7打点の好成績で、大会ベストナインに選出された。3月26日、WBCの活躍により東国原英夫から宮崎県民栄誉賞を授与された。

レギュラーシーズンでは体を痛め調整が上手く出来なかった影響でレギュラー定着以降では初めての大不振に陥り、前半戦を通した打率は.249と大きく低迷。更に怠慢守備も指摘され、一時期は福地との配置転換で左翼手に回される(後述)など苦しんだ。不振に喘ぐ中、ファン投票でオールスターゲームに4年連続で選出され、第1戦では9回に武田久から逆転2ラン本塁打を放って自身2度目のオールスターMVPを獲得。そしてオールスター明けの後半戦からバットを変えるなどの試行錯誤を繰り返した結果、後半戦では一転。打率4割台と復活を見せ、4番を務めるなどチーム3年ぶりのAクラスの確保、クライマックスシリーズ出場に貢献した。最終的な打率は.303と3割以上を保ち、前年苦手としていた得点圏打率も.307を記録し、出塁率.400で自身2度目の最高出塁率のタイトルを獲得した。クライマックスシリーズでも打点を記録するなど活躍したが、3点差の2死1、2塁の場面で岩瀬仁紀の前に空振り三振を喫した。

シーズン終了後にテレビ東京のアナウンサー・大竹佐知と入籍し、11月5日に痛みの原因だった両足首三角骨を摘出するために手術を受けた。球団から背番号1への変更を打診され続けていたが、ヤクルトの背番号1はこれまで若松勉池山隆寛、岩村明憲といった生え抜きスターが背負ってきた名誉ある背番号であるため、青木本人が時期尚早と固辞し続けていた。しかし12月3日、若松の殿堂入りを祝う会に出席したことをきっかけに、2010年から背番号1を背負うことを決意した[2]

2010年、監督代行の小川淳司によって3番固定だった打順から1番固定に戻ると、例年よりハイペースで安打を打ち続け日本プロ野球史上初となる2度目のシーズン200本安打を達成(最終的には2005年に記録した202安打を更新し、歴代3位となる209安打を放った)。また自己最高の打率.3585を記録し、自身三度目となる首位打者を獲得すると同時に、若松勉の持つシーズン打率.3583の球団記録を更新。この年は出塁率、OPSにおいても自己最高の数字を記録した。

2011年は全試合に出場するも、この年より導入された統一球の影響からかシーズン当初より不調が続いた。最終的に安打数こそセリーグ2位の170本を記録したが打率は.292に終わり、6年連続で継続していたシーズン打率3割の記録が途切れた。10月28日に第1子である長女が誕生[3]。11月10日にはポスティングシステムを行使してのメジャー挑戦を表明[4][5]。12月18日に250万ドルでミルウォーキー・ブルワーズが交渉権を得たことが発表された[6]

[編集] MLB時代

2012年1月、ブルワーズの要請を受け、アメリカ合衆国へ渡航。アリゾナ州メリーベールの球団施設でワークアウトを受け、球団首脳のプレーチェックを受けた[7]。その後、17日に交渉が纏まり、2年契約(3年目は球団オプション)でブルワーズへの入団が決定した[8]。背番号は7

[編集] プレースタイル

打席での青木宣親(2006年)

安打を量産することから「安打製造機」と称される。メジャーリーグのスカウトからは「MLB以外でプレーしている選手の中で最高の選手。めっきり少なくなった理想的なリードオフマン」[9]、「パワー以外のすべてを兼ね備える。コンタクト能力に秀でており、2番打者として理想的な選手」と評された[10]

打撃理論は下半身に重点を置き、力の入るポジションを探していたら自然と低く構えるようになり、できるだけコンパクトに回転するように、コマをイメージしているという[要出典]。例年打撃フォームをマイナーチェンジしており[11]、「打てない時期が続くとき、元に戻せるなら問題は簡単です。なかなかそうはいかないから、逆にフォームをちょっとずつ切り替えていくことで打てない時期を短くできる」と言い、何通りかの打撃フォームを状態によって使い分ける[12]

卓越したミート感覚で安打を量産し[13]、2ストライク後やボールゾーンでの打率も3割を越え[14][15]、「強く振ること」を心がけ本塁打数が前年から10本増加した2006年からは2桁本塁打を記録する長打力も備えた[16]。プロ入り当初は左投手を苦手としていたが[17]、2005年から2011年にかけては右投手に対し打率.327、左投手に対し打率.333と左右の違いを苦にしなくなった。10打数に1個以上の割合で四球を選ぶ選球眼も備え、2007年から2010年まで4年連続で出塁率4割以上を記録した。

走塁面では一塁到達はコンスタントに4秒を切り[11][18]、バント安打時には3.68秒を記録[19]。盗塁成功率は通算76パーセントを記録している。

俊足を生かした中堅守備は守備範囲が広い反面、失策や記録に残らない雑なプレーを見せることもある[11]。メジャーのスカウトからは「肩は20~80段階で45(やや平均未満)。レフトが向いている」と評される[9]など肩は特別強いわけではないが送球は正確[11]。2006年と2007年と2年連続で300刺殺以上を記録(セ・リーグ1位)してゴールデングラブ賞にも選出されている。2008年は失策を回避するプレーに専念するスタイルに変え、守備率.996でセ・リーグ1位を記録している。2005年から2009年までは簡易RFでリーグトップ3に入っていたが[20]、2010年は右翼方向の打球の処理が悪くUZR-6.3と平均を下回ってしまった[21]。また、2009年には守備の怠慢さを監督の高田繁から指摘され、特に2009年7月30日の広島東洋カープ戦での中堅守備では、田中浩康が弾いた打球に対するカバーを怠ったことで東出輝裕の二塁進塁を許した(記録は田中の失策)ことを試合後に厳しく叱責され、翌日から数試合、左翼手の福地寿樹とポジションを入れ替えられた[22]第2回WBCでは左翼手も務め、「複数ポジションをこなせるように」との当時の監督を務めた古田敦也の方針で2006年に1試合だけ二塁手として起用されたこともある。

2011年シーズン終了時までの日本での通算打率は.329であるが、通算4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには100打数足りていない。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
2004 ヤクルト 10 16 15 1 3 0 0 0 3 0 1 0 0 0 1 0 0 6 0 .200 .250 .200 .450
2005 144 649 588 100 202 26 4 3 245 28 29 7 18 1 37 0 5 113 5 .344 .387 .417 .803
2006 146 680 599 112 192 26 3 13 263 62 41 12 4 1 68 2 8 78 3 .321 .396 .439 .836
2007 143 652 557 114 193 26 2 20 283 58 17 6 4 3 80 15 8 66 4 .346 .434 .508 .942
2008 112 500 444 85 154 29 5 14 235 64 31 9 1 3 42 6 10 47 10 .347 .413 .529 .942
2009 142 624 531 87 161 23 2 16 236 66 18 10 1 4 75 4 13 65 9 .303 .400 .444 .844
2010 144 667 583 92 209 44 1 14 297 63 19 4 0 3 63 7 18 61 10 .358 .435 .509 .944
2011 144 643 583 73 170 18 5 4 210 44 8 3 0 0 51 6 9 55 6 .292 .358 .360 .718
通算:8年 985 4431 3900 664 1284 192 22 84 1772 385 164 51 28 15 417 40 71 491 47 .329 .402 .454 .856
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別守備成績


外野 二塁
























2004 7 6 0 0 0 1.000 -
2005 144 320 3 1 1 .997 -
2006 146 306 9 5 5 .984 1 0 1 0 0 1.000
2007 143 265 6 1 2 .996 -
2008 112 229 7 1 2 .996 -
2009 141 300 9 3 2 .990 -
2010 144 300 5 3 2 .990 -
2011 144 321 8 3 2 .991 -
通算 981 2047 47 17 16 .992 1 0 1 0 0 1.000

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
その他の記録

[編集] 背番号

  • 23 (2004年 - 2009年)
  • 1 (2010年 - 2011年)
  • 7 (2012年 - )

[編集] 登場曲

[編集] 脚注

  1. ^ 早稲田学報1156号(2006年4月号)
  2. ^ 青木選手、"ミスタースワローズ"の背番号「1」に変更!
  3. ^ ヤクルト・青木に第1子が誕生 サンケイスポーツ 2011年10月28日閲覧
  4. ^ 青木「どんな条件でも、どんなチームでも」Sponichi Annex、 2011年11月10日。
  5. ^ 青木「20代で行きたいと思っていた」/一問一答日刊スポーツ、 2011年11月10日。
  6. ^ 青木、ブルワーズが落札 ヤクルト発表asahi.com、 2011年12月18日。
  7. ^ 青木がブルワーズ施設で練習 首脳にプレーを披露 共同通信 47News 2012年1月9日閲覧
  8. ^ 青木ブルワーズ決定 2年契約 日刊スポーツ 2012年1月18日閲覧
  9. ^ a b WBCで輝いたMLB未経験選手9人の評価は? MLBのスカウトから見た日韓の選手たち 『月刊スラッガー』2009年6月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-6、50-52頁。
  10. ^ 現役スカウト部長が見た日本チーム 『月刊スラッガー』2009年6月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-6、52頁。
  11. ^ a b c d 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクト、2008年、228-229頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  12. ^ 青木宣親 卓越した自己分析力でヒットを増産する逸材Number Web、2008年3月18日。
  13. ^ 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰 『プロ野球スカウティングレポート2011』 廣済堂出版、2011年、376-377頁。ISBN 978-4-331-51519-8
  14. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2008』 白夜書房、2008年、76頁。ISBN 978-4-86191-374-7
  15. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、129頁。ISBN 978-4-86191-710-3
  16. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』 白夜書房、2007年、107頁。ISBN 978-4-86191-246-7
  17. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』 白夜書房、2005年、93頁。ISBN 4-86191-015-3
  18. ^ 人工芝と土でタイムに違いはあるか『野球小僧』2010年4月号、白夜書房、雑誌18801-4、126-1129頁。
  19. ^ 小関順二 『WBC日本代表はなぜ世界一になれたのか?』 ぴあ株式会社、2009年、64-66頁。ISBN 978-4-8356-1740-4
  20. ^ 09年最高の外野手は赤松と栗山だ! その真の実力を“数字”で検証したNumber Web、2009年12月8日。
  21. ^ Baseball Lab守備評価~Center FielderSMR Baseball Lab
  22. ^ 高田監督激怒!青木のセンター“はく奪”された(野球) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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