城島健司

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城島 健司
KenjiJohjimaLead.jpg
シアトル・マリナーズ時代(2007年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県佐世保市
生年月日 1976年6月8日(38歳)
身長
体重
182 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手一塁手
プロ入り 1994年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1995年5月31日
MLB / 2006年4月3日
最終出場 NPB / 2012年5月9日
MLB / 2009年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年
WBC 2009年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

城島 健司(じょうじま けんじ、1976年6月8日 - )は、長崎県佐世保市出身の元プロ野球選手捕手内野手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

長崎県佐世保市出身。4歳の時、王貞治が引退試合で挨拶しているビデオを見てプロ野球選手に憧れるようになる。小学4年の時に入った少年野球チームでは捕手を務める。中学3年の時にプロOBによる野球教室で王に褒められ、また冗談半分ながら読売ジャイアンツ入りを勧められたことで、巨人への気持ちが高まった。別府大学付属高等学校に進んだ当初は隠していたが、強肩を見込まれここでも捕手に指名される。この時から「自分は捕手をやるために生まれた。それが宿命」と考えるようになり「これまでにない、打って守って走れる捕手」を目指す決意を固めた。高校では1年の時から4番を打ち、高校通算70本塁打を記録[1]。甲子園への進出はならなかったが城島の噂は中央球界に広まっていた。

城島は巨人入りを見据えて東都大学リーグで力をつけることに決め、いち早く獲得に動いた駒澤大学への推薦入学を取りつける。さらにプロ入り拒否を表明したため、スカウト陣が二度目に会いに行ったときにはもう会えなくなっていた。しかしかつて城島がプロ入りを希望していたことや、巨人・西武ライオンズ福岡ダイエーホークスの3球団を志望しているものの逆指名できない高校生であることから、本心は進学ではなくプロ入りだと読んだダイエーの根本陸夫らは1994年のドラフトの前日、1位での強行指名を宣言。アマ球界との摩擦を恐れたコミッショナー事務局が警告したものの、ダイエーは宣言通り1位指名した。城島は巨人入りを志望していたが、そのきっかけとなった王がダイエーの次期監督に内定していることを知り、その後監督に就任した王から要請されたことでダイエー入りを決めた。

この件をきっかけに、プロ入り拒否の選手は指名できないとのルールが作られた[2]

ダイエー・ソフトバンク時代[編集]

入団当初、打撃には非凡なところを見せていたが、ワンバウンドの投球を捕球することができず、身体が投球から逃げほとんどが暴投もしくは捕逸になる状態であるなど捕手としては酷評された。当時バッテリーコーチを務めていた達川光男を始め、野村克也森祇晶らOBからも「キャッチャーに向いてない」という声も聞こえた。周囲も捕手にこだわる必要性を感じておらず、一時は監督の王貞治も一塁手にコンバートする意向を示し、後に実際に一軍の公式戦で一塁と二塁を守ることもあった。

1年目の1995年は首脳陣の方針により二軍スタート。5月31日の対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム)で代打として一軍初出場。7月9日の対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)ではエリック・ヒルマンからプロ初安打(同時にプロ初打点)。7月14日のオリックス17回戦(福岡ドーム)ではプロ初スタメン(8番捕手)を果たした。本塁打はウエスタン・リーグで1本しか打てず、一軍では1本も打てなかった[1]

1996年は開幕から二軍で英才教育を受け、8月24日にウエスタン・リーグ新記録となる25本塁打を放ち、9月3日に一軍昇格。翌年以降をにらみ、残り試合をほぼ全試合先発起用された。9月10日の対近鉄バファローズ21回戦(福岡ドーム)では久保康生からプロ初本塁打を記録。オフには同僚の吉武真太郎らとともにハワイ・ウィンターリーグに派遣された。

1997年開幕より一軍のレギュラー捕手に定着。同年オールスターファン投票では、戦後生まれでは最年少となる21歳45日で捕手部門1位選出。同年打率.308を記録。21歳での捕手3割打者は1944年阪田清春(20歳)に次ぐ年少記録だった[3]工藤公康武田一浩らベテラン投手、バッテリーコーチの若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍してきた先輩捕手・田村藤夫の教えもあり以後不動の正捕手となる。工藤と武田に教えを仰いだ際には、深夜の宿泊ホテルで就寝している2人の部屋に押しかけることもあった。特に工藤からは、試合中の配球についてベンチ前で説教を食らう場面が度々見られるなど徹底した指導を受け、後に「あれがあるから今の自分があるという気がする」「工藤さんには本当に色んな事を教えてもらった」と述べている。これに対して工藤は「城島を育てたと言ってもらえることがありますが、ジョー(城島)は僕が育てたんじゃなくて彼が自分で育ったんです。どれだけ厳しく叱っても食らいついてくる強靭な精神力が彼にはありました。」と語っている。

1999年4月30日、城島のダイエー入りに大きな影響を与えた根本球団社長が死去。城島は根本への恩返しとして日本一になることを誓う。初の全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.306をマークするなど、球団初のリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、リーグ優勝が決定した瞬間には号泣した。この年正捕手として定着した城島に対し、工藤は「今年一年間お前が出すサインには一切首を(横に)振らないから自信を持ってサインを出せ」と言っていたという。この年、工藤と城島のバッテリーで最優秀バッテリー賞を受賞したが、会見の席で工藤から「まだまだ下手ですね」と一蹴され、それに対して城島は「来年も工藤さんとこの賞が取れると信じてますけど、どうやら工藤さんにその気がないみたいなので来年は別の人と頑張って取りたいと思います」と答え、場内の笑いを誘った。

2000年は右手の骨折により84試合の出場にとどまったが、チームはリーグ2連覇し日本シリーズに出場。シリーズタイ記録となる4本塁打を放つなど活躍した。同シリーズ敢闘賞を受賞。秋に結婚した。

2001年は打率はリーグ28位の.258と低迷したが、本塁打は自身初の30本越えとなる31本塁打(リーグ9位)を記録。捕手の30本以上は史上5人目。この年、小久保裕紀が44本塁打(リーグ4位)、松中信彦が36本塁打(リーグ6位)、井口資仁が30本塁打(リーグ12位)を記録し、パシフィック・リーグ初の30本カルテットを形成。また、日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初であった。4月13日のオリックス3回戦の9回に史上15人目で17度目の1イニング2本塁打を記録[4]。この試合は6回にも本塁打を打っており、グリーンスタジアム神戸での1試合3本塁打は史上4人目である。同年、城島健司ベースボール記念館が故郷の長崎県佐世保市にオープンした。

2002年にはシーズン途中に守備についている際に打球を鎖骨に受け骨折。このとき城島の故障の穴埋めのため、日本ハムファイターズから田口昌徳が移籍してきた。また、福岡ローカルのホークス応援番組では、城島がゴルフ好きであることから、骨折した鎖骨を固定していたチタンボルトパターの一部にして城島にプレゼントした。骨折もあり出場試合数が減少したにも関わらず、本塁打はリーグ12位の25本を記録。打率もリーグ10位の.293を記録し、3年ぶりにリーグトップ10に返り咲いた。

2003年には「地味なキャッチャーの時代は終わりました。子どもたちに夢を与えるスーパーキャッチャーになりたい」と抱負を語った[1]。前年ほぼすべての試合で4番を務めた小久保が開幕前にケガで離脱し、この年の開幕戦は松中が4番、城島が5番を務めた。それから閉幕までほぼ城島が5番に座ったが、一時期は4番を務めることもあった。自主トレの際には3割30本30盗塁100打点を公言[5]。盗塁こそ9(リーグ14位)に終わったが、打率.330(リーグ6位)、34本塁打(リーグ3位)、119打点(リーグ2位)を記録。特に打点は、最終戦に松中に逆転を許すまではリーグ1位であった。松中、井口、ペドロ・バルデスとともにプロ野球史上初の100打点カルテットを形成し、チームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献。MVPに選出された。7月27日の対オリックス戦では仰木彬と並ぶリーグタイ記録となる1試合6安打を記録している。日本シリーズでは後に移籍することになる阪神と対戦。2000年の日本シリーズに続き、長嶋茂雄以来史上2人目となるシリーズ2度目の4本塁打を放ち、チームの日本一に大きく貢献した。この年放った34本塁打は全て右投手から打ったもので、シーズン中は左投手から1本も打てなかったが、4本塁打放った日本シリーズでは第1戦に井川慶、第7戦にトレイ・ムーアからホームランを打った。これについては、当時のパ・リーグには一流の左投手と呼べる存在がおらず、レギュラーシーズン中は対右投手用の打撃練習を徹底しておいて、セ・リーグを代表する左投手である井川、ムーア、下柳剛ジェフ・ウィリアムス吉野誠との対戦をにらんでシリーズ前に対左投手用の打撃に集中していたことを『GET SPORTS』などの取材で明らかにしている。シーズン終了後にはアテネオリンピックのアジア予選に出場し、日本代表の4番を務めた。

2004年には6月1日に通算1000本安打を達成した。出場939試合目での達成は、捕手では1952年土井垣武に並ぶ最速記録となった。夏にはアテネオリンピック野球日本代表として出場し、4番打者、正捕手として活躍。チームは銅メダルを獲得した。8月27日にアテネから帰国し、成田空港からタクシーで西武ドームに向かい、代打で出場した(記録は左飛)[6]。最終的に、捕手シーズン打率パ・リーグ新記録となる.338(リーグ3位)を記録。オリンピック前までは打撃3部門すべてにおいて松中信彦と熾烈なタイトル争いをしていたが、オリンピックによる離脱もあり、タイトル獲得はならなかった。チームはレギュラーシーズン1位に輝き、プレーオフに出場。城島は最終戦に松坂大輔から先制本塁打を放つなど活躍したが、チームは敗れ、2年連続のリーグ優勝はならなかった。

2005年には、6月4日に通算200本塁打を達成した。しかし7月中旬に右肩痛を訴え離脱。その後8月28日にスタメン復帰するが、9月22日の対ロッテ戦で自打球を左スネに当て全治2か月の骨折を負い、残りの試合には出場できなかった。プレーオフ敗退にベンチで泣き崩れる的場直樹に城島は「胴上げをよく見ておけ。その悔しさを心に留めておけよ」と語った[7]。この年、怪我に苦しみながらも、通算4000打数を達成。この時点での通算打率.299は捕手としてプロ野球歴代1位となった。

オフにはアラン・ニーロを代理人としFA権を行使。11月22日に3年1650万ドルでシアトル・マリナーズと契約し、捕手としては日本人選手史上初のメジャーリーガーとなった。

マリナーズ時代[編集]

スイングする城島(2006年)
打席に立つ城島(2006年)

2006年は4月3日のロサンゼルス・エンゼルスとの開幕戦(セーフコ・フィールド)に7番捕手として初出場。本拠地で打席に入る際の曲にはジミ・ヘンドリックスの「Hey joe」を使用(入団の際にはTV番組『笑点』のテーマを登場曲の候補の1つに上げていたこともあった[8])。バートロ・コロンから第2打席にメジャー初安打を本塁打で記録。デビュー戦での本塁打は松井稼頭央に続き日本人史上2人目となった。続く4日のエンゼルス戦では、チームでは1984年アルビン・デービス以来となるデビュー戦から2試合連続本塁打を記録した。9月15日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦(カウフマン・スタジアム)から打順は3番に定着。19日の対テキサス・レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド・イン・アーリントン)では、日本人メジャーリーガーの1年目としては松井秀喜を上回り最多となる17号本塁打。25日の対シカゴ・ホワイトソックス戦(USセルラー・フィールド)では、マリナーズの捕手としては最多記録と並ぶ18号本塁打。シーズン最終戦となる10月1日のレンジャーズ戦(セーフコ・フィールド)では最終打席で1962年バック・ロジャースのア・リーグ新人捕手シーズン最多安打記録146を44年ぶりに更新する安打を放った。最終的に新人の日本人選手としては2001年のイチローに次いで2位となる打率.291, 同最多かつ1996年のダン・ウィルソンと並び新人での球団史上最多となる18本塁打、76打点、同1位のOPS.774を残した。新人野手としてはリーグの本塁打と打点部門でトップの成績だったが、新人王争いの投票では投手3人に続く4位に終わった。

言葉の壁や戦略の違いなどで最も難しいといわれていた捕手というポジションでレギュラーに定着し、捕手ではジェイソン・ケンドールに次ぐ両リーグ2位の131試合に先発出場したが、「打者が打てない確率の高いボールを投手に投げさせる」という日本のリードと、「投手に一番投げたいボールを投げさせる」という考えが主のアメリカのリードとの違いや捕手のあり方で苦悩した[9]。捕手のサインも、日本では投手が捕手のサインに従う傾向だが、メジャーでは捕手が投手に従う傾向が多い。このような異文化ともいえる考え方の違いやメジャーでの経験がほとんどないこともあり、マリナーズ投手陣がサインにうなずかないことも多々あった。大ベテランのジェイミー・モイヤーとバッテリーを組んだ試合では、打者がモイヤーの内角低めの速球を大ファウルした後、「外角のカーブ」を要求したが、モイヤーはサインに首を振り「内角低めの速球」を要求。モイヤーの考えとしては「どんなに上手く打っても、100%フェアゾーンに打たれないコースと球種の選択」と内角低めの速球を投げていたという。結局、2球続けてモイヤーの要求通りに投げて打者を三振させた[9]。オフにはこうした城島の苦悩を描いたエピソードがテレビ放送や新聞の連載で紹介されたが、アメリカでは「これまでと違う言語で新しい投手たちとコミュニケーションを図ることに努力しながらこれだけの打撃成績を収めたのは我々の脳裏に強く焼き付いた」という『USAトゥデイ』紙を始め、数々のメディアで賞賛された[10]

2007年は135試合に出場し、打率.287, 14本塁打、61打点、OPS.755を残し、守備率(863守備機会で.998)と盗塁阻止率 (.465) では両リーグトップを記録したが、捕手防御率(CERA)5.08は両リーグワースト2位であったため、高い盗塁阻止率にも関わらず守備防御点は-7だった。7月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦では右手甲に打球を受け負傷したが、この時は幸運にも2000年に骨折した際に埋め込まれていた金属プレートのおかげで、再度の骨折を回避できた[11]。オフにはCBSスポーツの捕手ランキングではホルヘ・ポサダビクター・マルティネスラッセル・マーティンジョー・マウアーに次ぐ5位に入り、"2007 This Year in Baseball Award" の "Defensive Player" 部門に捕手で唯一ノミネートされた。

2008年スプリングトレーニングで18試合の出場で打率.321, 2本塁打、OPS.836と例年以上の好成績を残し、4月25日には3年2,400万ドルで契約を延長[12]。しかし前半戦打率.213, OPS.549と打撃不振に陥ったことに加え、投手陣がジェイミー・バークに信頼を置き始め、首脳陣も当時有望株だったジェフ・クレメントのテストを始めたこともあり、一塁手へのコンバートも囁かれた。8月10日にレギュラーを剥奪されたことが報道されたが、9月はクレメントが膝の手術でシーズンを終えたため、再びレギュラーとして起用された。最終的に112試合出場、自己最低となる打率.227, 7本塁打、39打点、OPS.609に終わる。翌年から3年総額26億円の高額な契約を結んでいたこともあり、ESPNの選ぶア・リーグの "Least Valuable Player"(MVPの逆。「最も高くついた選手」)に選出されてしまった[13]

2009年は第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。全試合にスタメン出場し、9試合で30打数10安打(打率.333)1本塁打4打点1盗塁4得点で日本の2連覇に貢献した。レギュラーシーズンでは正捕手としてスタートしたが、4月16日に右太股裏の肉離れで15日間の故障者リスト入り、5月26日に左足親指骨折で2度目の故障者リスト入りするなど序盤は怪我に見舞われる。また城島不在の間に新人のロブ・ジョンソンが投手陣の信頼を集め、城島の復帰後もフェリックス・ヘルナンデスジャロッド・ウォッシュバーンエリック・ベダードの先発三本柱はジョンソンと組んだため、出場機会が激減。後にウォッシュバーンは移籍、ベダードは怪我で離脱したが、三本柱の先発した65試合のうち城島がマスクを被ったのは序盤の10試合に終わった。打撃は2008年よりやや持ち直し、71試合の出場ながら打率.247, 9本塁打、22打点。本塁打率ではメジャーに来てから自己最高の数字を残したが、RC27は4.03という低調な数字に終わった。無走者時の打率.290に対し、走者を置いた状況下では打率.188(得点圏打率.184)と大きく数字を落としている。守備面ではCERA(捕手別防御率)が4.86となり、ロブ・ジョンソンの3.23を大きく上回ってしまった[14]。エースのヘルナンデスは城島とバッテリーを組んだ試合では1勝3敗、防御率7.22, QS率20% (1/5) だったが、城島以外の捕手と組んだ試合では18勝2敗、防御率1.81, QS率96.6% (28/29) という好成績を残した[15]。ただし、ヘルナンデスは毎年5月に不調に陥る傾向があり[16]、城島が復帰した5月の数試合はちょうどその時期と重なっている。城島が退団した後の2010年もロブ・ジョンソンと組んだが、その傾向は変化がなく、月別防御率はむしろ悪化している。規定試合数に届かなかったものの盗塁阻止率では.537で自己最高を記録。メジャー通算の盗塁阻止率も.400と高率を誇った。

10月19日にはマリナーズとの残り2年間の契約を破棄し、日本球界に復帰する意向であることが発表された[17]。阪神が獲得に動き、やや遅れて古巣のソフトバンクも獲得の意向を示したが、27日の阪神との2度目の交渉で入団の意思を表明した。この時阪神が城島の獲得に至った経緯として、前年までの正捕手矢野輝弘がこの年故障で長く欠場し、代わって正捕手格となった狩野恵輔も送球面などの不安を抱えていたこと、また右打ちの強打者がチームに少なかったことがあり、城島はいずれの補強ポイントにも合致していた[18]。城島自身はこれ以前にFBSの『夢空間スポーツ』のコーナー内のインタビューにて「(選手として)バリバリの状態で福岡に戻りたい」、「今の自分があるのはホークスのおかげであり、ユニフォームを脱ぐ時は福岡でホークスのユニフォームを脱ぎたい」と語っており、ソフトバンク球団側も背番号「2」を欠番にし、城島のマリナーズ退団情報を9月中旬に掴んでいた[19]が、この年に26本塁打を放ち飛躍した田上秀則の存在や城島自身の年俸の高騰などのため[20]最終的には獲得を見送っている。11月13日に阪神入団が正式に発表された。年俸4億円+出来高払いの4年契約で、背番号は2。

阪神時代[編集]

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2010年3月26日の対横浜ベイスターズ戦(京セラドーム大阪)で決勝タイムリーヒットを放ち、「長崎県佐世保から来ました城島です」とヒーローインタビューで話した。翌27日の同球場・同カードにおいては延長11回にサヨナラホームランを打ってヘッドスライディングをしてホームインしてみせた。10月5日の対東京ヤクルトスワローズ戦ではシーズン165安打目を放ち、1997年に古田敦也が記録した164安打を抜き、捕手のセ・リーグ最多安打記録を更新した。これにより、城島はセ・パ両リーグの捕手最多安打記録保持者となった。また、ゴールデングラブ賞を受賞し捕手として史上初のセ・パ両リーグでの受賞となった。しかし、この年の終盤に左膝半月板を負傷していたことが判明し、11月9日に手術を受けた[21]

2011年、左膝の負傷が判明した当初は全治6か月と言われ開幕出場は困難と見られたが、術後わずか数か月で実戦に復帰し、また東日本大震災の影響で開幕日が順延されたこともあって、開幕戦出場を果たした。しかし、膝を保護するために試合で着用していたパッドのため左膝に瘢痕が生じ、これによって膝の可動域が広がらなくなった[22]影響で、38試合出場時点で打率.189、5本塁打、13打点と打撃不振に陥り、守備面でもショートバウンドの捕球に支障をきたすようになった。膝が万全でないことで右肘の靭帯損傷や腰痛も併発し[23]、6月10日に出場選手登録を抹消された[24]。その後、8月16日に左膝のクリーニング手術を受けたため、一軍に復帰することなくシーズンを終えた。

2012年内野手として出場するが、5月上旬に左座骨神経痛のため出場選手登録を抹消され、腰椎椎間板ヘルニアの手術を受ける[25]。8月にはリハビリ出場していた二軍戦で左ひざ裏の肉離れを起こす[26]。9月には二軍戦で実戦復帰するも、9月28日に「キャッチャー城島のまま終わりたい」とこのシーズン限りでの引退を表明した[27][28][29]

9月29日阪神鳴尾浜球場でのウエスタン・リーグ対オリックス戦を引退試合として3番捕手として先発出場している。当初和田豊監督からは同日の一軍の広島戦を引退試合として出場を打診されたが、城島が固辞した。初回無死一、二塁の場面で中前適時打を放ち、これを最終打席として退き、藤川球児の音頭で胴上げされ、[30]日米18年間にわたる現役生活に幕を下ろした。10月18日に任意引退公示された[31]。引退会見の会場に訪れていたダイエー時代の師である工藤公康から花束の贈呈を受け、「やっと工藤さんから怒られなくなったのに、辞めなきゃいけない」「野球がしたいです」と涙を流した。

引退後[編集]

その後、「しばらくメディアには出ない」と語っていたが、現在は趣味である釣り関連の番組を中心に活躍しており、2013年1月に特番で放送され、2013年4月21日からレギュラー放送されている城島自身の冠番組『城島健司のJ的な釣りテレビ』(RKB毎日放送)に出演している[32]。その模様は、2014年2月13日放映の『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』“福岡芸人会”の中で紹介された。

またテレビ長崎のゴルフ番組「城島健司と金谷多一郎のモア☆ゴル」(2013年3月開始)にもメインパーソナリティーの一人として出演している。

プロ野球に関連するメディアには今のところ登場していない。

プレースタイル[編集]

盗塁阻止率が高く、卓越した強肩を生かして座ったまま一塁牽制や二塁送球を行うこともあった。阪神移籍後は二塁への送球をジョー・バズーカと呼ばれるようになった。大沢啓二から「肩を痛めるため、城島の座った状態での送球は真似しないほうがいい」と指摘されたことがあり、実際に城島自身も2005年にそれが原因で肩を痛めたことがあり、以降は座ったままの送球はしなくなっていた。マリナーズ移籍後も投げ急ぐ傾向があることとリリースポイントが不安定なことを指摘され、2007年のスプリングトレーニングでは素早く投げるのではなく、肩の強さを生かして二塁方向に肩を押し出すバランスの取れた投げ方を指導され[33]、同年の盗塁阻止率はメジャートップの数値を記録。2009年からは再び座ったままの送球を見せるようになった。

MLB時代のキャッチングについて、ストライクゾーンの角をストライクにする能力にやや難があり[34]、総合的な守備力を測る守備防御点は通算でマイナスとなっている。

リード面ではストライク先行と初球ストライクをモットーとして挙げ[35]、打者の打てない確率の高いコースと球種で強気に攻め三振を狙った[36][37]。 打撃では内角低めの球を得意とする[33]典型的なプルヒッターだが、マリナーズ時代は左方向に引っ張る率が通算で32.1パーセントと逆方向へも運ぶ打撃を見せた。しかし阪神移籍後は再び引っ張るようになり、2010年は左方向への打球が60.8パーセントに及んだ。積極的に打ちにいくため、三振四球共に少ない傾向にあり、2006年の三振/打席数のパーセンテージの低さはリーグでトップだった。四球もメジャー1年目は20しかなく、2年目の15個は規定打席到達者の中でメジャーワースト3位タイだった。そのあまりの積極性ゆえに一時期は「悪球打ち」とも言われたほどで、2000年の日本シリーズ第1戦の第1打席では、工藤公康の投じた4球目のワンバウンドしそうなボール球を打ってホームランにした。

走塁面では一塁到達まで4.7秒と平均を下回り[33]、2010年にはリーグワーストの22併殺打を記録するなど併殺も多いが、相手バッテリーが無警戒となっている隙を突いて盗塁を決める技術に長け、2010年には捕手の中では両リーグ最多タイとなる9盗塁をマークした。

人物[編集]

海釣り(特に磯釣り)好きであり、シーズンオフはおろかシーズン中でも暇を見つけては釣りに出かけるほどで、釣り関連でのエピソードも数多い。

  • 地元の新聞の釣りコーナーや釣り雑誌に「ホークスの城島選手」ではなく「佐世保市の城島さん」として掲載された。[38]
  • 九州・中国地方のローカル釣り雑誌『釣ファン』で、過去数回雑誌の表紙を飾っている[39]
  • 福岡ローカルのテレビ局で城島(とその他プロ野球選手数人)の釣りがメインテーマの正月特番(テレビ西日本『城島健司のメジャーフィッシング』、福岡放送『城島&馬原の釣り一番!』)が放送されたことがあるほか、他にも『フィッシングライフ』(サンテレビ他)など多くの釣り番組への出演経験がある。またプロ野球引退翌年の2013年1月には冠番組『城島健司のJ的な釣りテレビ』(RKB毎日放送)が特番で放送され、2013年4月21日からはレギュラー放送となった。
  • マリンレジャーに関心が高いことから日本水難救済会による『青い羽根募金』のアドバイザーに2009年度から就任した[40]
  • 2011年には福岡市の釣具メーカー「AURA」の商品カタログに登場している[41]

かつて、メジャーリーグに移籍したら「ジョージ・マッケンジー (George McKenzie)」という登録名にしたいと冗談で発言しており、自身がイメージキャラクターを務めていた福岡銀行コマーシャルでは2006年4月からの放送分で「ジョージ・マッケンジー」と表記され、CMソングまで作られた。阪神入団後の2010年、城島のイメージを元に創作されたキャラクター「GEORGE★McKENZIE(ジョージ マッケンジー)」のグッズが阪神球団によって制作され、7月7日から販売されている[42]

人間関係[編集]

監督として仕えた王貞治のことを、「一番ユニフォーム姿が似合って、かっこいい人。野球をしている時の目の輝きが違うし、あの歳になってもあれだけ野球を好きでいられることは凄い。敬遠の時、ボールの動きと一緒に監督も飛び上がっていたくらいですから」と語っている。高校3年在学時に、書道で好きな言葉を書く事になった際に、迷わず「」の一文字を書いたという。なお城島は書道3段の腕前である[43]。若手の時代には、王から厳しい指導も受けた[44][45]

前述にある人間観察の他にも、コーチである若菜とは麻雀を打っていた。若菜曰く「最初は話にならないくらい弱かったが、今ではこっちがおちょくられるぐらい強い」とのこと。

同期入団し、2000年に現役選手のまま急逝した藤井将雄投手を兄のように慕っていた。城島は「寮の電化製品、テレビ買いに行ったりするにも、銀行の口座を作りに行くにも、全部藤井さんの後についていった」と語っている。同年10月16日に行われた藤井の葬儀では棺を担いだ。

例年春季キャンプでは、ブルペン捕手(2005年は森浩之内之倉隆志)に公式戦で使用するキャッチャーミットの型を作ってもらっている。

尊敬する選手はかつてはホークスの先輩捕手でもある野村克也であった。しかし攻守ともに一流と認められるようになった後も野村は城島に対しては厳しい評価をすることが多い。2003年野村が『すぽると』のゲストで日本シリーズ直前の解説をした際、「確かに打者としては素晴らしいが、捕手としてなら矢野(輝弘)のほうが格段に上」と発言し、その後ダイエーが日本一になった際、城島が『すぽると』にゲスト出演し、野村に対して苦言を呈した。2009年の第2回WBCにて、細川亨を正捕手に推薦していた野村が「城島はリードが単調で彼が捕手なら日本の躍進は難しい」と再三城島を批判し、これを受け城島は3月16日(日付は日本時間)のキューバ戦で、6-0で勝利した際、「0点で抑えなきゃ野村さんに文句を言われますからね。今日の勝利は『野村ノート』(野村の著書)のおかげですよ。僕は買ってませんけどね」とやり返した。

上記の性格ゆえにプロ野球OBの評論家に一目置かれる存在でもある。豊田泰光がスポーツ紙で城島を徹底的に批判した際、読んだ城島は、その記事を寮の自室の天井に貼り付けて「いつかきっと、これを書いた奴を見返してやる」と発奮した。そして1999年の福岡ダイエーホークスの春季キャンプを取材していた豊田に「俺のことをボロクソに書くなこのヤロー!!」と怒鳴った。後に豊田は自らの著書に「城島を今の一流スターにしたのは自分だ」と記している。

2001年12月、出身地の長崎県佐世保市相浦町に城島健司ベースボール記念館がオープンしたが、2012年5月限りで閉館し、現在は「有限会社 城島企画」として稼働している。

家族[編集]

2000年11月27日にCMタレント大藤真紀(当時23歳)と結婚。出会いは1997年TVQ九州放送の『タカハチ組』というスポーツ情報番組で、3年間のオープンな交際を経ての結婚だった。結婚発表時の記者会見は福岡ドーム横のシーホークホテル&リゾート(現在はヒルトン福岡シーホーク)にて行われ、この模様が福岡放送めんたいワイド』の中でも生中継された。2001年には長男が、2003年には長女が、2006年には次男が生まれた。

ヘルメットに貼られた息子の写真を見、首に吊るした結婚指輪にキスをして、さらにはネクストバッターズサークルにて、バットで家族のイニシャルを描くしぐさをしてから打席に立つ。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1995 ダイエー
ソフトバンク
12 13 12 2 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .167 .231 .167 .397
1996 17 62 58 5 14 2 0 4 28 9 1 0 0 0 3 0 1 9 1 .241 .290 .483 .773
1997 120 470 432 49 133 24 2 15 206 68 6 2 4 7 22 1 5 62 15 .308 .343 .477 .820
1998 122 440 395 53 99 19 0 16 166 58 5 2 6 4 27 4 8 67 18 .251 .309 .420 .729
1999 135 539 493 65 151 33 1 17 237 77 6 2 6 1 31 5 8 61 13 .306 .356 .481 .837
2000 84 342 303 38 94 22 2 9 147 50 10 2 5 1 27 2 6 48 13 .310 .377 .485 .862
2001 140 578 534 63 138 18 0 31 249 95 9 4 5 2 31 2 6 55 17 .258 .305 .466 .772
2002 115 463 416 60 122 18 0 25 215 74 8 7 3 6 30 5 8 41 11 .293 .348 .517 .865
2003 140 628 551 101 182 39 2 34 327 119 9 4 2 7 53 10 15 50 22 .330 .399 .593 .993
2004 116 498 426 91 144 25 1 36 279 91 6 5 0 1 49 5 22 45 16 .338 .432 .655 1.087
2005 116 463 411 70 127 22 4 24 229 57 3 4 0 2 33 4 16 32 19 .309 .381 .557 .938
2006 SEA 144 542 506 61 147 25 1 18 228 76 3 1 0 3 20 1 13 46 15 .291 .332 .451 .783
2007 135 513 485 52 139 29 0 14 210 61 0 2 0 2 15 0 11 41 22 .287 .322 .433 .755
2008 112 409 379 29 86 19 0 7 126 39 2 0 1 2 19 1 8 33 12 .227 .277 .332 .609
2009 71 258 239 24 59 11 0 9 97 22 2 2 1 1 12 0 5 28 4 .247 .296 .406 .702
2010 阪神 144 602 554 76 168 29 0 28 281 91 9 5 2 3 27 0 16 53 22 .303 .352 .507 .859
2011 38 144 132 7 25 3 0 5 43 13 0 0 0 2 8 1 2 16 5 .189 .243 .326 .569
2012 24 42 39 4 7 1 0 0 8 5 0 0 0 1 2 2 0 4 4 .179 .214 .205 .419
NPB:14年 1323 5284 4756 684 1406 255 12 244 2417 808 72 37 33 37 344 41 113 547 176 .296 .355 .508 .863
MLB:4年 462 1722 1609 166 431 84 1 48 661 198 7 5 2 8 66 2 37 148 53 .268 .310 .411 .721
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

年度別打撃成績所属リーグ内順位[編集]

年度 年齢 所属リーグ 打率 安打 本塁打 打点 OPS
1995 19 パ・リーグ - - - - -
1996 20 - - - - -
1997 21 5位 - - - -
1998 22 - - - - -
1999 23 3位 4位 - 9位 10位
2000 24 - - - - -
2001 25 - - 9位 9位 -
2002 26 10位 - - - 9位
2003 27 6位 2位 3位 2位 7位
2004 28 3位 10位 6位 3位 2位
2005 29 7位 - - - 5位
2010 33 セ・リーグ - - 8位 7位 9位
2011 34 - - - - -
2012 35 - - - - -
  • -は10位未満(打率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)

年度別守備成績[編集]

NPB

捕手 一塁
試合数 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 試合数 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1995 9 18 3 1 1 0 .995 5 3 2 .400 -
1996 17 116 9 0 3 0 1.000 11 7 4 .364 -
1997 117 735 76 7 16 10 .991 96 65 31 .323 7 40 0 1 3 .976
1998 106 573 71 8 8 5 .988 82 53 29 .354 11 34 4 0 3 1.000
1999 135 893 81 9 16 3 .991 116 78 38 .328 3 8 0 0 2 1.000
2000 77 462 36 3 6 3 .994 43 27 16 .372 -
2001 140 815 74 6 15 4 .993 92 57 35 .380 -
2002 100 706 66 3 16 8 .996 63 31 32 .508 2 8 1 0 2 1.000
2003 140 1175 90 7 11 7 .994 82 47 35 .427 -
2004 114 828 66 4 15 7 .996 62 34 28 .452 -
2005 108 852 48 3 12 3 .997 63 38 25 .397 5 21 4 0 3 1.000
2010 144 999 77 9 13 4 .992 63 41 22 .349 -
2011 38 294 34 2 3 4 .994 20 11 9 .450 -
2012 - 8 67 3 0 3 1.000
通算 1245 8466 731 62 135 58 .993 798 492 306 .383 41 178 12 1 16 .995
MLB
年度 試合数 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 守備率 捕逸
2006 144 86 57 29 .337 .993 10
2007 133 86 46 40 .465 .998 5
2008 100 77 52 25 .325 .988 7
2009 70 41 19 22 .537 .998 4
通算 447 290 174 116 .400 .994 26
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:9回(1997年 - 2001年、2003年 - 2005年、2010年)
  • 日本シリーズ4本塁打(2000年、2003年)※シリーズタイ記録。
  • 1イニング2本塁打:2001年4月13日、対オリックス・ブルーウェーブ3回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表に木村昌広岸川登俊から
  • 1試合6安打:2003年7月27日、対オリックス・ブルーウェーブ17回戦(福岡ドーム) ※パ・リーグタイ記録
  • プロ野球歴代捕手シーズン最多安打:182(2003年)
  • パシフィック・リーグ歴代捕手シーズン最多刺殺:1175(2003年、1272守備機会)
  • パシフィック・リーグ歴代捕手シーズン最高打率:.338(2004年)

背番号[編集]

  • 2 (1995年 - 2012年)

関連情報[編集]

出演[編集]

CM
テレビ
  • 城島健司のJ的な釣りテレビ(2013年1月3日・2013年4月21日・RKB毎日放送攝津正選手と共演。
  • 列車に乗って「長崎の旅 その1 〜長崎市編〜」(2013年4月21日・RKB毎日放送)千原せいじと共演。
  • 列車に乗って「長崎の旅 その2 〜長崎市編〜」(2013年4月28日・RKB毎日放送)千原せいじと共演。
  • 列車に乗って「長崎の旅 その3〜佐世保市編〜」(2013年5月5日・RKB毎日放送)千原せいじと共演。

書籍[編集]

2001年週刊少年サンデー超(作画:郷間秀敏)、2010年週刊少年マガジン(作画:関口太郎)で2回実録漫画が発表された。内容は両作品共にホークス時代の苦悩と活躍を中心に描かれている。

参考文献[編集]

  • 柏英樹『プロ野球選手になるには』ぺりかん社、2009年

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『日本プロ野球偉人伝 vol.13 1997→99編』 ベースボール・マガジン社、2014年、34-37頁。ISBN 978-4-583-62103-6
  2. ^ 【11月18日】1994年(平6) ダイエー“20年に1人の大型捕手”城島健司を強行指名,スポニチ,日めくりプロ野球
  3. ^ 『プロ野球全記録 (2002年版)』、実業之日本社、110頁。ISBN 4-408-61577-3
  4. ^ 「2002 ベースボール・レコード・ブック」ベースボールマガジン社 43頁
  5. ^ 週刊ベースボール、2003年5月5日号、P.8
  6. ^ 『ベースボールマガジン 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボールマガジン社出版 発行日2005年1月1日、40頁、雑誌07915-1。
  7. ^ 『応援ありがとう!2005福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2005年、30頁。ISBN 4-7973-3331-6
  8. ^ [1]
  9. ^ a b 『NHKスペシャル』「城島健司捕手(シアトル・マリナーズ)」2006年11月12日放送
  10. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』 廣済堂出版、2007年、233頁。ISBN 978-4-331-51213-5
  11. ^ http://mlb.yahoo.co.jp/headlines/?a=3528
  12. ^ Jim Street / MLB.com, "Mariners keep Kenji through 2011," MLB.com, April 25, 2008. 2009年10月8日閲覧。
  13. ^ Jayson Stark / ESPN.com, "Year-end awards: MVPs and LVPs, Cy Youngs and Yuks ...," ESPN.com, September 27, 2008. 2009年10月8日閲覧。
  14. ^ Seattle Mariners Fielding Statistics - 2009, ESPN
  15. ^ http://sports.espn.go.com/mlb/players/gamelog?playerId=6194
  16. ^ http://espn.go.com/mlb/players/gamelog?playerId=6194
  17. ^ Mariners catcher Kenji Johjima opts out of final two years of contract, Mariners.com(英語)、2009/10/19
  18. ^ 「城島獲得」へ阪神球団が1番に名乗り 日刊スポーツ、2009年10月21日。
  19. ^ http://www.nishinippon.co.jp/nsp/hawks/item/130987
  20. ^ [2] 報知新聞、2009年10月28日。
  21. ^ 城島 来季開幕絶望的…左ひざ手術で復帰まで半年 スポーツニッポン、2011年6月10日。
  22. ^ 城島、虎戦士にざんげ…リハビリ再開 デイリースポーツ、2011年9月3日。
  23. ^ 城島、今季絶望…再度左膝手術 デイリースポーツ、2011年8月17日。
  24. ^ 阪神・城島が抹消…右肘治療に専念 デイリースポーツ、2011年6月10日。
  25. ^ 城島ヘルニア手術「選手として症状重い」日刊スポーツ、2012年5月17日。
  26. ^ 城島が左膝裏肉離れ…今週中安静日刊スポーツ、2012年8月22日。
  27. ^ 【阪神】城島が現役引退を表明日刊スポーツ、2012年9月28日。
  28. ^ 「捕手できず辞める」/城島引退日刊スポーツ、2012年9月28日。
  29. ^ 城島引退「精いっぱいのけじめ」/一問一答
  30. ^ 城島 最初も最後も中前打「野球人として悔いはない」スポーツニッポン 2012年9月29日
  31. ^ 2012年度 任意引退選手”. 日本プロ野球機構 (2012年10月18日). 2012年10月23日閲覧。
  32. ^ 城島健司のJ的な釣りテレビ”. RKB毎日放送. 2014年8月17日閲覧。
  33. ^ a b c 現役スカウト部長による“本物”のスカウティング・レポート『月刊スラッガー』2007年6月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-6、18-21頁。
  34. ^ Removing the Mask Encore Presentation”. Baseball Prospectus. 2014年2月13日閲覧。
  35. ^ デイリースポーツonline
  36. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』 白夜書房、2005年、27頁。ISBN 4-86191-015-3
  37. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、999頁。ISBN 978-4-86191-710-3
  38. ^ 「城島健司さん(佐世保市)」が突然長崎新聞の釣り欄に登場
  39. ^ 商品「釣ファン2008年1月号」の詳細など
  40. ^ 日本水難救済会 青い羽根募金 日本水難救済会オフィシャルサイト
  41. ^ AURA Catalog 2011 pp.30 - 31
  42. ^ 「GEORGE★McKENZIE」グッズの発売について 阪神タイガース球団ニュース
  43. ^ TBSZONE』2000年10月26日放送
  44. ^ “【10月28日】1999年(平11) 笑顔、笑顔、また笑顔 福岡ダイエー涙なしの初の日本一”. Sponichi Annex. (2010年10月28日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10october/KFullNormal20101001227.html 2014年3月27日閲覧。 
  45. ^ ソフトB王会長、松中に温情見せず日刊スポーツ 2013年6月16日付

関連項目[編集]

外部リンク[編集]