与田剛

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与田 剛
サウザンリーフ市原 コーチ #29
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県君津市
生年月日 1965年12月4日(48歳)
身長
体重
182 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1989年 ドラフト1位
初出場 1990年4月7日
最終出場 1999年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

与田 剛(よだ つよし、1965年12月4日 - )は、福岡県北九州市生まれ、千葉県君津市出身の元プロ野球選手投手)。1999年から2000年までの登録名は「与田 剛士」(読み同じ)。現在はNHK野球解説者東京中日スポーツ野球評論家。社会人野球チーム「サウザンリーフ市原」の投手コーチ

夫人は元TBSアナウンサー木場弘子

経歴[編集]

亜細亜大学時代は故障が多く、登板機会はほとんどなかった。大学時代に右腕の血行障害を患っていたが、これは筋肉が発達し過ぎたのが原因という珍しい症例だった。しかし、NTT東京時代に150km/hを超える剛速球が注目され、全日本代表メンバーに抜擢。

1989年度ドラフト会議中日ドラゴンズが1位指名で交渉権を獲得。当初は在京球団を希望していたが[1]、後に契約金7500万円、年俸720万円(金額は推定)で入団合意した[2]。初登板は1990年4月7日の横浜大洋ホエールズとの開幕戦で、同点で迎えた延長の11回表無死1、3塁のピンチでのリリーフ登板であったが2つの三振を含む無失点に抑えた[1]。その後も抑えとして活躍し、6月1日にセ・リーグ新人選手初の二桁セーブを記録した[1]オールスターゲームにもファン投票で選出[1]され、新人では史上最多となる31セーブを挙げ、新人王最優秀救援投手を獲得した。8月15日の広島戦(広島市民球場)では157km/hの球速を計時して当時の日本人プロ最速記録している[1]。その剛速球と名前から剛球投手と呼ばれた。リリーバーを続けるうちに肩・肘への負担が選手寿命を縮めるパターンに陥り、4年目以降は右肘痛のため思うような成績を残せず1996年シーズン途中に内藤尚行との交換トレード千葉ロッテマリーンズに移籍。1996年は2A・メンフィス・チックスに野球留学した。1997年も一軍登板できず、オフにロッテを自由契約となる。

1998年日本ハムファイターズにテスト入団(当時新人王経験者でのテスト入団は与田が初であった[要出典])。抑え不在だったチーム事情もあり期待されたが、キャンプ終盤肘を故障、4月に遊離軟骨除去手術を受けプロ入り初の1軍・2軍通じて登板なしに終わる。しかしシーズンオフの教育リーグで好投し残留。1999年10月2日のシーズン最終戦のロッテ戦に4年ぶりの一軍登板したが、自由契約となる。

2000年阪神タイガースにテスト入団。キャンプ・オープン戦で好投し、当時監督の野村克也からもストッパー候補として名が上がっていた。しかしオープン戦終盤、好投した翌朝ベットから起き上がれないくらいの腰痛に襲われる。この腰痛により戦線離脱し結局1軍登板もなく、同年限りで現役を引退した。

引退後。2001年よりNHK野球解説者の傍ら、千葉県社会人野球チームサウザンリーフ市原の投手コーチを務めている。また、全日本女子野球チームの投手コーチも務めた。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表投手コーチ(ブルペン担当)として、大会2連覇に貢献した。WBCでは、大差のリードがある試合でブルペンで待機していた投手陣にベンチに戻って応援するよう指示した山田久志投手コーチに対し、何があるかわからないからと戻らなくていいと言って、意見が対立した。

2009年4月から2011年3月までNHK「サンデースポーツ」のメーンキャスターを務めた。引退して解説者の仕事を引き受けた後、元アナウンサーの夫人から話し方や表情の作り方を丁寧に教わったという。

2012年10月10日に、2013 ワールド・ベースボール・クラシックまでの野球日本代表の投手コーチへの就任が発表された[3]

人物[編集]

肩幅が広く現役を引退してからも肩幅について話題になる。「肩幅60cm」と報じられることもあり[4]、与田よりも10センチ以上身長の高いダルビッシュが「どうなってるんですか。その肩幅は。」と声をかけるほどである[5]。NHKアナウンサーの廣瀬智美は「私にとっては安心感すらある、この広い肩幅」と形容して紹介したことがある[6]

初登板の時にはホームでのクロスプレーをめぐり、判定はアウトで得点を許さなかったものの激しい接触をした相手ランナーに激怒して乱闘寸前の一因になった。死球を与えてもなかなか頭を下げることは無く、1994年6月22日の対横浜戦ではグレン・ブラッグスに体を背ける内角球を投げた際にも、やはり与田は謝らなかったために、ブラッグスはマウンドまで駆け寄り、与田にパンチを浴びせ両軍入り乱れての大乱闘となった。その場で退場になった与田(ブラッグスも退場)はベンチに戻る際、グローブをベンチシートに思い切り叩きつけた。

「努力」や「頑張れ」という言葉が嫌いで代わりに昔から「準備」という言葉を使っている。[7]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1990 中日 50 2 0 0 0 4 5 31 -- .444 353 88.1 64 10 28 2 5 70 2 0 34 32 3.26 1.04
1991 29 0 0 0 0 0 3 2 -- .000 197 45.1 39 4 26 0 2 38 4 0 17 16 3.18 1.43
1992 41 2 0 0 0 2 5 23 -- .286 315 72.1 60 6 38 5 2 69 3 0 28 28 3.48 1.35
1993 15 1 0 0 0 1 3 3 -- .250 100 19.1 23 5 19 0 1 18 1 0 23 21 9.78 2.17
1994 7 3 0 0 0 0 3 0 -- .000 81 15.0 21 2 15 0 1 12 4 0 21 20 12.00 2.40
1995 5 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 38 6.0 10 2 10 0 1 5 0 0 8 8 12.00 3.33
1999 日本ハム 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 1 0 1 0 0 0 0 0 1 1 9.00 2.00
通算:7年 148 9 0 0 0 8 19 59 -- .296 1089 247.1 218 29 137 7 12 212 14 0 132 126 4.58 1.44
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 29 (1990年 - 1996年)
  • 30 (1997年)
  • 34 (1998年 - 1999年)
  • 38 (2000年)

登録名[編集]

  • 与田 剛 (よだ つよし、1990年 - 1998年)
  • 与田 剛士 (よだ つよし、1999年 - 2000年)

関連情報[編集]

著書[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]