五十嵐亮太
メッツ時代(2010年10月3日)
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 北海道留萌市 |
| 生年月日 | 1979年5月28日(32歳) |
| 身長 体重 |
5' 11" =約180.3cm 200 lb =約90.7kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1997年 ドラフト2位 |
| 初出場 | NPB / 1999年4月20日 MLB / 2010年4月8日 |
| 年俸 | 125万ドル(2010年)[1] |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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五十嵐 亮太(いがらし りょうた、1979年5月28日 - )は、北海道留萌市出身のプロ野球選手(投手)。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前
柏井ジャガースで軟式野球を始め、その後は千葉北のリトル・シニアに所属。中学時代までは一塁手で、敬愛学園高進学後、五十嵐の鉄砲肩を見抜いた監督より投手への転向を促され、県内屈指の豪腕投手と呼ばれる。高3の夏の最後のマウンドは体調不良により前日に点滴を打ちながら登板する。
1997年のドラフトでヤクルトスワローズから2位指名を受け、入団する。
[編集] ヤクルト時代
1998年は二軍で10試合に登板、30奪三振を記録して注目を集めた。ファーム日本選手権でMVP獲得。
1999年は開幕こそ二軍で迎えたが、廣田浩章の降格に伴い4月20日に一軍初昇格。その日の中日ドラゴンズ戦の12回表同点の場面で初登板したが、制球を乱して敗戦投手となった。その後も故障者の多い投手事情もあって一軍に残留。5月27日の横浜ベイスターズ戦では、7回表から登板して1回を無失点に抑えると、その裏にチームが3点を取って逆転し、プロ入り初勝利を挙げた。その後6月末には二軍に落ちたが、8月に復帰。終盤戦では最速154km/hの速球が買われ、徐々に接戦での登板も増加。四死球の多さが課題とされたが、中継ぎのみで最終的に6勝を記録する活躍を見せた。
2000年は前年の活躍を受け、自身初の開幕一軍入り。チームは開幕6戦で1勝5敗とスタートダッシュに失敗していたが、4月だけで3勝1敗の五十嵐の活躍を受けて徐々に持ち直した。一時は「五十嵐が投げると勝てる」とまで言われ、中継ぎのみでオールスター戦前だけで11勝を記録。ハーラーダービートップを走り、監督推薦で自身初のオールスターゲームにも出場した。しかし8月8日の試合でマメが潰れ、二軍降格。復帰後は勝ち星を挙げることが出来ず、最多勝は14勝のメルビン・バンチに譲った。オフには古田敦也と共に最優秀バッテリー賞に選ばれた。
2001年はキャンプ中に全治1ヶ月の肉離れを発症する。3月に復帰して開幕こそ一軍に間に合わせたが、5月にも右肘痛を発症して二軍に降格。復帰は7月半ばまでずれこみ、チームが優勝する中、波に乗り切れない一年となってしまった。それでも41試合に登板し、防御率は自己最高の2.59と、終盤のチームを支えた。大阪近鉄バファローズ戦の日本シリーズにも第2戦8回裏同点の場面で登板したが、タフィ・ローズに3点本塁打を打たれて敗戦投手となり、以降の試合には出場しなかった。
2002年はファンからの公募により、同僚の石井弘寿と共にロケットボーイズの愛称が付いた。シーズンでは不動のセットアッパーとしてチームに貢献し、自身初めて開幕からシーズン終了まで一軍で過ごしている。7月には監督推薦で自身2度目のオールスターゲームに出場し、速球勝負でも話題を集めた。最終的には64試合に登板し、中継ぎのみで8勝を記録した他、防御率は2.08と自己最高の成績を残した。
2003年は故障者の多い投手陣の中で前年に続いて開幕から一年間一軍に定着。監督推薦で3度目のオールスターゲーム出場を果たした。2年連続60試合登板となる66試合に登板し、勝利の方程式の一翼を担った。
2004年は前年まで抑えを務めた高津臣吾の退団もあって、抑えに回る。6月3日の阪神タイガース戦で伊良部秀輝や山口和男と共に日本プロ野球最速タイ記録となる最速158km/hを今岡誠に対して記録(2005年5月11日に、マーク・クルーンが159km/hを出して更新。日本人選手では2010年にヤクルトの由規が161km/hを記録し更新)。史上初のストライキが解除された後、最初の試合となった9月20日にも、対阪神戦で矢野輝弘に対し、3球連続を含む計4球で158km/hを計測し、「速球王」の称号を手にした。7月にはファン投票1位に選ばれ、自身4度目のオールスターゲームに出場。最終的には5勝3敗37セーブという成績で最多セーブ投手に輝いている。
2005年抑えとしての働きを期待されていたが、開幕前に大腿部を故障。開幕には間に合わせたものの、不振で4月半ばには2001年以来の二軍降格も経験した。怪我や不調もあって成績はいまいちだったものの、2年連続ファン投票1位に選ばれて5度目のオールスターゲームに出場した。最終的には49試合に登板したが、4年連続の60試合登板はならなかった。
2006年も抑えとしての働きを期待され、開幕の対阪神戦でセーブを記録。しかし成績が安定せず、6月半ばには二軍降格。8月に復帰したものの、9月18日の試合を最後に一軍登録を抹消。その後精密検査を受けた際に、右肘靭帯断裂が発覚。オフにトミー・ジョン手術を受ける。この手術のリハビリの影響で、2007年の復帰が絶望的であることを11月12日の選手会主催イベントで発表した。翌2007年は一年間をリハビリに費やし、実戦登板は一軍二軍共になかった。10月にフェニックスリーグで復帰登板を果たす。
2008年はキャンプ・オープン戦共に順調に過ごし、開幕戦の3月28日の読売ジャイアンツ戦の9回表に登板。球速も154km/hを記録し、1年半ぶりの公式戦登板を無失点で切り抜けた。しかしその試合で全治3週間の肉離れを発症し、一時戦線離脱。4月29日に再登録されると、以降は接戦・勝ち試合での起用が増え、9月20日の対横浜戦(神宮)では復帰後最速の157km/hを記録し、自身としては約2年半ぶりのセーブを挙げた。トミー・ジョン手術を受けた投手の中には後遺症や長期の療養により球速が落ちてしまうケースも見られるが、球速は術前と同等まで回復した。なおこの年は、四死球も非常に少なく以前に見られた自滅するということは殆どなく、安定感のある投球が目立った。8月2日にはFA権の取得条件を満たした。11年目で初取得となった五十嵐はこの日「取得できたことはうれしい。シーズンが終わってからゆっくり考えたい」と行使に関する言及は避けた。
2009年は前年同様、林昌勇につなぐ8回のセットアッパーとして開幕。シーズン中に林昌勇が記録した20試合連続無失点の球団記録を更新して21試合連続無失点を記録。8月29日の中日戦でプロ通算500試合登板を記録するも、バント処理の際に腰痛を発症し、翌日登録抹消となった。シーズン終盤は疲労からか、打ち込まれることや四球を出す試合が多くなった。
オフにアーン・テレムを代理人としてFA権を行使し[2]、ニューヨーク・メッツと2年総額300万ドル(約2億7,000万円)で契約した[3]。
[編集] メジャー時代
2010年、スプリングトレーニングでは防御率7.90、WHIP2.12と打ちこまれたものの、4月8日のフロリダ・マーリンズ戦でメジャー初登板。14日のコロラド・ロッキーズ戦では最速97mph(約156km/h)を記録するなど開幕直後は7試合の登板で防御率1.35、WHIP1.05と良い滑り出しを見せていたが、4月21日に大腿裏の故障でDL入り。5月23日に復帰したが打ち込まれ、防御率7.91で7月初旬にマイナーに降格。8月下旬には復帰し、チーム161試合目に1/3イニングを投げた直後に味方が勝ち越す幸運もありメジャー初勝利を挙げる。最終的に31試合の登板で1勝1敗、防御率7.12、WHIP1.55に終わった[4]。この年はこれまで投球割合のほとんどを占めてきたストレートとフォークの他に、フォークとほぼ同じ割合でカーブを交えるようになった。中でも速球系の球種は奪った三振の内70%を占めるなど一定の効果を発揮したが、カーブはストライク率が40%を切るなど制球難に陥り、フォークも被打率.421と打ち込まれ、変化球の精度の低さに苦しんだ[5]。
2011年1月3日にはチームがクリス・カプアーノとテイラー・バックホルツと契約したことに伴い40人枠から外れた。スプリング・トレーニングには招待選手として参加するも、AAA級バッファローで開幕を迎え、4月10日のポータケット戦で初セーブを記録。翌11日にメジャーに昇格するも5月16日にAAA級バッファローに降格。バッファローでは19試合の登板で0勝1敗4セーブ、防御率0.94、WHIP0.80と好投し7月15日に再昇格。45試合の登板で4勝1敗、防御率4.66、WHIP1.84の成績を残した。高めの速球の空振り率が30%を越えるなど[6]、奪三振率は2005年以降ではキャリア最高となる9.78と高い数値を記録したが、与四球率6.52と制球に苦しんだ。この年までのメジャー通算5勝はすべて1/3回の投球での勝利投手だった。10月20日には再契約交渉がまとまらずFAとなり[7]、ドミニカ共和国のウィンターリーグに参加。11試合の登板で3セーブ、防御率3.38、WHIP1.41の成績を残した。12月14日にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ[8]。
[編集] 選手としての特徴
ヤクルト時代はセ・リーグの速球王として人気を博し、同僚の石井弘寿とともにロケットボーイズの愛称で呼ばれた。リリーフ登板のみで前半戦11勝を記録した2000年を始め勝ち星に恵まれたシーズンが多く、スワローズの公式ホームページでは「勝利の女神が惚れた男」というキャッチフレーズを付けられたこともある。
平均球速約93mph(約150km/h)[9]、最速158km/hと抜群のスピードを誇る速球(フォーシーム、ツーシーム、カッター)と平均球速約86mph(約138km/h)のSFF気味のフォーク[9][10]を武器とし、日本での通算奪三振率9.95と奪三振が多い。一方で4球連続ボールを与えることがシーズンで10回以上ある[11]など2006年まで通算与四球率4.09と制球が安定していなかったが、トミー・ジョン手術から復帰した2008年から2009年にかけては通算与四球率2.40と安定させた。
2005年以前は投球割合の7~8割を速球が占めていたが[12]、2006年には速球の投球割合が減り、故障から復帰した2008年からはフォークの投球割合が約4割となる[13]。2010年には投球割合のほとんどを占めてきたストレートとフォークの他に、フォークとほぼ同じ割合でカーブを交えるようになり[5]、2011年には握りを深くして落差を大きくしたフォーク[14]とスライダーも交えるようになった[15]。
同じく速球投手であるロジャー・クレメンスを範とする[要出典]。担いで腕を押し出すようにして投げる独特のピッチングフォームであり、クイックも1.1秒台前半と速い[16]。敢えて腕を畳んだまま最小の半径で腕を振ることが、爆発的な速球を生み出す源になる[17]。理論的には、フィギュアスケートで腕を縮めるとスピンの回転が速くなるのと同じという。反面、腕にかかる負担は大きい[要出典]。
[編集] その他
[編集] 家族・交流
叔父が北海道夕張工業高等学校の投手、父親が北海道夕張南高等学校のアルペン国体選手というスポーツ一家に生まれる。母親はヤクルトOBで監督も務めた若松勉と留萌中学校の同窓。
妻は横浜ベイスターズのマスコットガールをしていた。2人の間には2003年に生まれた娘と2007年に生まれた息子がいる。
メジャー移籍を口にする選手も多い中、ブログ・インタビューなどで度々チームや日本野球への愛着を述べていて、メジャー移籍願望を否定していたが、FA権を取得した際には将来のメジャー移籍も選択肢のひとつと語った。
アイドル歌手グループSMAPの木村拓哉に顔が似ているとされ、『球界のキムタク』という異名を持つ。『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)出演時にて語ったエピソードによれば、嫁と買い物に行ってエスカレーターですれ違うときに、(横にいるのが)「静香(工藤静香)じゃない!」と言われたこともあったという。ただ、本人は常に似ていないと言っている。『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ)に古田敦也と共に出演した後、実際に木村拓哉と対面も果たしている。
[編集] スワローズマン
2008年のオフに『五十嵐の親友』を名乗る謎の覆面男「スワローズマン」が出現した。オフの間、五十嵐のトレーニングを手伝うつもりで北海道の留萌からやって来たという。覆面レスラーU.M.Aからプレゼントされたスワローズデザインのマスクを2007年のファン感謝デーにかぶって登場したことから誕生したキャラクターだが、どこからどう見ても五十嵐本人である。なお、スワローズマンはブログを開設している。[2]
2009年オフの五十嵐のメジャー挑戦を期に、メキシコでのプロレス挑戦を宣言し活動休止となった。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999 | ヤクルト | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 1 | -- | .600 | 207 | 47.2 | 34 | 4 | 29 | 0 | 1 | 59 | 3 | 1 | 27 | 26 | 4.91 | 1.32 |
| 2000 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 4 | 1 | -- | .733 | 301 | 75.1 | 42 | 11 | 33 | 3 | 1 | 90 | 6 | 0 | 28 | 26 | 3.11 | 1.00 | |
| 2001 | 41 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 180 | 41.2 | 25 | 2 | 28 | 2 | 2 | 51 | 1 | 0 | 13 | 12 | 2.59 | 1.27 | |
| 2002 | 64 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 4 | -- | .800 | 300 | 78.0 | 49 | 8 | 18 | 2 | 3 | 97 | 8 | 0 | 19 | 18 | 2.08 | 0.86 | |
| 2003 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 310 | 74.0 | 60 | 9 | 33 | 2 | 1 | 83 | 7 | 1 | 33 | 32 | 3.89 | 1.26 | |
| 2004 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 37 | -- | .625 | 313 | 74.1 | 57 | 9 | 36 | 5 | 1 | 86 | 4 | 0 | 24 | 22 | 2.66 | 1.25 | |
| 2005 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 4 | 11 | .600 | 246 | 56.2 | 52 | 6 | 27 | 2 | 1 | 60 | 6 | 0 | 24 | 22 | 3.49 | 1.39 | |
| 2006 | 29 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 1 | .333 | 119 | 25.0 | 33 | 3 | 11 | 1 | 2 | 18 | 4 | 0 | 20 | 17 | 6.12 | 1.76 | |
| 2008 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 3 | 12 | .600 | 171 | 43.2 | 35 | 3 | 6 | 0 | 2 | 42 | 3 | 0 | 13 | 12 | 2.47 | 0.94 | |
| 2009 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 3 | 29 | .600 | 221 | 53.2 | 42 | 3 | 20 | 1 | 3 | 44 | 1 | 0 | 19 | 19 | 3.18 | 1.16 | |
| 2010 | NYM | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 2 | .500 | 135 | 30.1 | 29 | 4 | 18 | 1 | 0 | 25 | 3 | 0 | 24 | 24 | 7.12 | 1.55 |
| 2011 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 2 | .800 | 190 | 38.2 | 43 | 2 | 28 | 2 | 4 | 42 | 3 | 0 | 20 | 20 | 4.66 | 1.84 | |
| NPB:10年 | 507 | 0 | 0 | 0 | 0 | 47 | 29 | 54 | 53 | .618 | 2368 | 570.0 | 429 | 58 | 241 | 18 | 17 | 630 | 43 | 2 | 220 | 206 | 3.25 | 1.18 | |
| MLB:2年 | 79 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 0 | 4 | .714 | 325 | 69.0 | 72 | 6 | 46 | 3 | 4 | 67 | 6 | 0 | 44 | 44 | 5.74 | 1.71 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル
- 最優秀救援投手:1回 (2004年)
[編集] 表彰
[編集] 記録
- NPB
- 初登板:1999年4月20日、対中日ドラゴンズ4回戦(明治神宮野球場)、12回表に3番手で救援登板、1/3回3失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、12回表に山崎武司から
- 初勝利:1999年5月27日、対横浜ベイスターズ9回戦(明治神宮野球場)、7回表に3番手で救援登板、1回無失点
- 初セーブ:1999年10月3日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、8回裏に2番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初ホールド:2005年5月21日、対オリックス・バファローズ2回戦(明治神宮野球場)、7回表2死に4番手で救援登板、1回1/3を無失点
- 500試合登板:2009年8月29日、対中日ドラゴンズ20回戦(明治神宮野球場)、9回表に2番手で救援登板、1/3回無失点 ※史上84人目
- 1球勝利投手:2006年5月2日、対広島東洋カープ4回戦(明治神宮野球場)、9回表2死に新井貴浩を一邪飛 ※史上21人目(セ・リーグ12人目)
- オールスターゲーム出場:5回 (2000年、2002年 - 2005年)
[編集] 背番号
- 53 (1998年 - 2009年)
- 18 (2010年 - )
[編集] 脚注
- ^ [1]
- ^ 五十嵐が米大リーグ挑戦 スポーツニッポン 2009年11月9日閲覧
- ^ Mets sign RHP Ryota Igarashi ニューヨーク・メッツ公式サイト、2009年12月18日閲覧
- ^ “Ryota Igarashi Profile”. ESPN. 2011年10月29日閲覧。
- ^ a b 2010-11 MLB投手白書 主要250投手ピッチ・アナリシス/救援投手編 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、38頁。
- ^ MLB投手白書 主要250投手ピッチ・アナリシス/救援投手編 主要107救援投手 持ち球一覧/球種別平均球速 『月刊スラッガー』2012年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、52頁。
- ^ “他球団との交渉解禁…メッツ、五十嵐の解雇を正式発表”. スポーツニッポン (2011年10月23日). 2011年10月29日閲覧。
- ^ “五十嵐がパイレーツ入り=マイナー契約で-米大リーグ”. 時事通信 (2011年12月15日). 2011年12月15日閲覧。
- ^ a b Ryota Igarashi Pitch FxFanGraphs
- ^ 五十嵐亮太&高橋尚成はメジャーで通用するか? 伊東勤氏がズバリ解説!『週刊ベースボール』2010年3号、ベースボール・マガジン社、雑誌20441-1/25、16-17頁。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』 白夜書房、2005年、88頁。ISBN 4-86191-015-3。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』 白夜書房、2007年、102頁。ISBN 978-4-86191-246-7。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』 白夜書房、2009年、128頁。ISBN 978-4-86191-508-6。
- ^ 五十嵐亮太、メジャー生き残りをかける2種類のフォークweb Sportiva、2011年3月6日。
- ^ 五十嵐「もう少し早く結果出ていれば」日刊スポーツ、2011年9月29日。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、410頁。ISBN 978-4-7572-1628-0。
- ^ スポーツうるぐすによる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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