ジェフ・ウィリアムス

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ジェフ・ウィリアムス
Jeff Williams
HT-Jeffrey-Williams.jpg
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 キャンベラ
生年月日 1972年6月6日(42歳)
身長
体重
183 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年
初出場 MLB / 1999年9月12日
NPB / 2003年3月29日
最終出場 MLB / 2002年9月28日
NPB / 2009年7月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム Flag of Australia.svg オーストラリア
五輪 1996年2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

ジェフリー・フランシス・ウィリアムス(Jeffrey Francis Williams)ことジェフ・ウィリアムス(Jeff Williams、1972年6月6日 - )は、オーストラリアキャンベラ出身の元プロ野球選手投手)。

経歴[編集]

メジャー時代[編集]

9歳からティーボール、11歳から野球を始め、ベルコネン高校時代にはキャンベラのクラブチームに所属。そこで優秀な左投手と評判になった。これを聞きつけたメジャーリーグ関係者からアメリカ留学を薦められた。地元のホーカー大学からサウスイースタン・ルイジアナ大学に進学して心理学を専攻。4年生の時には全米大学リーグのナショナルチームにも選出された。またアトランタオリンピックのオーストラリア代表として活躍し、日本戦では2番手として投げて勝利投手になっている[1]

その後、ドラフト外でロサンゼルス・ドジャースと契約。1999年にメジャー昇格し、オーストラリア人9人目のメジャーリーガーとなる。メジャーデビューは同年9月12日、ドジャー・スタジアムでの対ニューヨーク・メッツ戦で、9回表にドジャースの5番手投手として登板し、最初の打者ロビン・ベンチュラを四球で歩かせている。同じ試合で、後に千葉ロッテマリーンズに所属したベニー・アグバヤニとも対戦し三ゴロに仕留めた。これがウィリアムスが討ち取ったメジャーにおける初アウトである。また当時のメッツには、ボビー・バレンタイン監督や控え選手のマット・フランコもいたが、のちに彼らとは日本の交流戦や日本シリーズなどで顔を合わせることになる。

2001年のシーズン終盤、ジム・コルボーンコーチの指示によりサイドスローに転向する[1]2002年にはドジャース傘下の3Aラスベガスでリーグ最多の28セーブを記録した。

MLBにおける最後の被本塁打は2002年5月23日、ミラー・パークでの対ミルウォーキー・ブルワーズ戦で、打者は後に中日ドラゴンズ広島東洋カープでもプレーしたアレックス・オチョアである。この試合では、ヤクルトスワローズからドジャースに移籍してチームメートとなった石井一久が先発しており7勝目を挙げている。

阪神時代[編集]

2002年オフに阪神タイガースに入団。入団当初はセットアッパーとして起用されていたが、開幕当初にクローザーに起用されていたルー・ポートの不調から、急遽クローザーを務めることとなった。入団1年目は52試合に登板防御率1.54, 25セーブを挙げチームのリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは、福岡ダイエーホークス監督の王貞治をして「あのピッチャーが出てくるのは嫌だ」と言わしめたほどの大活躍を見せる。

2004年にはアテネオリンピックのオーストラリア代表として出場。阪神ではなかったロングリリーフで、決勝トーナメント準決勝では先発したクリス・オクスプリングの後をうけ登板、日本代表を沈黙させ、代表の銀メダルに貢献した。シーズン中は右投手の安藤優也とのダブルストッパー策が失敗し、成績が悪化。4敗という成績のため阪神との契約継続は微妙だったが、オリンピックの活躍を評価され契約に行き着いた。オフには阪神の外国人投手としては初めてとなる複数年契約(2年)を結ぶ。

2005年はセットアッパー専任となり、藤川球児久保田智之とともに、JFKと呼ばれる阪神の最強リリーフ陣を形成、再び優勝に貢献。75試合に登板し、2004年にブライアン・シコースキーが記録した外国人選手年間最多登板数の62試合を更新。80試合に登板した藤川とともに史上初となるチーム70試合登板コンビとなる。同年11月に持病の左膝半月板の手術を受けた。WBCオーストラリア代表に内定していたものの、手術後であるために辞退。

2006年の春季キャンプ中には再び左膝に痛みを訴え、同年3月に2度目の内視鏡による左膝半月板の修復手術を受ける。シーズン開幕には間に合わなかったものの、5月31日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で復帰すると、前年同様安定した成績でチームを支えた。同年オフ、メジャーリーグ球団からの入団オファーがあったものの阪神に残留した。

2007年もJFKの一角として引き続きセットアッパーを務め、現行のホールドポイント制になって最初の100ホールドポイント達成投手となる。5月3日の横浜戦(横浜)で村田修一にソロホームランを喫してから、9月18日の巨人戦(甲子園)で二岡智宏にタイムリーを打たれるまで、4か月以上に渡って自責点1を守った。シーズン終盤には失点を許す場面が増えたものの、終わってみれば登板60試合で1勝2敗、防御率0.96という好成績を残した。前年よりもリリース時の肘の高さを高くすることによりストレートが速くなり、切れ味の良いスライダーもより威力を発揮したことが好調の要因として本人が挙げている。さらに自らのクロスして入ってくるストレートは、抑えの藤川のホップするストレートをより速く見せるのに有効であるとも話している。

2008年は前年から一転して勝負どころで初球を痛打される場面が目立ち、防御率3.09と前年から2点以上悪化。自己ベストの5勝を挙げながらも自己ワーストタイの4敗を喫するなど不安定な投球が目立った。しかし球威の強さは健在で、奪三振率は10.58とキャリア平均を上回る好成績を残し、JFKの一角としての面目を保った。

2009年からは2年契約を結んだが、37歳という年齢と、推定年俸が200万ドルと高い選手であることから、2年目の契約更新は阪神球団が選択権を持つ形(事実上オプション)となった[2]。シーズンでは6月下旬に左肩を痛めて登録を抹消、7月に復帰したものの再び抹消された。その後は二軍で調整を続けていたが、8月下旬に手術のため帰国[2]。球団は「肩のリハビリに相当時間がかかり、来期の戦力には厳しい」と判断し、11月6日に正式に退団が発表された。阪神での7年の在籍期間はジーン・バッキーと並び、阪神の外国人投手として最長の契約期間である。

2010年に阪神首脳から駐米スカウト就任を打診されたが、「再びタイガースのユニフォームを着たい」と現役復帰を目指してリハビリを続けた[3]。一時は怪我の回復具合もよくなり投球練習もしていたが、それから間もないうちに左肩故障が再発し、2011年2月14日に現役引退を表明した[4]。阪神時代に記録した通算141ホールド・154ホールドポイントは、共に浅尾拓也によって更新されるまで日本プロ野球記録だった[5]

2011年3月、阪神の駐米スカウトに就任[6]

ドーピング疑惑問題[編集]

2007年12月13日に公表されたメジャーリーグの薬物使用実態調査「ミッチェル報告書」において、薬物の取引に関与した選手として名前があげられた。同報告書では、ニューヨーク・メッツの元職員で、薬物の違法取引で逮捕されたカーク・ラドムスキが、ステロイドホルモン剤をウィリアムスに販売したと証言している[7]。「送金者ジェフ・ウィリアムス」「受取人カーク・ラドムスキ」と記載された1,820ドルの小切手(オフィシャルチェック)の日付は、阪神在籍中の2004年12月10日であった。ラドムスキの住居から連邦捜査官が押収したアドレス帳に、ウィリアムスの名前、住所、電話番号が記されていた。ウィリアムスはこの証言についての話し合いを要求されたが、要求に回答しなかった。

ミッチェル報告書では、ウィリアムスがアルバカーキ・デュークスに所属していた1999年にも薬物を使用していたことが、当時デュークスのコーチをしていたトッド・セイラーの証言を基に述べられている[8]。当時のデュークスはロサンゼルス・ドジャース傘下のAAA級チームであり、セイラーの証言によると、1999年5月ごろから、ウィリアムスとチームメイトのマット・ハージェスポール・ロデューカマイク・ジャッドリッキー・ストーンの5選手は、最高の体調でドジャースに昇格するために薬物を使用することをセイラーに相談していた。1999年7月にウィリアムスら5選手とセイラーは、ストーンのアパートに集まり、ステロイドを注射した。ウィリアムスとハージェスがステロイドを臀部に注射しているところを、セイラーは目撃した。ウィリアムスら5選手は、ステロイドの効果を高めるためにセイラーが作成したトレーニング・プログラムの提供を受けた。なお、ハージェスとロデューカは、ウィリアムスと同様にカーク・ラドムスキから薬物を購入した選手としても名前をあげられている。

阪神球団社長の南信男によると、ウィリアムスは日本において2006年5月31日にオーストラリアオリンピック委員会、7月15日に日本野球機構によるドーピング検査を受けているのに加え、2004年のアテネオリンピックの際にもドーピング検査を受けており、3回とも検査の結果は陰性であったとされる。阪神はウィリアムスの潔白という主張を信じるとして、2007年12月19日にウィリアムスとの契約更新を発表した。

2008年1月29日に来日直後、関西国際空港で "I don't take steroids"(私はステロイドを使用していない)とプリントされたTシャツを着用して会見を行い、公式サイトと同様の主張を繰り返した上で、ミッチェル報告書にコピーが掲載された小切手について代理人に調査を依頼したと述べた。一方、告訴など法的な手続きについては今のところ考えていないと話した。

2008年2月13日、ミッチェル報告書においてウィリアムスと一緒にステロイドを注射したとされたマット・ハージェス、同16日にはポール・ロデューカが同報告書に関する声明を発表、過去の薬物使用(ロデューカは「過去の誤り」と称している)を認めて謝罪した[9][10]

プレースタイル[編集]

左のサイドスローからクロスファイヤーを活かして投げ込む、日本プロ野球左腕の最速記録156km/h[11]ストレート、変化が豊富で驚異的な切れ味を誇るスライダーと鋭い切れ味のツーシームファストボールが最大の武器。特に左打者に対するスライダーの効果は抜群で、「背中からボールが入ってくる」と形容されている。中にはストライクボールにもかかわらず避ける打者もいた。また右打者にも強く、2003年にはスライダーのあまりに大きな変化に右打者が空振りしたボールが体に当たるという珍事を数回起こしている(空振りしているため、デッドボールにはならない)。

珍しい左投右打の選手であったが、リリーフ投手であるため打席に立つシーンは滅多に見ることができなかった。

人物[編集]

外国人選手にありがちな「プライドが高い」「年俸などの契約でもめる」といったことがほとんどなかった。2005年にまだ実績のなかった久保田が抑えに抜擢された時も、「最善の策」とウィリアムスは快くセットアッパーを引き受けた[1]

メジャーからオファーが来ていたときも、矢野燿大金本知憲藤川球児らチームメイトの引き留めとチームへの愛情から残留を決めた。

2005年に阪神が優勝した際のインタビュー番組で「JFKのリーダーは誰か」と質問された時には「ジェフ」という答えが藤川球児から返ってきており、ウィリアムスが阪神リリーフ投手のリーダー的存在であることが明らかになった。また、同年に好成績を残した桟原将司橋本健太郎江草仁貴の3人を「SHE」と名付けたのもウィリアムスである。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1999 LAD 5 3 0 0 0 2 0 0 0 1.000 73 17.2 12 2 9 0 0 7 0 0 10 8 4.08 1.19
2000 7 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 35 5.2 12 1 8 0 0 3 0 0 11 10 15.88 3.53
2001 15 1 0 0 0 2 1 0 0 .667 109 24.1 26 5 17 1 1 9 1 0 18 17 6.29 1.77
2002 10 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 54 10.0 15 2 7 0 1 11 1 0 13 13 11.70 2.20
2003 阪神 52 0 0 0 0 1 1 25 -- .500 207 52.2 36 5 13 3 7 57 2 0 9 9 1.54 0.93
2004 51 0 0 0 0 2 4 14 -- .333 199 46.2 40 4 19 0 4 56 0 0 20 17 3.28 1.26
2005 75 0 0 0 0 3 3 0 37 .500 311 76.2 58 4 24 2 2 90 0 0 20 18 2.11 1.07
2006 47 0 0 0 0 3 2 3 26 .600 195 47.1 37 1 15 2 4 49 0 0 11 10 1.90 1.10
2007 60 0 0 0 0 1 2 0 42 .333 247 65.1 42 2 16 1 0 66 0 0 9 7 0.96 0.89
2008 55 0 0 0 0 5 4 5 25 .556 236 55.1 54 3 15 0 2 65 1 0 21 19 3.09 1.25
2009 31 0 0 0 0 1 1 0 11 .500 121 27.2 19 2 20 1 3 35 1 0 11 11 3.58 1.41
MLB:4年 37 4 0 0 0 4 1 0 0 .800 271 57.2 65 10 41 1 2 30 2 0 52 48 7.49 1.84
NPB:7年 371 0 0 0 0 16 17 47 141 .484 1516 371.2 286 21 122 9 22 418 4 0 101 91 2.20 1.10

記録[編集]

NPB
  • 初登板:2003年3月29日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、7回裏1死に3番手で救援登板、1回2/3無失点
  • 初奪三振:同上、7回裏に佐伯貴弘から空振り三振
  • 初セーブ:2003年3月30日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、7回裏2死に3番手で救援登板・完了、2回1/3無失点
  • 初勝利:2003年7月20日、対広島東洋カープ17回戦(阪神甲子園球場)、10回表に4番手で救援登板・完了、2回無失点
  • 初ホールド:2005年4月6日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、7回裏2死に4番手で救援登板、1/3回無失点

背番号[編集]

  • 54 (1999年 - 2009年)

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]