石井一久

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石井 一久
Ishii kazuhisa.jpg
ベンチに戻る石井
2011年8月30日(こまちスタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市若葉区
生年月日 1973年9月9日(40歳)
身長
体重
185 cm
100 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1992年6月9日
MLB / 2002年4月6日
最終出場 NPB / 2013年8月14日
MLB / 2005年9月28日
年俸 1億9,000万円(2013年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

石井 一久(いしい かずひさ、1973年9月9日 - )は、千葉県千葉市若葉区出身の元プロ野球選手投手)。マネージメントは吉本興業スポーツ部。

妻はフリーアナウンサー木佐彩子

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1989年千葉市立みつわ台中学校を卒業し、東京学館浦安高等学校に入学。高校1年生時から投手を始めたが、練習試合初登板時には5回で20何点も取られたという[1]。その後、全国大会(甲子園)出場はならなかったものの1991年の夏には千葉県大会予選4試合で52奪三振を記録し[2]、注目を浴びた。石井はプロ入りを希望し、同年のプロ野球ドラフト会議で単独1位指名したヤクルトスワローズに入団。

学生時代にサッカーを本格的にプレーした経験があり[要出典]森田一義アワー 笑っていいとも!出演時には「野球は向いてない」「サッカーをやりたかった」「知らないうちにプロ野球選手になっていた。両親は喜んでいたけど、僕はうれしくなかった」などと話している[3]

ヤクルト時代[編集]

1992年、新人の石井は「将来のエース」として背番号16という若い数字を与えられて期待され、日本シリーズ第3戦では前代未聞となる「レギュラーシーズンで未勝利の高卒新人ながら先発登板」を果たす[4]。高卒新人投手の先発登板自体、1953年の中村大成、1956年の稲尾和久、1966年の堀内恒夫、2007年の吉川光夫含めて5人だけ。全守備位置を通じて高卒新人のシリーズ先発出場は1988年の立浪和義以来4年ぶり、1990年代では唯一の事例。4回に2点を失い降板、敗戦投手となっている。

1993年8月3日の対阪神タイガース戦でプロ初勝利を達成するが、この試合は雨天コールドゲームでの勝利だった。

1994年、チームが慢性的な左投手不足であったため、中継ぎ・谷間の先発を担い、リーグ2位の54試合に登板。

1995年、初めての規定投球回数到達と2ケタ勝利を達成し、2年ぶりのリーグ優勝における中心選手の一人となった。

1996年、勤続疲労により開幕から故障離脱。後半戦復帰したが思うような投球ができずオフに左肩を手術する。

1997年、シーズン中盤まで左肩のリハビリをする。復帰後はかつての豪速球が復活し見事10勝をあげ後半のエースになる。9月2日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、史上65人目となるノーヒットノーランを達成[5]。これは4与四球を含むものだったため、横浜の投手コーチだった権藤博は「そんな記録に意味はない」と発言したが、鈴木尚典は「早くメジャー(リーグ)へ行ってほしい」とコメントした[6]。この快投は終盤戦に追い上げてきた2位の横浜を突き放す上で大きな効果を挙げ、ヤクルトは2年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでも石井は第1戦の先発。当時の日本シリーズタイの12奪三振で完封。第5戦もリリーフで2勝を記録して日本一に貢献し、自らもシリーズ優秀選手に選出された。なお、同年のオフには女性タレントの神田うのとの交際と、これに対する野村克也監督夫人の野村沙知代からの痛烈な批判が週刊誌などで報道された。

1998年4月3日の対読売ジャイアンツ戦(明治神宮野球場)で初の開幕投手を務めるも敗戦投手となる(相手先発は桑田真澄)。しかし、この年は最多奪三振を獲得したほか、シーズン三振奪取率11.047の日本新記録を達成する。一方でシーズン最多暴投の日本記録[7]を達成してしまう。翌年には初めてオールスターゲームの一員に選ばれ、第3戦に登板して勝利投手になった。

1999年、2年連続の開幕投手を務め、初の開幕勝利を記録。しかしこの年は好不調の波が激しく、象徴的な試合が、7月8日の対阪神タイガース16回戦にて8回4安打14奪三振2失点と好投していたものの9回突如大崩れをして逆転を許してしまった。シーズンも8勝に終わり規定投球回もわずか(133回)に届かなかった。

2000年3月31日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、3年連続の開幕投手を務める。関川浩一立浪和義福留孝介レオ・ゴメスデーブ・ニルソン山崎武司から6者連続奪三振を記録して勝利投手となる。9月8日の対巨人戦から、10月5日の対阪神戦まで34回1/3連続無失点を記録[8]するなど、勝ち負けは10勝9敗だったがセ・リーグの最優秀防御率と最多奪三振の二冠に輝いた。なお、同シーズンの開幕直前に、当時フジテレビアナウンサーでスポーツ取材も行っていた木佐彩子との結婚を発表した。

2001年、4年連続の開幕投手を務め、7回8奪三振で3年連続開幕勝利。前年の先発陣が移籍・退団・故障離脱により一新。先発陣の柱としてチームを牽引、年間ローテーションを守って初の完投0だったが12勝で優勝に貢献する。日本シリーズでも1997年に続き連続で第一戦目に先発。12奪三振の完封勝利する。チームに勢いを与え、見事日本一になる。日本シリーズ優秀選手賞を受賞。

オフには「今まで具体的な夢を持ったことはなかったけど、初めて描いた夢がメジャーだった」とメジャー挑戦を表明し[9]、ジョー・アーボンを代理人とする。前年から球団に訴えていたポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を目指したが、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の影響を受け、一時はヤクルトと再契約を結んでメジャーリーグへの移籍を断念する。同年12月には彩子夫人との間に長男(第一子)が誕生した。しかし、2002年1月7日に石井が移籍希望球団として挙げていたロサンゼルス・ドジャースが入札したことを受け、ドジャースと3年1230万ドルで契約を結んだ。背番号は17。入団会見では彩子夫人が小学2年から中学2年までロサンゼルス在住だったことを受けて「僕の妻はカリフォルニア人」とジョークを交え、会場の笑いを誘った。

ドジャース時代[編集]

2002年スプリングトレーニングで3本塁打を浴び、防御率は10.00を越えるなど報道陣から不安を持たれる。しかし、初先発となった4月6日の対コロラド・ロッキーズ戦で6回を2安打に抑える好投で初勝利を挙げ、監督のジム・トレーシーは「これが君たちが色々と言っていた(石井)投手の実力だよ。公式戦を見ろと言っただろ?」とコメントした。球速も96mph(約154km/h)を記録し、デビュー戦10奪三振はペドロ・アスタシオと並ぶチーム最多タイ記録だった。2度目の登板となった4月12日の対サンディエゴ・パドレス戦では「三振しか取れない投手だと思われるのもしゃくなので、打たせて取る投球も出来ることを見せたい」と語り、スプリングトレーニングで習得したツーシーム・ファストボールを用いて言葉通りに凡打を築いた。その後、4月28日の対シカゴ・カブス戦と5月15日の対ニューヨーク・メッツ戦では自己最速となる97mph(約156km/h)を計時し、開幕から6連勝と好調なスタートを切り、4月は5勝0敗でリーグ月間最優秀新人賞を受賞した。前半戦で11勝を挙げ、5月終了時点でオールスター選出はほぼ確実と見られていたが、6月から調子を落としてオールスター選出を逃す。その後も不安定な投球を続け、後半戦は防御率5.57、WHIP1.63と不調に陥った。9月8日の対ヒューストン・アストロズ戦では頭部に打球を受けて病院に搬送、頭蓋骨の亀裂骨折と診断され、「当たった場所が球1個分ずれていたら本当に危なかった」という程の大怪我でシーズンを終えた。

2003年は前半戦最後の登板で日米通算100勝を達成し、8勝3敗・防御率2.94の好成績で前半戦を終える。7月29日の対フィラデルフィア・フィリーズ戦で、ヤクルト時代からの古傷だった左膝の痛みが悪化する。その試合では早期降板も検討されたが、6回を3安打2失点に抑えた。その後「野球をしてきた蓄積で、投げようと思えば投げられないこともないが、メジャーは万全の調子でなければ簡単に成績を残せるところではないし、休む勇気もプロには必要」とコメントして故障者リスト入りし、靱帯損傷と診断された。故障者リスト入り中もチームには帯同し、8月30日の対ロッキーズ戦で復帰し、6四球を与えるも5回を3安打無失点に抑えた。9月10日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦では6回を内野安打1本に抑え、打者としてもシーズン唯一となる安打を、日米通算でも初だった右中間への三塁打で記録する活躍を見せた。

2004年からは投球にカット・ファスト・ボールチェンジアップを交えるようになり、例年に続き開幕3連勝の好調なスタートを切り、前半で10勝を記録。2002年からの3年間での前半戦勝利数29はメジャー全体でトップとなったが[10]、後半は調子を崩して中継ぎ降格を告げられ、ポストシーズンのロースターからも外れた。オフにはニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・ドジャース、アリゾナ・ダイヤモンドバックス間の三角トレードによりランディ・ジョンソンと共にヤンキースへ移籍する予定であったが、ドジャース側の撤退により破談に終わっている。

メッツ時代[編集]

2005年の開幕直前、ジェイソン・フィリップスとの交換トレードでニューヨーク・メッツへ移籍。背番号は23。しかし左膝痛が再発しての故障者リスト入りや、調整登板以外では初となるマイナー降格も経験。9月のロースター拡大で再昇格するも3勝にとどまり、「こういう苦労をしたくなかったらメジャーに来ていない。貴重な経験だと思って今後の野球人生につなげたい」とコメントした。

ヤクルト復帰[編集]

2006年1月20日古田敦也が選手兼任監督に就任したヤクルトに2億4千万円プラス出来高6千万円(推定)の2年契約で復帰した[11]。背番号はかつて自身がつけていた16。シーズン通して外れることなく先発ローテーションを守って11勝を挙げた。2007年5月17日の対中日戦(ナゴヤドーム)で、史上48人目となる日本通算1500奪三振を達成。1413投球回での達成は、江夏豊の1423投球回を抜く日本プロ野球最速となった[12]。2007年9月23日の対阪神戦で、2000年9月15日の対中日戦以来2564日ぶりの完封勝利を挙げる(通算7回目)。

2007年11月12日、前年途中に取得していたFA権を行使する。ヤクルトから慰留を受けるが、新たな環境を求めて移籍を決意。11月22日に埼玉西武ライオンズへの移籍が発表された。背番号は愛着があり、ヤクルト時代つけていた16を涌井秀章が着けていたため、16を反転した61を本人が選択。

西武時代[編集]

2008年3月29日、対福岡ソフトバンクホークス戦で日本通算100勝を達成。同シーズンでは序盤は最多勝争いに名を連ねるなど好調だったが徐々に調子を落とし、最終的には11勝10敗・防御率4点台に終わった。日本シリーズ(対巨人戦)でも第3戦・第7戦に登板し、合計8イニングで5失点。

2009年、涌井が背番号を18へ変更したため、譲られる形で背番号を16に変更。前年に比べて被打率が下がる代わりに四球が増え、9勝止まりで規定投球回も達しなかったが、投球回数を上回る奪三振数を記録。2010年5月19日の対ヤクルト戦(西武ドーム)で9回完投勝利(サヨナラ勝ち)を挙げ、12球団勝利を達成した[13](レギュラーシーズンで近鉄との対戦はなかったが、2001年の日本シリーズで近鉄に勝利している)。

2010年、ヒーローインタビューにてファンへの一言を求められた際に、犬のペロを飼い始めたことを明かし、以来ヒーローインタビューではペットの近況を報告するようになる。

2011年8月7日、対ソフトバンク戦で通算2000奪三振を達成(プロ野球20人目)。記録達成に要した投球回数は1967回2/3であり、これまでの最速記録保持者であった江夏豊を超えるプロ野球最速記録となった。が、シーズン6勝、防御率4.31と先発ではあまり結果を残すことができず、シーズン終盤にはリリーフに回った。しかしリリーフでは安定感を見せ、特にクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では、8回無死一、三塁から西口文也をリリーフして、糸井嘉男小谷野栄一稲葉篤紀をパーフェクトに抑え、1997年日本シリーズ第1戦の石井一久との投げ合いからこれまでポストシーズンで勝ち星のなかった西口のポストシーズン初勝利とチームのクライマックスシリーズファイナルステージ進出に貢献した。

2012年5月25日、対ヤクルト戦で自身5年ぶりとなる完封勝利、6月13日の対阪神戦では自身初となる無四球完封を記録した。また、シーズンで複数回完封勝利を記録したのは1997年のシーズン以来。4年ぶりの2桁勝利を達成したが、怪我から2軍に落ちる、10勝目を挙げて以降は勝ち星が無いなど課題の残ったシーズンにもなった。

2013年は左肩の不調で出遅れた。9月24日、今季限りで現役を引退することを発表[14]

引退後[編集]

引退の記者会見では、現役時代に芸能活動のマネジメントを委託していた吉本興業に、2014年4月に通常の契約社員として入社する意向を表明。あくまで同社の高卒採用枠での入社で、給料も「一般の高卒社員と同じ」という[15]。同社では一般の社員としての勤務のほか、並行してフジテレビやニッポン放送の解説者に就任した。解説者としての収入は吉本が支払う給料とは別になる予定である。(他にNHK BS1大リーグ中継」でも本数契約で、「ワールドスポーツMLB」も土曜日のレギュラーゲストとしてそれぞれ解説を担当している。)

現役スポーツ選手のマネージメント並びに引退後のスポーツ選手のマネージメントを仕事にし、広くスポーツ界に貢献するのが志望動機である。将来的には、都内の大学にて学問を修め、経営学を始めとするスポーツマネージメント、日本プロ野球、JリーグバスケットボールアメリカンフットボールなどのG.M.をする目標をたてているとのことである。

プレースタイル[編集]

石井の投球フォーム

投球時に上げた右足のひざが胸の前で構えた右肘に当たる特徴のある投球フォームとスリークォーターから投げる平均球速約142km/h[9]、最速97mph(約156km/h)の速球に加え、カーブとも呼ばれるほど独特の大きな変化を見せるスライダースラーブ[16]フォークを武器とする[9]。2001年までの通算奪三振率9.70と奪三振が多く、1998年には日本記録となる奪三振率11.047を記録した。メジャーでも2003年までは奪三振率8.46と三振が多く、決め球であるスライダーはメジャーでも高く評され、2002年に対戦したトッド・ヘルトンは「(バッターボックスの)直前まで球種の判別が出来なかった」と語った[17]。一方で好不調の波が激しく[18]、2001年までの通算与四球率4.65と制球に難があり、1998年にはセ・リーグのシーズン最多記録(達成当時はNPB最多記録)となる20暴投も記録している。

2004年頃からは変化球や投球術を駆使した技巧派の投球スタイルに変わり、それまでの球種に加え、ツーシームカットボールチェンジアップを投球に取り入れるようになった。平均球速は約138km/h[19]に落ちたが、2006年の日本球界復帰後の通算奪三振率7.78(2012年シーズン終了時)と奪三振は未だ多く、本人も「三振の取り方は知っている」と発言している [12]。かつては「速球で三振を取れなくなったら引退する」と語っていたが、今では三振の数にこだわりはないという[9]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1992 ヤクルト 12 5 0 0 0 0 0 0 -- ---- 123 28.0 23 4 17 0 2 22 2 0 13 13 4.18 1.43
1993 19 7 1 0 0 3 1 0 -- .750 266 59.1 48 8 38 1 2 66 5 0 32 31 4.70 1.45
1994 54 10 2 2 0 7 5 0 -- .583 493 108.0 92 11 77 4 6 98 4 0 56 49 4.08 1.56
1995 26 21 3 0 0 13 4 1 -- .765 633 153.0 112 14 77 3 8 159 8 0 49 47 2.76 1.24
1996 8 5 0 0 0 1 5 0 -- .167 142 31.0 28 6 22 0 2 26 1 0 19 18 5.23 1.61
1997 18 17 2 2 0 10 4 0 -- .714 466 117.2 73 5 50 2 4 120 6 1 28 25 1.91 1.05
1998 28 27 6 0 1 14 6 0 -- .700 834 196.1 149 12 105 4 8 241 20 0 78 72 3.30 1.29
1999 23 21 2 1 0 8 6 0 -- .571 589 133.0 123 16 71 1 6 162 9 0 75 71 4.80 1.46
2000 29 27 3 1 0 10 9 0 -- .526 744 183.0 137 15 73 1 6 210 11 2 54 53 2.61 1.15
2001 27 27 0 0 0 12 6 0 -- .667 732 175.0 135 18 82 0 5 173 14 0 74 66 3.39 1.24
2002 LAD 28 28 0 0 0 14 10 0 0 .583 692 154.0 137 20 106 3 4 143 7 0 82 73 4.27 1.58
2003 27 27 0 0 0 9 7 0 0 .563 656 147.0 129 16 101 4 6 140 10 2 72 63 3.86 1.56
2004 31 31 2 2 0 13 8 0 0 .619 749 172.0 155 21 98 2 4 99 3 0 97 90 4.71 1.47
2005 NYM 19 16 0 0 0 3 9 0 0 .250 399 91.0 87 13 49 3 3 53 2 0 59 52 5.14 1.49
2006 ヤクルト 28 28 0 0 0 11 7 0 0 .611 773 177.2 177 16 59 4 5 170 6 0 82 68 3.44 1.33
2007 28 27 2 1 0 9 10 0 0 .474 714 166.2 156 21 49 5 13 163 8 0 90 77 4.16 1.23
2008 西武 25 25 1 0 0 11 10 0 0 .524 593 135.1 150 16 40 1 11 108 1 0 78 65 4.32 1.40
2009 22 22 0 0 0 9 9 0 0 .500 564 130.0 113 18 67 0 6 131 6 0 71 62 4.29 1.38
2010 18 18 1 0 0 9 6 0 0 .600 453 104.2 105 10 34 0 2 93 9 0 50 43 3.70 1.33
2011 23 21 0 0 0 6 9 0 1 .400 507 117.0 122 7 32 0 10 94 1 0 61 56 4.31 1.32
2012 24 24 2 2 1 10 5 0 0 .667 560 132.1 126 14 44 0 4 74 4 0 57 49 3.33 1.28
2013 7 0 0 0 0 0 1 0 3 .000 25 5.1 5 2 4 0 0 5 0 0 4 4 6.75 1.69
NPB:18年 419 332 25 9 2 143 103 1 4 .581 9211 2153.1 1874 213 941 26 100 2115 115 3 971 869 3.63 1.31
MLB:4年 105 102 2 2 0 39 34 0 0 .534 2496 564.0 508 70 354 12 17 435 22 2 310 278 4.44 1.53
日米通算:22年 524 434 27 11 2 182 137 1 4 .571 11707 2717.1 2377 286 1293 42 117 2545 142 5 1281 1147 3.80 1.35
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB
MLB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 1000奪三振:2000年7月5日、対読売ジャイアンツ13回戦(明治神宮野球場)、6回表にダレル・メイから空振り三振 ※史上103人目(達成速度歴代2位、1位は野茂英雄
  • 1000投球回数:2000年9月28日、対読売ジャイアンツ26回戦(明治神宮野球場)、7回表3死目に加藤健を空振り三振で達成 ※史上287人目
  • 1500奪三振:2007年5月17日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に小笠原孝から空振り三振 ※史上48人目(達成速度歴代1位:NPB記録のみ)
  • 1500投球回数:2007年9月5日、対広島東洋カープ19回戦(明治神宮野球場)、5回表2死目に倉義和を一邪飛で達成 ※史上159人目
  • 100勝:2008年3月29日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(西武ドーム)、先発登板で7回2失点 ※史上125人目(日米通算139勝目)
  • 2000奪三振:2011年8月7日、対福岡ソフトバンクホークス14回戦(西武ドーム)、4回表に多村仁志から見逃し三振 ※史上20人目(史上最速:NPB記録のみ)
  • 2000投球回数:2011年9月13日、対福岡ソフトバンクホークス18回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、2回裏3死目に内川聖一を左飛で達成 ※史上85人目
NPBその他の記録
  • ノーヒットノーラン:1回 (1997年9月2日、対横浜ベイスターズ23回戦、横浜スタジアム) ※史上65人目
  • セ・リーグシーズン最多暴投20個:1998年
  • シーズン奪三振率(規定投球回以上)歴代1位 11.05:1998年
  • 全球団勝利:2010年5月19日、対東京ヤクルトスワローズ2回戦(西武ドーム)、9回2失点 ※史上9人目
  • オールスターゲーム出場:1回 (1999年)

背番号[編集]

  • 16 (1992年 - 2001年、2006年 - 2007年、2009年 - 2013年)
  • 17 (2002年 - 2004年)
  • 23 (2005年)
  • 61 (2008年)

関連情報[編集]

出演[編集]

移籍した後も、ヤクルト球団とつながりのあるフジサンケイグループへの出演が多い。

フジテレビジョン
日本テレビ
ニッポン放送
NHK BS1

など

映画

著書[編集]

CM[編集]

その他[編集]

  • 子供時代から、野球選手に興味がなく、たまたまバッターとして参加したときホームランを打ってしまったことから、注目されるようになる。プロ入りのきっかけは、「高校卒業したら辞めようと思ったらスカウトがいっぱいきたから。」
  • 引退の理由は「マンネリ化してきたから。」というものであり、特に体力の限界では無かった。周りから「もうすぐ200勝達成できたのに。」と言われても「なんで、200にこだわるのか?」と答えている。
  • デビュー年の読売ジャイアンツ戦でリリーフ登板した際めった打ちにされたにも関わらず、TV中継解説の堀内恒夫は「このピッチャーはすごくいい。近い将来、巨人のバッター達は彼にとことん苦しめられることになるだろう」と降板時に語り、その潜在能力を高く評価していた。

脚注[編集]

  1. ^ 『スポーツ20世紀―甦る「スポーツの世紀」の記憶 (Vol.2)』2000年、ベースボール・マガジン社、106頁、ISBN 4-583-61088-2
  2. ^ スポーツナビMLB選手プロフィール「石井一久」
  3. ^ 16年ぶり「いいとも!」出演の石井一久氏「経営に携わりたい」”. Yahoo!ニュース(配信元:スポニチアネックス). 2013年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月10日閲覧。
  4. ^ “【3月8日】1992年(平4) 石井一久、プロの洗礼にも「誰に打たれたっけ?」”. Sponichi Annex. (2008年3月8日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_march/KFullNormal20080224233.html 
  5. ^ “【9月2日】1997年(平9) 最後がMAX!石井一久、優勝引き寄せたノーヒットノーラン”. Sponichi Annex. (2009年9月2日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09september/KFullNormal20090901002.html 
  6. ^ ベースボールマガジン2000年夏季号 31頁「68人のノーヒッター 現役選手篇 石井一久(ヤクルト)が語る『あの時』」より。
  7. ^ 当時。2014年現在の記録保持者は新垣渚だが、左投手としては2014年現在も記録保持者である。
  8. ^ 2001 ベースボール・レコード・ブック 113頁 2000年度主要記録集「ストップした連続無失点」より。
  9. ^ a b c d 『週刊プロ野球データファイル』52号、ベースボール・マガジン社、雑誌27204-4/25、12頁。
  10. ^ 日本人メジャーリーガー・ウォッチング RISING SUN 『月刊スラッガー』2004年10月号、60頁。雑誌15509-10。
  11. ^ 2006年1月21日 日刊スポーツ関西版 11版 5面
  12. ^ a b “【5月17日】2007年(平19) 35年ぶり更新 石井一久 江夏豊を超える最速1500奪三振”. Sponichi Annex. (2011年5月17日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1105/kiji/K20110517000817780.html 
  13. ^ サンケイスポーツ 2010年5月19日
  14. ^ 西武・石井が引退表明「長かった…時期的にそろそろかな」 スポーツニッポン 2013年9月24日閲覧
  15. ^ 引退・石井一久投手「吉本興業」入社!高卒一般社員として希望配属先は広報部 - J-CASTニュース・2013年9月25日
  16. ^ 二宮清純、江川卓 『江川卓 スカウティングレポート'98』 ザ・マサダ、1998年、19頁。ISBN 4-915977-57-9
  17. ^ UNBEATABLE 石井一久『月刊スラッガー』2002年7月号、10頁。雑誌15509-7。
  18. ^ 二宮清純、江川卓 『江川卓 スカウティングレポート'99』 ザ・マサダ、1999年、115頁。ISBN 4-915977-84-6
  19. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2012年、38頁。ISBN 978-4-905411-04-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]