入来祐作

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入来 祐作
基本情報
国籍 日本
出身地 宮崎県都城市
生年月日 1972年8月13日(36歳)
身長
体重
174cm
80kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1996年 ドラフト1位
初出場 1997年4月8日
最終出場 2008年4月2日
経歴(括弧内は在籍年)

入来 祐作(いりき ゆうさく、1972年8月13日 - )は、元プロ野球選手投手)。現在は横浜ベイスターズ打撃投手

兄は同じく元プロ野球選手の入来智

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

亜細亜大学在学時は東都大学野球で通算23勝。しかし4年秋に血行障害を起こしリーグ戦で登板できなかったため、プロからドラフト会議で指名されず本田技研に入社。1996年の第67回都市対抗野球大会で優勝。橋戸賞を受賞。同年のドラフト会議読売ジャイアンツに1位指名され入団。

[編集] 巨人時代

1998年バルビーノ・ガルベスが乱闘事件を起こし出場停止処分を受けたことにより、ガルベスに代わるローテーション投手に抜擢され7勝をあげる。その年の日米野球では当時66本ホームランを打ったサミー・ソーサから三振を奪う。これがのちの大リーグ挑戦に繋がったといわれる。

1999年は前年の活躍で開幕からローテーションに入るが不調に陥る。この年2軍でノーヒットノーランを達成する。この年に兄の入来智近鉄バファローズから巨人へ移籍してきたため、球団史上初の現役兄弟選手となった。2000年までの2年間は兄弟揃って巨人に在籍していた。その際のスコアボード表記は入来弟

2001年は彼にとって飛躍の年になった、前年の不振からオフに下半身を徹底的に鍛えなおしたことで入来特有のボールが下から上に浮き上がってくるライジングボールが威力を増した、それに2000年のファーム時にバルビーノ・ガルベスの教えによって取得したチェンジアップによりボールに緩急がつけられるようになったのがこの年の大ブレークにつながった。開幕は2軍スタートだったが桑田真澄の戦線離脱により先発のチャンスが訪れる、4月12日の中日戦で8回1アウトを1失点で投げ抜き1999年以来2年振りの勝ち星をあげた。5月2日の中日戦では約3年振りの完投勝利、次の登板の広島戦では当時広島のエースだった佐々岡真司と投げ合い、初完封を記録。前半戦に8勝をあげる活躍によりで監督推薦でオールスター戦初出場を果たす(先発部門のファン投票では4位、1位は巨人の上原浩治)。オールスターの第1戦に先発する(パ・リーグの先発はロッテ黒木知宏)、2回途中で兄の入来智と交代、オールスター史上初の兄弟リレーを実現する。8月1日の中日戦で川上憲伸と投げ合いこのシーズン2度目の完封勝利を収める。(翌年の2002年8月1日も入来祐作と川上憲伸の投げ合いとなる、結果:川上憲伸がノーヒットノーランの快投)最終的に2001年シーズンは当時ヤクルト2年目の藤井秀悟と最後まで最多勝利を争うが、1勝足らずで惜しくもタイトルを逃す。巨人では同年最多の勝星を挙げる。(チーム2位は上原浩治・ダレル・メイの10勝)勝率はリーグトップだったが、セ・リーグは最高勝率のタイトルが無かった為、タイトル獲得は出来なかった。(この年パ・リーグは福岡ダイエーホークスの田之上慶三郎が最高勝率を獲得) 余談ではあるが、この年入来に5勝(1完封・1完投)を献上した中日ドラゴンズはシーズンオフに入来独特の沈むようなフォーム対策としてスクリーンに入来の姿を投影したバッティングマシンを採用した。

2002年はエースの活躍を期待されるが足の故障により離脱し、5勝4敗、防御率3.05に終わる。日本シリーズでは第5戦の先発が予想されていたが、巨人の4連勝により幻となった。 2003年はドラフトでの木佐貫洋久保裕也の加入や真田裕貴の成長により昨年ローテの5番手だった入来は先発の座が保証されていなかった。しかし背水の陣で臨んだオープン戦の初戦で足を怪我してしまう、結局この怪我が響き2003年シーズンでの一軍登板がなかった。

[編集] 日本ハム時代

同2003年オフ、井出竜也との交換トレード北海道日本ハムファイターズに移籍。このとき、2年後のメジャーリーグ行きを希望し問題となった。

2005年開幕時は中継ぎだったが、先発投手の相次ぐ故障、不調により5月から先発ローテーションに入る。ブレークした2001年の球威を取り戻し好投を続けた。特に7月17日の楽天戦(札幌ドーム)では先発し、10回1安打無失点の好投をみせる。相手投手の有銘も9回5安打無失点で日本ハム打線を抑えたため白星はつかなかったが、お立ち台にあがった。8月13日のソフトバンク戦でもその年パ・リーグの球団からは負けなしだった杉内俊哉と投げ合い、自身33歳の誕生日を見事完封勝利で飾ったが、実に2002年以来3年ぶりの完封勝利だった。結果、前年の2勝(4敗)の成績を大幅に上回る6勝7敗の成績をのこした。

[編集] 米球界時代

同2005年オフに日本ハムから推定2年2億を提示されるが固辞し、念願のメジャーリーグ挑戦を表明、メジャー契約でニューヨーク・メッツに移籍。

2006年は開幕枠に残れずマイナースタート。4月20日、メッツとマイナー契約を再締結し、メッツ傘下3Aノーフォーク・タイズに所属。4月28日に禁止薬物違反(アナボリックステロイドホルモン)として50試合の出場停止処分を受け、6月に復帰。日本人選手の薬物違反による出場停止は2005年5月に当時に2Aバーミンガムに所属していた亜大の1年後輩である養父鉄以来、2例目だった。なお、ステロイドはドーピング目的に摂取したものではなく、当時栄養補給のために常用していたサプリメントの成分が影響した不運なミスと云われている。同シーズンオフにFA申請。11月15日、メッツより解雇通知を受ける。

2007年2月、マイアミにて自主トレ、ブルペンでの投球を公開する。3月31日、トロント・ブルージェイズの入団テストに合格し、マイナー契約を締結。5月9日、マイナーリーグダニーディン・ブルージェイズの先発投手としてパーム・ビーチ相手に2007年シーズン初登板。4回2/3を投げて4安打4失点5奪三振の結果を残す。5月14日のタンパ・ヤンキース戦で、シーズン初勝利。5月18日、ニューハンプシャー・フィッシャーキャッツに合流、5月19日初先発。6月20日、シラキュース・スカイチーフスに合流、6月21日初先発。

[編集] 横浜時代・引退後

2007年9月27日にオリックス・バファローズ、10月2日に横浜ベイスターズの入団テストを受けた。横浜の入団テストに合格し入団。背番号は36。

2008年は開幕一軍を果たし3試合に登板したが、防御率8.53と結果を残せず、10月1日に戦力外通告を受けた。その後自身のブログなどで現役引退を表明した。2009年から横浜の打撃投手を務めている。

[編集] 人物

投手としては小柄な方であるが、140〜145km/hの球を躍動感のある飛び跳ねる様なフォームで投球し、良くも悪くも自分のペースでテンポよく投げ込み、相手の打者を打ち取ってゆく投球が持ち味。感情を表に出す典型的な投手だった。

頭に血が上りやすい性格であり、死球を与えてしまった打者が入来を睨むと、謝るどころか逆に立ち向かっていく仕草すら見せる程、負けん気は人一倍で、血の気の多さは過剰気味である。それが投球に災いしてしまう場合もあった。

[編集] エピソード

  • 闘志を前面に押し出すファイター・スタイルは兄譲り。
  • ダウンタウン松本人志が入来に似ていると言われることが多い様である。
  • PL学園時代は大阪府の同世代投手に北陽寺前正雄上宮宮田正直近大付属・後藤、そしてPLの入来がいて、大阪ピッチャー四天王として名前をとどろかせていた。入来は北陽高校にめっぽう相性が悪く、PL学園高等学校では甲子園に出場することはなかった。
  • 2001年のシーズン終了で引退する長嶋茂雄監督、槙原寛己投手、斎藤雅樹投手、村田真一捕手に最終戦で引退挨拶・セレモニーが行われ、入来は槙原に花束を渡す。
  • 巨人時代には長嶋監督から理由は不明だが「岡田」と呼ばれていた。当時巨人には岡田展和が所属しており、ある試合で岡田とともにリリーフに備えてブルペンで投球していたところコーチから「岡田、準備しておけ」と言われ、当然入来は自分のことではないと休んだが、その後の場内アナウンスのコールは「ピッチャー、入来」。もちろん入来はろくに肩を作ることが出来ずに登板し打ち込まれ、試合後にコーチなどから「お前、(天然で有名な)監督のことなんだから直接言われなかったにせよ準備をしておけ!」などと叱責された。
  • 2002年の対阪神戦で、打者ジョージ・アリアス相手の投球が背後に大きく外れる。ここで入来が謝罪をすれば済む話だったが、入来が「来い!」と両手で自分の胸を叩くジェスチャーをしたためアリアスは激怒し、入来を片腕で抱え込み殴打。乱闘騒ぎになった。
  • 日本ハム時代に自宅が豪雪被害に遭ったことがある。
  • 2006年のシーズンオフ、自由契約を宣告された坪井智哉トライアウトに向け自主トレーニングを行う中、元同僚でありしかもPL学園で高校時代の1年先輩である入来が帰国しており、後輩坪井のバッティング練習の投球に一役買った。この模様は「バース・デイ」(TBS)で放映された。結果坪井は、異例の自由契約後の年俸が大幅ダウンながらも日本ハムとの再契約を果たした。
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス沖原佳典とは亜細亜大学時代の同級生。
  • 祐作の弟・博之は、かつてTDKでプレーしていた。
  • 実母は非常に熱心に応援する。兄の智の試合の為に渡韓もしたが、祐作の試合もよくスタンドで観戦し激励していた。
  • 2008年3月14日に放映された「バース・デイ」は『入来祐作35歳 瀬戸際に立った男の挑戦』と題して日本球界に復帰するべくオリックス横浜の入団テストに挑み、横浜入団が決定し春季キャンプで結果を出すまでの祐作の姿を追ったものであった。入団テストやこれまでの経歴の紹介のほかに故郷宮崎県都城市の実家に戻っての家族との団欒や自分の13年の現役生活を超えて40歳まで弟に続けて欲しいと願う兄にキャッチャーをしてもらっての投げ込みなどを挫折した大リーグ挑戦を前向きに捉える思いや祐作の野球に懸ける熱い意気込みなどを交えて紹介された。
  • 週刊ベースボール』2008年5月5日号の「週ベ・ドキュメンタリー 野球浪漫2008 白球入魂 ―男たちのドラマ―」という連載記事で5ページの特集が組まれ、アメリカでのメジャー挑戦2年間の苦闘を入来本人が語った。そこではこれまで報道されることの少なかったウィンターリーグでの経験や二年目の奮闘と挫折も語られていた。
  • 日本での実績がどうだから、メジャーでこれだけ活躍できるのような方式は当てはまらないという。投手ではコントロールが優れているか、ウィニングショットがないと通用しないという。
  • 打撃では巨人時代の2001年に開幕から54打席ノーヒットというワースト記録を作ってしまう。しかし、バッティングセンスとしては悪い投手ではなかった。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1997 巨人 57 1 0 0 0 1 6 2 -- .143 368 90.0 64 9 37 3 5 94 2 0 31 31 3.10 1.12
1998 30 11 1 0 0 7 2 0 -- .778 397 98.0 70 9 38 1 2 99 1 0 39 39 3.58 1.10
1999 31 12 0 0 0 1 6 0 -- .143 355 79.2 97 16 32 4 1 57 2 0 42 40 4.52 1.62
2000 7 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 75 16.1 20 3 7 1 0 10 2 0 8 7 3.86 1.65
2001 27 26 5 2 0 13 4 1 -- .765 677 162.1 143 19 58 1 2 137 2 0 68 67 3.71 1.24
2002 21 18 1 1 0 5 4 0 -- .556 556 133.0 120 13 26 0 5 115 1 0 51 45 3.05 1.10
2004 日本ハム 11 10 0 0 0 2 4 0 -- .333 219 45.0 57 8 32 0 2 38 2 0 40 36 7.20 1.98
2005 28 20 2 1 0 6 7 0 0 .462 658 150.2 147 16 65 2 8 122 3 0 70 56 3.35 1.41
2008 横浜 3 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 30 6.1 7 0 2 0 2 2 0 0 6 6 8.53 1.42
通算:9年 215 100 9 4 0 35 35 3 0 .500 3317 781.1 718 93 295 12 27 674 15 0 355 327 3.77 1.30
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 20(1997年 - 2003年)
  • 49(2004年 - 2005年)
  • 36(2008年)
  • 107(2009年 - )

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク