江川卓 (野球)

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江川 卓
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県石城郡好間村(現:いわき市
生年月日 1955年5月25日(59歳)
身長
体重
183 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1978年 ドラフト1位
初出場 1979年6月2日
最終出場 1987年10月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

江川 卓(えがわ すぐる、1955年5月25日 - )は、福島県出身[1]の元プロ野球選手野球解説者タレント

経歴[編集]

高校時代[編集]

高校在学中はエースとして、高めのバックスピンが良くかかった速球と良く曲がるカーブを武器にノーヒットノーラン9回・完全試合2回、選抜高等学校野球大会における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残す。その高校生離れした投球と耳の大きな顔が漫画「怪物くん」の主人公に似ていることから「怪物くん」「怪物江川」と呼ばれ、日本中の注目を浴びた。

高校1年[編集]

1971年、江川1年生の夏、第53回全国大会栃木県予選2回戦(対足尾戦)を救援で5回無安打無四球7奪三振のパーフェクトリリーフで高校生として初登板初勝利を飾った。翌3回戦(対足利工大付戦)は高校生として初先発、8回を3安打完封し、5対0の中、9回を後続ピッチャーに譲っている。準々決勝(対烏山戦)でも先発し、栃木県高校野球史上初の快挙となる完全試合を達成。中学を卒業して4ヶ月の1年生ながら素質と能力の高さを証明した。準決勝(対宇都宮商戦)は先発するも延長11回で降板、後続のピッチャーが打たれ甲子園出場はならなかった。

1971年秋、第24回秋季関東地区大会栃木県予選で4試合に登板、30回2失点37奪三振防御率0.67。1回戦では、北関東高校球界で鈴木孝政(1972年ドラフト1位で中日入団)、江川卓とともに速球投手三羽ガラスといわれた石田真(1972年ドラフト1位で阪急入団)擁する足利工と激突。7回まで両者譲らず0対0だったが8回に作新学院が2点を先取、江川は8回に1死球を与えるも後続を打ち取り、ノーヒットノーランで足利工を下した。決勝の宇都宮学園では3安打11奪三振で完封勝ちし、栃木県大会優勝。つづく関東大会1回戦では前橋工を相手に先発。1回2死から4回まで10連続奪三振無安打無失点、フェアグランドへ打たれたのはセーフティーバントによる投ゴロだけという高校入学以来最高の出来と思われる投球を見せた。この日5番に入った江川はチームでただ一人2安打を放ち、打つ方でも気を吐いたが、5回表の打席で前橋工小池投手より頭部死球を受け退場(そのまま入院)。5回裏に後続投手が打たれて敗退。優勝候補の一角とも呼び声高かった2年春の甲子園は出場はならなかった。

高校2年[編集]

1972年夏、2年生の江川は第54回全国大会栃木県予選は2回戦(対大田原戦)、3回戦(対石橋戦)、準々決勝(対栃木工戦)の登板した3試合すべてでノーヒットノーラン(うち3回戦対石橋戦は完全試合)達成、27回無安打47奪三振(対大田原戦13奪三振、石橋戦17奪三振、栃木工戦17奪三振)、1試合平均15.7奪三振と驚異的な記録で準決勝に進んだ。また、準々決勝の栃木工戦では9回まで0対0であったが、9回裏に自らのサヨナラヒットで勝利するなど、貧弱な打線を自らの打力で補った。準決勝の小山戦も10回2死までノーヒットノーランだったが、味方打線が点を取れず。延長11回裏サヨナラスクイズの0対1で敗れ、15奪三振の力投を見せるも甲子園出場はならなかった。4試合での作新学院チーム打率は2割6分1厘(138打数36安打)だったが、江川は3割3分3厘(15打数5安打)と打撃でも気を吐いた。勝負の世界に「もし」はないが、小山戦でもし作新学院が9回までに1点でも取れていれば地区予選4試合すべてノーヒットノーランで決勝進出という快挙を成し遂げるところであった。

また、この実績から甲子園に出場しないにも関わらず「栃木に怪物江川あり」が全国に知れ渡り、江川との練習試合の対戦希望が殺到。全国各地で招待試合が組まれ、そこでの登板回数の多さが、後に肩を痛める遠因となったとされる。

江川の高校1年夏、2年春夏ともに甲子園への出場はならなかったため、当時の野球部監督[2]が更迭された[3]

1972年、第25回秋季関東地区大会栃木県予選は、1回戦(対那須戦)は5回まで投げアウト15のうち14の三振を奪う快投で無安打零封して降板し、6回以降を後続のピッチャーに譲っている。2回戦(対足利工戦)は9回2安打15奪三振で完封。準決勝(対宇都宮戦)は6回6奪三振7対0となったところで降板。決勝(対烏山戦)は9回2安打10奪三振で完封。合計4試登板29回無失点45奪三振、2試合完封で栃木県県大会を優勝した。

関東大会に駒を進めての1回戦では群馬県優勝校の強豪東農大二と対戦したが、2回二死から5回二死まで9連続奪三振。6回までに13三振1安打完封という素晴らしい投球を見せ、観衆を唸らせた。準決勝は70年代前半から「黒潮打線」の強打で鳴らしていた銚子商と激突したが、銚子商随一の強打者4番飯野から3打席3三振を奪うなど、まったく相手にせず1安打完封20奪三振、銚子商はノーヒットノーランを逃れるのが精一杯というほどの完敗だった。続く決勝では好投手永川英植(1974年、ヤクルトのドラフト1位)を擁する神奈川県優勝校の横浜高校戦と激突した。東農大二、銚子商の試合結果を知る横浜高は三振を取られまいとバットを一握り短く持って初球から積極的に打ってくる戦法だったが、まったく寄せ付けず、その打線から16奪三振を奪い、完封して優勝した。 また、この関東大会3試合で3番に入った江川は12打数7安打(5割8分3厘)6打点3塁打2本2四球と打撃でもチームの勝利に大きく貢献した。

江川は秋の県大会と関東大会を無失点で優勝(秋季大会成績:7勝0敗 / 53回 / 被安打12 / 奪三振94 / 奪三振率15.96 /失点0 / 自責点0 / 防御率0.00)。新チーム結成以来、練習試合を含む23戦全勝負けなし、113回無失点という前人未到の驚異的な記録で3年時(73年)の春の選抜大会出場を初めて手にした。なお、決勝で江川に16三振完封負けした横浜高校も同じく春の選抜大会に出場しているが、この大会で優勝しており、江川の素質と能力の高さを間接的に証明している。

高校3年[編集]

1973年第45回選抜大会、は「江川の大会」とも言われたほどレベルの違いを見せつけた大会となった。初戦は秋季大阪大会で優勝し、出場校30校中トップのチーム打率3割3分6厘で優勝候補と言われた強打の北陽高校。北陽・高橋監督は「江川江川というが、まだ高校生。ウチの打線は今が絶好調。ぶんぶん振り回して江川に向かって行きますよ。」と開会式前のインタビューで語っている。

3月27日、第1日目第1試合。初めて甲子園球場という全国区に登場した「怪物」江川に日本中の高校野球ファンが試合のテレビ放送を注目した。江川見たさと、開幕直後の地元北陽高校戦とあって甲子園球場は観客5万8千人の超満員となった。満を持して登場した江川は1回、剛速球全開で北陽の選手のバットに一度も触れさせず三者連続三振。続く2回も先頭打者に1球もボールに触れさせず三振。強打北陽高校打線の1番冠野から2番慶元(クラウン→西武→近鉄)、3番広瀬、4番藤田の北陽が誇る上位打線が1人もバットにボールをかすることすらできず、高校生の中で1人だけプロ野球選手が混じって試合が行われていると揶揄された。あまりの実力差を見せつけられ、甲子園球場は異様などよめきに包まれた。続く5番有田(近鉄)がこの試合23球目に初めてバットにボールを当てると(一塁スタンドへのファウル)、有田に対して超満員の観客から大きな拍手が巻き起こっている。(この拍手は江川を紹介するメディアで必ずと言っていいほど取り上げられる逸話となっている)。初回先頭打者から4回2死までアウト11者連続三振、秋季大会で打率4割2分3本塁打21打点の成績を残した北陽一の強打者4番藤田からは4打席4奪三振(すべてスイングアウトでの三振)、最終9回も2番慶元からの好打順に対して3者連続三振で締め、結局、この試合4安打19奪三振完封と鮮烈な甲子園デビューを飾った。試合後のインタビューで北陽・高橋監督は「生徒にはまっすぐを狙わしたが、スピードがありすぎてバットに当たろうともしなかった。途中から作戦をかえて、短打打法に切り替えたが、全くだめだった。」と語っている。(ちなみに、この北陽高校はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト8になっている。)大会前から豪腕と騒がれたが、初めて全国に姿を現した「怪物」の実力に多くの高校野球ファンが驚嘆し、この試合を契機にこの大会が江川大フィーバーに包まれた。

2回戦で作新江川とあたる小倉南(福岡)の重田監督とナインは、この1回戦作新学院対北陽戦を観戦し、江川が強打北陽打線を赤子の手をひねるように圧倒した内容を見て、このままでは勝てないと考え、江川対策を練った。3月31日、2回戦、小倉南は選手全員がバットをふた握りも短く持って登場し、徹底した短打戦法とバントで江川に食い下がって、スタンドがどよめいた。しかし、安打は3回の3塁前のバントヒットの1本のみで7回10奪三振と江川が圧倒し、7回8対0と大量リードしたため、降板している。

4月3日、準々決勝では、秋季大会愛媛県大会優勝、四国地区大会でも優勝し、春の大会でも優勝候補の一角であった今治西(愛媛)と激突した。(ちなみに、この今治西はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト4になっている。)この今治西に対して、速球、変化球ともに冴え、「怪物」ぶりを発揮した江川は7回2死まで1人のランナーも許さず14奪三振。完全試合の期待もあったが、その直後に中前打された。しかし、気持ちを切らさず8回9回もアウト6者連続三振で締め、結局、8連続を含む毎回の20奪三振で1安打完封と完璧に抑えた。この試合で8連続奪三振は1926年(大正15年)夏和歌山中学小川正太郎の記録に並ぶ大会記録。試合後のインタビューで今治西・矢野監督は「選手にバットを短く持って当てていくように指示したが、どうしても打てなかった。もう1度対戦しても打てませんね。選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ。」と語っている。

北陽、小倉南に続いて強豪今治西を20奪三振で一蹴し、3試合25回被安打6無失点49奪三振。甲子園は江川一色の大フィーバーとなり、江川が登板する日は、甲子園一帯が数千人のファンで埋め尽くされ、メディアも「江川をどのチームが破るのか」という興味から、「いったい江川は大会通算いくつの三振を奪って優勝するのか」という興味に変わるほどであった。

4月5日、準決勝は広島商業達川光男が所属)戦、広島商業迫田監督は、試合前、「他のチームのことは一切考えなかった。江川をいかに崩すか。それだけを頭に描いて選手を鍛えてきた」と語っている。試合では全選手が徹底して、バットを短く持って、バッターボックスにおおいかぶさって構えてファウルを打ち、球数を増やし、江川の精神面を崩す作戦に出た。試合は2安打(内野安打とポテンヒット)毎回の11奪三振とほぼ完璧な投球だったが、広島商業は8回2死1、2塁からダブルスチールを敢行、捕手の悪送球で二塁走者の金光興二(法大→三菱重工広島→広島商監督→法大監督)が生還し、これが決勝点となりベスト4で敗退した。江川はこの大会で通算60奪三振を記録、1930年(昭和5年)選抜優勝の第一神港商岸本正治の作った54奪三振の従来記録を塗り替えた。60奪三振は現在でも選抜大会記録である。

1973年、江川3年夏、第55回全国大会栃木県予選で作新学院の試合がある日は、遠地から見物に来る車が5000台以上にもなり、球場周辺の一帯の道路は朝から大渋滞で完全に交通マヒとなり、警備には40人以上の警察官が動員された。また、隣接する軟式野球場を解放して急遽、臨時駐車場とするなど関係者は対応策に追われた。屈指の好カードとなった準決勝の対小山戦は徹夜組約100人、決勝の対宇都宮東戦は悪天候にもかかわらず徹夜組が150人以上となるなど、地方の県予選としては異例の事態となった。試合は登板した5試合のうち、2回戦(対真岡工戦)、3回戦(対氏家戦)、決勝(対宇都宮東戦)の3試合でノーヒットノーランを達成。特に3回戦氏家戦、決勝宇都宮東戦は無四球ながら振り逃げ、失策と味方守備の乱れで走者を許し、完全試合を逃している。残りの2試合、準々決勝(対鹿沼商工戦)、準決勝(対小山戦)も1安打ずつしか許しておらず、県予選5試合を被安打2、70奪三振無失点、練習試合を含めると140回無失点という驚異的な成績で夏の甲子園出場を決めた。

柳川商(福岡)との対戦となった夏の甲子園1回戦は対江川用の奇策「プッシュ打法」作戦により練習試合を含めて146イニングぶりの失点を喫するが、延長15回の死闘の末に作新学院が2対1でサヨナラ勝ち。この試合を完投した江川は15回の参考記録ながら大会史上2位の23奪三振を記録した(1位は徳島商板東英二の18回25奪三振)。江川を見るために全国でファンがテレビに釘付けになり、関西電力が大手会社にエスカレーター冷房のストップを要請する事態となった[4]。銚子商(千葉)との2回戦は好投手土屋正勝(中日)を相手に栃木県予選のチーム打率が.204だった作新学院打線は点を取れず、0対0のまま延長戦に突入した。試合途中から降り出した雨でボールがすべり、制球を乱した江川は12回裏1死満塁のピンチを招くと、カウント2-3から内野手全員をマウンドに集め「ストレート1本で勝負」することを確認した。投じた169球目は明らかに高く外れるボールで押し出し、サヨナラ負けとなり、江川にとって最後の甲子園は幕を下ろした。

甲子園の通算成績は6試合に登板し、4勝2敗、投球回数59回1/3、奪三振92(1試合平均15.3、9回奪三振率14.0)、自責点3、防御率0.46。甲子園通算80奪三振以上の投手の中で、奪三振率14.0は、歴代でも断トツの記録である[5][6]

1973年秋のドラフト会議にて阪急ブレーブスから1位指名を受けるが入団を拒否する。慶應義塾大学法学部政治学科を受験するも不合格だったため、法政大学法学部二部法律学科に進んだ(後に一部へ転籍)。江川が慶大受験に失敗した事実はニュース速報として報じられ大きな話題になった。江川は不合格について「日本史で、過去の出題傾向から明治以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」と分析している[7]。一方で「江川を入学させると裏口入学だと騒がれる」という思惑から「例年なら野球部セレクションによる加点があるはずが、この年に限って加点が行われなかった」という説もあり、実際この年は堀場英孝など慶大志望の他の有力選手の中にも不合格者が相次いだ[8]

法政大学時代[編集]

法政大学1年生時に東京六大学史上最年少ベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍。1976年から1977年の法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。中でも1976年秋季リーグでは、打席数が野手と比較して少ないにもかかわらず、38打数13安打、打率3割4分2厘(リーグ2位)、本塁打2本(同2位)、打点10(同1位)の好成績をあげている。このときはもちろん法政の規定打数以上の選手の中では3部門においてトップである。通算47勝は山中正竹の48勝に次ぐ史上2位。1977年10月22日、対明大1回戦を5安打完封し47勝目を挙げた翌23日、リーグ最終戦の対明大2回戦に勝てば通算勝利で東京六大学タイ記録になったが、江川は「うちには投手は他にも沢山いますから」と、あっさり登板を鎗田に譲っている。完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれた。これは高田繁(明大→巨人)の7度に次いで、谷沢健一早大中日)の6度と並ぶ2位の記録である。奪三振数(443個)も2002年に当時早大4年生だった和田毅に更新されるまでは歴代最多だった。

2年生時には右肩を疲労骨折した。ただし当時その事実は外部には伏せられ、六大学のリーグ戦にも通常通り登板していたため気づかれることはなく、プロ引退後にその事実が明かされた。江川によればそれ以後右肩の調子が100%に戻ることはなかったという[9]

法大4年生の1977年秋のドラフト会議ではクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。江川は当時福岡市を本拠地としていたクラウンライターに対し、福岡は遠隔地という理由で断った。この時のことを後に江川は「巨人がだめでも巨人と対戦でき、そして当時交際中だった(のちの)夫人が東京在住だったため遠距離交際を避けられる、在京セ・リーグ球団からの指名なら入団していただろう」と振り返っている[10]

大学卒業後は作新学院職員としてアメリカに留学[11]。これは大学から社会人野球チームに入団すると、最低2年間はプロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したため[11]南カリフォルニア大学で練習し、実戦ではアラスカのサマーリーグにアンカレッジ所属として参加し2勝2敗。留学当時、クリス・スミス(のちヤクルト)がルームメイトで、江川にとって英語の先生役でもあった。

プロ選手時代[編集]

1978年秋のドラフト会議の2日前に帰国し、ドラフト会議前日に巨人と電撃契約した(空白の一日事件)。セントラル・リーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下したが、それに抗議した巨人はドラフト会議をボイコットした。[12]ドラフト会議では巨人の抜け駆け契約に抗議する意味で南海ホークス近鉄バファローズロッテオリオンズ阪神タイガースの4球団が江川を1位指名し、阪神タイガースが江川との交渉権を獲得。巨人は、全12球団が出席していないドラフト会議は無効であると主張して、江川の阪神の交渉権を認めなかった。この問題はこじれにこじれたが、最終的にコミッショナー金子鋭の「強い要望」により1979年1月にドラフトで指名した阪神に入団した上で、小林繁を相手とする交換トレードで巨人に移籍することとなった。この事件により江川は一躍悪役に祭り上げられ、マスコミは大挙して江川を批判すると同時に、小林を悲劇のヒーローとして報道した(江川事件)。この経緯から、「エガワる」(周囲をかえりみず強引に自分の意見を押し通すこと)という言葉が流行語にまでなった。また、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、嫌いな物として「江川・ピーマン北の湖」という言葉が生まれた(ただし「巨人・大鵬・卵焼き」ほど定着することはなかった)。

ジャイアンツ入団時に背番号19を提示されるも、さすがに小林繁の着けていた背番号なので拒否。昭和30年生まれにちなみ、空いていた背番号30を着ける。なお、阪神時代の背番号は3である。これはたまたま3番が欠番だったからということもあるが、巨人移籍後は(永久欠番のため)使用できない番号を故意に着けさせた阪神側のせめてもの抵抗とも受け取れる。ただし、引退時は引退記念登板(巨人対阪神のオープン戦)でライバルであった掛布雅之を打席に立たせるなど、阪神サイドも一定の配慮を見せている。

巨人は一連の騒動について全面的に謝罪し、公式戦開幕から5月31日までの約2か月間、江川の出場を自粛させることとした(誤って伝えられることが多いが、あくまで自粛であり出場停止ではない)。デビュー戦となった1979年6月2日の対阪神戦では被本塁打3本、また同月のプロ初勝利となった対広島戦では鼻血出血というハプニングで途中交代したが、その後は活躍を見せた。2年目の1980年には最多勝最多奪三振を獲得、1981年には20勝6敗、防御率2.29、奪三振221で、最多勝、最高勝率最優秀防御率、最多奪三振、最多完封と言う投手五冠に輝いた(日本プロ野球史上6人目、2リーグ分立後3人目)。MVPにも選出されたものの、沢村賞は同僚の西本聖が受賞となった(当時の沢村賞はプロ野球担当の新聞記者による投票で決定されたが、現在は歴代の沢村賞受賞者による選考会で選出される)。1981年の日本シリーズ第6戦で、最後の打者の飛球がマウンド上に上がった際に、普段どおり代わって捕球しようとする野手を制してウィニングボールを捕ったことを思い出としている。

1982年も19勝を挙げ、沢村賞の選考基準項目を全て満たす活躍を見せるが、受賞者には同じく選考基準項目をすべて満たしてなおかつ20勝を挙げた広島の北別府学が選出されたため、この年も沢村賞を獲得できなかった(結局、江川は沢村賞を獲得できないまま現役生活を終えることになる)。

1983年夏に再び右肩を痛める[13]鍼灸の治療などを受けてマウンドに立ち続けたが、スポーツ新聞などからは「百球肩」と揶揄されるようになった。江川はこの事実が知られることを恐れ、投球数を減らすよう工夫し、チーム内でもトレーナー一人以外には知らせなかったという[14]。しかし、この肩痛が最終的に江川を引退に追い込むことになる。また、同年の西武との日本シリーズでは、シリーズ直前に右足ふくらはぎの肉離れを起こしていたため精彩を欠き、第1戦、第6戦で敗戦投手となり、第4戦でも江川自身に勝ち負けは付かなかったがチームは敗戦した。

1984年のオールスターゲーム第3戦では8連続奪三振を記録(このとき対戦した落合博満は「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している)。しかし9人目に迎えた打者・大石大二郎にカーブを投げて当てられてしまい、二塁ゴロとなり9者連続はならなかった。江川は、3回で10人連続三振を狙っており、9人目の大石を2ストライクまで追い込んだので、暴投を投げて振り逃げ三振を狙い、次打者で10三振の予定であったが、球場の雰囲気に呑まれて10三振を忘れてしまい、通常の投球をして大石にゴロを打たれている。

1985年には王貞治の年間本塁打記録55本に迫る阪神のランディ・バースに対し、他の巨人の投手が敬遠をする中で真っ向勝負をしている。このシーズンのオフに中国鍼治療で復肩した江川は新ストライクゾーンが導入された翌1986年は好調で、6月26日に7試合連続本塁打の日本タイ記録が掛かったバースに真っ向勝負を挑んでいるが、最終打席で本塁打を許した。1987年9月20日広島戦で小早川毅彦から打たれたサヨナラ本塁打をきっかけに、球団の慰留を押し切って現役を引退した。任意引退ではなく自由契約になったが、これは球団側の意趣返しとも言われた。

引退会見では、優勝のかかった対広島戦を前にして長年傷めていた右肩の故障が限界に達し、即効性があり一時的に力は回復するが投手生命を縮めるといういわゆる「禁断のツボ」に鍼を打つ治療を受けたと語り、引退記者会見に出席した多くのスポーツ記者が、涙をにじませて語る江川の姿にもらい泣きした。しかし鍼灸関係者から、鍼灸治療でそのような危険な治療方法があるかのような誤解と不安を与えたとの不満と抗議が起こり、そのようなツボが彼が主張した患部(肩胛骨)の裏にあるという事実も確認できなかったため、治療をした鍼灸医の姓名を明らかにするように、鍼灸医の団体から正式な抗議を受けた。この件に関しては、江川サイドから文章で謝罪することで一応の決着が計られたが、鍼灸医団体からの抗議自体が大手のマスコミではほとんど報じられなかった。後に江川は、引退記者会見でテンションが高まったあまり、思わず口をついた作り話であることを認めた。

現役引退は1987年の春頃に既に考えていたとのことで、5月には夫人に同年限りで引退する考えを打ち明けている[15]。また、『巨人-阪神論』では前年の時点で肩の痛みなどから引退を考えていたと話し、入団初年に9勝で終わって以来「一桁勝利で終わるようではプロ野球を続けちゃダメだ」と考えるようになり、1987年は13勝したものの来年はたぶん一桁になると思ったことも辞めた原因であると述べている[16]。上記の小早川の本塁打については、その日はここ数年で一番調子のいい日で肩の痛みもなく、これで空振りが取れれば来年もう一度二桁勝利が取れるという「賭け」として、キャッチャーは外角のサインを出していたが、敢えてそれを無視し、自ら完璧だと思って投げた勝負の内角ストレートを打たれたことで、その自信を失ったという[17]。奇しくもこの年上げた勝ち星は小林繁が引退した年と同じ勝ち星であり、通算勝利数は小林の通算勝利数より2勝下回る。

プロ野球人生最後の登板となった、西武ライオンズとの日本シリーズにおいては、第3戦に先発として登板。好投を見せるも打線がそれに応えることができず、石毛宏典とJ・ブコビッチに本塁打を打たれ、8回2失点(9回は水野雄仁が登板)で敗戦。チーム自体も相手の組織力と隙のない野球のまえに完敗を喫し、最後の花道を飾ることはできなかった。

この年8月に次年度の球団カレンダー用の写真撮影が行われた際には、カメラマンから桑田真澄との2ショットを依頼されたのに対し、後に写真の差し替えで桑田に迷惑をかける可能性を考慮して、2ショットを拒否した[18]

シーズン終了後の巨人軍の納会では、長嶋茂雄の引退試合のコメント(「わが巨人軍は永久に不滅です」)をもじって「巨人軍選手会は永遠に不滅です」と最後の挨拶を行った。

現役引退後[編集]

引退後は、日本テレビの野球解説者に就任。1993年にはメガCD専用ソフト「江川卓のスーパーリーグCD」の開発にも関わり、1994年からは『スポーツうるぐす』のMC、1996年からは『THE・サンデー』のスポーツコメンテーターを務める。2010年現在は『Going!Sports&News』のコメンテーター、ナイター中継の解説を担当している。ワイン好きでワインタレントとして知られ、名誉ソムリエの資格も持っている。遠縁に元タレント・俳優の江川有未がいる。

作家の草柳大蔵は著書『きれいな敬語羞かしい敬語』で、きれいな言葉で解説するプロ野球解説者として、豊田泰光落合博満と並んで江川を挙げている。

スポーツうるぐすではGIシーズンになると杉本清(以前は高橋源一郎)と競馬の予想を行っているが、あまり当たらない(対象レースのほとんどで予想を外した年もあった)。

幾度となく巨人の監督候補に名前が挙がるものの本人はそのたびに否定しているが、自身のテレビ番組でも巨人の監督が代わるニュースが大きく取り上げられる際は、他の出演者から「狙っていたんでしょ?」と声をかけられ、それらしいコメントを繰り返している。江川は2010年の対談で、(プロ野球の)監督になるかどうかはタイミング(そのときの環境)によると述べている[19]。同じ対談では、「自分は考えを譲れないタイプなのでコーチではユニホームを着ない」「年齢的に最後かなと思ったときには巨人以外のユニホームを着ることもあるかもしれない」とも話している[20]

2011年11月11日、2012年シーズンから江川を巨人ヘッドコーチに起用すべく招聘する案が球団会長渡邉恒雄によって進められていたことが、球団代表清武英利による記者会見で明らかになっているが、江川自身は球団側から正式な要請を受けていないとしており、仮にコーチの話を受けたとしても入団時の経緯もあり、この年のヘッドコーチである岡崎郁に迷惑を掛けられないので受けないだろうと江川は述べている。結果、岡崎は留任となり、江川の入閣は行われなかった(清武の乱参照)。

プレースタイル[編集]

現役時代は100m走のタイムが11秒1という球界有数の俊足の持ち主であった。

江川の球速は、高校時代にすでにピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだなかったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている[要出典](プロ入り後は1981年8月30日に153km/hを記録している)。その球威は「本気で投げると捕手が球を捕れなかった」「打者がファウルするだけで歓声が沸いた」などの伝説を生んでいる[要出典][21]。また、高校時代の江川が投じるきれいにスピンがかかった球筋は、数字以上の速さを感じさせていた[要出典]。スピンが多くかかっているのは、なるべく球離れを遅くしてスピンをかけるように本人が努力したためだという[要出典]。ただし、投手としては指が短めだったこともその理由である。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球はカーブしか投げられなかった。基本的には速球投手であり、落合博満は最後の速球派投手だと高く評価している[要出典]

カーブ以外有効な変化球を持たなかった江川は、プロ入り以後は投球術で打ち取るテクニックを覚えている。また、1983年に肩を痛めてからはスライダー系の変化球を投げるようになった[要出典]。1985年頃から投げ始めた「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」コシヒカリが話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手のマスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」マスクメロンを開発している[要出典]。2010年3月14日放送の「SUPERうるぐす」ではコントロールがよく、ストレートのスピードとコースを投げ分けることができたので、カーブ以外の変化球を使わなかったと語った。現役時代のライバルだった掛布雅之は、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる」唯一の投手だったと述べている[22]

阪神のランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打など王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述のとおりだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年と1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打と連続試合打点記録更新中の最後の試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川の引退時、バースは江川を「日本、アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている[要出典]

9回を完投するため、中心バッターには「最高出力」まで上げ、下位打線の選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた[23]。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7・8回は少し力を落としたと述べている[23]

江川は与死球が極めて少なく、これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと語っている[24][要出典]。江川自身は、捕手が構えたままのギリギリのコースに投げることができたため、わざと打者の体の近くには投げることはしなかったとも述べている[25]。また与四球も少ない。江川の場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。江川はボール球を投げること自体が嫌いだったと述べており、当時の巨人ではカウント2ストライク0ボールからヒットを打たれると罰金を取られたため、捕手からの懇願でその場合は仕方なくボール球を投げていたという[26]。一般的に速球派投手はコントロールが悪いことが多いが、江川はそれにあてはまらず、コントロール面も卓越したものであったことが伺える。

被本塁打が多く「一発病」と言われた投手の一人で、本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。1982年はリーグ最多の36本塁打を浴びた。9イニングあたりの被本塁打は通算で1.23本である。

上記の通り、デビューした対阪神戦では敗戦投手になったが、その後は阪神キラーになり、対阪神戦通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁は阪神に移籍した1979年こそ対巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後引退までの4シーズンで対巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。入団2年目の対阪神戦での小林繁との初対決(8月16日、後楽園球場)では、打撃でも決勝タイムリーヒットを放つなど活躍し、勝利投手となっている。後に、プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうがその中の一つがその試合だと思って試合に臨んだと懐述している[要出典]

打撃の優れた投手としても知られているが、初安打はデビューから36打席目だった。プロ入り最初の打席で、阪神の山本和行が初球に投げたストレートがあまり速くなかったため「プロってこんなレベルか」と思っていたところ、そのあと「打ちごろ」と見て振った球をいずれも空振りして三振を喫した。江川はそれがフォークボールであったと気づき、「これは、やばいぞ。プロはこんな高いレベルなのか」と思ったと回想している[27]

人物[編集]

卓という名前は、父の趣味である麻雀の麻雀卓に由来する。弟の名前も同様に麻雀牌に由来している。しかし本人は否定している。[24]

幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことで、極度の高所恐怖症になる。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京盛岡青森函館札幌と1日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多新八代鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間を無駄にしてまで陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームが北海道に遠征時は登板がある場合のみ飛行機を使用したが、自らの登板予定がない時はチームに帯同せず東京に残った(江川が引退した翌1988年に青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲームを取材した時でも、松山岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄へキャンプ取材する際も、時間に余裕があるときは鹿児島から24時間かけてフェリーで沖縄に移動するほどである。春季キャンプの取材で沖縄に行った際、この時はさすがに飛行機には乗ったが、横浜DeNAベイスターズ中畑清監督に、「どうやって来たの?潜水艦でも乗ってきたの?」と言われてしまい、名球会ハワイでの取材時に長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機乗れましたね」と言われたほどである。飛行機嫌いの一因に、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響していると言われている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース球団社長の中埜肇も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。

大学時代、現在の夫人と交際していた時にデートと東京六大学の試合の登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から何時間後」というように時間を指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[28]

現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗し多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたため資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなった[29]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(後のエフ・アール・イー、2007年1月に破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社の役員にも名前を連ねていた[30]。なお、同様の呼び名は桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。

現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄羽川豊らと共同で出資したのがオープンのきっかけだという[31]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。現在は駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。

本人曰く「成金趣味」に結構な金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[32]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。

テレビでの野球中継において選手を呼び捨てにしている解説者が多い中、江川は基本的に呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。

西本とのライバル関係[編集]

現役時代、江川のライバルとして西本聖がいる。元々は空白の一日事件で江川が巨人に入団した際、球団が先発ローテーションの一角を江川に与えたため西本が江川を勝手にライバル視していたが、沢村賞の件以降は江川も西本をライバル視するようになった。二人の話として、

  • 投球練習の際にお互いに意地になって330球以上も投球した
  • お互いが先発している試合で「頼むから打たれてくれ」と思っていた
  • 1983年日本シリーズ第6戦で抑えに自分が登板すると思っていたところ、第7戦先発予定の西本が呼ばれたため緊張の糸が切れてしまった(西本が同点に追いつかれ、10回に江川が登板するもサヨナラ負けを喫した)

など逸話も多い。ただ引退後は同じ伊東会のメンバーとしてお互いに親交を深めている。

人間関係[編集]

好敵手であった掛布雅之とは、現役時代にはオールスターゲームの際に言葉を交わす程度であったが、掛布の引退後に解説者として仕事をともにするようになってから親交を深めた[33]

巨人入団の際に小林繁に迷惑をかけた事に対して負い目を感じていた江川は、恨みの感情がありながら江川の気持ちを察していた小林と、お互い避けるような形で引退後もほとんど会話がなかったが、2007年10月12日からオンエアされた黄桜のCMで江川は小林と対談という形で出演[1]。リハーサルもなく撮影された中で小林が「しんどかったやろなぁ。俺もしんどかったけどな!2人ともしんどかった」と江川に語りかけた。「この対談で初めてお互いのわだかまりが取れた」と後に江川は語っている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1979 巨人 27 23 7 2 1 9 10 0 -- .474 653 161.0 132 22 50 3 0 138 0 1 57 50 2.80 1.13
1980 34 34 18 5 2 16 12 0 -- .571 1055 261.1 226 34 60 5 2 219 0 0 88 72 2.48 1.09
1981 31 30 20 7 3 20 6 0 -- .769 931 240.1 187 27 38 2 4 221 0 1 68 61 2.29 0.94
1982 31 31 24 6 10 19 12 0 -- .613 994 263.1 200 36 24 2 3 196 0 0 77 69 2.36 0.85
1983 33 29 10 2 2 16 9 3 -- .640 883 217.2 187 27 59 5 2 131 1 0 83 79 3.27 1.13
1984 28 28 13 3 2 15 5 0 -- .750 782 186.0 186 20 58 4 3 112 0 0 80 72 3.48 1.31
1985 30 26 3 1 0 11 7 0 -- .611 735 167.0 188 34 56 2 3 117 1 0 102 98 5.28 1.46
1986 26 26 8 1 2 16 6 0 -- .727 791 194.0 172 27 49 4 4 119 1 1 64 58 2.69 1.14
1987 26 25 7 0 1 13 5 0 -- .722 685 166.2 150 26 49 6 2 113 1 0 71 65 3.51 1.19
通算:9年 266 252 110 27 23 135 72 3 -- .652 7509 1857.1 1628 253 443 33 23 1366 4 3 690 624 3.02 1.12
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
  • 初登板・初先発:1979年6月2日、対阪神タイガース11回戦(後楽園球場)、8回5失点で敗戦投手
  • 初奪三振:同上、1回表にマイク・ラインバックから
  • 初勝利・初先発勝利:1979年6月17日、対広島東洋カープ11回戦(後楽園球場)、7回1/3を1失点(自責点0)
  • 初完投勝利:1979年8月14日、対阪神タイガース21回戦(後楽園球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1979年8月26日、対広島東洋カープ19回戦(後楽園球場)
  • 初セーブ:1983年7月29日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、8回裏1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
節目の記録
  • 1000投球回数:1983年6月14日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、1回表2死に達成
  • 1000奪三振:1984年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(後楽園球場)、2回表に玄岡正充から ※史上69人目
  • 100勝:1985年6月4日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で6回2/3を6失点 ※史上88人目
  • 1500投球回数:1986年4月4日、対ヤクルトスワローズ1回戦(後楽園球場)、4回表1死に達成
その他の記録
  • シーズン10無四死球試合(1982年、セ・リーグ記録)
  • オールスターゲーム出場:8回 (1980年 - 1987年)

背番号[編集]

  • 3 (1979年) - 阪神タイガース - 実際にユニホームを着用したことはない。
  • 30 (1979年 - 1987年) - 読売ジャイアンツ

関連情報[編集]

著書[編集]

江川を題材とした作品[編集]

  • サトウハチロー「雨に散った江川投手」(詩) - 1973年の夏の甲子園・対銚子商業戦で、雨の中延長戦で押し出し四球により敗れた江川の姿を見て作られた。この詩の中でサトウは、自分は雨を愛したがこれからは雨に関する詩を作るのをやめるとうたった。サトウが亡くなる3か月ほど前のことである。

江川(およびその家族)に由来する命名[編集]

  • ゆでたまご原作のプロレス漫画『キン肉マン』の主人公「キン肉スグル」の名前は江川にちなんだものだといわれている。また、兄の「キン肉アタル(=キン肉マン・ソルジャー)」の名前も江川の実弟、中(あたる)に同じ。父母の名前も同じ。[24]
  • 高橋留美子の漫画『うる星やつら』の主人公である諸星あたるの「あたる」も江川の実弟に由来する命名である[34]
  • 水島新司の漫画『ドカベン』の登場人物で「江川学院」の投手「中二美夫(あたる・ふみお)」も同様で、「中」は江川の弟の名前、「二美夫」は江川の父の名前である。水島はプロ入り前より江川と親交があり、江川事件当時は自宅に江川をかくまったこともあった。
  • 江口寿史の漫画『すすめ!パイレーツ』の登場人物で千葉パイレーツ投手江原卓徳」は、江川と原辰徳をかけ合わせた名前であり、キャラクターの造形はクラウンにドラフトで指名された頃の江川に近かった。「どうして僕はこんな球団に入っちゃったんでしょうね!?」が口癖。なお、この作品には後に江川自身も登場している。

出演[編集]

テレビ・ラジオ[編集]

CM[編集]

映画[編集]

関係文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本テレビ「江川卓プロフィール」
  2. ^ 江川入学直前の1971年センバツで指揮を執った。江川の高校時代の練習風景を語るときの「徹底的に走り込まされ、水も飲ませてくれなかったほど厳しい」監督はこの人。
  3. ^ 岡邦行『巨人の星への道―父子鷹、江川と原の真実』 日本文化出版 1985年4月 ISBN 978-4931033504
  4. ^ 73年、江川雨中の押し出し/夏の甲子園 日刊スポーツ 2011年8月9日
  5. ^ 桐光学園の松井裕樹は、甲子園通算の奪三振率は17.0で江川を上回ったが、甲子園への出場は2年夏のみで、通算奪三振数は68であり、甲子園通算80奪三振には達していないので、この記述では除外する。
  6. ^ 2位以下上位10傑は、板東英二徳島商)12.1(62回83奪三振)、藤浪晋太郎大阪桐蔭)10.7(76回90奪三振)、 尾崎行雄浪商)10.3(89回102奪三振)、島袋洋奨興南)10.1(115回2/3、130奪三振)、田中将大駒大苫小牧)10.1(91回1/3、102奪三振)、柴田勲法政二)9.8(103回2/3、 113奪三振)、松坂大輔横浜)8.8(99回97奪三振)、ダルビッシュ有東北)8.5(92回87奪三振)、牛島和彦浪商)8.4(100回93奪三振)である
  7. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版 1991年2月 ISBN 978-4101212111、以下同じ)pp.60 - 61
  8. ^ 『たかが江川されど江川』pp.56 - 58
  9. ^ 『たかが江川されど江川』p.162
  10. ^ 『たかが江川されど江川』pp.79 - 80
  11. ^ a b 【12月3日】1977年(昭52) 江川が2度目の入団拒否、クラウン蹴って米国留学へ”. スポーツニッポン (2007年12月3日). 2013年9月6日閲覧。
  12. ^ ただし、後にドラフト外という手段で新人選手を10人獲得している。
  13. ^ 『巨人-阪神論』p.122
  14. ^ 『巨人-阪神論』pp.128 - 129
  15. ^ 『たかが江川されど江川』pp.160 - 161
  16. ^ 『巨人-阪神論』pp.120 - 122
  17. ^ 『巨人-阪神論』pp.124 - 126
  18. ^ 『たかが江川されど江川』pp.214 - 216。なおこの話にはオチがあり、引退記者会見後では写真の差し替えが間に合わず、結局江川の写真はそのままカレンダーに使われた。そのカレンダーは当時過去最高の売上を記録したという。
  19. ^ 『巨人-阪神論』p.211
  20. ^ 『巨人-阪神論』pp.214 - 215
  21. ^ ちなみに、高校時代バッテリーを組んだ捕手は現在衆議院議員の亀岡偉民(当時小倉偉民)である。
  22. ^ 『巨人-阪神論』p.113
  23. ^ a b 『巨人-阪神論』pp.62 - 64
  24. ^ a b c 「さんまのまんま」(関西テレビ)2014年7月5日放送回にて本人談。
  25. ^ 『巨人-阪神論』pp.99 - 100
  26. ^ 『巨人-阪神論』p.101
  27. ^ 『巨人-阪神論』pp.167 - 168
  28. ^ 『たかが江川されど江川』pp.62 - 63
  29. ^ 「たかが江川されど江川」pp.227 - 228
  30. ^ 『たかが江川されど江川』p.238、p.245
  31. ^ 『たかが江川されど江川』pp.233 - 234
  32. ^ 『たかが江川されど江川』pp.219 - 220によれば、当初は純金パターを作らせるつもりだったが、業者から「純金だと重過ぎて振れない」と言われ純銀になったという。なお実際には純銀でも重過ぎたため、後に一部をくり抜いてロウを埋める改造を加えたとのこと。
  33. ^ 『巨人-阪神論』p.96、p.135
  34. ^ 『少年サンデーグラフィック』掲載の原作者インタビューによる。

関連項目[編集]