埼玉県立浦和高等学校
| 埼玉県立浦和高等学校 | |
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| 過去の名称 | 埼玉縣第一尋常中學校 埼玉縣第一中學校 埼玉縣立敬和中學校 埼玉縣立浦和中學校 |
| 国公私立の別 | 公立学校 |
| 設置者 | 埼玉県 |
| 校訓 | 「尚文昌武」 |
| 設立年月日 | 1895年6月18日 |
| 共学・別学 | 男子校 |
| 課程 | 全日制課程 定時制課程 |
| 単位制・学年制 | 単位制(全日制) 学年制(定時制) |
| 設置学科 | 普通科 |
| 学期 | 3学期制 |
| 高校コード | 11101F |
| 所在地 | 〒330-9330 |
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埼玉県さいたま市浦和区領家五丁目3番3号
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| 外部リンク | 公式サイト |
埼玉県立浦和高等学校(さいたまけんりつ うらわこうとうがっこう、英語:Saitama Prefectural Urawa Senior High School)は、埼玉県さいたま市浦和区領家五丁目に所在する県立高等学校。男子校。県の進学指導重点校。通称、「浦高」(うらこう)。
目次 |
[編集] 概要
1895年、埼玉県第一尋常中学校として創設された旧制浦和中学校を前身とし、戦後、新制埼玉県立浦和高等学校となった。開学以来男子校である。東京大学合格者数では以前より人数を減らしたものの例年上位に入っており、2007年春には33人を輩出し、公立高校では合格者数全国1位となった。現役生はほとんど私立大学に進学せず、国立大学志向・医学部志向が強い。最寄り駅はJR京浜東北線「北浦和駅」。東口から徒歩にて約10分。
[編集] 校訓
- 尚文昌武(しょうぶんしょうぶ)
- 文を尊び、武を昌んにするという意味。二代目校長による造語である。一説によれば当時の風潮であった「尚武」という語を二つに割り、なかに「文昌(ぶんさかんなり)」という語を織り込ませたと言われている。つまり「尚・文昌・武」という構造である。[要出典]
[編集] 授業
50分6~7時間授業で隔週土曜授業。2年次より文系・理系別になる。単位制の特性を生かし、基礎から先端までの多くの科目を少人数制で授業を行うことができるようになっている。ほぼ全員が大学進学を希望している為、現役での進路実現を目指し3年間のプログラムを構築して指導にあたっている。また、一橋大学や東京工業大学、埼玉大学と連携し、放課後に講義が聴講できるようになっている。
[編集] 学校行事
学業面のみではなく、国営武蔵丘陵森林公園における新入生歓迎マラソン、浦和~古河間50kmの古河強歩大会、遠泳を行う臨海学校、有志のスキー教室、クラス対抗のスポーツ大会などがあり、スポーツにも力を入れている。このほか、文化祭(浦高祭。毎年9月第2土日開催)をはじめ、学校行事はかなり豊富である。体育行事の多さから新入生は入学当初、自分たちは「浦和体育専門学校」に入学したのかと囁き合うが、じきに浦高のこの教育に染まってゆく。クラス対抗の文化大会もあり、こちらもスポーツの大会には及ばずとも白熱する。神奈川県立湘南高等学校とは、全校を挙げて運動部定期交歓戦兼文化部交流会(いわゆる「湘南戦」。湘南側では「浦高戦」と呼んだ)が毎年5月に開催されていたが、湘南側の女子比率増大等の影響により、イベントとして長期低落傾向に入り、2002年の第46回を最後に廃止された。埼玉県立熊谷高等学校とは100年に1度という約束で、開校100周年の年に第一回「熊高戦」が行われ、浦和高校の勝利で幕を閉じた。
[編集] 施設
住宅地の中にある割には、野球とサッカーを同時に行える広さのグラウンドやテニスコート2面、弓道場、体育館(2003年8月まで2つあった)、開閉式の水泳場などがある。4月や10月などは学校の塀の内側にある走路を、歓迎マラソンや強歩大会に耐えるため体育着で走り回る在校生の姿を見ることができる。校舎はA、B、C棟、芸術棟(D棟ともいう。現在の埼玉県立大宮中央高等学校の前身である、埼玉県立浦和通信制高等学校の校舎を改修の上、転用した)、家庭科棟などに分かれる。A棟とB棟の間の中には昔の表玄関があり、パルテノンと呼ばれる。また、食堂のある麗和会館という建物も存在する。他に、運動部室棟、文化部室棟(その造りから『長屋』と呼ばれている)などが設置されている。図書館はA棟の3階にあり、自習しやすい場所である。
[編集] 学生生活・学風
自由な校風であり、細かな規制は存在しないが、入学時にバイクの免許は取らないようにとの覚書は提出する(埼玉県立高校共通)。生徒は学ランを制服として着用する。自由な校風ゆえに校規検査は行われない。「雨天決行の原則」というのがあり、台風襲来時の臨海学校の遠泳を除き、雨が降ろうと行事を中止しない。学校の回りはコンビニエンスストアや飲食店も存在し、昼時には在校生が出てきて賑わう。
同校の校風を象徴するもののひとつに「まるト」と呼ばれるものがある。表記上は「まるト」ではなく、カタカナの「ト」の字が丸で囲まれている。主に教師の出張等によって発生するもので、本来の意味は「図書館で自習」(トは図書館の意)というものであるが、基本的には何をしても自由である。これは、同校の生徒による「自主・自律」を重んじる校風から生まれたものであるため、誰も見回りに来ることはない。またこの「まるト」は、担当教師の都合さえつけば移動させることもできる。例えば、この「まるト」をその日の6時限目の授業と交換すると、5時限目が終了した後は帰ってもよいということになる。ただしこの場合でも部活動(特に運動部の練習)のある生徒は帰宅できないため、4時限目に「まるト」を移動し、早く食堂に行くという使い方もよくなされる。このシステムのため、「まるト」が多く出た日には、食堂で人気の高いメニューが昼休みに入る前に売り切れることも珍しくない。
[編集] 部活動
水泳部やカヌー部、ボート部、弓道部、ラグビー部などの全国大会出場も多く、部活動も盛んである。過去には、サッカー部が全国高等学校サッカー選手権大会にて1952年、1954年、1955年と3度の優勝経験がある。一方で、野球部が1937年に出場した選抜中等学校野球大会における滝川中との対戦では、0-27と大敗した。この試合での滝川中の27得点はチーム1試合最多得点記録として70年経過した現在でも破られていない。
(共学校であれば同じ競技でも男女に別れるが)男子校ゆえに1つの部に多くの人数が集まることも多く、その分、大会のベンチ入りは倍率が高くなる。
近年では、全国高等学校クイズ選手権にて、2005年の第25回と2006年の第26回で優勝し、大会史上初の複数回優勝と2連覇、さらに世界大会制覇(ただし参加は日韓2ヶ国のみ。当初はアメリカも参加予定だった)を成し遂げた。第27回では、3大会連続での決勝進出を決めるも、鹿児島県のラ・サール高校に阻止され、準優勝に終わった。第30回においても東京都の開成高校に阻まれ準優勝。高校生クイズの全国大会へは、7回出場している(第15回、第25回、第26回、第27回、第28回、第29回、第30回)。
[編集] 国際交流
浦和高校は全国の公立高校で唯一、イギリスのパブリックスクールと姉妹校関係にある。相手校のホイットギフト校は400年を超える歴史を誇る伝統校であり、イギリス国内有数の進学校でありながら、かつスポーツや芸術にも力を入れている。
短期交換留学やラグビー部、室内楽部などの部活動短期派遣に加え、長期交換留学制度もある。この長期交換留学制度は、基準を満たせば公費留学が可能であり、また国際的な大学入学資格である国際バカロレア資格を取得するコースがある。これによって、2008年には交換留学生がケンブリッジ大学合格の快挙を果たした。その他にもインペリアル・カレッジ・ロンドンやロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどのイギリスの大学へと進学した生徒がいる。
[編集] 校長の人事
[編集] 人事慣行
浦和高等学校長は転出することなく、本校で定年退職を迎えることが人事慣行であった。しかし桐生貞雄は初めて浦和高等学校長から、定年1年前に埼玉県立総合教育センター所長に転出した。埼玉県立総合教育センターの歴代所長の前職は、桐生貞雄が就任するまで、すべて埼玉県教育委員会(教育局)指導部長であった。
また本校の学校長は、埼玉県高等学校体育連盟会長と、埼玉県高等学校校長協会長に就任する慣行がある。
[編集] 再就職先
浦和高等学校長は、定年退職後も再就職先に恵まれている。長谷川肇志は、県参与(嘱託)・埼玉県教育委員会委員、同委員長、鈴木勲二は退職後、県参与(嘱託)となったが、まもなく病気で倒れて、自らの資産管理会社の社長に就任。菅野達也は埼玉県学校安全協会事務局長、渡邊修一郎は埼玉県立南教育センター参与(嘱託)・埼玉県教育委員会委員、同委員長、細田信良は埼玉県志木市教育長、倉橋政道は埼玉県教育公務員弘済会理事長・日本教育公務員弘済会理事・芝浦工業大学特任教授、前島富夫は埼玉県立総合教育センター参与(嘱託)に就任したが、4ヵ月後に埼玉県教育委員会委員となった。
なお長谷川肇志、渡邊修一郎、前島富雄は、埼玉県教育局の部長職から、本学の校長に就任している。この3名は、定年退職後に埼玉県教育委員会委員に任命されている。
[編集] 学校関係者一覧
「埼玉県立浦和高等学校の人物一覧」を参照
[編集] その他
- 埼玉県内には本校のような公立男子校が他にもあり、特に偏差値が高く、伝統校である川越高校、熊谷高校、春日部高校と合わせて「四天王」と呼ぶことがある。
- 1927年(昭和2年)の「少年倶楽部」に掲載されて話題を集めた、佐藤紅緑の小説『あゝ玉杯に花うけて』の舞台の一つとなった。この小説は、浦和を舞台に主人公と浦和中学生(現在の浦和高校)の青春を描いた少年小説で、1929年(昭和4年)に映画化され浦和町でロケが行われた。当時の浦和中学は、鹿島台の一角に所在し、跡地には知事公館、地方合同庁舎、浦和警察署、浦和税務署などが建てられている。浦和中学校の名残は、当時防風林であった浦和税務署前の2本の樫の木にわずかに残っている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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