埼玉県立浦和西高等学校

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埼玉県立浦和西高等学校
(浦和西高校正門前)
過去の名称 埼玉県立浦和第二高等女学校
埼玉県立浦和第二女子高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 埼玉県
校訓 自主自立
設立年月日 1934年
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
高校コード 11117B
所在地 330-0042
埼玉県さいたま市浦和区木崎三丁目1番1号
外部リンク 公式サイト
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埼玉県立浦和西高等学校(さいたまけんりつ うらわにしこうとうがっこう)は、埼玉県さいたま市浦和区木崎三丁目にある公立高等学校。通称は「西高」(にしこう)。全日制課程に普通科を設置している。県内公立校としては数少ない私服校。

概要[編集]

1970年代まで、旧第一学区において偏差値に基づく同校のレベルは浦和高校浦和一女に次ぐレベルにあった。1980年代から90年代頃は県でも屈指の難関校として知られ、毎年東大合格者を輩出していた。県立校では数少ない私服校として人気は高く、平成21年度の入試では、前期で約7.1倍、後期で約2.0倍と、県内最高の倍率を記録した。

大学進学志望者が多く、2014年度には国公立大学に53名、早稲田大学慶應義塾大学に10名、学習院大学MARCHには178名が合格している。また、東京大学には、1950年から2014年までに9名が合格している。

校名[編集]

浦和市北東部にありながら校名を「浦和西」とするのは、前身である浦和第二高等女学校ならびに浦和第二女子高等学校が旧浦和市の西部である別所にあり、共学化の際に浦和西高等学校と改称したため。現在の埼玉大学教育学部附属中学校の敷地に間借りする形で同居し、校地が手狭であったことを解消するために、1956年に現在地(さいたま市浦和区木崎)に移転するにあたって「埼玉県立浦和北高等学校」と校名の変更が検討されたが、既に「西高」という校名が定着しているという判断で校名を引き継ぐはこびとなった。

沿革[編集]

  • 1934年 - 埼玉県立浦和第二高等女学校として埼玉女子師範学校に併設され、開校する。
  • 1948年 - 学制改革により、埼玉県立浦和第二女子高等学校とする。
  • 1950年 - 校名を埼玉県立浦和西高等学校に改称、男女共学化。
  • 1951年 - 「東雲」第1号が発刊される(文芸部の部誌として発刊、後に生徒会誌に)。
  • 1952年 - 第一回西高祭を体育祭と併合で開催。
  • 1953年 - 校旗制定。
  • 1956年 - 校舎を浦和市下木崎皇山に移転。サッカー部全国優勝。
  • 1958年 - 生徒会歌が作られる。
  • 1959年 - 開校記念日を6月1日に制定。
  • 1960年 - 生徒会旗を制定、スクールカラーを濃緑色と決定する。
  • 1965年 - サッカー部全国優勝。
  • 1967年 - 第二グラウンド完成。
  • 1969年 - バリケード封鎖事件[1]。 
  • 1970年 - 50mプール(部室)、宿泊施設完成。
  • 1971年 - 実験的私服完全自由期間を設置。
  • 1975年 - 体育館・格技場竣工。
  • 1979年 - 部室棟落成
  • 1982年 - 第二グラウンド整備工事完了。
  • 1984年 - 創立五十周年、記念誌発行。
  • 1986年 - 五十周年記念館(食堂兼ミーティングルーム)竣工、軟式野球部県大会、関東大会優勝、全国大会出場。
  • 1997年 - 埼玉県の防災拠点施設として合宿所兼格技場完成。
  • 2004年 - 埼玉県教育委員会「進学アドバンスプラン」指定校、創立70周年記念事業(図書管理システム更新)、式典挙行。

校訓・校風[編集]

  • 自主自立(自ら考え、行動する)
  • 文化祭や体育祭(西高祭)などの学校行事は全て生徒に運営が任されている。
  • 校則は存在せず、必要最低限の決まりを定めた生徒準則が存在する。
  • 生徒のほとんどが私服で通学しているが、他校の制服を私服として着用し通学する生徒もいる。
  • 頭髪などの検査も以前はなかったが、平成22年度より実施。但し、頭髪に関する規則等は存在しない。
  • ただし、西高の公式の文章においては「自由」という文字は記載されていない。

教育方針[編集]

日本国憲法・教育基本法の精神に則り、下記を本校の教育目標とする。 自主自立の精神と豊かな知性と情操を養い、心身ともに健全なる社会人の養成を期する。この教育方針は旧教育基本法のもとで制定され、安倍政権の際に教育基本法が改正されたが、西高の教育方針における「教育基本法の精神に則り」の一文に関しては、特に変更はされていない。

  • 個人の尊厳を重んじ、才能と特性に応じて個性の確立をはかる。
  • 男女両性の特質を生かして、共学の実をあげる。
  • 人間相互の信頼関係を深く理解させる。

学校行事[編集]

「西高祭(体育祭、文化祭)」と予餞会(三年生を送る会)、卒業式(第2部)、球技大会が主な行事である。いずれも生徒会の予算執行が成立しなければ開催されず、生徒会が発足しない場合は全ての行事が凍結される。また学校主催の行事として、秋季に行われる強歩大会、冬季休業中に開催されるスキー学校(現在は行われていない)、2年次の修学旅行がある。なお新入生に対するオリエンテーション(新オリ)は学内の有志者によって主催される。

  • 文化祭はステージ発表が行われる開会セレモニーで始まり、一般公開が行われ、AF(アフターフェスティバル)と呼ばれる後夜祭で終わる。
  • 体育祭は組ごとの縦割りブロック(1、2、3年の1組=A連。1、2、3年の2組=B連...)で開催され、連ごとの対抗戦が行われる。連ごとにTシャツや応援パフォーマンスを作成する。
  • 卒業式は学校が主催し卒業証書授与等を行う第1部の次に、卒業生によって組織された卒2実行委員会が主催しバンド演奏や演劇といったステージ発表が行われる第2部が行われる。この第2部は部活や愛好会・有志者による後輩へのメッセージといった趣が強い。
  • 強歩大会は男子は行田市さいたま市西遊馬公園間約35kmを、女子は鴻巣市さいたま市西遊馬公園約25kmを走る(2007年から男女とも森林公園を10km走り、強歩大会からマラソン大会になった)。
  • 修学旅行先は概ね3ヶ所程度のの候補地の中から生徒による人気投票で決定されていた。過去においての候補地としては北海道京都大阪神戸広島、北九州一帯、長崎、沖縄などがあった。特に、西高は伝統的に平和教育を重視しているため、広島や長崎や沖縄へ行くことが多い。なおクラス単位で細かい行き先が違うことが多い。
  • 西高は伝統的に平和教育を非常に重視しており、社会科見学においては第五福竜丸や丸木美術館などを訪問し、校外からは市民活動家などを講師として招聘したり、校内における図書館においては「朝日新聞」や「沖縄タイムス」などを定期購読し、最後の最後まで校内における「日の丸」の掲揚ならびに「君が代」の斉唱に抵抗をしていた。

生徒会組織[編集]

生徒会は、会員(在学する生徒全員を指す)の自主的活動により学園生活を充実し、協力と愛校の精神の高揚に努め、個人としてまた公民としてのよき資質を養うことを目的とし、三権分立の考え方に則り、議決機関(立法)である生徒総会、その代行機関である中央委員会、執行機関(行政)である本部、その下に属する専門委員会に加えて、審査機関(司法)である審査委員会が存在する。生徒会則に従った(他校の生徒会活動と比較して)厳格な生徒会運営がなされ、生徒会役員が定員数に満たない場合は「凍結」という事態もありうる。

施設[編集]

夜間照明が設置された第一グラウンド(サッカーグラウンド)、野球場・ラグビー場・テニスコート等が設置されている第二グラウンド(通称「裏グラ」)、公式大会使用可の50mプールと体育館を持つ。また合宿所兼格技場と部室棟、茶室と視聴覚室が設置された特別教室棟、ミーティングルームと購買・食堂の設置された五十周年記念館などがある。 そのほかに正門から正面玄関まで続く通称「遅刻坂」、校舎裏と第二グランドを結ぶ「地獄坂」、かつてテニスコートがあった中庭である「万葉の庭」がある。 また、西高の公式の施設では無いが、西高のすぐ近くに「果林」という軽食やお菓子などを販売する店舗があり、生徒たちが頻繁に利用している。さらに、かつては「ナンガサンド」や「西高うどん」や「日幸堂」という店舗も西高の近所に存在したが、現在は廃業している。

同窓会[編集]

  • 西麗会

アクセス[編集]

  • JR与野駅の東口より徒歩20分(与野駅から西高までの道路は西高の教職員や生徒だけではなく地域の人たちからも「西高通り」といわれている)
  • JRさいたま新都心駅よりバス。

著名な卒業生[編集]

マスコミ・放送


文化
研究
スポーツ
政治
経済

脚注[編集]

  1. ^ 「大学紛争」の波が高校にも押し寄せ、西高においても10月24日に三年生有志が「三項目の要求」(1.定期のペーパーテスト。成績表の意義を公開してもらいたい。2.教育への行政介入に抗議してもらいたい。3.教師の不当介入をなくしてもらいたい)を提出、校長からの返答に納得せず、26日17時からHR棟四階を封鎖した。その後五日間に渡って説得が続けられ、封鎖は解除された。だがHRや全体集会で生徒と学校側の話し合い、討議は続けられ、最終的に正常授業が実現したのは11月14日からであった。この事件によって、現実を変革していくことに挫折し、無力感に苛まれる風潮が強まり、結果として「無関心・無気力・無責任」といった「三無主義」が生徒たちに浸透していく契機となった。同時に「生徒会とは何か」が問われることとなった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]