兵庫県立神戸高等学校
| 兵庫県立神戸高等学校 | |
|---|---|
| 国公私立の別 | 公立学校 |
| 設置者 | 兵庫県 |
| 併合学校 | 兵庫縣立第一神戸高等學校 兵庫縣立神戸欽松高等學校 |
| 校訓 | 四綱領「質素剛健 自重自治」 |
| 設立年月日 | 1896年3月16日 |
| 創立記念日 | 5月1日 |
| 共学・別学 | 男女共学 |
| 課程 | 全日制課程 |
| 単位制・学年制 | 学年制 |
| 設置学科 | 普通科 総合理学科 |
| 高校コード | 28102G |
| 所在地 | 〒657-0804 |
|
兵庫県神戸市灘区城の下通一丁目5番1号
|
|
| 外部リンク | 公式サイト |
兵庫県立神戸高等学校(ひょうごけんりつ こうべこうとうがっこう)は、兵庫県神戸市灘区城の下通一丁目にある県立高等学校。略称は「神高」(じんこう)、「神戸」(こうべ)、「神戸高校」(こうべこうこう)など。
目次 |
沿革 [編集]
旧制第一神戸中学校(神戸一中) [編集]
- 1895年4月5日 - 同日開会の臨時県議会で県立尋常中学校3校(神戸・豊岡・洲本)の設置が提案され、神戸・豊岡の設置について可決。
- 1896年3月16日 - 兵庫県神戸尋常中学校を設置の告示。
- 1896年
- 1899年4月1日 - 兵庫県神戸中学校に改称。
- 1901年4月1日 - 兵庫県立神戸中学校に改称。
- 1907年4月1日 - 兵庫県立第二神戸中学校創立により、兵庫県立第一神戸中学校に改称(以降、「一中」とも通称されるようになる)。初年度の入学試験は合同で実施され、合格者は鯉川筋の東西で両校に振り分けられた。この学区制は1909年まで3年間継続する。
- 1912年2月17日 - 改築校舎に移転。
- 1913年6月 - 校歌制定。
- 1919年8月19日 - 野球部が第5回全国中等学校優勝野球大会で優勝。
- 1925年1月19日 - 蹴球部が第8回日本フットボール優勝大会で優勝。以後1929年、1932年、1934年、1935年、1938年、1946年に全国制覇を遂げる。
- 1929年4月29日 - 湊川神社において校旗入魂式挙行。
- 1936年4月29日 - ラグビー部が全国中等学校蹴球大会出場。決勝戦で天理中に敗れ準優勝。
- 1938年4月9日 - 現在地に移転。
- 1942年
- 1945年8月31日 - 大日本帝国陸軍神戸連隊区司令部が校内に移転。
- 1946年11月3日 - サッカー部が第1回国民体育大会東西対抗戦出場。湘南中に敗れ準優勝。
- 1947年
- 1948年
- 4月1日 - 新学制にともない兵庫県立第一神戸高等学校となる(併設中学校は、新制高校の併設中学校となる)。
- 4月 - 兵庫県立第一神戸女子高等学校の併置を決定。
- 5月 - 兵庫県立第一神戸女子高等学校移転完了。
旧制第一神戸高等女学校(県一高女) [編集]
- 1901年
- 2月15日 - 神戸市神戸区下山手通に兵庫県高等女学校開校。
- 4月1日 - 兵庫県立高等女学校と改称。
- 5月1日 - 1年生と2年生とを選抜召集し授業開始。この日を開校記念日とする(後年、創立記念日に改称)。
- 1903年4月1日 - 技芸専修科を併置。
- 1910年4月1日 - 兵庫県立神戸高等女学校と改称。
- 1913年3月5日 - 技芸専修科廃止。
- 1919年4月1日 - 同窓会経営による補習科(後の欽松学園)開講。
- 1924年
- 1925年3月13日 - 兵庫県立第一神戸高等女学校と改称。
- 1926年11月3日 - 排球部が明治神宮競技大会で優勝。
- 1927年8月30日 - 排球部が上海で行われた第8回極東選手権競技大会で優勝。
- 1928年6月10日 - 排球部が日本オリンピック大会3連覇。
- 1929年6月7日 - 昭和天皇来校。
- 1932年4月1日 - 補習科を家政研究科と改称、保育研究科を併置。
- 1933年4月18日 - 家政・保育両研究科、欽松学園として県から認可。
- 1940年10月30日 - ヒトラーユーゲント来校。
- 1942年4月1日 - 学区制導入。新生田川以東が校区となる。
- 1945年
- 1946年12月24日 - 北長狭校舎(現・神戸市立神戸生田中学校の地)に移転。
- 1947年
- 3月 - 欽松学園、保育科廃止。
- 4月1日 - 学制改革による新制中学校発足にともない、就学年限変更の移行措置として「兵庫県立第一神戸高等女学校併設中学校」を設置、旧制高女としての生徒募集を停止。
- 1948年4月1日 - 学制改革により兵庫県立第一神戸女子高等学校と改称(併設中学校は、新制高校の併設中学校となる)。
- 5月23日 - 現校地に移転。
- 8月 - 兵庫県立神戸欽松高等学校に改称。
- 1950年3月 - 高等科廃止。
神戸高等学校 [編集]
- 1948年9月1日 - 兵庫県立第一神戸高等学校、兵庫県立神戸欽松高等学校を統合し、兵庫県立神戸高等学校と校名変更、男女共学となる。
- 1949年 - GHQの教育課程の高校三原則の方針から、総合制により商業科を設置(1956年に廃止)。学校間格差の撤廃を目的に教員の6割が移動、また小学区制の実施により併設中学校生徒の大半が他校への転出を余儀なくされる(男子の多くは制度再改定後の復学を企図して、最寄りの私立灘高校に進学した。また同時に同校へと転職した教員も数多く、これ以降西日本ナンバーワンの進学校の座を灘中学校・高等学校に譲ることとなる)。
- 1949年4月1日 - 欽松学園再興。高山忠雄神戸高校長が学園長を兼任。
- 1951年
- 1952年 - 中学区制実施。神戸市は3つの学区に再編され現在に至る。
- 1958年11月 - 合唱部がNHK全国唱歌ラジオコンクール初優勝。
- 1959年5月 - 鵬雛会(男子・旧一中同窓会)と欽松会(女子・旧県一同窓会)が統合され、社団法人兵庫県立神戸高等学校同窓会が発足。欽松学園の経営も神高同窓会に引き継がれる。
- 1961年
- 1962年11月 - 合唱部がNHK、朝日の両コンクールを同時制覇。
- 1963年4月 - 合唱部がアメリカ合衆国親善演奏旅行。
- 1965年 - 米国ワシントン州コロンビア高校と姉妹校提携。
- 1968年 - 兵庫方式入試制度実施。理IIコースを設置。
- 1969年 - 兵庫県高等学校総合体育大会において、公立校として初の男子総合優勝。
- 1971年 - 芦屋市教育委員会の方針転換により、芦屋学区からの越境入学が事実上禁止される。
- 1972年 - 兵庫県高等学校総合体育大会において男子総合4連覇。
- 1973年 - 合唱部が全日本合唱コンクールで史上初の3年連続金賞受賞。
- 1974年4月1日 - 欽松文化学園、欽松女子専門学校と改称。
- 1978年 - 県教委の広域人事計画が発表。以降教員の移動が激しくなり、永年勤続の名物教師の転出が加速。理IIコース廃止。
- 1979年4月1日 - 欽松女子専門学校、欽松専門学校と改称。
- 1986年 - 理数コース設置。
- 1988年8月 - 山岳部が全国高等学校総合体育大会にて優勝。
- 1989年 - 合唱部が全日本合唱コンクールで2度目の3年連続金賞受賞。
- 1994年 - 欽松専門学校解散。
- 1995年1月17日 - 阪神・淡路大震災発生。生徒2名、職員1名が犠牲となる。
- 1996年5月1日 - 創立100周年記念式典挙行。
- 1997年10月 - シンガポールのラッフルズ・ジュニア・カレッジ(RJC)と姉妹校提携。
- 2002年 - 神戸大学との協力により高大連携講義が開始される。
- 2002年12月31日 - 校舎改築工事竣工。
- 2003年 - 理数コースに代わり、総合理学コース設置。
- 2004年 - 文部科学省からスーパーサイエンスハイスクールの研究指定を受ける。
- 2006年 - 学区再編(神戸第一学区→神戸第一・芦屋学区)により芦屋市が通学圏に復帰。
- 2006年5月1日 - 創立110周年記念式典。
- 2007年 - 総合理学コースを全県学区の総合理学科に改編。
- 2007年 - 英国のチャタム・グラマースクール・フォア・ボーイズ(CGSB)と姉妹校提携。
- 2009年 - スーパーサイエンスハイスクール事業「中核的拠点育成プログラム採択校」に指定。
- 2010年 - スーパーサイエンスハイスクール事業「コアSSH採択校」に指定。
特色・校則 [編集]
- 入学定員は普通科280名、総合理学科40名。総合理学科は県下全域から受験可能である。
- 新制高校として発足以来、一貫して男子の比率が高い(3:2程度)学校であったが、近年では男女ほぼ同数となっている。
- 65分×5時間の授業形態を採用している。また総合理学科(全学年)と普通科(全学年)は月曜日が6時間授業となる。(近年まで普通科においては3年生のみ。)
- 細かい校則は成文化されておらず、基本的に生徒の自主性を尊重するという形式を取っている。
- 実力考査・課題考査においては、開始終了時に教師が用紙の配布・回収はするものの、試験監督を置いていない。これは、点数重視ではなく、生徒各自が考査を通じて自ら学習状況を把握できることが重視されているためである。
校章・校木 [編集]
校風 [編集]
|
|
|
| 16進表記 | #CC7722 |
|---|---|
| RGB | (204, 114, 34) |
| HSV | (30°, 83%, 80%) |
| 表示の色は一例です | |
- 神戸一中時代より「質素剛健」「自重自治」を四綱領としている(範例的要素のある校訓よりもむしろ、学校の雰囲気を示した校風である)。四綱領を掲げた際に成文化された校則も廃止され、現在にいたる。したがって新制高校に見られる生徒手帳が存在せず、携行品は1枚物の生徒証のみ、規定については携行を前提としない冊子としている。
- 2年間以上の部活動や自治会・委員会活動を行った生徒には、卒業時に「春蘭の頌」が授与される。また各方面で顕著な業績を挙げた生徒に対しては「山縣杯」(運動部員対象)・「川西杯」(文化部員対象)・「井深杯」(個人・福祉・教育分野対象)がそれぞれ与えられ顕彰される。
- 神戸一中は明治42年に初代校長・鶴崎久米一の発案により、カーキ色(軍服のカーキ色ではなく、オレンジ色に近い独特の色をそう呼称した)の学生服を採用した。この特徴ある制服は鶴崎が校長を兼務していた本校と神戸二中(現・兵庫高)のみのものであったため、全国屈指の上級学校進学成績を誇った戦前には『エリートの証』として羨望の対象となり、また生徒自身の自覚と自負心を否が応でも高める効果があったという。戦後は通常の黒詰襟に変更されたが、女子は現在も県一高女時代に制定(スカートの形式は1994年に変更)されたセーラー服と八稜鏡を模った胸章を継承している。
- 第二代校長・池田多助は自由と規律を機軸とする英国流のパブリック・スクール教育を推進。進取の気心に富みながらも権威と伝統を重んじる保守的な校風はこの時代に形成されたと考えられる。生徒指導も教師の手によらず、生徒による自主的な自治組織である戊辰会に委ねられ、上級生が下級生に対して規範を示すという形式が採用された。1960年代の学園紛争時に各地の進学校が先陣を切って改革路線を歩んだ時期にも、本校自治会は微動だにせず制服・制帽(丸刈りの強制は1969年に漸く廃止されたが、その後も自発的に短髪を貫き、制帽をきちんと着用する生徒が多かった)を堅持した。しかしながら、こうした校風を無言の圧力や権威と感じて反発を覚える生徒も少なくなく、小松左京は自著にて、鉄拳制裁に代表される一中の軍国主義的スパルタ教育から解放され三高入学を果たした日を、「わが人生最高の日」と述懐している。また村上春樹にも校則に反発して不登校の時期があったと伝えられるほか、戦前にも日野原重明のように他校進学を前提に受験し、入学式当日に確信犯的に退学届を提出した者もいる。
- 県一高女は兵庫県初の公立女学校として誕生したため、初期には寄宿舎を擁し、全県から向学心に燃える優秀な良家の女学生が偏に集う場であった。高等教育を受ける女子などごく稀であった時代でもあり、こうした黎明期の卒業生は特に強い自負と行動力を発揮し、公立校でありながら同窓会が経営する私塾や高等科(現在の短期大学に相当)を早期に開設するなど、兵庫の教育界においては一中に勝るとも劣らない存在感を示す学校であった。そうした県の女子教育をリードしてきたというプライドや栄華の歴史も、県一OGの教師たちが退職し、欽松学園も消滅した現在では語り継いでいくことが徐々に難しくなってきているようである。新制高校になってからも1994年までは校内分掌に女子教育委員会が生徒指導とは別に設置され講演会を開くなどの教育環境があった。一方で新制高校発足当初より学級名簿を男女混合としていた点も特徴である。
- 戦後の学制改革以降、優秀な生徒や教員が灘高を代表とする近隣私立校に流出し、進学校としての実績は緩やかに低迷してゆく。昭和43年(1968年)の「兵庫方式(内申書偏重の入試制度)」の導入や学区制の厳格化(それまでは事実上の越境通学をしている生徒が阪神間を中心に少なくなかった)、県教委の広域人事による教員の転出や在職期間短期化なども名門の解体に追い打ちをかけた。それでも昭和50年代までは公立校としては傑出した学力に加え、部活動全般においても県内トップクラスの実力を保ち『文武両道』の名をほしいままにした。現在は都市構造の変化や阪神・淡路大震災による学区内人口の減少、全国的な中学受験ブームに伴う私立中高一貫校の台頭などの影響を受け、神戸市東部および芦屋市という限られた地域のトップ校という位置に甘んじている。ただし、2007年より全県学区の総合理学科を設置しているほか、神戸第一・芦屋学区と近隣学区との統合広域化も検討されている。
- 新入生にとっての通過儀礼であった「江井」(淡路島の旧一宮町)における臨海学舎は、もともと県一高女で行われていたものが共学化により、また敗戦による男子の軍事教練廃止に代わるものとして、男子にも行われるようになった。教師から教わるのではなく先輩から後輩に伝わる、集団生活の規律や水難の危険性に直面することでの精神修養面での貴重な生活訓練の機会であったが、サメ出没などを理由に1994年に鳥取県東浜に移転(ここを移転先としたのは同じ兵庫県立の鳴尾高校と尼崎北高校がここで臨海学舎をしていたことに起因する。)後は民宿で宿泊するホームルーム的要素に転換、さらに民宿の確保が十分できなくなったこと(民宿の廃業による)などを受け、2003年を最後に廃止された。現在はそれに代わるものとして宿泊を伴う六甲山縦走と在校生による新入生歓迎セレモニーが実施されている。
校舎 [編集]
神戸一中の初代校舎は三宮に近い新生田川沿いにあったが(二宮橋附近。なお、この橋の脇には「一中のくすのき」が現存している)、周辺環境の俗悪化に伴い摩耶山麓の現校地に移転した(この、現校地は「観音山」と表現されることがある。これは、丁目を割り当てた住居表示になる以前に使用していた地名「上野観音山」に由来する)。1938年に竣工した2代目校舎は「ロンドン塔」と呼ばれる塔屋や銃眼に見立てた装飾などを持つ中世南欧の古城を模したロマネスク調建築となっており、大戦時には陸軍の司令部として、また敗戦後の昭和天皇の全国行幸の折には御宿泊所として利用されたという経緯を持つ。大震災にも耐えた歴史的な校舎を改築するに当たっては多方面から反対の声が上がり、卒業生や各界の有志による「神戸高校の校舎を考える会」を中心に保存運動が展開されたが、最終的にはロンドン塔や観音開きの窓、三連アーチのファサードなど建物の最も象徴的なモチーフを含む正面玄関ホール周辺のみを改修保存し、残りの部分は旧来のイメージを残した形で解体新築するという妥協案で決着をみた。
なお、正面玄関は生徒の通行が禁止されている。卒業式後、3年生はこの正面玄関をくぐり出ることで「鵬雛※の巣立ち」となる慣例である。(ちなみに在学中に正面玄関を通った生徒は受験に失敗するという言い伝えがある。)
- ※鵬雛(ほうすう):神高生の雅称として用いられる。旧制神戸一中時代に、生徒ひとりひとりを鵬(伝説上の巨鳥)のヒナに例えたことに由来。
県一高女の校舎は、兵庫県庁(当時の庁舎)に隣接する下山手通五丁目にあった。幸いにも空襲の被害は少なかったものの、それゆえに、被災した県庁の代わりにこの建物が使われることになり、その後の県一高女は、県二高女への間借りそして北長狭校舎を経て現校地への移転という度重なる引越しを余儀なくされることとなった。県一の旧校舎は兵庫県庁本庁舎として、現在の兵庫県庁1号館に建て替えられるまで使用された。新築された1号館の外壁には「兵庫県立第一神戸高等女学校跡」の石碑が埋め込まれている。
神戸高校の校舎は戦前から残る数少ない学校建築として、近年ではしばしばドラマなどの舞台として使用されることがある。 改築のために取り壊される直前に行われた少年H青春篇(2001年フジテレビ)のロケでは神戸二中にみなして教室や、独特の椅子一体型の机などが使用されたほか、火垂るの墓(2005年日本テレビ)では主人公の清太が通う学校として設定され、カーキ色の学生服も登場した。(ただし、原作設定における清太の入学年度には既にカーキ色の制服は廃止されており、あえてこの衣装を用いたのは学校側または製作スタッフのノスタルジアによるものと思われる)
部活動 [編集]
- 合唱部は1950年に創部され、その9年後に全国大会初優勝。全日本合唱コンクールにおいて2度の3年連続を含む金賞12回。
- サッカー部は全国選手権出場25回、優勝7回(現存する学校の中では歴代最多記録)、準優勝2回、三位6回、大会通算勝率7割超、日本代表選手20名以上。白シャツにカーキ色のパンツという全盛期のユニフォームはオールドファンに印象深い。
- 1919年(大正8年)に野球部が全国中等学校優勝野球大会制覇を達成した際に、「我々は見世物ではない」と表彰式後の場内一周を拒否したというエピソードは有名[1]。
- 馬術部やボート部など特色ある部を有し、また女学校以来の伝統として箏曲部、華道部、茶道部なども維持されている。音楽会などの行事の際には、普段は個別に活動している吹奏楽部と弦楽部の協力により本格的なオーケストラが編成され、OBによる吹奏楽団やアマチュア管弦楽団も独自の活動を行っている。
- 兵庫高校(旧制神戸二中)とは毎年春・秋に武道・球技の、夏には水泳の定期戦が行われている。ことに明治期から続く野球はかつて『扇港(神戸)の早慶戦』とも呼ばれ、観衆のあまりの白熱のため大正から昭和にかけての20年間にわたって開催が中止されたという逸話がある[2][3]。
高校関係者一覧 [編集]
「兵庫県立神戸高等学校の人物一覧」を参照
関連項目 [編集]
- 兵庫県高等学校一覧
- 日本の理数科設置高等学校一覧
- 旧制中学校
- 高等女学校
- ナンバースクール
- 阪神間モダニズム
- 一中御三家(神戸一中、府立一中、愛知一中の三校)
- 兵庫県立東神戸高等学校(神戸高等学校内にかつてあった定時制高等学校)
脚注 [編集]
外部リンク [編集]
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||